追悼! ウイリー沖山。フランク永井とは「夜霧に消えたチャコ」でカップリング

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 ウイリー沖山が亡くなったという訃報。心からご冥福をお祈りいたします。またひとりフランク永井と同時代で活躍した方とのお別れとなった。淋しい限りである。
 フランク永井とは表題のごとく「夜霧に消えたチャコ」でカップリング「そうなんだ」を一枚だけしている。1959(S34)年4月リリース。最初にSP版で発売され、その後EP盤になった。黄色の味気ない文字ジャケットからまもなく、墨+紫の二色写真版になり、若きウイリー沖山の顔がわかる。
 フランク永井と舞台を共にしたかはさだかでない。だが、おそらく、普通の芸能界のありようだった米軍キャンプ時代には、何度かともにしているのではないだろうか。
 ウイリー沖山といえば、ヨーデルだ。このジャンルの歌を日本で歌う、日本で人気を得るというずいぶんとユニークな歌手として知られている。初めて聴いたときは驚いたものだ。
 もちろん、彼はその分野で比類の歌唱を披露したが、当然に当時の洋楽全般を歌っている。カントリーはもとより、ジャズ、シャンソン、ポップスと幅広く歌いあげている。
 一度このコラムで紹介したと思うが、朝日新聞に月間で着いてくる「定年時代」というタブロイド紙で、久しぶりに彼の近況が紹介されているの見て、懐かしさを覚えたものだ。記事「膠原病を克服...「歌こそ命」によると、ご高齢にもかかわらず、現役で歌われていたのだが、膠原病を患っていたとある。
 膠原病といえば、やはり筆者の好きな歌手だった岸洋子を思い出す。おなじ膠原病という難病に長く患わされていた。

 さて、ウイリー沖山の日本の芸能界でのデビューは1933年(S8年)生まれで、フランク永井の生誕の1年後。デビューは1957(S32)年「スイスの娘」である。
 ウイリー沖山がどのような方なのか、彼がどうして「ヨーデル」を得意とするようになったのか。これについては、先の「定年時代」で簡潔に紹介されているので引用させていただく。

 【沖山さんは1933年、アメリカ人の船員と日本人女性との間に出生。だが、戦争が始まると父は日本に入国できず、そのまま生き別れに。「当時は父が『敵国人』ということで嫌な思いをたくさんしましたね。その後、母がインド人男性と再婚。その人にはとても良くしてもらいました」
 戦後、沖山さんはミッション系のインターナショナルスクールに進学。生徒の多くが各国大使館の子弟という格式の高い大学だった。そんな環境だったからか、その当時世界で歌われた最先端の音楽に触れる機会も多く、歌の道に入ったのも在学中のこと。「友達に誘われ進駐軍が運営するクラブのオーディションを受けたのですが、なぜか自分だけ合格しました(笑)」
"この命ある限り"現役で----
 その後は、学校の先輩でカントリー歌手の黒田美治(びじ)が率いていた「チャック・ワゴンボーイズ」のほか、さまざまなバンドに属した後、自らのバンド「ブルーレンジャーズ」を結成。日本全国の進駐軍キャンプやステージを回ったという。「当時カントリー歌手はシャツにジーンズが定番でしたが、スーツでビシッと決めて歌ったのは僕たちが最初じゃないかな」
 進駐軍キャンプには、雪村いづみや平尾昌晃ら、日本芸能界の草創期を彩る面々のほかアメリカ人タレントも多数招かれていた。その中にはヨーデルの名手がおり、それを気に入った沖山さんは自己流でマスター。代表曲の一つで、カントリーヨーデルの名曲「スイスの娘」もキャンプ時代から歌っていたという】

 なるほどですね。手元にはウイリー沖山の曲は少ししかないが、今日はひさびさで聴いてみたいと思う。

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このページは、文四郎が2020年7月 6日 11:37に書いたブログ記事です。

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