フランク永井恩師吉田正の功績を含む「北関東歌謡の系譜」を「常陽藝文」が紹介

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 公益財団法人常陽藝文センターが発行する月刊誌「常陽藝文」2020年6月号で「北関東歌謡の系譜」が特集された。
 「常陽藝文」の特集は実に充実した内容であり、見るたびに感心する。最新号では茨城、栃木、群馬の関東北部地域から出た昭和歌謡の偉人に焦点を当てている。
 当誌では過去に野口雨情、門井八郎、西條八十、吉田正、矢野亮と特集で紹介している。6月号ではそうした内容の総集編的なものとなっている。当ブログではフランク永井に関連する情報の紹介で吉田正のときの特集をとりあげている。
 北関東とは表記されているが、その直上には福島がある。福島は歌手春日八郎、作曲家古関裕而がおり、密接な関係をもっている。また、今回の特集では、水戸出身の日吉ミミ、幼年期を笠間で過ごし第二の故郷と呼び結婚式を挙げるまでした坂本九まで紹介している。
 こうした偉人たちのひととなり、出生、業績を単に取り上げるにとどまらず、時代の流れとの関係について、深く掘り下げて論じているのがいい。「歌は世につれ、世は歌につれ」とよく言われるが、ここでも指摘されているが、世が歌につれることなどない。しかし、歌が世を構成する大衆に巨大な影響を与えた当時の時代を考えれば、その大衆が世を多少なりともあり得る、そう思わせる関係を深めている。

 読んでいていくつか感じるところがあった。
 一つは戦争を体験した当時の歌の作り手に与えた大きさだ。戦後の復興をなした多くの人びとに、明るさと希望を与えた歌謡曲。それは当時の老若男女がラジオから流れる歌に、一緒に耳を傾け、一丸となって働き、生活していたことにつながる。総じてその結束を歌が支え、世にもまれな休息の復興を成し遂げたのではなかろうか。
 「生きることはすばらしい。それを伝えることが自分の作曲活動のすべてだ」とよく口にしていたのは吉田正。この言葉は戦争による非日常と理不尽と非情を体験していたからのものだろう。
 「異国の丘」はシベリア抑留時代に作られたものと今まで思い込んでいたが、この度の記事で確認したのはやや違う。満州のノンジャン(地名)で急性盲腸を患い陸軍病院に収容され、そこから部隊に復帰するまでのあいだにベッドの上で作ったということであった。
 前述したが川崎出身の坂本九の「上を向いて歩こう」の歌詞がどうして笠間市に立っているのか、についての説明がわかった。2歳の時だが疎開である。母の出身地が笠間だった。大家族だったので一軒家を建ててそこに4年間住んでいたのだ。小学校4年のときに川崎に戻った。
 笠間に結成された後援会が中心になって1965(S40)年に碑を建立している。また笠間の近くのJRの駅では4種のメロディーが奏でられている。
 「男と女のお話」は当時大ヒットした。歌ったのは日吉ミミ。彼女が水戸出身とは不勉強で知らなかった。この歌の歌唱の独特な印象は耳から離れない。この強力な一曲の印象は彼女を生涯縛った。
 同じ路線というかその傾向の歌から脱出できなかったように思う。若くして病死した。後年新宿で気さくな店をやっていたようだ。そこに頻繁に出入りしていたという友人は雰囲気が気に入っていて、亡くなったときにはひどく残念がっていた。
 フランク永井は彼女の「男と女のお話」をカバーしていて、ときどき聴いては思い出す。

 戦争を引きづるという点でもう一つある。朝ドラ「エール」の主人公古関裕而についても記してある。NHK連続放送劇「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」の話。古関の盟友である菊田一夫とのコンビの作品。
 ここでは下記のように記されているが、その箇所を引用させていただく。
 【このラジオドラマはさらに感動的な実話を生む。放送期間中に品川博というラバウルから復員した群馬県出身の人物がNHKに菊田を訪ねた。品川は「鐘の鳴る丘」を聴き、上野駅で戦災児たちの悲しい現実を直接目にし、ドラマの主人公の情熱にいたく感がじ入ったと話す。彼は主人公が実在していると信じたようなので、菊田が創作であることを明かすと、それなら自分たちのカで子どもたちの家を実現してみせる、と決意を述べた。
そして実際に、初め前橋市にドラマと同じとんがり帽子に時計台のある少年の家を建て、次いで群馬県内の別な場所の緑の丘の上、雑木林を開墾して少年の家を建設だという】
 ここで登場する品川さんは、このブログでも何度か紹介した方で、フランク永井とも深い関係がある。前橋のこの施設は現存し品川さんが運営されている。その関係施設の一角に「フランク永井鉛筆画前橋展示室」を常設されており、品川ヤイさん自らが描かれたフランク永井の鉛筆画を展示している。
 品川さんは毎年宮城県大崎で開催されている「フランク永井歌コンクール」(今年はコロナ禍で来年に延期)の入賞者に、描かれた絵を贈与されている。フランク永井の残された歌の遺産を後世に引き継ぐために活動されている方である。

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このページは、文四郎が2020年7月17日 16:35に書いたブログ記事です。

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