2021年7月アーカイブ

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 オリンピックが開催されています。無観客の開会式という異様な、史上初のことです。世界を震撼させているコロナ禍がその変容の理由のようですが、いかがなものでしょうか。
 東京では2千人近い「感染者」数が報じられている最中です。昨年に「延長」が決定されたときの「危機的な状況」を思い起こすと、現在はその比ではなく、オリンピック中止の決定が、躊躇なくなされても、誰も文句をいう人はいないと思われます。
 現に、この間の世論では、7~8割の人びとが開催の中止を望んでいました。一週間ほど前の朝日新聞の投書欄に「日本の民主主義、どこへ行った?」という記事が掲載されました。大学兼任講師をされている方の原稿です。
 圧倒的に多数の人が中止を求める中で、実行するのでは、民主主義はどこへ行ってしまったのだと言っています。ボブ・ディランの「風に吹かれて」の歌詞を五輪関係者に送るというのです。「いったい どれだけの人が死ねば あまりに多くの人を亡くしたと 悟るのだろう...」
 オリンピックの開会式をテレビで見ました。ほとんどの時間は参加国からの選手の入場なのですが、それでも開会式の目玉が近年は当然視されていて、それは何かという興味と期待です。今回の五輪2020では、何だったのでしょう。
 技術的には北京五輪で登場しましたが、今回は1824台のドローンの整然とした飛行技術が目を引きました。またパナソニックが長年の研究の蓄積から実現したプロジェクト・マッピングのどきもを抜く鮮やかさだったでしょうか。
 だけど、8割以上のあらかじめ用意した映像に2割程度の現場映像を差し込んだ映像は、ただただ現場ではなく、過程でテレビ映像をして楽しもうという視聴者向けで、果たしてそれはいかがなものかと感じざるをえませんでした。
 生放送の緊張感、エラーやハプニングといったライブでは欠かせない要素が登場するスキがまったくないのです。放送の前時間にわたって、まったくそつのない映像でした。別な角度で見れば、会場の熱気とか感性とか、選手の感情が遠い絵で、視聴者に伝わらない冷たい映像でもあります。映画やドラマと同じで、全時間分を事前に作って、リアルタイムのライブだよといっている感じです。

 フランク永井のエピソードに特化したこのブログで、いったい何を言っているのかと思われる方もいると思います。まぁ、フランク永井がらみの話題はそんなにありませんので、この機会にもう少し触れてみましょう。
 オリンピックは今年でいったんやめて、出直した方がいいですね。少なくとも近年のオリンピックは、一言でいえば「利権」まみれで、フェアや平和とは無縁になっているからです。ネットでKAJIさんという方が印象的な表現をしていました。
 東京2020は最初「復興五輪」というスローガンでした。2011年の東日本大震災。福島原発事故からの復興をうたいたかった意図はわかります。だが、それは「アンダー・コントロール」のフェイクな言葉がばれたように、使い続けられず「アベノミクスの第四の矢」に差し替えました。つまり、景気が悪いので景気をよくし、経済が活性化した証としての東京五輪にするというわけです。
 景気など良くならないままで襲ってきたのがコロナです。そこでスローガンはまたもや「人類がコロナに打ち勝った証としての東京五輪」に変更され、収まる気配がないので「安全安心の五輪」へと変化しました。
 もともとオリンピックは「市」が全責任で行うというものでした。つまり、東京都が、その地域で、予算も持って開催するのです。ところが、何やかにやの理由をつけて「国」が介入し、何々委員会とか、スポンサーとか、映像権とかが参戦して、ぐちゃぐちゃとなり、予算も軽く桁違いまでなりました。
 責任者、指揮者、ボスが乱立し、誰もコントロールできなくなり、当然責任をとるものが誰なのかわからなくなり、税金でカネをだす一般人には、しらけしかありません。このようななかで、いくら「スポーツ精神」「世界の平和の祭典」を掲げても、しらじらしさしか感じません。
 全力を投入してこの場に臨んできた選手たち、競技で技量を純粋に競い合う。これは観る人に感銘を与えます。それを楽しみに待っていた人も、世界中におります。こうした人びとを、利権にまみれた亡者たちが裏切ったのです。未来をになう子供たちに、申し開きのできないことをしている現状は、五輪をやめて、頭を冷やして、出直すしかないのではないでしょうか。

 前号で「昭和は輝いていた~平和・反戦」を取り上げました。読者から聞かれましたので、私の知る範囲で書きます。「平和・反戦」とフランク永井との関連性は、直接的にはありません。現代は特になのですが、芸能人は「政治色を表に出さない」ことで、幅広い層に親しまれようとしています。タブーですね。だが、この番組に登場した人たちや、当時のフォークで反戦を真正面から掲げた歌手はおります。上條恒彦らは立派だと思います。
 フランク永井の時代では、初期の時期に関西労音での人気や、広島平和音楽祭への参加などが、平和運動への関与で記録されています。沖縄返還まえの1965年に「おきなわ」を、1972年の広島平和際では「幼な子よ」を歌っています。後者はレコードになっていません。
 デビュー前は周知のように米軍基地で仕事をし、朝霞キャンプで歌っています。歌が好きだったためで、何より生活のためでした。政治色は美空ひばりなどの他の歌手と同じと言っていいのではないでしょうか。
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 ユニークな歌謡曲番組放送で独走しているBSテレ東が、先日に日本歌手協会歌謡祭プレイバックとうたい、1985(S60)年開催の第7回歌謡祭のダイジェストを放送しました。
 以前にもこのブログで紹介したのですが、ここでフランク永井が最初で最後の出演を果たしています。その貴重な映像が放送されました。
 この回は、番組でも事前に目玉としてフランク永井をとりあげていますが、その際にもう一人あげたのが坂本九です。彼はこの年の驚くべき事件であった「日本航空123便」で不慮の事故にあいました。
 同じ年に奇しくも舞台を降りた二人の出演する映像記録だけに、たいへんファンから注目されていたもので、このたびの再放送は、期待を裏切らない番組となりました。
 フランク永井は映像的にも最後となるような歌唱でした。坂本九は「見上げてごらん夜の星を」を熱唱しました。ちなみに、この大ヒット曲はフランク永井がみごとなカバーをしています。

 さて、BSテレ東は「武田鉄矢の昭和は輝いていた」というユニークな番組が人気です。2013年に始まったようですが、翌年から「武田鉄矢の」を番組名につくようになりました。武田鉄矢の独特の語りとうんちくが面白いのですが、そればかりでないのは、取り上げるテーマが、しっかり昭和のポイントを押さえていることが、人気の土台になっていると思います。
 先日は「悲恋・未練・道ならぬ恋の唄」という特番がありました。流行歌の多くは、まさに、これがテーマです。だから、どのヒット曲をとりあげてもいいようなものなのですが、戦前・戦中からこれはという曲で、かつ映像が残されているものを放送されました。
 さすがにテレ東、というか、以前は「東京12チャンネル(略して12チャン)と呼んでいましたが、歌謡曲、流行歌を安定的に流して生きただけあって、映像記録の数も抜きんでています。テレ東ならではの、珍しい貴重な曲が聴けました。
 ここでは、武田のコメントなして、フランク永井の「君恋し」と松尾和子の「再会」が流れました。松尾の「再開」は、恩師吉田正の自薦の最高傑作といわれるだけに、聴いていて胸を打ちます。

 この番組で、この夏特別に推したいプログラムがありました。それは「反戦歌平和を歌う歌」という週のものです。歌と反戦という、少し難しいテーマを、ずばりと真正面から扱いました。
 ゲストは、写真のように小室等、新谷のり子、竹村淳(楽ジャーナリスト)です。武田も彼らも登場したのはベトナム戦争の時代に重なるのだが、番組は先の対戦に関係している歌もちゃんと押さえています。
 フランク永井とは深い親交もあった藤田まことが、舞台で「さとうきび畑」を熱唱しました。圧巻でした。初めて聞きましたが、彼の実兄が戦地に赴き、帰ってこなかったということが語られ、自宅に届いた手紙が紹介されました。当時、同じような経験をした家族は多かったはずです。
 「さとうきび畑」は、有名な歌で、多くの歌手が歌い続けています。私は当時上条恒彦が歌声喫茶で歌っていたのが個人的に印象深く、記憶しています。確か彼のファースト・アルバムにあって(このときのタイトルは「サトウキビ畑」)、何度も聞いたのを覚えています。
 敗戦の年の8月は、2発の核が日本で使われました。記念日はまもなくきます。コロナ禍という世界的なまるで戦時下であるようなロックダウン、緊急事態宣言下にあります。そうしたなかで、核や戦争の廃絶というまさに反戦が、多くの方々から語られる季節です。
 番組を観て感じたことがあります。この忌まわしい戦争と、それを当時盛り上がっていた反戦への参加の行動から、彼らが感じたというポイントについてです。
 一つは、歌手の新谷が歌った「フランシーヌの場合」の歌詞についてです。「ホントのことを言ったら、あまりにも悲しい...ホントのことを言ったら、オリコウになれない...」です。
 もう一つは、小室市等が最後に「当時は被害者として反戦歌を歌ってきたが、今は加害者としての目線をしっかり持つ必要もある...」と語っていたことです。
 戦争というテーマは、あまりにも大きく、圧倒的過ぎて、ひとりひとりのレベルでは、無力でしかないという空気だといって、けっして言い過ぎではありません。そのなかで、紹介した二つのポイントは、考えるうえで、何か的を得たヒントを語っているように感じたわけです。
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 フランク永井歌コンクール審査委員長だった白井信幸さんが、5月27日にお亡くなりになり、当ブログでは2回にわたり、白井先生が書き残された記事を紹介させていただきました。やはりフランク永井歌コンクールで書かれた記事を2点、追加で紹介させていただきたいと思います。
 フランク永井のファンにとっては、大変貴重な記事です。

◆「おまえに」作詩家岩谷時子さんのこと(2014年 第6回フランク永井歌コンクール)
審査員長 白井伸幸
 作詩の岩谷時子さんが旅立たれたのは、昨年10月25日だった。フランクさんの命日と二日違い、何かの因縁だろうか? お目にかかった時の第一印象は、清楚でしとやか、何事も控え目で古き良き時代の上品な女性といって良いだろう。それでいて書かれている詩の内容は激しく情熱的である。
 「ため息の出るようなあなたのくちづけに」「熱い砂の上で裸で恋をしよう」(恋のバカンス)「濡れた身体で駆けてこい」(お嫁においで)
 あるプレイボーイがいった。あんな詩を"お時さん"(岩谷さんの愛称)が善くとはとても信じられない。それは「ベッドで煙草を吸わないで」である。彼、曰く、男女の交わりのあとの一服はとても美味しいのだそうだ。それを男性ではなく女性が書いていることが凄い。そして冗談に消防庁と禁煙協会の推薦だともいった。その頃は今と違って喫煙はごく当たり前だった。
 「夜明けのコーヒー 二人で飲もうと」(恋の季節)欧米人には一夜を共に過しましょう、の意味だそうだが、日本人は喫茶店でのモーニングコーヒーの感覚。それをさらりと使える作詩家である。
 越路吹雪さんのマネージャーでもあった。彼女の代表作となった「愛の讃歌」は日劇で上演された「巴里の唄」で、二葉あき子さんが喉を痛めて休演となり、急遽、越路さんに回って来て、演出の山本紫郎さんが一晩で書けといったもの、原詩は「空がくずれおちて、大地がこわれても、恐れはしない」。
 そして「あなたのためなら黒髪を金髪にしましょう、祖国も裏切りましょう」が「あなたの燃える手で、あたしを抱きしめて、ただ二人だけで生きていたいの」になった。
 フランクさんの「妻を恋うる唄」では「エプロンのはし、まさぐりながら」。「おまえに」は「そばにいてくれるだけでいい」。
 激しい恋の歌から一転して四畳半的な詩となり、亭主の帰りを待っている恋女房の風情とあり、まさに言葉の魔術師である。
 ご自分の恋愛体験について問われると「実生活で恋をして、傷つけ、傷つけられたりするよりも、作る歓びの方が大きかったんだと思いますね。歌の中でたくさん恋をして来ました」と匂い立つよう華のある、柔かな物腰で語られたと言う。

◆「夜霧の第二国道」(1015年 第7回フランク永井歌コンクール)
 日本の大衆歌謡に最も多く使われる自然現象は「雨」が圧倒的に多い。曲名は無論のこと、詩の中にはごく自然に使われている。次いで「雪」。太宰治の春の紀行文「津軽」の「七雪」として、こな雪・つぶ雪・わた雪・みず雪・かた雪・ざらめ雪・こおり雪、と並べている。
 雪そのものに、こんなに多くの表現があるとは驚きである。さて「霧」。雨や雪ほどではないが、心理描写としてよく使われる言葉だが、濃霧は出てこない。山や海で濃霧となると死と隣り合わせになるので歌には適さない。
 四大夜霧曲と先輩に教わったことがあった。「夜霧のブルース」(ディック・ミネ)「夜霧の第二国道」「夜霧に消えたチャコ」(フランク永井)「夜霧よ今夜も有難う」(石原裕次郎)である。
 霧の中でも夜霧は別格のようで、ロマンが漂う。「霧が流れるビルの影」という歌詞があった、山や海の霧ではなく街の中では、恋を助長するようで、戦後間もない頃の名画「哀愁」は、霧のロンドンと呼ばれるくらい霧の多い街を舞台に、ロバート・テイラーとヴィヴィアン・リーの美男美女によるラブス・トーリー。街の霧に慣れない日本人に、それを意識させる映画だった。
 銀座のクラブで飲んだあと、吉田先生とスタッフは、フランクの運転する中古の外車で横浜までドライブ。まだ高速道路もなく、自家用車も普及していない頃。第二国道は格好のドライブコースだった。
 東京湾からの湿った空気が、ほどよい夜霧を生み、ヘッドライトの光がロマンチックな情景を醸し出す。この曲「有楽町で逢いましょう」(昭和32年12月)と同じ年の10月発売で、有楽町の方が目立つが、専門家筋では圧倒的に夜霧の方が評価は高い。
 理由は前奏にある。#に♭そして♮の臨時記号の音をふんだんに使った、下降旋律が当時の歌謡曲としてはモダンすぎるぐらいだった。また、フランク永井という歌手はそれが似合う稀有の人であった。

 付録としてと言えば、大変失礼ですが、2008年第1回フランク永井歌コンクールという記念すべきときに、フランク永井の実姉の永井美根子さんが、開催にあたっての、ご挨拶の記事を掲げておられました。
 初回のときには、まだフランク永井はリハビリ療養中でした。永井さんの歌コン開催をフランク永井と共に喜んでおられた気持ちが察せられます。この年の10月27日に、23年間の療養生活に終止符をうち旅立たれました。

◆御礼 ご挨拶
 この度、故郷旧松山町の有志の方々の御尽力で「フランク永井歌コンクール」が催される運びとなりまして、大変驚き、また感謝いたしております。
 弟清人が「フランク永井」の名で歌手活動を始めました頃、恩師の作曲家吉田正先生に認められ「夜霧の第二国道」「有楽町で逢いましょう」等、数多くのヒット曲を作っていただき、一時フランクは「吉田メロディー」の歌手として、多くの方々の支持をいただくことになり、誠にありがたいことでございました。
 その彼が舞台を降りまして、早二十年余りとなりましたが、現在も彼の歌を愛して下さる多くの方々に励まされながら、療養生活を送っております。
 フランクの歌が長く歌い継がれますのは大変ありがたく、それが故郷松山の「町おこし」になりますならば、この上ない光栄に存じます(私も弟の傍でいつの問にか二十年が過ぎました)。
 この催しに温かい御支援、御協賛を頂きました関係各位の皆様と、郷土の皆様に心から厚く御礼申し上げます。
「コンクール」に参加の皆様、頑張ってください。
 平成20年2月20 東京都在住 永井美根子
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 フランク永井の「ステレオ・ハイライト」シリーズの第3巻から第6巻が、6月23日に再販されました。配信限定アルバムです。
 フランク永井のこのシリーズは、1964(S39)年~1966年の間に6巻発売されました。フランク永井のアルバム、つまりLP盤は彼の歌謡界での活躍の始まりと重なります。
 SP時代から、盤が割れにくく軽い材質によるEPの時代に急速にメディアが変化し、シングル盤に対して、片面に4~8曲ほど入れた長時間のLP盤が世に出ました。
 レコード会社は例外なく、1960年ごろにSPを止めEP/LPに移行します。しかし、初期のEP/LPはまだモノラル盤です。フランク永井の人気の上昇にともない、ビクターは彼につけた「魅惑の低音」を使い、モノラル盤の「魅惑の低音」シリーズを発売し、大いに売れました。これは、1958年の第1集から1963年の第13集まで発売されました。
 13集でシリーズが終えたのは、時代がステレオ時代に急速に移行したためです。ビクターは「魅惑の低音」を引き継ぐ形で制作に取り掛かったのが「ステレオ・ハイライト」シリーズです。
 写真のように、当時のビクター所属の人気歌手であった方のシリーズも出されました。いしだあゆみ、和田弘とマヒナスターズ、吉永小百合、橋幸夫、青江三奈、三沢あけみ、松尾和子、松島アキラ、ジャニーズ、三田明、中尾ミエのをあげました。確か森進一のもあったと思ったのですが、探せませんでした。
 フランク永井の初期のヒット曲は、モノラルです。「ステレオ・ハイライト」シリーズを出すにあたって、人気の曲をステレオで再吹込みをしました。これらは、ファンが首を長くして待っているのをみて、まず「ステレオ魅惑の低音傑作集」(1962:SLJ-13)としてリリースされました。
 「ステレオ・ハイライト」シリーズでは第1集に、人気曲を12曲選んで発売しました。ビクターの音声技術陣が存分に腕をふるった作品です。
 それだけに、この盤は品質的によく、ビクターは2015年に、同じく配信限定アルバムとしてリリースしています。第2集も発売されました。
 「配信限定アルバム」というのは、インターネットでの有料ダウンロード方式です。この時期は、ハイレゾと称する高音質の音源が追及され、通常のCDレベルの音質よりも、さらによい音で聴けるファイルを提供するというものです。
 ハイレゾについては、以前にもこのブロクで何度かとりあげました。ハイレゾを業界でいろいろな角度から研究されてきましたが、当時オンキョーとビクターにより開発陣が、最初に取り組んだのがフランク永井の作品です。
 1981年にリリースした「オール・オブ・ミー」のオリジナル・テープを素材に選びました。これも録音時に技術陣が、その時点での総力をそそいで制作したものだからです。
 このハイレゾ音源もオンキョーから配信されています。

 話が逸れましたが「ステレオ・ハイライト」シリーズの再販が、2巻で止まっていたのは、何故だったのでしょうか。それは、わかりません。ビクターでは恐らく、技術をさいたぶん、回収できるほど売れるか、ということはあったと思われます。もうひとつは、2巻以降のアルバムには、3~4曲のオリジナル曲が入っていることが、何らかの検討課題に上がったのかも知れません。
 アルバムはそれぞれの巻で12曲ですが、2巻以降はその時点までに、シングルレコードとして発売し、それなりに売れた、あるいはビクターが推したい曲を収めているのですが、3~4曲はその巻のために、新たな曲が作られているのです。
 つまり、アルバムでファンに新曲をぶっつけるという方式は、どう判断したらいいものかです。実際に、このシリーズには、シングル盤で発売されていない曲が、全部で17曲入っています。現在の時代であらためて聴けば、それなりに完成したイイ曲ではあるのですが、当時の時代では大半が大きな人気を得た曲ではありません。
 だから、今回どういう理由で3~6の巻の発売に至ったのかは興味があるところですが、逆に、この17曲は大きなラッキーチャンスを得たとも言えます。フランク永井の歌った曲で、まだまだデジタル化され発売されていないのがあるなか、あらためて社会の目にさらされるわけです。しかも、ハイレゾです。以下がその17曲です。
 第2巻:新大阪小唄、さすらいの雨が降る、男、頬をよせあい灯を消そう
 第3巻:東京ラブ・タイム、郷愁、愛する
 第4集:琴の雨、夢のワルツ、東京バカンス
 第5集:あの娘は何処に、悲しみのスーツケース、銀の十字架、夜の歌
 第6巻:小指、もんく、長いまつげ

【データブックの訂正】
この機会に、修正してお詫びいたします。P27のステレオハイライト第2集、P62の表、19行目に追加します。
並行線の街(1963:VS-1132)

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