フランク永井歌コンクールでの白井審査委員長が残された記事の再録2

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 フランク永井歌コンクール審査委員長だった白井信幸さんが、5月27日にお亡くなりになり、当ブログでは2回にわたり、白井先生が書き残された記事を紹介させていただきました。やはりフランク永井歌コンクールで書かれた記事を2点、追加で紹介させていただきたいと思います。
 フランク永井のファンにとっては、大変貴重な記事です。

◆「おまえに」作詩家岩谷時子さんのこと(2014年 第6回フランク永井歌コンクール)
審査員長 白井伸幸
 作詩の岩谷時子さんが旅立たれたのは、昨年10月25日だった。フランクさんの命日と二日違い、何かの因縁だろうか? お目にかかった時の第一印象は、清楚でしとやか、何事も控え目で古き良き時代の上品な女性といって良いだろう。それでいて書かれている詩の内容は激しく情熱的である。
 「ため息の出るようなあなたのくちづけに」「熱い砂の上で裸で恋をしよう」(恋のバカンス)「濡れた身体で駆けてこい」(お嫁においで)
 あるプレイボーイがいった。あんな詩を"お時さん"(岩谷さんの愛称)が善くとはとても信じられない。それは「ベッドで煙草を吸わないで」である。彼、曰く、男女の交わりのあとの一服はとても美味しいのだそうだ。それを男性ではなく女性が書いていることが凄い。そして冗談に消防庁と禁煙協会の推薦だともいった。その頃は今と違って喫煙はごく当たり前だった。
 「夜明けのコーヒー 二人で飲もうと」(恋の季節)欧米人には一夜を共に過しましょう、の意味だそうだが、日本人は喫茶店でのモーニングコーヒーの感覚。それをさらりと使える作詩家である。
 越路吹雪さんのマネージャーでもあった。彼女の代表作となった「愛の讃歌」は日劇で上演された「巴里の唄」で、二葉あき子さんが喉を痛めて休演となり、急遽、越路さんに回って来て、演出の山本紫郎さんが一晩で書けといったもの、原詩は「空がくずれおちて、大地がこわれても、恐れはしない」。
 そして「あなたのためなら黒髪を金髪にしましょう、祖国も裏切りましょう」が「あなたの燃える手で、あたしを抱きしめて、ただ二人だけで生きていたいの」になった。
 フランクさんの「妻を恋うる唄」では「エプロンのはし、まさぐりながら」。「おまえに」は「そばにいてくれるだけでいい」。
 激しい恋の歌から一転して四畳半的な詩となり、亭主の帰りを待っている恋女房の風情とあり、まさに言葉の魔術師である。
 ご自分の恋愛体験について問われると「実生活で恋をして、傷つけ、傷つけられたりするよりも、作る歓びの方が大きかったんだと思いますね。歌の中でたくさん恋をして来ました」と匂い立つよう華のある、柔かな物腰で語られたと言う。

◆「夜霧の第二国道」(1015年 第7回フランク永井歌コンクール)
 日本の大衆歌謡に最も多く使われる自然現象は「雨」が圧倒的に多い。曲名は無論のこと、詩の中にはごく自然に使われている。次いで「雪」。太宰治の春の紀行文「津軽」の「七雪」として、こな雪・つぶ雪・わた雪・みず雪・かた雪・ざらめ雪・こおり雪、と並べている。
 雪そのものに、こんなに多くの表現があるとは驚きである。さて「霧」。雨や雪ほどではないが、心理描写としてよく使われる言葉だが、濃霧は出てこない。山や海で濃霧となると死と隣り合わせになるので歌には適さない。
 四大夜霧曲と先輩に教わったことがあった。「夜霧のブルース」(ディック・ミネ)「夜霧の第二国道」「夜霧に消えたチャコ」(フランク永井)「夜霧よ今夜も有難う」(石原裕次郎)である。
 霧の中でも夜霧は別格のようで、ロマンが漂う。「霧が流れるビルの影」という歌詞があった、山や海の霧ではなく街の中では、恋を助長するようで、戦後間もない頃の名画「哀愁」は、霧のロンドンと呼ばれるくらい霧の多い街を舞台に、ロバート・テイラーとヴィヴィアン・リーの美男美女によるラブス・トーリー。街の霧に慣れない日本人に、それを意識させる映画だった。
 銀座のクラブで飲んだあと、吉田先生とスタッフは、フランクの運転する中古の外車で横浜までドライブ。まだ高速道路もなく、自家用車も普及していない頃。第二国道は格好のドライブコースだった。
 東京湾からの湿った空気が、ほどよい夜霧を生み、ヘッドライトの光がロマンチックな情景を醸し出す。この曲「有楽町で逢いましょう」(昭和32年12月)と同じ年の10月発売で、有楽町の方が目立つが、専門家筋では圧倒的に夜霧の方が評価は高い。
 理由は前奏にある。#に♭そして♮の臨時記号の音をふんだんに使った、下降旋律が当時の歌謡曲としてはモダンすぎるぐらいだった。また、フランク永井という歌手はそれが似合う稀有の人であった。

 付録としてと言えば、大変失礼ですが、2008年第1回フランク永井歌コンクールという記念すべきときに、フランク永井の実姉の永井美根子さんが、開催にあたっての、ご挨拶の記事を掲げておられました。
 初回のときには、まだフランク永井はリハビリ療養中でした。永井さんの歌コン開催をフランク永井と共に喜んでおられた気持ちが察せられます。この年の10月27日に、23年間の療養生活に終止符をうち旅立たれました。

◆御礼 ご挨拶
 この度、故郷旧松山町の有志の方々の御尽力で「フランク永井歌コンクール」が催される運びとなりまして、大変驚き、また感謝いたしております。
 弟清人が「フランク永井」の名で歌手活動を始めました頃、恩師の作曲家吉田正先生に認められ「夜霧の第二国道」「有楽町で逢いましょう」等、数多くのヒット曲を作っていただき、一時フランクは「吉田メロディー」の歌手として、多くの方々の支持をいただくことになり、誠にありがたいことでございました。
 その彼が舞台を降りまして、早二十年余りとなりましたが、現在も彼の歌を愛して下さる多くの方々に励まされながら、療養生活を送っております。
 フランクの歌が長く歌い継がれますのは大変ありがたく、それが故郷松山の「町おこし」になりますならば、この上ない光栄に存じます(私も弟の傍でいつの問にか二十年が過ぎました)。
 この催しに温かい御支援、御協賛を頂きました関係各位の皆様と、郷土の皆様に心から厚く御礼申し上げます。
「コンクール」に参加の皆様、頑張ってください。
 平成20年2月20 東京都在住 永井美根子

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このページは、文四郎が2021年7月11日 16:23に書いたブログ記事です。

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