フランク永井「霧子のタンゴ」「霧子のタンゴパートⅡ」「霧子のタンゴ英日版」など

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 フランク永井がもっとも充実していたと思える時期1976(S52)年暮れに、歌手生活21周年記念のリサイタルが開かれた。
 中野サンプラザで恩師吉田正を迎えて開かれた。第1部と第2部の構成で、自分のヒット曲の他に大阪シリーズ、中山晋平シリーズ、およそ20分にわたるメドレー、ジャズなどの洋楽、さらに新曲の披露と続く。
 しかも演奏陣も原信夫とシャープ&フラッツ、ストリングス、コーラスにコール・セレステ、指揮は寺岡真三と近藤進という、これ以上ない豪華なショーとなった。
 ここで新曲として「季節はずれの風鈴」「そっとしといてあげるから」「霧子のタンゴパートⅡ」が披露された。
 フランク永井が恩師に思いをこめた恩返しと熱意をそそいだ「おまえに」の3回目のレコードを出したのもこの時期だ。
 発表された「霧子のタンゴパートⅡ」については、別項で1982年に発売されたLP「Woman」のテープ盤で、スタジオ録音盤と思える音源が出されたと触れた。
 このパートⅡは確かに吉田正による作詞作曲で、パートⅠにあたる「霧子のタンゴ」のシリーズのようなのだが、聴けばそこに新たなフランク永井が見える。
 「霧子のタンゴ」(1962=S37:VS-861)は、押しも押されぬフランク永井の代表曲のひとつだ。フランク永井の代表曲集には欠けることがない。翌年には日活から映画化された。同年暮れのNHK紅白歌合戦ではこの曲を歌っている。このレコードのB面は昨年亡くなった平尾昌晃の「哀愁のバイパス道路」という曲。
 平尾昌晃が残した書籍「気まま人生歌の旅」によれば「霧子のタンゴ」は、吉田正が平尾のために書いたものだったが、当時のディレクタが「これはフランク永井があっていそう」といって、フランク永井の歌になってしまったというようなことを記している。
 平尾の目でみればそうだったかもしれない。だが、何人の生徒を持つ吉田は、歌詞まで自作して用意していたこの曲を何人もに歌わせ、歌唱の訓練にも使っていたようだ。詞も曲も比較的おだやかなものを、歌わせてみることによって、その人の歌についての姿勢、傾向、特性が浮き彫りになる。
 言わば、歌手への教師からの挑戦的な試験だ。船村徹が美空ひばりにつきつけたようなもの。美空の「酒は涙かためいきか」にみるようにほとんど1小節単位で歌唱の表現を変えて歌っている。フランク永井も「霧子のタンゴ」にみる歌唱にフランク永井の歌詞への理解度、微妙な歌唱の変化をみごとに注ぎ込んだ。
 吉田正のつきつけた挑戦状に応えたのはフランク永井だったことから、この歌が彼の歌としてリリースされたと思える。
 平尾は歌手としてはこの直前に「哀愁のバイパス道路」と同じ水島哲の詞(作編曲は吉田正)で「おもいで」をだし、その後「霧の摩周湖」を布施明に作っている。平尾が自分で何度も「霧の摩周湖」を歌っているが、平尾が「霧子のタンゴ」から曲想の影響を受けていることが感じられる。平尾が「霧子のタンゴ」を歌ったならどういう歌唱だったかも想起できる。
 フランク永井がジャズから歌謡曲に転向したように、平尾は作曲家に転向してよかったと思う。この後つぎつぎと吉田正のように時代を鮮やかに切り取ったり、日本的な情緒を懐かしく盛り込んだりとヒットを飛ばす。
 なぜ霧子なのか。「霧子のタンゴ」を売り出す5年前に宮川哲夫作詞に吉田が作曲した「夜霧の第二国道」がヒットした。戦後の復興を象徴するひとつの京浜国道の発展を思い起こさせる人気曲だ。これ以来まくりたてるように「夜霧の...」をフランク永井に歌わせる。「夜霧に消えたチャコ」をはじめ「夜霧の男」「夜霧の十字路」「夜霧の巡視船」「夜霧の南京街」「夜霧に濡れて」と。
 「魅惑の低音」と同じように「夜霧の...」といえばフランク永井だと。そんなことは認められないと他のレコード会社も競う。裕次郎に「夜霧よ今夜も有難う」を提供したのは異才浜口庫之助だ。競合が生んだ傑作である。松本清張は「霧の旗」を書いた。映画にもなり倍賞千恵子が桐子を演じた。ともかく「霧の...」が世のブーム?
 こうした中で吉田正は「霧子」を生んだ。吉田は他にも人名を使った曲を温めて作り、生徒に提供した。だから吉田の門下生への思いと自作の作品への思いも深くある。それにフランク永井はぴたっとはまったと思える。
 そうした思いが記念すべき20周年(実際は事情で翌年になった)のフランク永井のコンサートに向けてパートⅡを作った。これは、明らかにフランク永井がたっている。歌唱はズンとメリハリがある。フランク永井の自信が満ち溢れた歌唱になっている。同じタンゴの流れなのだが、タンゴの切れが遠慮なく弾んでいる。
 さて「霧子のタンゴ」については、もうひとつエピソードがある。それは霧子のタンゴ英語版だ。実際は英日の合わせたものだが。1966年の労音公演でいきさつを語り歌を披露している。台湾にフランクスナインのメンバーと共に行きテレビに出演したときに、英語で歌ってくれないかと望まれ、徹夜で作り上げたのだと。
 フランク永井自身のアイデアで書き上げたという。この英日版はさらに10年後の大阪のライブでも歌われてLPに残されている。

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このページは、文四郎が2018年1月20日 17:11に書いたブログ記事です。

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