「公園の手品師」の作詞家宮川哲夫とフランク永井

| コメント(0) | トラックバック(0)
mx20180811.png

 ビクターの専属作詞家であった宮川哲夫。作詞家で専属といえば絶対的な地位にいたのは佐伯孝夫だ。佐伯は新聞記者出身だが戦前からビクターの押しも押されぬ作詞で「無情の夢」からはじまり、ヒット曲はキリがない。フランク永井にも「有楽町で逢いましょう」を提供したのは皆が知るところだ。
 戦後も大活躍した。フランク永井が登場した時期はビクターから宮川哲夫がいた。フランク永井の恩師吉田正とも組んで多くのヒットを飛ばした作詞家だ。宮川を取り上げるときにいつも代表曲として挙げるのは「街のサンドイッチマン」(唄:鶴田浩二)と「ガード下の靴磨き」(唄」宮城まり子)だ。
 フランク永井との関係をもう少し深めてみよう。
 フランク永井がジャズ歌手で大成することへのこだわりが固く、恩師が流行歌への転向を進めていたのだが、なかなか乗らない。だが、あるときついにフランク永井が「先生の作った《街のサンドイッチマン》のような曲なら歌ってもいい」といったという。
 吉田正はフランク永井に作った「有楽町で逢いましょう」のヒットを得て「自分の肩書を作曲家と書けるようになった」といっているが「街のサンドイッチマン」の成功で「自分は作曲を続けていける自信がついた」と残している。
 だからフランク永井が「その曲のようなら」といったのを聞き、ひそかに喜んだ。フランク永井の唄的な発声や歌への姿勢などを訓練している時に、フランク永井の声こそ吉田が考える日本の都会的な歌が生まれるのだと、確証的な信念を心に固めていたからだ。
 そこで一時鶴田にも歌わして練習に使っていた「場末のペット吹き」を流行歌転向第一号にあてた。発売時に注目されはしなかったが、目指した華やかの都会の裏でうごめく人たちの息遣いをフランク永井はうまく表現した。この作詞が宮川哲夫のものだ。
 「バーでいえば佐伯孝夫は銀座だが、オレ宮川は新宿のバーだ」という表現のように、明るくおしゃれで前向きな未来を見つめる佐伯孝夫の表現する都会。それに対して宮川は都会のひねるが入る。都会の裏方を支える多くの人がおり、悲喜こもごもの生活感も底辺をみつめる。
 都会の悲しさ、逃げ出したい、グチ、めそめそといった暗さ、据えた匂いが宮川の独断場だ。「夜霧の第二国道」では「つらい恋ならネオンの海へ...」となる。つづく「羽田発7時50分」では「星も見えない空、淋しく眺め」と、都下的なテーマではあっても、佐伯の描き出す都会が表なら、常に裏に徹する。
 1959(S34)年「好き好き好き」は宮川の作品ではないがヒットする。このB面が宮川の作った「らくがき酒場」。別項でも紹介した「たそがれ酒場」の連作でもないのだが「らくがき酒場のらく書きにゃ、ほんとの言葉が泣いている...」という塩梅だ。
 フランク永井には多くの詞を提供しているが、やはり特筆は「公園の手品師」であろう。宮川が故郷である大島から出てきて最初に移り住んだ町田。ここで作詞と教員のふたまたからビクター専属になるのだが、この地で散歩した公園でのシーンを詞にしたという。歌謡曲の作詞は「詞」と書くが「公園の手品師」は「詩」ではなかろうか。
 吉田正の作曲も飛びぬけているが、この詩は宮川の書く都会の裏とはまた異なる、イメージの大きく膨らむ世界がある。時代という概念を超えた歌だ。いつ聴いても古さ、新しさを感じない、そのような特別な傑作である。
 宮川は多くのヒット曲を作っておきながらも、彼の性格から他人との打ち解けた交流は残されていない。作曲を共にした吉田や渡久地政信や当時のディレクターの方がたとも、酒を飲んだりしたことはなかったようだ。だから、フランク永井や鶴田浩二、橋幸夫や三田明ともない。
 細々とだが接点があったのは、ビクター専属になる前の同報誌仲間など。石坂まさを、石本美由紀や星野哲郎たち。「魂で詩を書いてるか」が宮川の口癖だったという。
 そんなことをつらつらと思い起こしながら、お酒をちびちびやるのもどうだろうか。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://frank-m.org/mt-new/mt-tb.cgi/525

コメントする

カテゴリ

このブログ記事について

このページは、文四郎が2018年8月11日 19:36に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「フランク永井「たそがれ酒場」(1958)と小説半村良著「たそがれ酒場」(1994)」です。

次のブログ記事は「カセットテープのフランク永井の曲をラジカセで楽しむ」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。