2016年8月アーカイブ

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 フランク永井の残した歌についてはほとんどを聴いてきた。特に「フランク永井データブック」に記録した正式リリースの曲については、聴いていないのは1~2曲程度残すだけ。レアなオムニバスLPで未発見の盤に残された何曲かは、まだ耳にしていないが、これは今後の楽しみとしている。
 「データブック」は2009年に出版されたが、新たに追加したり修正したりするものはほとんどない。誤字誤植はわずかあるの当方の至らなさでお詫びしたい。データブックで紹介できなかった曲は、そのご10余曲発見(再)されている。それはそのつどこの場で紹介してきた。耳にしたことがない曲が見いだされ、それを聴くのはファンとしてこのうえない楽しみである。
 データブックが出たことがきっかけで、全国のファンからさまざまな情報が寄せられる。たいへんうれしいことである。そうした中でいつも貴重な資料と情報を提供してくださっている方からこのたび、思わぬ貴重な話題が寄せられた。感謝をこめてここに紹介させていただきたい。
 何が予想もつかないことかというと、第一に聞いたことがない曲「独りぼっち」「雨雲のあの日」という2曲があるということ。第二にそれが八島さんという方がプライベートで作って発売したものだとのこと。第3にその作品は数百曲の多くにおよび「二人は大人」(八島義郎作詞作曲、歌唱:松本英彦&FamilyBusiness)の曲で、1991年第5回日本ゴールドディスク大賞のベスト5・シングル賞を受賞しているのだとか(写真右youtubeから)。知識が乏しく初めてこうしたことを知ったのだが...。
 フランク永井歌唱の「独りぼっち」「雨雲のあの日」は、テープ製品の「選曲集7」に収められている。テープには表裏8曲があり、フランク永井以外に岡ゆう子、小鳩くるみがおのおの2曲歌っている。作詞作曲にかみ・たかし/前田俊明の両氏が編曲したももで、フランク永井の2曲はフランクス・セブンとストリングスの演奏、他はビクター・オーケストラ演奏だ。制作は1982年ビクター。
 100曲集、200曲集といった作品を作っているようで、しかも歌っているのはその時期に全国的に名の売れた歌手たちだ。所属するレコード会社の系列を問わずに、何十人ものエンターテナーを参加させているのがうかがい知れる。一定のプロ級のレベルの品質を保持しているゆえのこととはいえ、このようなことを実現できるのは並大抵のことではないのはわかるが、その著者について何も知らなかったのはなにゆえか。
 インターネットで調べても大した情報は得られなかったが、作詞家、作曲家、芸術家、実業家としての顔以外に、宗教の開祖者というところが理由かもしれない。
 聴かせていただいた曲の感想だが、特別な印象深い感銘は受けなかったというところ。難がないいい曲なのだが、迫りくるものは感じられない。つまり悪いところはないのだが、ヒット曲にはならないかな、と。あくまでも流行歌は時代を背景にし、聴く人個人の聞いたときの生活感情に大きく左右されるものなので、私の印象など何の意味も価値もない。
 1982年はフランク永井にしてみると、そうとう沈んだ時期で山下達郎とのジョイントで作ったシングル2曲とそれをメインにして作ったカバーLP「Woman」だけを残したときであった。
 1962年に「ひとりぼっち」(平川浪竜作詞作曲)が同名でリリースされているが、当然異曲。
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 最近BS放送での歌謡曲番組が多い気がする。好きなので観たいと思うのだが、ともかく追う時間がない。何よりもその体力が衰えたのかもしれない。テレビ番組表で、フランク永井がらみの臭いが伝わってくるものをなるべく見逃さないようにしている。もちろんだが、とても見きれるものではない。
 懐かしの...というような内容の番組は特に長時間になる傾向が強い。過去の人気曲となると歌手の数も多いし、曲数もある。嗜好品であるこの種のものは視聴者の好みがそれぞれで、番組での紹介がブチ切りであったり誰もが知るありきたりのエピソードを語るだけでは、視聴者の視点で満足度が伸びない。さまざまな工夫をこらそうとすると、長くなるのはやむを得ないのかもしれないが、それにしても2時間程度を超えると見続けるのは苦痛を伴う。
 つい、ビデオに録りあとでヤ歌や歌手のシーンは飛ばすとかしてみるようになる。
 暑い今年の夏は、オリンピックがあり甲子園があり、世を賑わすテロ事件ありで何かと忙しい。そんななかで、目にしたのは「8月5日BS-TBS『昭和...愛しき歌よ!~五木寛之・わが人生の歌がたり~』」と「8月3日五木ひろし戦後70年を歌う 『リンゴの歌』~『人生いろいろ』まで...昭和に刻まれた名曲のあゆみ」の2番組。
 いずれも現役ばりばりで歌謡界を歌い語る五木ひろしの番組。当然だが、後者で五木はフランク永井の「有楽町で逢いましょう」を昭和に刻まれた名曲のひとつに選んだ。五木は正式にこの曲はカバーとしてCDに入れて出している。
 注目したのは前者番組で、語る主役は五木寛之だ。五木ひろしの芸名は寛之がつけたということは有名だ。寛之がひろし以下由紀さおりとかに、何年かぶりであって語りながら寛之が今日までに生活体験のなかで、深い印象を残した流行歌として紹介する形の番組だ。
 「歌謡曲のない日本には住みたくない」と語るほど歌謡曲には造形を持つ五木寛之の語りがいい。後半戦後の話題になって、1957年(S32)に「有楽町で逢いましょう」が多くの人に衝撃的な印象をのこしたことを紹介している。番組では佐伯孝夫+吉田正×フランク永井のコンビがさらに「西銀座駅前」という歌の発表で衆目をとりこにしたことを紹介。
 さらに、編曲家寺岡真三による斬新なジャズ風リメークで復刻させた「君恋し」を熱く語る。五木ひろしは「西銀座駅前」と「君恋し」を歌った。
 五木寛之によるこの時代の紹介する内容はそのまま多くの人びとの記憶と重なるものだ。

 そのような歴史を背負う「有楽町で逢いましょう」の有楽町を11日に尋ねた。マリオン前にある歌碑はきれいに清掃されいた。写真(右上)はまさに、今の歌碑の姿だ。この歌碑もそうだが、その前にバス停のスタンドのような増築物がある。有楽町という名称の由来について書いてある銘なのだが、上部に時代劇作家で知る童門冬二による「ぼくの有楽町」という小文が刻まれている(写真左)。
 その中にしっかりと歌「有楽町で逢いましょう」が記されている。下記に紹介する。

『ぼくの有楽町 童門冬二
 ぼくにとって戦前の有楽町は"高級な街"だった。朝日・毎日・読売の大新聞が毎日、知識の生産をつづけている。日劇や東京宝塚劇場などの高級劇場が林立している。「山手線の環外は東京でも田舎だ」といわれていた。その環外に住むぼくにとって、有楽町はまさに"遠くに在りて思うもの"だった。
 それが突然「きみたちもおいでよ」という庶民的な街に変質したのは、なんといっても大阪からの「そごうデパート」の進出である。昭和32年(1957)5月のことで、エスカレーターやエアカーテンが珍しかった。そして一躍その変貌ぶりをアピールしたのが、フランク永井の歌う"有楽町で逢いましょう"だ。本当はデパートのCMソングだそうだが、そんな気配はみじんもない。銀座と並んで日本の街にした。
 ちかくの都庁に勤めていたぼくは"すし屋横丁"の常連であり、いまでもその跡を懐かしく訪ねる。現実を超えて、有楽町はぼくの脳裡にしっかり根づいている。』

 そこはまさに有楽町だが、道を挟んで銀座だ。数寄屋橋でもある。いずれも多くの小説や歌のなかに刻まれている。裕次郎の「銀座の恋の物語」もこの場所を象徴するもので、有楽町で逢いましょう歌碑から歩いて1分程度の場所に残されている。(写真右下)
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 「フランク永井前橋鉛筆画展示室」の話題の流れで、フランク永井出演あるいは主題歌で関係した映画のことについて紹介する。展示室を訪れると、まず目につくのが廊下に展示されている当時の映画ポスターだ。
 別項でも紹介したが、当時の映画ポスターはこうした場所以外ではなかなか見られるものではない。当時の娯楽の中心でもあった映画のポスターなどは、ほとんどが一過性のものとして保存されていることはないからだ。ときどきにインターネットの販売サイトで出ることがあるほどだ。
 この展示室では映画の台本まである。それらのいくつかをお借りして読ませてもらった。当時あるいは再上映でみた映画、あるいはDVD化されて発売されているものはたいてい観ているのだが、何せ観れる本数は少ない。
 その理由とおぼしきことについては別項で触れたが、急激に変化した社会的な「常識」とかけへだてている設定、シーン、セリフ、振る舞いが多いせいだ。こう書くと、まるで日本でないみたいだと思うかもしれないが、現代から見るとまるでそうだったのだ。
 小林旭の渡り鳥シリーズなどというのがあるが、拳銃をもちあるき、馬に乗り、ギターを背負い、よくわからない敵が周囲にうろうろしており、しょっちゅう殴り合いがある。恋人が登場するが、たいてい問題を抱えている。
 父親が密輸をやっていたり、兄が麻薬中毒だったり、勤め先が裏で犯罪に加担していたりときりがない。うまく結ばれることなど、そうとうなトリックをからませないとありえない。あったとしても、そんな主人公との生活などイメージもできないのだ。
 夜霧、車、たばこ、失恋、夜の都会というようなことを主なテーマとして歌うフランク永井の歌では、当然にそうしたシナリオになる。娯楽ということで、気楽に1時間半程度楽しめるのが映画なので、深刻とかややこしい筋書きは没だ。フランク永井の歌が背後に流れるのが必要で、それは一曲とは限らない。歌を聴くのも映画館に足を運ぶ人の目的にある。
 岡田真澄、二谷英明、白木マリ、待田京介らと共演した「羽田発7時50分」(1958日活)では、当然主題歌は同名のヒット曲だが、台本に並列して「霧の中の男」「哀愁ギター」が記してある。
 フランク永井の出演、主題歌を歌った映画は2桁あることはわかっているのだが、明確な記録は不明だ。(20本程度についてはデータブックに書いた)
 挿入歌では邦画だけではなく洋画もある。シングルのレコード発売でも記録されているのはサガンの「悲しみよこんにちは」、Jギャバン主演の「望郷(ぺぺ・ル・モノ)」、封印になったかもしれない「縛り首の木」などがある。
 テレビドラマについて今回は触れない。
 映画館で再上映されたものには「有楽町で逢いましょう」「たそがれのテレビ塔」、ビデオで「西銀座駅前」「霧子のタンゴ」「遊侠一匹」、テレビで「好き好き好き」がある。このあたりが無難な再公開可能作品なのかもしれない。
 だが、別項でも触れたように、ありのままの記録ということで、妙な自主規制なしにファンならだれでも、いつでも観れるような状態が来ることを望みたい。閉ざすぐらいならそもそも世に出さなければよかったのだ。
 出すならそれは決して一過性のものではなく、人びとの記憶に一生残り影響を及び続けるものとの自覚と責任を伴う。残して初めてその残した行為や作品が、励ましにも反省にもなろうというもの。大衆文化とはそうしたものではなかろうか。
 懐かしさが満杯のフランク永井時代の映画ポスターを見ることができて、そのようなことを、つらつら思い浮かべながら楽しんだ。