2019年3月アーカイブ

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BSテレ東「武田鉄矢の昭和は輝いていた~絶唱!伝説の歌手・藤圭子2Hスペシャル」を鑑賞
 武田鉄矢がナビをつとめるこの番組、これはと思うテーマが放送されるときは観てみる。なかなか聞いていて安心な番組だ。
 3月21日は表題の通り藤圭子が話題であった。
 当然、フランク永井との関係で見ていたのだが、歌がうまい歌手はカバーを多く残しているということで、フランク永井の「君恋し」を歌っていると紹介が移っていた。
 まあ、一般的にはそうなのだが、このブログで記したことがあるように、フランク永井は藤圭子のヒット作「命預けます」をカバーしている。そればかりか「圭子の夢は夜ひらく」にあて「フランクの夢は夜ひらく」を歌っていることを書いた。
 実はフランク永井が歌ったそれらはいずれも、カセットテープ版でPONYから発売された作品に入っている。前者は「フランク永井~最新ヒット20を唄う」、後者は「デラックス20 フランク永井~夜のムード」に収められている。
 そんなフランク永井と藤圭子の縁を思い出しながら観た次第。番組にゲストで出演して、藤圭子のエピソードを語ったのは、写真左から彼女の元マネージャー成田忠幸、同期の歌手辺見マリ、RCAのディレクター榎本襄。そして、彼女の歌に寄与したお三方。左は「圭子の夜は夢ひらく」作曲の曽根公明、中は彼女を見出し育て、多数の詩も書いた石坂まさを、右は「京都から博多まで」「女のブルース」作曲の猪俣公章。
 番組の局サイドの宣伝は次のように紹介している。
 【凄みのある歌声、独特の節回し、そして強いまなざし。歌謡曲ファンにとって忘れることのできない存在の歌手、藤圭子にスポットを当てる。平成25年にこの世を去り、今年は七回忌に当たる。/「演歌の星を背負った宿命の少女」というキャッチコピーでデビューした彼女の歌手人生とは、一体どういうものだったのか?/演歌の世界でヒットを連発した、作詞家・石坂まさをとディレクター・榎本襄氏によって行われたデビュー大作戦。「新宿の女」「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」この3曲がヒットするまでの驚きの戦略と秘話が明かされる。また、藤圭子の一番近い存在の兄弟子でありマネージャーであった成田忠幸氏が語る彼女の素顔と数々のエピソード。さらに、デビューが同期の辺見マリが相談されたその内容とは!?/若き藤圭子が語る貴重なインタビュー映像や、その圧倒的な歌唱映像で藤圭子の魅力に迫る2時間スペシャル!!】
 「夢は夜ひらく」は薗まり他が競作で多数歌っている。藤圭子の場合は「圭子の...」とわざわざ題名に歌手名がついている。彼女に歌わすのであれば、歌詞が藤の印象と会わない。これでは売れないと、石坂がその場で彼女用の歌詞を書き換えたという。確かにこれがあたった。彼女ならではの雰囲気になっている。
 同様なことはフランク永井に歌わせるときもあったのではなかろうか。だが、PONYのこちらはちょっと落ちる(失礼!)。
 さて、番組では藤のオリジナル曲ばかりでなく、カバーも多く紹介している。「カスバの女」「波止場だよ、お父つぁん」「アカシアの雨がやむとき」「リンゴ村から」「女の意地」「雪國」「おんなの宿」「番場の忠太郎」「雪の渡り鳥」と、驚くようなバラエティ豊かな選曲。
 「雪國」「おんなの宿」などは彼女のオリジナルとして出しても十分にいけると思える印象を受けた。また「番場の忠太郎」だが、これは歌謡浪曲で筆者の好きなフィールド。せりふ回しがいい。1979年の企画作品アルバム「歌謡劇場」に収められている。
 歌謡浪曲と言えば二葉百合子も有名だが元祖創作者は三波春夫。彼の忠臣蔵シリーズはスカッとする。あの活舌の良さは誰もまねできない、と感心ばかりなのだが、番組では彼が藤に関心を持ち、歌を聴いて称賛していたという。最初は彼女の両親が三波と同じ浪曲師であったことからだという。その子として子供時代から親について全国を公演し、いつの間にか舞台で歌うようになっている。そしてその藤の子が宇多田ヒカル。DNAのなせる業か、いややはり根性と努力だったのだろう。
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 BS朝日の「ザ・ドキュメンタリー~山本直純~音楽の底辺を広げた男」を観た(3月16日)。かねてから日本の音楽家で、それとなく感心し注目しているのは、山本直純、浜口庫之助、小林亜星だからだ。
 彼らは一様にフランク永井との関係はそう深くないのだが、生きざまが愛すべき何かを多く持っているとみるからだ。
 山本直純は、音楽界でこのタイトル通り、まさに「音楽の底辺を広げた」ことだ。音楽一家に生まれ、まれにみるほど優れた感性を持っており、昔から高尚と言われたクラッシックをきわめ、それにとどまることなく大衆音楽の発展に貢献した。
 印象的なのは映画「寅さん」の主題歌でもあるが、テレビ番組「オーケストラがやってきた」での活躍であろう。同様な志向で当時は黛敏郎の「題名のない音楽会」というのをやっていた。双方は競って高尚な音楽の世界を庶民の分化に結合した。
 その二人の手法は実にそつがなく、分かりやすく、恐らくこれほど優れた音楽教室は空前のことであったろうという印象がある。音楽に無知な筆者などでも、どれほど楽しく親しみやすかったことか。感心しきり。そのひとりが山本直純だったのだ。
 東京芸大で小澤征爾、岩城宏之とともに斎藤秀雄に従事した。「おまえは世界の頂点をめざせ。おれは底辺を広げる」と小澤に言い生涯それを実行した。この精神というか音楽への姿勢は、その後も多くの作曲家に影響をおよぼして今日に至っている。
 山本の生きざまは必至。学生時代から家族の財政を支える。生涯の妻を得る。大きいことはいいことだ、のキャッチをひっさげ、おおげさな身振りハデな手振りでテレビの画面いっぱいに躍動する。いっけん飛んだおじいさんというところだが、そうした行動のする思考は深い。
 「男はつらいよ」の主題歌を作るにも、歌う渥美清のイメージを最大限にふくらますために、とことん追求する。多忙の中で常に締め切りの追われて仕事をするのだが、そのきつい制限が他の追随を許さないひらめきを生むのだという。星野哲郎の作詞。その曲は淳美の魅力を全開させた。
 無免許運転、制止した警官を振り払って逃走する騒ぎを起こした。翌日に出頭して、自分で謹慎を発表する。ファンを驚かす。自民党の党歌を作る、等々のエピソードも残す。山本の一家は現在でも音楽ファミリーとして健在だ。
 さて、山本直純とフランク永井だが、フランク永井は2曲歌っている。一つは第18回芸術祭参加作品「旅人」(相馬詩彦作詞、飯田信夫作曲)のB面で「さあ太陽を呼んでこい」という歌だ。これは元都知事の石原慎太郎の作詞で、NHKみんなのうた作品だ。NHKでフランク永井の歌唱が流れたかは不明だ。立川澄人やほかの歌手が歌っているのが紹介されている。
 これは子供たちが合唱ではきはきと元気良く歌い、気持ちを元気にさせるという歌だ。フランク永井が流行歌手を忘れて、いい歌唱をしている。
 そして、もう一つはまったくのオリジナルで、1964年のフランク永井のアルバム「ステレオ・ハイライト第3集」(1964=S39、東京オリンピックの年)に収められた一曲で「愛する」(山上道夫作詞)。
 「あなたを愛す、あなたを愛する...」の繰り返しのような、女性が相手を深く愛するさまを語るというような詩を歌っている。フランク永井の歌唱の魅力を引き出そうということのようだったが、はて、ファンにはどう聴こえたのだろうか。
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 映画「君恋し」が1962(S36)年に劇場上映された。以前に触れたが同名の戦前版は1929(S4)。いぜれも日活の製作であるが、DVD化発売はされていない。
 この映画があるとなると、見たいのは人情というか、ファンの望みだ。戦前版はともかく、フランク永井自身も登場する戦後版はどうしても見れないのか、と思って、いろいろと探してみると、何と有料の最大級のNET映画サイトであるU-NEXTでリストにあがっているというではないか。
 これは観るしかない。ということで、鑑賞にトライしてみた。このサイトをご覧の方は、そのようなサイトを利用している方が多いのかもしれないが、筆者はまったくの初めてゆえに、どうするかに戸惑った。
 サイトの紹介を見ると30日間、最初は無償だとのこと。通常は月1990円とちょっと手は出ない。だが、映画やドラマをよく楽しもうとする人で契約を継続する場合はポイントと称する無償特典を付けているようで、他の同種のサービスと内実変わらないのかもしれない。映画を劇場に1回見に行くか、ネットで好きなのを何本も見るかなのだが、ビデオショップから借りるというのもあり、悩むところかもしれない。
 筆者の場合は、そうとう偏っていて、映画館にもレンタルショップにも決め打ちでお世話になるパターンだ。
 まあ、それはどうでも、これを利用して「君恋し」を鑑賞した。
 フランク永井の記録を確かめるというのが目的で、映画そのものの出来や価値をみる視点ではなかった。だが、この機会に真剣に見てしまった。原作は「君恋し」作詞の時雨音羽。モノクロで68分。
 やはり「流しの高井」役で登場するフランク永井に目が行く。ドラマでの役としては少しも重要ではないのだが、チョイ出で当時の雰囲気をよく出している。主題歌でもある「君恋し」を歌う。挿入歌としても歌われ、メロディーが流れる。
 デビュー間もないフランク永井の若々しさ、だが当時から叔父さんの雰囲気だったのだが、やはり若い。ここでの演技はさておいても、なかなか貴重な容姿を残してくれたものである。
 映画の内容は恋と別れだ。看護婦役の清水まゆみがケガした小高雄二の面倒をみて、互いに愛が芽生える。だが、小高には勤務する社長の娘といういいなずけがいる。
 退院して東京へ帰った小高はいいなずけとの関係を見直す。つまり気持ちが離れていく。だが彼女の結婚への決意は固い。
 看護婦をやめて清水は上京し、小高を訪ねる。小高の母が応対しいいなずけがいることを明かされショックに打ちひしがれる。叔母がマダムをつとめる銀座裏のバーで一時的に働く。ここで詐欺師が優等生係長の顔をして清水に結婚を申し込む...、ということで展開していく。
 清水と小高に愛が戻りそうになりながらも、いいなずけがヤケで死亡したことから、その責任も感じて清水が去っていくという物語だ。
 まあ、清楚な清水の恋の悩みなのだが、現代の若い男女のそれに比較してみると、ありそでなさそでちょっと違うような、というドラマだ。それがDVD化にいたらない理由なのかもしれない。
 ということで、およそ1時間の気分の切り替えになったという次第。興味のある方はご覧になったらいかがだろうか。
 劇場公開された当時は、今は時めくフランク永井の「君恋し」の映画化とあって、全国的にそうとう鑑賞されたようだ。それを裏付けるのは、記録されているポスターの種類。このサイトで何度も取り上げてきた5枚に今回掲載した1枚を加えて6種ある。フランク永井はうち2枚に出ている。それだけ宣伝もされ観られたと言える。
 ちなみに、筆者はまったく見ていないのだが「君恋し」は、この映画から14年後の1976(S51)年にテレビドラマ化されている。TBS花王愛の劇場という昼ドラ。このときの「君恋し」を主題歌で歌ったのは由紀さおりである。
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 城南海(きずきみなみ)。鹿児島県奄美市出身の若い実力派歌手。昨年9月に番組「昭和の名曲」で「君恋し」をエドアルドと歌った。
 彼女については若いゆえに筆者はうといのだが、テレビ番組「THEカラオケ・バトル」は観て知っていた。驚くべきことにここで百点を3度もたたき出したうえに、10週連続チャンピオンになった。この記憶は消えない。
 ともかく歌がうまい。うまい歌い手がカラオケで満点を取るというのは、評価するのがソフトウエア的な機械である(かどうかは知る由もないが)ゆえにそうとう難しいのだが、これをやってのけたのに目を見張った。
 つまり、彼女の歌のうまさが半端じゃない、機械をまでも感動させるレベルにあるということ。そして、みていていつも感心するのは、歌っているときの彼女の顔の表現であろう。その世界に入り切っている。
 すべてを自分がイメージした世界に投げうち、こころから没頭して歌の世界を表現している。このうっとりが観ているものを嫌味なく惹きつける。
 「君恋し」はブラジル出身の若き演歌歌手だ。彼と一緒に歌ったのだが、やはり城南海の歌に惹かれる。それにしても、城南海という漢字とよみのニュアンスは妙に一致しているのだが、初めて漢字を見た人は普通に読めないだろう。
 番組で歌ってと言われて歌ったのだろうが、ちゃんとアルバムでカバーとして録音しているのだろうか。まだなら、機会をみてぜひ出してほしいと思う。
 このブログでも「君恋し」テーマは何度も繰り返しているので、フレッシュなことは何もないのだが、それでももう少し触れてみたい。
 フランク永井がこれを歌って日本レコード大賞を得たのだが、リバイバル作品。最初は二村定一をはじめ何人かが歌ったもの。大正の末期に佐々江華が作詞作曲したものが最初。二村らが浅草の舞台で気に入ってよく歌っていたもの。
 当時ビクターは外国資本であまり邦楽には関心がなかったようだが、二村が昭和2年に吹き込み昭和3年の年明けの新譜として発売。これがよく売れ日本の音楽のレコードを次つぎとだすようになった。
 二村の吹き込んだ歌詞は時雨音羽が新たに作った。編曲井田一郎。これがフランク永井の元歌になるのだが、フランク永井のは彼自身のジャズ風のアイデアから三番をやめて、サビの箇所を繰り返すようになっている。
 「君恋し」のカバーは多数の歌手がカバーしているが、二村の原曲版かフランク永井の現代版かに分かれる。美空ひばり、石原裕次郎、小林旭などのカバーは原曲版で歌っている。レコード会社による版権が影響しているのかもしれない。
 さて、二村がレコード化したといったが、実はこの歌自身が日活、松竹、マキノ・プロダクション、河合映画作社等6社の競作映画の主題歌として歌ったもので、二村のは日活映画のほうの主題歌。
 実はこの昭和29=1929年に日本の映画「君恋し」4作(上記の映画会社以外の2社の作品は完成したのかどうか不明)の他に、米国映画「君恋し」(原題:The Man I Love)が上映されているのだ。
 日活映画は原作野村雅延で、三枝源次郎監督作品。ポスターは写真のとおりだが、「一字書き娘系図」改題。小唄映画(現代劇) と説明されている。そして、製作国:太秦と。太秦は国なんだ。。。
 そして、二村のものと思えるビクターの当時の歌詞票の絵(いくつもの種の版がある)が、何とも進んでいて?!なかなかだ。
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 大衆音楽の殿堂にフランク永井が顕彰されている。機会があえばいっしょに尋ねないかと長年親しくしている方に誘われて訪ねてみた。NHKラジオ歌謡歌う会の関係者の方で、当日は作曲家弘田龍太郎についての講演があった。
 講師は三代目海沼実で彼が主宰している音羽ゆりかご会の合唱も楽しめる催し。併設されているコガ・ミュージアムの地下一回けやきホールに、童謡のファンや研究者がつめかけていた。
 不要かとは思うけど、ちょっと説明。弘田は「浜千鳥」「叱られて」「雨」などの作曲家。音羽ゆりかご会はかつての「東京放送児童合唱団」。海沼は「みかんの花咲く丘」などの作曲家。同名三代目ということはそのお孫さん。
 古賀政男が長年自宅を構えていた場所は筆者がやはり何十年も前だが、散歩で何度か通って知っていた。のだが時の流れはすっかり様相を変えていた。立派な記念館=博物館としてビルが建ち、内部に当時の私邸の門構えや作曲に従事した部屋が再現されている。お隣はJASRACのビルになっている。
 古賀政男音楽博物館は古賀政男の遺産はいうまでもないことだが、日本の音楽の歴史の遺産をも収められてる。その象徴的なものが「大衆音楽の殿堂」。
 日本音楽の発展に貢献された方々の功績を顕彰するものとして、殿堂ホールに、顕彰者のレリーフを掲げている。、その年の顕彰者ゆかりの品々の展示もあり、直近の平尾昌晃らのパネルが飾られていた。
 平成9年に始まり、作詞家、作曲家、歌手、編曲家、演奏家などが、総勢283人が顕彰されている。
 フランク永井については、2009(平成21)年になされた。歌手では大津美子、北原謙二、日野てる子と4名同時であった。
 殿堂入りするというのは他の業界と同様にそれだけ大きな業績を残した証として、たいへん栄誉なことである。フランク永井の場合は、やはり「有楽町で逢いましょう」「おまえに」を歌いこれから長く歌い続けられるだろう。「君恋し」で明治の歌を鮮やかにリバイバルさせて、一大ブームを起こした。懐かしのメロディー、リバイバル・カバーをひとつのジャンルにしていったといえる。
 恩師吉田正がめざした都会での大人の憩いを、フランク永井が歌で表現して実を結び、ムード歌謡というジャンルを定着させたことも貢献だろう。
 現在は日本の歌といったときに、童謡や抒情歌、唱歌などはちっと沈み切っているが、大きく歌謡曲・演歌とニュー・ミュージック系に分け、レコード店でもCD等の置き場所を区別している。ムード歌謡は歌謡曲・演歌の一角のようだが、当時は都会派ムード歌謡の独自のコーナーもあったことがある。
 大衆に音楽の広がりを与えた明治・大正。大衆がくちずさむ歌が多く生まれる。
 その傾向を分析して突出した作品にまとめ上げた最大の功労者が古賀政男といえる。日本的なということばでくくられる大衆の歌。演歌。その大道を開いた。日本人の感性をまとめ上げた世界が、時代的に高音、故郷、義理人情の表現であった。以後の日本の大衆の歌は皆ここから影響を受けた。
 戦後日本は米国を柱にした占領軍に統治され、1950年の朝鮮戦争を経て、独立の装いをした従属国になる。日本の社会には欧米化の波が押し寄せる。衣食住が一変する。都会に人口が集中する。大衆の歌のニーズも変化する。
 これを敏感に察知して切り開かれたのが吉田メロディーだ。低音、都会、クールの表現。ややバタ臭さを加え、若者は真剣な恋の悩み、恋愛と別れを語る。当時まだ今ほど普通でなかった簡単な洋語、例えばティー・ルームとかバック・ミラーとかキャデラックとかをふりかけのようにまぶしたのが、ムード歌謡だった。
 吉田正の大衆文化への貢献はここにある。古賀政男や吉田正が文化功労章を得たのはその評価である。
 憧れのハワイ、常夏のハワイ。その歌を歌うマヒナスターズは和田弘の独特な演奏と相まって、豪華できらびやかな夢を感じた。都会に集まる若者(や大人にも)望まれ喜ばれた。フランク永井や松尾和子を見出し、吉田正はいっきに都会派ムード歌謡を発展させていった。
 朝鮮戦争が終わるとベトナム戦争と泥沼がふかまる。若者には嫌戦ムードが高まる。日本にも影響を与える。すると、反権力というか既成のシステムに対する抵抗、反発が顕著化する。
 大衆の歌の世界にも反映する。日本語のことばをベースにし、イントネーションとか発音とかを重視したものといえる。古賀政男とかその後の遠藤実とか吉田正が作り上げてきたものともいえる。日本的なリズム、音階も定着していっていた。レコード会社専属制度は結果的にできていた。
 それに対して、そのようなくくりがうざい、古臭い、汗臭いとか言って、それと違うリズム、歌詞、演奏をフレッシュな音楽といって出てきたのをニュー・ミュージックと自称した。
 ロックやビートルズといった騒がしくやかましい洋楽への傾倒。反戦的なフォークやカントリーへの共感。それらの欧米崇拝と日本的なものの折衷が生まれる。これこそが新たな時代の音楽だ、グローバリズムの波を反映した音楽だとなる。どんどん真似たりしながら切り開いていった。そのエネルギーとパワーはたいしたものである。
 ニュー・ミュージック、Jポップスは生まれた。しかし、大衆は歌謡曲とJポップスのどちらかを選ぶということではない。現に共存しており、双方の良さを互いに尊重する時代になっている。つまりは、日本文化といっても、以前と比べて広がり多様化したといってよい。
 「ステレオが高い音を出して困ると」いうような苦情は死語になった。マスクにイヤホンは陰険な私服警察のものだったのだが、いまや待ち行く人びとは携帯とイヤホンで、音楽はイヤホンで自分だけが好きに楽しむ時代になった。

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