2015年8月アーカイブ

mx20150825c.jpgmx20150825b.jpgmx20150825a.jpg フランク永井の代表曲である「おまえに」(岩谷時子作詞、吉田正作曲)の歌碑が、フランク永井の生誕地である宮城県大崎市松山のふるさと歴史館前に建立されている。
 2013年10月27日、フランク永井は2008(H20)に亡くなったがその日に現地で除幕式がおこなわれたことは当「フランク永井あれこれ」で紹介させていただいたとおりである。『フランク永井の故郷に「おまえに」歌碑が建立される』『フランク永井の「おまえに」...作曲者吉田正が記す「ヒット曲の思い出」より』を参照していただければと思う。
 この「おまえに」歌碑について、関西エリアの毎日放送「歌碑ものがたり」としてまとめられて放送された。(6月19日)
 あいにく関東に住む筆者や、フランク永井の故郷東北のエリアでは放送されなかったようです。関西に住むフランク永井の大ファンである友人が当時「自分は観てなかったがどうも放送されたようなのだが...」と情報を知らせてくださって初めて知った。
 それは是非とも観てみたいと思い、「フランク永井の故郷から」の当サイトを主宰しておられる小野寺さんに聞いてみると、取材に来られたのだというお話でした。そのお話をうかがって以来、どのような番組だったのか、夢は膨らむばかりでしたが、最近にようやくその映像を観る機会にめぐまれたので、ここに記した次第。
 素晴らしい番組になっていた。
 フランク永井を生んだ松山をいきいきと取り上げ、10月開催の第7回フランク永井歌コンクールの取り組みの緊張が伝わってくる。
 番組の進行をつかさどるのは福島暢啓(のぶひろ)毎日放送アナが、松山の要所とか歌コンの要人をさりげなく訪ねて、松山の人の声として紹介する。
 映像でも話題になるのだが、福島アナの顔が若かりしフランク永井の顔に大変似ているために、また彼の素直で人好きの性格とかもにじみ出ていていい感じがでている。
 町のお店を訪れてきさくに聞くというスタイルなのだが、もすほ糖という名物お菓子(知らなかった)を売っているお店の齋藤邦夫さん、藤本和俊さん(実行委員)、高嶋利光さん(歌コンに参加された)、松本善雄さん(銘酒一ノ蔵)、小野寺京子さん(自在窯&ギャラリー)という方々がインタビューに登場された。
 一目映像に映る姿をみただけで伝わる、なんともいえない人柄、町が生んだフランク永井への温かい思い、後世に歌い継くのだという姿勢が、自然ににじみでている。
 雨が降っていた日の取材なのだが、決して暗くないばかりか、歌碑を魂が眠る墓所のようにていねいに拭きとる福島アナの姿は、思いがこもりむしろ明るい。
 フランク永井の数多いヒット曲の中で、おまえにを松山の碑にしたのは、こうした人への思いやりが重なるようである。フランク永井はこの曲を1966、1972、1977年と執念ともいえる異例の3回吹き込みをした。これはこの曲が恩師吉田正の栄光を支えた夫人への心情を岩谷時子が詞にしたといわれ、フランク永井はそのヒットで恩を報いるのだという深い決意のあらわれと伝えられる。
 「おまえに」はそうした先人の思いをも故郷松山で受け継がれて愛されているのだ。この映像は松山にかぎらず、現代の世知辛さで遠のこうとする人への思いやりの大切さを振り返させる。
 「歌碑ものがたり」では、東京有楽町に存在する「有楽町で逢いましょう」歌碑も取り上げられたとも聞くが、これもぜひ見たいものである。


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 8月6日は広島に、9日は長崎に人類史上はじめて何の罪もない住民を対象にして核爆弾が投下されてから70年目だ。ことしも数多く鎮魂の催しが、現地広島長崎をはじめとして全国で繰り広げられている。
 広島と長崎のいいつくせぬ悲惨をテーマにした歌も無数にある。戦禍が止みほっとした人びとが手にした平和と圧政からの解放を、永久のものにしようと祈念して作られ歌われた。フランク永井も積極的に参加した「労音公演」。さまざまな平和の歌は「うたごえ運動・うたごえ喫茶」とかでもひろく歌われた。
 1949(S24)年から広島平和音楽祭が開かれた。これは20年続いた。多くの平和を願う著名人歌手のなかでフランク永井も名を連ねている。第1回で美空ひばりがうたった「一本のえんぴつ」は311を公演中に遭遇したクミコがその復興への思いを重ねてカバーで歌って以来、さまざまな歌手に復刻カバーされている。
 音楽祭実行委員長の古賀政男が多くの凝った作品を手がけた松山善三に作詞を依頼し佐藤勝が作曲してものだ。けっして流行するような歌になっているとは思えないものだが、長く歌い続けられた作品だ。ひばりは「いばらの道が続こうと、私は平和のために歌います」と決意をのべた。
 数かずの平和を祈願した歌のひとつに「祈り舟」というのがある。これは第12回広島平和音楽祭(1985[S60]年)に二葉あき子が歌った曲だ。作詞は美空ひばりに多くの歌詞を提供した石本美由紀である。そして作曲はフランク永井の恩師吉田正がしている。つまり、「フランチェスカの鐘」の二葉と石本はコロンビア、吉田はビクターで専属作詞作曲家の巨髙の壁のあった時代に、人気の作詞家と作曲家が作品を一緒に作れる時代ではなかったのだ。
 だが、当時のコロンビアの正坊地会長のなみなみならぬ熱い平和への思いから実現した。会長自身が広島出身。そして歌手に指名した二葉も広島出身。二葉は原爆投下のときに母と息子にあうために広島からの列車に乗った。混雑で十分遅れで出発しトンネルに入ったときに原爆がさく裂しくしくも命をつないだのだ。
 正坊地は、一方でビクターの吉田にただならぬ敬意をもっていた。吉田は従軍して語りつくせない思いを秘めている。しかし決してそれを口にしない。吉田が作曲家になってからその思いを表現したのは「寒い朝」(だけ)である。裏返しでは「いつでも夢を」である。戦後流行歌が多く作られていく中で、吉田は歌を庶民のささやかな喜び、幸せの広がり、つまり社会でいう「文化」の成熟があるところでの歌を追及していた。だから、ダイレクトに表現する望郷や労働の感情表現よりも、恋や別れや遊びという分野での表現を切り開いていった。都会的な大人のムード歌謡などというのはまさにその結果のひとつである。
 やや横道にそれた感があるが、コロンビアの会長はその吉田こそが平和を願う無数の人びとの気持ちを表現しくれるはずだというおもいがあったに違いない。そうした思いが通じて実現したのが「祈り舟」だ。ビクターも盟友コロンビアの会長の願いを正面から受け止めている。
 吉田は1975(S50)年にこの「広島平和音楽祭実行委員長」に就任している。
 この夏も、歌を歌い継ぐことで少しでも平和を実現するためにと、多くの催しが開かれている。「祈り舟」もそうした一曲である。広島、長崎の原爆は「平和」の名のもとに原発となって、人びとのすぐそばで存在している。半減期が万年単位のものをもてあそぶのは愚かなことである。ひとたびうごめけば末代までも計り知れない理不尽を負う。
 (いつも貴重なヒントをくださるJさん、ありがとうございます)

「祈り舟」第十二回広島平和音楽祭(昭和六十年八月)
  作詞 石本美由起/作曲 吉田 正/歌 二葉あき子

一、夏の川面に 岸辺から
  流す供養の 送り火よ
  いくら待っても 願っても
  あの日から 帰らんままの父母(ふぼ)がいる
  広島 ゆらゆら 太田川
  供養 灯籠 祈り舟

二、一つ二つと もつれ合い
  水を彩(いろ)どる 華(はな)になる
  若い面影 そのままに
  あの日から 帰らんままの友がいる
  広島 八月六日 夜
  涙 灯籠 祈り舟

三、眠る御霊(みたま)よ 安かれと
  祈り捧げる レクイエム
  今の平和も 知らないで
  あの日から 帰らんままの子らがいる
  広島 名を呼ぶ 風の声
  流し 灯指 折り舟
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 「君恋し」はフランク永井が1961(S36)年にレコード大賞に輝いたのだが、この曲は昭和初期にヒットした曲をリバイバル復活したことはみな承知のことと思う。そこで、その初期のころどう歌われたのかについて触れてみる。
 浅草オペラで有名な二村定一が1928(S3)年にレコードをビクターレコードで吹き込んだというのは知られているが、作曲家の佐々紅華が「君恋し」を作ったのは1922(大正11)年だ。作詞も彼自身がしている。浅草などの舞台で二村らが歌い口コミで知られていたようだ。二村のレコード吹込み時はすでに時雨音羽の歌詞になっている。オリジナルの佐々は後半のサビの「君恋し...」の箇所は残すようにと望み現在もそのようになっている。
 しかしどうも二村が吹き込んだのが最初ということではないようだ。すでに高井ルビーという歌手が1926年にニッポノホン(日本蓄音器商会)から、翌年オリエントレコードから発売している。これは残されている盤ではなんとSP2枚の組で、長いセリフが入っている。
 さらに二村の前に実はもう一人、オペラ歌手で佐々の妻となる木村時子がニッポノホンで吹き込んでいる。ということは、最初は高井ルビー、次が木村時子、そして二村定一となる。みなオペラ歌手だ。その後俳優の佐藤千夜子がビクターから二村の直後に吹き込んでいる。つまり、4人の歌手が共作のように競ってレコードをだしているのだ。
 まだ、蓄音機自身が高級高価商品であった時代だけに、レコードがどのように宣伝され、そしてどれほど売られたかの正確なことは知らないが、この「君恋し」という曲がいかに画期的な曲であったかは伝わる。
 写真は二村定一、佐藤千夜子、木村時子、高井ルビー。

 オペラ歌手と言えば頭をよぎるのは田谷力三だ。昨年の懐かしのメローディーで彼の歌唱映像が流されている。当然田谷も舞台では何度も「君恋し」は歌ったものと察せられる。彼のように名を残した歌手は発声練習と体力の維持は怠ることがなかった。すばらしい堂々とした歌であったともう。
 「宵闇迫れば」と題名を勘違いして覚えていたというフランク永井。リバイバルブームと言うか日本の古くから歌い継がれてきた曲の不朽にも関心が深かったという。そして寺岡真三編曲でレコード大賞を手にした。レコード大賞では現在はカバー曲が選考の対象になることはないのだが、当時はフランク永井のオリジナル曲としてのフレッシュさに、だれもが「カバー」だとは指摘を忘れる?ほどの素晴らしいものだった。フランク永井人気を決定づけた曲として、「有楽町で逢いましょう」とともに「君恋し」が代表曲と言われている。
 後年には藤山一郎はもちろんだが、男女問わず数えられないほどの歌手のカバー曲になった。台湾、朝鮮は今でもガンガンと歌われているとも聞く。ポルトガルやスペイン語版もあるという。
 「ジャズ」風といい、「君恋し」という曲名も洗練されていて、何ともすごい曲を先人たちは残してくれたものである。