


昭和歌謡で一世を風靡したフランク永井の魅惑の低音は、現在いわれるムード歌謡という分野を切り開くきっかけになった。その女王といわれた松尾和子、先輩の鶴田浩二がいた。そうした歌手をみいだし、ムード歌謡と呼ばれるような歌曲を世に示したのが恩師である吉田正だ。
吉田正のめざしたのは、戦争が終わったにもかかわらず、依然として街では欧米のポピュラーソングが主流になっている。職場での仕事が一段落した後に都会で息を抜く場では、それにふさわしい日本の曲や歌があってもいい。そうした場と雰囲気にふさわしく、若者に夢と希望をあたえるものが欲しいと願っていた。
フランク永井は若者の例にもれずに、ポピュラーソングにあこがれ、酔っていたのだが、吉田正はフランク永井のもつジャズ風のフィーリングと他の歌手にない低音と高音の美しさに目をつけた。バタ臭さも魅力をおぎなっている。根気よく生徒を導く。
ただ歌がうまいだけではだめだ。人を引き付ける人間的な魅力が歌の背後にないと見向きもされない。人のこころや気持ちをいかに深く理解できるかだと。師に導かれ流行歌手に転向を決意し最初にブレークしたのが「有楽町で逢いましょう」だ。デビューしてからちょうど2年後だ。
吉田正は「有楽町で逢いましょう」のヒットが実現して、はじめて自分の職業を「作曲家」と表現できる自信を得たと後に語っている。この曲は誰もが知るように東京に進出してきたデパートそごうと雑誌平凡、大映映画、放送が開始されたばかりのテレビ等とビクターが連携作戦で推し進めた、コマーシャル・ソングだ。
そごうでは当時名が売れて人気の三浦洸一に歌ってほしいと要請したのだが、作曲家の吉田はすでにフランク永井を通じて念願の「日本人がだれでも口ずさめる、日本人のポピュラーソングの実現」を決意していた。フランク永井でこの曲をだせばきっとその世界は開けると。怪訝に思う関係者をビクタースタジオに呼び寄せて、聴いてほしいと直接フランク永井に歌わせたのだ。
ビクターではこの分野の積極的な開拓をはじめる。吉田正はけっしてムード歌謡が夜の酒場あるいはナイトクラブなどに限ったわけではなだろうが、都会の盛り場の歌や雰囲気と結びつく。青江三奈や森進一、そしてムード歌謡コーラスの進出だ。なんといってもハワイアンを主としていた和田弘とマヒナスターズであろう。数多いコーラスの中では先駆者としていまでも語られている。
そうした世界で抜群の歌唱力というか聴けば耳に残る声の森聖二(もりしょうじ)ボーカルの黒沢明とロス・プリモスがでてくる。フランク永井もカバーしている「ラブ・ユー東京」をひっさげて。
このグループはレコード会社がクラウンなのだが、実は1969(S44)年からおよそ十年間フランク永井と同じビクターに籍をおいている。その間に出したLPが「有楽町で逢いましょう~黒沢明とロス・プリモス」(1970:SJX-41)である。フランク永井を中心にビクターから出したムード歌謡(当時はこうは呼ばなかったと思うが)のヒット曲を、彼らがカバーしたのだ。しかも、寺岡真三、近藤進といったオリジナル曲の編曲者自身が協力して作られているものだ。
30歳ほどのときの森をはじめとするかれらのすばらしい傑作だ。森は惜しまれて2009年に70歳で永眠した。ひと時代を築いたかれらに敬意をはらいながら、名曲に浸るのはいかがだろうか。
有楽町で逢いましょう
好きだった
再会
夜霧の第二国道
東京午前三時
ラブ・レター
俺は淋しいんだ
誰よりも君を愛す
東京ナイト・クラブ
グッド・ナイト
羽田発7時50分
夜霧に消えたチャコ
文四郎様
お元気でいらっしゃいますでしょうか?
本格的な寒さの到来時期ですが...ガラス越しの今日の陽射しはポカポカで一雨ごとに暖かさを増すような陽気になっています。きっと今だけでしょうが...寒い季節に暖かいととても儲けたような気がしてしまうものですね。
ところで「ラブ・ユー東京」と「有楽町で逢いましょう」の話は知っていたつもりですが...文四郎さんの掘り下げた話を聞きますと...大変納得出来ました。
楽曲が出来た背景を思い起こしながら名曲を聴きますと、その曲の奥深さを思い、一段と深く心の中にスッーと入ってしまうものですね。
これからもフランクさんに関するいいお話を聞かせて下さいね。楽しみにしていますから...
大崎市松山 kyoko