2017年8月アーカイブ

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 「あの人に会いたい」は宮本アナウンサーが司会する人気番組。この夏再びのような気がするが、フランク永井の恩師吉田正学校での名優でもある松尾和子・和田弘とマヒナスターズがテーマだった。
 この記事は主にフランク永井を扱っているのだが、フランク永井を語るときに欠かせないのが、恩師吉田正であり、当時フランク永井とゴールデン・デュエットを組み強烈な印象を残した松尾和子やマヒナたちであることから、とりあげていきたい。
 著名な過去の歌手については、残るエピソードはほとんど取り上げられてしまっていて、特に新たな情報があるわけではないが、観ていて松尾和子の生きざまというか、生の松尾和子の一面が強く表現されていたように思う。
 恩師吉田正と最も長く作品の作成を身近でみまもってきた重鎮である八田プロデューサーの言葉があらわしている。戦後ジャズできたえた歌唱はそのあでやかな姿といい低い声の印象は誰もが追随できないものをもっている。米軍キャンプで歌っていた歌手や演奏家たちは、朝鮮戦争が停戦となったのちの在日米軍の縮小から、多くが東京などの大きな都会に進出した。
 特需による好景気とか戦後復興とかが重なり、都会にはキャバレーやナイトクラブが続出して、そこでBGM的な演奏と歌が求められていた。演奏ができて歌えるものには確かに需要はあったようだ。しかしお酒が出て会話が弾む場とはいえ、それなりに「高級」な場とみなされていたことから、演奏も優れたものが求められた。同時に、騒がしくて聴かれることもないような歌でも、うまい、しかも優れた歌手が歌った。
 そうした場での「日本人による曲と歌唱」の実現を目指して苦闘していた吉田正が、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」などの都会的な歌の成功で端緒をみいだしていたものの、さらなる広がりを求めていた。そのフランク永井が赤坂で力道山が営むクラブ・リキで歌っていた松尾を見出して、あとでも触れるが恩師らを連れて松尾の歌唱を聴かせた。
 そこで吉田正は求めていた歌手を見出す。松尾和子の誕生だ。
 橋幸夫や古都清乃が松尾は「姿と歌唱はムード全開の女性だが、いったん舞台を降りると女性的な語り口は消え、豪快な男気をだしていた」などと証言。確かにそうした側面があったかもしれないが、ムード歌謡の女王にたいしてそこまで明かさんでもいいじゃないか。松尾のファンもいっきに冷めちゃうぞ、などと飲んでる勢いで独り言...。
 松尾で思い起こすのは、後年息子が捕まり不幸な死に至った当時のことだ。何ということをしてくれるのだ、早く逃亡から戻ってこい、と溺愛する子に呼びかける。だが、密かに戻った息子を見て、気持ちが激情して翻る。秘密の抜け道を持つ自宅から、絶対に捕まるなと逃がすのだ。
 当時松尾は世田谷の豪邸にいた。この邸宅とは現安倍総理の親晋太郎が手放したもの。政治家邸の構造は忍者屋敷なのかと驚いた次第だが、松尾は子を溺愛すてそうしたというのだ。が、当然優秀な警察からあっさり捕まり、ムショで償う。このときの松尾が息子にあてた手紙こそが彼女の生の声を姿を表しているのではなかろうか。
 
 さて、松尾は後年テレビやドラマにも出たようだが、筆者はテレビを見ていない時代で実際には何もしらない。フランク永井とデュエットしていたのは当然知っている。だが、子供や千年の時代には率直に言って、ムード歌謡などなかったと思うし、松尾和子のような妖艶タレントは好きではなかった。森進一の出だし時代に、伊勢佐木町ブルースの青江三奈がでたが、同様にあの声で愛を歌うタレントや歌手に興味のなかった。
 周囲の人も大抵はそうだった。フランク永井はいいけど松尾和子や青江三奈はちょっとな。友達にはフランク永井もという人もいた。「お色気とムード満点」といわれて、そりゃイイと騒ぐガキはまずいたらおかしいだろう。
 だが、都会に出てきて、年もとって、改めて松尾や青江を振り返ると、彼女ら自身の歌の上手さには只者ではないものを感じだし、今や自ずと集まってしまったCD、レコード、カセットを聴いているのだからセワない。
 松尾が残した曲は属したビクターからさまざまな形で出されているので、十分に楽しむことができるのだが、以前にも触れたが、松尾は一時期キャニオン・レコードに移っている。この時に作った作品が「サテン・ボイス」(カセット)だ。
  「ラブ・イズ・オーバー」「秋冬」「居酒屋」「釜山港へ帰れ」「夢芝居」
  「時計」「黄昏ダンシング」「スイート・メモリーズ」「大田ブルース」
  「さざんかの宿」
 これは、カバー集なのだが、松尾を受け入れたキャニオン(PONY INC)も気合がはいっている。優れた編曲者を配置し、松尾には遊び心をたっぷりいれた自由な歌唱をさせている。いずれも他では絶対に聴けないような作品になっている。
 松尾の歌唱力の高さはたびたび指摘したとおりだが、自在に操れる声と技術を持ちながらも、それを存分に発揮できない生煮えのような気持ちが、ここで完璧に燃焼したような作品だ。
 松尾のショーを恩師吉田正が観にいったときの同行したひとりという小倉友昭(まま)が解説を添えている。彼はちあきなおみ紹介番組でも特異な視点から主人公を浮き彫りにしていた。
 歌がうまい歌手はカバーが上手。松尾も引けを取らない。ジャズの出だけに洋楽のカバーも多い。たっぷりと楽しめるのは松尾の全集のようなCD-BOXのVol4/5に収録されている。
 手元に「松尾和子とあなたの夜」「あなたと夜と音楽と」がある。タイトルが夜にやや偏ってはいるが、内容は幅広い。
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 テレビでもラジオでも「戦時歌謡」が取り上げられた。
 フランク永井もいわゆるリバイバル関係曲の収録で、いくつか戦中の曲と戦後の関係曲を歌った。当時のオムニバスLPの何枚かに挿入されている。
 最終的?には、1975(S50)年のLP10枚組フランク永井大全集の1枚に収められた。第7巻「戦友/戦時歌謡を唄う」として、下記の12曲を残している。
  「戦友」「あゝわが戦友」「戦友の遺骨を抱いて」「婦人従軍歌」
  「麦と兵隊」「同期の桜」「明日はお立ちか」「九段の母」
  「ラバウル小唄」「とけろ港よ」「帰還の日まで」「異国の丘」
 ほとんどが、戦友の死や兵士の憂い、家族の悲しみを歌ったものだ。フランク永井のイメージや声質からあまり勇ましい歌は残していない。
 別項で「新発見」として紹介した「影を慕いて」「人生の並木路」も悲しみをテーマにしたもの。いずれも、戦時歌謡が残した名曲として現在も人気がある。
 フランク永井のレコードを再収集している中で、他にもビクターから「戦時歌謡のすべて」(1976:SJX-8507)、ビクター歌手による「決定版日本軍歌大全集」などがある。
 ところで「戦時歌謡」とはいったい何なんだろう。どんな思いがそこにこめられ、聴く人はどうこころで受け止めているのだろう。
 8月15日は「終戦の日」。敗戦の日とも言われる。明治維新以来、朝鮮出兵、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と続いた。開国は戦争に関与するためではなかったはずなのに。その戦争が終わった日だ。
 暑い夏がくるとこの戦争を思い起こす季節が来る。日本が敗北を認める直前には、東京大空襲をはじめ日本全土に焼夷弾が投下され空爆された。とどめは広島と長崎に投下された核爆弾だ。全国民が戦争に動員された。竹やりと銃剣を模した木剣を使った本土決戦に向けた訓練がなされた。
 これを理由に日本人は全員が「民間人ではない」とされ、これでもか、これでもか、と日本人である限り全員が殺戮対象の「敵」とされて、終局でのこの悲惨な事態がふりかかったのだ。
 この季節がくると、NHKはじめテレビでも新聞でもいくつもの「戦争」をとりあげた番組や記事がでる。いやがおうでも目をおおうような戦争の実態が知らされる。筆者もいくつか観たが、正直、こころが辛くなる。
 当時において国民は同じような心持だったのだろうか、と思いをめぐらす。戦争が「日本人の生命と財産を守るため」にやむえず、と言われて全国民総決起に動員されたようだが、結果はまったく逆だったのではないだろうか。夫、父、兄弟の多くの命が奪われ、家屋が焼かれ、すべてが理不尽な状態に投げ込まれた。
 日本の「敵」であった国々の人びとも同様な目にあわされた。これらを思うと、現天皇が戦中にトップに掲げられて行われた戦争を悔いて、被災地をれこうべをたれ、将来再びトップに掲げられて利用されるような戦争が起こってはならないと願うのは当然と思える。テレビや新聞を素直に見るならば、いかなる理由があろうとも戦争だけは起こしてはならない、と思うのを否定するのはありようがない。
 人びとの気持ちをいやし、こころを喜ばすことを職業とする歌手は、いつの時代でも、気持ちは戦争に反対であったはずだ。ベトナム戦争のときには世界中で歌手たちは声をだした。その代表なのかボブ・ディランにはノーベル賞まで。日本でもフォーク・ブームが沸き上がったが、反戦も旗印のひとつだった。
 夏になると組まれる歌の特別番組となると、その立場がきわめてぼやけているのが気になる。歌番組は政治とは無関係ということがそうさせているようだ。歌番組に政治を持ち込んではいけないと。また、視聴者には「戦争に反対」の立場の人だけではない、とか、戦中の歌にも素晴らしい芸術性の高いのがあったし、それを否定してはいけないとかいう意見もあり、混乱する。
 だが、それはご都合主義でしかない。戦中は歌手でも軍歌を歌うことが強制されたし、戦地に慰問にいくことを事実上「強制」され拒否できなかった。つまり、歌うことが決して「政治とは無関係」などではなかった。いやでも戦争に協力させられたのだ。
 作詞家、作曲家、歌手たちはお上の命令に対して「はいはい」といいながらも、知恵を出してさまざまな抵抗をこころみている。
 お上は「戦志高揚」を指示する。だが「そうだね」といいつつも、兵士の心情を巧みに歌にする。母や家族の思いを忍び込ます。「戦志高揚」ではなく、人間としての素朴な愛、気づかい、なぐさみ、望郷を表現する。
 歌手はみごとに、あわれ、友情を歌唱で訴える。それが、戦場の兵士も気持ちをがっちりとつかむ。だから、戦地慰問にいっても、そうした歌が求められ、大喝采され、皆が涙で歓迎する。送り出した本土の家族も同じだ。
 当時のことをつづった淡谷のり子のことばなどが証明する。
 もちろん、勇ましいマーチ、華々しい戦果、決死の行動を歌った歌も作られた。ささきいさおのような張りのある力強い声が「宇宙戦艦ヤマト」にあうように、勇ましい軍歌にあう歌手は好まれてそうした歌を歌わされた。戦後鶴田浩二の歌唱があっていたことから「特攻隊」の歌をよく歌わされた。不幸なことだが伊藤久雄もそうかもしれない。
 当時に全兵士に勇気を与えるすぐれた曲や歌を作った作曲家もいる。これらの方がたは、結果的に戦争に協力したことになって、戦後深く悔んだりした。戦後、反省をこめて、逆に反戦的な優れた曲をつくることに尽くした人もいる。
 「利益」という縛りから離れられないレコード会社も「音楽を動員せよ」とお上から協力を求められ、戦意鼓舞のレコードを作った。歌手に歌を強いた。苦悩が強いられ、結果多くの戦中・戦後の関連曲ができ、現在の財産となっている。負の遺産かも知れないが、そうした曲をいま聴くことで、苦い同じ道を歩まないために、未来の平和のための糧(かて)となるならいいことである。
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 PONY(現ポニーキャニオン)社は立派なレコード会社だが、筆者の若いころは何故かカセット・テープの印象が強力でいまもひきずっている。特にカーステレオで聴いたのが記憶にこびりついているもので、実際はどうだったのかとか、現在はどうなのかとかはわからない。
 フランク永井の残した音源を追求する中で、近年に気になってあらためて手に入れたものを聴いている。
 フランク永井のデータブックを編集している関係で、その時にはたいして気に留めていなかったのだが、PONYから出されている音源に妙な魅力を感じる。フランク永井は生涯ビクター(現株式会社JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)に属していた。そのために他のレーベルで歌がリリースされることは基本的にない。
 以前にも紹介したが、そもそもビクターは世界的な海外の企業で最初は日本ビクターとして出発はしたものの、資本的に日本独自になるまでにはさまざまな困難を経ている。戦争による利害の対立からの障害、慣れ親しんでいたロゴマークの使用障害、名称をどこまで引き継ぐか、ビクターの関連会社と連携してすすめていた各種プロジェクトの整理と。
 一般的にはフランク永井の海外へのレコードはNIVICO VJCマークを上から貼ってなされたりしている。1965年の映画主題歌「勇者のみ」関連会社リプリーズ・レコードのレーベルで出された。
 異例に思ったのはPONY製品だ。PONYに所属していない他レコード会社の人気歌手の作品も多く手掛けている。フランク永井も例にもれず、いくつかの製品に登場する。「カラオケファンにのためのムード歌謡20選」(1982:PONY 36P1106)などは、テイチクの裕次郎やクラウンのロス・プリモスにみるように、レコード会を自在に横断した歌手が登場する。
 歌手が所属する各レコード会社から音源を借り受けて独自の企画で作品にしたものだ。フランク永井についてはビクターからレコード化されて耳になじんだ曲がPONY作品で聴けるという趣向になる。(「女の意地」「知りたくないの」「赤坂の夜は更けて」)
 だが、PONYの作品にはデータブックでも紹介した「フランク永井・最新ヒット20を唄う」では、全曲がオリジナルというか改めてこの作品用に吹き込みなおしている。曲としてはビクターからも出ている曲がいくつかあるのだが、編曲は別だ。ほとんどが本家ビクターから出ていない珍しい曲になっている。
 PONYのこの作品を見て以来、ずっと気になっていた。PONYに問い合わせもしたのだが、なにせ古い話であるために、資料も現存するものしか負えない。担当者も変わったりしている。他にもあるのかは不明だった。ところが、別項で紹介したように熱心なフランク永井ファンが「デラックス20 フランク永井~夜のムード」を発見した。全曲が新たな吹き込みで、「夜は恋人」と「フランクの夢は夜ひらく」「ベッドで煙草を吸わないで」「知りすぎたのね」はデータブックにもない曲。
 ところが、嬉しいことにさらに新たな発見があるという。これは「フランク永井・ナイトクラブで20曲」という作品で、メディアが8トラック・テープとのこと。そう、PONYは思い起こせば8トラ全盛時代に多くの対応商品をそろえていたことでも有名?だった。
 カセット・テープを不覚にも(単なる激しい思い込み)軽視していた筆者は、8トラに何か新しい発見があることなどつゆにも思っていなかった。発見された方は8トラ・テープからの音起こしには相当苦労されたそうだ。それはそうでしょう。おそらく劣化が激しく、一般にちゃんと作動する装置がどこにもあるはずがないからだ。どうにか最高品質で実現できたとして、後日聴かせていただいた。
 ここに「愛の怖れ」(菅原洋一)のカバー、「影を慕いて」(藤山一郎)「人生の並木路」(ディク・ミネ)のカバーがデータブックにない曲。何十年も前だが知人がフランク永井は「影を慕いて」「人生の並木路」を歌っているよ、と言ってたのを思い出す。データブック編集の際にいくら探しても出てこなかった。もちろん、眼がビクター発売にしかなかったからかもしれないが。この2曲については歌手ならほとんどの人がカバーしていて、ビクター歌手では森進一版が有名だ。
 フランク永井版をはじめて耳にしてさすがの歌唱に思わず拍手を送った次第。
 しかもこの8トラ作品も、全曲が新たな吹き込みで構成されている。以前にPONYカセットから出た「赤坂の夜は更けて」などはそのままだが、洋楽の「嘘は罪」(漣健児訳)、そしてフランク永井のデビュー2作目「グッド・ナイト・スイートハート」(吉田央=吉田旺訳)などは、素晴らしい。編曲も訳詞もフレッシュだ。
 この作品についても編曲者の情報が残っていなかったことが残念だが、PONYの一連のフランク永井作品はさまざまな当時の事情を語っている。一部幾分か気になる編曲もあったが、それにしても、もしかして、PONYには「存在しないはずの珍曲が残されているのではないか」という思いを想起させる。
 一連の新情報を提供していただいた提供者にこころからお礼を申し上げたい。
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 妙な見出しで失礼。本日8月6日は広島に原爆が落とされた日。人間をターゲットにした人間が発明した史上最大の破壊兵器が、実際に使用された日だ。その酷さには言葉が出ない。ただただ、戦争や核の廃絶を望むばかりである。
 さて、時代的なものとはいえ、戦中・戦後の飛行機の世界で役割を果たしたのが「航空灯台」。現代では死語に違いない。航空灯台は海の灯台とどうように、飛行機の視界飛行の道標として必要だったもの。特に夜間の飛行にはたいへん役に立つというか、必須のものだった。移動客を乗せる便は一般的に暗くなると、その日の飛行は終了したわけだが、貨物便は夜間も飛んだようだ。
 航空灯台は昭和の初めに作られた。だが、戦争になると、灯火管制がなされたために、この航空灯台からも灯が消えた。戦後に飛行機のポイントチェックは無線の方式に切り替わり、1950年の後半には使われなくなったようだ。
 こうした飛行機時代の移り変わりを惜しむように、フランク永井に「夜霧の第二国道」を提供した宮川哲夫は「夜間飛行」を書き、1958(S33)年にSP盤がリリースされた。歌詞に航空灯台は直接的にでてこないが「夜間飛行のスリルに生きる...」とか、イメージは満点。裏面は朝倉ユリに提供した「霧の航空灯台」と、ずばりその名を題名とした。
 この「夜間飛行」はビクターもいっきに売り出したフランク永井の新作をして、販促に力をいれた。「西銀座駅前」「こいさんのラブ・コール」「俺は淋しいんだ」とヒットが続いていた。さらに勢いをつけるために「札幌発最終便」を出す。
 つまり、国道、特急、飛行機と急激な社会の復興を勢いづけるものをテーマにした歌を作った。その業界で働くドライバー・運転士・パイロットをとりあげ恋の悲哀をからませる。作詞家宮川哲夫はこの分野で大活躍した。
 フランク永井のキャッチである「魅惑の低音」をそのまま使ったLPシリーズがでる。その第2集で「夜間飛行」をはじめとするこの時期のプッシュ曲をいれている。さらに1959(S34)年「高度一万米」というLPを出す。この当時LPといっても、まだ10インチ盤だ。この「高度一万米」はまさに飛行機、パイロット、恋を集めた特集盤。フランク永井をタイトルに付けながらも、先のB面朝倉ユリの「霧の航空灯台」のほか、築地容子「花のスチュワーデス」が入っているから面白い。
 フランク永井にとって「魅惑の低音第1集」「悲しみよこんにちは」「ラブ・レター」「魅惑の...第2集」につぐ5つ目のLPだ。
 1964年になると、時代はステレオ・レコードのEPを売り出す。その翌年、和田弘とマヒナスターズが「夜間飛行」を出す。だが、これは浜口庫之助による作詞作曲で、NTVテレビ連続ドラマの主題歌だ。
 「夜間飛行」という曲名を世に知らしめたのは「ちあきなおみ」だろう。1973年にリリースされた。ちあきなおみは1992年に夫「郷鍈治」を失くす。その後舞台から姿を消しいまでもちあきファンから熱烈な復帰のエールが絶えない人気歌手であるが、その喪失気分を予言するような「喝采」を1972年に大ヒットさせた。
 作詞は吉田旺、作曲が中村泰士。このコンビは「ドラマチック歌謡」と称した三部作をつくる。同年に「劇場」、そしてその翌年に「夜間飛行」ができた。ちあきの「夜間飛行」は大ヒットとなりNHK紅白でも歌った。「最後の最後まで 恋は私を苦しめた...」で始まる。ドラマチック歌謡というだけあって、歌詞は長く物語として展開されるという趣向だ。
 さて、余談になるが、ちあきなおみは舞台で思う存分に歌いつくして、いさぎよく舞台を降り、その後夫の実兄の俳優宍戸錠にも依頼疎遠だというほど、身近な人とも距離をおいているようだ。ビブラートのない、裏声のない、まさにストレート一本で歌のあらゆる分野を切りまくった。美空ひばりと同様好き嫌いがファンにもあるのだが、実力では卓越した歌唱が認められていたことは事実だ。
 それを証明するかのような話題になったのは、1999年のネスカフェのCM。水原弘での有名な「黄昏のビギン」(永六輔作詞中村八大作曲)がほとんどアカペラで静かに流れたときだ。こんな雰囲気満点な歌唱力ある歌手は誰なんだとという声がどこからも上がった。ちあきなおみを再浮上させた形だ。
 その流れとは無関係ではないのはやはり2006年に小畑実のカバー「星影の小路」がCMで流れた。
 筆者はちあきの現役時代はちっと避けていた。それはドキモを抜いた1977年のNHK紅白歌合戦での「夜を急ぐ人」(友川かずき作詞作曲)を見て印象を引きづったからだ。ここまで歌を自分のものにして入れ込む歌手はいなかったといってよい。
 実はこの歌という自分の仕事への入れ込みといい、多くの素晴らしいカバーを残したことといい、惜しまれて舞台を降りたことといいフランク永井に重なるところがあるからだ。ということで、主題が不明確なまま、妙な見出しをつけてしまった。