2020年2月アーカイブ

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 フランク永井の歌を多くの歌手がカバーで歌っていることは、たびたび紹介してきた。五木ひろしがいくつかの曲をカバーしてきたことも記した。
 1984(S59)年「いま、生きている...新たなる感動~霧子のタンゴ」が最初。これは尊敬する吉田正との初めてのジョイント企画。五木は徳間ジャパン所属なので、ビクター専属の吉田正との共同プロジェクトで、普段はありえない組み合わせが実現した。
 このときは、星野哲郎作詞で「法師の宿」。吉岡治作詞で「銀座シティ・エアー・ターミナル」が歌われた。「銀座シティ・エアー・ターミナル」では吉田正が仮想・空想の世界で登場させた「霧子」が登場した。「霧子のタンゴ」は後に「霧子のタンゴⅡ」に成長したが、その後継を思わせる歌であった。
 五木はその後1997年にやはり吉田正に敬意を表して「吉田正作曲生活50周年記念吉田正作品集「有楽町で逢いましょう」をリリースした。このときはすでにCD時代で、いくつかを吹き込みなおしたりして、吉田正が残した印象的な作品をそろえている。さらに、2004年に五木自身の芸能40周年を記念して「哀愁の吉田メロディを歌う」をリリースしている。
 五木はデビュー当初からフランク永井のものまねを番組でやり、その技量の巧妙さに定評をもっていた。もちろんフランク永井ばかりでなく他の多くの歌手のものまねがうまく人気だった。ものまねでひいでていると、自分の個性が隠れかねないが、彼は執拗に「五木節」を通している。個性、持ち味として、ひとりの歌手の生命線でもある。
 ものまねがうまいということは、対象の歌手の個性を見抜くために絶え間ない研究と鋭い視点が求められる。ただのいい加減なまねごとの域では抜きんでた評価はえられない。五木のこの研究姿勢はその後の彼自身の大きな財産となる。その後歌番組での司会などで、いかんなく、その時の交友と他にまねのできないエピソードを披露する。今では演歌界の大御所に君臨していると言っていい。
 さて、話は戻って、最初の吉田正とのジョイントを組んで作ったLPとやや内容が異なるカセットテープ版を入手した。LP版とおなじく12曲が収録されていた。ややトラック順が異なるだけだった。手に入れたのは、もしかしてLP版にはない曲の収録が入っているのではと期待したこともあって。
  01 夜霧の第二国道/02 好きだった/03 落葉しぐれ/04 中山七里/05 法師の宿/
  06 江梨子/07 公演の手品師/08 哀愁の街に霧が降る/09 伊太郎旅唄/
  10 有楽町で逢いましょう/11 霧子のタンゴ/12 銀座シティ・エアー・ターミナル
 五木の上記で紹介した3つのアルバムでは、いくつかこの初版にはない曲を加えている。
  おまえに/いつでも夢を/東京ナイトクラブ/異国の丘/潮来笠
 この5曲だ。通算して、フランク永井の曲に限れば、6曲ということになる。五木はテレビの歌番組でもフランク永井の曲のカバー歌唱を行っている、「おまえに」「有楽町で逢いましょう」「霧子のタンゴ」。そして「君恋し」などは、youtubeでも楽しめる。「公園の手品師」はLPとテープ版で楽しめるのだが、なかなかいいではないでしょうか。
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 三船浩はフランク永井がデビューした翌年の1956(S31)にキングレコードからデビューした。その圧倒的な音量の低音と凄まじいほどの音圧を持つ歌唱で、フランク永井と並んで低音歌手として人気を博した。2005年に惜しまれ75歳で死去した。
 三船浩はNHKのど自慢出身でもある。「男のブルース」でデビューしたが、代表的な曲はやはりこの曲と私的な好みだが「夜霧の滑走路」「男の酒場」「東京だより」といったところだろうか。
 三船の声質は実にユニークで、鋼鉄の歌声と言われた春日八郎と並ぶのではないか。フランク永井の場合はいわゆるクルーナー歌唱などと言われる、ささやきかける、語りかけるソフトなものだが、三船のはその逆。強烈な音量のある低音だ。
 当時、低音歌手といえば、魅惑の低音というキャッチをほしいままにしたフランク永井だが、御三家とか名付けたがるマスコミは、低音〇人男という呼び名をつけて、石原裕次郎や神戸一郎や水原弘を組み合わせていた。そこに三船浩も入る。低音歌手としては、フランク永井と水原弘と三船浩というくくりが多かったように思う。
 面白いもので、当たり前のことだけど、それぞれが特色を持っていて、魅力の色合いが異なる。一歩リードしたフランク永井は「夜霧の...」というのを、何か低音歌手、男の歌手、ムード歌手の流れをつくった。その後雨後の筍ではないが、つぎつぎと競争するように「夜霧の...」が作られていく。
 ビクターのフランク永井に独占されてたまるか、飛び越して見せると各社競争したのだが、ついには超えられなかった。
 それはそれとして、この三船がフランク永井のカバーに挑戦している。キングは「懐かしのヒット曲を歌う」ということで、三船に歌わせた。それが1971年発売した「人生の並木路~三船浩懐かしのヒット曲を歌う」というLP。タイトルになった「人生の並木路」を含む14曲が収録されている。
 このLPで「有楽町で逢いましょう」と「君恋し」が入っている。「夜霧のブルース」「無情の夢」「星影の小径」「泪の乾杯」はフランク永井もカバーしている。この時期までに絶えずに人気を保ってきた名曲ばかりである。
 三船の声質と歌唱は共通なので、どう歌われたかはほぼ予想がつくかもしれないが、三船なりの曲の消化をしてできたアルバムだ。
 これは、1980年ごろのCDか時代を迎えて、さまざまな形でデジタル化復刻盤に収められている。キングのムード歌謡版に入っている。不確かだが、今年の夏ごろにもまた出されるとのうわさも。
 フランク永井の歌った名曲が、他の人気歌手にどう歌われているのかについて、私的に興味をもって覚えて得いる限り紹介してきた。三船のものはその一つ。
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 先日フランク永井の大ファンであるW氏から貴重な情報を寄せていただいた。存在しないと言われていたフランク永井の音声。どうも近年、1962(S37)年末にNHKから放送された紅白歌合戦の録画が発見されたようだ。紅白映像はこの翌年の1963年第14回のものがそれまではもっとも古いと言われていた。この回では「逢いたくて」が歌われ、映像が確かに残されている。
 発見されたとされるさらに1年さかのぼった それをBSで放送したようだ。ようだというのはそれを見ていないのだが、オープニングの1分程度のものを観ただけだからだ。W氏からの情報は映像ではなくフランク永井の歌唱音声箇所。
 さっそく聴いてみたが、当時のテレビからの音とは思えないほどすっきりしたもので驚いた。フランク永井の低音の魅力ある歌唱が伝わってくる。実況特有のいきいきしたもので、観衆に答えての笑顔でをこらえながら歌う個所もある。
 放送されたのが1962年といえば「君恋し」で日本レコード大賞を得た翌年、東京五輪の2年前という古さ。今から60年も前ということになる。貴重なものをよくぞこれまで保存されていてくださったと感銘する。教えていただいたWさんにも感謝が絶えない。
 1962年といえば、フランク永井はデビューしてまだ6~7年の頃だ。だが、すでに歌う歌がつぎつぎとヒットして、歌謡界の人気者になっていた。NHK紅白歌合戦では、1982(S57)年の第33回まで連続して出場し、その時点では「連続出場の最長保持者」を誇っていたものだ。
 フランク永井について、この紅白の歌唱の記録は今回発見された音声も含めて、26回中20回分の記録がある。はじめて出場した1957(S32)の第8回、翌第9回、11回、12回、15回、22回のものがない。内音声は、第10回、代13回ということになる。他は、18回分の映像が残されている。
 16回ではフランク永井は「生命ある限り」を歌った。この記録は、2016年にビクターから発売された「懐かしのフランク永井シングル全集」についている「NHK秘蔵映像」DVDに収録されては発売された。
 現在では信じられないような話だが、終戦で疲弊した日本の公共放送であっても、テレビの映像を記録する装置はもとより、テープは高価で量も少なく、バックアップとかいう概念も、アーカイブとして残すという意志も、あっても実行できない時代だった。そのために、テープは上書きしてヨレヨレになるまで再使用されていた。
 紅白については、近年になってNHKが保存していないものを視聴者にお伺いして、録画してあれば寄せてほしいと訴えた。そのせいで、視聴者から多数寄せられて、充実していったが、それでも1962、1963をさかのぼれなかったものだ。
 紅白の司会を長くしていた宮田輝は自宅で8ミリ映写機で撮影して保管していたのも、アーカイブに寄せられた。
 フランク永井の映像は全体として少ないのだが、それでもNHK紅白は残っている方かもしれない。
 有無のリストを観ると、残念でならないのは、1971(S46)年第22回だろう。「羽田発7時50分」を歌っている。表の途中であり、きっとこの年の録画は残っていると思える。何人かの出場歌手の映像がyoutubeで見た気がする。
 ファンの方々でもし見つけることがあったらぜひともお知らせ願いたいと思う。文四郎的には紅白だけの特性DVDがいつの日か世に出て、誰でも見れるようにしてほしいと思っている。
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 梓みちよに心からご冥福を! 突然の訃報でした。
 梓みちよといえば、何と言っても「こんにちは赤ちゃん」。永六輔作詞、中村八大作曲で「夢で逢いましょう」の今月の歌で流された。1963である。これが100万枚の超ヒットで、第5回日本レコード大賞を受賞。
 このときに競ったのがフランク永井の「赤ちゃんは王様だ」だ。赤山勇作詞、三木鶏郎による作品だ。コミカルでフランク永井の歌唱の広さを感じさせるも子供向けの歌で、それなりのヒットを放ったもの。森永乳業のコマーシャルとしての応募作品のようだ。有名な画家によるイラストのジャケットで発売された。同時に多数多種のソノシートが森永ルートで作られ広く頒布された。
 日本レコード大賞で歌唱賞を受けた。大賞にならなかったのはファンとして残念であったのだが、何せ、相手が悪かった。というのは梓に失礼だが、彼女のかわいさといい、授かる子供へのあふれる愛情表現といい、彼女の大賞受賞は誰もが満足いくものだった。
 梓は歌がうまい。これは生涯変わらなかった。ときどき歌謡番組にでて歌を披露したが、聴くたびに感心した。
 梓自身が語っているが、この歌をヒットはさせたものの、この歌には本人は納得できなかったとのことで、自ら長期に封印してしまって、その後しばらくは聞けなかった。それが米国に公演にいったときに、聴いた観衆が涙を出して喜んでいたのを目にして、独り歩きしている歌への気持ちを変えたと。
 若くて子供を知らない私が子供の歌を満足いくように歌えたとは思わないという気持ち。それは自分だけのもので、いったん世に受け入れられて広まった歌は、自分だけのものではない。そもそもこの歌は自分を歌手として世に知らしめるきっかけになった功労の歌ではないか、と40年の封印をといた。その後多いリクエストにこたえて歌っていく中で、この歌への愛おしさと敬意が深まり、自分の魂にまで膨らんでいった。
 梓はその後も多くの歌を歌い続け、ヒット曲をだしていく。「二人でお酒を」「メランコリー」等々。
 時代も歌の色合いもフランク永井の活躍の時代と重なっている。フランク永井も梓も多くのカバー曲を歌っているが、当然重なるものも多い。歌謡曲だけではなく、タンゴ、シャンソンとみごとな歌声を聞かせてくれたものである。
 名曲「二人でお酒を」は、フランク永井の盟友松尾和子とのゴールデンデュエットの初LPで出された。このLPシリーズは2枚あり、大人のムードで二人が歌う絶品だ。お酒を飲みながらおよそ2時間近く、ぶっ通しで聴いてもあきない。大半はその後CD化されているので、いつでも楽しめる。「二人でお酒を」デュエット版はいい。
 「こんにちは赤ちゃん」は出た当時からラジオ・テレビで連日、おそらく、一日で十回以上は同じ放送局から流れたのではないだろうか。それに対してわがフランク永井の「赤ちゃんは王様だ」はといえば、テレビではほとんど見なかったように思う。だが、ラジオでは結構聴いた記憶がある。
 まぁ、この回数の差はやむを得ない。ともかく梓の声のみずみずしさは格別だったし、あの満面の笑顔の価値は他に比較できなかったからだ。フランク永井の方はやはり、「歌唱賞」で歌の実力は見せつけたものの、走る路線の相違のむずかしさを感じてか、本線に力を注いでいくようになる。
 見事な決戦は圧倒的なパワーで梓に軍配。決戦といえば「OK牧場の決闘」でファンをスクリーンにくぎ付けしたカーク・ダグラスも亡くなった。西部劇が好きだった。何度も観た。若かったとき、気持ちを高揚させてくれたものがひとつ、ひとると消えていくのは淋しいことでもあるが、連れずれなる世の流れで誰もとどめることができない。ちょっと、センチにさせてくれた。
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 フランク永井と直接的な関係はない。だがフランク永井ファンのお仲間である方がけっこう多い「一般社団法人東京ラジオ歌謡を歌う会」が主催し、公益財団法人北区文化振興財団が後援する催しがあり、観る機会あったのでご報告。
 歌う会では、ラジオ歌謡を後世に受け継ぐ活動をメインにしているが、その時代から現在までの大衆文化である歌謡曲・流行歌にも関心が深く、さまざまなところで歌っている。春から初夏のラジオ歌謡の発表会とは別に、主に流行歌を対象にした発表会もこのように開催している。
 およそ50曲が披露された。当然ここに集まる方々も観客も年齢のいった方が多い。だが、その年季の入りようは半端ではないだけに、プロの歌手も交じってはいるが、ほとんどプロ以上ではないかと感じる歌い手が何人もいる。
 流行歌のカラオケ大会というものだが、ちゃんとした会場で入場料もあり、立派な舞台だ。音響もいい。演奏と歌唱のバランスも手慣れたもので、そつがない。
 歌はテレビでの番組とことなり、1番や2番だけのブチ切りではなく、フルの演技になる。うまい歌唱にはうっとりする。この公演を観てよかったなという満足感を呼ぶ。
 司会は運営の功労者でもある鎌田恵二(敬称を略させていただく)。ソロコーナーでは以下のような曲が歌われた。
 「素敵なランデブー」「月がとっても青いから」。戦時歌謡の「あゝ草枕幾度ぞ」。「瀬戸の花嫁」「野球小僧」「マリモの唄」「東京のバスガール」。三浦洸一の「東京の人」「落葉しぐれ」。曽根史郎「僕の東京地図」。林伊佐緒「ダンスパーティーの夜」は尾崎のり子がみごとな歌唱を披露した。
 「柿の木坂の家」。「港に灯のともる頃」は柴田つる子の名曲。「哀愁のからまつ林」は島倉千代子の曲。「高原列車は行く」「喜びも悲しみも幾年月」。星野哲郎の作詞で津軽ひろ子がB面で最初に歌ったが注目されず、ちあきなおみがカバーして多くの人の耳に触れ、最近は神野美伽が歌って注目をあびている「帰れないんだよ」。
 続いて「智恵子抄」「サロマ湖の歌」「関東春雨笠」「夢淡き東京」「ふるさと列車」「憧れの住む町」「浅草姉妹」「青春の城下町」「長崎の蝶々さん」と。美空ひばりの曲が3曲。やはり藤山一郎、岡本敦郎、二葉あき子の曲も複数ある。
 さらに「早春賦」「からたちの花」「高原の宿」。平野愛子の「白い船の入る港」。「古城」「大利根無情」「愛の賛歌」「赤いランプの終列車」と続いた。
 デュエットのコーナーでは、定番の「青い山脈」「お島千太郎旅唄」「いつでも夢を」「高原の月」といった曲。
 特別コーナーは「鐘」。戦争孤児を描いた菊田一夫原作NHKラジオドラマ「鐘の鳴る丘(とんがり帽子)」の主題歌で古関裕而作曲作品。他に「チャペルの鐘」「ニコライの鐘」。「フランチェスカの鐘」はやはり同会の功労者後閑昌子のすばらしい歌唱。「長崎の鐘~新しき朝の~」。
 歌は世につれ、世は歌につれ...ということが言われるが、どの歌の歌詞も曲調も、その時の時代を表現している。少し時が映れば、その歌詞は絶対に出てこない。メロディーもだ。だから、聴くと自分のその時代を鮮明に蘇らす。
 自分のまったく個人的な経験とか、そのとき考えて得いたこととか、嬉しかったり悲しかったこととか。それと歌を聴いたときが重なりって頭に記憶されている。妙なものである。ここに、大衆歌謡の存在価値がある。
 人は誰でも喜怒哀楽がある。落ち着かせる必要があるとき、高揚させるべきとき、沈んだ気持ちから抜け出すときといったときにも、好きな歌を聴くと実際の効果がある。
 だから、歌はまったく個人的な嗜好品。そのあたりは、ひとりひとり別物。聴くだけでも、自分が歌っても、気持ちをプラスにしてくれる。豊かにしてくれる。

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