2019年9月アーカイブ

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 近年のAIの勃興はすさまじい。さきほどぼんやりテレビを観ていたら、台風18号が発生したと。その進路予測というのを見ていたら、8(いやよくわからない)国の気象コンピュータ予測というものを重ねて描いていた。その予測進路はおおむね同じで、日本列島を境に太平洋側と日本海側に少し別れていた。日本の気象庁のもあったと思えるがどこだったかは認識できなかった。
 こう重ねてみると、観ていて何となく強く説得されそう。
 さて、明日29日、日曜日のNHK総合テレビで、9時「NスぺAIでよみがえる美空ひばり」というのが放映される。26日の新聞に記事が出ていて興味を持ち、この番組を知った。
 以前「邪道か、フランクロイド永井はまだだが、ハルオロイド・ミナミが歌う「川の流れのように」(2017.5.20) で、三波春夫のハルオロイドを紹介した。今回のは、美空ひばりが対象だが、2年前との相違は、映像がともなうことだ。美空ひばりの、実際にはあり得ない容姿。それが、実際には吹き込みをしていない曲を唄うというのだ。
 影像も従来の意味での映像ではない。等身大で精密な解像度に十分に耐える立体の映像。
 番組の紹介は次のとおり。【生前最後の曲「川の流れのように」を手がけた秋元康が、AIひばりのために新曲をプロデュース。天童よしみが振り付けを担当。森英恵が衣装を手がけた。 これまでの美空ひばりの映像から4K・3Dホログラム映像で等身大の美空ひばりを出現させ、一夜限りの新曲披露コンサートが開催された。その模様をNHKスペシャルで放送。あなたも新たなる歴史の目撃者となる。】
 興味をそそる。気になる方はぜひとも番組を観てほしい。
 AIはビッグデータに支えられている。人間が一人はおろか、よってたかって知識や思考を働かしてもかなわない一線を越えている。ここから新たな世界が展開される。人間をAIが超えたら、人間はどうなるのかという深刻な課題だ。人間が想像したなにものかが人間を超えるということは、人間がなにものかの「支配下」に置かれるのではないかという疑念が起こる。
 つまり、AIはまさに自動的に関連したことを集約する「能力」を身につけているようで、どん欲に、日々勝手に見聞き(人間側が与える情報)していく。AIが得たとおぼしき結論は人間側には分からないというところが不気味だ。ただ、もうパンドラの箱は開けられてしまったので、もしかしてAIの悪魔のような欲望の急速な拡張を、人間側がもう押しとどめられないのかもしれない。
 何か不安になることだが、さてさて、人間の知恵はどう対処するのか。まだ論議が続いている。番組での取り上げている「課題」は、極めて卑近な(失礼)もの。こうして作られる映像や音声の「権利」の問題。著作権の問題。今今、例えば、ニュースを読むアナウンサーや、アテレコの声優は職を失うのではないかというような問題だ。確かにこれは現行の法律の問題であり、現在それを職業にしている人の生活の問題でもある。
 ハルオロイドでも触れたが、今回も諸権利を扱う事務所とレコード会社、開発の企業が全面的な提携プロジェクトを組織して実現している。
 さて、ファンへの恩恵はどう展開していくのか。
 フランク永井についてはどうだろう。美空ひばりと同じようなプロジェクトが進んでいるとは聞かない。美空ひばりでもそうだが、この度のようなホログラムが自在に使えるようになれば、応用は無限に広がってしまう。新曲は次つぎと、容易に出せるだろうし、ビデオのアルバム発売などお手の物だ。そればかりか、世界中で、いつでも、どこでも、コンサートが可能になる。歌ばかりか、インタビューも、会談も可能だ。つまり、美空ひばりが実在していた一人の世界より、仮想なので、複数の同時「存在」というあり得ないようなことも可能になる。
 こんなことがフランク永井に起こってほしいだろうか。人間が、権利の管理者が許可しなければどうにもならないから、それが壁になって、勝手な発展・拡大にはならないよ、という予測をする意見もある。しかに、常にそのときの予測や制限は時間の問題で越されていくものだ。
 前回に触れたフランク永井と山下達郎のジョイント。予定されていた曲はアルバムだから、およそ8曲以上はあったと思える。そのうちの相当数は準備が終わっていたはずだ。つまり吹き込み直前であったはず。ファンはそれを聴きたかったかもしれない。それをフランク永井がさまざまな悩みや困難を克服して、歌っていたとしたらどうだったのか、などという気持ちは起こる。
 これをAIで今なら技術的には実現できる。そのようなことなのだが、はたして、それは実現されて、歓迎されるものなのか。どうだろう。ここまでの流れでお分かりかと思うが、文四郎的には「実現されなくてもイイ」かな。だが、AIへの疑念というものから離れた場合、ひとつの娯楽、楽しみとしてなら、わずかあってもイイかなと。
 つまり、フランク永井が現実の世界で作ってきた足跡や現実の実績にプラスの影響を及ぼすという制限の上でなら容認できるかなと思うのだが、あくまでも私的な狭い見解。これを超えるとやはり、邪道かなと。ともかく、明日の番組をご覧になって想像していてはいかがだろうか。
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 フランク永井の歌う「Woman」は、1982(S57)年に発売された曲で、シングルと同名のアルバムが同時発売された。当時人気の山下達郎と、すでに当時歌謡界の大御所であったフランク永井が組むということが、大きな話題になっていた。
 音楽雑誌でも取り上げられて、方向の異なるエンターテナーのユニットは何を生み出すのかと期待された。だが、結果はフランク永井が予定の全コースを走り切る前に降りた感じで、しぼんで終わった。
 しかし当時そのようにストレートに話題になったわけではない。予定通りにレコードは出されたし、Womanは話題になった。有名なのは「夜のヒットスタジオ」に登場し、実に華やかに、しかも素晴らしい歌唱を披露して、フランク永井の実力を見せつけた。
 映像では司会の吉村真理・井上順に紹介されると、同席する多数の出演者が注目する中で、いつものにこやかな顔で、臙脂の蝶ネクタイを解く。この様子というかしぐさは何ともいえぬ、大御所の雰囲気をにおわせるものだった。
 実際に、山下の練りに練った曲の良さと、吉田正調ムード歌謡で走ってきたフランク永井の歌唱が、ファンには新しい世界を示したものだった。しかし、アルバムには山下の作品であるシングルB面の「愛のセレナーデ」は当然含むものの、他は新編曲での「ラブ・レター」と他の人気歌手のカバーで埋められていた。
 すべてが山下作品になるものとの期待が、違った形ででたことから、山下とケンカでもしたのかとまでウワサが出だす。そのあたりについては、この世界の在り方として、将来も詳細が語られることはないだろう。だが、実はフランク永井自身がその一端を語っているのだ。
 それが「Woman」の発売直前のどこかのナイト・クラブ風の会場での公演でのトークで、非公式な記録映像で仮称「ザッツ・エンターテインメント」に残されている。もちろん「Woman」の映像自身がファンにとって、先の「夜のヒットスタジオ」が唯一のようなものだから、ここに残るのは大変うれしい。
 ただ、大変残念でこの映像自身が非公式なのは、ここでのトークにもあるが、歌唱で歌詞を間違うというエラーがあることもある。
 そこでのフランク永井のトークとは、実はこの曲の吹き込みには、今までにないほどの苦痛を体験したといっている。それはあまりにもすごい山下の曲に、いくら挑戦したいといっても、自分の歩いてきた方向が異なるために、初めての16ビートで、合わせるのが大変だったためと。3週間の練習中、胃に穴が空き入院でもする思いだったと。
 山下の曲は24Chを2つも使う多重録音をした曲になっていて、いままでフランク永井が経験していな方向に、相当とまどったことが吐露されている。この日の公演の演奏は、浜田清とフランクス・ナイン。「Woman」にはバックコーラスがつくが、当日も「マクシム」が出演している。

 そのような経緯で、それなら、将来的に影響をひきづるような無理は禁物ということから、アルバム用の他の曲の制作は中断したとされている。
 「Woman」の映像は、公式・非公式で2本だけ、と思っていたものだが、実は公式でもう1本残されていることがわかっている。普通に当時テレビで放送されたものだから、ここで「発見」というのも「再発見」というのも実はヘン。ただ文四郎が当時忙しさにかまけて、テレビをろくに観ていなかったにすぎないのだ。
 その番組というのは関東のローカルのようなのだが、東京12チャンネル(現テレビ東京7Ch)で人気番組「演歌の花道」の兄弟番組?「秋の演歌一本勝負1993年版」。この回はフランク永井と生田悦子が司会を担当している。
 ここで多彩な出演者が歌うのだが、フランク永井自身も4曲披露している。「東京午前三時」「有楽町で逢いましょう」「東京ナイト・クラブ」、そして「Woman」。「東京ナイト・クラブ」は何と生田がデュエットしているというもの。「Woman」もすばらしい。
 ということで「Woman」の歌唱映像は3つ残されている、というのが今回のお話。
 「Woman」は若い層にもファンが増えているという。Womanが入っているCDは売れているようだ。シングルといっても復刻がMEG-CDからされていて、リクエストもフランク永井ものでは引きが多いと聞く。勢いでLPアルバムの復刻もファンの熱意で実現している。
 山下達郎の人気も長い。またあわせて竹内まりやのメディアでの露出も目立っている。音楽活動40周年とのこと。苦労したという山下とのジョイントは近年になって、若い方々へのフランク永井人気の広がりにつながっているのはうれしいことである。
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 いよいよ来月に近づいてきた今年の「第11回フランク永井歌コンクール。来月19・20日(土・日)に開催される。
 全国的にもこのフランク永井の名を冠したユニークな、歌コンクール。開催直前に発生した311の東日本大震災のときは中止になったものの、初回から12年の開催を誇ります。開催地はフランク永井の生誕地である、宮城県大崎市の松山。そこの体育館で、フランク永井活躍時にここで公演をした想い出の場所になる。
 松山の地元にこだわり、あえてここでの開催を毎回続けてきた。地元の方々がボランティアで準備をすすめ、当日も町でに出て全国からの来客をあたたかく迎える。
 この大会は1日目が予選で、翌日開催の決勝大会へ参加する30組が選出される。初回から全国のフランク永井の歌に自信があるという方々が、気合を入れて挑戦する。何回か強い雨の日になったときもあったが、声援を送るファンがいつも満員、席を埋める。そうとうな遠方からも、集まる催しで、今年も期待を集めている。
 松山のさまざまな歴史的なみどころもあるし、近くにはフランク永井常設展示室がある。ここでは、フランク永井のすべてが一覧できるように、さまざまな工夫がこらしていて、ファンはいつ見ても胸を躍らせてくれる。ぜひとも、この機会に足を運んでみたらいかがだろうか。
 さて、フランク永井の出演、あるいは主題歌・挿入歌で関与した半世紀前の映画について、ちょっとだけ触れたい。フランク永井がデビューしたのは、1955(S30)年であった。そして1957年に「有楽町で逢いましょう」を歌って、大ヒットを実現して、全国に名が知られるようになった。その後も大ヒットを連発した、昭和歌謡の大御所がフランク永井。
 そのフランク永井は、当時まだラジオと映画が大衆娯楽の中心だったことから、人気を得るといくつもの映画に関与した。この全容は文四郎にも正確には分からないのだが、これはというものについて、掌握した範囲で紹介してみたい。
 封切り公開された順にリスト化してみた。
1958.02.12 夜霧の第二国道(日活)
1958.04.29 羽田発7時50分(日活)
1958.05.13 場末のペット吹き(日活)
1958.05.18 夜の波紋(松竹)
1958.07.29 西銀座駅前(日活)
1958.08.12 ロマンス祭(東宝)
1958.10.07 有楽町0番地(松竹)
1958.10.07 有楽町で逢いましょう(大映)
1958.11.05 夜霧の南京街(東映)
1958.11.12 東京午前三時(日活)
1959.01.09 秘めたる一夜(大映)
1959.01.15 らぶれたあ(日活)
1959.02.04 青い国道(日活)
1959.02.18 たそがれの東京タワー(大映)
1959.05.12 夜霧に消えたチャコ(日活)
1959.05.31 俺は淋しいんだ(日活)
1959.01.03 セクシー・サイン 好き好き好き(大映)
1960.06.18 俺は流れ星(日活)
1961.08.21 続々番頭はんと丁稚どん(松竹)
1962.02.03 君恋し(日活)
1963.08.25 霧子のタンゴ(日活)
1966.04.01 沓掛時次郎 遊侠一匹(東映)
 公演でのトークで「有楽町で逢いましょうは2本目で、その前に小林旭と夜霧の第二国道を撮った」ということを言っている。だが、これを見ると、有楽町で逢いましょうの前に、そうとう数を短期間で撮影し、公開されていることがわかる。この年だけで、10本だ。
 ビデオ化されているのは「霧子のタンゴ」「有楽町で逢いましょう」だけなので、いつでも見れるというわけにはいかないのが残念だ。ときたま小さな映画館で復刻上映されるのを待つか、これもいつ放送されるか分からない有料テレビ放送での復刻を待つかとなる。
 ここで紹介した映画のポスターが上記の写真。最後の「東京ナイト・クラブ」はこのような映画ポスターらしきものが残されているのだが、その映画が実際にあったのかどうかは不明だ。おまけで上げてみた。
 21点の映画だが、ポスターにはその時代の特徴で数種類作られる。通常版の縦2分の一サイズと、横2分の一サイズがある。文四郎の確認によれば「東京午前三時」などは6種類を確認している。1種類しか確認できなかったのは「有楽町0番地」。封切り時のポスターが確認できなかったのは「霧子のタンゴ」で、それにしても合計72点確認できた。
 それは、どんなだったのか。それが、来月の歌コンの会場にこられれば、もしかして確認できるかもしれない。ということで、この当時引っ張りだこだったフランク永井の人気がわかる、映画の話でした。
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 1957(S32)年に「有楽町で逢いましょう」の大ヒットで、いっきに飛び出したスターを放っておかない。ビクターは次つぎと歌わせる。それがまた話題を生む。映画も作られる。
 当時の娯楽はラジオと映画でテレビはまだまだの時代。「夜霧の第二国道」が2月に封切られ、この「羽田発7時50分」は4月に映画館で上映された。
 当時の映画はモノクロの時代で、時間はおよそ1時間(「夜霧の第二国道」は48分で「羽田発7時50分」は61分)弱で、今のテレビドラマの1回分程度だ。だが「羽田発...」は日活スコープをうたい、およそ縦の長さに対して倍の横幅の映画となった。
 この当時映画の本場である米国でワイドスクリーンと言われたサイズの映画を日本の映画会社が連続して採用したものだ。カラーを総天然色といって驚かし、横長のスクリーンでも脅かしたものだ。
 「羽田発7時50分」の歌は宮川哲夫作詞、豊田一雄作曲、寺岡真三作曲のもので、歌詞からの連想では羽田飛行場を舞台にした悲恋もの。「待っていたけど逢えない人よ...」「見果てえぬ夢を捨てて旅立つ心は暗い...」。
 映画はどうだろうと、期待に胸を膨らまして見守る。だが、どうも自動車会社で働くテスト・ドライバーの同僚との恋愛がらみのもので、フランク永井の歌を背景にスポーツカーをガンガンぶっとばすものだった。
 題名とのつなぎは、取ってつけたようなもの。
 先にマニラに出張したドライバー(この当時はパイロットと呼称)が現地でケガ。代わりにフランクが行けと会社から言われるが、事故で謹慎中の身。親友の岡田真澄は自分が指名されるはずと思っていたのにと、悔しがる。
 岡田は後部車輪が故障したテスト車を事前点検をしないまま飛び乗り走り出す。岡田の恋人は別の自動車会社のテストドライバーを兄にもつ丘野美子。その兄(二谷英明)と無謀なスピード競争をする。
 故障した車でのスピード競争は命にかかわる危険と気づくフランクは、それを告げるために急いで後を追う。自分はマニラ行きを辞退し岡田を推し認められたと告げる。そして羽田から最終便でマニラに岡田が飛ぶ...という流れ。
 フランク永井の出演した映画では、基本的にはちょっとしか登場することはないのだが、この映画では全編に顔を出す。しかも、会社の創立三十周年記念という催しとかクラブの舞台とかに歌手(プロとしてではないが)として出て歌うという場面もある。
 この映画が有料チャンネルで過去にテレビ放送されたようだが、その時の印象がネットにあった。pj2000akiraさんによるものだが「舛田利雄監督の錆びたナイフに次ぐ作品。黄金週間に裕次郎の明日は明日の風が吹くの併映。60分位の短編でつまらない映画、岡田真澄、二谷、白木真理の主演。しかもフランク永井の主題歌を映画化しているのでフランクが出てきて臭いしばいをする、歌だけながれていればそれでよい(笑い)眠くなる映画」と酷評?している。
 まあ、この通りでもあるのだが、文四郎的にはフランク永井がからんだ映画の「記録」という視点。日本では戦後の娯楽の王様として映画があり、作成する側も、何を取り上げ、何を表現して、誰の顔を前面に出し、大衆をどう喜ばすかという挑戦の連続だったと思う。
 戦後の復興という社会と時代の巨大なテーマが覆う世だ。誰もが承知のように「日活」が名を大きく馳せたのは、石原裕次郎の登場だろう。快活なこの男を使おうと。実際に大成功をおさめた。聴衆も、製作者側が描いた映画の中での「アクション」「銃撃戦」「スピード競争」「都会の男女の恋愛」に引き付けられた。
 非現実性は百も承知で映画の中での非日常に酔ったことが、日活を活性化した。「羽田発7時50分」も、裕次郎映画とのカップリングのために作られたようだ。1時間程度の映画の2本立てが普通だった時代だ。
 今(現在)なら、そりゃダメだろう、というシーンは例によっていくつもあり、このレベルが現在地上テレビで放送できるか、BSで可能か、有料放送で可能か、DVD化ができるか等の判断基準にもなる。今回の映画での妙は、テスト車が自動車のテスト道(サーキット)ではなく、一般道と思しきところを時速百キロを超えるスピードで突っ走ることだろう。しかも、安全ベルトがない。一般車両が前方から対抗車線を走ってくるにもかかわらず、中央線を無視して並んで走る。さすがにこれは映画だけの世界とは言え、ブーだ。
 自動車工場は日産の村山工場・鶴見工場がロケで提供されたようだが、戦後すぐの様子がかいまみれる。安全とか管理とかの面でのルーズそうな感じは、現在ならと思うとその差は絶大。社員の住まいについても、ちょっと前の公団住宅のようなアパートに寮のように住んでいるのだが、日東自動車の競合他社の社員(映画では武蔵自動車の二谷英明)も住んでいること。
 ところでフランク永井は歌手だから、映画でも歌う。「羽田発7時50分」は主題歌なのだが、他にもこの映画制作時の推したい曲「哀愁ギター」が歌われている。また創立記念会場では何故か社員も「13,800円」を合唱するという大サービスだった。
 フランク永井が大好きだった自動車の運転をすることが映像化され、大変ご機嫌だったに違いない。
 ちなみに、当時羽田飛行場は国際空港でもあったが夜間飛行は騒音から制限されていた。夜8時までだったので7時50分が「最終」だと、歌の歌詞で表現されているのだが、実際はそうした便はなかった。台湾からの着便ではあったようだがが、いずれにしても飛行機便の需要が急速に求められて8時制限はまもなくなくなり、成田が建設された。

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