フランク永井が憧れていたスター、ナンシー梅木を聴く。流行歌手への転身の隠れた決意か

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 フランク永井がデビュー(1955:S30)した前後に「憧れのスターはだれか」と聴かれて「ナンシー梅木です」と即答した。詳しくはどういった状況でだったのか、それが記録されたいたのは何だったのか、資料散逸で紹介できないのだが、その即答したことは覚えている。
 フランク永井がナンシー梅木に触れたのはそのときだけ。その後はそのような話題は明確にはないが、一般的にビング・クロスビーとかいわれている。名前のフランクからの連想で、フランク・シナトラではないかともいわれる話題があるが、特に否定はしていないものの実際は違う。名前のフランクは、デビュー前に米軍キャンプにトラック運転手で務めていたころから、彼の気さくで明るく率直なひとなつこいところを、周囲の米人がフランクとあだ名をつけて呼び、それが定着したことからきている。
 米軍キャンプで歌っていたときも、周囲がそういうからフランク永井で通したようだ。ビクターに入ったときに芸名をどうするかとなったとき、特に反対する理由もなくそのままフランク永井となったようだ。
 フランク永井は自らはジャズ歌手になりたいと一心だった。当時ジャズ歌手の存在は、米軍の占領下日本という特殊な社会状況が大きく影響している。東京を中心に全国に米軍はおり、そこにはかならず兵士用の息抜き、娯楽の場があった。
 兵士用のいわば娯楽施設のようなもので、想像以上に力を入れられている。米国本土で徴兵されたいわば田舎からきた若者が、何も知らない外国地である日本で、移動や訓練に明け暮れる。ちょっと気をゆるめれば、キャンプ外で日本人相手に何をしでかすかわからない。今の沖縄をみるまでもない。
 兵のクラス毎に、映画館、バー、クラブ等々があった。それぞれのクラスに応じたエンターテナーが呼ばれるのだが、遠い外地でそうそう米国本土から慰安に呼べる数もおのずと限られ、結果日本人の芸人が重宝される。だから、こうした全国の場から呼ばれてジャズ歌手が歌うという需要は多かった。
 ここで歌い、人気を得る、外人に通用するエンターテナーとして認められ、その地位をえること。それが「ジャズ歌手」の目指すところだった。
 戦後の洋楽を歌う歌手はほとんどが、米軍のキャンプで歌った。雪村いづみ、ペギー葉山、江利チエミ、ディックミネ、アイ・ジョージ...と挙げればきりがない。表題のナンシー梅木も同様だ、
 フランク永井はそのジャズ歌手を強く試行していたものの、社会は急変する。それは朝鮮戦争が一段落(休戦)すると、在日米軍の再編が始まる。つまり需要が一気に減る。つまり膨大な需要で潤っていた世界が急激にしぼむ。そうなったときに、日本人社会でジャズ歌手が受け入れられるか、という問題に直面する。
 レコード会社と歌手は日本で継続してジャズ歌手が受け入れられるように、さかんな工作や工夫をしたものだが、残念なことに思ったようにいかない。日本人はタンゴ、カンツォーネ、シャンソンなどもどんどん興味をひろげていき、米国的なジャズは単に洋楽の一分野に過ぎない扱いになる。
 それに「ジャズがうまい」だけの歌手の受け入れにあまり関心を示さない。フランク永井がジャズ歌手としてデビューはしたものの、冷たい反応という洗礼を受ける。急激な社会の変化は、否が応でもジャズ歌手からの脱皮を求める。
 ナンシー梅木はフランク永井より数年活動が早い。札幌ですでに大変な人気をえていて、フランク永井がデビューする1年前には同じビクターで、何枚かレコードを出す。東京の米軍で知り合ったアーサー・ホワイティングに見いだされる。彼の親がロスで芸能事務所をしていた。ナンシー梅木はフランク永井がデビューしたその直前に、日本を脱出する。
 彼女はジャズ歌手の立ち位置を十分に察知していた。渡米し歌手(ミヨシ・ウメキ名=本名梅木美代志)として俳優として大活躍する。アカデミー助演女優賞を得た。フランク永井がナンシー梅木の名を口にしたのは、この鮮やかな、うらまうばかりの転身への憧れがあったからではなかろうか。歌手としての根性を学び、おのれの流行歌手への転身のふっきりにしたのかも知れない。
 ナンシー梅木の曲はビクターからCD化されて発売されている。「The Eary Days Of Nancy Umeki 1950-1954」(Miyoshi Umeki - Complete RCA Japan (1950-1954)。
 米国で流れるオリエンタル情緒あふれるジャズといったところだ。フランク永井がデビュー前にラジオのジャズのど自慢で優勝した曲というより、これ一曲で勝負したという有名曲「My Baby's Coming Home」が聴ける。日本語の歌詞入りだ。また代表曲かも知れない「哀愁の一夜」とか、平野愛子の名曲でフランク永井もカバーしている「君待てども=I'm Waiting for You」。当時よくラジオで耳にした「How Much is That Doggie」。
 ジャズの本場米国に行って成功した日本人というのは何人もいるかも知れないが、ナンシー梅木は戦後の代表的な一人に違いない。そのナンシー梅木とフランク永井のつながりについて触れてみた。

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このページは、文四郎が2018年9月29日 16:26に書いたブログ記事です。

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