2021年4月アーカイブ

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 フランク永井リサイタル「輝ける21年の足跡」

人間的な豊かさと気魄の勝利
日刊スポーツ・編集企画委員長 小倉友昭
 ひとりの男が、何の飾りもない広い舞台にたったひとりで立っている。
 男のすべてを露わにさせてしまうように、白いライトが、容赦なく光を浴びせかけている。広い空間に溢れる光は、男の、まったくの裸形を、舞台に注がれる多くの目にさらしている、といっても差支えない。見方によっては、極めて残酷なシーンといってもいい。
 もし、男に多くの目を納得させ得る何らかの内容がなかったら、これほど貧しく、哀しく写る風景はあるまい。だが、この日の男は、多くの目をはじき返す力感があった。広い空間を埋め得る量感があった。白々しく、素っ気ない光に士甚え得る充実感があった。
 1970年10月31日夜のことである。
 男はフランク永井。彼は、この日、東京・新宿・厚生年金金会館大ホールで、歌手生活15周年記念リサイタルを行った。芸術祭参加公演だった。男に限らず、女でも同じだが、歌手のリサイタルのオープニングは象徴的である。何時聞かの舞台時間を保ち得る力が、この一瞬に、凝縮されてしまうからだ。
 フランク永井は、身じろぎもしないで、この一瞬に立っていた。明るい照明の下で、長身とはいえない彼の身体が大きく見えた。
 多くの歌手は、この一瞬の董さに碓えかねて、オープニング・セレモニーを他の力に担わせようとする。実は、己の非力を、他力によって補わざるを得ないのである。己の力を悼み得ない貧しい柵神の所産でもある。
 いままで、余りに、貧しい精神から作られた舞台が多過ぎた。はっきり、リサイタルと銘打ちながら、実態は、リサイタルに値しないものが氾濫し過ぎた。
 それだけに、フランク永井が、オープニングで作り得た質感の高い舞台は、鮮烈な印象を与えたのである。
 実は、このリサイタルの成功を、このオープニングの一瞬が、予感させた、といっても過言ではあるまい。15年間歌い続けてきた歌手の歴史が、傭々10秒に充たない瞬間に集約されたわけだった。
 これは、構成の妙、演出の手腕といった外的条件の功というより、フランク永井という歌手の人間としての豊かさの勝利であった。
 歌だけを支えにして生きてきた人間の年輪の厚味が、はっきり示されたわけである。
 前後、約2時間20分にわたる舞台であった。この間、彼は、マイク一本だけを舞台上の共演者としただけであった。多くの歌手のリサイタルがが、ゲスト歌手あるいは、共演者との共同舞台になってしまう愚かを避けて、たったひとりで、長い時間を埋めきった。
 個々の歌について、いまさら言及しても始まるまい。ひとりの歌手が、15年間、歌い続けることができたのは、その歌の水準が、他を擢んでていたという結果である。
 歌の細部は、この結果を、もういちどはっきり見直すだけでいい。いいかえると、この結果は、何人をも納得させざるを得ない重さを持っているということだ。ある時間における声の常態、或いは歌の微細な表現などは、この結果を前にしてはとるにたらないことなのである。
 むしろ、そんな些細なことより以上に、長い歳月をかけて作り上げた己の歌の様式を、15年経った時点で、更に破ろうとさえ試みたひとりの歌手の執念、気魄が感じられたことの方が問題である。
 己が作り上げた型をこわそうということは難事である。しかも、それが、ほば完成に近し、常態にある場合は、尚更困難である。
 彼は、だが、敢えて、この難事を、15年記念リサイタルで行おうと試みている。この試みが、ある時は、己が作り上げた歌の型からはみ出してしまうような表現にすらなった。
 この心の沸りは、ほとんど2時間20分近い舞台に、脈々として波打っていた。
 そして、これが、聴衆の脚を、長い時間、会場から離れさせなかった原因になっている。
 常に、心を沸騰させていることは難かしい。しかし、舞台に立ち、歌う者は、少くともその舞台時間の中では、これを持続させなければならない。これが、舞台に立つ人の観客に対しての礼儀である。
 余りに多くの舞台が、安易に作られ、観客とのなれ合い、妥協の上に成り立っていた。本来の意味での芸は、これでは作り得ない.フランク永井は、15年記念リサイタルでこの悪弊を破った。
 オープニングの一瞬の緊張感は、実は、このフランク永井の気塊が支えたものだったのである。フランク永井はこの舞台で「完璧な歌唱力」に対して、芸術祭大衆芸能部門の優秀賞が贈られた。

フフンク水井と大阪もの
廣瀬 勝
 大阪ものをうたう歌手は多いが、大阪もののもつニュアンスから適時性、ファンの好みまで自分で選び、ピタリ「この曲」と決めた歌手はフランク永井ぐらいだろう。
 代表作「大阪ぐらし」がそれである。
 昭和三十九年。当時、十五万人の会員を容していた大阪労音(現新音)がはじめて歌謡曲に進出、フランク永井に白羽の矢をあてて例会をもった。私はプロデュースのような役目をもったが、その時、大阪の二人の才人、石浜恒夫、大野正雄に依頼して「晶子恋唄」「大阪ぐらし」などオリジナル三曲をステージに出した。
 なかでも「晶子恋唄」に私はすばらしい抒情を感じたが、長くつづく例会のなかば、ビクターの当時の担当ディレクター武田京子が、レコーディングの打ち合わせでやってきて、相談したとき、フランク永井が即座に「この曲がいい」と「大阪ぐらし」を決めた。おかげで「晶子恋唄」は悲恋におわったが、彼の勘はピタリと当たった。歌手が自分の好みで選んでヒットしたと見ても、例外的で面白い。
 「大阪ぐらし」のころ、フランク永井は実際に大阪ぐらしだった。なにしろ例会もフェスティバル・ホールで二十数回。それも労音だからほとんどが夜だけ。
 休みの日もあり、彼は二カ月近くを大阪のホテルでくらしながら、夜一回満員のホールでじっくりと歌い、あとは――。日本のタレント稼業では味わえない、ラスベガスに出演したスターなみの優稚な充実した生活だっただろう。その大阪ぐらしが勘に役立ったかもしれない。
 もっとも、フランク永井と大阪とのつき合いは、デビューのころからの古いものだし、そのころに大阪で現在の夫人と知り合っているから、根はもっともっと深い。
 フランク永井と大阪もので「大阪ぐらし」以上に評価しなければいけないのは「こいさんのラブ・コール」(昭和三十三年)だ。石浜・大野を組ませて歌謡界に進出させた、朝日放送制作のユニークなホーム・ソングである。
 これがヒットの皮切りで、そのあと、読売テレビ制作のドラマ主題歌で、鬼才といわれた故斉藤超の作品「大阪野郎」(昭和三十五年)とつづく。また「大阪ぐらし」のすぐあとには、石浜恒夫、吉田正の「大阪ろまん」(昭和四十一年)も大阪労音例会の続編として作られた。
 フランク永井の大阪ものは、はかにもだいぶあるが、ヒット曲に共通しているのは、制作基盤がレコード会社制作部でなく、大阪のどこかで出来ている点だ。これは単に異色とか見る以上に重要なことかもしれない。
 「有楽町で逢いましょう」や「夜霧の第二国道」でスター街道を走りはじめたフランク永井は、長い歌手の道程の中で、大阪の血を次々と輸血されて、その度に、新しい息吹きを見せてきたともいえるだろう。

熱烈なフアン
実川延若
 あれは、確か私が大阪の市内をいそがしく、南から北へ歩いていた時だったと思います。街角で聴いた、デビューしたばかりの頃のフランクさんの「公園の手品師」が、私の耳と心を強く引きつけました。
 そしてそれ以来ずっと、熱烈なファンとして自他共に認めて来ております。楽屋入りの時はもちろん、何処へ行くにもフランクさんの歌入りテープは離さず、時にはフランクさんがわざわざ楽屋をたずねて来ていただいた時など、歌舞伎の仲間から「延若さん、今日は良い日ですわ」と、はやされて...早いものでもう21年ですね。
 21年目のスタートを、なじみ深いナニワで、大阪文化祭参加のリサイタルとして幕切りされるわけで、今後も、ますますお元気でお活躍されますよう、お祈りしてリサイタルによせる言葉にいたします。

心の唄
みやこ蝶々
 唄は、心で唄うもの唄は、誰でも唄えるものだからむづかしいものです。心で唄い、胸で聞ける唄、そんな唄を聞かせてくれるのはフランクさんだと思います。

運・不運も才能のうち
伊藤 強
 かけ出しの新聞記者だったころ、仙台でフランクさんに会ったのが最初でした。地元宮城県の仙台、そこのレジャー・センターでのショーを取材するのが目的でした。
 右も左もわからない新米記者に、フランクさんはとても誠実に、ていねいに受けこたえをしてくれました。「写真を撮るなら、こっちのほうがいいでしょう」と、宿泊していたホテルの中庭を、あちこちと移動しでもくれました。
 あんなに、やりやすい取材ははじめてでしたし、あと味のいい思い出もはじめてです。"スター〟というものに持っていた、バク然とした不信感のようなものは、あのときから消えてなくなりました。
 その後何年か新聞記者をやり、いくつかのうれしい思い出も、あるいはしてやられた経験もあるのですが、まず基本的に、相手方を信用してかかったほうが、結果としては正しいものが得られる、という、貴重な認識を、フランクさんによって知らされたのでした。
 これは何にもかえがたい、私自身の財産になっています。歌手フランク永井としてというよりは、人間・永井清人からは、そういう貴重なものを学んだのでした。
 歌手として見た場合、その精密なまでに組み立てられだ歌の表現法、甘い声はもとより、西欧ふうの味わいを、歌謡曲のなかに持ち込み、それまでの歌謡曲にはなかったかたちの、モダニズムを確率したという点で、フランクさんはひとつのそびえたつ塔であろうかと思っています。
 しかもそれは、まこに細心な配慮によって、築きあげられたのです。もちろん才能のある人問によってのみ可能だったわけですけれど、天才の作業では決してない。
 言わば努力によって作り出されたものだといっていいでしょう。そこがすばらしいのです。この世界、運、不運が大きく作用する世界であります。しかし、運、不運も才能のうちという言いかたもあって、つまりはあらゆる要素が、うまく重なり合わないと、成功しないということなのです。
 現今、運にのみ恵まれて、一時のきらめきを獲得する"歌手"たちはいます。しかし、その運をいかに強固なものにしていくか、そういう努力がなされるケースがすくないように思うのです。
 紛れもなくフランクさんにはそれがあった。そしていまもある。"当り前のことですよ″と、彼は笑いながら言うかもしれません。しかし、あたり前のことが、あたり前におこなわれない時代でもあるのです。
 そんな時代に、これもまた人間の生きざまを、永井清人という人から学ばねばならないように思うのです。

フフンクとお酒
八巻明彦
 酒の話というのは、実のところ、大変に困ったテーマなんです。
 だって、そうでしょう。酒を飲みながら、明日の日本の将来を憂いでみたり、ミグ25によってもたらされる日ソ間の、今後の緊張状態について話し合ってみたとしたところで、どうなるものでもありません。
 一億一千万人もいる日本人の中には、それこそ、酔狂にも、そんな話でお酒が楽しい人も、ま、いないでしょう。
 しかし、私とフランクが一杯やって、そんな野暮な、それこそまったく、そんなショムナイ話をするわけはありません。
 お酒はやっぱり、楽しく飲まなくっちゃあ。時には、ハメもはずして...。
 なァンて書きますと、私、如何にも酒飲みのように聞こえますが、実は、それがサッパリなんで。そういやァ、フランクにしてからが、今でこそ、ブランデーをボトルで開けちまうの、酒は静かに飲みたいの...などといっているようですが、もとはといえば、だいたいが下戸の出。
 私が水割り二三杯でいい気持ちになって(オレも酒が飲めるんだなァ)なんぞと、無邪気に喜んでいた頃には、フランクだって、妙に赤いものをグラスに満たしたのを、チビチビやっているもんですから「フランク、何をなめてんだい?」と訊いたところが、これがスロー・ジン・フィズなどという気持ちのわるーいシロモノで...。
 実は、私、そのスロー何とかいうものは、未だ口にしたことがないので、何ともいえないのですが、ま、あんな赤いものなんざ、大したもんじゃないって、決めていたんですから、やっぱりフランクだって、ハナは大したもんじゃなかっただろうと、今でも思ってるんです。
 それが、お互い、何時の頃からか、生意気にも、イッパシの酒飲み面をしちまって、それぞれに、結構、恥なんぞを、あちこちで掻いて歩いたようで。
 でも、私とフランクの間のお酒なんてエものは、ただ何となくコンコロモチが寂しい時に、ちょっと飲もうか――などと、ま、実に他愛のない理由で杯を交わす程度で、古風にいやァ、君子の交り。
 水の如しという風なもんで、そりゃそうでしょう、向こうはブランデー、こっちはウイスキーの、どっちも水割りなんですから...。
 ただ、気に入らないことが一つ。ご承知のように、フランクは宮城県の生まれ。実は私も、何を隠そう同郷の出で、しかも、言語学的に言うてエと、私の方が「無アクセント地帯」という、要するに〝アクセント音痴〟の、ズーズー弁の本場の育ち。
 なのに、フランクと来たら、あろうことか、江戸弁やら関西弁を、自由自在にこなして、ほれ「こいさんのラブ・コール」なんぞという、私からいわせれば、不思議なヒット曲もある。
 しかし、まア、それはいいでしょう。フランクのヒット曲なんだから。気に入らないというのは〝自称後援会長″のこの私が、ムリして標準語を喋ると、ブラミズのきいてきた頃のフランクは、情容赦なく笑うんだ。
 これは、本来は、別稿の親友・佐藤泉君のテリトリーだけど、しかし何ですよ、同じズーズー弁の本場で生まれ、育った者でありながら、不肖私、いささか先輩を以て任じているのに、フランクの、平生と打って変わった、義理も人情もありはせぬ無残至極の仙台弁批評。
 鳴呼、何たることかと、内心嘆きながら、つい水割りのグラスをグッと噛みしめる身の因果。フランクにとっても、私にとっても、まことに、酒は気違い水なのであります。

惚れ込んだ人
桂 文楽
 あたくしはね、これでも歌が好きなんです。だから、いろんな歌い手の人に関心があるんですが、そのなかでも、だれが好きだって、フランクさんぐらい好きな歌手はいない。それはもう、ぺけんやてえぐらい好きなんです。
 まず、当り前のことだけれども、歌がうまい。このね、うまい、ってことが芸の根本です。芸はね、うまくなくちゃいけません。
 シロト(素人)のあたくしでさえ、フランクさんのうまさてえものはわかります。それに、フランクさんの歌には、品がありますね。どんなにうまくても、下品な芸は、それだけで先きが見えてます。一流にはなれるかもしれませんが、超一流にはなれない。フランク永井でえ人は、お世辞ではなくて、ただの一流では終らない歌手だと、あたくしはにらんでます。
 それからもう一つ、フランクさんの人柄があたくしは、たまらなく好きですな。惚れてるっていってもいいぐらいなもんで、もっとも、80に手のとどこうてえ、じじいに惚れられたって、先様じゃ、ありがた迷惑かもしれませんがね。でもね、よござんしょ? 贔屓てえものは、そういうもんじゃありませんか。
 大の晶屑の一人として、こんどのリサイタルの成功を、心から祈っております。
(桂文楽夫人のご好意により、45年リサイタルのプログラムから転載)

歌一筋のフフンク永井さんへ
市丸
 芸能生活二十一周年記念の、今日のリサイタルおめでとう存じます。幾多難の歳月を経て、今日の栄光をたたえ、心よりお喜び申し上げます。
 振り返ってみまするに、戦後の苦しい比論の中から、日本国中の人が立直らんがため、必死の最中に、どこからともなく美しい歌声がきこえた時、何人も心の底から、何となく、なごやかにほぐされる様に想えました。
 フランク永井さんの歌声のすばらしいこと、低音の魅力そのものでした。忘れようにも忘れられない想い出があります、今、こうしてご立派になられた永井さんの、今日あるは、歌一筋に命がけで勉強され努力され、またその反面に、何時、どこでお達しでも、その礼儀正しく、お身のまわりも、何時もサッパリと、そして明るく何時もニコニコと変らぬ、力づよいお人柄のたまものと思います。
 芸の道に、これで終りはないはず。今迄歩んで来た足跡をみつめ、益々ご健康にお気をつけ遊ばして、勉強されたく、後につづく人達のためにも、尚一層のご奪闘なされますこと、お願い致しまして、今日のごあいさつに代らせて戴きます。
 お目出度うございます。

大事な大事な大先輩へ
松尾和子
 先輩、リサイタルおめでとうございます。
 想いおこせば、私が、初めて先輩にお逢いしたのは、まだ、ジャズ・シンガーとして、あるお店で唄っていた頃でした。
 そんな私を、スカウトして下さり、レコード・シンガーとしての道を色々と教えて下さいました。
 そのうえ、「東京ナイト・クラブ」では、先輩とデュエットという幸運にも恵まれるなど、私にとって、大事な大事な大先輩です。
 今日も、先輩の教えを陶に「東京ナイト・クラブ」を、四国のナイト・クラブで、一生懸命唄っています。

大先輩へ
尾崎紀世彦
 大先輩フランク永井さん、二十一年目のリサイタルおめでとうございます。
 フランクさんの歌なら、僕を含めて、日本の歌謡界の多くの人々が、その幅広いレパートリーや、素晴らしいステージマナーから、沢山の教訓を受けて来ましたが、たまたま、昨年四月から、僕は同じビクター芸能専属として、フランクさんと身近かに接することができ、幸運にも、他の方々より更に多くのものを、吸収するチャンスに恵まれました。
 すでに日本の歌謡界に於で、大きな足跡を残されて来たフランクさんですが、今後もますます元気でご活躍されて、円熟した歌を、全国のファンに、そして我々後輩に見せていただきたいと思います。


「カニ」のおじさんへ
丘めぐみ
 リサイタルおめでとうございます。
 先輩がデビューなさって、今年で二十一年目だそうで、私が生れたときにデビューなさったのですね。十五歳のとき、姉と先輩の十五周年を見せていただき、あまりのスケールの大きさに、年輪を感じ言葉も出ませんでした。
 歌い手とは、こうならなくてはならないと、つくづく考えさせられました。
 普段お逢いすると気軽に「おう元気か」と声をかけられる「カニ」のおじさん。あのやさしい笑顔は、二十一年の歩みの中から生まれてくるものだと思います。
 これからもお元気で、いつまでもいつまでも若々しい歌声を、おきかせ下さい。

素敵な大先輩へ
伝書鳩リーダー 荒木とよひさ
 「有楽町で逢いましょう」という歌を聞いたのは、僕が鼻タレ小僧の頃である。低音で迫る歌声が子供心に、も妙に色っぽく聞こえたから不思議だ。
 その当時、まだ田舎では珍しい電蓄が我家にはあり、自分の小遣いで買ったレコードを、何度も何度も聞いたものだ。
 「有楽町ってどんなところだろう?」「東京へ行ったら一番に行こう......」なんて。
 今でも風呂なんぞに入ると、ふと「あなたを待てば雨が降る......」と口ずさんでしまう。
 僕の心の中に住みついた偉大な歌手、フランク永井さん。素敵な人だ。

良き大先輩へ
チュリツシェ
 フランク永井さん、リサイタルおめでとうございます。
 僕が晩酌中のおやじの横で、始めて聞いた〝有楽町で逢いましょう〟からもう二十年近くも過ぎているのですね。一口に二十年と言っても、第一線で活躍することの難かしさは、計り知れません。
 チェリッシユも今年で6年目に入り、その幕はまだ開いたばかりです。
 良き先輩の輝かしい実績に少しでもついて行ければと思います。
 三十一年、四十一年...とリサイタルの幕を開けて下さい。

やさしい微笑みの先生へ
和泉早苗
 二十一周年記念おめでとうございます。
 私はデビューして、まだ半年ですし、先日十九歳の誕生日を迎えたばかりです。
 ひと口に二十一年と言っても、デビューしたばかりの私には、想像もつきません。
 私が、初めて先生に紹介された時、先生は、私にやさしく微笑んで、〝がんばりなさい″と言って下さった、その時のやさしい微笑みがとても印象的でした。
 そして、いまも変わることのない素晴しい歌声、今後もご健康に充分気をつけて、いつまでも、素晴らしい歌声を聞かせて下さること、心より願っております。

(フランク永井のリサイタルについての、主にリサイタルの入場で入手するパンフレットをもとに紹介してまいりました。これで最後です。mixiではアップできる文字数制限が一万字のために、7回に分割しました。)

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 フランク永井リサイタル「輝ける21年の足跡」
 アルバムは、1977(S51)年1月に発売(SJX-8046~7)されました。

昭和51年10月28日(木)大阪厚生年金会館大ホール(大阪芸術祭参加)
昭和51年11月3日(祭)東京中野サンプラザ

監修=吉田 正
構成=桧原敏春
演出=小野康憲
照明/美術=今井直次
編曲=寺岡真三/近藤 進/服部克久
演奏=北野タダオとアロー・ジャズオーケストラ+ストリングス(大阪)
   原信夫とシャープス&フラッツ+ストリングス(東京)
合唱=エバ・シンガーズ(大阪)/コール・セレステ(東京)
主催=ビクター音楽産業株式会社
後援=ビクター音楽出版株式会社
制作=ビクター芸能株式会社

《第一部》
 1. 君恋し
 2. 夜霧の第二国道
 3. 夜霧に消えたチャコ
 4. 有楽町で逢いましょう
 5. 〔メドレー33曲〕(ラバー・カムバック・トウ・ミー)
 6. 霧子のタンゴ
 7. 俺は淋しいんだ
 8. 東京午前三時
 9. 浮気川
 10. 妻を恋うる唄
《第二部》
 1. 大阪ぐらし
 2. 〔メドレー〕(大阪野郎/船場ごころ/大阪ながし/大阪ろまん/加茂川ブルース)
 3. こいさんのラブコール
 4. ふるさとの風
 5. 恋夜
 6. きっときっときっと
 7. 船頭小唄
 8. ゴンドラの唄
 9. さすらいの唄
 10. ウェア・ザ・ブルー・オブ・ザ・ナイト
 11. アズ・タイム・ゴーズ・バイ
 12. 枯葉
 13. オール・オブ・ミー
 14. 行ってしまったお前(新曲)
 15. そっとしといてあげるから(新曲)
 16. 霧子のタンゴ・パートⅡ(新曲)
 17. おまえに

あいさつ
フランク永井
 皆様、本日はようこそおいでくださいました。
 思えば、昭和29年頃、東京の都心から一時間あまり、国電を2度乗り換え、最後は進駐軍の幌のついたトラックに揺られて、埼玉県朝霞町の米軍キャンプの下士官クラブで歌っていた時期。
 楽譜のアレンジ代に追われて、日本テレビの、のど自慢番組に賞金稼ぎのため出場しました。
 その時にめぐり逢ったのが、ビクターレコードの小野中三氏(現ビクター芸能監査役)でした。氏の手引きでビクターに入社して、遂に吉田正先生にお目にかかることになります。
 昭和30年秋入社、ご存じ「有楽町で逢いましょう」のヒットが昭和32年ですから、三年間の低迷がありました。今のご時勢でしたら、せいぜい半年ぐらいで放り出されていたかも知れません。三年間も我慢して下さった会社の皆さんに、今もって感謝しております。世の中で、私ほど人間関係に恵まれた男はいないと思っております。
 とりわけ、吉田先生は、私の歌の先生という以外に、私のすべての師匠で、ご紹介下さったその友人の方々は素晴しい方ばかり、その方々も、即、私の師でありました。
 その後も、いろいろな分野の方にお目にかかる機会を得、教えていただくことばかりで、世の中に、自分ほど幸せな歌い手はあるまいと、つくづく考える所以でございます。
 そして私、フランク永井が今ありますのも、デビュー以来21年間、変らぬご贔屓を下さったファンの皆様のおかげでございます。心からお礼を申し上ます。
 感謝の念をこめて、このリサイタルをお送りいたします。お楽しみ頂ければこの上の喜びはございません。
 本日は、まことにありがとう存じます。

プラス1年の重み
ビクター音楽産業株式会社 代表取締役社長 渡辺三郎
 きょうフランク永井さんは、歌手生活二十一年目のリサイタルを開かれることになり、大変おめでとうございます。
 この二十一年間の重みは、私たちレコードにたずさわる者にとって、なにものにも替えがたいものだ、と考えないわけにはまいりません。
 もうすでに多くの方々が、ご存知のようにこのフランクさんの歩みは、そのまま、戦後のレコード産業の歩みといっても過言ではないと思います。
 この二十年間、レコード界は、高度成長の下に大きく躍進してまいりました。それは、レコード生産の飛躍的増加といった数の面だけでなく、音楽の形の上での質的な向上といった面も合わせて、レコード史上かつてないほどの成長でありました。
 この間に、フランク永井さんの果たされた役割は、極めて大きなものがありました。という以上に、フランク永井さんの力が、レコードの高度成長のきっかけになった、といっても言い過ぎではないと思います。
 そして、二十年の高度成長を遂げたレコード界は、今年に入って、再び大きな変動を見せ始めております。
 この様な動きを考えますと、きょうのフランク永井さんの二十一年目のリサイタルは、極めて暗示的で意義あるものと存じます。
 フランク永井さんは、こんどのリサイタルを前に「新しい一年目の出発しということを盛んに語っておられます。
 この言葉は、とりもなおさす、レコード界にもそのままあてはまるものではないか、といま、痛切に感じております。
 高度の成長を果たしたビクターと共にあったフランク永井さんのリサイタルを前に、私は二十年プラス一年の重みを、しみじみ感じないわけにはまいりません。
 常に前進してやまないフランク永井さんは、本日のリサイタルを新たなスタートとして従来以上の情熱をもって、歌に専念されるものと信じます。
 ご来会の皆様とともに、フランク永井さんのご健康と益々のご活躍をお祈りして、ご挨拶といたします。

名実共に大歌手へ
ビクター音楽産業株式会 社取締役制作本部長 滝井利信
 フランク永井さん、リサイタルおめでとうございます。心からお喜び申し上げます。
 思えば、二十年前、ビクターは、復興のきざしは見えたものの、大変苦しい頃でした。そんな時、デビューされたあなたは、ユニークな低音の魅力で、一躍ムード歌謡ブームを呼びび起こし、昭和三十年代のビクターの黄金時代を築き上げてくれたのです。
 そして、吉田先生のあの不朽の名曲「有楽町で逢いましょう」をはじめとして、レコードの面で数々の大ヒットを世に送り出し「日本レコード大賞」「歌唱賞」など数多く栄えある賞を受賞されております。
 また、フランク永井さんは、ステージの面でも「芸術祭大衆芸能部門優秀賞」の再度の受賞など、優れたエンターティナーとしでの評価も受け、さらに、昭和四十六年には、歌手としてはじめての「芸術選奨文部大臣賞」を受賞されるなど、名実共に大歌手の道を歩んでこられました。
 私も、フランク永井さんとは、デビュー以来、フランクさんは歌手として、私はレコード制作の現場として、公私にわたり親しくお付き合いいただいておりますが、大のフランク永井フアンであると同時に、かように素晴らしい歌手といっしょに仕事が出来たことは、制作者としてこれ以上の喜びはございません。
 二十年をひとつの節として、新たな一年目のこのリサイタルを契機に、日本の、いや世界の歌手として、エンターテイナーとして、さらに大きく飛躍されることをお祈りして、ご挨拶にかえさせていただきます。


リサイタルに寄せて
ビクター芸能株式会社 ビクター音楽出版株式会社 代表取締役 島崎文雄
 フランク永井さん、今日のリサイタル、おめでとうございます。
 フランクさんをビクターにお迎えしたのは、昭和三十年でございました。今年で二十一年になるわけでございます。
 この間、東京において三回のリサイタルが成功裡に行われ、二回目のリサイタルで芸術祭に参加し、大衆芸能部門の奨励賞を受賞されたことを記憶いたしております。
 今回のリサイタルが、東京のみならず、フランクさんの歌に大変ゆかりの深い大阪においでも開催出来ましたことは、ご本人は勿論のこと、主催者のビクター音楽産業株式会社にとっても、大変意義深いことと存じます。
 変動の激しい戦後の歌謡界にありまして、数多くの賞に輝き、二十年を越える長い歌手生命を保ったばかりでなく、世の人気を博すということは、並大抵のことでなく、常日ごろのご努力の結果によるものと、深く敬意を表したいと存じます。
 本日のリサイタルが、吉田先生はじめスタッフの諸先生方のご協力により、素晴らしく盛大にひらかれるに当り、心からお祝いを申しあげますと共に、ファンのみなさまのあたたかいご支援により、フランクさんの芸術活動が今後、一層みのり多きことをお祈りいたします。

おめでとう! フランク永井
佐伯孝夫
 「...先日、フランク永井さんのレコードを耳にしました。今聴いても新しい心憎いばかりの語り口の詞に、頭がさがります...」。
 これは久しく音信の絶えていた、神戸の、いささか知的な二十歳過ぎのお嬢さんからの手紙の中の一節で、私はフランクさんの一途な新鮮さを、再確認して本当にうれしい気になり、何度も読み返しました。
 フランクさんがデビューしてから、もう二十一年にもなるとのことですが、常に「フランク永井」でありつづけた、精進と芯の強さに頭のさがる想いです。
 この珍しい、自分を崩さない歌手さんは本当に、賞讃さるべき存在と信じきっております。
 個性にあふれ、東北人らしい民謡育ちの深い根を失うことなく、しっかりした態度と素直さを身につけ、ハタから何か言われても、自分の気持ちをつら抜き通し、強くその人間味あふれる暖かさを表現しつづけて、変わらない魅力を私たち庶民に与えつづけて、共感されているということは、容易なことではないと思います。
 この人間的魅力、郷土の土から生まれた才能に花を咲かせたのは、同じ東北系の恩師吉田正先生のご努力だったと思います。夜二時ごろ突然先生宅を訪れ、そのときどきの悩みや心情を、空が白むまできいで貰い、また新しい出発への鼓舞を得たということも度々だったとのことです。
 五年毎に催すフランクさんの、今度のリサイタルは、真実重厚、楽しいと言うより、そこからまた「明日への出発」の芽がみどり豊かに感得され、私たちに喜びを与えてくれると信じて疑いません。
 フランク永井さん、おめでとう!

エンターテナーフラング永井
吉田 正
 もう十四、五年になるが、一夕、親しいジャーナリストの人たちと、フランク永井を囲んで歓談したことがあった。
 フランク永井も若かったし、私も若かった。そんな中で、たまたま、彼のワンマン・ショーをどんな形で作ったらいいだろう、という話が出た。
 当時、日本では、ワンマン・ショーという形は、そう多くはなかった。その多くは、いわゆる歌謡大会という形式の興行だった。それだけに、彼を素材にしたワンマン・ショーという話に華が咲いた。
 いまでも、私が鮮明に覚えているのは、誰いうとなく〝ハットオフ(脱帽)フランク〟というタイトルをつけたらどうだろう、という意見が出たことだった。
 時が経ち、季節が流れた。
 いま、フランク永井は、二十一年目のリサイタルを迎えようとしている。
 この間、日本は大きく変わった。歌謡界の地図も塗り変えられたし、歌謡の型も、外形的には多様となった。いうなれば、この間は、激動の二十年だった。
 こんな中で、終始変わらずに第一線で歌い続けるということは難事である。私の周囲でも、数多くの歌手が登場し消えていった。それぞれにそれなりの理由はあった。
 しかし、よんかく、数多い歌手が出ては、消えていったという事実はまぎれようもない事実である。
 歌手として第一線で生き続けるということは、このような事実を前にして考えると、想像以上に難事なのである。
 フランク永井は、今日も、舞台では、さりげない表情で自分の歌を、気軽に歌うに違いない。
 二十年間第一線で生き続けてきた難しさ、辛さは、恐らくそんな彼のステージからは感じとれないかも知れない。しかし、そのさりげなさが、彼の財産なのである。
 観客を楽しませるエンターテイナーとしての彼の資質を、私も今宵ゆっくり楽しみたい。

フフンク水井と銀座
小倉友昭
 『銀座も変ったもんですね。銀座に来て、酒を飲みながら「妻を恋うる歌」を聴くなんて考えもしなかった。だって、考えてもみで下さい。酒場は、男の遊ぶ所でしょ。いうなれば、お内儀さんから逃げて、何となくリラックスしようという男たちの逃避場でしょ。そこで"妻を恋うる"じゃ、せっかくのお楽しみも、かたなしになっちゃう、と考えるのが、ふつうでしょう。銀座も変ったもんですね』。
 フランク永井の手には、例によって、レミー・マルタンのグラスがあった。
 銀座でも一流といわれるクラブS。小柄なフィリッピン生れの歌手が、のぴのある声で「妻を恋うる歌」を歌っている。
 フランク永井は、そんな歌手の歌を聴きながら、しみじみつぶやいたものだ。
 銀座で飲み、祇園で痛飲し、先斗町で梯子酒を仕込まれて、したたかな飲み手となったフランク永井の、これが、最近の銀座遊びでの述懐だった。
 「変ったもんですね」を繰り返す彼の言葉には、様々な想念が絡みついているようにも思えた。
 考えてみれば、都会派歌手として登場してきた彼にとって、公私ともに東京・銀座は、忘れ難い場所だろう。初期の歌、いわば彼の方向を決定づけた「東京午前三時」も、歌の舞台は銀座のはずである。約二十年前の銀座は、いまのように、バーやクラブなどのハネ時になると、タクシーが群らがる銀座ではなかった。だから「似た娘乗せゆくキャデラック、テイル・ランプがただ赤い」といったやるせないような大らかな哀愁があった。
 「銀座は変ったもんですね」彼ならずともそうつぶやきたくなる変りようだ。
 「西銀座駅前」が出来たころ、このあたり、まだ銀座のはずれだった。もっとも正確にいえば、西銀座駅というのは無い。しかし、それが、いまでもあるように思えるのは、歌の力だろう。
〝若い二人は、ジャズ喫茶〟というフレーズも、いまでは、ジャズ喫茶そのものが、銀座には無くなってしまっているのだから、これも、やはり「銀座は変ったもんですね」ということになる。
 そんな銀座は、しかし、やはり、歌の流行でも、ある先端を行っていることは変らない。僕が、彼の「おまえに」を「とってもいい歌だから、ぜひ聴いて...」と銀座のお嬢さんたちにせがまれて、リクエストしたのは一昨年の秋だった。
 それから約二年後のいま「おまえに」は、完全なスタンダード・ナンバーとして、銀座のどこかで必ず歌われる歌になった。変った銀座で、変らないものがある、というわけである。
 「やっぱり遊ばなけりゃいけません。お酒も飲まなけりゃいけません。心が豊かに新鮮でなければ、歌も枯れてしまいます」。
 ともかく、外形は、変った銀座で、フランク永井は、頑固にコニャックを飲み続け、変らない台詞をいい続ける。

日本語とフフンク、「和魂洋才」の歌手
佐藤 泉
 政治家が選挙で言うことは、たいてい嘘である。だいたい嘘は申しませんとか、正直いって...とかいうことを日常会話の中によく使う人があるが、このこと自体が嘘なのであって、ほんとうのことを言っていれば、何もことさらに、こんな不自然な言葉を使う必要はないだろう。
 「嘘は申しません」ということは、よく嘘を言う証拠なのである。言葉とは難しいものだと思う。
 「人柄」があるように「言葉柄」というのもある。人間の顔は内面を描きだすように、言葉は内面を表すものだ。フランク永井は、ふだんでも言葉を選びながら慎重にしゃべる。思うに、性格も慎重そのものなのか。
 彼は宮城県出身である。もう二十年余の付き合いだというのに、一向に東北訛りを耳にしたおぼえすらない。それも道理で、フランク自身の話では「宮城県に住んでいた当時から、意識すれば、比較的標準語めいた言葉もしゃべることが出来た」そうである。これに加えて昭和27年に上京、駐留軍のキャンプで働くようになってからは、いきおい英語(米語)に接する機会も多くなる。つまり東北訛りからワンクッションをおいた形で、標準語めいた日本語へ自然と移入していた。もはや東北訛りの出る幕はなかった――と思うのである。
 フランクは人も知る落語好きだ。噺家との交遊も多い。もとから落語が好きだったところへもってきて、彼には東京訛り、つまりは江戸江戸訛りへの憧れがあったらしい。寄席へ通い、先代柳好や志ん生の噺を耳でおぼえ込むようになる。
 なんたってアータ(あんた)耳のほうは商売が商売だけに〝頗るつき"に上等ときてる。たちまちマスターしちまった。
 このごろでは江戸っ子(四代目)を自負する、私の言葉に訂正を申し入れる始末なのである。
 言葉にうるさいくらいだから、本職の歌では歌詞を明瞭に正確に歌いあげる。これだけでも聞いていて大変に気持ちがよい。詞を大切にする歌い手さんたちが、少なくなってきた。
 ビング・クロスビーとフランク・シナトラの唄にしびれたのが、歌手へのきっかけだった。思うに、フランク永井は「和魂洋才」の歌手なのである。日本語を愛し理解し、かつ西洋のフィーリングで自分なりの歌をつくり上げていく。
 このごろでは、この「和魂」が日本の歌から行方不明になってしまった。

フランクとゴルフと私
河塚順一郎
 フテンク永井がデビュー二十一年目に新曲〝浮気川〟を引っ下げて京都入りしたとき、私に逢うなり見せたのが、最近のゴルフ・スコア・カードである。こういうときは決まって好調な証拠と私は受けとっている。
 それもニヤリと笑みを浮かべながら「最近の調子はどう」とくる。そういうときはたいてい、こっちの調子はメタメタのことが多い。優劣たちどころに変わるというか、またまた越えられないカベを意識した劣等感に災いなまれるのである。
 まことにゆゆしき因縁であるが、一面これが会話となるようになって、一段と彼との話が簡単に出来るのだから不思議だ。
 フランクと知り合って十数年、昔は何かというと飲むことしか知らなかった。〝大阪ぐらし″のよさは、酒にありというところだった。
 とても"こいさんのラブ・コール〟という、しゃれたものではなかった。それがどういうわけか、お互いに示し合わせたわけでもないのに、ゴルフを知ったのである。こと細かく聞いたわけではないが、だいたい始めた時期もそう差はない。
 それまでは〝ゴルフなど、どこが面白いねん、朝早く起きてフーフーいって回って、小さい球を追っかけて"というしだいだった。その点の意見も共通していた。
 ところが変われば変わるもの、やり始めてみると、これぐらい面白いものはないとなった。
 そうしたころに再びフランクに出合った。初めは仕事一途の話ばかりしていたが、よくよくみると顔が日焼けしている、手首に白黒のコントラストがある――「お主、やってるな――」「いや、そういえばあんたも――」でどっと笑った。
 じっくり歌っていて火のついた〝おまえに″のころである。
 だからゴルフ歴については、お互い四、五年というところだろう。だが、自然に差がついてしまった。何をやるにも人一倍熱心と自負する二人だが、彼はプロにもつき、マイコースを得て、レッスン、試合とも経験を重ねていった。一方、私の方は休日だけのゴルフなので、棟習皆無、すぐ本番だからペースの違いは歴然である。これでみるみる10ストローク以上にも、実力が開いてしまった。
 それにフランクはいち早く。ホールインワン〟を決めた。それも大阪のPLゴルフの東の8番で、である。「やったな」というと、彼は申しわけなさそうに「いや、スプー(ウッド3番)で打って、みえなかったのが入ってた。ウッドだからね」と説明する。
 ウッドであろうが、アイアンであろうが入ったことには、間違いないというと、納得したような顔になった。
 ゴルフ・ブームといわれて久しい。ゴルフ場も多く出来たし、ゴルフ人口も何百万という。
とうとう二人とも上手下手は別にして"狂″に近いところまでいってしまった。あとは、いつ自分の力を達観するかである。
 "浮気川″であるうちはまだやる気十分、こっちもウサギとカメを決めこんで"そのうちに″とフランクを追っかけている。ゴルフをやることで英気がつき、あすの仕事へのプラスとなれば、また楽しである。
 私とフランクのゴルフ談義、まだしばらく続くことだろう。もっともそんな話、ゴルフを知らない人の前でゴルフの話をするのは、エチケットに反する――、相すみません。

ステージの魅力
池田弥三郎
 テレビやラジオやレコードで承知しているフランク永井さんと、ステージの彼と、同じ人であり、同じ芸でありながら、ずいぶんその魅力に異質なものがある。
 どっちがいいと、いちがいには言えないけれども、行儀のいい、きちんとした芸である前者に対して、ステージで、聴衆とともにあるフランク永井さんの、自由でのびのびとした芸の魅力は、また、なんとも言えぬ魅力がある。
 そこには彼の歌の一つ一つが、一つ一つ別にあるのではなくて、大きな流れの中の一つ一つとしてある。そこには、しゃべり手としての彼の才気の縦横な喚発がある。これはフランク永井さんの推賞すべき魅力である。
 そういう会場での録音をもとにしたLPには、もちろんその魅力がうかがわれはするけれども、何といってもそれは一つのわくの中に入れられてしまっていて、自由自在な発散が少ない。ステージの彼の芸に、思う存分に触れたいものだと思う。

それだけの話
江園 滋
 フランク永井が熱烈な落語愛好家であることは、いまではよく知られている。その愛好の度合いも、通りいっペんの落語好きとか、落語愛を超えた、それはもう落語への恋とでもいうような、純度の高いものであって、しかも灼熱の恋が一向にさめる気配もないところがみごとである。
 むかし、某テレビ局がフランク永井ワンマンショーを企画して、その中で小咄を一席披露してほしいという、注文をだしたことがあった。プロデューサーにしてみれば、落語好きの歌手の、どうせ余技なのだから、羽織を着て出てくるだけでご愛嬌であり、咄の巧拙などはどうでもいいというように、ごく気楽に考えていたのだろうと思う。
 それはそれで一つの考え方ではあるけれども、余技だからといっていい加減なごまかしでお茶をにごすことは、エンターティナーとしてなすべきではないという考え方のほうが、考え方としてはやっぱり正統だろう。フランクの考え方は、断然後者であって、したがって、引き受けたからには、だれに聞かせてもはずかしくないだけの小咄を演じたい。
 ついては専門家に乞うて、本格的に稽古をつけてもらおうと思う。然るべき落語家を紹介してもらえないか、という電話が、フランクからかかってきた。
 「若手で、しっかりした芸風の噺家さんがいいんだけれど、だれかいませんか」
 「います」
 「紹介してくれる?」
 「おやすいご用だけど、しかし、フランクさん本気なの?」
 「もちろん」
 「わかった。それで――」
 それでは「この人なら」と絶対の自信をもって、その当時の若手に属する有望落語家を紹介した。
 稽古は何度か行われたようだったが、そのたびにフランクは、弟子としての最大最高の敬意を払って、その若手落語家を師と仰ぎ、申し分のない接し方をしたらしい。
 真摯な態度に感動した言葉が、まだ耳元に残っている。
 「どんな世界でも、一流になる人はちがいますね」
 あれから六、七年たって、その落語家は押しも押されもしない中堅真打として目ざましい活躍を続けているが、その間にも、フランクは常に師と仰ぎっばなしで、はたの見る目にもうるわしい師弟関係を一貫して維持してきた。
 それだけの話である。それだけの話なんだけれども、たかだか二分か三分の放送のために、いろはの「い」から、きちんと手順を踏まなければ気がすまないという、フランクの正統派的感覚が、私にはすこぶる好ましい。
 歌の世界だけでなく、ありとあらゆる分野に正統派ならざる〝手抜き派〟がまかり通るご時勢であるからこそ、フランクの姿勢はいっそう貴重である。
 歌手生活21年目を迎えたフランク永井の、これから先きの歳月が、私にはたのしみでならない。

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 先月はフランク永井の誕生月にあたり、メディアではいろいろ特集が組まれます。最大のファンへのプレゼントは、先に紹介した「週刊現代」の「昭和の怪物」だったのではないでしょうか。
 ときどきさまざまな情報を寄せられるFさんが、3月に歌謡ポップスチャンネルで2つの番組でフランク永井が登場するようだよと、知らせてくださいました。
 あいまいな表現だったのは、CSの有料チャンネルであることから、仮に確認しても契約していないと鑑賞できないからです。ひとつは「煌く日本の歌手~わが心の演歌~#10フランク永井篇」で、もう一つは「うた紀行~懐かしい歌・彩る情景~#4<東京編>」です。
 ところが最近に、ファンのある方から放送された番組をビデオに撮ってあると、わざわざ送っていただきました。早速に観させていただきました。ありがとうございました。
 まず一つ目です。歌謡ポップスサイトによれば「演歌・歌謡界を支えた伝説の歌手や、不動の人気を誇る歌手にスポットをあて、ゆかりの地を巡りながら、歌い手自身の生い立ちやプロフィールを紹介します」とあります。30分番組です。
 そこでの説明通りなのですが、フランク永井本人の歌唱映像が観れるわけではなく、CD音源に「ゆかりの地」の映像をかぶせた番組です。だから、ご本人の映像を期待している方にはおすすめできません。
 番組で歌われた曲は、次の7曲です。
  ♪こいさんのラブ・コール
  ♪有楽町で逢いましょう
  ♪夜霧に消えたチャコ
  ♪君恋し
  ♪大阪ぐらし
  ♪大阪ろまん
  ♪おまえに
 おおさかものが多いですね。
 番組は昭和歌謡を背負った人気歌手ごとにつくられています。現時点で紹介されているのは、24名の番組が存在します。
 1.美空ひばり篇、2.北島三郎篇、3.藤山一郎篇
 4.藤圭子篇、5.村田英雄篇、6.石原裕次郎篇
 7.島倉千代子篇、8.三橋美智也篇
 9.ちあきなおみ篇、10.フランク永井篇
 11.西田佐知子篇、12.春日八郎篇
 13.田端義夫篇、14.青江三奈篇、15.小林旭篇
 16.菅原洋一篇、17.森進一篇、18.都はるみ篇
 19.内山田洋とクール・ファイブ篇
 20.岡晴夫篇、21.渚ゆう子篇、22.三波春夫篇
 23.越路吹雪篇、24.江利チエミ篇

 次の番組は「うた紀行~懐かしい歌・彩る情景~#4<東京編>」です。
 これも、本人歌唱映像ではありません。番組紹介では「数々の名曲、ご当地ソングが生まれた昭和の時代から、今なお歌い継がれている名曲を厳選。ハイビジョン収録の美しい映像とあわせてお楽しみいただける番組です」と記されています。
 東京編とあるように、他に大阪編もあり、フランク永井はその番組でも歌っています。大阪編は観ていませんが、双方の番組で流された曲は次の通りです。
 ≪東京編≫
 ♪銀座の恋の物語/石原裕次郎・牧村旬子
 ♪別れても好きな人/ロス・インディオス&シルビア
 ♪有楽町で逢いましょう/フランク永井
 ♪東京だよおっ母さん/島倉千代子
 ♪あゝ上野駅/井沢八郎
 ♪東京砂漠/内山田洋とクールファイブ
 ♪ラブユー東京/黒沢明とロスプリモス
 ≪大阪編≫
 ♪王将/村田英雄
 ♪月の法善寺横町/藤島恒夫
 ♪大阪ラプソディー/海原千里・万里
 ♪宗右衛門町ブルース/平和勝次とダークホース
 ♪大阪の女/ザ・ピーナッツ
 ♪大阪ろまん/フランク永井
 ♪大阪しぐれ/都はるみ

 なお、歌謡ポップスチャンネルでフランク永井の歌が登場する番組は、もうひとつあります。これは「時代を映す名曲アルバム#2.1956年-1965年」という、やはりシリーズものです。
 「戦後の各時代をいろどってきた演歌・歌謡曲から、歌謡ポップスチャンネルいちおしの1年1曲をセレクション。全7話にわたり、70年70曲をお届けします」と紹介されています。
 その第7話に「東京<都会の恋>わが心の演歌」として、西田佐知子の「アカシアの雨が止む時」、坂本九の「上を向いて歩こう」とともに、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」があります。

 往年の歌手については、当然ですが映像著作のこともあるのだろうと推察しますが、イメージ映像を背景に歌が流れるようになっているようです。その映像はカラオケなどとも似ていますが、それなりに落ち着き、親しませものになっています。
 思い起こせば、現代のきらびやかなビジュアル動画に慣れてしまっている傾向がありますが、ラジオの時代には映像はありませんでした。曲はレコードをそのつど掛けていたようです。ナビゲートするアナウンサーの紹介がその都度あって、それが大変楽しみだったのを想起します。
 歌はよほどのことがない限り、三番まで歌われ、作詞作曲者の名前もしっかりあげられていました。
 本人が映像で登場するようになってから、映像はぶつ切り傾向で、前奏や間奏が間抜けにみられ、三番まで歌われることがほとんどなくなりました。
 ファンがじっくりと楽しむのは、今のテレビに求めるものではないのですね。だから、この歌謡ポップスチャンネルのようなルートが求められているのかも知れないですね。

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 「流れの雲に」というフランク永井の曲は、川内康範作詞、渡久地政信作曲で、1962(S377)年に発売されました。鬼才同士の渾身の作品で、ファンの多い名作です。
 この曲は1998年に高倉健が吹き込んでいたのですが、ご本人の意思でレコードとして発売されずにいたものです。この度、名優高倉健の生誕90周年の区切りで発売に至りました。
 アルバム『風に訊け-映画俳優・高倉健歌の世界-』です。高倉健が歌って人気をえた著名曲が全15曲入っています。
 このアルバムでは、実はもう一曲初リリース曲があります。「対馬酒唄(つしまさかうた)」という曲(1997年録音)で、荒木とよひさ作詞、徳久広司作曲です。ビクターで録音した音源で、高倉健が歌っていながら未発売の2曲です。
 高倉健は映画俳優であって、基本的には歌手ではないのですが、彼独特の渋い歌唱は、一口聴いただけでファンにはさまざまな思い出が蘇るのではないでしょうか。
 高倉健のアルバムのタイトルは「風に聴け」です。「雲がこたえた 雲にきけ」に連動したものと推察します。
 この「風の流れに」は、フランク永井が歌ってから5年後に、テレビ朝日系ドラマ「野望」主題歌として採用されています。歌ったのは顔の渋さは誰にも負けない天地茂です。天地茂もポリドールから「流れの雲に」を主題歌として発売しています。1962年です。
 ファンにしてみればたまりませんね。この機会に、フランク永井と高倉健と天地茂という豪華な聴き比べをしてみました。いずれの曲も今なら、youtubeで楽しめます。

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