2020年12月アーカイブ

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 歌謡曲の世界で昭和歌謡を背負った二人の偉人が世を去られました。なかにし礼と中村泰士のお二方です。心からのご冥福をお祈りいたします。

 お二人が組んで大ヒットを遂げた作品は、細川たかしが歌った「北酒場」があります。

 なかにし礼はフランク永井に多数の歌を書いています。最大のヒット曲は1983(S58)年の「旅秋」(裏面「さよならは左手で」も)でしょう。作曲は恩師吉田正で編曲は高田弘がした名曲です。
 いちど聴いたら忘れられない愛のムード、旅の情緒が広がります。フランク永井の抑えた、しっとりした歌唱は素晴らしいものです。
 なかにし礼の書いた曲は大変多く、いずれも秀逸です。シャンソンの翻訳などから流行歌を書くという仕事に、重点を変化していって、菅原洋一に書いた曲があります。
 「知りたくないの」です。これは時間をかけてじわっと人気を得て、ついには菅原洋一の代表曲に連なっています。フランク永井は、菅原洋一と区別が分からないよ、というような声をときどき聞きますが、1984(S59)年に発売したアルバム「ANSWER ME MY LOVE ワルツをあなたに」でカバーしています。
 フランク永井のもいいんですね。
 なかにし礼については、とうブログでも何度か取り上げました。それは歌に表現された表現の背景にある、彼の戦争体験に関係しています。同感したのは、戦争で自ら受けた理不尽を超え、過酷過ぎる体験を、愛と別れに変えて表現したという点です。
 「エロスがなければ平和はない。戦争がないからこそ、柔軟で不良な時間を楽しめる」と公言してはばからなかった、人生への姿勢です。彼自身の言葉によれば「戦争への甘美な復讐」だというのだから、すごい。
 彼は、その姿勢で平和の大事さを訴え続けたのです。

 中村泰士さんがフランク永井に提供した歌は2曲です。1979(S54)年「グラスの氷」(裏面「ひかげうた」も)です。
 当時は思ったような売れ行きではなかったようですが、40年後に改めてじっくり聴いてみると、しみじみとした、静かないい曲です。フランク永井の歌った歌は、晴天、歓び満面の歌は多くなく、失恋、放心、ひとり思いといった暗い、哀愁に満ちたものが多く、この二曲も、そうした心情を描いたものです。
 中村泰士の初期の代表曲であげられる園まりの「夢は夜ひらく」があります。確かに今でも歌い継がれる」曲です。
 「夢は夜ひらく」は以前に藤田功(曽根幸明)を話題にしたときに触れましたが、一筋縄ではいかない、曲をめぐるエピソードがあります。
 元は作者不明の曲で曽根が採譜し「藤原伸」の名で歌ったものです。そのメロディーをベースに次つぎと別の歌詞がつけられ、園まりをはじめ、緑川アコ、バーブ佐竹盤などが出ました。大きなヒットを手にしたのは藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」です。歌い手によって作詞家がことなり、編曲も別ですので、曲名の同じ別唄になっています。
 これにあやかってか、実はフランク永井も「フランクの夢は夜ひらく」を歌っちゃっています。
 「デラックス20 フランク永井~夜のムード」(1974:20CP-8031-PONY)です。大変珍しい、所属のビクターではないポニーのオリジナル企画のテープ版である。よくぞ、こんなもの出してくれました、ポニーさん。
 実はこのテープは熱心なフランク永井のファンである友人の方からの情報です。ほんとに感謝しております。

 なかにし礼、中村泰士というお二方の訃報に接し、関係曲をあたらめて聴きながら、つらつらとそのようなことを思い浮かべました。
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 中国圏でのフランク永井人気は聞くところによれば、いまだ健在のようです。中国圏と表現したのは、大陸本土であり、台湾でもあります。さらに言えば、中国語が多用される周辺国家も含め、人気があるようです。
 上記写真では「フランク永井傑作集~霧子のタンゴ」と「フランク永井ヒット曲集」です。
 ちなみにその右のものについては、後述します。
 youtubeなどで検索すれば分かりますが、恐らく台湾でしょうが、フランク永井の曲は男性歌手ばかりでなく、若い女性の歌手も見受けられます。
 独自のアレンジで若いバンドが演奏し、決して古くない「羽田発7時五十分」とかが楽しめます。
 中国と日本は1972頃に国交回復をし、同時に台湾との国交は断絶しました。フランク永井人気は親日的な台湾ばかりでなく、本土でもお隣の南北朝鮮でも広く人気があったのです。
 理由はよくわかりません。だが、バタ臭いというか、堪能な英語の発音、日本人離れの低音、秀逸な歌唱力が好まれたのはまちがいないでしょうね。
 1965年には、台湾にフランクス・ナインとともに演奏旅行にも出かけています。楽団メンバーがその時の映像や、訪問時のエピソードをライブで語り演奏したLP(「魅惑のオンステージ」)も閲覧できます。
 当時の写真の一シーンにフランク永井が現地で楽団とともに利用したとおぼしき自動車(バン)の前のフランク永井があります。その自動車に「大光勝利公司」といういう文字と「Victor Nivico」と書かれています。Nivicoは日本の所属レコード会社ビクターが当時使用していた海外版レコードのレーベル名です。
 これを見るとビクターは台湾に支店のようなものを設置していて、正式に普及活動をしていたのかも知れません。
 これまで幾度も紹介していますが、レコード盤の生産は日本で行い、Nivicoのシールを貼って輸出して現地で発売していたものと思われます。
 しかし、この正式な盤は限られていたために、現地のファンのニーズには十分に応えられず、当時は著作権への認知はあったものの、厳格さが現在のようでなく、数多くの「海賊版」が作られたようです。
 これは上記写真のように、何故か一見してそれだ(違法な海賊版)と分かるように作られています。多くは日本から持ち込まれたレコード盤のデッドコピーですが、さまざまなソースから集めて独自に編成したものもあります。
 音量がばらばらなので、すぐわかります。音質は、これも何故か、必ず悪いです。ただ、現在改めて聴いてみると、妙なフレッシュさを感じ取れます。
 「美空ひばりの花のステージ」(1956年製)は半分以上の曲が初めて聴くものでした。彼女は数多く吹き込んでいますので、理由は私自身にあるのでしょうが、妙に感心しながら楽しみました。
 小林旭が表紙のものは全部中国語なのでよくわかりませんが、1960年代の日本のヒット曲集のようです(1967年製)。
 西川峰子の「津軽海峡冬景色」、青江三奈の「長崎の女」などのカバーも聴けます。「あなただけを」はあおい輝彦の曲とばかり思っていたのですが、和田弘歌唱とあります。聴いていてどうもマヒナの和田弘とは思えません。といってもバンドマスターの和田弘の歌は聴いていないので比べられないのですが。。。
 またこの盤には「涙的小花」(電影主題歌)という歌手名無記載の曲があります。聴けばこれは朝鮮語です。きちんとした男性歌手の歌唱です。
 この手の「海賊盤」を作る技術は、もしかして当時、台湾が中心だったのかも知れません。これが密かに大陸へ、朝鮮へとはこばれてえいったとものと考えられます。
 中国本土で手にしたという人も、韓国で手にした、日本で手にしたというのも、ほとんどが台湾製です。台湾製というのは、中に発行元と自称する会社の住所や名前が記されているものも結構あるということです。
 日本にいる私にはそれがほんとに実在する住所や会社名なのかの判別はつきかねるのですが、まさか堂々と実在する会社が作るとは思えないからです。
 当然ライセンス生産という正規盤があってもおかしくないのですが、それにしては音質がひどいとか、音量がそろえられていないという杜撰さは、やはり不正な海賊盤だと言えるかと思います。
 これら不正な海賊版は、著作権に関する国際的な取り決めや、違法行為についての罰則が強化されて、表の世界からは消えていきます。
 1980年代になると、エンターテインメントのソースはデジタル化され、海賊版は安易に出回ることはなくなりました。
 中国圏、台湾と言っているのは、盤にきされている住所が台湾らしいこともあるのですが、使われている漢字が繁体字だからです。大陸は簡体字という省略字形を使っているのですが、台湾では、難しい字画の多い昔からの正統な漢字を今でも使っているので判別できます。

 さて、話は急に変わりますが、先の大戦中のことです。ご存知の方も多いかと思いますが、上記写真の真ん中あたりの「レントゲン盤」です。
 これを初めて知ったのは、レコード収拾の知人から聞かされたときです。数年前に新聞の小さなコラムでも紹介されていました。
 戦中は生活物資が枯渇してしまい、レコード生産をする際の資材にも影響して、盤が思うように生産できなかったそうです。知人の話は、ロシアの例でした。
 最初はだれが考えたのか分かりませんが、病院のレントゲン写真を撮影したときの不要になったフィルムに目を付けて、これを利用した盤が作られたとのことでした。
 なるほど、これなら、戦後一時期流行ったソノシート盤のようなものだと、理解できました。その知人から、もうあげるよと、その数少ないと思える貴重盤をいただいたのですが、実はどこに大事に仕舞ったのか、無くしてしまったのです。
 不始末はその方がもうおられないのでお詫びもできませんが、海賊盤からそのようなことも思い出した次第です。

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 今回はフランク永井は登場しません。フランク永井の現役時は、当然この歌手協会に所属し、1985年の第7回歌謡祭で「おまえに」を熱唱していた映像が残されています。

 年頭からの新型コロナウイルスの流行で、今年は例年の2日間の長時間開催は中止されました。テレビ東京のスタジオから、2夜おのおの4時間、計8時間に及ぶ歌謡番組として放送されました。
 現役の第一線で活躍する著名な歌手ばかりでなく、幾人かはなかなかテレビ番組ではお目にかかれない歌手も登場しました。司会はメインが例年通りの合田道人で、サブは何人かの歌手が勤めました。2夜で105曲歌われました。

 ブログで何度か触れていることですが、歌好きの人でも、全般的にすべて歌は好きだという人は多いわけではなく、ほとんどは好きな歌の傾向、好きな歌手の傾向があります。つまり、嗜好が一人ひとり異なるわけです。
 著名な歌手というのは、比較的多くの歌好きから好まれるヒット曲を持つ歌手なわけです。スポーツでも芸人でも人気の人と、そうでない人では収入に雲泥の差があり、自らの生活を支えるためにさまざまな本職外の仕事についており、どちらが本職か分からない状態で頑張っておられる方もいます。

 十年以上前になりますが、勤めていた事務所に顔を出していた女性の歌手がおられました。この方はこの季節になるとこの歌謡祭にでる、でないの境におられました。「今年は出る」といって、入場券をすすめられ、当日間近になって、実は健康を害され出場辞退のハプニングがおこりました。
 ご本人の歌唱はちゃんと聞いていなかったので、それなりに楽しみに期待していたのですが、このようなこともあることを知った次第です。
 著名な歌手は、歌手に専念でき、プロの意識は徹底していて、喉の調子を崩さないようにと風邪などひかないように、ちょっと異常にみえるほどの注意を払っています。実際にスケジュールを乱す辞退などは、事情によっては以後の仕事に影響しますから、当然ですね。

 さて、余談で話が膨れましたが、歌は嗜好品という関係から、歌手協会歌謡祭は長時間となり、通して観るのは辛いことが多いです。お酒をちびりながら、ちゃちを入れつつ観るのですが、さすがに8時間の長丁場は年寄りには過酷です。
 そのために、録画して鑑賞することにしたのですが、観る方針を決めました。これはと感じたものはじっくり見る、この程度でいいやというものは一番を聞いたら30~40秒程度早送りする、これは特に聞かなくてもいいと思ったものは最初の10秒程度だけにする、というふうにしました。
 それでも、相当な時間を要し、3回に分けたような次第です。

 今年はオリンピック開催の予定だったので、前の東京オリンピックの開会マーチを作った古関裕而のコーナーがありました。そこで代表作の一つ「イヨマンテの夜」を細川たかしが歌いました。声量満開でしたね。
 北から南まで日本列島の地域を追ったコーナーでは「そして神戸」ですが、この曲は内山田洋とクールファイブで前川清の歌唱と思い込んでいたのですが、実は野村将希のアルバムの一曲だったのだと紹介がありました。
 今年惜しまれた亡くなった筒美京平偲ぶコーナーでは、まず岩崎宏美の「ロマンス」。歌唱が安定してましたね。
 続いてジュディ・オングの「魅せられて」。ここでの蝶のような衣装には衝撃を受けましたね。当時から、よくぞ、こんな仕組みを考えたと深く感心したものです。彼女は当時のテレビドラマで好きな時代劇に出演していて、近年再放送されているのを観て楽しんでいます。
 ふだんあまり観ることのできない歌手の姿を観るのも、この番組の楽しみです。この度の番組では、サザエさんの主題歌を歌った宇野ゆう子さん。流行った当時は可愛い子供であった「黒ネコのタンゴ」の佐川おさむさん。

 フランク永井の姿を観れないのは残念ですが、歌で世を励ました歌手たちの功績は偉大です。歌手協会の歌謡祭がこれからも続いてくれれることを願います。しかも年寄りになっても歌い続けているのだぞという姿を見せてください。
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 私の住まいではテレビ電波障害の関係で、JCOMのサービスを受けているせいか(どこでもなかのか不明)、JCOMの放送が観れます。
 日曜日の夕刻に「有楽町で逢いまSHOW」が放送されます。これについて少しばかりご紹介をしたいと思います。
 中山秀征が司会をするこの番組は、日本音楽事業者協会の企画制作で2012年4月からニッポン放送で始まったものとのことです。有償番組として記憶している「歌謡ポップス」チャンネルでの放送であったようです。
 しかし5年後の2017年3月に終了し、2019年2月からJCOMで放送を再開したとのことです。30分のコンパクトな番組です。
 日本音楽事業者協会では【歌謡曲の顧客層が年々高齢化してる事を鑑みて新たな打開策として、1957年のフランク永井の大ヒット曲である「有楽町で逢いましょう」を捩り、「ここから第2の「有楽町で~」となるような、全国区になるヒット曲を生み出したい」との意図を持って企画製作を行い、番組を制作した】とのことです。
 歌謡曲ファンにはうなづける主旨ですが、果たしてそのように展開されているのか、ぜひ、観れる環境にある方はぜひご覧になって判断をしていたら、いかがだろうか。

 「有楽町で逢いましょう」というのはフランク永井の代表曲だが、同目の番組がかつてあったんです。
 それはまさに「有楽町で逢いましょう」がフランク永井によって発売された、その年のことになります。このブログでは、この歌の発売時のエピソードは何度も書いていますし、ファンの方が他であれば皆さんご承知のことかと存じます。
 大阪から東京の中心地に進出をきめた百貨店そごうが、1957に有楽町の現在の「ビッグカメラ」の場所で開店しました。ここは報知新聞のあった場所で、GHQの方針で同系列となった読売新聞がそこに「読売会館」を建てる計画があり、そのビルの6階までをそごうに貸すことになったようです。
 7階から9回は読売ホールです。ちなみにカドカワ映画館(角川シネマ有楽町)は8階にあります。
 都心とはいえ、有楽町は当時少しも世に知られておらず、戦後の象徴でもあるような闇市があったところです。汚く暗いイメージを読売会館とそごうのオープンで明るい街に一新しようという強い思いがありました。
 美空ひばりが塩酸をかけられ負傷という暗いニュースがありましたが、東京タワーの着工、NHKテレビ受信契約数が50万に到達、スキーヤーのトニーザイラーが初来日、南極「昭和基地」建設などの明るい希望が持てるニュースもありました。
 読売会館とそごうと地元は、このオープンを大きなきっかけにしたいということで、テレビ番組、映画、小説(雑誌「平凡」)、レコード会社、新聞広告という巨大なジョイント企画を立ち上げます。
 会館内の日本テレビのスタジオから、昼にウイークエンドミュージカル番組「有楽町で逢いましょう」が3月から放送されました。提供はもちろんそごう一社。つまで続いたのかはわかりません。
 5月に読売会館とそごうがオープン。そごうの開店には、雨天にかかわらず30万人が詰めかけて列をつくったと言われています。
 7月にはビクターからフランク永井による歌が出ることが発表されました。発売は11月です。10月発売の「週刊平凡」で小説(映画とは内容が異なる)が連載開始されました。映画は新年の封切りでした。
 まあ、GHQから日本の芸能・スポーツを一手にまかされたという正力松太郎の読売がかんで実行された「有楽町高級化キャンペーン」です。こうした巨大ジョイントは後にも先にもありません。これで成功しないわけがない、実際に大成功だったわけです。
 もちろん、初めてのエアーカーテン、吹き抜けのフロアといったあか抜けたそごう。ティールームとかロードショーとかといったハイカラな歌詞。都会のムードを表現するフランク永井の歌唱は、日本中に夢と希望を膨らませるのに十分でした。企画の内容と表現が的を得た勝利でした。

 時は経過し、2000年そごうは経営がなりたたず閉店を迎えます。翌年現在のビッグカメラが入りました。
 佐伯の作った歌詞の一節「雨もいとしや...」は、有楽町の華となっている-YURAKUCHO ITOCiA-(2007)にひき継がれました。マリオンの横には「有楽町で逢いましょう」の歌碑(2008)が置かれています。
 読売会館から少し歩いたところにニッポン放送のスタジオがあり、中山秀征の「有楽町で逢いまSHOW」はここで撮影されています。長く続き、意図したような素晴らしい流行歌が生まれることを祈願しています。

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