2022年2月アーカイブ

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 2月20日西郷輝彦が亡くなりました。心からのご冥福をお祈りいたします。
 西郷は橋幸夫、舟木一夫、三田明などと並んで、昭和60年代にデビューして、若い当時の世代をたいへん沸かしたスターでした。
 「君だけを」でデビューし、たちまちファンを得て人気歌手になり、その後俳優として時代劇を中心に活躍しました。
 最近は病気に悩まされていたようですが、彼のなしたことはたいへん偉大なことだったと思います。あちらでは、心穏やかに存分に当時の仲間と語らっていることと思います。

 さて、20日ですが、NHK-BSの長期歌番組である「新日本のうた」で、フランク永井の「おまえに」が歌われました。当日は「カラオケだ!細川・長山・福田・みちのく娘!」とのキャッチで、【古今東西名曲特選】が披露されたあとの、【スペシャルステージ】というカラオケの雰囲気とやや強引に結びつけたコーナーで、多数の曲が紹介されました。
 この番組は最近あまり見ることはなかったのですが、親しくさせていただいている方から電話で紹介されて、鑑賞させてもらった次第です。
 それなりに新鮮さを感じました。

 何がそう思わせたのかと、いろいろ振り返ってみました。まず司会者が近藤泰郎アナに変わっていたことです。定期的に担当を変えて、こうした歌番組を経験させているのでしょうね。
 また新人かと思える若い歌手が何人も登場していることです。しかもなかなか歌のうまい歌手たちだったので、すごくいいことだと思いました。一条寛太という男性歌手は、いい声で歌もうまく、気に入りました。
 さらには、当日流される歌に、埋もれていたような名曲を探し出して挿入していることです。ひと時の歌番組では、売れている、ヒットしたというだけで、確かに著名な歌だが、繰り返しそればかりだと飽きてしまいます。この番組を避けるようになったのも、そのような原因があります。「おさらば故郷さん」「北緯五十度」といった曲などはそうではないでしょうか。
 歌番組では、こうした制作陣の姿勢が貫かれないと視聴者が必ず離れます。これからもいい番組を期待します。

 さて、福田こうへいの「おまえに」はどうだったのでしょう。電話で教えてくださった方も言われていたのですが、私も同じ感想でした。
 一言でいわば、福田にこの曲を歌わせたのは失敗です。彼は民謡出身です。高い声質、忠実な音程、激しいこぶしが特徴で、彼のデビュー曲である「南部蝉しぐれ」は、すばらしいものでした。
 勉強家でどのような曲でも、リクエストされればそつなく歌いこなします。だが、曲によって合っているか、視聴者をうなずかせられるというと、それは別です。フランク永井にロックを歌へというようなものです。

 「おまえに」はフランク永井ですら、最初にレコードを発売したのは「大阪ろまん」のB面で、1966年でした。このときはA面に隠れた感はありましたが、それにしても曲への関心は高くなりませんでした。
 1972年にやや歌い方を変え、あらためてA面で発売したのですが、それでもヒットには至りませんでした。注目されたのは、異例の3回目のリリースです。1977年、B面に「妻を恋うる唄」をカップリングされて発売されました。社会的にカラオケがブームになっていたことと重なり、注目され、人気を得ていきました。
 3回目のレコードを聴けばほぼ2回目と同じなのです(音源は同じだという記録もある)が、やはり、フランク永井の歌い方が大人になっています。節の隅々まで、フランク永井でなければ表現できない、感情の深さが行き届いています。
 この曲は後日、ささきいさお、五木ひろし等、多数の歌手がカバーしています。五木もささきも彼らなりの味がでています。カバーではいいほうではないでしょうか。それでも、いったんフランク永井の歌唱を耳にしているファンには、物足らなさを感じさせます。
 だから「おまえに」を他の歌手が歌うというのは、そうとうの決意がいるものと思われます。
 結局は、番組制作陣の配役というか、どの歌手なら「合っているか」についての判断だと思います。プロの歌手には歌手としての確かな得意分野、方向性をもっています。
 番組を見ながら、私は次々と登場する歌手の歌唱を聴きながら、声質と歌唱、歌(詞とメロディー)への消化力を見ています。フランク永井の若い後継者に育つ歌手ならいいなと期待しながらです。
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 前回にフランク永井の全集ものを紹介しました。レコード時代に発売された「大全集」(十巻全集)は曲もそうだが、関係者からのフランク永井評が満載されています。そのなかから、文書あるいは第十巻の音声からいくつか紹介して見たいと思います。基本的にこのままでは埋もれてしまう情報ですが、フランク永井への関心を維持し、継承していく活動の一環として、およそ50年前のものですが、ここに記していきたいと思います。

フランク永井の二十年(小倉友昭)
●激動の昭和復興期に出るべくして登場したフランク永井
 歌手フランク永井の登場は衝撃的だった。在来の日本の歌手にない声の幅、柔らかさ、そして、天性のものともいえるフレージングの巧みきなど、どれをとってみても、その出現は、新鮮な驚きだった。
 昭和三十年十二月。デビュー盤は、スタンダード・ナンバーの「恋人よわれに帰れ」だった。
 この年、テレビ受信契約数が、始めて五万台を突破し、洗濯機、ミキサー、電気コタツなど家庭電化時代が始まっている。ついでにいえば、トランジスターラジオの発売もこの年だし、ファッションの流行も、Aライン、Yラインなどアルファベット時代に入っている。
 こう書いてきたのは、ほかでもない、この昭和三十年という年が、後の二十年の方向を決定づけた極めて重要な年だった、ということを、あらためて考えてみたかったからだ。
 テレビは、この年を契機に完全に一時代を作っていく。一年後の昭和三十二年には契約数三十万台突破となり、上半期からの五カ月間に前年度契約数五万台の倍に当る十万台に達するほどの急激な伸びを記録している。
 また家電化時代突入は、団地の増加と相まって、現在の生活様式の基礎的なパターンを形作っている。流行も、この年度から、ジャーナリズムの上で大きく取り上げられるようになった。さらに、つけ加えるなら、ノイローゼといういまでも何らかの形でしばしば使われる言葉が、始めて大きくクローズアップされたのも、昭和三十年だった。
 いうならば、以降、昭和五十年の現在に至る出発点が、この年度に求められるというわけである。
 そして、この年に、フランク永井がデビューした、ということは、非常に暗示的、かつ象徴的であるの
 この年、新人歌手として、数多くの名がデビューしている。フランク永井を出したビクターでも、由利夏江、中原葉子、菅原一郎ら十数名を出し、他のレコード会社も、斉藤京子、伊東満、花村菊江、浅草ゆめ子、関真紀子、鶴美幸ら、合わせると三十名にのぼる歌手を期待をこめて出している。いまの、歌手量産の芽が、早くもこの三十年度にあったのである。時代の流れと同様に、流れも、やはり、以降二十年の源流を形作ったわけだった。
 だが、これらの数多くの名は、二十年経ったいま、フランク永井という名だけを残すだけとなっている、この間の歳月が、いかに長いものであり、いかに変動に充ちたものであったかを、この事実は教えてくれる。現在の日本の基調が出来上った年代は、一方では以降の激しい成長を告げる年代でもあったのである。
 日本の、これは、高度成長に入る契機であった。

●抜きんでていたフランク永井の声質と歌唱
 三十年十二月にデビューしたフランク永井は、翌三十一年五月までに二枚のレコードを出している。一曲は「バラの刺青」、他の一曲は「16トン」。前者は外国映画主題曲で、メロディアスな曲、後者は寺岡真三編曲でアメリカン・ポップスの流れをひいている。ジャズ歌手として、進駐軍(現駐留軍)のキャンプをまわって、フランク・シナトラ風の歌を歌っていた彼の、いわば生地をそのまま出したものだった。ノビやかな歌い方と抑制のとれた感情表出が巧みで、それだけに、それまでの日本の歌手になかった新鮮な感動を与えたものだった。
 多くの日本の歌手、特に、彼とジャンルを同じくするアメリカン・ポップス系、ジャズ系の人たちが、コピー・シンガーとして、少さく固まってしまいつつあるなかで、彼のコピーに捉われない闊達な唱法は、本格的な歌手への成長を期待させた。それも、結局は、他の歌手が持ち得ない天性の声質の良さが、原因となっていたのだが、とに角、たっぷりしたその声を、余裕を持って使いながら歌い上げる彼の歌には、本来、そうでなければならない筈である声を楽器として、使いこなせる歌手が、日本にも登場してきた、という新しい時代の到来を感じさせたものだった。
 仮定としての論議は、余り意味のないものだが、彼の場合は、それを承知であえていうならは、恐らく、彼は、そのまま、ジャズ乃至はアメリカン・ポップスを歌い続けたとしでも、その分野での代表的な存在となり得たに違いない。それほど、彼の資質は、同時代の歌手の中で抜きん出ていた。しかも、この系譜の歌手の多くが、限られた特殊なファンに対してのみ働きかけを行っていたのに対し田正成のて、彼は、限られたファンだけでない、いわゆる一般のファンに対して強い影響力を持ち得る質の歌手だった。そして、これが、やがて、流行歌手としての開花へとつながる。
 この契機となったのが、三十一年十月発売の「場末のペット吹き」(宮川哲夫作詞、吉田正作曲)だった。これで、彼は、外来曲のみでなく、日本の伝統的な現行歌への適応性の確かさを見事に示した。しかも、型にはまった唱法から脱け出し、アメリカン・ポップス風のフィーリングを活かして、新しいタイプの流行歌への途を拓いた。特に、印象づけたのは、それまでの歌手にない声の豊かな響きだった。これは、彼の声の質を見抜いた作曲家吉田正氏の慧眼に負う所も大きいが、これに応えた彼の物怖じしない唱法が、際立っていた。この成功は、翌三十二年三月発売の「東京午前三時」(佐伯孝夫作詞、吉田正作曲)へとひろがっていく。
 この曲は、何より歌をも含めたサウンド構成の巧みさで、新しい風俗歌謡の先鞭をつけたものとなった。当時としては、まだほとんどの人が手がけていなかったエレクトーンを、吉田氏は見事に使いこなして、在来の曲調とは一変した仕上げとした。このエレクトーンの音質は、柔らかい彼の声質と合致した。刺激的な音を使いながら、刺激的に感じさせないその曲作りの巧みさが、彼の声質をより印象づけた。電気的な処理音が、流行歌に登場したという点でも、この歌は、忘れられないものだろう。これが、いわゆる「低音ブーム」の発端となった歌だった。彼の、幅のある、のぴやかな声は、当時の多くの歌が、ピッチの高い音質で聴かせる歌によって占められていただけにより際立って、新しさを感じさせたものだった。以降、この年には「夜霧の第二国道」(宮川哲夫作詞、吉田正作曲)を経て、「有楽町で逢いましょう」(佐伯孝夫作詞、吉田正作曲)へと発展していく。
 この年、昭和三十二年は、以降の十五年間の主流となった消費文化時代の開幕期である。十月に五千円札が登場し、十二月には百円硬貨が発行されている。「デラックス」という言葉が濫用され始めたのもこの年だし、ゴルフ・ブームの緒が、川越市で行なわれた第五回カナダ杯国際大会で、個人・中村寅吉、団体・日本の初優勝で開けられた。レコードも、SPが1067万4459枚、45回転EPが344万2169枚、LPが151万8842枚と、EP、LPの飛躍的な増加が記録されている。そして、忘れてならないのは、オーディオでハイ・ファイ・ブームが起こり、高忠実度再生音に関心が向けられたことだ。しかも、この年度にはステレオ・テーブも日本で始めて発売されているし、FM放送の必要性も盛んに論議され始めていた。この機運は、翌三十三年八月になって、日本ビクターが、日本で認めて国産のステレオ・レコードを発売するという新しい音響時代へと拡がっていくわけだが。とに角、大量消費時代へとの突入が図られたのである。

●フランク永井の力量はリサイタルで発揮した
 実は、「有楽町で逢いましょう」の大ヒットは、消費時代という背景を抜きにしては考えられない。十一月に発売したレコードが一カ月後の年末には、この歌一色に塗り潰されたほどの拡散となったのは、大量消費時代の顕著な表われである。歌の背景となった関西のデパートの東京進出も、この時代だから成し得たことだし、拡散、伝播速度の速さも、この傾向があって成り立ったものだった。と同時に、音の面から考えると、ハイ・ファイへの関心、ステレオの登場といった新しい音響への興味が、フランク永井の歌を浸透させた、といってもいい。新しい音響への大衆。の関心、興味は、必然的に録音、再生の技術革新を促す。
 「東京午前三時」で吉田正氏が試みた流行歌のサウンド設計は、録音、再生の技術の進歩なしでは成立しない。フランク永井の声が、快い響きとなって大衆に伝えられたのも、録音、再生の技術が、この時代に著しい進歩を遂げたからである。彼の歪みのない柔らかい声は、録音技術の良否によって大きな影響を被らざるを得ない。声を決め手としない歌手だったら、さほど、こういった面での影響を考えなくてもいい。声の質がせん細であればあるほど、録音、再生の優劣は大きな問題となる。逆からみると、彼は、音に敏感になり始めた時代の要請によって出て来た歌手といってもいい。
 いつの時代でも、時代の要請によって出てくる個性はあるものである。時代が必要としない個性は、かりに、ある一時期、何らかのきっかけで出ることは可能でも、所詮は消えざるを得ない運命を持つことは、幾多の例が証明している。
 フランク永井は、すべての面で、出るべくして出て来た個性だった、ということである。だからこそ、多くの歌手が、雲散霧消してしまったなかで、二十年間第一線で活躍し得たわけである。
 だが、もし彼が、デビュー時代と同じ声を持ち続けたらどうだったろうと、ここで考えてみよう。
 まず思い浮かぶのは、彼がかって私淑したフランク・シナトラの在りようである。シナトラは、ラジオの普及と共に出てきた。マイクの性能の向上が、シナトラの美声を際立たせた。そして、それが、シナトラの落し穴となった。単なる美声歌手として飽きられる時代を迎える。加えて、過飲から唯一の財産であった喉を潰す悲劇に陥る。これを救ったのが俳優への転向であり、違ったタイプの歌手への転進である。美声歌手でしかなかったシナトラは、深い味わいを表現する歌手へとなった。
 もちろん、フランク永井が、悲劇的な経路を辿ったというのではない。むしろ、彼の場合は、ほとんど失意らしい失意に遭遇しなかった歌手である。しかし、それでもこの二十年間には、歌手病ともいえるポリープに悩まされたこともあった。この職業病は彼の唱法に、シナトラと同様な味わい深い陰影を与える結果となった。声に特質を持つ歌手が、唱法でも、他の歌手の追随を許さない独自のものを持ち得るようになったのである。多くの歌手が、この職業病を前に、何ら成すすべもなく、ただ徒らに、在来の唱法に固執しているのを見るにつけ、フランク永井のこの成長は、特筆すべきものだろう。これが、奨励賞(四〇年)優秀賞(四五年)の二度にわたる芸術祭での受賞、そして、流行歌手としてはじめての芸術選奨文部大臣賞受賞という結果になっている。しかも、この三賞は、いずれも、リサイタルの成果としてのもの、という事に、彼の本質が示されている。
 多くの歌手は、本来の意味でのリサイタルは持ち得ない。鑑賞組織用のステージをリサイタルと名付けるか、或いは、興行としてのステージを便宜上リサイタルと呼ぶ程度のものが通例である。リサイタルと呼び得る内容を作り得ない歌手が多いのだから、これは致し方ないかもしれないが、そんな中でフランク永井のリサイタルのステージは、終始緊迫した空気が張りつめて、隙のない舞台構成になっている。
 これは、彼の師である吉田正氏の姿勢を継承したものだが、彼に、継承し得る精神内容があったから出来得たものだ。
 彼の舞台に一貫して流れるものは、歌に対しての並々ならぬ執着である。昭和三十年にデビューしてからの、これが、彼を支えてきたものだが、これも吉田正氏と驚くほど似ている。歌以外に、自分を賭けるものがない、としたこれは男の生き方である。
 細かくいえば、一人で舞台を保たせることが出来るレパートリーの豊かさ、或いは、落語に凝った結果として作られた独得の話法の巧みさなど数え上げれば、きりがないが、この底流になっているのが、歌うことへの執念である。これが、聴衆に伝わって、熱っぽい感動を産み出すことになる。
 舞台での彼は、頭の先から靴の底に至るまで寸分の隙もない。特に、靴の履き方の美しきでは、日本では類を見ない。
 これは、南部圭之助氏も指摘していたが、ステージに上がる者のもっとも心がけねばならないことの一つといっていい。だが、日本の舞台人の多くはほとんどそこにまで神経を行き届かせることは出来ないのだろう。
 外来アーチストは、サミー・デビス・ジュニア、フランク・シナトラなど、何れも、靴の美しきで舞台を引き締めていた。これと、全く同じ美しきを彼は、舞台で作り上げた。日本の歌手では、誰一人出来得ないこの隙の無さは、彼が、いかに一回一回のステージに全てを投入しているかをわからせるものだろう。
 本当の意味でのエンタテナーといえる数少ない歌手がフランク永井なのである。

●恩師吉田正はフランク永井に、持てるすべてを与えた
 この二十年、日本は大きく変わった。昭和三十年に6,739億円だった日銀券発行残高が、昭和四十九年末には、11兆6,678億円となるほど経済は膨張し、140円だった理髪料が1,170円に上がるほどインフレは昂進した。直接戦争に参加しないで、これほど変った時代はなかった。芸能界でも映画が全盛から斜陽へと傾斜し、かわってテレビが台頭した。音楽も、その変化を書き切れないほどの変りようである。
 フランク永井は、この激動の二十年を、しかも第一線で生き抜いてきた。歌の種顆も、他の歌手には真似の出来ない豊穣さを持っている。リサイタルに吉田正氏が書き下した歌謡組曲「慕情」を頂点に、戦前の流歌、そして、ポピュラー・ソングに至るまで、全てが、彼の骨肉となっている。
 「私の持っている全てのものをフランク永井には与えた」吉田正氏は、彼についてこう語っている。類いまれな個性的な作家と、これも類いまれな個性的な歌手とのこの出会いは、昭和三十年から二十年間の歌謡界の流れを作った。
 そして、この二十年は、いまの日本の流れを決めた重要な年代だったのである。
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 フランク永井が残した曲はカバーを含めるとほぼ800曲にのぼります。シングル盤でおよそ500枚、LP盤で150枚程度あります。これが基本ですが、カセットやソノシートや8トラックが加わります。
 CDとなると120枚ほど出ています。CDは、フランク永井が舞台から降りた後のメジャーなメディアです。さらに現在では、ダウンロード専用で用意されたものもあります。
 レコード盤を復刻したもの、カバーに特化して選曲したもの、ジャンルで選曲したものとあり、曲がかぶさっていて、ユニークさを判断するのは困難があります。
 そのような中で、全集あるいは全曲集とうたったものがあります。
 フランク永井のもので「全集」が初めて組まれたのは1962年で、LP3枚組のものです(JV-50~52)。
 LPで初めて、しかも唯一「大全集」が出たのは、1975年の10枚組盤です。(詳細は後述)
 レコード界では常識ですが「全集」は発売した曲のすべてをカバーしているわけではありません。ヒット曲を中心に厳選したものです。まして「大全集」も同じです。その時点の厳選曲です。
 厳選曲ということでは「すべて」「ベスト」「ベスト・コレクション」「セレクション」「スーパー」とかのタイトルで、ときどき発売されています。
 レコード時代の最後は1985年に「全曲集フランク永井」(SJX-25012)で14曲が納められました。

 CD時代に入っての最初は1985年に「フランク永井全曲集」(VDR-1091)がでました。その後全曲集的なものは、およそ10点発売されました。1991年になると6枚組の「大全集」が出されました。
 その後「ステレオによるフランク永井のすべて」(VICS-60051~55)の5枚組がリリースされました。2011年に「フランク永井ベスト・コレクション」(VFD-10077~82)6枚組が発売、2015年に「フランク永井の世界」(OCD-6901~07)の7枚組がリリースされました。
 直近では2016年の「懐かしのフランク永井シングル全集」(VICL-64528~37)の10枚組です。この商品によって、シングル盤のA面でリリースされた曲がすべて収録されました。わずかですが、デジタル化されていないB面曲が取り残された状態です。
 CDの全集ものについては、特に1~2枚のものは、このブログで触れましたが、曲のトラックを変えただけとか、ジャケットはわずかタイトル位置を変えるだけといった「紛らわしさ」が目立った印象を受けました。

 フランク永井の全集類の中で、特筆すべきは、やはりLP10巻全集でしょう。これが出たのは「歌手生活20周年記念」とうたっているだけあって、歌手として業界のトップに君臨していて、もっとも乗りに乗ったときの作品だからです。1~5巻は、まさにフランク永井のそれまでの厳選50曲が収められています。
 6巻は「別れの一本杉」「兄弟仁義」「女のみち」などの当時の人気歌謡曲のカバーを納めています。フランク永井はこんな曲もカバーしていたのか、とハッとするような曲が10曲収められています。
 7巻は「戦友」「麦と兵隊」「同期の桜」といった戦中の流行歌のカバーです。8巻は「ゴンドラの唄」「月の砂漠」「花嫁人形」などの抒情歌です。フランク永井の歌の幅の広さが十分に発揮されています。
 9巻はA面に1965年末に開催した第2回リサイタルで披露した、歌謡組曲「慕情」を納めています。この曲は何度も紹介しましたが、20分ほどの長さで、その歌唱の卓越さは当時の噂になるほどすごいものです。ただの流行歌手ではないという印象を与えたものでした。ちなみに、この曲の一部が恩師吉田正の手でシングルに切り取られ、ささきいさおの「雪の慕情」として発売されました。
 B面は「慕情」「いそすぎ」などの洋楽の厳選カバー曲です。
 ここまでは曲の収録ですが、10巻は珠玉のおまけです。
 当時のフランク永井という人間の人柄をあからさまにするのが主眼で、多方面から光をあてていて、関係者の証言が音声で綴られています。深く交流をした当人のなまなましい声です。
 「フランク永井を語る」「フランク亭永井を語る」「フランク永井の手紙」「安鶴さんの思い出」「フランクさんの人柄を語る」「フランク永井の弱点」「ジャズ仲間との再会」「フランク永井の印象を語る」という内容です。
 途中で、小咄「夕立や」とデビュー前に得意とした「マイ・ベイビーズ・カミング・ホーム」が挿入されています。
 このように、10巻目は、このLP全集だからこその企画で、購入して決して損のない手ごたえがある内容です。
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 2019年から放送されているBS11の歌謡番組「八代亜紀いい歌いい話」で、先日再放送されものがあります。2019年10月29日に放送された「ムード歌謡特集」です。
 「ムード歌謡」と名付けたら最初に思い浮かべてしまうのは、フランク永井です。フランク永井のどんな映像がでるのか、どう紹介されるのかは、いつも気にしていいるのですが、その期待にどう応えてくれたのでしょう。
 このコラムで幾度か記しているのですが、残念、やはりゲストの歌唱と、音声だけの扱いでした。それでも、最初にフランク永井の名が紹介され、当日ゲストの中条きよしと増位山太志郎が「有楽町で逢いましょう」を歌いました。
 この日の番組では、いつもとやや違い、少し力が入っていて、ムード歌謡の生い立ちから現在までを、きちんと掘り下げています。ここでも、最初にフランク永井の「君恋し」が、本人の映像ではなく、写真を出してですが、本人の歌唱音声が流れました。
 どうも、番組作成の予算のせいか、何かコンセプトがるのか、ゲスト以外の歌唱映像は流さないのが流儀のようです。

 ゲストの中条きよし、増位山太士郎、竹下景子のムード歌謡とのかかわりとか、デビュー曲にまつわるエピソードなどを紹介されました。
 また、ムード歌謡と言えば、ムードコーラスが欠かせません。「ムード歌謡名曲物語」では、和田弘とマヒナスターズ、ロス・インデオス、黒沢明とロス・プリモス、鶴岡正義と東京ロマンチカ、内山田洋とクールファイブなどのあやどりを紹介されました。

 「ムード歌謡」というジャンルは最初からあったわけではなく、やはりこれはフランク永井の恩師吉田正の功績が大きいと言えます。
 戦後の歌謡史は、米軍の占領下で、基地内のクラブでのジャズ演奏がベースにあるのは避けられませんでした。日本の演奏家はほとんどがそこに活動の場を持ちました。だが、朝鮮戦争のあたりから急遽日様相がかわり、キャンプ地での仕事が激減します。
 街は戦争特需に沸きますが、夜の酒場、憩いの場所で流れる曲の多くは、ジャズとひとくくりにされた洋楽ばかりであることに淋しさを感じた吉田正は、このような場で流れる日本の曲を作りたいと奮起します。
 それには、都会の夜のイメージに合う歌手がいないかと密かに探し、目をつけたのがフランク永井でした。世は高音ブーム、故郷を懐かしがるブームのなかで、低音の歌手、都会的なハイカラな歌手、それにふさわしいのはフランク永井の声だと判断しました。
 ジャズ歌手一本を目指していたフランク永井を、時間をかけて説き伏せ、やむやむとはいえ、曲を与えて歌わしたのが「場末のペット吹き」でした。これは、聴いたらわかりますが、吉田正の盟友であった俳優の鶴田浩二を念頭にしてあたためた曲です。
 すばらしい歌唱が完成しています。続けて「東京午前三時」を歌わせます。私は個人的に大好きな曲です。この歌をラジオで聴いたときの都会のイメージの広がりは、今でも忘れません。
 田舎の少年に与えた都会への強烈な印象は本物でした。吉田正と絶妙なコンビを誇っていたのは作詞家の佐伯孝夫です。彼は関西から東京のど真ん中に進撃してくるという百貨店そごうのオープン・キャンペーンの募集を見逃しませんでした。
 そこでできたのが「有楽町で逢いましょう」です。これが、フランク永井のささやくような歌唱を添えて、一気にラジオで爆発します。これで、人気は全国区になります。吉田正、佐伯孝夫、フランク永井の意図は世に受け入れられました。
 ムード歌謡のスタートはこれだったと言っていいのではないでしょうか。
 こうして石原裕次郎を連れ込んだ「低音ブーム」が始まります。吉田正は追い打ちをかけるようにやったのが、和田弘とマヒナスターズへの歌の提供です。「泣かないで」は大ヒットします。今でも多くの歌手からカバーがでています。ここから、多数のムード・コーラスが生まれます。同時に、多くの作詞家、作曲家がこの分野に参入します。

 現在はムード歌謡、ムードコーラスの世界はどうなっているのでしょう。わずかの歌手が頑張っていますが、フランク永井の活躍していた当時のような盛り上がりは、昭和の時代とともに薄れ去った気がします。
 だが、ムード歌謡、ムード・コーラスについての番組は最近でも続いていますので、それに刺激を受けた若い世代が、新たな時代のムード歌謡、ムード・コーラスが出てくるのを期待したいと思います。

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