【告知】今年も歌コン再延期/フランク永井第一回リサイタル[資料2]リサイタルに寄せて

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【告知】今年開催予定の12回フランク永井歌コンクール」は再延期となりました。
 皆さんご承知のように、現在もコロナ禍は予断を許さない状態です。来年こそ、晴れ晴れとしたすっきりした気持ちで行われるのを、楽しみにしたいと思います。

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≪フランク永井第一回リサイタル 資料2 リサイタルに寄せて≫
前回の続き第2回です。

■(東京放送プロデューサー)三浦清史
《魅惑の低音》フランク永井・歌とその人

●情熱を注いだリサイタル
 昭和三十八年十一月三日、文化の日
 この日、フランク永井が、東京新宿の厚生年金会館大ホールで、過去八年間の歌手生活の集大成ともいうべき、リサイタルを催した。
 冷たい北風が吹きまくる屋外に比して、大ホールの中は、いささかの暑さを感ずるほどに湧いていた。
 ライトを浴びてステージに立ったフランク永井は、体ごと観衆に挑みかかるかとも思えるばかりに、熱のこもった歌いぶりで、ひとつひとつ心をこめて歌いつづけた。
 「このリサイタルは、僕自身の努力でやり遂げようと思っていますので、ことさらにゲストの方がたにご出演をお願いすることもせず、裸のままの僕を、皆きまり見ていただくつもりです」
 リサイタルの数日前に、築地のビクター・スタジオで会ったとき、こうフランク永井は語っていた。
 たんたんとした口調ではあったが、リサイタルにフランク永井が全精力を傾けていたことを、私はその翌日はっきりと知らされた。というのは、東京放送で私が担当している番組のゲストに出演してもらおうと、下目黒のフランク永井宅に電話したとき、「わずか五分くらい、マイクに向って話してくれたらいいのだけど......」と、私が話しかけたとたん、
 「悪いけど、今日からリサイタルの日までは、一切ほかの仕事をやらないことにしてるのですよ。それに、ご存知のとおり僕は無器用なものですから、今はリサイタルのことで頭が一杯になっていて、到底インタビューにも満足に答えられないかも知れませんよ」
 フランク永井は、こうことわりの言葉をのべた。
(何をいっているのだ、わずか五分のことなのに......携帯録音機を持って、押しかけてやろうかな)
 フランク永井とは、デビュー当時からの交際でもあるし、遠慮のない間柄なので、勝手に局の仕事のことばかり考えていた私は、強引に談じこんだ。
 「とにかく、お宅へお伺いするよ」
 「リサイタルが終ったら、いくらでもお仕事に協力するけど、今回だけはお受けできません」
 受話器を通じて響いてくるフランク永井の声には、一徹なまでの真刺さがこめられていた。
 あきらめて受話器を置いたあと、(リサイタルは、きっと成功するに違いないだろう)と、なぜか私は、爽快な気分になっていた。
 十一月三日夜、延々三時間にわたって、自分で司会しながら歌いまくったフランク永井リサイタルは、ファンの大喝采を浴び、充実した内容のものとなった。
 「八年間の歌手生活の中の、最も大きな収獲になったような気がします」頬を紅潮させながら、リサイタルのあと、フランク永井はこういった。
 この八年の間に、フランク永井は二〇〇を越える曲を歌っている。そして、年毎に新しい歌の境地を開拓してきた。
 低音ブームを捲き起した歌「有楽町で逢いましよう」の爆発的なヒットで、歌謡界トップスターの座を確保したフランク永井は、昭和三十四年度日本レコード大賞歌唱賞を、「夜霧に消えたチャコ」の完成された歌い方で受賞し、さらに、個性的な低音の魅力をフルに駆使して歌いあげた「君恋し」で、昭和三十六年度レコード大賞グランプリを獲得した。そして、今も血のにじむような精進を重ね、常に新しい魅力を創造し、絶えることなくフランク永井は、ヒット曲を生み出しているのだ。

●歌へつながる生い立ち
 昭和二十七年、品川の芝浦海岸沿いに、まだ駐留軍のモーター・プールがあったころのことである。
 ジープ、トレーラー・バス、大型トラック、乗用車などが、所せまいくらいに置かれてあるモーター・プールの中を、小柄な日本青年が足早に歩き回っていた。
 軽く口笛を吹きながら、きびきびした身のこなしで掃車し、故障の点検をし、給油をする。それが彼の日課なのだ。
 永井清人(フランク永井の本名)という名前のこの青年は、どんなに忙しいときでも口笛を吹くのを止めなかった。
 「僕は、ビング・クロスビー(Bing Crosby)が大好きでねえ......」と、清人はモーター・プールで働く仲間たちに、ジャズを歌って聞かせたりする気さくな性分なので、皆から好かれていた。
 このモーター・プールの、日本人従業員チーフは清人の兄であった。
 宮城県古河で映画館を経営していた父は、清人が六歳のときに亡くなり、母が父の後をついで、映画館を経営して、子供たちを何不足なく育ててくれた。
 六人兄弟の四番目であった清人は、温和な顔立ちのわりに、意志の強い子で、中学を卒業するとまもなく独立して、仙台の駐留軍キャンプでボーイとして勤めながら、苦学をつづけた。
 (どこまで、自分ひとりでやれるか、試練の意味でもできるところまでやりぬいてみよう)
 不安げな表情の母を説得して仙台へ出た清人は、英語を学び、自動車の運転免許を取得した。
 二十七年、十九歳のときに上京した清人は、兄と共同生活をしながら、品川の芝浦海岸にあった駐留軍のモーター・プールに勤めたのであった。
 勤めのかたわら、清人は、三田英語学校の夜学にかよい、猛烈に勉強に打ちこんだ。
 「あのころは、貧しかったけど、今にみていろっていう野心に燃えていましてね。それが何になろうというはっきりした目的があったわけでもなかったんですがとにかく、がむしゃらに勉強しましたよ。ときには、駐留軍キャンプで、アルバイトに歌ったりもしましたし、放送局ののど自慢にも出場しました」
 このころを語るとき、フランク永井の顔は悔いのない青春を思い浮かべて、明るく輝やく。
 清人青年のひたむきな情熱は、天分に恵まれていた歌の方に向けられ、ジャズ歌手としてビクターに迎えられた。
 芸名は、駐留軍のモーター・プールに勤めていたころ仲間たちから、「おい、フランク」と呼ばれ親しまれていたのをそのまま、姓の上につけてフランク永井と決めた
 三十年十二月「恋人よわれに帰れ」でデビューし、ついで、「ばらの刺青」「16トン」と、バス・バリトンの歌声で認められていったが、三十一年十月「場末のペット吹き」で歌謡歌手に転向した。
 三十二年には「東京午前3時」「夜霧の第二国道」などのヒットをとばし、詩情をよくとらえて、リズム感のよさとフィーリングのうまさを、低音に生かした歌い回しで、低音ブームを捲き起していった。この年の暮の「有楽町で逢いましょう」が、翌年にかけて日本の歌謡界に、決定的な低音時代を招来したのである。
 サックドレスにフラフープが流行した三十三年は、経済景気の上昇からも、娯楽的な面への風潮が強く、有楽町で逢う、デートするという事象が、社会にアッピールし易い状態でもあった。加えてフランク永井の魅惑の低音が、社会情勢と相まって、日本全国に歓迎されたのであった。この「有楽町で逢いましょう」のヒットにちなんで、私は「有楽町特集」を制作したがこれは、フランク永井を中心にして、ファンである落語家三升家小勝、宮田重雄、山口シズエ、浪曲家玉川勝太郎、長島茂雄の五氏に、第一生命ホール満員の客の前で、それぞれ「有楽町で逢いましょう」を歌っていただいたわけである。落語調、演説調、浪曲調と、さまざまな「有楽町で逢いましょう」を、フランク永井は、手拍子をとり、ときには一諸に歌うなどして、ゲスト諸氏に応援していたが、彼の人徳とでもいおうか、品のよい笑いに包まれた、歌謡番組の録音をとることができた。
 「西銀座駅前」「ラブ・レター」「俺は淋しいんだ」なども、三十三年の曲である。三十四年には「夜霧に消えたチャコ」「冷たいキッス」「東京ナイト・クラブ」と、大きく進境を示した。三十五年の「好き好き好き」「大阪野郎」「星になりたい」「東京カチート」など、一段と低音につやが増してきた。
 そして三十六年、「君恋し」で、日本レコード大賞グランプリを受けた。古い時代の歌を、フランク永井独自の個性で、完全に現代の歌として、再生させている点、この「君恋し」の歌い方は見事なものといえる。
 グランプリ受賞歌手はだめになる......というジンクスを破って、三十七年、「月火水木金土日の歌」(三十七年度レコード大賞作詞賞)「ひとりぼっちの唄」「新東京小唄」など、歌の心をしっかりつかんで表現する努力とともに、ホームソング風のものへも、意欲的に取組んでいった。何か新しい線を見出そうとするフランク永井の追求心が感じられる。「月火水木金土日の歌」は、従来のフランク永井にはなかった、面白い味が出ている。
 三十八年になると、「霧子のタンゴ」「わかれ」「はてしなき恋」「逢いたくて」など、八年間の実積を誇るにたる歌を出している。
 フランクおじさんシリーズのような仕事もファンにとっては、新しい魅力のひとつと思えるのであろう。
 最近、放送局へのリクエストなどにも、「お尻をぶつよ」などのリクエストなどが含まれているようだ。

●歌は心でうたうもの
 十一月三日、文化の日。この日にリサイタルを開いたのは、〝歌謡曲だって、文化の日にふさわしいものなのだ......″という。フランク永井の自負のあらわれからなのであろう。「歌は心でうたうものです。いくらよい声で美しく、また、確かな音程で歌ったとしても、感動のこもっていない歌い方では、人びとをとらえることはできないと思います。常に精一杯に歌えるよう、体の調子を整えるとともに、心で歌を表現することを第一義として、勉強したいと心がけていきます」。
 リサイタルの後、フランク永井はこう語っていた。
 日本人の胸の奥には、スローで美しい曲に対するあこがれのようなものが、潜在しているのは、万人の認めるところである。
 このように日本人の好みを満足させてくれるのが、フランク永井の歌なのだといっても過言ではないだろう。
 フランク永井のフアンの幅は、実に広い。老若男女あらゆる階層にわたって、強力に支持されている。誰からも愛されている。東北人的なシンの強さと、都会人的なやわらかさ。日本的な持ち味と、バタくささ。
 古風な感じと、新鮮な感じが、適当に入りまじって、フランク永井の魅力になっている。それらが、柔和な顔立ち、誠実な人柄、そして、素晴しい歌声に包まれているのだ。
 日本の歌謡界のために、いつまでもいつまでも、歌いつづけてほしいものだ。

●低音の魅力十分発揮
 きのう三日は〝文化の日〟――晴天に恵まれ都内各所ではいろいろの記念行事がくりひろげられたが、音楽会もいっぱい。昼間は文京公会堂で創立三十周年を祝う音羽ゆりかご会が公演、日比谷公会堂でコロムビアのアントニオ古賀がリサイタル。そして夜、ビクターのベテラン歌手フランク永井が新宿・厚生年金ホールで初のリサイタルを開き、この道八年の成果を世に問うた。
 フランク永井のリサイタルは定刻の七時、幕をあけた。初のしかもたった一回のリサイタルとあって会場はいっぱい。一階席などは通路までファンが立つ盛況だった。渡辺弘とスターダスターズに弦を加えたオーケストラをバックに、まず最初のヒット曲、「有楽町で逢いましょう」から歌い出す。
 いわゆる〝おとなの歌〟の歌えることで定評のあるフランクだけに、聴衆もハイティーンはすくなく、年配の人がほとんど。しかも聞き上手が多く〝お祭さわぎ〟の多い流行歌手のリサイタルとは、全く異質の雰囲気。
 「気が落ち着く安定剤があったら百錠でも二百錠でも飲みたし」。フランクはこうあいさつしたが、二曲目のヒット・メドレーあたりから、すっかりベテランの貫禄を取り戻したかたち。
 一部で数々のヒット曲、二部で童謡やポピュラー・ナンバー、そして第三部で吉田正作曲、指揮による新作「女の四季」の発表。のぴのあるパンチのきいた低音ボイスの魅力をフルに発揮して四十曲以上も歌いまくった。この日のフランクはまさにパーフェクトに近いでき。この成功に観客席から拍手のアラシがやまなかった。【スポーツニッポン:十月四日】

●幸運の歌手
レコ−ド大賞、制定委員会運営委員長 古賀政男
 フランク水井さん、今日のリサイタル御目出度う、心から御祝いします。
 現在の歌手の中で私の最も好きな声の持主である君に、かねがね私は一度でよいから、私の貧しい歌を唄って貰いたいと思っていります。言葉に多少のアクセントがあるとしても、それが決してきざに聞えないばかりか、かえって君の個性を生かして現代の息吹きさえ思わせる。
 君が最初に唄った時から、今日もその魅力ある声は、少しも衰えてないばかりか、益々美しく冴えている。
 この上、共に精進を積まれて、来るべきレコード・グランプリもまた獲得して下さい。
 菊花に映ゆる今日のリサイタル、重ねてお目出度う申し上げます。

■花登 筐
フランクさん あなたとは永い交際です。
あなたが「有楽町で逢いましよう」の大阪での始めてのショーのとき、私の生れて始めてショーの演出でもあったとき。
その時からずっと――今日まで。
フランクさん あなたは紳士です。
あなたはいつも、おおらかで、あの時の微笑みをずっと――今日まで。
フランクさん あなたは誠実です。
忘れもしません。あなたが結婚した直後「妻のために弱いポーカーを止めた」と僕らの前でカードを破り捨て、その手のうちを見せたことを。
フランクさん あなたはフランクです。
ただ少し変ったのは、一滴も呑まなかった酒が、三杯のブランデー党になったことが。
フランクさん あなたは素晴しい歌手です。

■実川延若
素晴らしいムード
 フランクさんおめでとう。〝公園の手品師〟や〝場末のペット吹き〟の曲が流れ始めた頃、あなたの歌に魅せられてから数年後、偶然にも北海道の旭川国際劇場のこけら落しにご一諸に出演し、宿では愉快な日をすごして以来、お付合いをさせていただくようになり、もうずいぶん長くなりますが、実のところリサイタルを催されるのが遅いくらいですよ。
 私がフランクさんのファンなのは、歌は勿論のことですが、スターであって、スターを意識しない謙虚な態度、立派なステージ・マナーは歌にまで、その人間的な魅力がにじみ出ています。一日の仕事を終えて後、一人静かに低音のムードにひたる時が、私の一番楽しい時間ですが、あなたの歌は何か美しい夢を連想させ、素晴らしいムードに酔ってしまいます。
 そして一曲一曲懐しい想出を作ってくれます。この度のリサイタルもまた、ファンは陶酔させられることでしょう。どうか日頃の努力を充分発揮して、素晴らしい歌を聞かせて下さい。大いに期待致しております。

■三笑亭可楽
 大正は遠くなりにけり......ですが、まだ私が若い大正の始め頃、浸草の観音様のお堂から、六区の方へむかって来ると、花屋敷の手前のところに、広い原っぱがあって、そこにある雨ざらしのベンチに、夕日が射していた時分、お寺と五重の塔の屋根に鳩がとんでいて、何とも言えない情緒がありましたが、フランク永井さんの"場末のペット吹き〟を聞いていると、必ずその時代のことが連想されてくるのです。
 フランクさんの歌は、私の考えでは欲がないから情景が出るのだと思います。
 "雨のメリケン波止場〟でも、そぼ雨の中を鴎が飛んでいる......という風な歌詞もいいけれど、薄暗いどんよりとした情景が、にじみ出てくるのが何とも言えないのです。
 落語でも、背景の出るようになるまでは、なかなか苦労がいるものですが、フランク永井さんの魅力もここにあるのだと、いつも私は楽しく聞かせていただいています。

■小倉友昭
 フランクさん、初めてのリサイタルおめでとう。考えてみれば、これが最初のリサイタルということは、不思議な気がするほどです。というのも、あなたは、もうとうに、リサイタルを持ったってもいい人だと思えるからです。それにしても、これが初めて、というのは、あなたのリサイタルに対しての真剣な姿勢がうかがえて、非常にうれしく思います。
 リサイタルというのは、歌手にとって、もっと晴れがましく、もっとも嬉しい舞台です。それを、今までやらなかった、というのは、あなたがいかに歌を大事にしてきたかを知らせるものです。
 この頃のあなたの歌は、そんなあなたの心がうかがえます。歌を大事に、歌を愛して、どんな言葉をも粗末にしないで歌うということは、もっとも難しいことです。
 あなたはこのもっとも難しいことをやっている。素晴らしいことです。このリサイタルで、その歌を聴くのを楽しみにしています。

■(大洋ホエールズ投手)鈴木 隆
 フランクさん、リサイタル、おめでとう。あなたとのおつき合いは、いつから始まったということもなく、今日に至っています。あなたの野球好きはもう天下周知のこと。なくなったと思ったチームも、いつの間にか再建して、なかなかのご活躍ぶりとか...。しかし、私があなたとのおつき合いを深めているのは、何も野球がとり結んでいるわけではありません。
 私が好きなのは、その名前のように〝フランク"なところなのです。そして明朗な人柄にひかれるからなのです。歌にもそれがはっきりあらわれているのは、いうまでもありません。美しい低音が魅力的なのはもちろんですが...。
 彼に会えないときでも、歌をきけば、私にはそれがはげましの声にきこえるのです。明るい感じて、ソフトに"おい、元気を出せよ"といっているかのように――。リサイタルにあたって、私も同じことばを彼への贈りものとしてさしあげておきましょう。

■北葉山
心からおめでとう
 いそがしいスケジュールのなかをさいて、本場所には最低一回はやってきてくれる。私も、彼の公演というと、楽屋までおしかけてゆく。しゃべり出すと、不思議にウマが合ってしまう。
 そういえば、私が優勝した場所、二回も長距離電話をかけて激励してくれたのを覚えている。これは本当にはげみになった。今度は私の番だ。
 公演が本場所だとすれば、歌手生活で初めてのリサイタルというものは、それこそ、優勝のかかった本場所みたいなものだろう。心からおめでとうをいうとともに、しっかりやって下さいと、はげましをおくっておこうといっても、力んだり、かたくなったりしないで欲しい。
 これは私たちと同じこと。そんな余計なことを言わなくたって、快活な彼のことだいつもの笑顔で、すばらしい歌をきかせてくれるとは思うけれど...。もう一度、心からおめでとう、しっかりやって下さい。

■九州から北葉山も激励に
 ビクター・フランク永井は初リサイタルを、三日午後七時から新宿厚生年金会館大ホールで、満員のファンを集めて行った。
 昭和三十年「恋人よわれに帰れ」でデビューしてから八年、この間五十曲以上のヒットを飛ばしながら、リサイタルははじめて。渡辺弘とスター・ダスターズ、ビクター・ストリングスの「有楽町で逢いましょう」など、ヒット曲のメドレー演奏によって「第一部フランクは歌う」(〝有楽町〟から〝逢いたくて〟)の幕があがった。
 上手から登場したフランク永井は「有楽町で逢いましょう」を歌ったあと、「家にいるのと同じ気持できいてください」と静かにアァンに語りかけた。一曲一曲感情をこめて、満員のファンの一人一人にしみじみと歌いかけた。
 第一部から二部「フランクと共に」まで三十四曲を、途中「東京ナイトクラブ」「月火水木金土日の歌」で松尾和子、古賀さと子、松島みのりの三人が共演しただけ。三部の新作「女の四季」(吉田正作曲)の序章から終章までの六部作、計四十曲をただ一人で歌いきかせた。
 リサイタルと名付けたものは数あるが、芝居はもちろん、ゲスト・スターもいないリサイタルだけに、熱っぽいふんい気がホールに充満。大相撲九州場所を控えた大関北葉山も、九州から飛行機でかけつけ花束を贈った。
 フランク永井が立つと厚生年金大ホールのステージは少しも広く感じない。通路までうめつくしたファンは歌にすべてをかける〝歌手フランク永井〟の歌のうまさと真剣さ、彼のすべてを歌うリサイタルに魅了されていた。【日刊スポーツ=十月四日】

■フランク永井後援会会長 愛知揆一
 フランク永井君が初めてのリサイタルを行なうことになった。その大成功を信じ、心から祝意を表したい。
 不肖、私はフランク永井君の後援会会長という役目にある。会う機会も少なく、何もしてあげることのできない会長ではあるが、その役目にあることは、私にとって誠に喜ばしいことであり、人に誇り得ることであると信じている。
 同県人(宮城県)の誼みなどという小さなことではない。もとより、わが郷土からフランク永井君のような、すぐれた歌手が誕生したことについて、県人として大いによろこび、その一層の成長を授ける気持ちは、十分以上に抱いているつもりではある。
 だが、しかし、同君はいまや日本のフランク永井である。その歌声は、日本の隅々にいたるまで浸透し、人々の心を結び合わせる力をもっている。そういう大きな眼で、わが後援会も同君をバックアップしてゆきたいし、私自身もまた、それを為すべく努力もしたいと思う。
 すぐやれた歌手であるということと同時に、私が同君にひかれるのはその人柄である。フランクとは、いみじくもつけたものだと思う。素直であり、明朗であり、まことに快活である。私は同君夫妻の結婚にあたり、不束ながら月下氷人を相つとめた。その婚約の許可を求めて、軽井沢に百瀬社長を訪ねた同君が、許しを得るや、深夜の道を想像を絶する超スピードで東京に立帰った、というエピソードを耳にしたとき、私はその仲人役に、これまでにない張りと、よろこばしさとを覚えたものである。
 このように、どの点からみても、フランク永井君は日本の代表的歌手なのである。それ故に、敢えて言いたい。この第一回リサイタルを契機として、毎年でもよい、そして東京だけでなくともよい、かならず続けてもらいたいと。それが、やはり真の意味での〝大歌手〟の仕事ではないかと思うからである。及ばずながら支援は引き受けた、と申し述べて激励の言葉としたい。

(最初のアップ時に、この記述の後に数人のお祝いを記したが、投稿量のサイズの制限の関係で、次回の記事に移します。)

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このページは、文四郎が2021年2月28日 17:23に書いたブログ記事です。

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