2018年9月アーカイブ

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 フランク永井がデビュー(1955:S30)した前後に「憧れのスターはだれか」と聴かれて「ナンシー梅木です」と即答した。詳しくはどういった状況でだったのか、それが記録されたいたのは何だったのか、資料散逸で紹介できないのだが、その即答したことは覚えている。
 フランク永井がナンシー梅木に触れたのはそのときだけ。その後はそのような話題は明確にはないが、一般的にビング・クロスビーとかいわれている。名前のフランクからの連想で、フランク・シナトラではないかともいわれる話題があるが、特に否定はしていないものの実際は違う。名前のフランクは、デビュー前に米軍キャンプにトラック運転手で務めていたころから、彼の気さくで明るく率直なひとなつこいところを、周囲の米人がフランクとあだ名をつけて呼び、それが定着したことからきている。
 米軍キャンプで歌っていたときも、周囲がそういうからフランク永井で通したようだ。ビクターに入ったときに芸名をどうするかとなったとき、特に反対する理由もなくそのままフランク永井となったようだ。
 フランク永井は自らはジャズ歌手になりたいと一心だった。当時ジャズ歌手の存在は、米軍の占領下日本という特殊な社会状況が大きく影響している。東京を中心に全国に米軍はおり、そこにはかならず兵士用の息抜き、娯楽の場があった。
 兵士用のいわば娯楽施設のようなもので、想像以上に力を入れられている。米国本土で徴兵されたいわば田舎からきた若者が、何も知らない外国地である日本で、移動や訓練に明け暮れる。ちょっと気をゆるめれば、キャンプ外で日本人相手に何をしでかすかわからない。今の沖縄をみるまでもない。
 兵のクラス毎に、映画館、バー、クラブ等々があった。それぞれのクラスに応じたエンターテナーが呼ばれるのだが、遠い外地でそうそう米国本土から慰安に呼べる数もおのずと限られ、結果日本人の芸人が重宝される。だから、こうした全国の場から呼ばれてジャズ歌手が歌うという需要は多かった。
 ここで歌い、人気を得る、外人に通用するエンターテナーとして認められ、その地位をえること。それが「ジャズ歌手」の目指すところだった。
 戦後の洋楽を歌う歌手はほとんどが、米軍のキャンプで歌った。雪村いづみ、ペギー葉山、江利チエミ、ディックミネ、アイ・ジョージ...と挙げればきりがない。表題のナンシー梅木も同様だ、
 フランク永井はそのジャズ歌手を強く試行していたものの、社会は急変する。それは朝鮮戦争が一段落(休戦)すると、在日米軍の再編が始まる。つまり需要が一気に減る。つまり膨大な需要で潤っていた世界が急激にしぼむ。そうなったときに、日本人社会でジャズ歌手が受け入れられるか、という問題に直面する。
 レコード会社と歌手は日本で継続してジャズ歌手が受け入れられるように、さかんな工作や工夫をしたものだが、残念なことに思ったようにいかない。日本人はタンゴ、カンツォーネ、シャンソンなどもどんどん興味をひろげていき、米国的なジャズは単に洋楽の一分野に過ぎない扱いになる。
 それに「ジャズがうまい」だけの歌手の受け入れにあまり関心を示さない。フランク永井がジャズ歌手としてデビューはしたものの、冷たい反応という洗礼を受ける。急激な社会の変化は、否が応でもジャズ歌手からの脱皮を求める。
 ナンシー梅木はフランク永井より数年活動が早い。札幌ですでに大変な人気をえていて、フランク永井がデビューする1年前には同じビクターで、何枚かレコードを出す。東京の米軍で知り合ったアーサー・ホワイティングに見いだされる。彼の親がロスで芸能事務所をしていた。ナンシー梅木はフランク永井がデビューしたその直前に、日本を脱出する。
 彼女はジャズ歌手の立ち位置を十分に察知していた。渡米し歌手(ミヨシ・ウメキ名=本名梅木美代志)として俳優として大活躍する。アカデミー助演女優賞を得た。フランク永井がナンシー梅木の名を口にしたのは、この鮮やかな、うらまうばかりの転身への憧れがあったからではなかろうか。歌手としての根性を学び、おのれの流行歌手への転身のふっきりにしたのかも知れない。
 ナンシー梅木の曲はビクターからCD化されて発売されている。「The Eary Days Of Nancy Umeki 1950-1954」(Miyoshi Umeki - Complete RCA Japan (1950-1954)。
 米国で流れるオリエンタル情緒あふれるジャズといったところだ。フランク永井がデビュー前にラジオのジャズのど自慢で優勝した曲というより、これ一曲で勝負したという有名曲「My Baby's Coming Home」が聴ける。日本語の歌詞入りだ。また代表曲かも知れない「哀愁の一夜」とか、平野愛子の名曲でフランク永井もカバーしている「君待てども=I'm Waiting for You」。当時よくラジオで耳にした「How Much is That Doggie」。
 ジャズの本場米国に行って成功した日本人というのは何人もいるかも知れないが、ナンシー梅木は戦後の代表的な一人に違いない。そのナンシー梅木とフランク永井のつながりについて触れてみた。
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 NHK-BSエンターテインメントは2006年から2009年頃まで続いた、大型の歌謡曲番組で、4年間で昭和歌謡のトッピクをほとんど取り上げた。ここは、先にも紹介したが、長年のフランク永井封印を解いた「フランク永井と松尾和子」があり、決定打の「歌伝説~フランク永井」が含まれる。
 「昭和歌謡黄金時代」はそうした番組のひとつのシリーズだが、2006年2月に放送された番組も忘れられない。最近保存データを整理しているときに、録画していた映像で残っていたもののひとつだが、当時著名な歌謡番組司会経験者が三名そろって登場した時のことだ。
 実はこの件については、文四郎日記の2013年11月にも触れているのだが、あらためて紹介してみたい。
 歌謡番組を絶やさずに放送してきたテレビ東京で司会を続けてきた印象が深い玉置宏(2010年没)。歌謡番組の司会といえば彼だった。また関西弁をそのまま使って歌手をみごとに表現する浜村淳。歌手を紹介するときに、いかにその歌手の優れた特徴を一言で表現するかにたけている。もう一人はNHKアナで紅白も含めて司会を続けた山川静夫。落ち着いた的確な紹介は定評だった。
 当時を代表する歌謡番組の司会者がそろって登場するというのも、NHK大型番組ならではのことなのだが、このご三方が、振り返って最も印象的であった歌手は誰かという設問に、そろってフランク永井をあげたことだ。
 きらぼしのように登場して時代に花を添えた昭和歌謡の歌手は、数えられないほどおり、また名が通った歌手もあまたいるなかで、フランク永井を取り上げたのは、当時も観ていて感動のシーンだった。
 このことについては2013年の記事でも紹介している文芸春秋に文を書いた山川の「まったく偶然に揃って「もう一度逢って司会したい歌手」にフランク永井をあげたのが忘れられない」という言葉にでている。
 当「文四郎日記」では長いフランク永井封印を解いたのは2007年の番組と書いたが、その1年前のことだった。つまり、再開花というべきときが2007だとしたら、その下準備が1年前から準備されたともいえる。テレビ界に大きな影響をもつ名司会者が横断的にそろい、フランク永井についての本来のふさわしい扱いに戻すべきではないかという意思の確認だったと考えられる。
 この番組の司会はNHKの阿部渉アナが担当、ゲストは熊谷真実。

 さて、現在歌番組の司会で名を馳せているのがNHKからフリーになった宮本隆司アナ。
 この宮本アナもフランク永井は大好きな方。そしていよいよ近づいた宮城県大崎市で開催される「フランク永井歌コンクール」の、グランドチャンピオン大会の司会が決まっている。
 今年の歌コンは十回という記念すべき催しであることから、特別に過去の大会優勝者を呼んでのグランドチャンピオン決定を問うというもので、全国的なファンの注目だ。
 現地ではちゃくちゃくと準備が進行している。フランク永井ファンの宮本アナがフランク永井をどう紹介するのか、今から皆が注目して期待しているところである。
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 「石原裕次郎・フランク永井・斉条史朗」(PONY 36P1028)である。別項で紹介した「夜のムード~石原裕次郎・フランク永井」だが、この続編のようなもの。
 裕次郎とフランク永井に、さらに斉条史朗を加えたセットだ。フランク永井がPONYのオリジナル企画で登場するテープを、いろいろと取り上げてきたが、これが締めかと思える。
 「夜の酒場で20曲」(PONY-36P1036)というカセットもあり、ここではこの三者にさらに、黒沢明とロス・プリモス、敏いとうとハッピイ&ブルー、ロス・インデオス、森雄二とサザンクロスというムードコーラスが加わったセット。
 これらで紹介されている曲は下記の通りで、多くはダブっている。
 注目は、裕次郎の曲「夜霧よ今夜も有難う」をフランク永井が歌い、「ブランデーグラス」を斉条史朗がカバーしている点。それと「ウナセラディ東京」「ベッドで煙草を吸わないで」について、裕次郎とフランク永井の二人が歌っているところだ。
 裕次郎の代表曲ともいえる「夜霧よ今夜も有難う」はニーズがあったからか、ビクターでも複数テークがある。さらにこのPONYでもいくつかあるようだ。裕次郎が歌ってただよわせたこの歌の雰囲気は強烈であった。それを低音の巨頭フランク永井がどう歌いこなしているか。ぜひさまざまな音源から聴いてみてほしいが、さすがである。フランク永井が歌えば、そこにはそこには別の夜霧よ今夜も有難うの世界がちゃんと広がる。
 「二人の雨」を除いて裕次郎が歌っている曲はフランク永井が全部カバーで歌っているので、比べて聴いてみるのも面白いかもしれない。

【石原裕次郎】
ウナセラディ東京/あいつ/霧にむせぶ夜/二人の雨/誰もいない海
ベッドで煙草を吸わないで/銀座ブルース/よこはま・たそがれ
爪/そっとおやすみ/誰もいない海/あいつ/クチナシの花
なみだ恋/君は心の妻だから
【フランク永井】
今日でお別れ/知りすぎたのね/知りたくないの*/逢わずに愛して
ラストダンスは私と/別離/恋心/赤坂の夜は更けて/女の意地
ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー/ウナセラディ東京
ベッドで煙草を吸わないで/夜霧よ今夜も有難う
【斉条史朗】
ブランデーグラス/ロストラブヨコハマ/夜の銀狐/夜の虫
いつかどこかで/恋女房

 斉条史朗は「夜の銀狐」で圧倒的な人気を得た歌手。筆者は多くを知らないが、独特の歌い方が印象的だ。いい味を出していた。
 当時低音の歌手といえば神戸一郎という歌手がいた。それに三船浩という歌手もいた。彼らはそれぞれ大変個性的な声をもってファンも多かった。だが、いつの日かあまり聞くことがなくなった。
 三船については「三船浩ベスト16」(KING-BO-13)というテープが手元にある。「男のブルース」「夜霧の滑走路」などが代表曲。そう「夜霧の...」というビクターのフランク永井の「夜霧の...」に、まっこうから対抗してさまざまな「夜霧の...」がだされ、このセットにも「夜霧の女」が入っている。

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 西日本豪雨、大阪地震、台風21号、そして北海道地震と日本中がすさまじい災害のなかにある。背後で何があるのか。人間は自然を自在に改変するのだとのおごりに対する、天からの反撃なのであろうか。
 災害は日本だけではないようだ。無数の山火事、多くの強度地震、激しい集中熱射が各地を覆い、多数の犠牲者と回復の見通しがつかないような被害にあっている。こころから被災者にお悔やみを伝えたい。あわせて一国でも早い復旧を祈願する。
 お上は何兆円にも及ぶ武器を新たに調達するようだが、それをすべて災害手当てに回してほしいものである。
 このブログはフランク永井のあれこれをテーマにしたもので、それ以外のテーマに触れるのは本来ではないのだが、日本を覆うこの夏の巨大被害については、避けて通れないのでご容赦のほどを。
 さて、表題のメインテーマに戻るが、毎回に貴重で高度な情報を寄せていただいているKさんからカセットテープ「夜のムード~石原裕次郎/フランク永井」(PONY)を聴かせてもらう機会を得た。Kさんに感謝を表しつつ紹介させていただきたい。
 PONY(現ポニー・キャニオン)が1970年代に独自の企画で多くのカセット・テープ商品を発売したことは、たびたび触れた。フランク永井の歌っているのを発見するたびに、問い合わせたりするのだが、基本的に資料のトレースが困難であることや、当時の情報を知るものが担当にいないことなどから、当然なのだろうが、詳細なデータは得られなかった。
 現在までの筆者の手元に寄せられたものについては、その都度このブログで紹介しているが、PONYカセット商品には特筆するものがある。
 それは、当時PONYがかかえる大手歌手が少なかったことから他のレコード会社との提携で大物歌手を借りられたことだ。独自の企画にもとづいて、オリジナルを用意したり、カバーを歌わせたりした。しかも、多くをPONYが用意した演奏を用いた吹き込みをしたことだ。
 フランク永井については、75曲以上の吹き込みをしており、その半数35曲は所属レコード会社ではビクターからも発売されていないオリジナルという、すごさだ。
 これまでにフラン永井がらみで判明しているPONY製品は下記だ。
 20CPJ-017 最新ヒット20を唄う(TAPE)
 20PJ-0078 ナイト・クラブで20曲(8TRACK)
 20CP-6031 デラックス20夜のムード歌謡(TAPE)
 36P-1106  カラオケファンのためのムード歌謡20選(TAPE)
 8PJ-3144  長崎は今日も雨だった~最新ヒット歌謡をうたう(8TRACK)
 CS-6039-夜のムード~石原裕次郎/フランク永井(TAPE)
 例によって今回のカセット自身にも、正確なリリース年月は表記されていないのだが、1970年代には違いなかろう。
 しかも今回のテープは、ずばり石原裕次郎とフランク永井を並べて取り上げたということだ。当時といっても当時より前だが、日本の低音歌手といえば、フランク永井、石原裕次郎、三船弘であった。
 裕次郎は日活の看板スター。歌はテイチクから大量にだされた。オリジナルとカバーをあわせてフランク永井を超す数を歌ったかもしれない。レコード会社が異なる歌手をこのように並べて作品を出すことなど、当時は思いもよらないことで、PONYだからこそ実現できた夢のような作品だ。
 そんなわけで、ビクターの看板男と日活・テイチクの看板男がおなじテープで、交互にそれぞれ10曲歌う。PONYが用意した演奏の編曲は確かに独自色が強く、若干なじみがないのだが、それでも人気歌手二人の歌唱を満喫できるようになっている。
 だが、この企画は同時に二人の歌についての姿勢と歌唱力の相違をみせつける結果にもなっているのが皮肉だ。
 収められている曲はフランク永井がほとんどをカバーとして歌っているものだから、自信をこめたすばらしい歌唱をしている。裕次郎の曲はそれだけを聴くぶんには、それなりの歌として聴いて気持ちいものなのだが、並べるのはちょっと気の毒というのが著者の受けた感じだ。
 裕次郎は自身も言っているように、俳優であっても歌手ではないと。それは彼の自覚どおりで、生涯俳優として休む暇もないほどの多忙のなかで、周囲から歌わせられたものだ。ただ、彼の場合は天才的なラフな歌い方と天分としてカラッとした声質が、ファンには心地よくとられて、まるで歌が「うまい」ように見えたから、何とも得なことだ。
 本文である俳優業としては3分間の演技として、歌詞を語る。この自然さがよかった。「歌は語るように」という、歌手には至難の技を彼は地でこなした。
 彼の歌の数が増えたのは周囲があれも、これもと歌わしたのも事実だが、独立映画に打ち込んだ時に全財産をそれにぶちこんだことから、金欠になり、歌で稼ぐことに向かざるを得なかったこともある。
 平岡精二が作詞作曲した名曲「あいつ」1958(S33)の旗照夫がオリジナルだが、この語りかけるような典型的な歌を、ここでは裕次郎が歌っている。これは名曲だけに多くの歌手がカバーしている。これを誰もがうなずくように歌い上げているのはフランク永井だ。
 演技として語りかける。俳優の裕次郎はどう歌うのか。これは逆に裕次郎が何を意識したのか彼のいい点が、本来出すべきこの歌ででてない。比べちゃいけない曲を入れてしまったような感じだった。
 黒木憲の名を知らしめた「霧にむせぶ夜」を裕次郎が歌っている。これはフランク永井はカバーしていない。というか、歌ったに違いないが音源が残っていない。裕次郎の「二人の雨」もここで聴けるが、これもフランク永井のカバーはない。
 PONYに感謝し、まだまだフランク永井inPONYが出てくる楽しみを期待しつつ。

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 フランク永井は1985年の年末に世間を騒がした。それからすでに33年が経過した。ファンにとって残念なことに、これを境に舞台でフランク永井を見ることができなくなった。そればかりか、テレビの歌謡番組にも登場することがなくなり、さもフランク永井は昭和歌謡に存在しなかったかのような扱われ方だった。番組があいまいに自主規制したのだ。「フランク永井の長い封印」時代に突入したのだ。
 喫煙は古来からの人の営みに密着した存在そのものだったのが、ここ数十年になるが喫煙者はまるで反社会人のような扱いになっている。筆者はタバコは吸わないが周囲の大半は喫煙者だった。近年タバコの生産が国家独占になりその品質を一定にするために手を加えたためか、確かに喫煙者は肺がんになる確率が多いと聞く。だから現在は吸わないほうがいい。
 しかし、喫煙者をここまで反社会的に扱うのはいかがなものだろうか。少し横道に反れたが、フランク永井の長い封印時代には、フランク永井ご自身や関係者とファンがまるで今の喫煙者のような雰囲気にあった。
 フランク永井は戦争が集終わって10年、1955年にデビューした。1957年の「有楽町で逢いましょう」で爆発的な人気を得て、1961年には「君恋し」で日本レコード大賞を受賞した。昭和を代表する歌唱力の持ち主として、安定的な大衆からの支持を得ていた。
 これが職業病ともいえる喉のしつこい障害に悩まされ、往年のあの輝くビロードのような声が出にくくなっていた。フランク永井の声は「低音の魅力」と呼ばれていたのだが、実際は彼が持つ幅の広い音域のコントロールのなせる業の一面の魅力で、ファンは低音から高音まで質を変えずに一直線に伸びる高音の美しさを注目していたものだ。
 後年オクターブを意識的に下げて、低音を強調する歌唱が歳相応の彼のカバー技巧として評価されたのだが、一方では「ファンが以前と変わらないあの当時の声で歌って欲しい」という声も気にしていた。同様なファンの声を聴いて「また逢う日まで」の歌仲間尾崎紀世彦などは「そりゃ分かるけど、基本的に無理なんだ。私なんかはむしろ、毎回歌い方を変えているぐらいだ」といっていた。
 フランク永井は歌謡界におりながらも、趣味は初期は自動車や野球、後はゴルフとお酒ぐらいだったようで、基本的に人生のすべてを歌に傾注していた。喉と声は歌手のかけがえのない命。その喉と声が思うように出ない、出せないといのは嫌でも彼を悩ませたのはいうまでもない。
 当時のテレビ出演や1985年に開催した「歌手生活30周年ライブ」を聞き返せば、ひしひしと伝わってくる。現在では歌手という職業の人はさまざまな対処法、予防法を気にかけ、その実施を欠かさない。だが、当時は歌手は水商売、売れることが花として、タバコや酒をはじめとする遊びも仕事のひとつのような雰囲気があった。フランク永井も今のような喉と声を手当てする処方を実施していたならば...という思いを持つ。
 さて、その封印が解けたのは2007年。NHK-BSがシリーズ「昭和歌謡黄金時代」で「フランク永井・松尾和子」を放映したことだ。ファンはその番組をみて、涙を流して喜んだのは言うまでもない。フランク永井の昭和歌謡に残した大きな遺産を余すところなく、率直に評価したものだった。そして、フランク永井の盟友である松尾和子についても、同様にきたんない評価を与えた。
 これを観たファンは、ようやく長い冬の時代が明けると思った。その期待に全面的に応えたのは2009年に同じNHK-BSで放映された「歌伝説~フランク永井の世界」である。これはフランク永井の生涯、歌唱についてのすべてを丁寧にとりあげて、多くの人たちが忘れそうにあっていた昭和歌謡に、フランク永井とはこのような人であったと示してくれた。
 紹介した2つの番組の影響は絶大で、他の放送局での歌謡曲番組も「封印」などなかったかのように、普通にフランク永井を取り上げるようになった。しかし、20年という期間の影響は甚大で、ある意味「遅かった」ことが悔やまれる。
 フランク永井のデビューを知り、その歌唱のすばらしさをリアルタイムで知っているファン層の年代は高齢になっているからだ。若い人々にも多くのファンはいるが、全体としては知るのが遅すぎた感がある。
 さて、押し入れの奥に20~30年程度前のVHSテープが何本かあって、その中に当時の歌謡番組を録画したのもある。それを見てみようとトライしてみた。
 まだ数本しか見ていないが、基本的に上記に記した著者の印象を裏づけていたといってよい。「戦後50年スペシャル究極の昭和歌謡史」という長い番組では、フランク永井は登場しない。
 「歌う昭和歌謡180分」では「君恋し」を歌うシーンが入っていた。「昭和歌謡大全集」という番組があった。1993年の第6弾では「羽田発7時50分」「夜霧の第二国道」の2曲を歌っている。
 また、番外的に「平凡スター40年」というのがあった。平凡はやはり、美空ひばりであり裕次郎であり錦之助。フランク永井も大いに関係したのだからどこかにいるはずと、眼をこらして見ていると、平凡が主催して毎年行われていたスター総出演の野球の箇所で、平凡のネームプレートを付けた箇所に登場していて、ホッとした。恩師吉田正の1000曲記念リサイタルのシーンでの一コマも。

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