2021年6月アーカイブ

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 原信夫がお亡くなりになりました。94歳の大往生でした。フランク永井と同時代をきらびやかに駆け抜けた盟友です。こころからご冥福をお祈りいたします。
 原信夫とシャープ・アンド・フラッツはフランク永井とジャズで深い交流があって、1970(S45)年の歌手生活15周年記念リサイタル「ある歌手の喜びと悲しみの記録」、1976(S51)年「輝ける21年の足跡」21周年記念リサイタルで、華麗な演奏を添えてくれました。
 フランク永井はもともとジャズ歌手を望んでいただけに、その後流行歌手として大歌手の道を歩みつつも、ジャズへの愛着は離れることがありませんでした。
 地方公演でも、リサイタルなどでも、かならずジャズをプログラムに入れて披露しています。進駐軍のキャンプを回っていただけあって、本場のリズムを身に着け、ジャズの奏でる軽快な世界を表現しています。
 見事と言っていい「16トン」とか「オール・オブ・ミー」「アンサー・ミー・マイ・ラブ」など、彼の歌への入れ込みもすごいものですが、世界的に誇れる歌唱が楽しめます。いくつもジャズアルバムが発売されています。近年では「フランク、ジャズを歌う1,2」「ザ・カバーズ~ジャズ・スタンダード」などがあります。
 このフランク永井が原信夫と相性が悪いわけはありません。前田憲男などもお仲間でした。前田もそうですが、原もジャズの世界だけではなく、歌謡界の世界でも大きな貢献をされています。前田はフランク永井のカバー曲の多数の編曲をしました。「誰よりも君を愛す」「アカシヤの雨がやむとき」はときどき聴いています。
 原信夫とシャープ・アンド・フラッツは、江利チエミとか美空ひばりとも演奏で多数の共演をしていますが、多くの人の記憶にあるのは、当時のNHK紅白歌合戦での演奏でしょう。
 1963(S38)年から9回紅組の演奏を担当しています。もちろんですが、当時のNHKの歌番組の演奏の常連でした。
 昭和歌謡とくくられる戦後の一時代(実際の昭和は戦前、戦中を含む)、荒廃した街が次つぎと復興されます。活気がみなぎります。歌で癒され、みんなで聴いて励まされた、そのような時代です。輝いていました。
 その時代の歌謡曲やジャズをリードした原信夫に感謝します。

 中心の写真は、フランク永井とジャズ仲間、原信夫と演奏仲間です。この仲間との語らいのひとときは、お二人とも何とも言えない満悦の表情で満たされています。
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 小林亜星がお亡くなりになりました。小林亜星については、当ブログの2019年7月に「【番外編】希代のヒットメーカー小林亜星「昭和は輝いていた」での放送」で紹介しています。文四郎的に勝手に昭和歌謡史に側面からの巨大な大衆文化遺産を付加した三大鬼才のおひとりと評価したものです。ちなみに、あとのお二人は浜口庫之助と山本直純です。このお二人についても、当ブログで書きましたので、ご興味おありの方は閲覧していただければ甚大です。
 小林亜星は、自分の好きなことを生涯ブレずにやり通した人として、尊敬しています。88歳の大往生であったと思います。
 フランク永井が活躍した時代と小林亜星の活躍した時代は重なります。フランク永井のことをいろいろ追っていると、必ずといっていいほど、小林亜星がコマーシャルやアニメや流行歌のトップで登場するため、自然に覚え、活躍分野の広さに感心し、興味をもってしまいました。
 結果的ですが、日本の歌謡史に関係した資料はおそらく、50冊程度はあさりました。小林自身が書き残したのも多数あるのでしょうが、彼の「あざみ白書」(改題「軒行灯の女たち」)を読み、そこで彼が記した「資料は正確に、オチは荒唐無稽に」というひとことを見て、妙に感心しました。
 これは人生論でもありますね。
 誰でも自分の生活の周囲にはさまざまな事象が現れ、過ぎ去っていきます。それを何気なく見過ごし、時の流れに身をまかせて、浮草のように漂うように人生を送る人もいないわけではありません。しかし、事象を注意深く見つめ、その事象と自分との関係を、目的意識的に分析して、背後にある普遍的な真実を見極めたいという人もおります。
 小林亜星はそのような後者であったと思うわけです。だが、そのことを自ら口にはせず、その素振りもせず、仕事の結果に反映させます。周囲は結果しか知りません。作品が、パッとみて「えっこんなの...」と思っても、実際にテレビで流れると、多くの人びとが受け入れ、反響を返します。その実際をみて、初めて小林亜星の力に驚くわけです。
 見た目はただのデブな、目立ちたがりの、ダメ親父ではないか、と見えても、生み出す作品は世の誰もが真似のできないもの、それが小林亜星だった。
 もう遠い前のことだが、勤務していた会社では社員旅行がありました。そこで亜星の作ったCMの「日立の木」をハワイの公園で見たのも思い出です。
 同時代を駆け抜けたもい一方、エレキの神様とも呼ばれた寺内タケシの訃報も流れました。軽く触れたギータの弦がアンプを通して、爆発的な音として大きなスピーカーから飛び出す。それが大観衆を沸かす。おそらく、演奏する側も聴く方もこれには驚いたでしょう。妙な感動を呼んだことは確かです。
 メロディーは電気的な高音とやかましさに埋もれ、文四郎的には静かさの方が好まれたものです。しかに寺内も生涯己の道を歩み切ったことには、敬意を表すだけです。
 心からご冥福をお祈り申し上げます。
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 フランク永井の歌唱は誰でもが認めるすごさを持っています。古い話です。先の大戦が終わってから10年後の1955(S30)年に「恋人よわれに帰れ」でデビューし、1985(S60)年に舞台を降りました。
 ちょうど30年の活躍ですが「有楽町で逢いましょう」「君恋し」「おまえに」など多数の大ヒットを残し、昭和歌謡に偉大な足跡を残しました。
 「魅惑の低音」というキャッチが冠されました。当時日活の俳優だった石原裕次郎とならんで、低音の歌声を社会に響かせ、皆の耳に忘れられない印象を残しました。
 不幸な事件で消えた後、多くの人たちが彼の声を惜しみました。盟友で「東京ナイト・クラブ」でゴールデン・デュエットを組んだ松尾和子は、すっかり歌への情熱を失い「フランク永井と一緒に舞台に立てないなんて...」と嘆きの言葉を残しています。
 恩師吉田正を先頭にする制作陣営も同様に、衝撃を受けました。そして、ビクタースタッフで、フランク永井のような歌唱をもち、その築いてきな「都会派ムード歌謡」を歌える歌手を探すプロジェクトを開始しました。
 このプロジェクトは静かな潜伏状態で行われたと思え、その詳細はわかりません。だが、それから数十年経過して、当時関係した人たちがいろいろな場所で、わずかですが、雰囲気をチョイ出ししています。それらを統合して見てみると、およその像が見えてきます。
 結果的には、フランク永井の後継は見いだせなかったということです。だが、いくつかの余波は財産となって残されています。
 現在文四郎的に言えるのは、五木ひろし、ささきいさお、山川豊の三名です。
 五木ひろしについては、ご本人が吉田正という偉大な作曲に直接指導を受けたということを述べております。そこで正式に「有楽町で逢いましょう」を残し、これを含めたアルバムを作っています。「吉田正作品集」(徳間ジャパンコミュニケーションズ-‎ B00005GGAV)、「魅惑の吉田正メロディーを歌う」(ファイブズエンタテインメント-FKTX-5017)です。
 ささきいさおは「おまえに」と「雪の慕情」を残しました。「雪の慕情」は、フランク永井が第2回リサイタルで披露した長編歌謡組曲を3分のシングルに再編成した作品です。吉田正の直接指導で作りました。
 山川豊はご存知、兄の鳥羽一郎と兄弟で活躍している歌手です。吉田正は彼の歌唱を聴き、これはフランク永井というより、山田真二のイメージがあうとのことで「哀愁の街に霧が降る」を、カバーというよりオリジナルとしてシングル発売を実現しました。
 どのような歌であっても、作詞+作曲+編曲+歌手の組み合わせ(裏方の企画+制作+販促はここでは控える)があり、その時代で生活する人々の胸にどう響くかによって、歴史的、社会的評価が決まります。この4つの関与者が、結果としてぴったりと意気照合したときに、社会は容赦ない評価をくだします。
 だから、時代を超えて、二世、後継者を探し、実現するということ自体が妄想となってしまう可能性が非常に高いわけです。しかし、フランク永井を惜しむファンや関係者にとって、それをトライするということは、わかっていても、揺り動かされるような、眼に見えない大きな力が働いたと思われます。

 文四郎的にも気持ちは同じです。ずっと歌謡界を追ってきました。今も活躍している三山ひろしは彼が初期に歌った若山一郎の「おーい中村君」を聴いたときに大いに感心しました。同じく松原健之が三橋美智也の「達者でナ」を歌った時も、その素直な歌唱に惹かれました。ちなみに「達者でナ」この二人が同時に歌っている映像も残されいます。
 これとは別に、何年か前から宮城県大崎市の方々と「フランク永井のイメージを保持した歌唱ができる人は」と話題にしたことがあります。
 ここで推されたのは、まず、同地で毎年開催される「フランク永井歌コンクール」の、第2回(2008:H20)で優勝した青山譲二さん。彼の「初恋の詩」の歌唱はすばらしく、後にCDをリリースしています。その後も数曲を発売しています。もう一方、徳間ジャパンコミュニケーションズの歌手、俳優である谷本耕治です。フランク永井のファンでもあり、大崎市松山を訪れています。
 さまざまな人を紹介してきましたが、文四郎的にもうひとり期待の新人を挙げます。テイチクの若い新人青山新です。伸びのある歌唱は、これからどう成長していくのか楽しみです。
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 白井伸幸先生がお亡くなりになったことは前の記事で紹介させていただきました。
 白井先生は、フランク永井ファンにとっては、毎年開催されるフランク永井歌コンクールでの、審査委員長としてのい顔がいちばんなじみ深かったのではないでしょうか。
 歌コンに行きますとパンフレットをいただきます。そこに記載された白井先生の記事を振り返ってみたいと思います。先生がいかにフランク永井の曲に造詣が深かったかを、しみじみ感じます。ここで改めて紹介して、記録にとどめたいと思います。

◆あの頃。「有楽町で逢いましょう」とその時代背景(2010年第3回フランク永井歌コンクール)

 「もはや戦後ではない」と第三次鳩山内閣がソ連との国交回復に向けて走りはじめた、昭和31年夏に言われました。言ったのは経済企画庁調査課長の後藤誉之助。
 自由民主党と社会党の二大政党による55年体制が確立され経済的にも力をつけて来た日本は、まさに「もはや戦後ではない」時代に来たのです。もともとは文学者の中野好夫が書いた評論の題名でした。戦後を持ち出せば背任を免れるとまではいかなくても、何事こも便利な言い訳になった。
 そろそろ日本人は「戦後」に甘える気分を捨てるべきだ。とそんな意味が込められていたのです。そして朝鮮戦争と米ソの冷戦状態に育まれた経済白書でした。(この頃から日本の官僚は大変に優秀で国家建設に大きく寄与し、なかには国会議員へと転出していきます。)
 その少し前は敗戦で卑屈になっていた日本人にわずかながら明るい希望を持たせたのが水泳の古橋広之進、橋爪四郎。ボストンマラソン優勝の田中茂樹、ボクシングの白井義男、プロレスの力道山。そしてここから高度成長が始まり、人々は東京へ東京へと集まり、集団就職等で東京の人口は膨む一方。
 更に大阪資本の進出で夜の銀座は社用族で一杯。そんな折の昭和30年7月、銀座三丁目文祥堂の裏に京都の「おそめ」が進出。木屋町仏光寺の店の頃から著名人に贔屓にされ、服部良一、大佛次郎、里見淳、吉井勇、川口松太郎、川端康成、白洲次郎等が通っていた店で夜の文壇、夜の政界、夜の財界とも呼ばれ各界の著名人が集まり盛況を極めました。
 昭和32年小説「夜の蝶」がJl口松太郎によって発表されます。銀座の一流店「エスポワール」と「おそめ」の葛藤を描いたもので映画にもなり、京マチ子、山本富士子の競演で話題になりました。
 銀座と言えば盛り場、繁華街と言えば銀座、地方都市の商店街も銀座にあやかって○○銀座の名が付いた程でその数は無数。夜の巷はウイスキーを飲むのがお酒落、サントリーがトリスパーのチェーン店をオープン。サラリーマン達はハイポールを口にし、耳にはアメリカ音楽が心地よい。
 そんな祈、吉田メロディーが登場する。今迄の日本歌謡とは違ったものだった。そして「おそめ」から遅れること二年、大阪の老舗デパート「そごう」が東京進出をする。場所はJR有楽町駅の前、丸の内の一角である。
 デパートのオープンならどうってことはない。キャッチフレーズが優れていた"有楽町で逢いましょう"これに目を止めたのが作詞家の佐伯孝夫先生。優れた作家は優れたプロデューサーでもある。「異国の丘」を日曜日のNIHK素人のど自慢大会を聴いて、あれは売れるからレコードにしようと、ビクターの文芸部へ持ち込み。
 その話を開いてNEKへすっ飛びレコード化させた磯部ディレクター。今度は岡田裕一ディレクターが「そごう」デパートへ行きレコード化の話をまとめる。作曲家の吉田正先生の苦闘が始まる。バーやクラブで酒を飲みながら会話の邪魔にならぬよう洒落たサウンド、メロディーでなければならない。
 メロディーは出来た。サウンド(編曲)はどうするか? 試行錯誤の未、ピアノ、ギター、ヴイプラホーンによる和音でサウンド構成。スマートだった。クールでいて何とも暖かみのあるもので、当時の銀座の雰囲気にぴったりだった。
 このヒットのお蔭で有楽町が西銀座と呼ばれるようになった。キャッチフレーズの良さ、フランク永井の魅惑の低音で「そごう」は開店と共に押すな押すなの大盛況。
 「おそめ」と共に関西勢の進出にマスコミはこぞって書き立てる。"ど根性"東京進出!と、その後新しいビジネスは関西発が多い。今ではごく当たり前のスーパーも関西(西宮)発、そしてこんな言葉も飛び出した"阪橋"華僑をもじってのことで商売は関西の意識が定着する。
 こんな話もある。飛騨の神岡鉱山で中年の主婦が年下の男性と恋に落ち駆け落ちしようとし、二人一緒だと他人の目があるので別々に汽車に乗ろうと話し合い、それで落ち合う場所は有楽町で逢いましょう。与太話ではない。昭和33年の新聞の社会面に掲載された記事です。それくらい「有楽町で逢いましょう」はインパクトがあった。
 そしてこの年「君の名は」で一躍全日本的に知名度の上がった数寄屋橋が取り壊されショッピングセンターとなる。
 江戸時代三代将軍、徳川家光の時、寛永六年(1629年)に幅四間、長さ三間の木橋が建設され、関東大震災で消失。
 石橋となった由緒ある橋も姿を消し、有楽町界隈は著しく変化して行きました。そして戦後の悲劇を書いたミステリーの名作「ゼロの焦点」松本清張作、が発表され、"デーオ"で脚光を浴びた浜村美智子の「バナナ・ポート」もこの年でした。
 舞台となった「そごう」は今、電器量販店に、有楽町のシンボルだった日劇はデパートに、数寄屋橋は菊田一夫の書で「数寄屋橋ここにありき」の石碑が阪急ビルの傍らに立ち、誰も気が付くことなくその前を足早に通り過ぎて行きます。
 そして「有楽町で逢いましょう」の歌碑は日劇跡のデパート前(有楽町マリオン)の植え込みの中に有り「ゼロの焦点」を合わせて読むと改めて、もはや戦後ではないの言葉が鮮烈に蘇ります。

◆「君恋し」(2013年第5回フランク永井歌コンクール)

〽宵闇せまれば、悩みは涯なし。「君恋し」を初めて聴いたとき、何て古くさい詩だろうと思った。宵闇は黄昏の方がいいのではないかと思ったくらい。
 昭和初期のヒット曲でナツメロのリバイバルと知って、あの頃はこんな言葉遣いだったのかと思った程度、二村定一のオリジナルを聴いたのは後年、編成課長時代、昭和流行歌史の復刻盤を手掛けた時だった。
 驚いた、4ビートでテンポが速く、古き良き時代のジャズなのだ、作曲の佐々紅華は当時のジャズミュージシャンでもあり、浅草オペラの指導者でもあった。それを三連リズムのロツカバラードにしたのは編曲の寺岡真三先生、戦後の日本ジャズ界を代表するジャズピアニストでもあっただけに、お手のもの、一方フランクさんはジャズシンガー、ジャズを通しての先輩後輩でもある。
 この曲のリズムは当時のダンスホールやキャバレーのピアニスト泣かせだった。何しろ最初から最後迄、三連符で弾きっぱなしなのだ。
 レコードでの演奏は当然寺岡真三先生、銃剣道五段の猛者だっただけに筋骨隆々。ジャズピアニストのオスカー・ピーターソンもそうであったが、超一流のピアニストは腕の筋肉が凄い!(女性もしかり)
 二村定一のオリジナル盤は3コーラス、フランク盤は2ハーフなので3番はカット、これはジャズの手法でお二人ならではの作り方。
 フランク盤にはないオリジナルの三番の4行目に「臙脂の紅帯、ゆるむも淋しや」と書かれている。作詞の時雨音羽が神田のカフェで飲みながら詩作を練っていたとき、結びつけない帯がずれたのを気にして体をくねらせている若い女給の姿にヒントを得たそうです。
 時雨・佐々のコンビで昭和4年に作られたこの作品はこのように時代を感じさせるものですが、それを払拭したのが寺岡先生の編曲、昭和36年のレコード大賞受賞はこの編曲にあったといっても過言ではないでしょう。フランクさんも見事にそれに応えた歌唱となったのです。

◆ご挨拶(2018年第10回フランク永井歌コンクール)

 第10回フランク永井歌コンクール、おめでとうございます。ひとつの催しを10回も続けることは容易なことではありません。
 それもフランクさんのレパートリーのみ、これはどんなカラオケ大会でも真似の出来ないことで、それだけフランクさんの歌が、多くの人に親しまれ愛されていたかを物語っています。
 更に言えば、その基を作った大作曲家吉田正先生の存在があればこそ、そして多くの出場者が異口同音に言われていることは、この会が町民の手作りであること、それがほのぼのとした暖かみを感じさせ、ともすれば賞狙いや、主催者の営利主義が目立つ他の大会とは違うことだそうです。
 人情紙風船のごとき今日の世情、この大会をいつまでも慈しみ育てたいものです。
 吉田メロディーの秘密は詩にあります。吉田先生は皆さんから「吉田都会メロディー」と言って頂くことはとても嬉しく光栄なことだが、本当は佐伯孝夫メロディーなんだよ、といって居られた。
 詩によってメロディーが変わって来るのだそうだ。佐伯先生の詩はとても自然でメロディーがすぐに湧いて来るのだそうだ。
 又、自分の作風に変化を持たせる為、積極的に他の作詞家との制作に挑戦された。井田誠一、山上路夫、志賀大介、そして宮川哲夫である。
 鶴田浩二の「街のサンドイッチマン」「好きだった」「赤と黒のブルース」等があり、フランクさんの「公園の手品師」はその最たるもので、晩秋、銀杏の葉が一片二片と散りはじめる姿を、銀杏を手品師に葉をカード(トランプ)に見たて、「カードをまくよ」の詩にしており、歌謡詩というより純粋詩に近い。
 発売後もなかなか売れずヒットチャートにこの曲が出ることはなかった、歌謡曲フアンには地味すぎたのだろう。しかし、三年、五年、十年と経つうちに口コミで広まり、今では吉田メロディーを代表する重要な曲のひとつになっている。

◆「冷たいキッス」(2017年第9回フランク永井歌コンクール)

 "つめた-いキッス"久し振りに会ったカラオケファンにいきなり唄い乍ら挨拶されたのには驚いた。
 フランクのフアンでもかなりコアな人でないと知らない曲、何でこの歌を知っているの? と訊いて更に驚いた。昨年のこの歌コンの客席で聴いたという。
 聴いた瞬間、背中がゾクゾクとしたそうだ。前奏8小節のなかに「つめた-いキッス」と二度のくり返しは意表を突いた形式。奇才渡久地政信先生の面目躍如たる作品。
 話によればカラオケ仲間で東北地方へ行こうとなり、ついでにフランクの歌コン参加しようとなったらしい。そういえば何人か顔見知りらしき人が居られたようだが、カラオケファンのマナーとして、審査員には声をかけないようになっているし、客席のうしろに居られるとまず判らない。
 このグループは仙台市内、松島、鳴子温泉へと4泊の旅。そういえば過去こうしたグループに何組かお会いした。
 この大会が宮城県の経済効果にささやかに貢献しているいるということか。感想を訊くと他に類を見ないレベルの高い大会、そして「冷たいキッス」を唄われた方は、とてもしっかりした歌唱で、洋服のセンスも良く若い頃はMMKだったと思いますの返事。
 玄人好みの粋な選曲だったと思う。思い出すのは第2回大会でG.Pとなった青山譲二さんが「初恋の詩」を唄われたが、ほとんどの人が知らなかった曲、それが今やこの大会の定番となりつつある。
 カラオケ大会でよくヒット曲のB面を聴くことがある。これは他の人とは違う面を表現したい為の強い個性の表われで歌唱力の高い人に多い。「冷たいキッス」も是非そうなってほしい。
 他にも唄ってほしい曲がある。「新東京小唄」や「加茂川ブルース」だ。「加茂川ブルース」はワンコーラスが短く、一番と二番を続けて唄ってワンコーラスとなっているので、もし応募があったらそのように扱ってほしい。
 フランクさんの優しく暖かい歌唱はそばに舞妓さんがいるようだ。

◆「フランクさんと落語」(2016年第8回フランク永井歌コンクール)

 フランクさんの落語好きは、つと有名。ジャズを唄っていた頃から寄席に通っていたという。ジャズ仲間でクラリネット奏者の北村英治さんも落語好きという点では人後に落ちない。趣味の合う者が集まると、ご贔屓についての話になり順位を決めたがる。
 落語では誰が何といっても古今亭志ん生、生き様そのものが落語、三遊亭囲生は学者肌、三遊亭金馬は歯切れが良く聴いて気持ちが良く、エッセイとしても有名、限定500部の「浮世断語」(小生‰326を所持)は読んでいておもわず笑ってしまう。
 桂文楽は楷書の噺家と言われたぐらいきちんとしていた。このひと達程ではないが"通"と言われる人達に愛される噺家がいる、八代目三笑亭可楽、フランクさんのご贔屓だ。そこへライバル登場、北村英治さんである。二人で延々と可楽論を述べたというから普通ではない。
 コロムビアから可楽のアルバムを発売されることを耳にしたフランクさんは一筆、書かせて欲しいと申し込んだ。コロムビアにしてみれば嬉しい話だが、ライバル社のスター歌手に依頼するわけにはいかず、北村英治さんにお鉢が回った「いやーフランクの機嫌が悪くてね、しばらくは口も利いてくれなかったよ」可楽はそれくらい味のある噺家だった。
 ジャズコンサートも歌手もステージでは司会者を必要とした時代、その代表的なものは戦後、最初の大歌手となった岡晴夫の司会者、西村小楽天。ところがフランクさんも北村英治さんも落語で培った話芸が身に付いていた為、司会者を必要としなかった。
 後年、著名な司会者玉置宏さんと元NHKアナウンサー山川静夫さんに司会をしてみたい歌手はの質問に二人共フランク永井!
 フランクさんにいつもお世話になっている私はお歳暮に広島のカキを目黒の自宅に贈って、しまったと思った。フランクさんは同じくカキの産地、宮城の人だ。
 そのことを言うと君ィ、カキは広島にかぎるよ、と落語「目黒のさんま」をもじっての言葉、こちらも思わず唄い手は目黒にかぎるようで!

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