2021年11月アーカイブ

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 「フランク永井発売されたCDの紛らわしさについての考察」を前回紹介したら「確かに紛らわしいな。わざと混乱させているのか」という声がありました。
 そんなはずは、さすがにないよ、と答えたのですが、心の中では、すっきりしたわけではありません。それは「ベスト★ベスト」以外にもあり、1965年ごろのレコード・ジャケットにもあるからです。
 レコード・ジャケットについては、その筋では知れている事実です。
 ご覧のように「1964:SV143-男なら」「1965:SV-194-アコちゃん」「1965:SV-207-妻を恋うる唄」「1965:SV-253-熱海ブルース」の4点は明らかに紛らわしいです。「アコちゃん」だけは背景をオレンジにしている点だけ、区別されているといえば、言えるかな、ということです。
 翌年の「1966:SV-353-ひとりぼっち」「1966:SV-364-君待てども」という2点も、写真を掲げていなくてすみませんが、ほとんど同じ構図のジャケットです。
 もちろん、他にもあやしいのがあるのですが、それはパスします。
 CD化は1980年ごろから本格化するのですが、フランク永井については、現在確認できる最初のものは「1984-:VDR-17-フランク永井スーパー・コレクション」です。
 この次に出たのが「1985:VDR-1091-フランク永井全曲集」です。このジャケットがややこしいのは2009年にSONY CD倶楽部から出された「CTH-1008-フランク永井」です。ご覧のように、写真が左右逆(裏がえし)かもといわれてもし方ないような使用をしています。
 わずか、微妙にことなるような雰囲気はありますが、そんなのアリなのでしょうか。それからさらに数年経過した2015年に「MIVE-3067-もっとフランク~ベスト・オブ・フランク永井」がリリースされました。これは、最初のジャケットと同じデザインになっています。

 データ・ブックの資料を整理していて、実は最も確認に困ったのは、写真の真ん中のCDです。
 COREZO!シリーズの「ベスト」と呼ばれているのは「追悼盤」として、亡くなったのちにリリースされています。
 だが、これが最初に発売されたのは1995年10月のようです。フランク永井のまさにベスト盤として20曲収めたものです。ビクター側は、フランク永井の「ベスト」はこれが決定版で、以後これをニーズに合わせて、再販でだしていこうと考えたのではないかと、勝手に察しています。
 同時期にカセット盤も出たと思われますが、手元にあるのは1999年のものです。
 2回目のCDは「1996:VICS-60052」です。見違いなら訂正しますが、ビクターが使用しているVICLと違っています。理由は不明です。その後「2004:VICL-?」「2005:VICL-41246」と出ているのですが、他にもあるかもしれません。
 つまり、この決定版はジャケットになぜか盤IDが印刷されていません。購入時の帯と背にあるだけです。背にあるからいいや、とも言えますが、ほんとの意図はわかりません、
 レコードもそうですが、最初の発売日をあいまいにする傾向があった時期がありました。理由はレコード店に発売から何年か経過したものが残っていても、古さを感じさせないためかと思います。
 しかし、在庫の関係は簡単ではないようで、メーカーは同じ盤IDで増産するケースと、完全に同じデザインでありながら、盤IDが新たにつけられて再販するというケースがあるようです。
 結局、正確な理由はわかりません。

 購入するユーザーにしてみれば、CD自身は古くならないし、曲は同じだし、複数を購入して比べる必要性もないし、どうでもいいようなものかもしれませんが、私のように「整理」の目的があるものには、困惑が残ります。
 フランク永井が1985年に「自殺」行為で実演に終止符を打ったがために、マスコミはフランク永井を封印してしまいました。この雰囲気は、1986年以降の見通しとして、ニーズは急激に減る一方だろうな、と見込んだ節があります。
 その場合の決定版をまとめたのがこの盤だったのだろうと推察します。が、しかし、実際にはファンからの要望は、簡単に耐えるようなものではなかったのですね。
 表の社会では封印されていても、ニーズは続いていたようです。レコード会社では、ゆえにうれしい悲鳴をあげならが、次つぎと毎年何枚かの新製品を出していきます。
 だが、残念なことは、フランク永井のベストを超える、つまり、フランク永井の魅力を広げていくような企画ではなかったことです。PLアルバムのCD化による再販とか、先のベスト20曲のトラック番号を変えたり、8~18曲程度に採用数を変えるとかのことし化していません。
 ユーザーが希望する、フランク永井のカバー曲や埋もれたレア曲など、どれを聴いても同じものでない曲の積極的な掘り起こしでした。
 これは、2007年ごろの封印解除を境に、ビクターも真剣に対応していく姿勢になります。
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 「フランク永井魅惑の低音のすべて」(通称データ・ブック)を発売したのは、2010年10月だったので、それから11年経過したことになります。この時点では、あくまで発売されたレコード(シングルとアルバム)をもうらしたものでした。
 フランク永井の現役時代はレコードがメディアの中心でしたが、1980年代になると急速にCDに変わります。舞台を降りたのが1985年ですが、この時期にCDは出たのでしょうか。手元の記録で確認すると、2枚だけ出ています。
 1984年に「VDR-17-フランク永井スーパー・コレクション」、1985年に「VDR-1091-フランク永井全曲集」です。
 当時の調査対象にはレコード以外のカセットテープやCDは入っていませんでした。理由は、レコードにはフランク永井の歌唱がすべて含まれていて、テープはメディアを変えただけのアルバムだと思っていたからです。
 その見方はおおむね正しかったのですが、その後によく調べてみると、カセットテープには「ボーナス・トラック」のような感じで、レコードにはない歌唱曲がいくつか入っていることがわかりました。
 CDについても同じで、過去にレコード化、あるいはCD化で世に出していなかったものが、企画者の「再発見」でリリースされる例がありました。
 そのような経緯から、データブックの発売後から、テープやCDの調査をしてきました。あわせて、テレビ番組に残された「映像」の実態です。また映像では欠かせないのが映画です。
 そうした長期の調査の過程で、著者がわかってきたことについて、いくつか紹介したいと思います。

 まず、CD化リリースの初期にあった紛らわしさです。
 写真のように、似たCDジャケットがあります。フランク永井の写真にはイイ写真がいくつもありますが、この写真はベストの一つでしょう。1978年発売のカバー曲「SV-6495-街の灯り」のジャケットです。
 この撮影では数枚のショットがあったようです。これは「VCH-2711-夜のムード歌謡」で、まっすぐに立てたカットで使われました。
 ここまでは、普通にあり得ることと推察しますが、CD化の際には、頭を傾けたショットのものが多用されます。
 写真のように、6枚のCDで使われています。うち5枚に至ってはまったく同じサイズで使われています。
 「ベスト★ベスト」は2枚あり、左端の黒い縦帯のタイトルが「フランク永井①」「フランク永井ベスト」の相違だけです。
 「フランク永井ベスト」は背景が赤系にしてもう一枚あります。さらに背景を街の夜景に変えて「Best & Best」とあるのですが、先の「ベスト★ベスト」の星印は、いったいいかなる意味なのかまったく不明です。
 「君恋し~」とあるのは、SONYのCD Clubにビクターが提供した製品ですが、だからといって同じデザインを採用するのはいかがなものかと、思わざるを得ません。
 このデザインの内容はタイトルは違えど同じだというのなら、多少うなずけますが、全部異なります。ユーザーをそこまでなめていいものなのかと、疑問を感じざるをえない、と正直感じました。
 実は「ベスト」とか「ベスト&ベスト」「ベストヒット」というのはもっと多くあります。
 フランク永井が舞台を降り、長い暗黒時代を経て封印が解けたのは、2007年NHK-BSが放送した「昭和歌謡黄金時代~フランク永井・松尾和子」あたりからです。これまでは、フランク永井のCD-BOXものはわずかで、毎年のように1、あるいは2枚のCDが発売されたのですが、ほとんどが同じような曲でした。トラック番号を変えただけのようなものです。
 これはフランク永井のヒット曲のトップ数十曲を限定して紹介し続けたようなものです。弊害として、カラオケなどの演奏曲が、他の歌手の曲数と比べ極端に少ないということに出たと思われます。
 ここ休止されている例年の「フランク永井歌コンクール」でも、フランク永井の好きな曲はあるのに、演奏曲がないので歌えないという声が毎回上がります。
 フランク永井の所属したビクターでは、忙殺で追われた当時の担当部署やスタッフが代わって、その後はフランク永井のCD商品はしっかりしたものになってきています。2016年には「懐かしのフランク永井A面シングル全集」が発売され、フランク永井のアナログ・レコードのほとんどがデジタル化されました。また不動の人気をもつカバー物についても、ほぼ揃いました。
 MEG-CDは現在LABEL ON DEMAND(レーベルオンデマンド)ですが、ここではフランク永井のほぼ、全シングルがデジタル復刻されて、いつでも曲を楽しめるようになってきました。
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 フランク永井に作詞を提供した作詞家は190余名と多数に上ります。前回では認知度ではゆるぎない佐伯孝夫を紹介しました。レコード会社のビクターでは、売れる制作者をコキ使います。いやビクターに限らずどこでも同じです。売れれば実力があると評価されます。必至です。
 歌手も同じです。「有楽町で逢いましょう」の爆発的なヒットを実現して、作曲家吉田正はビクターの主要な作曲家の地位を得ていきます。フランク永井もこれが売れて結果的にビクターの売り上げに大きく貢献しました。
 吉田正、佐伯孝夫、フランク永井のゆるぎない黄金ユニットができるのは当然のなりゆきでした。この世界は、いわば人間の欲というか、性(さが)というか、希望や願望や新たなビジョンの拡張に限りなく、それに乗っています。つまり、企業は利益をもとめ、満足することをしません。視聴者は、この作詞家に、作曲家に、歌手に、別の分野の作品を作らせることで、新たな刺激に接したくなります。
 吉田正、佐伯孝夫でないジョイントで、もっとすてきな作品がきるのではないかと、期待を込めてトライを求めます。
 吉川静夫もその一人だったのではないかと思われます。ブルース物で青江三奈、森進一らは大ヒット曲を実現しています。古都清乃「赤山ブルース」は吉田正の作曲ですが、三沢あけみ・和田弘とマヒナスターズ「島のブルース」、青江三奈「長崎ブルース」「池袋の夜」、三沢あけみ「島のブルース」、森進一の「女のためいき」などは、吉川とのヒットを多数出した渡久地政信の作曲です。
 この大作詞家はフランク永井に44曲(「フランク永井」データブックによる)提供しています。当然に大ヒットを期待したのですが、結果的には佳作にとどまった曲が多かった印象です。
 「吉川静夫ヒット作品集」(SJV-367)を1970年の少し以前に出されていますが、ここには全14曲おさめられていますが、フランク永井の歌唱は「東京無情」の一つだけが出ています。1999年にビクターは作詞家生活60念を記念して「吉川静夫作詞生活60周年記念盤」CD2枚組をだしています。
 ここでは32曲が紹介されていますが、フランク永井については、同じく「東京無情」のみです。
 提供された曲をみると、テレビや映画の主題歌、挿入歌が多いように思います。「たそがれのテレビ塔」「口笛のブルース」があります。また、正式なシングル曲としてではなく、地方の観光協会などとのジョイントで作られた「瀬戸内海ブルース」があります。この曲は近年になって「懐かしのフランク永井シングル全集9(1968-1973)」で、正式に(?)A面シングルと評価されました。
 聞くとわかりますが、いい曲なんです。ドラの声から始まるイントロで、一度耳にすれば印象に乗る曲です。
 吉田正の代表曲でもある「異国の丘」を歌った竹山逸郎は「泪の乾杯」「熱き泪を」という吉川の作詞した曲を歌っています。これは、勝メロが盛り上がったときに、フランク永井がいずれもカバーで歌い残しています。いずれも東辰三の作曲作品です。これは編曲もなかなかよくて、フランク永井に向けて作ったかと思えるほどの出来になっています。
 1999年「記念盤」CDが出た年に、99歳で大往生しています。
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 私の子供のころの娯楽メディアはラジオでした。ラジオからは歌謡曲がいつも流れていたような気がします。フランク永井の「有楽町で逢いましょう」とか「東京午前三時」を初めて聴いたのは、もちろんラジオです。当時は曲を紹介するときに、必ずと言っていいほど「佐伯孝夫作詞、吉田正作曲」のように作詞者と作曲家という歌の創作者をきちんと語っていました。佐伯孝夫、吉田正という創作者の紹介が多かった。今も耳にこびりついています。それで、このお二方はどんなすごい人たちなのだろうと関心を抱いたものです。
 私のような東北の農家の次男坊は、小さいときから、学校出たら都会へ出ていくもので、田舎に残って暮らしていくことはできないと、教えられてきたものです。だから、行先となる東京はどんな都会なのだろうと何度もイメージしたものです。
 ラジオから流れてくるフランク永井の「有楽町で逢いましょう」や「東京午前三時」は、都会のイメージを膨らませるのに、たいへん大きな影響を及ぼしました。大人になって実際の東京は戦争で廃墟になったこともありますが、大きなビルなどまばらで、野地や畑や山林が間近にあり、孤児や浮浪者のような人達であふれるところであったのを知ったのです。だが、歌を聴いたときは、なんと素晴らしい、夢と活気にあふれた、上品な、居心地のいい都会なのだろうと、夢ははちきれんばかりに最大限に膨らんだのは言うまでもありません。
 フランク永井の恩師吉田正の軽快な都会的なメロディーは欠かせませんが、決定的なのは歌詞です。それらを生み出したのが日本の偉大な作詞家佐伯孝夫です。
 フランク永井への歌詞の提供は記録だけで83曲で、二位の宮川哲夫の61をダントツで引き離して最も多くあります。

 日本には西城八十、サトーハチロー、星野哲郎、阿久悠らを先頭とするそうそうたる方がおりますが、佐伯孝夫を偉大さということです筆頭格ではないでしょうか。生涯で三千篇を書いているといわれます。作詞家は語彙の巨大さを前提に、それぞれの言葉が持つ、言葉が聞く人に与えるイメージの理解さという点では天才的な才覚を有しているといっていいかと思います。文学者なんですね。
 戦中でも大変な活躍をしていますが、一貫しているのは民の感覚勘定に常にそっていたということだと思います。軍国主義的な世相では、どうしても民の生活を犠牲にして兵を鼓舞する、天皇のため、国家のためのようなものが求められる、というより、強制されます。だが、こうした偉大な先人たちの精神というか気概は、命令する人たちのそのレベルをはるかに超えているために、余裕で巧みに矛先をそらしながら、傑作をのこしていることに感心せざるをえません。
 1981(S56)年に78歳で亡くなられていますが、その生涯に敬意をはらって、佐伯孝夫大全集(LP8巻)が編纂されました。その紹介で早稲田大学の後輩だが著名な学者八巻明彦氏がさまざまなエピソードを披露しています。そのなかで下記のような歌いだしの最初を紹介しています。決して戦争の悲惨さや暗さを出さない、見事な表現をしています。

 恋は楽しや 街に 空には憧れが住むよ
  「僕の青春」藤山一郎 昭和八年(1933)
 あきらめましょうと 別れてみたが 何で忘りょう 忘らりょうか
  「無情の夢」児玉好雄 昭和十年(1935)
 雪の満州に 夕陽は落ちる 故郷じゃ父さん 達者でいてか
  「守備兵ぶし」小野 巡 昭和十一年(1936)
 忘れらりようか あきらめらりょか 何もいわずに別れはしたが
  「雨の酒場」灰田勝彦 昭和十二年(1937)
 男純情の 愛の星の色 冴えて夜空に 唯一つ あふれる想い
  「燦めく星座」灰田勝彦 昭和十五年(1940)
 明日はお立ちか お名残り惜しや 大和男子の 晴の旅
  「明日はお立ちか」勝太郎 昭和十七年(1942)
 紫けむる 新雪の 噂ふり仰ぐ この心
  「新雪」灰田勝彦 昭和十七年(1942)

 友と語らん 鈴懸(すずかけ)の径(みち) 通いなれたる 学校(まなびや)の街
 これは、「鈴懸の径」灰田勝彦 昭和十七年(1942)です。ご存じ佐伯孝夫の代表曲のひとつです。灰田有紀彦(勝彦の兄)が作曲したもので、こちらは灰田の母校立教大学の小径です。いまも人気が高い曲で多数の方がカバーしています。小畑実や佐良直美は有名です。
 ちなみに、フランク永井のカバーは残っていません。きっと何度も歌っていると思いますが、レコードにはされていません。「鈴懸の頃」というのをフランク永井は最後のSP盤に残していますが、これは同名のテレビドラマ(朝日放送)の主題歌で、清水みのる作詞、大野正雄作曲作品です。
 佐良直美との写真で思い出したのですが、佐伯孝夫の写真はほとんどがモノクロで、カラーは珍しく、しかも全身と思える写真で大変貴重です。

 佐伯孝夫は戦後吉田正と黄金コンビを作っています。このお二人はビクターだけでなく歌謡界の帝王のような位置でした。お二人のコンビで作った歌はほとんどがヒット曲でした。吉田学校の門下生はもちろん、先述の八巻明彦氏によれば、歌った歌手は214人、組んだ作曲家は85人にのぼるとのことです。
 吉田正は年齢的に十余歳下で、自分の先生は佐伯だと生涯思っていました。佐伯の人思いは相当なもので、得た巨額の著作料は関係者との飲み代、遊び代に費やしたようです。一般人の想像を絶する額を湯水のことく使うことならではの感覚は、他の追随を許さない作品になって表れ他とも言えます。「潮来傘」など。
 その感覚は「有楽町で逢いましょう」でも言えます。百貨店そごうの東京進出での募集を目にとめ、佐伯独特の感覚でビジョンが出来上がった結果とも言えます。
 吉田正はこの曲で自分はようやく「作曲家」と名乗れる自信がついたのだと後日語っていました。吉田はそれまで(結果生涯なのだが)飲み遊びではすべて佐伯に支払ってもらっていましたが、有楽町...の後の支払い時に、今回だけは私に支払わせてくれと言ったそうです。佐伯は「気持ちはわかるが、十年早い」と一喝されたといいます。
 1967(S42)年、作詩家として初めて紫綬褒賞。1973(S48)年に勲四等旭日小綬章。1980(S55)年日本レコード大賞特別賞に輝きました。
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 NHKラジオ深夜便は、今年も放送してくださいました。ありがたいことです。例年のことですが、3時台「昭和歌謡往年の名歌手フランク永井作品集(Part.1~2)」です。
 パート1は10月14日、パート2は命日の翌日28日でした。11曲+10曲で、計21曲が楽しめました。私はいつものことですが、パート1は聞き逃しました。アンカーはNHKきってのアナウンサー石澤典夫。

01.西銀座駅前
02.場末のペット吹き
03.夜霧の第二国道
04.有楽町で逢いましょう
05.公園の手品師
06.こいさんのラブ・コール
07.ラブ・レター
08.俺は淋しいんだ
09.夜霧に消えたチャコ
10.東京ナイト・クラブ
11.君恋し

01.霧子のタンゴ
02.赤ちゃんは王様だ
03.二人だけのワルツ
04.妻を恋うる唄
05.星影の小径
06.オール・オブ・ミー
07.ウーマン
08.あなたのすべてを
09.霧子のタンゴパートⅡ
10.おまえに

 最初の曲は「西銀座駅前」ですね。当時のファンのどきもを抜いた曲。何とも変な歌なのだが、フランク永井がさらりと歌うと、不思議にマッチするというか、いかにも都会の夜の歓喜が表現されています。これを他の歌手がどう歌っても、なかなかそうはいかない。
 1965年に「イエス・オア・ノー」という曲を出していますが、いきなり聴く人をあっけにとらすというのでは似ています。フランク永井ならではの歌唱力ですね。
 パート1の曲はいずれも、フランク永井の人気が爆発的人気を得た初期のものです。「こいさんのラブ・コール」は、その後フランク永井が西日本でも大きく人気を得たきっかけを作った曲です。これがあって、東北出身のフランク永井が、関東で、西日本でと全国的なファン層を得たといえます。
 当時の曲の多くは、映画化されています。主演は大映や日活のスターですが、フランク永井は欠かせない役で登場しています。そしてその中で主題歌も歌ったりしています。

 後半はフランク永井の歌の幅の広さを紹介しています。「ふたりだけのワルツ」は1964年発売の、LV-373-NHK-あなたのメロディー第1集収録曲です。これは2019年にシリーズ発売された「日本の流行歌スターたち(1) フランク永井 有楽町で逢いましょう〜追憶の女」に初デジタル化でリリースされました。
 自分でも「ワルツのフランク」といっていただけに、すばらしい作品になっています。
 さらに「星影の小径」が流されました。矢野亮作詞、利根一郎作曲の大名作でビクターの同僚小畑実の歌がオリジナルです。この曲は1967年にフランク永井がカバーしてシングルでリリースしました。最近では「フランク永井ザ・カバーズ」に収録されています。
 この曲が再度有名になったのは、ちあきなおみがCMでアカペラ歌唱を流したことでしょう。ちあきなおみは別に「黄昏のビギン」を同様にCMで流して、多くの視聴者が「歌っているのは誰?」「何の曲?」と問い合わせが多数あったと聞きます。ちあきなおみも歌がうまいことで定評がありますからね。
 「星影の小径」は大変多くの歌手がカバーしています。なかでも秋元順子のカバーはいいですね。

 「あなたのすべてを」についてはカバー曲ですが、しんみり来る曲です。フランク永井が部隊を降りる1985年の11月にリリースされたレコードです。最後のシングルになります。
 作詞作曲の佐々木勉自身も歌っていますが、そのオリジナルは、徳川芽里が1967年に出したレコードだとのことが紹介されました。
 パート2では、今回、フランク永井の21周年記念リサイタルからの、巧妙なトークとともに珍しく「霧子のタンゴパートⅡ」が紹介されました。フランク永井が歌手として乗りに乗った時期の歌唱が楽しめました。
 このリサイタルの模様はこのブログでも詳細を紹介しています。1977年に「輝ける21年の足跡」としてアルバムがリリースされました。1999年に「ステレオによるフランク永井のすべて」でCD-BOXとしてデジタル化されています。
 近藤進の指揮で原信夫とシャープ&フラッツの演奏が実に軽妙です。会場にいたような気分になりました。

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