2021年2月アーカイブ

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【告知】今年開催予定の12回フランク永井歌コンクール」は再延期となりました。
 皆さんご承知のように、現在もコロナ禍は予断を許さない状態です。来年こそ、晴れ晴れとしたすっきりした気持ちで行われるのを、楽しみにしたいと思います。

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≪フランク永井第一回リサイタル 資料2 リサイタルに寄せて≫
前回の続き第2回です。

■(東京放送プロデューサー)三浦清史
《魅惑の低音》フランク永井・歌とその人

●情熱を注いだリサイタル
 昭和三十八年十一月三日、文化の日
 この日、フランク永井が、東京新宿の厚生年金会館大ホールで、過去八年間の歌手生活の集大成ともいうべき、リサイタルを催した。
 冷たい北風が吹きまくる屋外に比して、大ホールの中は、いささかの暑さを感ずるほどに湧いていた。
 ライトを浴びてステージに立ったフランク永井は、体ごと観衆に挑みかかるかとも思えるばかりに、熱のこもった歌いぶりで、ひとつひとつ心をこめて歌いつづけた。
 「このリサイタルは、僕自身の努力でやり遂げようと思っていますので、ことさらにゲストの方がたにご出演をお願いすることもせず、裸のままの僕を、皆きまり見ていただくつもりです」
 リサイタルの数日前に、築地のビクター・スタジオで会ったとき、こうフランク永井は語っていた。
 たんたんとした口調ではあったが、リサイタルにフランク永井が全精力を傾けていたことを、私はその翌日はっきりと知らされた。というのは、東京放送で私が担当している番組のゲストに出演してもらおうと、下目黒のフランク永井宅に電話したとき、「わずか五分くらい、マイクに向って話してくれたらいいのだけど......」と、私が話しかけたとたん、
 「悪いけど、今日からリサイタルの日までは、一切ほかの仕事をやらないことにしてるのですよ。それに、ご存知のとおり僕は無器用なものですから、今はリサイタルのことで頭が一杯になっていて、到底インタビューにも満足に答えられないかも知れませんよ」
 フランク永井は、こうことわりの言葉をのべた。
(何をいっているのだ、わずか五分のことなのに......携帯録音機を持って、押しかけてやろうかな)
 フランク永井とは、デビュー当時からの交際でもあるし、遠慮のない間柄なので、勝手に局の仕事のことばかり考えていた私は、強引に談じこんだ。
 「とにかく、お宅へお伺いするよ」
 「リサイタルが終ったら、いくらでもお仕事に協力するけど、今回だけはお受けできません」
 受話器を通じて響いてくるフランク永井の声には、一徹なまでの真刺さがこめられていた。
 あきらめて受話器を置いたあと、(リサイタルは、きっと成功するに違いないだろう)と、なぜか私は、爽快な気分になっていた。
 十一月三日夜、延々三時間にわたって、自分で司会しながら歌いまくったフランク永井リサイタルは、ファンの大喝采を浴び、充実した内容のものとなった。
 「八年間の歌手生活の中の、最も大きな収獲になったような気がします」頬を紅潮させながら、リサイタルのあと、フランク永井はこういった。
 この八年の間に、フランク永井は二〇〇を越える曲を歌っている。そして、年毎に新しい歌の境地を開拓してきた。
 低音ブームを捲き起した歌「有楽町で逢いましよう」の爆発的なヒットで、歌謡界トップスターの座を確保したフランク永井は、昭和三十四年度日本レコード大賞歌唱賞を、「夜霧に消えたチャコ」の完成された歌い方で受賞し、さらに、個性的な低音の魅力をフルに駆使して歌いあげた「君恋し」で、昭和三十六年度レコード大賞グランプリを獲得した。そして、今も血のにじむような精進を重ね、常に新しい魅力を創造し、絶えることなくフランク永井は、ヒット曲を生み出しているのだ。

●歌へつながる生い立ち
 昭和二十七年、品川の芝浦海岸沿いに、まだ駐留軍のモーター・プールがあったころのことである。
 ジープ、トレーラー・バス、大型トラック、乗用車などが、所せまいくらいに置かれてあるモーター・プールの中を、小柄な日本青年が足早に歩き回っていた。
 軽く口笛を吹きながら、きびきびした身のこなしで掃車し、故障の点検をし、給油をする。それが彼の日課なのだ。
 永井清人(フランク永井の本名)という名前のこの青年は、どんなに忙しいときでも口笛を吹くのを止めなかった。
 「僕は、ビング・クロスビー(Bing Crosby)が大好きでねえ......」と、清人はモーター・プールで働く仲間たちに、ジャズを歌って聞かせたりする気さくな性分なので、皆から好かれていた。
 このモーター・プールの、日本人従業員チーフは清人の兄であった。
 宮城県古河で映画館を経営していた父は、清人が六歳のときに亡くなり、母が父の後をついで、映画館を経営して、子供たちを何不足なく育ててくれた。
 六人兄弟の四番目であった清人は、温和な顔立ちのわりに、意志の強い子で、中学を卒業するとまもなく独立して、仙台の駐留軍キャンプでボーイとして勤めながら、苦学をつづけた。
 (どこまで、自分ひとりでやれるか、試練の意味でもできるところまでやりぬいてみよう)
 不安げな表情の母を説得して仙台へ出た清人は、英語を学び、自動車の運転免許を取得した。
 二十七年、十九歳のときに上京した清人は、兄と共同生活をしながら、品川の芝浦海岸にあった駐留軍のモーター・プールに勤めたのであった。
 勤めのかたわら、清人は、三田英語学校の夜学にかよい、猛烈に勉強に打ちこんだ。
 「あのころは、貧しかったけど、今にみていろっていう野心に燃えていましてね。それが何になろうというはっきりした目的があったわけでもなかったんですがとにかく、がむしゃらに勉強しましたよ。ときには、駐留軍キャンプで、アルバイトに歌ったりもしましたし、放送局ののど自慢にも出場しました」
 このころを語るとき、フランク永井の顔は悔いのない青春を思い浮かべて、明るく輝やく。
 清人青年のひたむきな情熱は、天分に恵まれていた歌の方に向けられ、ジャズ歌手としてビクターに迎えられた。
 芸名は、駐留軍のモーター・プールに勤めていたころ仲間たちから、「おい、フランク」と呼ばれ親しまれていたのをそのまま、姓の上につけてフランク永井と決めた
 三十年十二月「恋人よわれに帰れ」でデビューし、ついで、「ばらの刺青」「16トン」と、バス・バリトンの歌声で認められていったが、三十一年十月「場末のペット吹き」で歌謡歌手に転向した。
 三十二年には「東京午前3時」「夜霧の第二国道」などのヒットをとばし、詩情をよくとらえて、リズム感のよさとフィーリングのうまさを、低音に生かした歌い回しで、低音ブームを捲き起していった。この年の暮の「有楽町で逢いましょう」が、翌年にかけて日本の歌謡界に、決定的な低音時代を招来したのである。
 サックドレスにフラフープが流行した三十三年は、経済景気の上昇からも、娯楽的な面への風潮が強く、有楽町で逢う、デートするという事象が、社会にアッピールし易い状態でもあった。加えてフランク永井の魅惑の低音が、社会情勢と相まって、日本全国に歓迎されたのであった。この「有楽町で逢いましょう」のヒットにちなんで、私は「有楽町特集」を制作したがこれは、フランク永井を中心にして、ファンである落語家三升家小勝、宮田重雄、山口シズエ、浪曲家玉川勝太郎、長島茂雄の五氏に、第一生命ホール満員の客の前で、それぞれ「有楽町で逢いましょう」を歌っていただいたわけである。落語調、演説調、浪曲調と、さまざまな「有楽町で逢いましょう」を、フランク永井は、手拍子をとり、ときには一諸に歌うなどして、ゲスト諸氏に応援していたが、彼の人徳とでもいおうか、品のよい笑いに包まれた、歌謡番組の録音をとることができた。
 「西銀座駅前」「ラブ・レター」「俺は淋しいんだ」なども、三十三年の曲である。三十四年には「夜霧に消えたチャコ」「冷たいキッス」「東京ナイト・クラブ」と、大きく進境を示した。三十五年の「好き好き好き」「大阪野郎」「星になりたい」「東京カチート」など、一段と低音につやが増してきた。
 そして三十六年、「君恋し」で、日本レコード大賞グランプリを受けた。古い時代の歌を、フランク永井独自の個性で、完全に現代の歌として、再生させている点、この「君恋し」の歌い方は見事なものといえる。
 グランプリ受賞歌手はだめになる......というジンクスを破って、三十七年、「月火水木金土日の歌」(三十七年度レコード大賞作詞賞)「ひとりぼっちの唄」「新東京小唄」など、歌の心をしっかりつかんで表現する努力とともに、ホームソング風のものへも、意欲的に取組んでいった。何か新しい線を見出そうとするフランク永井の追求心が感じられる。「月火水木金土日の歌」は、従来のフランク永井にはなかった、面白い味が出ている。
 三十八年になると、「霧子のタンゴ」「わかれ」「はてしなき恋」「逢いたくて」など、八年間の実積を誇るにたる歌を出している。
 フランクおじさんシリーズのような仕事もファンにとっては、新しい魅力のひとつと思えるのであろう。
 最近、放送局へのリクエストなどにも、「お尻をぶつよ」などのリクエストなどが含まれているようだ。

●歌は心でうたうもの
 十一月三日、文化の日。この日にリサイタルを開いたのは、〝歌謡曲だって、文化の日にふさわしいものなのだ......″という。フランク永井の自負のあらわれからなのであろう。「歌は心でうたうものです。いくらよい声で美しく、また、確かな音程で歌ったとしても、感動のこもっていない歌い方では、人びとをとらえることはできないと思います。常に精一杯に歌えるよう、体の調子を整えるとともに、心で歌を表現することを第一義として、勉強したいと心がけていきます」。
 リサイタルの後、フランク永井はこう語っていた。
 日本人の胸の奥には、スローで美しい曲に対するあこがれのようなものが、潜在しているのは、万人の認めるところである。
 このように日本人の好みを満足させてくれるのが、フランク永井の歌なのだといっても過言ではないだろう。
 フランク永井のフアンの幅は、実に広い。老若男女あらゆる階層にわたって、強力に支持されている。誰からも愛されている。東北人的なシンの強さと、都会人的なやわらかさ。日本的な持ち味と、バタくささ。
 古風な感じと、新鮮な感じが、適当に入りまじって、フランク永井の魅力になっている。それらが、柔和な顔立ち、誠実な人柄、そして、素晴しい歌声に包まれているのだ。
 日本の歌謡界のために、いつまでもいつまでも、歌いつづけてほしいものだ。

●低音の魅力十分発揮
 きのう三日は〝文化の日〟――晴天に恵まれ都内各所ではいろいろの記念行事がくりひろげられたが、音楽会もいっぱい。昼間は文京公会堂で創立三十周年を祝う音羽ゆりかご会が公演、日比谷公会堂でコロムビアのアントニオ古賀がリサイタル。そして夜、ビクターのベテラン歌手フランク永井が新宿・厚生年金ホールで初のリサイタルを開き、この道八年の成果を世に問うた。
 フランク永井のリサイタルは定刻の七時、幕をあけた。初のしかもたった一回のリサイタルとあって会場はいっぱい。一階席などは通路までファンが立つ盛況だった。渡辺弘とスターダスターズに弦を加えたオーケストラをバックに、まず最初のヒット曲、「有楽町で逢いましょう」から歌い出す。
 いわゆる〝おとなの歌〟の歌えることで定評のあるフランクだけに、聴衆もハイティーンはすくなく、年配の人がほとんど。しかも聞き上手が多く〝お祭さわぎ〟の多い流行歌手のリサイタルとは、全く異質の雰囲気。
 「気が落ち着く安定剤があったら百錠でも二百錠でも飲みたし」。フランクはこうあいさつしたが、二曲目のヒット・メドレーあたりから、すっかりベテランの貫禄を取り戻したかたち。
 一部で数々のヒット曲、二部で童謡やポピュラー・ナンバー、そして第三部で吉田正作曲、指揮による新作「女の四季」の発表。のぴのあるパンチのきいた低音ボイスの魅力をフルに発揮して四十曲以上も歌いまくった。この日のフランクはまさにパーフェクトに近いでき。この成功に観客席から拍手のアラシがやまなかった。【スポーツニッポン:十月四日】

●幸運の歌手
レコ−ド大賞、制定委員会運営委員長 古賀政男
 フランク水井さん、今日のリサイタル御目出度う、心から御祝いします。
 現在の歌手の中で私の最も好きな声の持主である君に、かねがね私は一度でよいから、私の貧しい歌を唄って貰いたいと思っていります。言葉に多少のアクセントがあるとしても、それが決してきざに聞えないばかりか、かえって君の個性を生かして現代の息吹きさえ思わせる。
 君が最初に唄った時から、今日もその魅力ある声は、少しも衰えてないばかりか、益々美しく冴えている。
 この上、共に精進を積まれて、来るべきレコード・グランプリもまた獲得して下さい。
 菊花に映ゆる今日のリサイタル、重ねてお目出度う申し上げます。

■花登 筐
フランクさん あなたとは永い交際です。
あなたが「有楽町で逢いましよう」の大阪での始めてのショーのとき、私の生れて始めてショーの演出でもあったとき。
その時からずっと――今日まで。
フランクさん あなたは紳士です。
あなたはいつも、おおらかで、あの時の微笑みをずっと――今日まで。
フランクさん あなたは誠実です。
忘れもしません。あなたが結婚した直後「妻のために弱いポーカーを止めた」と僕らの前でカードを破り捨て、その手のうちを見せたことを。
フランクさん あなたはフランクです。
ただ少し変ったのは、一滴も呑まなかった酒が、三杯のブランデー党になったことが。
フランクさん あなたは素晴しい歌手です。

■実川延若
素晴らしいムード
 フランクさんおめでとう。〝公園の手品師〟や〝場末のペット吹き〟の曲が流れ始めた頃、あなたの歌に魅せられてから数年後、偶然にも北海道の旭川国際劇場のこけら落しにご一諸に出演し、宿では愉快な日をすごして以来、お付合いをさせていただくようになり、もうずいぶん長くなりますが、実のところリサイタルを催されるのが遅いくらいですよ。
 私がフランクさんのファンなのは、歌は勿論のことですが、スターであって、スターを意識しない謙虚な態度、立派なステージ・マナーは歌にまで、その人間的な魅力がにじみ出ています。一日の仕事を終えて後、一人静かに低音のムードにひたる時が、私の一番楽しい時間ですが、あなたの歌は何か美しい夢を連想させ、素晴らしいムードに酔ってしまいます。
 そして一曲一曲懐しい想出を作ってくれます。この度のリサイタルもまた、ファンは陶酔させられることでしょう。どうか日頃の努力を充分発揮して、素晴らしい歌を聞かせて下さい。大いに期待致しております。

■三笑亭可楽
 大正は遠くなりにけり......ですが、まだ私が若い大正の始め頃、浸草の観音様のお堂から、六区の方へむかって来ると、花屋敷の手前のところに、広い原っぱがあって、そこにある雨ざらしのベンチに、夕日が射していた時分、お寺と五重の塔の屋根に鳩がとんでいて、何とも言えない情緒がありましたが、フランク永井さんの"場末のペット吹き〟を聞いていると、必ずその時代のことが連想されてくるのです。
 フランクさんの歌は、私の考えでは欲がないから情景が出るのだと思います。
 "雨のメリケン波止場〟でも、そぼ雨の中を鴎が飛んでいる......という風な歌詞もいいけれど、薄暗いどんよりとした情景が、にじみ出てくるのが何とも言えないのです。
 落語でも、背景の出るようになるまでは、なかなか苦労がいるものですが、フランク永井さんの魅力もここにあるのだと、いつも私は楽しく聞かせていただいています。

■小倉友昭
 フランクさん、初めてのリサイタルおめでとう。考えてみれば、これが最初のリサイタルということは、不思議な気がするほどです。というのも、あなたは、もうとうに、リサイタルを持ったってもいい人だと思えるからです。それにしても、これが初めて、というのは、あなたのリサイタルに対しての真剣な姿勢がうかがえて、非常にうれしく思います。
 リサイタルというのは、歌手にとって、もっと晴れがましく、もっとも嬉しい舞台です。それを、今までやらなかった、というのは、あなたがいかに歌を大事にしてきたかを知らせるものです。
 この頃のあなたの歌は、そんなあなたの心がうかがえます。歌を大事に、歌を愛して、どんな言葉をも粗末にしないで歌うということは、もっとも難しいことです。
 あなたはこのもっとも難しいことをやっている。素晴らしいことです。このリサイタルで、その歌を聴くのを楽しみにしています。

■(大洋ホエールズ投手)鈴木 隆
 フランクさん、リサイタル、おめでとう。あなたとのおつき合いは、いつから始まったということもなく、今日に至っています。あなたの野球好きはもう天下周知のこと。なくなったと思ったチームも、いつの間にか再建して、なかなかのご活躍ぶりとか...。しかし、私があなたとのおつき合いを深めているのは、何も野球がとり結んでいるわけではありません。
 私が好きなのは、その名前のように〝フランク"なところなのです。そして明朗な人柄にひかれるからなのです。歌にもそれがはっきりあらわれているのは、いうまでもありません。美しい低音が魅力的なのはもちろんですが...。
 彼に会えないときでも、歌をきけば、私にはそれがはげましの声にきこえるのです。明るい感じて、ソフトに"おい、元気を出せよ"といっているかのように――。リサイタルにあたって、私も同じことばを彼への贈りものとしてさしあげておきましょう。

■北葉山
心からおめでとう
 いそがしいスケジュールのなかをさいて、本場所には最低一回はやってきてくれる。私も、彼の公演というと、楽屋までおしかけてゆく。しゃべり出すと、不思議にウマが合ってしまう。
 そういえば、私が優勝した場所、二回も長距離電話をかけて激励してくれたのを覚えている。これは本当にはげみになった。今度は私の番だ。
 公演が本場所だとすれば、歌手生活で初めてのリサイタルというものは、それこそ、優勝のかかった本場所みたいなものだろう。心からおめでとうをいうとともに、しっかりやって下さいと、はげましをおくっておこうといっても、力んだり、かたくなったりしないで欲しい。
 これは私たちと同じこと。そんな余計なことを言わなくたって、快活な彼のことだいつもの笑顔で、すばらしい歌をきかせてくれるとは思うけれど...。もう一度、心からおめでとう、しっかりやって下さい。

■九州から北葉山も激励に
 ビクター・フランク永井は初リサイタルを、三日午後七時から新宿厚生年金会館大ホールで、満員のファンを集めて行った。
 昭和三十年「恋人よわれに帰れ」でデビューしてから八年、この間五十曲以上のヒットを飛ばしながら、リサイタルははじめて。渡辺弘とスター・ダスターズ、ビクター・ストリングスの「有楽町で逢いましょう」など、ヒット曲のメドレー演奏によって「第一部フランクは歌う」(〝有楽町〟から〝逢いたくて〟)の幕があがった。
 上手から登場したフランク永井は「有楽町で逢いましょう」を歌ったあと、「家にいるのと同じ気持できいてください」と静かにアァンに語りかけた。一曲一曲感情をこめて、満員のファンの一人一人にしみじみと歌いかけた。
 第一部から二部「フランクと共に」まで三十四曲を、途中「東京ナイトクラブ」「月火水木金土日の歌」で松尾和子、古賀さと子、松島みのりの三人が共演しただけ。三部の新作「女の四季」(吉田正作曲)の序章から終章までの六部作、計四十曲をただ一人で歌いきかせた。
 リサイタルと名付けたものは数あるが、芝居はもちろん、ゲスト・スターもいないリサイタルだけに、熱っぽいふんい気がホールに充満。大相撲九州場所を控えた大関北葉山も、九州から飛行機でかけつけ花束を贈った。
 フランク永井が立つと厚生年金大ホールのステージは少しも広く感じない。通路までうめつくしたファンは歌にすべてをかける〝歌手フランク永井〟の歌のうまさと真剣さ、彼のすべてを歌うリサイタルに魅了されていた。【日刊スポーツ=十月四日】

■フランク永井後援会会長 愛知揆一
 フランク永井君が初めてのリサイタルを行なうことになった。その大成功を信じ、心から祝意を表したい。
 不肖、私はフランク永井君の後援会会長という役目にある。会う機会も少なく、何もしてあげることのできない会長ではあるが、その役目にあることは、私にとって誠に喜ばしいことであり、人に誇り得ることであると信じている。
 同県人(宮城県)の誼みなどという小さなことではない。もとより、わが郷土からフランク永井君のような、すぐれた歌手が誕生したことについて、県人として大いによろこび、その一層の成長を授ける気持ちは、十分以上に抱いているつもりではある。
 だが、しかし、同君はいまや日本のフランク永井である。その歌声は、日本の隅々にいたるまで浸透し、人々の心を結び合わせる力をもっている。そういう大きな眼で、わが後援会も同君をバックアップしてゆきたいし、私自身もまた、それを為すべく努力もしたいと思う。
 すぐやれた歌手であるということと同時に、私が同君にひかれるのはその人柄である。フランクとは、いみじくもつけたものだと思う。素直であり、明朗であり、まことに快活である。私は同君夫妻の結婚にあたり、不束ながら月下氷人を相つとめた。その婚約の許可を求めて、軽井沢に百瀬社長を訪ねた同君が、許しを得るや、深夜の道を想像を絶する超スピードで東京に立帰った、というエピソードを耳にしたとき、私はその仲人役に、これまでにない張りと、よろこばしさとを覚えたものである。
 このように、どの点からみても、フランク永井君は日本の代表的歌手なのである。それ故に、敢えて言いたい。この第一回リサイタルを契機として、毎年でもよい、そして東京だけでなくともよい、かならず続けてもらいたいと。それが、やはり真の意味での〝大歌手〟の仕事ではないかと思うからである。及ばずながら支援は引き受けた、と申し述べて激励の言葉としたい。

(最初のアップ時に、この記述の後に数人のお祝いを記したが、投稿量のサイズの制限の関係で、次回の記事に移します。)

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 フランク永井に関する当時の資料を整理する日々です。1963年の文化の日に開催された第1回のリサイタルについては、ビクターから当時LPは発売されずに、ソノシート(ミュージック・ブック)でのみリリースされました。主に第一部からのヒット曲と第二部の洋楽カバーなどが納められています。
 後日にこのリサイタルのパンフレットを見ることができて、ソノシートとパンフを並べてみると、本人の挨拶を含めて、多くのお祝いの記事があることが分かりました。私の資料の整理は、記録を残そうということが目的です。それを書き残しておくことで、後日の研究者の資料になればというのが望みです。
 内容は当然フランク永井というひとりの歌手をほめたたえるものですが、これを一覧すれば、当時の時代の匂いがわかります。開催されてからすでに半世紀経過します。当然記事は発言者と出版社であるビクター著作です。著作権が無くなっていると思われますが、不都合のご指摘を当事者からございましたら記事は取り消しますが、貴重な内容の資料として数回に分けて掲載させていきたいと思います。
 なお、文字起こしに際して、判読できない箇所もありました。表記については、一部現在の記述ルールに変更させてもらいました。

フランク永井第一回リサイタル
■期日:1963年11月3日(日)PM7時
■場所:厚生年金会館大ホール
■主催:日本ビクター株式会社
■制作:ヒタダー芸能株式会社
●制作スタツフ
吉田正/川内康範/三林亮太郎/今井直次/佐藤邦夫
●ゲスト
松尾和子/古賀さと子/松島みのり
渡辺弘とスターダスターズ/浜田清とフランクス・ナイン
ビクター・シンフォニック・オーケストラ
東京混声合唱団/ハニー・ナイツ

第一部 フランクは歌う
 "有楽町〟から"逢いたくて〟まで
 ■演奏/渡辺弘とスター・ダスターズ
 ■編曲/寺岡真三・小沢直与志・野々村直造
「有楽町で逢いましょう」「場末のペット吹き」「羽田発7時50分」
「星になりたい」「大阪野郎」「東京午前三時」「冷いキッス」「東京カチート」
「夜霧の第二国道」「西銀座駅前」「俺は淋しいんだ」「ラブ・レター」
「好き好き好き」「東京ナイト・クラブ」「夜霧に消えたチャコ」「君恋し」
「たそがれ酒場」「新東京小唄」「わかれ」「霧子のタンゴ」
「ひとりぼっちの唄」「逢いたくて」
(渡辺弘とスター・ダスターズ、寺岡真三・小沢直与志・野々村直造編曲)

第二部 フランクと共に
「公園の手品師」「ねむの木」「月火水木金土の歌」
「I Really Don't Want To Know(知りたくないの)」
「It's A Sin To Tell A Lie(嘘は罪)」
「My Heart Cries To For You(わが心はむせび泣く)」
「The Rose Tattoo(ばらの刺青)」
「Lover Come Back To Me(恋人よわれに帰れ)」
「Love Is A Meny SPlendored Thing(慕情)」
「Endress Love(果てしなき恋)」「The Falling Leaves(枯葉)」
「Somebody Loves Me(みんなが誰かを愛している)」
「If You Love me(愛の讃歌)」「Red Sail In The Sunset(夕陽に赤い帆)」
「想い出の湖」「It's Been A Long Time(ひさしぶりね)」
「Sixteen Tons(16トン)」「My Heart Belongs To You(戦場の恋)」
「こいさんのラブ・コール」
(浜田清とフランクス・ナイン)

第三部 女の四季
序章 川内康範
 春には春の悲しみが
 夏には夏のやるせなさ
 おさなごころにちりばめた
 夢に落葉が放りかかる
 燃ゆる心に雪が降る
 季節の外で雪が降る
  ああ 春もなく 秋もなく
  女は 心に四季を 持っている
「微笑み」「夏の終りに」「秋」「冬子という女」
終章 川内康範
 秋には秋の花が咲く
 冬には冬の花が咲く
 けれどわたしはあの人の
 影を抱きしめ生きている
 咲かぬ花ゆえいとしくて
 季節の外で泣いている
  ああ、この想い誰か知る
  女は心に四季を抱いている
(ビクター・シンホニック・オーケストラ、東京混声合唱団)

■フランク永井からリサイタルのご拶挨
 歌い始めてもう8年たってしまいました。
 30年に、日本ビクターへ入社したときのことが昨日のようでもあり、また遠い日のできごとだったようにも思われるのです。
 その間、多くの方々のあたたかい励ましと、ご援助とによって200曲を超える歌をうたわせていただきました。そして、日本レコード大賞、同歌唱賞、いくつかのヒット賞をいただく光栄にも浴しております。もとより、それりは、私自身の力ではなく、作詞、作曲、編曲の先生方、会社のディレククー諸氏のお力によるものであることはいうまでもありません。でも、そのようなすぐれた作品を与えられてきた私は、歌手としてもっとも恵まれた一人であると信じております。何回か迷いの雲のなかに落ち込みながらも、そこから脱出できたのは、その〝恵まれた立場〟を信じたからかも知れません。
 こんなにも多くのすぐれた歌を与えられた私――それを思えは、もっと早くリサイタルを行って、私の歩んできた道というよりは、それらの歌をたくさん聴いていただくべきだったと思います。事実、何回かリサイタルをやってみようと考えたことはあります。しかし、やれませんでした。
 特別の、大それた理由があったわけではありません。何となくこわかったのです。あるときは吉田先生のリサイクルの準備を傍らで拝見して、これは大変なことだ、うかつな気特でリサイタルをやろうとしたらえらいことになる――そんなことを感じたこともあります。それに、リサイタルということの意味を何となく重苦しく感じていたことも確かなのです。
 8年目にやっと実現できることになったのも、これまた特別の意味はありません。ただ、今年になってから"リサイタルをやりなさい〟というおすすめを多くの方からうけ、自分でもその気になったのです。いわゆる"機が熟した〟ということなのでしょうか。
 やる以上は、一生懸命やるつもりです。いままでの自分のすべてを注ぎこむつもりなのはむろんのことです。それとともに、吉田正先生が新しく書いて下さる「女の四季」と取り組むことによって、これからの方向をたしかめることもできるのではないかと、内心ひそかに期待を大いている次第でもあります。
 こんな風に、私自身としては大しいにハッスルしているのですが、そうかといって決して、仰々しい会にしようとか、自分の限界を超えた背のびの会にしようとかいうつもりではありません。あらたまったご挨拶をしようというのでもありません。
 というか、いつものフランク永井として聴いていたたきたいと思います。もしも、みなさまが"フランクと一緒に楽しく遊ぶことができた〟と、リラックスした気分で、今宵のひとときを過してしていただけたら、私としてこれに過ぎるよろこびはありません。
 この機会をかりて、8年間、私をあたたかく見守って下さったファンのみなさま、諸先生、関係各位に厚く御礼を申し述べさせていただきます。

恩師吉田正からの挨拶
心の歌を歌う人
 フランク永井君がリサイタルを開くことになった。実に感慨無量だ。なんとなく自分のリサイタルのような気持ちにさえなる。
 異常な緊張感を覚える。何故かひとごととは思えない。六月の末に、私自身二度目のリサイタルを終えて、やっと最近こなって、心身の疲労とシコリがとれたばかりだというのに......。
 早いものでフランク君とおつき合いをしてから八年になる。ポピュラー・ソングの歌手としてビクターから出て数カ月たったころだったろう。彼は会社のすすめで流行歌手に転向することになって、私のところへ来たわけだ。誠実な、実に気持ちのよい青年、という印象だった。
 年が若いに似ず、何か知ら大人っぽい感じをうけた。謙虚で少しも浮わついたところがなく、ソフトな感触の奥にコチッとした強いシンがあった。この感覚は大歌手になった今日でも少しも変らない。
 フランク君の歌は全くその性格の通りだ。何んのケレンもなく正面から作品に取っ組んでくる。大仰な振りはしないが、歌そのものは深く大きい。
 細かいところにまで精神が行きとどいて、極めてていねいな歌である。そして決まるところでちゃんと決めて安心感がある。派手さはないが、渋く暖かい愛情がじんわりとにじんでくる。よくいわれる「濡れて来ぬかと気にかかる」(有楽町で逢いましょう)の情愛ムードも、フランク君なればこその表出、と私は考える。実に得難い歌手である。私もずいぶん多くの歌手と仕事をしてきたが、恐らく彼ほどの歌手が今後現われるかどうか判らない。
 彼とても今日ここまで来るまでには、人知れず苦労と悩みもあったこ違いない。歌手になる前のそれは別としても、スター歌手の座こついてからも少くも数回はあったのではないか。それが何んであるか、憶測して書くことは控えるが、私には判るような気がする。ある意味で創作する者にも通ずる宿命のカベのいろいろではないだろうか。彼はその都度、自らの努力で乗り越えてきた。そして益々歌に深さを加えた。
 フランク永井は日本で数少い大人の歌手だ、といわれる。私も同感である。若い人たちの独占のように思われてきた日本の流行歌の幅をグンとひろげて、成長した歌手の年齢とキャリアに応じた歌を歌える人、フランク君はそのような歌手だと思う。日本の流行歌が欧米のそれのように大人の歌として、哀歓のヒダの深い人生の歌を謳いあげる人、心の歌を歌う人、それがフランク君だと私は見る。
 だから私は、何から何まで知り合っている間がらだが、判っているからといって作品の上で安易に妥協はしたくない。彼の豊かな資質にオンブすることは厳に戒めたいと心に願っている。裏を返していえば或る種の闘争であるかも知れない。フランク君の可能性のレールのずっと先で、彼のために仕事をしたい。いつまでもいつまでも......。たいへん思いあがって口幅ったいことをいってしまったようで、冷汗ものだが、実をいうと、こんどの新曲「女の四季」もそのような考え方で、じっくり取っ組んだつもりである。
 どうか厳しいご批判をいただきたい。
 ごく最近になって彼はいった。「先生のリサイタルの前の晩、大阪のホテルで寝つかれなくて困りましたよ」――どうやらこんどは私の番らしい。
 落ちつかない。おそらくフィナーレの幕がおりるまでがタがタしていることだろう。

佐伯孝夫
十二人の中の一人
 ついこの間のような気がしますが、考えてみればもう八、九年前のことになります。
 ビクターの歌手陣に新人十二人の準専属者がグループとして加ったことがありました。会社ではこの人々に、明日への大きな期待をかけたことでしたが、その中の一人がフランク永井さんでした。
 「フランク」とは彼がそれまで働いていた進駐軍用モーター・プールでつけられたニックネームだとのことでした。そうして、得意とするポプラー・ソングでデビューした彼が間もなく歌謡曲歌手に転向したとき、一層のことその歌手名も、新しいものに変更したらという動議も出されましたが、すでに私の邦語歌詞で「バラの刺青」など歌って貰っていたからというのでなく、何か特別に親近感以上のものを「フランク永井」という名に感じていました。
 「フランク永井」にはトラックの整備の油と埃りにしみたポロ布れを握り苦労に負けないで、前を向いている若者フランクの、小柄ながらダイナミックで新しい頼もしいイメージを感じさせるものがあり、しかもそうした彼の声は、彼らしい生活の涙を素直に含んでいました。名前を変更しない方がいいと、私も主張した一人であったように覚えております。
 さて、その新人十二人がスタートしたとき、フランクは決して最切からトップをつっ走っていたのではありませんでした。前にも申したようにポピュラー歌手という、言わば別格的な存在でした。転向後も、そうした事情から、「有楽町で逢いましょう」を、彼に歌って貰うことに決るまでは、たとえそれまでに「裏街のトランペット(場末のペット吹き)」や「東京午前三時」などがあったにしろ、ここ大一番の企画に参加して貰うことには、かなりの難色が表示されたのでした。当時としてほ、いわゆる常識を破ることであり、それに随伴する危険性を顧慮されたのでした。
 ここはどうしてもフランクでいきたいと主張し強く望まれたのは、彼を手がけていた吉田正先生であり、私などそれにもっともらしく附和雷同したようでした。そうして、彼が「有楽町で逢いましょう」を実力の真価を発揮して大ヒットしてくれたことは、同時に私が試みたがっていた、一つのことへの確信をもたらしてくれたばかりでなく、次作品への自信とさえなってくれました。いまでも本当に有難く思っております。
 いつでしたか、フランクがこの「有楽町で逢いましょう」の吹込みのとき、私にはじめてほめられて嬉しかったと、気のいい笑顔で話してくれたことがありました。たしかに、その吹込みのとき心ひそかに、これでフランクは「第一線歌手」として定着出来るし、してもくれると思ったのです。私のような舞台裏の人間にはこうした瞬間が、涙がこぼれる程うれしいのです。
 「フランクの歌には心がある」というのは吉田先生の口癖せですが、先生は多々あるお弟子さんの中でフランクを最も身近かに感じている、というより、むしろ一歩進めて、自分が歌手だったらこんな心の籠った歌い方をしたいという、純粋な気持ちを深く投影さしているのではないかとさえ思われます。
 ある時、フランクの口から意外にも、麻布十番の寄席(現在は映画館)の話が出ました。フランクはモーター・プールで働き、キャンプで歌い、三田英語学校の夜学に通い、そうした中での少しの余暇を、いじらしくもこの寄席の木戸をくぐることによって、楽しんでいたのだそうでした。私もそんなころ、何か吹切れずモクモクとして、モグラのようにくすんでいましたが、またしても、その同じ寄席へ通っていました。あまり入りのはかばかしくない客席でした。きっとまだ知らぬ同志ながら、私とフランクは二度や三度は顔を合せていたでしょう。うれしい奇縁です。
 年来オッチョコチョイの私も、フランクに会っていると心が落着いてきます。彼は渋くて重厚でひかえ目です。だが、これ以上渋くならないで下さい。いろいろな意味合で...。
 フランクさん! リサイタルおめでとう、心からお祝い申します。

川内康範
努力と奇蹟のリサイタル
 昨今の芸能人の浮沈の激しさは驚くはかりである。映画、テレビ、レコード、この三つの世界ても、とくにレコード界はその交替が激しいようである。昨年まではスターだった者が、今年はもう流れ星の如く消えているか、あるいは、あるか無しの存在となってしまう。
 人はたまたま、レコード界を卑俗な流行歌手の世界として軽視しがちであるか、それは十年も昔の世俗的観念を今日にあてはめての感想にちがいない。
 ナメテほいけない。今や、レコード界は、作詩家も作曲家も歌手も、旧来の如き観念をもって安穏たり得る可能性は、きわめて少くなっているのである。このことは幾多の音楽評論家達の、つとに指摘してやまないところであるが、ことほと左様に、レコード界の生存競争は非常な厳しさを伴いながら進行してしいるのである。したがって、生半可な人気に頼っている者はどしどし落伍し、やがて流れ星の運命を辿るのであるが、その反面、己れの仕事を栄誉あらしめんとする者は、血の出る様な努力を重ねている。
 僕は、その典型的タイプを、フランク永井の人間像に発見する。彼はこれまでに幾度も失意の現実にぶつかって来た。もはや、二度とフランク永井の時代は来ないであろうと極言する批評家もあったのである。だが、フランクは、見事に努力の集積によって奇蹟の人となった。歌手としての厳しい道を歩むことは、人間として先づ、己れ自身の悲運に克つことてある――ということを立派に実証して見せたのである
 彼の師である吉田正氏は評する。「フランクは、人間として大きく成長した」。
 僕は、これに勝るフランク永井評はないと思う。彼は、この師匠にこたえて自分の城を築き上げた。
僕はいま、創作歌謡「女の四季」の構成を吉田氏と打ち合せしなから、フランク永井のしあわせを、誰よりもつよく祝福している人間は、この世に吉田正氏の他にないのだと感じている。

時雨音羽
低音の魅力
 フランク永井君は、わが国の歌謡界に、低音の魅力というかつてなかったのを、広めてくれた人だ。それはちょうど、ヒタヒタとひたむきに押しよせて来る、渚の満ち潮のようで、何ものをも満さずにはおかない、烈しさと悩ましさがみなぎる。その魅力が「有楽町で逢いましょう」で、低音ブームを捲き起し、「君恋し」でレコード大賞をとり、「霧子のタンゴ」で低音時代を築いた。きびしい歌手修業の試練を見事乗り切ったその努力が実を結んだもので、なみなみならぬものがあったと思われる。
 またよく歌の心を汲みわけて、どんな歌でも、なおざりにしない歌い方も立派である。いかに巧みに歌っても、真実のこもらぬ歌に、感動の起る筈はない。今や君は大衆になくてはならぬ一人となった。この初リサイタルを期に、いよいよ愛される低音の魅力を更に確立して欲い。

利根一郎
人間フランク(永井清人)
 フランク永井、これは本当は(スマイル永井)といった方がいい位に、彼はスターの何たるかを知っている男である。
 スターは、一生涯わすれてはならぬことがある。それはスマイル(笑顔)である。自分ひとりでなったのではない。周囲の人達の援助があってなれたのだということを彼は真から知っている。(それは大なり小なり)だから、現在の業界(レコード界)で彼を悪く云う者は一人もいない。それも彼がどんな小さなことでも感謝を忘れないからである。
 その例に、これは名を秘すが、ある歌い手さんだが、フランクがスターになってから相手の歌手がまだラチがあかずにいるとき「ぼくと一緒に仕事をしないか」といって、相手の窮状を少しでも助けられたらと思ったのだろう。そういってくれたといって、その歌手が私に話してくれたことがある。それ以来、私は彼をスターとしてのフランクでなく、人間としての永井清人が好きなのである。ともあれリサイタルおめでとう、益々栄光あらんことを心から祈る。

渡久地政信
「お世辞なき歌声」
 コトコト...コトコト...君が乗った人生の歌の旅への汽車が今日も二本のレールの上を走り続けて行く。ある時は実に快適に、そして又或る時はスローテンポを味い乍ら、窓外に眺める物言わぬ景色の彼方に、昨夜別れ際、心に留めた親切な宿屋のおかみさんの声をふと憩い浮べる。
 おばさん、ほんとにありがとう。フランク君はお世辞のいえない人なんだ。そしてこの様にそっと想い出して、礼をしている人なんだ。君の「歌の中にはお世辞がない」真実...これ程、人の心を暖めるものはない。いうことは簡単でも至難なことである。そこに君の人間性を発見し、そこから発散する君の心の歌に、我々は心から拍手を送りたい。
 風花雪月、人は皆不変な目然の偉大さ美しきに驚歎しながらも、自らは心の真実を置き忘れているのではなかろうか。人生はあまりにも厳しい。走り続ける汽車も停留所は必要だ。「リサイタル」これはある意味での停留所だと想う。ここで一息ついて燃料を補給し、新たな歌の時代へと、君は養進していくことと想う。静かに、暖かい君のお世辞なき歌声を聞き乍ら、何日までも君の後姿を見送っていたいと想う。

宮川哲夫
 「場末のペット吹き」に始まって、「第二国道」「羽田発」「夜霧に消えたチャコ」と、どちらかといえは、暗く、重たい、私の詞の欠点を、いつも、カバーして、唄ってくれたのが、フランクさんの、甘く、ソフトな低音でした。
 人気絶頂にいる時も、大歌手として、大成された現在も、いつも変らず、エコエコと、その顔から、明るい笑いを消さない、フランクさんを見る度に、私は、「偉いナ」と思い、「立派だナ」と思います。
 ここまで書いて来て、ふと、気がつきました。デビュー以来、何年になるでしょう?「誰からも愛される」フランクさんが、「誰からも尊敬される」フランクさんに変っていたのです。「君恋し」「霧子のタンゴ」、その他、最近の、数々のヒットソングの中から、私の名前は消えてしまいました。
 明日でもいい、明後日でもいい、せめて一つだけでもいい、フランクさんに、心から喜んで唄っていただけるものを、作詞したい。そうして多年のご交誼に酬いたい、今日、そんな気持がしきりです。

松尾和子
今後ともご指導を
 昨今数多くの歌手がリサイタルをやっておりますが、何かお祭り的な感じのものが多い中に、フランクさんのリサイタルは、ほんとうの意味のリサイタルだな、とつくづく感じさせられました。
 私は前からフランクさんの歌に羨望の気持を抱いておりましたが、いままたその偉大さに頭の下がる思いです。
 今後とも、リサイタルを一つの契機として、一段と飛躍されることを心よりお祈りし、私達後進歌手の良き指導者と成って下さることをお願い致します。
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 フランク永井の第ファンで親しくしているJさんから、連絡がありました。フランク永井「データブック」に記載されていない曲がありますとのことでした。
 「データブック」にない曲と聞くと、私は敏感になり、詳細をお訪ねしました。すると、橋幸夫が唄うSPのB面にある「赤い夕陽」という曲だというのです。
 それを聞いてピンときました。実は「データブック」の最終確認のミスで、手元の赤字校正用の「データブック」で気づいていたものです。
 Jさんは『橋幸夫のSPのA面は「わが生涯は火の如く」という曲で、同名映画の主題歌なんです。そしてその曲は後日、EPでも発売されているのですが、その盤のB面はフランク永井の「赤い夕陽」ではなく、別の曲「故郷の花はいつでも紅い」になっているのです』という調査結果まで教えてくださいました。
 そして、もしかして「渡久地政信作曲の曲(作詞伊吹とおる)ですね」というと「フランク永井の新曲の発見だと思ってました」と残念がっておられたのです。しかしこれはJさんの大発見でもあるのです。
 橋幸夫のSPのカップリングで発売されていたことも、後のEPでは外されたことも知りませんでした。
 写真はJさんに送っていただいたSPからのものです。ありがとうございます。
 私は「赤い夕陽」について、気づいたときに当ブログに報告を上げたと思っていたのですが、後で探しても見つからず、勘違いだったと反省しました。
 「赤い夕陽」がフランク永井版では1960年に発売された「魅惑の低音第8集」に掲載されているのですが「データブック」では「赤い夕陽に」と誤記していました。
 「赤い夕陽に」は1963年に発売された「ロマンの街」(VS-1058)のB面の同じ渡久地政信作曲(作詞佐伯孝夫)の曲です。
 誤記の原因はやはり私の思い込みからでした。大変失礼しました。

 写真でお分かりのように、橋幸夫のSPというのは当時ビクターが海外版用で並行して使用していたレーベルの RCA Victor です。正確な発売年月は不明ですが、おそらく映画「わが生涯は火の如く」(ニュー東映、1961年6月公開)の制作が始まったときと思われます。
 「魅惑の低音第8集」は1960年の11月です。橋幸夫のEPが出たのは、1962年5月(VS-521)なので、これは映画公開のほぼ1年後です。
 B面の「故郷の花はいつでも紅い」は、佐伯孝夫作詞、吉田正作品製品です。当時流行だったラジオ番組、三菱重工提供「田園ソング」で流れたものです。
 なお、映画「が生涯は火の如く」は、消防士の活躍を扱ったもののようです。日中戦争から米占領軍といった時代背景をもった、人々の悲喜こもごもを描いていて、当時消防士の間では橋の歌がよく歌われていたとの記録もあります。

 さて、お詫びとして、データブックの目次箇所の訂正文を下記に記しますので、お持ちの方は訂正をしておいていただければと存じます。基本的に誤字を除けば「赤い夕陽」と「雨」について、似た名前あるいは同名を一つとしていたことです。

p76:1段中
 ■フランク永井・愛の詩集の行削除
P78:2段3行目に追加
 赤い夕陽 16
P78:2段3行目
 赤い夕陽は 24,59
P78:2段下から5行目
 雨 25,60
P78:2段下から5行目に追加
 雨 34
p79:2段6行目
 酒場の花 45,46,47
p82:2段下から2行目
 坊や...... 32
p83:2段
 婿さがし八百八丁 9
p83:3段中
 夢二恋歌 45
p84:1段下記行削除
 ■フランク永井・リサイタル
p86:1段
 ■第1回リサイタル 27,57,67
p85:2段曲名挿入
 伊吹とおる 赤い夕陽(16)
p86:1段、文字訂正
 坂口淳 婿さがし八百八丁
p89:1段、追加
 渡久地政信 赤い夕陽(16)
p91:1段、最終行文字訂正
 婿さがし八百八丁
p92:1段、曲名追加
 渡久地政信 赤い夕陽(16)
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 1月26日の朝日新聞の「ひと」欄をみました。「昭和のムード歌謡を研究する芸人~タブレット純さん」という記事です。
 この「ひと」欄は、2012年に私も紹介されたことで、興味ある方が登場したらなるべく観るようにしています。
 タブレット純さんについては、ムード歌謡関係の書籍をいくつか出しているということで、名前だけは存じ上げていましたが、それ以上知りませんでした。
 コラムの記事は朝日新聞の芸能・文芸関係の大御所である小泉信一さんが書かれています。私のときもそうでした。映画寅さん「男はつらいよ」とか最近ではアイヌの話題とか、記事を書いておられました。
 たいへん興味をひく内容なので、一部紹介させてただきます。
 【甘くせつなく、ささやくように歌う。男と女の恋物語やネオン街の情景を描く「ムード歌謡」。東京の銀座や赤坂など舞台になった街を訪ね、歌が生まれた時代背景や世相を研究している。
 「コロナ禍でつぶれたスナックやクラブもあり、胸が痛んだ」...
1960年代の高度成長期。「人々を殖やしたのは、ふるさとへの望郷歌でなく、都会的で洋楽色の濃いムード歌謡だった」と言う...】
と、素晴らしい内容でした。
 ご当人は27歳のときに、和田弘とマヒナスターズのボーカル欠員募集に応募して、田渕純としてしばらく舞台で歌っておられたとのことです。
 マヒナスターズといえば、フランク永井と同じビクターの所属で、いくつものフランク永井の恩師吉田正の作品をヒットさせています。
 また、彼は昨年に「タブレット純のムードコーラス聖地巡礼」という書籍を出版されたとのことです。
 ここまで知ってしまえば、彼をフォローしてみようという気にならないわけがない。ということで、これならと彼の著作「タブレット純音楽の黄金時代レコードガイド~素晴らしき昭和歌謡」という書籍を注文して読ませていただいた次第です。

 本の内容はご自分が持つラジオ番組で、話しながらかけたレコード紹介の文字起こしがベースでした。
 いつフランク永井は登場するのかと期待を膨らましつつ、読み進めたのです。ところが、終盤になっても登場する気配はありません。
 ということで、私的な私の趣向によるきわめて変更した期待には応える内容ではなかったのです。
 ただ一か所、ご自分が所属した和田弘とマヒナスターズの曲はいくつも触れています。そのくだりで、吉田正を紹介するときに「彼の作曲にはフランク永井さんの「霧子のタンゴ」があります」とひとこと登場します。
 現在にムード歌謡を語る方々は、なるほど、すなのか、とつくづくと思わされました。
 タブレット純さん自身、私の年代とは異なります。だから注視するポイントが、同じムード歌謡を扱っても違うのですね。
 書籍をみてそれを確信したのですが、私の年代の一つ下からの視点の傾向があるのです。
 ひとつは、曲作りのスタッフのレコード会社専属制度への離反意識です。作曲家吉田正、作詞家佐伯孝夫、編曲家寺岡真三などはビクターの社員として制作にあたっており、相当の例外を除いて他のレコード会社の歌手への歌の提供は禁止されていたのです。
 これは映画俳優も当時はそうでした。ニュー・ミュージシャンという人々は、それに猛烈に反発していって、独立した自由な勝負を志向していき、日本に新しいジャンルを作り出した功績があります。
 さらに、聴かせるターゲットを若者の層にあてたことです。多少は若者への迎合があるともいえますが、その若者の多くは、いわゆる演歌という分野のメロディーを極端に嫌いました。
 演歌臭さをなくした曲作りを意識して、その後の分野を切り開いたのは事実です。ロック、フォーク、グループ・サウンズなどです。
 そして、この系統は当然のごとく、一人の並外れた歌唱力というのにも反発し、グループやペアなど複数の人が、身体を揺り動かしながら合唱するのに魅かれていく傾向です。
 ビクター・オーケストラとかの演奏ではなく、そのグループがギターなど楽器を持ちながら独自に演奏までするようになります。
 タブレット純さんの話や各方向もおのずと、そちらを向いているということです。
 だから、フランク永井に限らないのですが、当時の歌手は、歌唱がうまく、個性があり、いちど聴いたら耳に長くこびりつくような味わいがありました。ただ、テレビ時代の前の歌手であるため、ビジュアル的には動きが少なく、現在のと比べたら相違がはっきりしています。
 私の場合は、偏向がもう改まることがないほど固まってしまっていて、若い歌手のテレビ映像を観ていても、うるさいだけで、せわしない動きには耐えられません。
 いつものことですが、また横道にそれましたが、それにしても、ムード歌謡の若い研究者が紹介されることは大歓迎です。

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