追悼!「ガード下の靴みがき」を歌いねむの木学園で活躍した宮城まり子

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 宮城まり子が亡くなられた。心からご冥福をお祈り申し上げます。
 宮城まり子といえば、1968(S43)年に日本で初めての肢体不自由児養護施設「ねむの木学園」を設立したこと、その運営に生涯をかけたことだ。だが、その宮城が圧倒的なワパーで名を全国に馳せたのは1955(S30)年に出したレコード「ガード下の靴みがき」。この歌の強力な印象は永遠に消えない。
 歌詞はフランク永井にも「夜霧の第二国道」など多数の作品を提供した宮川哲夫だ。作曲は利根一郎。この歌は当時耳にした世代のものの心を揺さぶった。戦争という悪魔のような出来事が残した爪あとを描写しているからだ。戦後、荒廃した都市の復興に必死だったとき、宮城の歌声は聴く人のこころに深くしみた。
 いつ聴いても涙をそそう。同じビクターの暁テル子が「東京シューシャイン・ボーイ」を歌っている。詞は井田誠一。曲は「有楽町で逢いましょう」の編曲者の佐野雅美(鋤)で、戦時中は東南アジアに軍務で行きさまざまな悲惨を経験した人。だが現地で親しまれて歌われている曲を採譜したり、戦争の中の明るさを求めている。この曲も東京の靴みがきの明るさに焦点をあてている。
 宮城の方はビクターでそれを出す前に「毒消しゃいらんかね」というインパクトのある歌を出している。楠トシエが歌った印象もあるがレコードは宮城のために用意された宮城のもの。宮城は「ガード下の靴みがき」を歌い、この経験が人生をねむの木学園に向けさせたという。歌手として、映画俳優としてしばらく活躍するが、芸能活動から離れる。事業に全力投球するためだ。
 宮城は施設を学びの場と位置づけ、情感豊かな人間性を育成をめざした。けっしてただの私設ではない。音楽、絵画、踊り、茶道...などの取り組みをとりいれ、多種多様な才能を見出し、引き出し、個性豊かな人への成長をめざした。
 ここで育った人たちはのびのびと育ち、多数の成果を示した。
 当時、菊田一夫のNHKラジオドラマ「鐘が鳴る丘」が人気になる。これは町にあふれる戦争孤児の話だが、まさに直接的な戦争の犠牲者で同じテーマ。菊田は宮城を実際に見出した人でもある。ちなみに来週からはじまるNHK朝ドラ「エール」の主人公のモデルである古関裕而は菊田と組んで戦後多数の歌を作った。
 宮城がねむの木学園の成長に生涯をかけた。だがさまざまな話題があった。この偉大な活動は社会的にさまざまなハンデキャップがある人たちへの、信頼と奉仕でなりたっている。しかし社会の悪の繁栄として、スキがあれば詐欺師が目ざとく侵入してきて荒らす。金銭的な被害がでた。このようなたかりは人間として許されない。
 さて、フランク永井も同じ時代に同じようにデビューし、その世界で活躍した。1957(S32)年「哀愁ギター」のB面を宮城まり子が「夢見るワルツ」を歌っている。宮城が歌手時代の貴重なカップリング盤だ。ときどき聴いては当時を思い出している。
 現在、新たな「戦争」のような事態が進行中だ。新型コロナウイルスの感染者が全世界を覆っている。武力による戦争の時代から目に見えないウイルス(放射能もそうだが)との戦争だ。それだけに恐怖は大きい。ここで紹介した歌は、本来持つ人びとの協力と連携、信頼での勇気ある対応を歌っている。けっして詐欺の横行や足の引っ張り合いではない。買い占めとかが自分のまわりで起こっているのをみると、それは逆だろう!と叫びたくなる。人としての大事なことを、思い起こして、対応していきたいと思う。

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このページは、文四郎が2020年3月28日 13:20に書いたブログ記事です。

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