2021年5月アーカイブ

mx20210531.jpg

 5月27日にお亡くなりになりました。心からのご冥福をお祈り申し上げます。
 白井先生はフランク永井とのかかわりでも、特筆すべき貢献をされた方として、ファンの皆さんの心に刻まれていいます。
 直接的にはプロデューサー時代に、洋楽のカバー「恋心」(1967:SJV-256)を制作しました。現在でも取り上げられる名曲カバーの初チャレンジでした。
 フランク永井の功績を受け継ぐ、おそらく唯一の事業となっている、宮城県松山市で毎年開催されている「フランク永井歌コンクール」で、2009年の第2回から2018年の第10回まで審査委員長という大任を果たされてきました。
 出場者への的確で丁寧なアドバイス、総評での見事ともいうべきお話は、会場の皆が認めるすばらしいものでした。そこでフランク永井との関係で話されるさまざまなエピソードを、会場は聴き続けられなくなりました。これから、フランク永井が住む同じ世界で、楽しく過ごされることと存じます。

 白井先生はビクターの歌謡学校の特別講師をされていました。その傍ら日本の歌謡曲の歴史についての整理などもされていたようです。まことに博学というご様子でした。私的には2015年のフランク永井の命日に東京で開催された7回忌の催しで同席させていただきました。また、歌コンの会場ではいつも、近くに席をとって、熱心な審査を見守ってきました。
 歌コンに限らず、一般の方が参加するのど自慢のような催しでの、審査をされる方々のお仕事の過酷さは尋常ではありません。ほとんど苦痛のようなものです。想像したらわかりますが、皆が聴かせる見事な歌唱だけではありません。それを2日間も聴き、採点するのです。
 歌コンの審査委員長は2019年開催の第11回から井上博雄先生に変わりました。

 白井先生が書き残された貴重な記事を紹介させていただきます。2016年に「メロディ・メイト」という専門誌に掲載されたもので、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」に関わる内容です(文字使いについて手直ししています)。

タイトル【「有楽町で逢いましょう」(番外編)作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正】

 野球の豊田泰光さんがこの8月4日に亡くなられた。(享年81歳)日本シリーズ三連覇の偉業を成し遂げた西鉄ライオンズの遊撃手、1953年新人王、1956年には打率3割2分5厘で首位打者となった強打者。1番玉造、2番豊田、3番中西、4番大下、5番関口の打撃陣に名投手稲尾を擁したライオンズは、巨人がV9を達成する迄は無敵だった。
 この豊田さんがこのコーナーとどんな関係があるのか、と訝しく思われるだろう。実は吉田先生とは茨城県人の先輩と後輩の間柄で先生がもの判りが良く、出来の良い長男で、豊田さんは気は強いが甘えん坊の末っ子とみれば良いのかも知れない。福岡からの試合のため上京されたとき、暇が出来ると宮田宅へ訪れておられたようだ。
 先生が亡くなられた夜、離れの一部屋に安置され、喜代子夫人を抱きかかえるようになぐさめていたのが、吉永小百合さん、私は言葉もなく次の部屋にいた。そこへ豊田さんが顔を出された。多くの弔問客は先生との関係は知らないし、野球人との付き合いがないため、顔は知っているが声はかけられない。
 豊田さんも同様である。目ざとく私を見つけ「白井ちゃん、先生のお通夜だ、飲もう」といって水割りを持って来られ、それぞれの想い出を語った。水割りのお代わりを作るのが三田明さん、何とも贅沢なひと時だった。
 そして「有楽町で逢いましょうは俺がレッスンを受けていたんだよ」には吃驚。そして口ずさんだ。何と3拍子。「トヨさんそれ3拍子だよ」というと「何拍子かそんなこと、俺に判るわけないだろう!」「習った通りに唄ったんだ!」。
 レッスンの数日後、福岡へ電話がかかって「トヨ!あの曲フランクに唄わせるからいいな」「どうぞどうぞ、フラングさんはプロ歌手だし、私は一介の野球選手ですから構いません」と返事をしたんだ。
 この話で私にはビンと来るものがあった。作曲家は勿論、画家もそうで、もの作りに熱中すると周囲が見えなくなるようだ。ベートーヴェン然り、貧困を窮めた画家のモリジアニやゴッホもそうだ。先生の場合、曲が出来ると維かに唄わせ、そこから微調整される(このことは一例として平成25年12月号の「メロディ・メイト」に記載)。「有楽町で逢いましょう」を最初に吹込んだのは三浦洸一さんだと見て来たようなことを書いた人がいた。これも豊田さん同様、レッスンをされたのだろう。
 その結果、3拍子だったものが4拍子の都会的なものになり、大ヒット。フランクさんは大スターに、先生は押しも押されぬ大作曲家の地位につかれた。
 ヒット曲には地下を流れる伏流水のようなものが入り交り、目に見えない部分が非常に大きい。「あのヒット曲は俺がアイディアを出したんだ」とか、「知恵を貸したんだ」という類の話が多く、暇な人が数えたら30人近くいたというが、あながち嘘ではないと思えるのは、ヒット曲が出来るのは1+1=2のように単純ではないからだるう。
 作削こ対する先生の厳しさは図り知れないものがある。一例をあげると、詩を持って依頼に行く。ワープロで打った原稿は受け取られなかった。筆やペンの墨や、インクの濃淡、文字の線、留め、払い、跳ね等で、作詩家の気持ちのこめ方、感情を汲みとろうとしておられたのだ。だから佐伯孝夫、吉川静夫、宮川哲夫、藤田まさと、の詩では、吉田メロディーであってもメロディーの雰囲気が違うのだ。豊田さんがレッスンを受けた3拍子の「有楽町で...」は、思いが強かったのか、のちに吉永小百合さんが唄った「泥だらけの純情」にその面影を見い出せる。そして豊田さんに新曲をプレゼントされている「男のいる街」「さいはての旅愁」昭和33年1月発売(V-41762)のA、B面、いずれも佐伯孝夫作詩。
 野球選手や大相撲の関取には、唄の上手い人が多い。胸隔が広く肺活量があるため、軽く唄っても一般人よりも声が良く響く。豊田さん、当然のことながら声も良いが、仲々の歌唱力、ひょっとしたら歌手としても成功した人かもしれない。いまごろ、あちらでは「トヨ!新曲のレッスンをするぞ!」と言われているかも知れない。合掌。

 少し長めだが、以上が白井先生の記事です。
 恩師吉田正と豊田さんは特別な関係でした。そのくだりを、豊田さんが自ら語っています。2004年6月号の「常陽藝文」です。それをここで紹介させていただきます。この号は「吉田正とごの時代」という特集がされている貴重なものです。関心のある方はぜひ購読をお勧めします。

タイトル:【年は違うけど、いい遊び友達でした】

 初めてお会いしたのは、僕が西鉄ライオンズに入団して二、三年目ぐらいかな。親しく付き合うようになったのは、僕が首位打者になって、日本シリーズでも活躍した昭和31年のシーズンオフからです。そのころ『プロ野球歌の祭典というテレビ番組があって、僕が歌ったのを聞いた吉田先生が「お前.歌うまいな」と。「当然でしょう。プロ野球界一です」って(笑)。しばらくしたらレコーディングって話になって、嫌だと言えなくなりちゃってね。
 レコーディング曲に先生のところでレッスンするんだけど、すぐにマージャンとか一杯飲むとかになって、レッスンなんて何回もしなかったな。当時は僕と家内がまだ付き合ってたころだったんで、「トヨ、歌え」って先生に言われて、電話口でレッスン中の歌を歌わされたこともあった。「どうだ、うまいか?」なんて先生が家内に聞いてね。家内は今でも先生が大好きですよ。
 若いころの先生は、健康的で恰幅が良くてね。マージャンやっても「夜明けの正」なんて言われて夜明けになると強くてね。飲む時も必ずハシゴ。先生は銀座の並木通りが好きで、八丁目から行くか一丁目から行くか、とにかくずーっとハシゴしていく。
 だから僕はどっちかの端に行って「先生来た?」って開けばいいわけ。「来ました」って言ったら四、五軒先に行って待ってる。「まだです」って言われたら逆からスタートしたわけだから、だいたいの見当を付けて店で待ってると先生がポロッて入ってくる(笑)。シーズンオフには先生をあてにして毎日遊んでたな。
 先生はせっかちでね。店でも水割り一杯飲んだらすぐ出るという感じで、とにかく急ぐんだよね、何をするにも。青春を戦争でとられたってことが影響してたのかもしれないね。でも苦しい時の話は絶対しない人でしたよ。シベリア抑留の話とか聞いてみたくて、何回も前を向けたんだけど、すぐ「トヨ、あん時のホームランはどんな気分だった?」なんて野球の話にすり替えられちゃって。よっぽど辛かったんだろうね。
 先生の郷里であり、僕の郷里でもある日立に吉田正音楽記念館ができるということで、僕も多少のお手伝いをさせてもらいました。
先生には随分タダ酒飲ませでもらったり(笑)、いろいろ世話になりたから、何か恩返ししたいと思ってたんですよ。記念館ができ、先生の曲が、これからも歌い継がれるというのは素晴らしいことですよ。郷土のほこりです。【談】
mx20210524.jpg

 前回の記事で触れたテーマの続きです。
 フランク永井が活躍していた古い時代の話です。1961年12月28日に神田共立講堂で第3回日本レコード大賞のセレモニーが催され、ここでフランク永井の「君恋し」が大賞を受賞しました。
 フランク永井はレコード大賞が創設された2年前の第1回の時には、水原弘の「黒い花びら」と「夜霧に消えたチャコ」で同点決勝を争い、大賞は水原にゆずり、作曲賞・歌唱賞を得ています。
 ちなみに、翌年には「月火水木金土の歌」で作詞賞、その次の年には「赤ちゃんは王様だ」で歌唱賞、1973年の15周年記念の回では記念賞、亡くなった2008年年には第50回特別功労賞を授与しています。
 フランク永井が「有楽町で逢いましょう」を歌ったのは1957年で、レコード大賞ができる前でした。この時期は一気に世で人気を得たことから、寝る間もないどほどの多忙をきわめました。
 本業の歌手として、テレビ・ラジオで引っ張りだことだったうえに、全国公演をこなし、映画や舞台でも大活躍をしていました。

 舞台や映画についてはときどきこのブログで紹介しております。前回記したのは「大当り三代記」と「真昼の罠」です。前者はまさにレコード大賞の年、1961年のものです。後者は1962年に封切りです。
 ちなみにこの大映制作「真昼の罠」は、人気に定評があった黒岩重吾の作品です。実は、ちょっとややこしいのですが、同名で1960年の映画があります。こちらは、松竹制作で、新人八木美津雄監督の推理アクションものです。ささきいさお主演です。
 フランク永井のレコード「真昼の罠」は1962年のリリースで、ジャケットに「大映映画「真昼の罠」主題歌」と明記されています。裏面の松尾和子の「黒い愛」も主題歌になっています。
 そのようなことで、映画を観てみました。ところが期待に反し、クレジットも主題歌をまったく確認できなかったというわけです。どのような事情かはわかりません。
 同じく全回記しましたように「大当り三代記」です。これもVHSにもポスターにも、出演者として「フランク永田」役「フランク永井」の記述は見当たりません。こちらはかろうじて居酒屋でのシーンで「こいさんのラブ・コール」の演奏が聴けるというのが慰めでした。
 当時はこのようなことがザラではないまでも、あっても当たり前のような時代雰囲気でした。

 余談を少しだけ。当時は関西勢によるドタバタな喜劇の絶頂期ではなかったのかともいます。出演者の顔ぶれがすごいです。「番頭はんと丁稚どん」「団地親分」といい、当時の常連は、伴淳三郎、芦屋雁之助、大村崑、曽我廻家五郎八、曽我廻家明蝶、花菱アチチャコ、ミヤコ蝶々、榎本健一、三木のり平、森繁久弥、浪花千栄子、ミヤコ蝶々、渋谷天外、藤田まこと、渥美清といったメンバーです。
 彼らがそれぞれ個性を芸で爆発させます。大げさな表情を見せますが、やや下品なところもあるのですが、本性丸出しと言ったところが芸なんですね。共通しているのは根っからの人情家で、悪者がいないという感じです。
 悪者はいないのだが、がめつさ、嫉妬深さ、欲たかり、カネへの執着といった、庶民にありがちな、政治による貧困の裏返しとしての側面をモロ出しします。
 そして、他人(ひと)以上に強がり、見栄っ張りを隠しません。つまり奥ゆかさとか思慮深さとかとは無縁ときてます。
 どの舞台でも共通して起こる事件は、私の勝手な分析によれば、早とちり、勘違い、思い過ごし、決めつけ、早飲み込みによります。そして、たいていは、途中で自分の愚かさに気づくのですが、絶対に素直に謝ることをしません。意地を通して、話をさらにややこしくします。
 こうしたことが、劇場にきている観衆の気持ちを砕けさせ、笑わせ、泣かせ、物語に入り込ませます。最後はちゃんと仲直りをして収まるのが定番だから、安心して鑑賞できます。
 関西喜劇の素晴らしさは、朝ドラでもあったと思うが、庶民がどうにも立ち向かえない政治の荒波のなかで発生する、心のうっぷんやもやもやを解消する一つの形を創造したことではないかと思います。
mx20210516.jpg


 NHK朝の人気ドラマ「おちよやん」は先週に終了しました。
 浪花千栄子の辛苦を明るく描いたドラマでした。浪花千栄子は一昔前になりますが、大変有名な関西に根を張った人気俳優でした。
 「水のように」という自伝を記しております。テレビのドラマになり、親交の深かったフランク永井が主題歌を歌い、レコードを発売しています。セリフがはいっており、浪花千栄子子自身が語っています(1965:SV-232 瀬川芳郎作詞、大野正雄作曲)。
 関西テレビで放映されたこのドラマには「幸せひとつ」という曲も添えています(藤本義一作詞、大野正雄作曲)。
 浪花千栄子の生涯のポイントはドラマで描かれていますが、当時の庶民の姿そのものでもあったことが、揺るがない人気の土台だったのではないでしょうか。
 自分ではどうにもならない貧困と戦争という禍が、身に覆いかぶさってきます。渦の真ん中でそれを受け止めるのですが、彼女のすごさは決してめげないことです。そして信じる自分の意志で、何事にも素直に接していくところが多くの人から、愛され続けたのではないでしょうか。
 浪花千栄子が活躍している時期、大阪の大衆演芸は大盛況でした。映画に舞台に多くの公演が催されましたが、その中に大阪労音の活躍がありました。宝塚の演出家が「大衆に歌で憩いを」との思いで、労音に次つぎと歌謡曲の歌手を呼び出演させました。
 フランク永井やアイ・ジョージや水原弘らがつぎつぎと出演して喜ばれました。フランク永井の「公園の手品師」「こいさんのラブ・コール」とか、人気の爆発はここからです。関西での人気は高く、藤田まことや浪花千栄子、ミヤコ蝶々と付き合いをし、演出家の藤本義一や花登筺といった第一人者と一緒に仕事をしています。
 花登筺が脚色した映画でフランク永井が関与したのは、「番頭はんと丁稚どん」(主題歌は「初恋ぼんぼん」「フランス航路」(1961:VS-464))の続々、続々々2本と「喜劇団地親分」(主題歌は映画で流れますが、レコードは発売されていない)です。いずれも顔出しで出演しています。
 ただ残念なことにビデオでの鑑賞(「みずのように」の復刻も聞かない)ができません。内容に何か支障があるのか、営業的に問題があるのかはわかりませんが、ファンとしては残念です。大阪のテレビ局で独自に作成されたと思えるドラマもあるようなのです(「こいさんのラブ・コール」とか噂を聞くのだが)が、これも復刻はともかくとしても、記録資料もわかりません。

 私的なことですが、仕事勤めを卒業してから、蔵書本を25箱の段ボールで処分したり、フランク永井のレコードを集める中で得たレコードを整理して、まとめて、やはり20余箱の段ボールで処分しました。
 借りているストック・ルームにまだいくつか開いていない段ボールがあるのに気づき、数か月前から処分のために整理中です。多くはゴミです。当時は自分にとって相当大事と思っていたものでも、今見てみると、何ということはないものがほとんどなのですね。
 前置きが長くなりましたが、VHS「喜劇団地親分」のことについては前に書きましたが、新たにVHS「大当り三代記」という映画です。とにかく、箱に収めたのは数十年前であり、仕事に専念していた当時のことで、情報が思い出せません。すっかり忘れていたものです。
 そこで、今はネットの時代なので早速調べてみながら、記憶を思い起こそうとしてみました。結果ですが、この映画に「フランク永田(どこかで聞いたことがある)」という名で出演しているという情報です。そして実際にそのVHSを鑑賞してみたわけです。しかし、フランク永井は見当たりません。
 これが原因ですね。フランク永田としての出演というのが誤記なのか、何かの都合で出演シーンが後日消されたのか。ただメロディーとして「こいさんのラブ・コール」は流れるところがあります。田宮二郎主演の「真昼の罠」(1962:VS-798)というのも、主題歌は確かに存在するのですが、映画ではどこにも出てきません。この例はあるので、驚くようなことではないのかも知れません。
 ゆえに、VHSを得たときも出演していなのに落胆して、記憶から消えていたのではないかというのが結論です。
 改めて「大当り三代記」を見てみると、当時の人気喜劇人が総出演しています。浪花千栄子と渋谷天外、藤田まこともおります。
 ミヤコ蝶々は、1974年にNHKこの人フランク永井ショー「母あればこそ」に共演しております。NHKビッグショーについても映像が残されていないのですが、ミヤコ蝶々との番組映像は、フランク永井主演番組で、残されているもっとも古いものです。
mx20210509.jpg

 フランク永井の代表曲の一曲「おまえに」は、数えるのができないほど多くの歌手にカバーされています。そのなかでも、同じビクターの佐良直美の歌唱が残されています。
 佐良の「おまえに」は、フランク永井の恩師吉田正の作曲家生活30周年を記念したアルバム「吉田正大全集~生命ある限り」11枚組です。その11枚目にビクターの歌手によるカバー作品がおさめられているのですが、その一曲がこれです。
 佐良直美は昭和歌謡の黄金時代の一角を飾った歌手でした。誰でも佐良と聴けば思い浮かぶのは「世界は二人のために」と「いいじゃないか幸せならば」ではないだろうか。発声がドーンというか「ストーン」としていて、通る声がたんたんとしていて、カラっとして印象的でした。歌唱に、まだまだ大きく強い声が出せるのだよというような余裕が伴っているから不思議です。
 佐良については、所属事務所が次のように紹介しています。

 【昭和42年難関であるNHK新人オーディションに10年に一人という優秀な成績でくぐりぬけ、同年4月異例の抜擢で「音楽の花ひらく」のレギュラーに起用され、新人とは思えぬ度胸のよさと歌の上手さでスタッフを驚かせたものです。
 同年5月オールスタッフプロに所属し、デビュー曲として発売された「世界は二人のために」が120万枚という大ヒットとなり、秋には新人ではやくもリサイタルをひらき同年のレコード大賞新人賞を受賞し、フレッシュで実力派の歌手としての第一歩をふみだしました。
 その後、テレビ・ラジオ等の歌番組はもちろんドラマにと幅広い活躍をみせ、大衆に親しまれる歌手へと成長していきました。
 昭和44年には日本レコード大賞を受賞し、日本レコード大賞新人賞・日本レコード大賞歌唱賞を合わせ、デビュー後わずか3年目にして歌手として最高の名誉に輝きました。
 昭和46年5月3日にオールスタッフプロより独立し(株)佐良直美音楽事務所を設立。作曲も手掛ける様になり、以前にも増し幅広い活躍をするようになりました】

 当時いかに高く評価されたかがわかります。佐良は歌手としての人気もさることながら、多くの人が忘れられないのは、紅白の見事な司会でしょう。
 第23回1972(S47)年をかわきりに5回司会をしています。ベテランの白組山川静夫アナやそうそうたる大歌手をまえにたじろいもなく、堂々と機転の聴いた落ち着いた司会っぷりが印象にあります。
 司会をしながらも歌手としても歌っています。24回での16回目の連続出場であったフランク永井の「君恋し」との対決をしていました。
 2014年佐良は「佐良直美ベスト・コレクション」というCD4枚組を発売しています。このなかに、表題の「おまえに」を入れています。大先生である吉田正の「大全集」に収録はされてはいても、佐良としてのアルバムでは発売していなかったこともあるのでしょうが、やはり、佐良なりに印象深い作品ではなかったのでしょうか。

 佐良直美については、多忙な歌手や司会の世界が続いていながら、避けられない職業病のようなポリープ治療で業界から身を引いていきました。
 紹介したCD発売もそうですが、数年前からテレビに名を出して当時のファンを驚かせました。
 家庭犬のしつけ教室「アニマルファンスィアーズクラブ(AFC)」を設立し、150匹の愛犬と精力的に生活をおられるとの話でした。
 『GOLDEN☆BEST~忘れ得ぬ名唱・佐良直美』(2007年)というアルバムもあります。これはビクターの専属歌手の第一人者であった佐伯孝夫の作品のカバーで『ビクター流行歌名盤・貴重盤コレクション第三期(14)鈴懸の径-佐伯孝夫~優しい詩集』作成時に歌い残した作品集です。
 佐良はここでは、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」を歌っています。こちらは、以前にこのブログで紹介していますが、2008年にビクターから「有楽町で逢いましょう」(VICL-62833)として、同曲を他のレコード会社の歌手たちを含む十四人のカバーが一枚のCDに収めたものです。
mx20210502.jpg

 先日に、さまざまな情報をよく寄せてくだささるKさんから連絡をいただきました。「渡哲也が『おまえに』を唄っているよ。聴く?」と。
 フランク永井の歌であれば、ご本人のはもちろん、著名人のカバーであれば、興味を持っていて、ほとんどなりふり構わず「聴かないわけがないでしょう」と、思わず口にしてしまいました。Why not? などという、いつか覚えた、しょうもないフレーズを久しぶりで思い出すというおまけまで付いて、自分の卑しさにやや嫌気を感じた次第です。
 さっそく聴いてみました。
 渡哲也のアルバムは、前に映画シリーズでも幾度か書きましたが、想像通りの、実に気楽で、力が入っていなくて、いい感じです。
 今回のアルバムを、よくよく見てみると、実にいろいろと楽しいことがわかります。石原裕次郎や渡哲也のファンは、どうも皆ご承知の話題のようです。私はフランク永井の大ファンを自認してはいても、ご両人については特別なファンであるわけではありません。そのため、今回のアルバムについては、教えていただいて、初めて知った次第です。
 2021年、つまり今年の2月に初リリースされたばかりのものでした。「石原裕次郎・渡哲也 プライベート2」です。
 テイチクは「全音源初CD化!石原裕次郎と渡 哲也のプライベート歌唱が甦る! ジャケット未使用写真を含む裕次郎100ページフォトブック付き!」という力の入ったアルバムでした。
 北陸の福井県の芦原温泉は裕次郎が先代のご主人ご健在の昔から利用されていた旅館「べにや」に、渡ら親しい人々とともに後日訪ねて、そこで宴会を催し、カラオケをやったとのことです。この時のプライベート録音の音源がソースになっています。
 その音源自身にもいわくが残っていて、後日べにやは火事になり、貴重なテープ等も被害を受けて再生が困難となっていたようです。その後、さまざまな思考トライを繰り返してほぼ復刻を果たして、今回のリリースとなったとのことです。
 注意書きに明記されていますが、ノイズや歌唱中のヨソの声とか、中断無音とかあります。気持ちの盛り上がった場での、くだけた歌唱であることから、覚えている歌詞や順番もバラバラです。だが、そのために、裕次郎と渡の、自由で自然な歌唱が存分に楽しめるアルバムになっています。
 その一曲に渡が唄う「おまえに」があるのです。テイチクの裕次郎とビクターのフランク永井は、現在での「都会派ムード歌謡」というくくりで同じ世界を歌う、最大の巨頭でライバルの関係として尊敬しあう仲でした。それゆえに、公式の場でも、全国を回る公演の場でも互いの曲をカバーで歌うことは避けていたと思われます。
 ただ、世論のニーズに押され、一度両レコード会社は公式に「交換」を合意して、両者のカバーを出しています。ご存知のように、フランク永井は松尾和子と「銀座の恋の物語」を歌い、裕次郎は「東京ナイト・クラブ」を出しました。
 他に「西銀座駅前」「夜霧の第二国道」「羽田発7時50分」「東京午前三時」「場末のペット吹き」などが裕次郎が歌われたようです。というのは、私自身全部を聴いていません。「君恋し」は以前紹介しましたが、もともとフランク永井自身の歌唱がカバーです。裕次郎は、フランク永井が歌った寺岡真三編曲の演奏ではなく、もともとの演奏での歌唱がレコードに残っています。
 フランク永井のほうは「夜霧よ今夜も有難う」「夜霧の慕情」「よこはま物語」「夜明けの街」「ブランデーグラス」などを残しています。渡哲也のでは「日暮れ坂」を歌っています。

 今回のアルバム名には「2」とあります。ということは「1」相当のアルバムがあるのではと察せられ、調べたら2019年7月に出ていました。
 これは裕次郎の映画デビューでありかつまき子夫人と初めて共演で知り合った「狂った果実」の挿入歌「想い出」が売りでした。1960年の結婚披露宴で夫妻で歌ったという音源が発掘されたことから、裕次郎がライブで残した自分のヒット曲や、懐メロヒット曲を集めた一枚と、渡哲也の一枚で構成されています。
 渡の歌も渡のマネージャーが録って残していたテープで、渡が他のヒット曲のカバーを歌っていて練習していたものだということです。
 そのアルバムでも裕次郎と渡は存分に個性を発揮しています。2つのアルバムはソースは異なりますが、多くの曲がダブっています。「旅姿三人男」「小樽の人よ」「岸壁の母」「長崎は今日も雨だった」「爪」「星の流れに」などが楽しめます。

 裕次郎のファンではないなどと最初に書きましたが、棚を見てみると、裕次郎のアルバムは十枚を超します。ときとど聴きますが、フランク永井とは違った聴き方ができるのがいいです。裕次郎は他では「歌手」と呼びますが、ご本人は手っ取り早く映画の資金を用立てらるから歌を歌ったが、最後まで「映画俳優」であると言っていました。
 だから聴いていて、フランク永井はあくまで「歌手」一本の立場で、歌唱に完璧だが、裕次郎の歌唱は一般の人の歌を聴くときのような気安さ、親しさが感じられます。

カテゴリ

月別 アーカイブ

このアーカイブについて

このページには、2021年5月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2021年4月です。

次のアーカイブは2021年6月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。