2020年7月アーカイブ

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 コロナ禍でイヤでも自宅滞在時間が多くなる。youtubeでフランク永井関係の情報をいろいろ見ていたら、驚くべき貴重な映像を観てしまった。それは、そこに記されている情報から判断するに、1982年開催の広島平和音楽祭(第9回)でフランク永井が歌う映像のようである。
 記録では当時地元広島テレビが放映し、全国放送は後に日本テレビ系でなされた放送の録画の一部のようである。聞いたことのない曲だ。歌詞がテロップで出ているがわからない。当時音楽祭ではオリジナルがそうとう歌われているので、きっとこの日のための曲だと思える。

 youtubeのURLは、https://youtu.be/aSHyWMJAi6Q なので、興味のある方はぜひとも訪れてみてほしい。
 歌詞は、画面の表示と重なっていて、もしかして異なる箇所があるかも知れないが、つぎのように書き起こした。何番まで歌詞があったのかは分からないが、歌唱の最後のものだ。

...
晴れた空には 悲しみがある
傷つきすぎた 僕らの時代(ひび)
飛びたつ鳥に 願いをこめて
鐘の音よ 今 海を越えていけ
駆けてゆけよ 駆けてゆけ どこまでも
やがて来る 朝のために
今は僕が 今は僕が
守ってやろう 幼な子よ
迷いつづけ 迷いつづけた日々よ
ふる返れば 悲しみが
けれど明日は けれど明日は
君達のもの 幼な子よ

 せつせつと歌うフランク永井の映像。当時番組を観た方々はどう思われたのだろうか。曲名をご存知の方がおられたら、ぜひ教えていただきたい。
 広島平和音楽祭については、美空ひばりの「一本の鉛筆」が良く知られている。このことと、1985年開催の第12回で二葉あき子が歌った「祈り舟」について当ブログで、5年前に紹介したことがある。(http://frank-m.org/bunsirou/2015/08/post-71.html)

 戦後の平和獲得に熱心で1975年(第2回)の音楽祭の実行委員長をしているフランク永井の恩師吉田正が、当時実現が難しかったレコード会社専属制の壁を越えて、コロンビアの石本美由紀と組んで作り提供したのが「祈り舟」だった。
 地球を50回も消滅する量の核兵器が世界の大国に貯蔵されている。こうした巨大規模の火器で、戦争がひとたび再発したら、人類は滅亡する。戦争をしかけた方も、しかけられた方も、大半の無関係な人も、すべてが一気に消滅する。それをそうとうバカな中央政治のリーダーでも、知らないはずがない。
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 公益財団法人常陽藝文センターが発行する月刊誌「常陽藝文」2020年6月号で「北関東歌謡の系譜」が特集された。
 「常陽藝文」の特集は実に充実した内容であり、見るたびに感心する。最新号では茨城、栃木、群馬の関東北部地域から出た昭和歌謡の偉人に焦点を当てている。
 当誌では過去に野口雨情、門井八郎、西條八十、吉田正、矢野亮と特集で紹介している。6月号ではそうした内容の総集編的なものとなっている。当ブログではフランク永井に関連する情報の紹介で吉田正のときの特集をとりあげている。
 北関東とは表記されているが、その直上には福島がある。福島は歌手春日八郎、作曲家古関裕而がおり、密接な関係をもっている。また、今回の特集では、水戸出身の日吉ミミ、幼年期を笠間で過ごし第二の故郷と呼び結婚式を挙げるまでした坂本九まで紹介している。
 こうした偉人たちのひととなり、出生、業績を単に取り上げるにとどまらず、時代の流れとの関係について、深く掘り下げて論じているのがいい。「歌は世につれ、世は歌につれ」とよく言われるが、ここでも指摘されているが、世が歌につれることなどない。しかし、歌が世を構成する大衆に巨大な影響を与えた当時の時代を考えれば、その大衆が世を多少なりともあり得る、そう思わせる関係を深めている。

 読んでいていくつか感じるところがあった。
 一つは戦争を体験した当時の歌の作り手に与えた大きさだ。戦後の復興をなした多くの人びとに、明るさと希望を与えた歌謡曲。それは当時の老若男女がラジオから流れる歌に、一緒に耳を傾け、一丸となって働き、生活していたことにつながる。総じてその結束を歌が支え、世にもまれな休息の復興を成し遂げたのではなかろうか。
 「生きることはすばらしい。それを伝えることが自分の作曲活動のすべてだ」とよく口にしていたのは吉田正。この言葉は戦争による非日常と理不尽と非情を体験していたからのものだろう。
 「異国の丘」はシベリア抑留時代に作られたものと今まで思い込んでいたが、この度の記事で確認したのはやや違う。満州のノンジャン(地名)で急性盲腸を患い陸軍病院に収容され、そこから部隊に復帰するまでのあいだにベッドの上で作ったということであった。
 前述したが川崎出身の坂本九の「上を向いて歩こう」の歌詞がどうして笠間市に立っているのか、についての説明がわかった。2歳の時だが疎開である。母の出身地が笠間だった。大家族だったので一軒家を建ててそこに4年間住んでいたのだ。小学校4年のときに川崎に戻った。
 笠間に結成された後援会が中心になって1965(S40)年に碑を建立している。また笠間の近くのJRの駅では4種のメロディーが奏でられている。
 「男と女のお話」は当時大ヒットした。歌ったのは日吉ミミ。彼女が水戸出身とは不勉強で知らなかった。この歌の歌唱の独特な印象は耳から離れない。この強力な一曲の印象は彼女を生涯縛った。
 同じ路線というかその傾向の歌から脱出できなかったように思う。若くして病死した。後年新宿で気さくな店をやっていたようだ。そこに頻繁に出入りしていたという友人は雰囲気が気に入っていて、亡くなったときにはひどく残念がっていた。
 フランク永井は彼女の「男と女のお話」をカバーしていて、ときどき聴いては思い出す。

 戦争を引きづるという点でもう一つある。朝ドラ「エール」の主人公古関裕而についても記してある。NHK連続放送劇「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」の話。古関の盟友である菊田一夫とのコンビの作品。
 ここでは下記のように記されているが、その箇所を引用させていただく。
 【このラジオドラマはさらに感動的な実話を生む。放送期間中に品川博というラバウルから復員した群馬県出身の人物がNHKに菊田を訪ねた。品川は「鐘の鳴る丘」を聴き、上野駅で戦災児たちの悲しい現実を直接目にし、ドラマの主人公の情熱にいたく感がじ入ったと話す。彼は主人公が実在していると信じたようなので、菊田が創作であることを明かすと、それなら自分たちのカで子どもたちの家を実現してみせる、と決意を述べた。
そして実際に、初め前橋市にドラマと同じとんがり帽子に時計台のある少年の家を建て、次いで群馬県内の別な場所の緑の丘の上、雑木林を開墾して少年の家を建設だという】
 ここで登場する品川さんは、このブログでも何度か紹介した方で、フランク永井とも深い関係がある。前橋のこの施設は現存し品川さんが運営されている。その関係施設の一角に「フランク永井鉛筆画前橋展示室」を常設されており、品川ヤイさん自らが描かれたフランク永井の鉛筆画を展示している。
 品川さんは毎年宮城県大崎で開催されている「フランク永井歌コンクール」(今年はコロナ禍で来年に延期)の入賞者に、描かれた絵を贈与されている。フランク永井の残された歌の遺産を後世に引き継ぐために活動されている方である。
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 ウイリー沖山が亡くなったという訃報。心からご冥福をお祈りいたします。またひとりフランク永井と同時代で活躍した方とのお別れとなった。淋しい限りである。
 フランク永井とは表題のごとく「夜霧に消えたチャコ」でカップリング「そうなんだ」を一枚だけしている。1959(S34)年4月リリース。最初にSP版で発売され、その後EP盤になった。黄色の味気ない文字ジャケットからまもなく、墨+紫の二色写真版になり、若きウイリー沖山の顔がわかる。
 フランク永井と舞台を共にしたかはさだかでない。だが、おそらく、普通の芸能界のありようだった米軍キャンプ時代には、何度かともにしているのではないだろうか。
 ウイリー沖山といえば、ヨーデルだ。このジャンルの歌を日本で歌う、日本で人気を得るというずいぶんとユニークな歌手として知られている。初めて聴いたときは驚いたものだ。
 もちろん、彼はその分野で比類の歌唱を披露したが、当然に当時の洋楽全般を歌っている。カントリーはもとより、ジャズ、シャンソン、ポップスと幅広く歌いあげている。
 一度このコラムで紹介したと思うが、朝日新聞に月間で着いてくる「定年時代」というタブロイド紙で、久しぶりに彼の近況が紹介されているの見て、懐かしさを覚えたものだ。記事「膠原病を克服...「歌こそ命」によると、ご高齢にもかかわらず、現役で歌われていたのだが、膠原病を患っていたとある。
 膠原病といえば、やはり筆者の好きな歌手だった岸洋子を思い出す。おなじ膠原病という難病に長く患わされていた。

 さて、ウイリー沖山の日本の芸能界でのデビューは1933年(S8年)生まれで、フランク永井の生誕の1年後。デビューは1957(S32)年「スイスの娘」である。
 ウイリー沖山がどのような方なのか、彼がどうして「ヨーデル」を得意とするようになったのか。これについては、先の「定年時代」で簡潔に紹介されているので引用させていただく。

 【沖山さんは1933年、アメリカ人の船員と日本人女性との間に出生。だが、戦争が始まると父は日本に入国できず、そのまま生き別れに。「当時は父が『敵国人』ということで嫌な思いをたくさんしましたね。その後、母がインド人男性と再婚。その人にはとても良くしてもらいました」
 戦後、沖山さんはミッション系のインターナショナルスクールに進学。生徒の多くが各国大使館の子弟という格式の高い大学だった。そんな環境だったからか、その当時世界で歌われた最先端の音楽に触れる機会も多く、歌の道に入ったのも在学中のこと。「友達に誘われ進駐軍が運営するクラブのオーディションを受けたのですが、なぜか自分だけ合格しました(笑)」
"この命ある限り"現役で----
 その後は、学校の先輩でカントリー歌手の黒田美治(びじ)が率いていた「チャック・ワゴンボーイズ」のほか、さまざまなバンドに属した後、自らのバンド「ブルーレンジャーズ」を結成。日本全国の進駐軍キャンプやステージを回ったという。「当時カントリー歌手はシャツにジーンズが定番でしたが、スーツでビシッと決めて歌ったのは僕たちが最初じゃないかな」
 進駐軍キャンプには、雪村いづみや平尾昌晃ら、日本芸能界の草創期を彩る面々のほかアメリカ人タレントも多数招かれていた。その中にはヨーデルの名手がおり、それを気に入った沖山さんは自己流でマスター。代表曲の一つで、カントリーヨーデルの名曲「スイスの娘」もキャンプ時代から歌っていたという】

 なるほどですね。手元にはウイリー沖山の曲は少ししかないが、今日はひさびさで聴いてみたいと思う。

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