2019年8月アーカイブ

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 フランク永井の「大阪野郎」は1960(S35)年に発売されたレコード。これは、同年の春から読売テレビ(YTV)でおよそ1年間放送されたテレビドラマ「大阪野郎」の主題歌。フランク永井ご自身はドラマ出演はしていないようだ。
 ドラマは、当時まだ若手の藤本義一が椎名竜治(椎名竜二)と組んで脚本を書いたもの。藤本義一といえば、放送作家としてトップを走る作家で、東の井上ひさしとともの超有名な売れっ子。ドラマが面白くないわけがないとの定評がある。残念なことに筆者は観てないのでなんとも。
 放送終了とともに松竹から映画化され翌年に上映された。多くの俳優が映画にも移ってご活躍した。内容は「バイタリティあふれる浪花男の心意気をドヤ街を舞台に、痛快に描く根性もの」と紹介されている。
 主題歌「大阪野郎」は作詞中沢昭二、作編曲斎藤超。作詞家、作曲家ともにフランク永井に提供したのはこの1曲だけ。中沢昭二は映画、ドラマ系のシナリオライラー(だが、幅広く仕事している)。作曲家の斎藤超(わたる)。資料がほとんどないので、どういう方であったかはよくわからない。
 唯一と思える記事がネットサイトにあった。2009年のものだが「斎藤超エレクトーン黎明期の天才奏者」(daddy-k氏)と紹介されている。それによれば、国産電子オルガン(エレクローン)が発明され発売されて当初からの、優れた奏者であり、作曲、編曲でもなみなみならぬ才能を発揮し、教育にも力をそそいだとのこと。
 命のようなこの楽器を守るためにたたかい、病気になり不幸にも1965(S40)に若くして亡くなられてとのこと。
 このような方が曲を提供されていたというのは奇跡的で貴重。あらためて「大阪野郎」を聴いてみた。ところが、最近にひょんなことから「大阪野郎」のSP盤があるときき、聴く機会を得た。
 SP盤は「大阪野郎」では発売はないはず。この年、1960年はSPからEPへいっきにレコード製造発売が変化した年。フランク永井のレコードでは、三浦洸一がドラマ主題歌で歌った「流転」のB面「鈴懸の頃」がV-42000盤で最終を飾った。
 これが1月で「大阪野郎」は半年後。SP盤だという「大阪野郎」は、みると確かにSP盤に違いないのだが、B面はボロボロ(?)。理由は分からないのだが、SP盤初期のシェラック製とは異なり、ビニール製に何かコーディングしているようで、それがベースからはがれている箇所が多く目立つのだ。
 表面が「大阪野郎」のフランク永井の歌で、B面は演奏だけというのだが、表面はかろうじて聴けるがB面はだめ。
 タイトルで「妙」と言ったのは実は、これだけではない「妙」があるからだ。それは、今までのSPで見たことも、聴いたこともないこと(私には)。何とSPの針を外周からではなく、内周に落として外へ動いていくというもの。
 驚いた。最初は外に針を落とすが、何度やっても「終了」する。さんざん首をかしげた挙句、もしかしてと思いつつ、内周に針を添えたら、ちゃんと再生したという次第。
 こんなSPは私には初めてだが、どなたか、そんなSPのことについてご存知なら、ぜひご教授いただきたい次第。
 SPのレーベル箇所はNIHON DENK ONKYO CO. LTDの汎用に手書きで「主題歌(唄入り)3'17"」「主題歌(楽団演奏)2'27"」と書かれている。
 そこで、あらためて、SPがつつんであった封筒を見てみたら、そこに写真のように「大阪野郎主題歌 斉藤様 YTV」と。つまり、放送局で使用したもので、かつ作曲である斎藤用のもの。これが何らかの事情でここにある、というものではなあろうか。
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 フランク永井が現役時代に発売したシングル盤はおよそ500枚。1955(S30)年から1985(S60)年まで。枚数をおよそ、と言ったのは後年の時代のレコード会社のさまざまな企画で、アンコール・シリーズとか別カップリングでの再版が多数あって、それを数えると相当数に及ぶために、フランク永井データブックの基準(ダブりをなるべく抑えた)で数えたものである。
 別項で取り上げたのは、1966(S41)年ごろまでのレコード会社の方針で、レコードの表裏(A面・B面)を別の歌手にする傾向が強かったということ。フランク永井については、デビュー盤以来半数を超える盤に別の歌手が組まれたと。
 歌手名だけで50余名に及ぶのだが、並べてみると圧巻。
 一番多く組んでいるのは、藤本二三代で17回。ついで松尾和子14回。朝倉ユリ11回。和田弘とマヒナ・スターズ11回。三浦洸一8回。曽根史郎7回。全体は下記に。
 ゴールデン・デュエットの松尾和子が多いと思ったのだが、藤本が一番多かった。久しく聞かない朝倉ユリも意外に多かった。男性陣では三浦洸一、曽根史郎が目立つ。お二人ともフランク永井と比べてもファンも多く名が通っていたので、カップリングをするレコード会社の意図はどこにあったのか、と今も思う。
 高島忠夫、立川澄人、灰田勝彦、橋幸夫、ウイリー沖山、松島アキラ、宮城まり子、田代美代子とそうそうたる名前が連なる。筆者の近所で新聞の配達時に配布される「定年時代」というタブロイド紙があるのだが、ウイリー沖山が紹介されていた。85歳(現在は86歳かな)で、膠原病(こうげんびょう)に襲われたが克服し、ヨーデルは無理だが現在も「歌こそ命」でコンサートを開いたりされていると。素晴らしいことである。
 当然、多くの方はすでにお亡くなりになったが、まだまだお元気な方もおられる。雪村いづみは、フランク永井デビュー時のジャズ3曲の片面を飾ってくれた。藤田功はフランク永井に作曲を提供している曽根幸明。知らない名前の方もおられる。新人歌手だったのだろうか。羽生奈々子はフランク永井のデビュー曲のA面だが、その後どこでも聞かない。こうした方々がおられてのフランク永井であったと思わせる、カップリングの顔顔である。

藤本二三代(17回)、松尾和子(14回)、朝倉ユリ(11回)、和田弘とマヒナ・スターズ(11回)、三浦洸一(8回)、曽根史郎(7回)、市丸(4回)、多摩幸子(4回)、藤田功(3回)、神楽坂浮子(3回)、雪村いづみ(3回)、野村雪子(3回)、橋幸夫(2回)、中沢銀司(2回)、明石光司(2回)、三沢あけみ(2回)、清水まどか(2回)、中原葉子(2回)、藤村真紀(2回)、ウイリー沖山(1回)、河村淳(1回)、灰田勝彦(1回)、宮島三郎(1回)、熊倉一雄(1回)、広瀬一声(1回)、高島忠夫(1回)、今村隆志(1回)、坂本博士(1回)、勝三四郎(1回)、松島アキラ(1回)、村崎貞二(1回)、平尾昌章(1回)、立川澄人(1回)、ロミ山田(1回)、安西愛子(1回)、羽生奈々子(1回)、岡部幸恵(1回)、菊池章子(1回)、宮城まり子(1回)、山中みゆき(1回)、小桜姉妹(1回)、松島みのり(1回)、真理ヨシコ(1回)、大川さゆり(1回)、大津美子(1回)、大塚美晴(1回)、中尾ミエ(1回)、中野千鶴子(1回)、中矢孝子(1回)、田代美代子(1回)、内海京子(1回)、美野早苗(1回)、ニュー・キャリナーズ(1回)、ビクター少年民謡会(1回)、焼津市南小学校合唱団(1回)

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【余談】昔から見てくださっている方からご指摘があった歌手名についてひとこと感謝と共に触れたい。まだ現役でご活躍の曾根史朗(たいへん僭越ながら敬称を略させていただいてます)。曾根は一般表記を優先して曽根と記載させていただいている。名前は史朗が現在の表記で、フランク永井と現役を共にしていた時代は史郎。同様に平尾昌晃だが、ご活躍であった時代から、主に歌手と作曲家で使い分けたりされておられたようだが、マスコミ等周囲が十分についていけずに混乱があった。後年作曲家が主になったことから平尾昌晃で統一された。フランク永井と同時代であった歌手時代は平尾昌章。
 人名は本人の表記への意思を尊重したい。だがちょっと複雑な事情もともなうことがある。それはフランク永井の恩師吉田正の表記。吉田の吉はご本人の意図としては、土+口が正式で可能な限りそうして欲しいというものだった。だが、これは一般的な文字表記としては、士+口の吉が使われている。事情は漢字のコンピュータでの字形の規定をJISで採用する際に、吉が土+口の文字を許容して含むという判断をしたことによる。通産省系の判断が優先された。というのは、同時期に分母が無数に近い手書きの人名文字をコンピュータ化するために、取り組んでいた総務省系の部署が取り組んで、一部現場でも使用されていた。だが、余りにも無茶無理があるために統一性を持たせることが困難で、通産省系がJIS第一水準で決まってしまい、多少の修正をされながら今日に至っている。
 吉田をご本人の意図尊重で正しく表現したくても、それは例え同じ意図を持つ本人でも表現できないというのが現実。そのことから、吉田正の吉は士+口が一般に使用されている。だが、求める側との力関係で見かけるのは主に外字として別途作られて使用されているのもある。だが、ビジネス文書やPC系での一般文と異なり、書籍系では土+口が表現できる。それは世界的な標準であるアドビ社のアプリで作られるものだ。このアプリではJISとは別に多数の異字体を含むフォントが使える仕様になっているため。渡辺の辺など2桁に及ぶのではないかと思える異字体でも、容易に表現できる。
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 この表題では、きっと誰もが何が言いたいのか分からないかも知れない。フランク永井のシングル・レコード(EP、直径7インチ=およそ17cm盤)の虫干しをしていて、以前から気づいてはいたのだが、今までテーマにしたことがなかったこと。
 それは、上の写真をご覧いただきたい。なお、写真は著作権や再利用の関係から、判断できると思えるぎりぎりまで品質が下がっているので、ご容赦。
 フランク永井のレコード界デビューは1955(S30)の「恋人よわれに帰れ」であるが、このときから1966(S41)という、大活躍したおよそ10年間に発売されたEPと当初のSP(硬く重く割れる盤)のジャケット。ただし、A面B面のいずれかが、フラック永井と異なる歌手によって曲が納められているというもの。実は、この間にでたのは198枚あり、デュエットも含めて他の歌手とともに出たのは117枚、60%もあるのだ。とにかく多いことにびっくりする。
 ちなみに、最後の一枚はこの時期からずっと後の1977(S52)の「11時<イレブン>過ぎから」である。
 カップリングとちょっと面倒なのでこう呼んだが、正確には異なるハズ。というのは正確ではないと思うが、カップリングはA面ともB面とも呼ばずに2人の歌手の歌を双方A面と同じレベルの扱いをしたい、というときに用いた用語のようだからだ。
 A面、B面ということ自身、妙な呼び名である。レコードを手に取った人が、異なる歌手の異なる歌であるときに、どちらを聴きたいと思うかは純粋に個人の好みである。A面、B面はあくまでもレコード会社側の売りたい、看板にしたいという意図がつけたもの。
 だから、購入する側からは、自分の好きな歌手の盤を取得するだけで、その裏面を何と呼ぶかは意識にないのではなかろうか。場合によってはレコード会社が推したいA面には針を落とさないということまであったかもしれない。
 1966年を境に、フランク永井のカップリングは「11時<イレブン>過ぎから」のたった1枚。急激な変化があったようにみえる。
 そのころになれば、フランク永井が業界での重鎮となり、フランク永井にくっつけて売りたい新人歌手がいたとしても、重鎮に失礼になるかもしれない。とか、新人には大物にくっつけて拡販してもらったのでは、というような気持ちにさせ、これも失礼となりかねない。
 定かなことはまったくないが、そんな心理が働いたのかもしれない。
 では、それまでは、どんな考えがあってカップリング(実際はA面、B面)が主流?ではないものの、多かったのだろうか。
 やはり、単純にA面の歌手と曲を広く世に売りたい。ついでにこれからの活躍を期待したい新人、あるいはまだ名前が広まっていない歌手と歌をB面にして買ってもらいたい。というようなことが一番だったのかと思う。
 だが、これだけで説明できないのは、当時すでに先行して名が売れていた三浦洸一とのペア。双方が有名になっているのだから。。。これほどカップリングが多いということは、おそらくフランク永井に限ったことではないだろう。時代の風潮で、他の歌手についても、他のレコード会社でも同じ流れがあったのかもしれない。だが、残念なことに筆者にはそうした情報はないので、ご存知の方は教えていただければ甚大。
 A面、B面ではどこまで考えてそのようにしたのか、と後に言われた盤もある。松尾和子をデビューさせた「グッド・ナイト」、このB面は「東京ナイト・クラブ」。損したといわれる「おまえに」の最初の盤は「大阪ろまん」のB面で、やはりB面ゆえに露出が大幅に少なかったと。だが「こいさんのラブ・コール」はA面「釧路の駅でさようなら」(三浦洸一)のB面。これはB面でも売れた。
 近年、ビクターはフランク永井のコンプリートとしてA面全集をだした。これは画期的でファンからおおいなる期待を寄せられた。だが、ここで記したように全盛時代にいくつもがB面であるがゆえに沈む結果になる。そればかりか、1966年以降はリリースされた曲のおよそ半数が日の目を見ないことになる。コンプリートをいうのであればB面を考慮しなければ完結しないのではなかろうか。
 当時のレコードを当時のジャケットのままで復刻するとうたうMEG-CDからすでにフランク永井の盤は三分の二程度は出されたと思う。これはB面も忠実に復刻している。そのために、カップリングで当時はB面であるがゆえに一歩遅れをとった歌手と曲が、平等に再登場した。
 さて、写真でカップリングした歌手は53名。これを資料として下記に記す。
[ウイリー沖山][ロミ山田/坂本博士][安西愛子/中野千鶴子][羽生奈々子][河村淳][宮城まり子][宮島三郎][橋幸夫][橋幸夫、三沢あけみ][熊倉一雄][広瀬一声/岡部幸恵][高島忠夫][今村隆志][三浦洸一][三沢あけみ][山中みゆき][市丸/曽根史朗][市丸/曽根史朗/藤本二三代][市丸/中沢銀司][勝三四郎][小桜姉妹/焼津市南小学校合唱団][松島アキラ][松島みのり][松尾和子][松尾和子/和田弘とマヒナ・スターズ][真理ヨシコ][神楽坂浮子][神楽坂浮子/中矢孝子/大川さゆり][清水まどか][雪村いづみ][曽根史朗][村埼貞二][多摩幸子][大津美子][中原葉子][中沢銀司/大塚美晴/ビクター少年民謡隊][中尾ミエ][朝倉ユリ][田代美代子][藤村真紀][藤田功][藤田功/三浦洸一/灰田勝彦/多摩幸子/藤本二三代/菊池章子][藤田功/多摩幸子][藤本二三代][内海京子][美野早苗][平尾昌章][明石光司][野村雪子][野村雪子/神楽坂浮子][由利夏江][立川澄人][和田弘とマヒナ・スターズ]
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 今日十日は文藝春秋の発売日。芥川賞をウォッチしている友人から連絡があった。何かと思いきや「見たか!出た文春のグラビアの柳家小三治を」と。
 そんなぁ、文学にはおいらぁ弱いの知ってんだろうっ!と返答はしたのだが、気になって覗いてみると、確かにグラビアページで柳家小三治が特集になっている。そこで、該当のページを見てみると記載がある。「楽屋で髭を剃る。親交のあったフランク永井の唄を口ずさんだりしながら、入念に準備を整える。徐々に、感覚を研ぎ澄ませていく」とある。
 芥川賞受賞作品をきっと読まないのだが、貴重なフランク永井の「ちょい出」があったという話。
 柳家小三治はここにあるように、フランク永井が元気で舞台で活躍しているときからの熱烈なファン同士で有名。その小三治がいまだに鮮やかな話を現役で聴かせているというのは、それだけで感動もの。鏡!。
 フランク永井はデビュー前から話が大好きだったようだ。彼のライブでのトーク、映画出演でのセリフ回し、聴いていみれば、その軽妙なかたりは、落語の発生のようだ。
 柳家小三治は落語の話の切り口のうまさが定評。それをまくらというのだそうだが、そのまままくらを収めた「ま・く・ら」(1989講談社)を出版している。とうぜんフランク永井にかかわる話題をそこに入れ込んでいる。
 舞台で自ら話すということと少しは関係があるかもしれない。その興味の対象はどんどん深まり、勝手に師匠を決め込み、勝手にフランク亭永井をかたる。当時の大衆の娯楽の対象は、流行歌、落語、浪曲、民謡...。入れ込んでいく。
 そうしたフランク永井を、噺家も快く許した。このくだりは、フランク永井大全集(1975S50年 SJX-8022~8031)の10枚目の盤で語られている。この盤には音で唯一残っているのではないか、と思えるフランク永井自身の語った小噺「夕立や」が載っている。
 この世界でフランク永井との深い交流があったのが、その世界を語れば大家の安藤鶴夫。家族ともどもの深い親交があった。彼が書いて残した「昔・東京の町の売り声」(1987旺文社)は、これも光っている。
 テーマは全編通じて、日本の町の、といっても安藤が生活する周辺のことだが、様子が映像のようにみごとに映し出されている。いや、ここで特記したいのは、彼の文章だ。といっても、それは安藤が持つラジオ番組(ニッポン放送ラジオ・エッセイ)での語りの再現だから、当然だろうと言われればそうなのだが、その語りがすごいのだ。
 日本語がこれほどまで、はっきり、ぴったり、明確に、みごとに、口から自然に出てくるということ。安藤と落語の結びつきがいかに自然な、生活そのもの、日常であったかを証明しているのではなかろうか。と、読んでいてエラく感心したところであった。
 この安藤は明治百年、つまり1968(S43)年に国中でさまざまな行事がとりおこなわれてときに、愛知県にある博物館明治村でも記念祭が行われ、それに関与した。そこでは、国内ばかりにかぎらずにクラシックから大衆芸能までがフル動員された。このときにめいじ百年を記念して特別に作られた「明治頌歌」をフランク永井に披露させた。
 フランク永井は第2回リサイタルで長編歌謡「慕情」を歌ってその実力を認められていただけに、難しいと思える時代をたたえる古文調の「明治頌歌」をどうどうと歌いこなしている。
 さて、安藤の残した上記著作で、やはりちょい出がある。それは舟木一夫に関する記述の箇所。舟木がまだデビューする前に安藤と近い四谷周辺に住んでいて、町のお風呂で語り合う中。
 舟木(厳密にはデビュー前なので異なる)がこの当時よく口ずさんでいたのがフランク永井の唄だったというのだ! それからしばらくして、遠藤実のもとから舟木一夫で「高校三年生」を歌って出た。たちまち大人気に。
 遠藤から事情があって吉田正が預かったのが橋幸夫。彼は遠藤のもとにいれば舟木の名が付けられる予定だったと、橋が後に語っている。橋と舟木一夫と西郷輝彦は初代?の御三家でその後この世界を席巻した。お三方ともこれからも元気で歌い続けてほしい。
 ということで、今回はフランク永井が、何かの拍子にちょいと出てくることが、つらつら思い出されて記した次第。
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 梅雨が長引き湿気の多い日々が悩ましていたら、月明けてこんどは猛暑が続く。そんなうっとうしい気持ちに、ひとしずくの憩いを送ってくれたのがこの番組。BS11-八代亜紀いい歌いい話「ムード歌謡ヒットメドレー」。
 ムード歌謡については、これまで幾たびか取り上げられてきた。フランク永井の恩師吉田正が、その分野の先駆けというか、戦後の復興期の高揚と重なって切り開いたもの、というのが定説。だが、今回の番組で特筆すべきは、作曲家中川博之にスポットをちゃんと当てたことだろう。
 元日本クラウン・ディレクター牛尾眞造が語った。吉田正の作った「有楽町で逢いましょう」にただならぬ興奮を覚えたという。同じ感覚を共有したのが中川だと。そして、黒澤明とロス・プリモスの「ラブ・ユー東京」を作ったと。これは、ムード・コーラスにおける金字塔で現在も広く歌われている。
 「有楽町で逢いましょうを聴いたときはしびれた。一口に言えばしゃれた曲。4ビートを柱にしたブルースで、詞、曲、編曲、歌唱、どれをとっても突出していた」と評価。中川は母が「湖畔の宿」を好きで歌っていたのを記憶の底にもっていて、そのイメージを延長、発展させていったと。
 「たそがれの銀座」「夜の銀狐」さそり座の女」「わたに祈ってます」等々を作曲した中川の功績は忘れてはならない。フランク永井も「ラブ・ユー東京」はカバーしている。森聖二の歌唱も印象的でいいが、フランク永井の歌う「ラブ・ユー東京」も秀逸だ。2002年に「RE-MASTER VOICE Ⅱ」に収められて発売された。
 フランク永井や松尾和子の映像がちゃんと流れるのかと期待してみていたが、残念なことに、ムード歌謡・吉田正の紹介で、わずかに数小節だけの披露だった。
 八代亜紀の司会でゲストは高橋秀樹と神野美伽。この三人で「東京ナイト・クラブ」が歌われた。後半では裕次郎が登場する。高橋の日活の先輩。ということで、三人で「銀座の恋の物語」を歌うという定番で進行する。

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