フランク永井第四回リサイタル 資料7 祝辞とエッセイ

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 フランク永井リサイタル「輝ける21年の足跡」

人間的な豊かさと気魄の勝利
日刊スポーツ・編集企画委員長 小倉友昭
 ひとりの男が、何の飾りもない広い舞台にたったひとりで立っている。
 男のすべてを露わにさせてしまうように、白いライトが、容赦なく光を浴びせかけている。広い空間に溢れる光は、男の、まったくの裸形を、舞台に注がれる多くの目にさらしている、といっても差支えない。見方によっては、極めて残酷なシーンといってもいい。
 もし、男に多くの目を納得させ得る何らかの内容がなかったら、これほど貧しく、哀しく写る風景はあるまい。だが、この日の男は、多くの目をはじき返す力感があった。広い空間を埋め得る量感があった。白々しく、素っ気ない光に士甚え得る充実感があった。
 1970年10月31日夜のことである。
 男はフランク永井。彼は、この日、東京・新宿・厚生年金金会館大ホールで、歌手生活15周年記念リサイタルを行った。芸術祭参加公演だった。男に限らず、女でも同じだが、歌手のリサイタルのオープニングは象徴的である。何時聞かの舞台時間を保ち得る力が、この一瞬に、凝縮されてしまうからだ。
 フランク永井は、身じろぎもしないで、この一瞬に立っていた。明るい照明の下で、長身とはいえない彼の身体が大きく見えた。
 多くの歌手は、この一瞬の董さに碓えかねて、オープニング・セレモニーを他の力に担わせようとする。実は、己の非力を、他力によって補わざるを得ないのである。己の力を悼み得ない貧しい柵神の所産でもある。
 いままで、余りに、貧しい精神から作られた舞台が多過ぎた。はっきり、リサイタルと銘打ちながら、実態は、リサイタルに値しないものが氾濫し過ぎた。
 それだけに、フランク永井が、オープニングで作り得た質感の高い舞台は、鮮烈な印象を与えたのである。
 実は、このリサイタルの成功を、このオープニングの一瞬が、予感させた、といっても過言ではあるまい。15年間歌い続けてきた歌手の歴史が、傭々10秒に充たない瞬間に集約されたわけだった。
 これは、構成の妙、演出の手腕といった外的条件の功というより、フランク永井という歌手の人間としての豊かさの勝利であった。
 歌だけを支えにして生きてきた人間の年輪の厚味が、はっきり示されたわけである。
 前後、約2時間20分にわたる舞台であった。この間、彼は、マイク一本だけを舞台上の共演者としただけであった。多くの歌手のリサイタルがが、ゲスト歌手あるいは、共演者との共同舞台になってしまう愚かを避けて、たったひとりで、長い時間を埋めきった。
 個々の歌について、いまさら言及しても始まるまい。ひとりの歌手が、15年間、歌い続けることができたのは、その歌の水準が、他を擢んでていたという結果である。
 歌の細部は、この結果を、もういちどはっきり見直すだけでいい。いいかえると、この結果は、何人をも納得させざるを得ない重さを持っているということだ。ある時間における声の常態、或いは歌の微細な表現などは、この結果を前にしてはとるにたらないことなのである。
 むしろ、そんな些細なことより以上に、長い歳月をかけて作り上げた己の歌の様式を、15年経った時点で、更に破ろうとさえ試みたひとりの歌手の執念、気魄が感じられたことの方が問題である。
 己が作り上げた型をこわそうということは難事である。しかも、それが、ほば完成に近し、常態にある場合は、尚更困難である。
 彼は、だが、敢えて、この難事を、15年記念リサイタルで行おうと試みている。この試みが、ある時は、己が作り上げた歌の型からはみ出してしまうような表現にすらなった。
 この心の沸りは、ほとんど2時間20分近い舞台に、脈々として波打っていた。
 そして、これが、聴衆の脚を、長い時間、会場から離れさせなかった原因になっている。
 常に、心を沸騰させていることは難かしい。しかし、舞台に立ち、歌う者は、少くともその舞台時間の中では、これを持続させなければならない。これが、舞台に立つ人の観客に対しての礼儀である。
 余りに多くの舞台が、安易に作られ、観客とのなれ合い、妥協の上に成り立っていた。本来の意味での芸は、これでは作り得ない.フランク永井は、15年記念リサイタルでこの悪弊を破った。
 オープニングの一瞬の緊張感は、実は、このフランク永井の気塊が支えたものだったのである。フランク永井はこの舞台で「完璧な歌唱力」に対して、芸術祭大衆芸能部門の優秀賞が贈られた。

フフンク水井と大阪もの
廣瀬 勝
 大阪ものをうたう歌手は多いが、大阪もののもつニュアンスから適時性、ファンの好みまで自分で選び、ピタリ「この曲」と決めた歌手はフランク永井ぐらいだろう。
 代表作「大阪ぐらし」がそれである。
 昭和三十九年。当時、十五万人の会員を容していた大阪労音(現新音)がはじめて歌謡曲に進出、フランク永井に白羽の矢をあてて例会をもった。私はプロデュースのような役目をもったが、その時、大阪の二人の才人、石浜恒夫、大野正雄に依頼して「晶子恋唄」「大阪ぐらし」などオリジナル三曲をステージに出した。
 なかでも「晶子恋唄」に私はすばらしい抒情を感じたが、長くつづく例会のなかば、ビクターの当時の担当ディレクター武田京子が、レコーディングの打ち合わせでやってきて、相談したとき、フランク永井が即座に「この曲がいい」と「大阪ぐらし」を決めた。おかげで「晶子恋唄」は悲恋におわったが、彼の勘はピタリと当たった。歌手が自分の好みで選んでヒットしたと見ても、例外的で面白い。
 「大阪ぐらし」のころ、フランク永井は実際に大阪ぐらしだった。なにしろ例会もフェスティバル・ホールで二十数回。それも労音だからほとんどが夜だけ。
 休みの日もあり、彼は二カ月近くを大阪のホテルでくらしながら、夜一回満員のホールでじっくりと歌い、あとは――。日本のタレント稼業では味わえない、ラスベガスに出演したスターなみの優稚な充実した生活だっただろう。その大阪ぐらしが勘に役立ったかもしれない。
 もっとも、フランク永井と大阪とのつき合いは、デビューのころからの古いものだし、そのころに大阪で現在の夫人と知り合っているから、根はもっともっと深い。
 フランク永井と大阪もので「大阪ぐらし」以上に評価しなければいけないのは「こいさんのラブ・コール」(昭和三十三年)だ。石浜・大野を組ませて歌謡界に進出させた、朝日放送制作のユニークなホーム・ソングである。
 これがヒットの皮切りで、そのあと、読売テレビ制作のドラマ主題歌で、鬼才といわれた故斉藤超の作品「大阪野郎」(昭和三十五年)とつづく。また「大阪ぐらし」のすぐあとには、石浜恒夫、吉田正の「大阪ろまん」(昭和四十一年)も大阪労音例会の続編として作られた。
 フランク永井の大阪ものは、はかにもだいぶあるが、ヒット曲に共通しているのは、制作基盤がレコード会社制作部でなく、大阪のどこかで出来ている点だ。これは単に異色とか見る以上に重要なことかもしれない。
 「有楽町で逢いましょう」や「夜霧の第二国道」でスター街道を走りはじめたフランク永井は、長い歌手の道程の中で、大阪の血を次々と輸血されて、その度に、新しい息吹きを見せてきたともいえるだろう。

熱烈なフアン
実川延若
 あれは、確か私が大阪の市内をいそがしく、南から北へ歩いていた時だったと思います。街角で聴いた、デビューしたばかりの頃のフランクさんの「公園の手品師」が、私の耳と心を強く引きつけました。
 そしてそれ以来ずっと、熱烈なファンとして自他共に認めて来ております。楽屋入りの時はもちろん、何処へ行くにもフランクさんの歌入りテープは離さず、時にはフランクさんがわざわざ楽屋をたずねて来ていただいた時など、歌舞伎の仲間から「延若さん、今日は良い日ですわ」と、はやされて...早いものでもう21年ですね。
 21年目のスタートを、なじみ深いナニワで、大阪文化祭参加のリサイタルとして幕切りされるわけで、今後も、ますますお元気でお活躍されますよう、お祈りしてリサイタルによせる言葉にいたします。

心の唄
みやこ蝶々
 唄は、心で唄うもの唄は、誰でも唄えるものだからむづかしいものです。心で唄い、胸で聞ける唄、そんな唄を聞かせてくれるのはフランクさんだと思います。

運・不運も才能のうち
伊藤 強
 かけ出しの新聞記者だったころ、仙台でフランクさんに会ったのが最初でした。地元宮城県の仙台、そこのレジャー・センターでのショーを取材するのが目的でした。
 右も左もわからない新米記者に、フランクさんはとても誠実に、ていねいに受けこたえをしてくれました。「写真を撮るなら、こっちのほうがいいでしょう」と、宿泊していたホテルの中庭を、あちこちと移動しでもくれました。
 あんなに、やりやすい取材ははじめてでしたし、あと味のいい思い出もはじめてです。"スター〟というものに持っていた、バク然とした不信感のようなものは、あのときから消えてなくなりました。
 その後何年か新聞記者をやり、いくつかのうれしい思い出も、あるいはしてやられた経験もあるのですが、まず基本的に、相手方を信用してかかったほうが、結果としては正しいものが得られる、という、貴重な認識を、フランクさんによって知らされたのでした。
 これは何にもかえがたい、私自身の財産になっています。歌手フランク永井としてというよりは、人間・永井清人からは、そういう貴重なものを学んだのでした。
 歌手として見た場合、その精密なまでに組み立てられだ歌の表現法、甘い声はもとより、西欧ふうの味わいを、歌謡曲のなかに持ち込み、それまでの歌謡曲にはなかったかたちの、モダニズムを確率したという点で、フランクさんはひとつのそびえたつ塔であろうかと思っています。
 しかもそれは、まこに細心な配慮によって、築きあげられたのです。もちろん才能のある人問によってのみ可能だったわけですけれど、天才の作業では決してない。
 言わば努力によって作り出されたものだといっていいでしょう。そこがすばらしいのです。この世界、運、不運が大きく作用する世界であります。しかし、運、不運も才能のうちという言いかたもあって、つまりはあらゆる要素が、うまく重なり合わないと、成功しないということなのです。
 現今、運にのみ恵まれて、一時のきらめきを獲得する"歌手"たちはいます。しかし、その運をいかに強固なものにしていくか、そういう努力がなされるケースがすくないように思うのです。
 紛れもなくフランクさんにはそれがあった。そしていまもある。"当り前のことですよ″と、彼は笑いながら言うかもしれません。しかし、あたり前のことが、あたり前におこなわれない時代でもあるのです。
 そんな時代に、これもまた人間の生きざまを、永井清人という人から学ばねばならないように思うのです。

フフンクとお酒
八巻明彦
 酒の話というのは、実のところ、大変に困ったテーマなんです。
 だって、そうでしょう。酒を飲みながら、明日の日本の将来を憂いでみたり、ミグ25によってもたらされる日ソ間の、今後の緊張状態について話し合ってみたとしたところで、どうなるものでもありません。
 一億一千万人もいる日本人の中には、それこそ、酔狂にも、そんな話でお酒が楽しい人も、ま、いないでしょう。
 しかし、私とフランクが一杯やって、そんな野暮な、それこそまったく、そんなショムナイ話をするわけはありません。
 お酒はやっぱり、楽しく飲まなくっちゃあ。時には、ハメもはずして...。
 なァンて書きますと、私、如何にも酒飲みのように聞こえますが、実は、それがサッパリなんで。そういやァ、フランクにしてからが、今でこそ、ブランデーをボトルで開けちまうの、酒は静かに飲みたいの...などといっているようですが、もとはといえば、だいたいが下戸の出。
 私が水割り二三杯でいい気持ちになって(オレも酒が飲めるんだなァ)なんぞと、無邪気に喜んでいた頃には、フランクだって、妙に赤いものをグラスに満たしたのを、チビチビやっているもんですから「フランク、何をなめてんだい?」と訊いたところが、これがスロー・ジン・フィズなどという気持ちのわるーいシロモノで...。
 実は、私、そのスロー何とかいうものは、未だ口にしたことがないので、何ともいえないのですが、ま、あんな赤いものなんざ、大したもんじゃないって、決めていたんですから、やっぱりフランクだって、ハナは大したもんじゃなかっただろうと、今でも思ってるんです。
 それが、お互い、何時の頃からか、生意気にも、イッパシの酒飲み面をしちまって、それぞれに、結構、恥なんぞを、あちこちで掻いて歩いたようで。
 でも、私とフランクの間のお酒なんてエものは、ただ何となくコンコロモチが寂しい時に、ちょっと飲もうか――などと、ま、実に他愛のない理由で杯を交わす程度で、古風にいやァ、君子の交り。
 水の如しという風なもんで、そりゃそうでしょう、向こうはブランデー、こっちはウイスキーの、どっちも水割りなんですから...。
 ただ、気に入らないことが一つ。ご承知のように、フランクは宮城県の生まれ。実は私も、何を隠そう同郷の出で、しかも、言語学的に言うてエと、私の方が「無アクセント地帯」という、要するに〝アクセント音痴〟の、ズーズー弁の本場の育ち。
 なのに、フランクと来たら、あろうことか、江戸弁やら関西弁を、自由自在にこなして、ほれ「こいさんのラブ・コール」なんぞという、私からいわせれば、不思議なヒット曲もある。
 しかし、まア、それはいいでしょう。フランクのヒット曲なんだから。気に入らないというのは〝自称後援会長″のこの私が、ムリして標準語を喋ると、ブラミズのきいてきた頃のフランクは、情容赦なく笑うんだ。
 これは、本来は、別稿の親友・佐藤泉君のテリトリーだけど、しかし何ですよ、同じズーズー弁の本場で生まれ、育った者でありながら、不肖私、いささか先輩を以て任じているのに、フランクの、平生と打って変わった、義理も人情もありはせぬ無残至極の仙台弁批評。
 鳴呼、何たることかと、内心嘆きながら、つい水割りのグラスをグッと噛みしめる身の因果。フランクにとっても、私にとっても、まことに、酒は気違い水なのであります。

惚れ込んだ人
桂 文楽
 あたくしはね、これでも歌が好きなんです。だから、いろんな歌い手の人に関心があるんですが、そのなかでも、だれが好きだって、フランクさんぐらい好きな歌手はいない。それはもう、ぺけんやてえぐらい好きなんです。
 まず、当り前のことだけれども、歌がうまい。このね、うまい、ってことが芸の根本です。芸はね、うまくなくちゃいけません。
 シロト(素人)のあたくしでさえ、フランクさんのうまさてえものはわかります。それに、フランクさんの歌には、品がありますね。どんなにうまくても、下品な芸は、それだけで先きが見えてます。一流にはなれるかもしれませんが、超一流にはなれない。フランク永井でえ人は、お世辞ではなくて、ただの一流では終らない歌手だと、あたくしはにらんでます。
 それからもう一つ、フランクさんの人柄があたくしは、たまらなく好きですな。惚れてるっていってもいいぐらいなもんで、もっとも、80に手のとどこうてえ、じじいに惚れられたって、先様じゃ、ありがた迷惑かもしれませんがね。でもね、よござんしょ? 贔屓てえものは、そういうもんじゃありませんか。
 大の晶屑の一人として、こんどのリサイタルの成功を、心から祈っております。
(桂文楽夫人のご好意により、45年リサイタルのプログラムから転載)

歌一筋のフフンク永井さんへ
市丸
 芸能生活二十一周年記念の、今日のリサイタルおめでとう存じます。幾多難の歳月を経て、今日の栄光をたたえ、心よりお喜び申し上げます。
 振り返ってみまするに、戦後の苦しい比論の中から、日本国中の人が立直らんがため、必死の最中に、どこからともなく美しい歌声がきこえた時、何人も心の底から、何となく、なごやかにほぐされる様に想えました。
 フランク永井さんの歌声のすばらしいこと、低音の魅力そのものでした。忘れようにも忘れられない想い出があります、今、こうしてご立派になられた永井さんの、今日あるは、歌一筋に命がけで勉強され努力され、またその反面に、何時、どこでお達しでも、その礼儀正しく、お身のまわりも、何時もサッパリと、そして明るく何時もニコニコと変らぬ、力づよいお人柄のたまものと思います。
 芸の道に、これで終りはないはず。今迄歩んで来た足跡をみつめ、益々ご健康にお気をつけ遊ばして、勉強されたく、後につづく人達のためにも、尚一層のご奪闘なされますこと、お願い致しまして、今日のごあいさつに代らせて戴きます。
 お目出度うございます。

大事な大事な大先輩へ
松尾和子
 先輩、リサイタルおめでとうございます。
 想いおこせば、私が、初めて先輩にお逢いしたのは、まだ、ジャズ・シンガーとして、あるお店で唄っていた頃でした。
 そんな私を、スカウトして下さり、レコード・シンガーとしての道を色々と教えて下さいました。
 そのうえ、「東京ナイト・クラブ」では、先輩とデュエットという幸運にも恵まれるなど、私にとって、大事な大事な大先輩です。
 今日も、先輩の教えを陶に「東京ナイト・クラブ」を、四国のナイト・クラブで、一生懸命唄っています。

大先輩へ
尾崎紀世彦
 大先輩フランク永井さん、二十一年目のリサイタルおめでとうございます。
 フランクさんの歌なら、僕を含めて、日本の歌謡界の多くの人々が、その幅広いレパートリーや、素晴らしいステージマナーから、沢山の教訓を受けて来ましたが、たまたま、昨年四月から、僕は同じビクター芸能専属として、フランクさんと身近かに接することができ、幸運にも、他の方々より更に多くのものを、吸収するチャンスに恵まれました。
 すでに日本の歌謡界に於で、大きな足跡を残されて来たフランクさんですが、今後もますます元気でご活躍されて、円熟した歌を、全国のファンに、そして我々後輩に見せていただきたいと思います。


「カニ」のおじさんへ
丘めぐみ
 リサイタルおめでとうございます。
 先輩がデビューなさって、今年で二十一年目だそうで、私が生れたときにデビューなさったのですね。十五歳のとき、姉と先輩の十五周年を見せていただき、あまりのスケールの大きさに、年輪を感じ言葉も出ませんでした。
 歌い手とは、こうならなくてはならないと、つくづく考えさせられました。
 普段お逢いすると気軽に「おう元気か」と声をかけられる「カニ」のおじさん。あのやさしい笑顔は、二十一年の歩みの中から生まれてくるものだと思います。
 これからもお元気で、いつまでもいつまでも若々しい歌声を、おきかせ下さい。

素敵な大先輩へ
伝書鳩リーダー 荒木とよひさ
 「有楽町で逢いましょう」という歌を聞いたのは、僕が鼻タレ小僧の頃である。低音で迫る歌声が子供心に、も妙に色っぽく聞こえたから不思議だ。
 その当時、まだ田舎では珍しい電蓄が我家にはあり、自分の小遣いで買ったレコードを、何度も何度も聞いたものだ。
 「有楽町ってどんなところだろう?」「東京へ行ったら一番に行こう......」なんて。
 今でも風呂なんぞに入ると、ふと「あなたを待てば雨が降る......」と口ずさんでしまう。
 僕の心の中に住みついた偉大な歌手、フランク永井さん。素敵な人だ。

良き大先輩へ
チュリツシェ
 フランク永井さん、リサイタルおめでとうございます。
 僕が晩酌中のおやじの横で、始めて聞いた〝有楽町で逢いましょう〟からもう二十年近くも過ぎているのですね。一口に二十年と言っても、第一線で活躍することの難かしさは、計り知れません。
 チェリッシユも今年で6年目に入り、その幕はまだ開いたばかりです。
 良き先輩の輝かしい実績に少しでもついて行ければと思います。
 三十一年、四十一年...とリサイタルの幕を開けて下さい。

やさしい微笑みの先生へ
和泉早苗
 二十一周年記念おめでとうございます。
 私はデビューして、まだ半年ですし、先日十九歳の誕生日を迎えたばかりです。
 ひと口に二十一年と言っても、デビューしたばかりの私には、想像もつきません。
 私が、初めて先生に紹介された時、先生は、私にやさしく微笑んで、〝がんばりなさい″と言って下さった、その時のやさしい微笑みがとても印象的でした。
 そして、いまも変わることのない素晴しい歌声、今後もご健康に充分気をつけて、いつまでも、素晴らしい歌声を聞かせて下さること、心より願っております。

(フランク永井のリサイタルについての、主にリサイタルの入場で入手するパンフレットをもとに紹介してまいりました。これで最後です。mixiではアップできる文字数制限が一万字のために、7回に分割しました。)

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このページは、文四郎が2021年4月26日 11:14に書いたブログ記事です。

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