【訃報】フランク永井歌コンクールの審査委員長だった白井伸幸先生

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 5月27日にお亡くなりになりました。心からのご冥福をお祈り申し上げます。
 白井先生はフランク永井とのかかわりでも、特筆すべき貢献をされた方として、ファンの皆さんの心に刻まれていいます。
 直接的にはプロデューサー時代に、洋楽のカバー「恋心」(1967:SJV-256)を制作しました。現在でも取り上げられる名曲カバーの初チャレンジでした。
 フランク永井の功績を受け継ぐ、おそらく唯一の事業となっている、宮城県松山市で毎年開催されている「フランク永井歌コンクール」で、2009年の第2回から2018年の第10回まで審査委員長という大任を果たされてきました。
 出場者への的確で丁寧なアドバイス、総評での見事ともいうべきお話は、会場の皆が認めるすばらしいものでした。そこでフランク永井との関係で話されるさまざまなエピソードを、会場は聴き続けられなくなりました。これから、フランク永井が住む同じ世界で、楽しく過ごされることと存じます。

 白井先生はビクターの歌謡学校の特別講師をされていました。その傍ら日本の歌謡曲の歴史についての整理などもされていたようです。まことに博学というご様子でした。私的には2015年のフランク永井の命日に東京で開催された7回忌の催しで同席させていただきました。また、歌コンの会場ではいつも、近くに席をとって、熱心な審査を見守ってきました。
 歌コンに限らず、一般の方が参加するのど自慢のような催しでの、審査をされる方々のお仕事の過酷さは尋常ではありません。ほとんど苦痛のようなものです。想像したらわかりますが、皆が聴かせる見事な歌唱だけではありません。それを2日間も聴き、採点するのです。
 歌コンの審査委員長は2019年開催の第11回から井上博雄先生に変わりました。

 白井先生が書き残された貴重な記事を紹介させていただきます。2016年に「メロディ・メイト」という専門誌に掲載されたもので、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」に関わる内容です(文字使いについて手直ししています)。

タイトル【「有楽町で逢いましょう」(番外編)作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正】

 野球の豊田泰光さんがこの8月4日に亡くなられた。(享年81歳)日本シリーズ三連覇の偉業を成し遂げた西鉄ライオンズの遊撃手、1953年新人王、1956年には打率3割2分5厘で首位打者となった強打者。1番玉造、2番豊田、3番中西、4番大下、5番関口の打撃陣に名投手稲尾を擁したライオンズは、巨人がV9を達成する迄は無敵だった。
 この豊田さんがこのコーナーとどんな関係があるのか、と訝しく思われるだろう。実は吉田先生とは茨城県人の先輩と後輩の間柄で先生がもの判りが良く、出来の良い長男で、豊田さんは気は強いが甘えん坊の末っ子とみれば良いのかも知れない。福岡からの試合のため上京されたとき、暇が出来ると宮田宅へ訪れておられたようだ。
 先生が亡くなられた夜、離れの一部屋に安置され、喜代子夫人を抱きかかえるようになぐさめていたのが、吉永小百合さん、私は言葉もなく次の部屋にいた。そこへ豊田さんが顔を出された。多くの弔問客は先生との関係は知らないし、野球人との付き合いがないため、顔は知っているが声はかけられない。
 豊田さんも同様である。目ざとく私を見つけ「白井ちゃん、先生のお通夜だ、飲もう」といって水割りを持って来られ、それぞれの想い出を語った。水割りのお代わりを作るのが三田明さん、何とも贅沢なひと時だった。
 そして「有楽町で逢いましょうは俺がレッスンを受けていたんだよ」には吃驚。そして口ずさんだ。何と3拍子。「トヨさんそれ3拍子だよ」というと「何拍子かそんなこと、俺に判るわけないだろう!」「習った通りに唄ったんだ!」。
 レッスンの数日後、福岡へ電話がかかって「トヨ!あの曲フランクに唄わせるからいいな」「どうぞどうぞ、フラングさんはプロ歌手だし、私は一介の野球選手ですから構いません」と返事をしたんだ。
 この話で私にはビンと来るものがあった。作曲家は勿論、画家もそうで、もの作りに熱中すると周囲が見えなくなるようだ。ベートーヴェン然り、貧困を窮めた画家のモリジアニやゴッホもそうだ。先生の場合、曲が出来ると維かに唄わせ、そこから微調整される(このことは一例として平成25年12月号の「メロディ・メイト」に記載)。「有楽町で逢いましょう」を最初に吹込んだのは三浦洸一さんだと見て来たようなことを書いた人がいた。これも豊田さん同様、レッスンをされたのだろう。
 その結果、3拍子だったものが4拍子の都会的なものになり、大ヒット。フランクさんは大スターに、先生は押しも押されぬ大作曲家の地位につかれた。
 ヒット曲には地下を流れる伏流水のようなものが入り交り、目に見えない部分が非常に大きい。「あのヒット曲は俺がアイディアを出したんだ」とか、「知恵を貸したんだ」という類の話が多く、暇な人が数えたら30人近くいたというが、あながち嘘ではないと思えるのは、ヒット曲が出来るのは1+1=2のように単純ではないからだるう。
 作削こ対する先生の厳しさは図り知れないものがある。一例をあげると、詩を持って依頼に行く。ワープロで打った原稿は受け取られなかった。筆やペンの墨や、インクの濃淡、文字の線、留め、払い、跳ね等で、作詩家の気持ちのこめ方、感情を汲みとろうとしておられたのだ。だから佐伯孝夫、吉川静夫、宮川哲夫、藤田まさと、の詩では、吉田メロディーであってもメロディーの雰囲気が違うのだ。豊田さんがレッスンを受けた3拍子の「有楽町で...」は、思いが強かったのか、のちに吉永小百合さんが唄った「泥だらけの純情」にその面影を見い出せる。そして豊田さんに新曲をプレゼントされている「男のいる街」「さいはての旅愁」昭和33年1月発売(V-41762)のA、B面、いずれも佐伯孝夫作詩。
 野球選手や大相撲の関取には、唄の上手い人が多い。胸隔が広く肺活量があるため、軽く唄っても一般人よりも声が良く響く。豊田さん、当然のことながら声も良いが、仲々の歌唱力、ひょっとしたら歌手としても成功した人かもしれない。いまごろ、あちらでは「トヨ!新曲のレッスンをするぞ!」と言われているかも知れない。合掌。

 少し長めだが、以上が白井先生の記事です。
 恩師吉田正と豊田さんは特別な関係でした。そのくだりを、豊田さんが自ら語っています。2004年6月号の「常陽藝文」です。それをここで紹介させていただきます。この号は「吉田正とごの時代」という特集がされている貴重なものです。関心のある方はぜひ購読をお勧めします。

タイトル:【年は違うけど、いい遊び友達でした】

 初めてお会いしたのは、僕が西鉄ライオンズに入団して二、三年目ぐらいかな。親しく付き合うようになったのは、僕が首位打者になって、日本シリーズでも活躍した昭和31年のシーズンオフからです。そのころ『プロ野球歌の祭典というテレビ番組があって、僕が歌ったのを聞いた吉田先生が「お前.歌うまいな」と。「当然でしょう。プロ野球界一です」って(笑)。しばらくしたらレコーディングって話になって、嫌だと言えなくなりちゃってね。
 レコーディング曲に先生のところでレッスンするんだけど、すぐにマージャンとか一杯飲むとかになって、レッスンなんて何回もしなかったな。当時は僕と家内がまだ付き合ってたころだったんで、「トヨ、歌え」って先生に言われて、電話口でレッスン中の歌を歌わされたこともあった。「どうだ、うまいか?」なんて先生が家内に聞いてね。家内は今でも先生が大好きですよ。
 若いころの先生は、健康的で恰幅が良くてね。マージャンやっても「夜明けの正」なんて言われて夜明けになると強くてね。飲む時も必ずハシゴ。先生は銀座の並木通りが好きで、八丁目から行くか一丁目から行くか、とにかくずーっとハシゴしていく。
 だから僕はどっちかの端に行って「先生来た?」って開けばいいわけ。「来ました」って言ったら四、五軒先に行って待ってる。「まだです」って言われたら逆からスタートしたわけだから、だいたいの見当を付けて店で待ってると先生がポロッて入ってくる(笑)。シーズンオフには先生をあてにして毎日遊んでたな。
 先生はせっかちでね。店でも水割り一杯飲んだらすぐ出るという感じで、とにかく急ぐんだよね、何をするにも。青春を戦争でとられたってことが影響してたのかもしれないね。でも苦しい時の話は絶対しない人でしたよ。シベリア抑留の話とか聞いてみたくて、何回も前を向けたんだけど、すぐ「トヨ、あん時のホームランはどんな気分だった?」なんて野球の話にすり替えられちゃって。よっぽど辛かったんだろうね。
 先生の郷里であり、僕の郷里でもある日立に吉田正音楽記念館ができるということで、僕も多少のお手伝いをさせてもらいました。
先生には随分タダ酒飲ませでもらったり(笑)、いろいろ世話になりたから、何か恩返ししたいと思ってたんですよ。記念館ができ、先生の曲が、これからも歌い継がれるというのは素晴らしいことですよ。郷土のほこりです。【談】

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このページは、文四郎が2021年5月31日 14:06に書いたブログ記事です。

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