第5回・歌手生活20周年記念「魅惑の低音・フランク永井大全集」でのフランク永井評

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 今回は全集からの紹介の最終回です。フランク永井の残したいわゆる「大阪物」について、記者の目で確かか紹介がなされています。
 大阪労音での公演で「あるときは江戸小咄まで」と書かれています。前回の記事でも「NHKで小咄」がフランク永井から流されたとあります。
 ここで指摘されているものかどうかは判別できませんが、現在残されているのは「夕立や」です。これは、この十巻全集に収められています。

■フランク永井と大阪(日本経済新聞記者 河塚順一郎)

◆ラジオ朝日放送「ホームソング」から始まったフランク永井の大阪物
 大阪の朝日放送フジオ番組に〝ホームソング″の時間があった。長い間続いたので、あるいはご存じの方もあると思うが、フランク永井と大阪のつながりはこの番組を中心にして発展していったといっていいだろう。
 フランクが好んで歌う〝公園の手品師″とか大阪物のはしり〝こいさんのラブコール″はこのコーナーで何回か紹介されるうちに広く知られるようになった作品である。いまのように無理やりに近い状態で新曲をヒットにつながるように働きかける時代と違って、まだ〝よき時代″のおおらかさが随所に残っていたころである。
 レコードの発売年譜からみると、この二曲が電波にのったのは昭和三十三年、いまから十七年も前のことで、フランクがレコード・デビューして四年目だった。
 すでに〟〝夜霧の第二国道″〝有楽町で逢いましょう″の大ヒットが出て、ジャズ,シンガーから歌謡曲に転向して立派に成功し、本格的にスターへの道を歩いていた。
 フランクのヒットはほとんどが吉田正の作品だったが、大阪に住んでユニークな活動をしていた作曲家の大野正雄と知り合う確かなチャンスを得たのもこの年だった。
 〝こいさんのラブコール″がヒットして、フランクの低音の魅力が大阪弁の持つ、何ともいえないソフトをニュアンスにぴったりということが知られるようになった。
 洋画ロードショー劇場に変わってしまった大阪キタの、北野劇場で歌ったのもこの時期である。次いで〝大阪野郎″というテレビ番組のテーマ曲にも登場した。〝君恋し″で昭和三十六年のレコード大賞をとったときも、神戸の松竹座で公演中に知った。

◆フランク永井が打ち立てたショースタイルは労音での「ワンマン・リサイタル」から
 何かにつけ、関西との縁が積み重なっていったフランクが本腰を入れて、大阪物に取り組むようになったのは、やはり大阪労音(現新音楽協会)が初めて鑑賞団体向けの歌謡曲路線、ワンマン・リサイタルを開いたときだったろう。
 大阪労音ではそれまでにもアイ・ジョージのリサイタルなどを満員で成功させたことはあるが、これはどちらかというとラテン音楽中心のポピュラー例会としてであった。
 ところが、昭和三十八年暮れに企画された大阪労音の歌謡曲例会〝フランク永井リサイタル″は画期的な内容だった。戦後の懐かしいポピュラーソング、新曲コーナー、ヒットメロディー、とつづいていくのだが、一人で二時間半、ときおりエピソードを話しながら、あるときは江戸小噺まで織り込んでオチをつけるサービスは、フランクならではの豊富なレパートリーから引き出した、楽しいステージだった。
 このフランクが確立したリサイタル方式はその後も多くの歌手に一つのパターンとして受け継がれていった。
 フランク自身とその後、このパターンで何回か大阪のステージに立ち、全国各地でも成功させた。その第一回のとき、作詞の石浜恒夫、作曲の大野正雄の〝こいさんのラブコール″コンビで堺、大阪、神戸などを歌い込んだ新作が発表された。その中から一曲レコードにしようというのである。
 何人か意見が分かれたが、フランクはどうしてもこの曲と主張したのが〝大阪ぐらし″だった。はっきり言って、そんなに当たるとは思えなかったのだが、曲を整理し、コンパクトにすると見違えるほどに〝商品″としての値打ちが出てきた。
 夕陽丘、がたろ横丁、夕凪千鳥、坂田三吉など、大阪の表現に必要な単語が次々並び、甘いソフトなメロディーはまさしく大阪物だった。大阪に生まれ育った者にはわからない大阪への理解力が彼の方にあったようだ。
 その後、吉田正が〝大阪ろまん″を書き、花登筐の根性ドラマ〝船場″のテーマとして〝船場ごころ″が大野正雄の手で生まれた。
 そしてフランクの大阪物は〝堂島″〝大阪流し″と続き、芸能生活二十年にひっかけては直木賞受賞の藤本義一が詞を書き、吉田正が作曲した〝大阪無宿″で花を添えた。こうして大阪物ならフランク永井という定評は確立され、信用はいまも絶対である。

◆思わぬ発展で登場した青江三奈「伊勢佐木町ブルース」
 こんな話があった。フランクといえば都会調の夜のムードがある、大阪物に強い、というところから、阪神高速道路公団が一般の歌謡曲ながら何となく阪神高速のイメージを思い出させるような新曲を頼んでもらえないだろうか、と相談を持ちかけてきた。
 向こうには〝夜霧の第二国道″のイメージをそのまま阪神間に置き換えてみたかったらしい。始めから相手側はフランクを頭に描いている。とにかく聞いてみましょうということで、当時健在だった磯部ディレクターに聞いてみた。
 〝フランクもいいけど、もうイメージが定着している。それよりも橋幸夫でどうだろう″。まあそれも新鮮でいいかもしれないと思った。ところが再び磯部氏から連絡があり〝斉藤ディレクター(現ボン・ミュージック社長)が、ぜひ青江三奈を再プッシュしたいので彼女に歌わせたい″と。
 二転三転して当初のフランクから青江三森に決まった。タイトルは〝夜霧のハイウェー″。
 お固いはずの公団も、このときばかりは懸命に骨折った。公団の機関誌に理事長と青江三奈の対談をのせたり、ハイウェーを突っ走るバス・キャンペーンもビクターと共同でやった。
 川内康範の詞にまたまた大野正雄が作曲で引っ張り出された。フランクの大阪物のイメージがここにも反映されていた。
 発売当初の昭和四十三年一月ごろは大阪地区でベスト5にも、二、三回はリストアップされた。ところがいつの間にか消えてしまった。
 ある日、ベストテンをよくみると同じレコード番号でB面のはずの〝伊勢佐木町ブルース″がぐっと伸びてきているではないか。青江三奈と公団担当記者との会見で〝霧が濃くてハイウェー走れまっか。危のお、おまっせ″と逆襲されたのが、そのまま当ったと公団関係者は、あとで苦笑して話してくれた。
 一年過ぎて大野正雄から〝伊勢佐木町が売れたんで印税がようけ入ってきたわ。B面感謝パーティでも作曲の鈴木庸一さん呼んでやらな、いかんを。ワッバッハ″だった。
 パーティはいまだに開かれていないが、フランクの大阪物、都会調に対する強烈なイメージがつくり出したエピソードの一つである。その年フランクは〝加茂川ブルース″をヒットさせ、二年後青江三奈は〝国際線待合室″で大阪物にメドをつけた。ともに結構なことである。
 フランク永井の大阪リサイタルはしばらく聞いていない。最近電話が入って〝二十年目はやめました。準備不全で二十一年目への新しい出発にしたい″という。昭和五十一年が楽しみである。

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このページは、文四郎が2022年4月18日 13:21に書いたブログ記事です。

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