2019年7月アーカイブ

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 6月26日高島忠夫が天に召された。88歳であった。こころから追悼の意を表する。
 高島忠夫といえば、フランク永井ファンにとっては2つのことが思い出される。
 一つは、フランク永井がビクターに入って、ジャズ志向から流行歌への転向をした最初の曲「場末のペット吹き」(1956(S31)年10月)のB面で「波止場の人気者」を歌っていること。
 高島忠夫は東宝の映画スターで、ぼんぼんのようでも歌える俳優ということで人気を博していた人。この人がフランク永井の新たなデビューの後押しをしたのである。
 二つ目は、フランク永井が「有楽町で逢いましょう」で人気がうなぎ上りに上がる中「東京ダーク・ムーン」の作曲をしたことだ。作詞は不動の佐伯孝夫で編曲はこれも不動の寺岡真三。1958(S33)年4月。
 当時ラジオで流れる歌声では「?とうきょう・だくむー...」と耳にはいり、だくむって何だ、濁夢か、と話していたほど。よく流れていた。
 こうしたことから、フランク永井にとっても高島は忘れられない人だったのではないだろうか。
 高島は映画・テレビ・舞台で大活躍する。宝塚女優の寿美花代と結婚しおしどり夫婦としても有名になる。今ご活躍の高島政宏、政伸を育てた。だが、忘れられない悪夢もあった。
 「長男殺害事件」だ。また誰しもが老いる。病気にもなる。闘病と介護という現実が及んでくる。はなやかな世界を横臥してきても、避けえない現実世界に突き当たる。
 多くの有名人はこの現実の報道がイメージを傷つけるとして控える傾向があるが、高島についてはある程度皆に知れたほうであろう。誰しもが立ち向かわざるを得ないということを、ある程度あからさまにするのは勇気もいることだが、それを覆い隠さずに生きる勇気もその人のありようだろう。
 そんなこんなと高島を偲んでいたら、何度かこのブログで紹介したことがある武田鉄矢の「昭和は輝いていた」で「大人の社交場に響いた歌声~クラブシンガー」(7/19)が流れた。まさにフランク永井、高島忠夫が活躍していた時代の話だ。
 日本を占領していたGHQ。いたるところに存在した米軍基地。そのキャンプには遠くから遠征してきた米兵をいやす社交場があった。朝霞はキャンプ・ドレイクと呼ばれ、フランク永井は上級幹部用の場の専任歌手として歌っていた時期もあった。
 雪村いづみ、江利チエミ、ペギー葉山、松尾和子などもキャンプ周りをした。ところが朝鮮戦争が一段落してGHQの役割が終わる。米軍も一部を残して撤収する。すると、フランク永井らにとっては新たな職場が必要になる。そこで勃興するのがキャバレーやナイトクラブ。
 番組はそこで活躍する歌手に的を当てて紹介している。ナイトクラブは比較的上流な(つまり、金持ちたち)の遊び場。米軍キャンプを経験した歌手たちは多数に及ぶが、実力が認められなければ定着できない。ナイトクラブ歌手には、その実力者がすわった。大物芸能人、高級官僚、政治家、財界の有名人で夜な夜な賑わう。番組のゲストは八代亜紀と中条きよしだったが、ナイトクラブ歌手はレコード歌手のおよそ十倍にもおよぶ収入が得られてという。
 番組の最初のほうでフランク永井が登場する。「恋人よわれに帰れ」(デビュー曲1955(S30)年)を歌う。当然この歌唱の映像は残されていない。だが番組では、スポニチクリエイツが残した若いフランク永井の舞台での歌唱シーンを用意して、歌にかぶせる。それがなかなか自然でよかった。
 フランク永井とゴールデン・デュエットを組んだ松尾和子が「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」を歌う。ムーディーな大人の歌声で聴く人を魅了するというと青江三奈(横浜「ナイト・アンド・デイ」)もいた。彼女は「恍惚のブルース」を聴かせた。
 赤坂の高級ナイトクラブで有名だったキャバレーミカド。その後ビジネス街のビルに。私的なことながら、ここに仕事で数年過ごしたのを思い出される。酔いも進んだのでこれまで。
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 フランク永井の残した曲についての「すべて」を編纂した筆者のデータブック「フランク永井・魅惑の低音のすべて」(2010年刊)について、書籍で紹介してくださった方がおられる。
 その書籍「古稀=四重奏」(柳澤通博著、2019年5月、木鶏書房刊)である。写真にあるように、データブックについて紹介してくださった。すぐに著者の柳澤さんにお会いしてお礼を申し上げ、あわせてフランク永井についての談義をさせていただいた。ここでもあらためて感謝を申し上げます。
 著書内でも書かれているのが、氏はフランク永井の昔からの大ファンで、私と同様の動機から、自ら「フランク永井大全集」に値するデータ一覧と、所有のレコード音源からテープを作った方。ところが、さすがに若干盤がなくて欠損がでる。それでも、誰もが成しえない当時の大全集には違いない。
 機会があって、当時ご健在のフランク永井に直接話したら、気安く「そこは私が埋めてあげるよ」と。ところが、そこで思わぬ報道が入る。1985年のあの事故報道だ。氏は衝撃を受けて、そのプランは棚上げ。
 その後、今回の書籍「古稀=四重奏」の執筆の過程での調査時にデータブックの存在を知り、写真のような記載にいったったとのこと。
 この書籍は氏の人生と想いが込められたもの。どの箇所を読んでもいったん当てた焦点をぐいぐいと絞り込んでいく。お会いしていろいろとお話を伺ってもその姿勢は一貫していた。フランク永井だけではない。日活の看板スターであった裕次郎や旭や赤木圭一郎の話。レコードもそろえている。映画の話などは、強引に切り上げないと何時間でも終えないと思われた。私もひと時は年間500本観たのを思い出す。
 フランク永井については、活躍当時リアルタイムで生活に入り組んでいたことがわかる。互いに盛り上がったのは、フランク永井の不世出の歌唱について。それを証明したものとして挙げたのが1966年の第2回リサイタル「慕情」と、1969年の「旅情」という2枚のLP。
 フランク永井がただの歌手でないことを、世にガツンと衝撃を与えた歌だ。前者は恩師吉田正の曲で詞は岩谷時子。2回目のリサイタルのために特別企画した長編歌謡で、およそ20分の歌唱だ。私は当然リサイタルにはいっていないが、それを聴いた観衆が静まり返り、かつてないほどの感動を受けただろうことは想像できる。終了後の観衆の拍手はいつもとはまるで違っていたであろう。
 たんたんと情景を歌う。それが観衆の胸に直に伝わる。それを再現するように、後者は昭和44年度の芸術祭参加作品として、筒美京平と橋本淳のユニットと組んで実現したもの。人気の実力派筒美のセンスがフランク永井のもつパワーを全開させる。このLPに収められた全曲が一つの情景を形作っている。
 「慕情」は異例の長い曲だけに、このリサイタル後に歌われた記録はない。後年吉田正全集に入っただけだったが、MEG-CDからリサイタル盤は復刻した。これはやはりフランク永井の大ファンでいくつかカバーも出しているささきいさおが「雪の慕情」にした。だが、これは通常の歌謡曲の3分版にしたも。
 「旅情」は筒美京平作品であることからかどうかはよく分からないが、盤の入手は今も困難だ。
 二人の対談で共通したことの一つは、フランク永井の残した遺産をきっちりと記録に残そうということだった。楽曲は完全なデジタル化がまだ少し残っている。これを完成させたい。さらに、フランク永井に関するエピソードも知りえる限り、何らかの形で残そうということ。
 フランク永井の完全な、いやせめて正式にビクターからリリースされた作品だけのものであっても、大全集はありそうでまだない。60周年を記念してA面の全集が組まれたのが最後。これも貴重な初出の音源が多かったのだが、なぜその機会にA面だけにしたのかの疑念は残る。
 氏が書籍で指摘しているように、裕次郎のカラオケ音源が350曲あり、舟木一夫は90曲ある。それに対し偉大なるフランク永井の音源が50曲程度というのは、いかなることかと。レコード会社は後年演奏とボーカルは別取りしているから、あるはずなのにないのは怠慢なのか、何かプライオリティを低くする理由があるのかと私も思う。
 フランク永井歌コンクールにおいても、演奏曲の少なさは毎回のように話題にのぼる。ぜひともいい方向に向かって欲しいものである。
 ということで、氏の貴重な書籍(「古稀=四重奏」の案内)を読んであらためて感じた次第である。


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 米山正夫は、フランク永井との直接の接点はない作曲家である。コロンビアやクラウンという、どちらかというとビクターの競合のかかわりが強い作曲家。圧倒的に有名なのは美空ひばりに、優れた印象深い曲を残していることで有名。だが、フランク永井と無縁でないのは、恩師吉田正との関係である。
 吉田正が先の大戦で徴兵され大陸に送られた。シベリア抑留を経験することになるのだが、中国地方にいたときに病気する。このときに同じような運命でそこにいてた米山と会う。シベリアであのドラマチックなエピソードの「異国の丘」の元曲(「大興安嶺突破演習の歌」、詩の原題は「明日も今日も」で増田幸治による)を作曲した。抑留帰国船で日本へ帰ったら、その歌がNHKから流れて(素人のど自慢では中村耕造「俘虜の歌える」の題で歌った。やはりフランク永井の恩師作詞家の佐伯孝夫が、それを聴きビクターから竹山逸郎と中村耕造の歌でレコードが発売。佐伯が詞を整え「異国の丘」とした)いて、作曲者を探していると聞く。
 これが吉田自身が作ったものであるのはすぐに気づいたのだが、それを証明するものが乏しい。しかし吉田は先に帰国しすでに活動を開始していた米山に相談し、連れ立ってNHKに行って作曲者だと告げる。その後同僚がシベリアから歌を記録した手帳を靴底に隠して持ち帰ったものがあり、それが決定的な証拠になって吉田の作曲家は証明された。
 吉田正と米山正夫。そしてこれで吉田はビクターから専属作曲家として迎えられた。フランク永井が登場する素地を作るのに深く関与したともいえる。
 米山正夫に筆者が深い関心を持ったのは、そうしたエピソードを知る以前に聞いた美空ひばりの「車屋さん」だ。
 美空ひばりは知らない人がいない。例に漏れず子供のころから聞いた。「港町十三番地」などは山村で育った少年たちには、あこがれでもあった。1961(S36)年「車屋さん」を歌う。当時はガキだったからいろいろ映画やら美空ひばりの人気は大変なものだな、と思う程度だった。だが、美空はその後どんどん調子を上げていく。絶頂期には、歌のところどころで、妙に響く低音で声を響かせ、何か「どうだ、こんな声は他の歌手では出せまい」と言っているような節を聞かせだす。
 これは筆者に反発を生んだ。鼻にかけているのか?ということで、以後美空は嫌いになるのだが、何度もこの記事で取り上げているけど、彼女の歌唱のすごさや、残した栄光の記録は高く評価している。
 振り返ってみて、美空ひばりの歌で好きなのは「車屋さん」と「お祭りマンボ」かな。その「車屋さん」を作ったのが米山正夫だ。いずれも並の歌謡曲ではない。テーマといい、歌の構成といい、歌唱といい、つまり美空ひばりという歌手に完全特化した歌といっていい。
 聞いていて心地よい。実に楽しい。芸子と思しき娘が恋をする。人力車が登場する。車屋さんにラブ・レターを頼むという、映像効果、感情変化が手に取るようにわかる。途中から都々逸に変調するが、美空の歌唱が光る。といったいわば夢想もので誰をも楽しませる趣向だ。
 「お祭りマンボ」も似ている。こちらは原六朗で非演歌調の明るい曲を多く作った作曲家。「お祭りマンボ」は詞もつくり、編曲もしている。やはり、米山同様、美空ひばりに特化して、すべてのイメージをご本人ですべて完成させている。
 吉田正もそうだったが、歌手のもつ個性、大衆歌手が聴く人に何をどう見せれば最大の効果を生むのかというのを、深く掌握して作っていた。歌手にたいする半端な理解では傑作は生まれない。
 米山をさらに知ったのは、「ラジオ歌謡」の知人の誘いで歌謡祭を何度か見たのだが「山小屋の灯」をはじめ「森の水車」などこの種の多くの歌を作っていることを知ったときだった。当日放送でゲストに出ていた水前寺清子「三百六十五歩のマーチ」とか、プロの歌作りの視点を常に外さない。
 吉田正も米山正夫もシベリア抑留経験者。二人とも明るい歌を作った。戦争が生むのは人間最大の理不尽と悲惨だが、その苦しみの深さに反比例するような明るさだ。
 米山正夫にフランク永井への曲も1曲でいいから作って欲しかった。などといつもの幻想をいだきながら。

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 フランク永井との接点がある方々を紹介するのが本筋なのだが、小林亜星については特別な接点はないようだ。ただ、フランク永井が活躍した同時代に、歌の世界で異様な光を放った作曲家の一人が小林亜星であることから、番外編として取り上げてみた。
 小林亜星はしばらくテレビなどにでることはなかった。どうしているものか、と思っているところに「武田鉄矢の昭和は輝いていた」という人気の番組で、小林亜星が取り上げられてそこで久しぶりに彼の健在を確認できた。
 昭和の流行歌作曲家には、フランク永井の恩師である吉田正や古賀政男、遠藤実、船村徹等々多くおられる。以前にも上げたことがあるだが、著者が大変気になる方がいる。それが別項で取り上げた「夜霧よ今夜も有難う」の浜口庫之助、「男はつらいよ」の山本直純と、今回の小林亜星。
 小林亜星で真っ先に挙げられるのは都はるみの「北の宿から」かな。詞は阿久悠。編曲はフランク永井の曲も多く手掛けた竹村次郎。日本レコード大賞を得ている。...かな、というのは亜星の名をファンが知るのは、そのコマーシャルソングの多さではなかろうか。
 1960年代から1970年代は亜星のコマーシャルソングが圧倒的に多く、しかもどれもが印象深かったからだ。それらのいくつかは現在でもどうどう?と流されている。CMは企業の宣伝で、実は実態とは無関係に強引なこうありたいという願望を詞やメロディーで、テレビの映像にかぶせて流すもの。
 CMは企業にとってみれば、顧客にこう見られているという縛りでもあり、そうあらねばあるいはそのイメージを壊してはならぬという強い努力目標になる。顧客はCMのイメージからその企業を想像して、購入する製品にかぶせて期待をするのだから、大したものだ。
 それゆえに、CMを作り、それが「ヒット」するというのは、作曲者や制作者にとっては非常に重いものだ。これを多数手がけて成功させるというのだから、亜星の能力は並外れたものでない。
 番組の司会武田は、本人に妙な質問をする。「ヒットのコツは何だ」と超絶偉人にとっては超企業秘密?を。だが亜星はパッと隠すことなく答える。それは次の三つだと。「バンで始まらない」「一番高い音は一か所だけに」「フレーズ最後の音をファやドに」。
 曲は好きだが曲作りには完ぺきにうとい筆者にしてみれば、???なのだが、聞いた武田は「よし、仲間に自慢で話してみよう」と。
 亜星の顔はコンパスで書いたような丸顔だが、コマーシャルに自身が出演したりしていたことから誰もが知っていた。これをダメ押ししたようなのが「寺内貫太郎一家」。1974年向田邦子脚本のテレビドラマに主演出演して人気者になった。
 彼の映像から見る印象では、偉くなってもお高く留まるようなことを知らない素直な人。だから、ご本人は気が向くまま行動し、発言する。人それぞれで好き好きだろうが、このあたりが、気さくでいいのではなかろうか。それを象徴するようなことがある。
 ひとつは日本著作権協会(JASRAC)の内部で公金不正運用が発覚したことがあった。このときに亜星は永六輔、野坂昭如らとともに厳しく指摘をしたのだ。またときにある作曲家の曲が自分の作った曲を剽窃しているのではとして話題になったこともある。歌は多くの大衆のこころの応援歌だ。これに泥を塗るようなことは黙って見過ごせないという感覚が伝わる。声をあらわにすることもある。どっちの味方か分からないマスコミは内容ではなく、声のあらわという無意味な形態をとりあげて騒ぐ。。。
 もうひとつは、彼がエッセイとして綴った「あざみ白書」(後に「軒行灯の女たちに改題」)。「資料は正確に、オチは荒唐無稽に」書いたというのだが。これなぞ、並みの努力で書けるような代物ではない。実に亜星らしい。
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 フランク永井映画月、4本上映されたわけだが最後の紹介は1958年今村昌平監督の初期作品「西銀座駅前」。いうまでもなく、フランク永井の大ヒット曲「西銀座駅前」にあやかって作られた映画。
 営団地下鉄丸ノ内線「西銀座駅」が開業したのが直前の1957(S32)年。これが相次ぐ地下鉄網の発展で、7年後の営団地下鉄日比谷線が銀座に駅をつくる。この際に駅が「銀座駅」に統合される。歌「西銀座駅前」は、そんなその後の展開を知る由もなくできた。
 「〽ABC XYZ これがおいらの口癖さ...」という歌。佐伯孝夫の虚をつく歌詞に恩師吉田正が曲をつけた。都会のど真ん中である銀座。溢れるエネルギーが、夜の焦燥にからむ。
 フランク永井はどう歌いこなせるか、というガチの勝負曲。ところがフランク永井は、この挑戦を真正面から、何のてらいもなく、ストレートで歌いあげてしまう。「そんなことを口癖にしているヤツなんて、どこにもいないだろう」などと、ぶつぶつ言いながらも、この曲を強烈な印象で受け入れていった。
 当時の社会的な流れで、歌がヒットすると映画が作られる。この曲については、後の大監督である今村昌平に振られた。降られても当然イヤといえない。何とか脚本を書いて2週間程度で撮影を済ましてしまったようだ。
 日劇での舞台も公演されたと聞くが詳細は分からない。ただ、フランク永井本人も登場し歌を歌っている。他に盤のB面で「第三倉庫」の朝倉ユリ、渥美清、由利徹らが出演した舞台だったようだ。時期も映画上映とかぶさっていて、銀座周辺はこれでもちきりだったんだろう。
 さて、映画だが今村による脚本では、やはり戦争をひきづっている。二人の子を持つ重太郎(柳沢真一)。妻は西銀座駅前の薬局経営。重太郎は南方戦線に従軍中に、漂流したチャリ島でサリーと恋仲になる。これが何年たっても忘れられない。夢か妄想か現実かの区別がときどききかなくなるという病もち。
 彼の友に獣医(役西村晃)、小沼正一といった面々がいて、治療には浮気が一番と、まぁ猛烈にけしかけるところが、おもしろい。というか、フランク永井映画によく登場する西村晃は、全身でバカバカしさに取り組んでいる点がすごいのだ。
 幻想と現実をそのまま映像にしたようなコミック映画だ。若い山岡久乃が妻役とサリー役で出演しているのも貴重だ。
 友に扇動されて薬局の隣の文具店のユリと二人だけになる、状況チャンスができる。だが、夢と現実の間をさまよる重太郎は...。とりとめもない夢と幻想なので、観終わっていったい何が、この映画の言わんとしたことだったのだろうと、思ったりするが、これはこの映画に通用しない、といったところだろうか。
 巨匠今村昌平の作品はDVD化された。この映画は1時間足らずで、当時も何本立てかの一作品で扱われたと思うが、DVDでも「盗まれた欲情」とあわせて発売されている。
 フランク永井は歌も歌っているが、映画のシーンのところどころに登場して、さりげなく状況を紹介しているという、不思議な役どころ。映画の説明ではこれを「ジョッキー」と言っている。今での言うナビゲータなのだろうが、ジョッキーにそうした意味はあるのだろうか。ディスク・ジョッキー(DJ)は音楽をかけながら、さまざまな話を語って聞かせる。それと同じ使い方なんだろうな、などとつまらないことを思い浮かべながら、楽しんだところでした。

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