2022年4月アーカイブ

mx20220424.jpg

 この間「フランク永井大全集」、歌手生活20周年記念として1975年に発売された10巻全集を紹介してきました。最近に「確か、その前に全集が出てましたよね」と知人から言われましたので、それに触れてみたいと思います。
 ご指摘のものは、1962年に発売された「フランク永井全集」です。一般に「3巻全集」とも言われるものです。歌手生活7周年目の商品です。
 この年は「霧子のタンゴ」とか「新東京小唄」「赤ちゃんは王様だ」「月火水木金土日の歌」などのヒット曲がでた年ですが、これらはに至る前の作品集になっています。
 商品の体裁は写真のように、葉の落ちた秋の街路樹を背景にトレンチコート姿でたたずむ、若いフランク永井の写真が全面です。片面7曲を納めたLP3枚組で、計42曲が入っています。
 フランク永井の初期のヒット作品集のような感じです。最後の3枚目のB面を紹介します。特別な理由はないのですが、こんな曲がこの全集がでたときの曲なんだと感じると言っただけのことです。
 ⑴君恋し ⑵涙の乾杯 ⑶月影の東京 ⑷俺の名前は北海太郎 ⑸流れの雲に ⑹悲しみは消えない ⑺旅笠道中

 私は現在では、結果的にですがフランク永井のレコードはほとんど所有しています。超レアなものは持っていないものの、ファン仲間が所有していて聴かせてもらいました。色々調べていて、現物確認というか入手に苦労した時代の曲のひとつが「俺の名前は北海太郎」と「月影の東京」です。
 前者はどうも、ドラマ(テレビかラジオかは不明)の主題歌のようです。後者は、フランク永井と当時多くのペアリングで歌った朝倉ユリ「小さな花の慕情」がB面のレコードです。
 現在、入手が困難というのは、普通に考えて「売れなかった」盤なのでしょうね。
 「流れの雲に」は鬼才川内康範の詞に渡久地正信が曲を付けたものです。このブログで紹介しましたが、昨年高倉健が改めてカバー集を出しました。いい歌なので、他の歌手も歌っているのではないかと思うのですが、確認していません。
 後は「君恋し」と同様に、リバイバル曲でフランク永井の先輩竹山逸郎の「涙泪の乾杯」と、東海林太郎の「旅笠道中」です。「泪の乾杯」はフランク永井によるカバーでは、2011年「フランク永井ベスト・コレクション⑤想い出の歌」に収録されたのが、気持ち編曲もよく、繰り返し聴きます。

 フランク永井の全集はLP時代のものはここで紹介した2点ですが、フランク永井が1985年で舞台を降り、CD時代が到来すると、いくつかの全集ものがCD-BOXで発売されます。
 1991年「フランク永井大全集」6枚CD-BOX。
 1999年「ステレオによるフランク永井のすべて」5枚CD-BOX。
 2011年「フランク永井ベスト・コレクション」6枚CD-BOX。
 2015年「フランク永井の世界」7枚CD-BOX・
 2016年「懐かしのフランク永井シングル全集」10枚+DVD1枚CD-BOX。
 最後のものは「A面全集」とも呼ばれています。これからの企画への余韻を残すように、B面曲が残されています。
 これでフランク永井の残した曲はほぼデジタル化されて世に出ました。フランク永井は生涯で多くの曲を歌いましたが、残されているのはおよそ800曲です。
 すばらしい歌唱です。日本において、彼に次ぐような歌手は出てきていません。

mx20220417.jpg

 今回は全集からの紹介の最終回です。フランク永井の残したいわゆる「大阪物」について、記者の目で確かか紹介がなされています。
 大阪労音での公演で「あるときは江戸小咄まで」と書かれています。前回の記事でも「NHKで小咄」がフランク永井から流されたとあります。
 ここで指摘されているものかどうかは判別できませんが、現在残されているのは「夕立や」です。これは、この十巻全集に収められています。

■フランク永井と大阪(日本経済新聞記者 河塚順一郎)

◆ラジオ朝日放送「ホームソング」から始まったフランク永井の大阪物
 大阪の朝日放送フジオ番組に〝ホームソング″の時間があった。長い間続いたので、あるいはご存じの方もあると思うが、フランク永井と大阪のつながりはこの番組を中心にして発展していったといっていいだろう。
 フランクが好んで歌う〝公園の手品師″とか大阪物のはしり〝こいさんのラブコール″はこのコーナーで何回か紹介されるうちに広く知られるようになった作品である。いまのように無理やりに近い状態で新曲をヒットにつながるように働きかける時代と違って、まだ〝よき時代″のおおらかさが随所に残っていたころである。
 レコードの発売年譜からみると、この二曲が電波にのったのは昭和三十三年、いまから十七年も前のことで、フランクがレコード・デビューして四年目だった。
 すでに〟〝夜霧の第二国道″〝有楽町で逢いましょう″の大ヒットが出て、ジャズ,シンガーから歌謡曲に転向して立派に成功し、本格的にスターへの道を歩いていた。
 フランクのヒットはほとんどが吉田正の作品だったが、大阪に住んでユニークな活動をしていた作曲家の大野正雄と知り合う確かなチャンスを得たのもこの年だった。
 〝こいさんのラブコール″がヒットして、フランクの低音の魅力が大阪弁の持つ、何ともいえないソフトをニュアンスにぴったりということが知られるようになった。
 洋画ロードショー劇場に変わってしまった大阪キタの、北野劇場で歌ったのもこの時期である。次いで〝大阪野郎″というテレビ番組のテーマ曲にも登場した。〝君恋し″で昭和三十六年のレコード大賞をとったときも、神戸の松竹座で公演中に知った。

◆フランク永井が打ち立てたショースタイルは労音での「ワンマン・リサイタル」から
 何かにつけ、関西との縁が積み重なっていったフランクが本腰を入れて、大阪物に取り組むようになったのは、やはり大阪労音(現新音楽協会)が初めて鑑賞団体向けの歌謡曲路線、ワンマン・リサイタルを開いたときだったろう。
 大阪労音ではそれまでにもアイ・ジョージのリサイタルなどを満員で成功させたことはあるが、これはどちらかというとラテン音楽中心のポピュラー例会としてであった。
 ところが、昭和三十八年暮れに企画された大阪労音の歌謡曲例会〝フランク永井リサイタル″は画期的な内容だった。戦後の懐かしいポピュラーソング、新曲コーナー、ヒットメロディー、とつづいていくのだが、一人で二時間半、ときおりエピソードを話しながら、あるときは江戸小噺まで織り込んでオチをつけるサービスは、フランクならではの豊富なレパートリーから引き出した、楽しいステージだった。
 このフランクが確立したリサイタル方式はその後も多くの歌手に一つのパターンとして受け継がれていった。
 フランク自身とその後、このパターンで何回か大阪のステージに立ち、全国各地でも成功させた。その第一回のとき、作詞の石浜恒夫、作曲の大野正雄の〝こいさんのラブコール″コンビで堺、大阪、神戸などを歌い込んだ新作が発表された。その中から一曲レコードにしようというのである。
 何人か意見が分かれたが、フランクはどうしてもこの曲と主張したのが〝大阪ぐらし″だった。はっきり言って、そんなに当たるとは思えなかったのだが、曲を整理し、コンパクトにすると見違えるほどに〝商品″としての値打ちが出てきた。
 夕陽丘、がたろ横丁、夕凪千鳥、坂田三吉など、大阪の表現に必要な単語が次々並び、甘いソフトなメロディーはまさしく大阪物だった。大阪に生まれ育った者にはわからない大阪への理解力が彼の方にあったようだ。
 その後、吉田正が〝大阪ろまん″を書き、花登筐の根性ドラマ〝船場″のテーマとして〝船場ごころ″が大野正雄の手で生まれた。
 そしてフランクの大阪物は〝堂島″〝大阪流し″と続き、芸能生活二十年にひっかけては直木賞受賞の藤本義一が詞を書き、吉田正が作曲した〝大阪無宿″で花を添えた。こうして大阪物ならフランク永井という定評は確立され、信用はいまも絶対である。

◆思わぬ発展で登場した青江三奈「伊勢佐木町ブルース」
 こんな話があった。フランクといえば都会調の夜のムードがある、大阪物に強い、というところから、阪神高速道路公団が一般の歌謡曲ながら何となく阪神高速のイメージを思い出させるような新曲を頼んでもらえないだろうか、と相談を持ちかけてきた。
 向こうには〝夜霧の第二国道″のイメージをそのまま阪神間に置き換えてみたかったらしい。始めから相手側はフランクを頭に描いている。とにかく聞いてみましょうということで、当時健在だった磯部ディレクターに聞いてみた。
 〝フランクもいいけど、もうイメージが定着している。それよりも橋幸夫でどうだろう″。まあそれも新鮮でいいかもしれないと思った。ところが再び磯部氏から連絡があり〝斉藤ディレクター(現ボン・ミュージック社長)が、ぜひ青江三奈を再プッシュしたいので彼女に歌わせたい″と。
 二転三転して当初のフランクから青江三森に決まった。タイトルは〝夜霧のハイウェー″。
 お固いはずの公団も、このときばかりは懸命に骨折った。公団の機関誌に理事長と青江三奈の対談をのせたり、ハイウェーを突っ走るバス・キャンペーンもビクターと共同でやった。
 川内康範の詞にまたまた大野正雄が作曲で引っ張り出された。フランクの大阪物のイメージがここにも反映されていた。
 発売当初の昭和四十三年一月ごろは大阪地区でベスト5にも、二、三回はリストアップされた。ところがいつの間にか消えてしまった。
 ある日、ベストテンをよくみると同じレコード番号でB面のはずの〝伊勢佐木町ブルース″がぐっと伸びてきているではないか。青江三奈と公団担当記者との会見で〝霧が濃くてハイウェー走れまっか。危のお、おまっせ″と逆襲されたのが、そのまま当ったと公団関係者は、あとで苦笑して話してくれた。
 一年過ぎて大野正雄から〝伊勢佐木町が売れたんで印税がようけ入ってきたわ。B面感謝パーティでも作曲の鈴木庸一さん呼んでやらな、いかんを。ワッバッハ″だった。
 パーティはいまだに開かれていないが、フランクの大阪物、都会調に対する強烈なイメージがつくり出したエピソードの一つである。その年フランクは〝加茂川ブルース″をヒットさせ、二年後青江三奈は〝国際線待合室″で大阪物にメドをつけた。ともに結構なことである。
 フランク永井の大阪リサイタルはしばらく聞いていない。最近電話が入って〝二十年目はやめました。準備不全で二十一年目への新しい出発にしたい″という。昭和五十一年が楽しみである。

mx20220411.jpg

 ふとテレビに目をやったら、若い人の言葉についての認知度というのをやっていました。「mixi」については何と、10余%程度。驚きました。すでに、多くはFacebookとかTwitterやYoutubeに発信者が移ってしまったのですね。私にもそちらに移ったらという声が頻繁に入ります。だけど、あっちの騒がしさにはどうもついていけそうになく、こちらで頑張ります。
 テレビの歌謡番組を私なりにウォッチしていますが、当然のごとく、フランク永井関係の番組はないのですが、頭のリフレッシュにはそれなりに効果があるのではないかと思っています。先日目についたのは、BSテレ東の「とにかく歌詞がすごい名曲スペシャル」です。
 前川清、島崎和歌子がMCを務め、貴重な映像を流すのですが、何人かのゲストも時々登場します。気に入ったのは全体が落ち着いていて、しかも映像については、歌のブチ切りでなく、ちゃんと最後まで流してくれる点です。
 パート2では、80年代がテーマでした。いい歌が多かったですね。

 さて、歌手になって20年、1975年に発売された「魅惑の低音・フランク永井大全集」での、著名人・評論家による、フランク永井についての称賛の4回目を紹介します。

■わが友フランク永井その人柄(佐藤泉)

 フランク永井はニコニコしていた。
 三波春夫がニコニコしていた。
 ホープ歌手同士、新聞での対談だった。
 取材に当たったわたしが、そのとき、どんな顔つきをしていたかは知らない。
 だが、出来上った記事はニコニコしていた。
 「正月原稿らしくていいさ」
 デスクはこともなげにシャレのめしたものだった。
 二十年経った。フランクはニコニコしている。ナガイ付き合いの筈なのに、十年一昔どころか、二十年一刻の感である。
 十九年経っていた。「お久しぶり」。三波春夫は周囲を払ってカンロクであった。
 ニコニコまではいかず、半分の〝ニコ〟だった。こちらが.神サマではないせいだったのだろうか。
 両人とも日本を代表する立派な大衆の歌手である。

 フランク永井は酒をのんでいた。
 ホテルのバーである。わたしを含めて四人だった。
 そこへ一人の知人がやって来た。ある芸能誌の幹部氏である。かなり酔っていた。そして、突然の放言だった。これには、
 オヨヨ......。
 われわれは、こんな感じだった。
 これがお気に召さなかったのか、ついに酔漢氏は声高に猛り始めた。座はシラけた。
 「悪酔いしているな、テキは......」
 さわらぬカミにたたりなし。このカミはアルコールに呑まれた神サマなのである。
 われわれは平均的日本人の中年男性集団であった。
 「まあまあ......」
 これがいけない。テキは悪乗りし、ついにツノの生えた悪神に成り上が(?)った。
 ニコニコがニコになり、それも消えたフランクは口を切った。
 「一緒にお飲みになりませんか」
 「おかしくって飲めるかッ!」
 話にならないのである。
 そのうちに仲間の一人の個人攻撃(のつもりだったのだろう)をロぎたなくやらかす始末。
 「ちょっと、あちらへ行きませんか、みなさんの迷惑だから......」
 静かな低音である。
 虚を突かれた酔漢氏、もはや明らかにツノは無用の長物と化してしまった。
 こちら酒席をつとめて三十年。対してその半分に近い十数年のキャリアのフランクであった。
 「なんとも不愉快なことで......」
 神サマ退散のあと、ポッリと言って心もち頭を下げられたとき、こちら、そろって顔が赤かったのもアルコールのせいではなかった。

 フランクが酒をおぼえたのは三十歳ごろである。
 飲めなくて飲まなかったのではない。間(ま)をもたせるためにはじめたのでもない。
 酒を飲んでも分別をつけられる年になったから、おぼえたのである。

 酒量はブランデーでボトル一本。
 酒席でのフランクが好まないタイプがある。いくら飲んでもシャンとして平然を装うの類(たぐい)だ。
 「酔わない酒はケシカランですよ。ただ強いというだけでしょ。イヤですね、そんなの下の下ですよ」
 アルコール哲学なのである。
 飲むほどに酔うほどに多々ますます弁ず......話題も豊かで「ト音記号」から「ヘ音記号」までと、その内容も〝高低″の振幅が広い。
 「なんというか、和チン(松尾和子)なんぞいい酒ですね」
 後輩に対しても正直に尊敬してしまう、これまたケッコウな酒好き・フランク。

 かつて和服のモデルもやっていた。
 「オヨヨ......」
 またぞろ、オヨヨで気がひけるが、このコト、あまり知られていない。外出時にはほとんど着用しないが、家庭にあってはチョクチョク......。
 何年か前にNHKテレビで落語を一席、このときの和服姿なんざァ、噺(はなし)とともに、どうしてなかなか堂に入っていた。
 故人の三笑亭可楽とはファン同士で仲がよかったが、これを知った桂文楽(故人)が
 「あァた、いいお友達のひとり占めはいけませんナ」と、可楽に〝抗議〟したなんざァ、こんち、懐しくも嬉しいオハナシ。
 フランク宅へ電話をかけると、いきなり高座の出囃子が聞こえて「えー、こんち、ちょいと外に出ております。御用の向きは録音テープが承りますので......」
 と、フランク亭永井の、丁重且つソフトボイスの〝応待〟である。
 芸名はパタくさいが、その実像、平均以上の日本人らしい日本人、とでも申そうか......。

 歌手の条件。歌は別にして、①頭がいい ②カンがいい ③客の心をすぐつかむ ④ち密な計算 ⑤周囲にすぐとけこめる。わたしなりに、こう思っている。
 二十年間のフランク永井は、こんな条件を具備してきた。
 そして人知れず書を読み、多くの人間に接し、生きるために努力してきた。自己を向上させようとつとめつづけてきた。

mx20220404.jpg

 歌手になって20年、1975年に発売された「魅惑の低音・フランク永井大全集」での、著名人・評論家による、フランク永井についての称賛の3回目を紹介します。
 現在は世界的にコロナ禍とウクライナ紛争のもとにあります。その戦争という人間究極の理不尽のなかで、人々は軍歌を歌います。そのあたりとも関係深いことが語られています。
 フランク永井は「幼子よ」「おきなわ」など、戦争の犠牲を歌っています。軍歌はこの大全集と、オムニバス・アルバム「日本軍歌大全集」で歌っています。
 貴重な文書で、フランク永井の記録を残すためにも大事なことと思い、取り上げさせてもらいます。(適宜編者の判断で小見出しを付けたり、文字表記を変えています)

■風雪を超えた「にんげんのうた」(軍歌の研究:八巻明彦)

◆フランク永井と軍歌のかかわり
 フランク永井の二十年にわたる歌手生活というものは、ただ単に二十年間歌い続けて来たという、時間的な経過を指すのではありません。二十年間に歌い上げ、表現し続けて来たものは、すでに四十代に仲間入りしたフランク永井の、その四十余年にわたる人生の、時々刻々の表出というべきものでありましょう。
 その意味において、昭和一ケタ生まれの彼、フランク永井が、軍歌(戦争歌謡をも含めて)とかかわり合いを持つことに、何らの不思議はないし、抵抗もないと私は思うのです。〝十五年戦争始まり〟とまで呼ばれた、あの満洲事変の頃に生を亨け、少年時代の前半を戦争の中で送った男にとって、戦時中の感覚を最も具体的に記憶し、刻み込んで来たもの、それこそ軍歌であったからです。
 もちろん、軍歌と呼ばれる歌の数々が持っている感覚とか、味わいとかいったものは、フランク永井が二十年にわたって構築し、展開して来た歌の世界のそれとは、まるで違った種類のものです。ですから、彼が手がけた軍歌を、無理に〝ムード軍歌〟などと短絡的に呼ぶつもりは毛頭ありません。それは、全く違ったものであるからです。

◆〝情〟の世界こそ、新の世界を支える大きな柱
 といって、全く次元を異にするものかと申せば、それもまた、違ったいい方といわざるを得ません。フランク永井が切り開き、作り上げて来たものも、すでに最も新しいものでさえ三十年の昔に作られた軍歌も、等し並みに〝歌〟である、という点で結びついているのです。
 〝歌〟が描くものはなにか? いうまでもなくそれは〝情〟の世界です。人間の心の営みとして指摘される「知・情・意」の三つの中で、その中程に位する〝情〟の世界こそ、新しい世界を支える大きな柱です。
 もとより、軍歌の中には、かなり〝意〟の分野を前面に押し出した作品も多数あります。軍歌というものが、戦争という、国と国、民族と民族との間に起こる大規模な闘争であってみれば、その間に生み出された〝応援歌〟としての軍歌が、まず第一に〝戦意昂揚〟ということを目的として、何よりもまず〝意〟をその原動力としたものである以上、これは当然のことでありましょう。
 かの有名な「リリー・マルレーン」にしても、原作者が弾いてきかせたそれは、テンポの速い、快活なメロディーであったと申します。そういうものだと思います。それが、まず軍歌なのです。そして、やがて、その中の〝情〟が生きるようになるのです。
 フランク永井の歌が深く根ざした〝情〟の世界と、彼が少年時代を過ごした軍歌の時代の〝情〟の世界とは、歴史的な表向きの表情のその奥底に、実は一貫して流れるものがあったのです。それが、敗戦後三十年という時間が経過し、戦争を罪悪視する一般の風潮が圧倒的な現在でもなお、若い人々の間にさえ、軍歌を口ずさませる一つの原因となっているのです。

◆軍歌が愛されるのは〝いい曲〟だから
 フランク永井の恩師である作曲家の吉田正氏は、このLPのレコーディングに立ち会った折、こう洩らしておられました。
 「何故今でも軍歌が愛されるのか? とよく聞かれるが、答えは実に簡単ですよ。軍歌にはいい曲が多いからです」。
 実に簡潔な一語ですが、それが、本当の話だと思います。
 〝いい曲〟だからこそ、当時を追憶しながら年輩の人たちは歌い、いい曲だからこそ、若い世代も耳を傾けるのです。
 そして、その〝いい曲〟であるもののほとんどは〝情″の世界に深く根ざし、そこに人間の営みの深い哀しみを感じとった作品ばかりである、ということが出来ます。
 例えば、戦場における最大の哀しみは何か?
 いうまでもなく、戦友との生死の別れに留めをさします。それは、極限の状況における〝人間別離の哀しみ″と申すべきでありましょう。
 今回、フランク永井がとりあげた「戦友」「あ、我が戦友」そして「戦友の遺骨を抱いて」の〝戦友三部作″こそ、この哀しみをぐっと噛みしめて指し示す、ギリギリの〝情″の世界なのです。
 三部作という言葉を使いましたが、これは決して意図的に成立したシリーズの三曲ではありません。すでにご承知のように「戦友」は、日露戦争の時代に作られたものです。「あ、我が戦友」は、これを受けて支那事変直前のいささか平和を保っていた時期のもの。そして「戦友の遺骨を抱いて」は、大東亜戦争初期、マレー戦線において実戦場の硝煙の中で作られました。
 いずれも、戦死した戦友を偲ぶ悲痛を感情を表出させた点に共通性があり、それだけに長く愛唱され続けて来ているのです。それぞれ異った時代背景の中で生まれた歌でありながら、根ざしている基盤は共通するヒューマニティであり、だからこそ、人々の心に絡み込んで忘れることの出来ぬメロディーとなったのです。

◆風雪を超えた〝にんげんのうた〟を歌い上げる
 それは、今回特に取り上げた吉田正シベリア時代の作品「異国の丘」「とけろ港よ」などにも共通するものです。戦争終了後、何年ものあいだ、シベリアという極限の地において抑留され、望郷の念一筋に生き抜いた男の歌が、この一連の作品なのです。〝戦死シリーズ〟が消え果てた彼方に生まれた、この数々の「歌」。
 これこそは、〝怨〟であり〝恨〟あり〝悲〟であり〝哀″であって、最も純粋な形での〝情〟の世界を描き上げた歴史的な作品群です。
 その間を理め尽くす肉親の情、従軍看護婦の人類愛。いずれも、人々の心に鳴り響き続けて来た調べばかりです。〝にんげんのうた〟と呼んでいい歌ばかりです。
 〝人間復興〟を旗印に歩んで来た吉田正氏が、手塩にかけて育て上げたフランク永井。その彼が、風雪を超えた〝にんげんのうた〟を歌い上げることの意味を、私は改めて噛みしめてみるのです。

カテゴリ

月別 アーカイブ

このアーカイブについて

このページには、2022年4月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2022年3月です。

次のアーカイブは2022年5月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。