2015年5月アーカイブ

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 1998(H10)6月にフランク永井の恩師吉田正が永眠されてからずいぶん経過したが、吉田正の作った曲は衰えを知らない。
 TBS‐BSが吉田正ヒット曲集の番組を流すということでこの5月見てみた。
 「日本名曲アルバム~吉田正ヒット曲特集」という番組名で、吉田正が残したヒット曲を12曲流されたのだが、全曲女性コーラス用にアレンジされたもの。いくつかは島田歌穂がメインを唄うというものであった。コーラスは、Chor Stella。
 放送されたのは、下記のとおり。

  いつでも夢を/恋のメキシカン・ロック/アイビー東京/誰よりも君を愛す/
  有楽町で逢いましょう/あの娘と僕スイム・スイム・スイム/子連れ狼/
  明日は咲こう花咲こう/美しい十代/寒い朝/再会/初恋

 フランク永井の恩師吉田正はいうまでもなくビクター専属作曲家で、昭和歌謡黄金時代のキーマンだ。芸術選奨文部大臣賞、紫綬褒章を受章、勲三等旭日中綬章を受章、日本放送協会放送文化賞受賞、叙・従四位、そして作曲家としては3人目となる国民栄誉賞を受賞。日本音楽著作権協会会長、日本作曲家協会会長を歴任した。
 吉田正は生涯で2400曲とか作曲されているといわれるが、誰もが知るというのは、やはりフランク永井が活躍していた時期と重なる。
 だが、吉田正が1998年に亡くなってから相当経った現在の時点で代表的な曲を選ぶと上記のようなことになるのだろう。シベリア抑留から帰国し、劇的な「異国の丘」のエピソードを経てビクター専属の作曲家となった。初期に親友としてともに歩んだ鶴田浩二の「街のサンドイッチマン」「赤と黒のブルース」などは、この種の番組での選曲ではどうしても後ろにさがざるをえない。
 曽根史郎「僕の東京地図」、三浦洸一「落葉しぐれ」「東京の人」、山田真二「哀愁の街に霧が降る」、和田弘とマヒナスターズ「好きだった」、久保浩「霧の中の少女」、田辺保雄「二人の星をさがそうよ」と吉田正が書き育てた吉田学校の歌手がいるのだが、これらも後ろに隠れる。
 やはり当時若さを前面にだしてつくってヒットしたのが印象深く無難な選曲なのかもしれない。その代表が橋幸夫であり、三田明であり、吉永小百合だ。確かに彼らが歌った曲は青春を同時代できらびやかに飾った。注目の若きスターであり、活気あふれる若者の代表が吉田メロディーを歌ったのだ。彼らに吉田は思いを託したはずだ。
 それに欠かせなかったのはやはり、吉田正がもっとも心血を注いでそだてたフランク永井であり、代表曲の「有楽町で逢いましょう」だ。そしてフランク永井と共に都会の熟女を象徴した松尾和子だ。彼女の代表曲でもある「誰よりも君を愛す」と、落ち込んだときに再起を期した曲でもあり、彼女の長男の不幸からの再起を願う気持ちが重なる「再会」だ。「再会」は松尾が慰問で訪れる刑務所の囚人から異様な人気で歌唱をもとめられるようなこともあり、ここばかりでなく予期せぬ底辺からの支持を得た曲だ。
 フランク永井や松尾和子の歌のターゲットは大人の都会の憩い?の場としてのちょっと上品風にみえる酒場に来る人々。クラブ、キャバレー、ナイトクラブでは客は連れとの話に夢中で、歌をじっくり聞いているわけではない。だが、日本のムード歌謡は生まれ、育ち、完成をみたといえる。最初はBGMであり、絶対に客の話をじゃましない。嫌な気分にさせない。それでいてムードを盛り上げる。無意識に働きかける。だが、人によってはあれっ、いい感じの歌だな、と気が少し動く。
 やがて、注意して聴いてみようとする。すると何気なく歌っているように感じていたものが、決して手抜きやおろそかがないことに気づく。歌詞のひとことも、メロディーの一節も、歌手の歌い方もそれらが計算しつくされて、全力で作り上げられたものがムード歌謡であるのを知る。これが現在でもムード歌謡を同時代で体験した人達に人気を得ているベースにある。フランク永井や松尾和子などは実にそれがわかった巧みなエンターテナーであった。
 吉田正のヒット曲にはどの曲にもさまざまなエピソードを持つが、「寒い朝」も吉田作品の頂点を象徴するものかもしれない。吉田が戦中兵役にとられ、満州からロシアの捕虜となり、語りつくせないはずのさまざまな苦難を経験しながらも、この中身をいっさい公言することがなかった。その思いをすべて吉田は歌に注入した。誰が作った歌かはさきざき忘れる。メロディーだけが残る。そのような曲のなかに、吉田の思いは込められ、残されたのだ。その象徴が「寒い朝」だ。
 吉田正の生涯の遺産はすべて曲に練り込まれている。その魂は「戦争の禍根を断ち切る」ということではなかったのか。無益のかたまりである戦争を、仕掛けたものの邪悪な気持ちにけっしてそそのかされずに、かれらと決して同じレベルでの対応や感情をもたないこと。普通の庶民の素直な気持ちで、すべての怒りと怨念を昇華して音楽に、永遠に歌い継がれるメロディーのなかに忍ばせることをなしとげたのではなかろうか。
 誰にでもできることではないのだが、大作曲家吉田正が生涯貫いた寡黙で行動に込めるこの姿勢を感じるのだ。
 コーラス・ステラと島田歌穂が歌うという吉田正のこうした番組であっても、編曲でより洗練され、吉田の思いをメロディーで未来へ渡すようなこうした試みは、大変意義があったと思った。
 吉田正の生誕地茨城県日立では、吉田正音楽記念館において8月末まで「作曲家吉田正&作詞家佐伯孝夫展」が開催中である。
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 今春にリニューアルしたNHK-BS「新BS日本のうた」だが、5月中旬の放送でスペシャル・ステージにささきいさおと秋川雅史の二人が登場し、そこでフランク永井の特別コーナーが演じられた。
 ささきいさおは代表曲はいうまでもない「宇宙戦艦ヤマト」、秋川雅史は「千の風になって」である。ささきはアニメ・ソングの帝王であるばかりでなく、声優、俳優としても実に幅の広い人気のエンターテナー。
 そのささきは特に近年「あこがれ尊敬する歌手はフランク永井」と公言してはばからない。カバーの歌う機会があれば彼はかならずといっていいほどフランク永井を歌っている。彼のストレートな歌い方はフランク永井のカバーとしては秀逸だ。
 まさか秋川雅史と二人で歌うという組み合わせが見られるとは思わなかった。だが、聴いてみるとなかなかいい。秋川は「夜霧に消えたチャコ」を歌い「俺は淋しいんだ」を二人で歌っているのだが、渡久地政信のこの歌についてはオペラの歌唱をイメージさせるような歌い上げではなく、比較的すなおな歌唱であった。音程、滑舌ともによくたいへんすなおに聴けた。
 ささきは「おまえに」と持ち歌「雪の慕情」を聴かせてくれた。「おまえに」はさすがである。「おまえに」をしっとりと歌い嫌味なく歌えるのは、今は彼の独断場であろう。吉田正が作曲家生活50周年を迎えた1997年に、さまざまな特集がテレビでもくまれたのだが、そのときフランク永井は闘病に苦しんでいたので、当然テレビには出演できない。ささきいさおに「おまえに」を歌ってもらうのはどうか、ということになって、コロンビアのささきに吉田正は直接指導をした。ささきは最後の吉田門下生ということになる。
 さて「雪の慕情」について、彼は番組で語っている。「50周年の記念の曲を作ったが歌う人がいないので、その低音で歌ってくれと託された。吉田先生が最愛の妻について作られた曲、残された最愛の人を想う歌、先生の遺作」であると。特別な思いをこめて歌っているという。作詞は「おまえに」と同じ岩谷時子。
 この「雪の慕情」は「おまえに」とともに、ビクターから発売(2010:VICL-36582)されている。

 吉田正が低音のささきいさおに託したという「雪の慕情」。初めてこの曲を聴いたときに驚いた。「ははぁ、これは...」と。あれからすでに30年を経過して、そのときに生まれたとしても30歳、このような年月を経て、思い入れの深い曲を新たな装いで復活させたのだなと。その価値を有り余るほど持つこの曲に新たな魂を吹き込んで、ささいいさおで復活させてみたい、という強い思いで託したに違いないと。
 知る人ぞ知る、あれからというのは、1965年11月3日、現在はなくなっているのだが、新宿の厚生年金会館で開催されたフランク永井の第2回リサイタルのことである。リサイタルでは当時画期的ともいえるこころみがなされた。三波春夫や二葉百合子らが得意として切り開いた「長編歌謡浪曲」とも、「日本人の日本のミュージカル」とも並べられる「長編歌謡組曲」なるものをフランク永井が挑戦したのである。
 それがそのリサイタルで「慕情」というタイトルで披露された。およそ20分におよぶもので、フランク永井が東京混声合唱団によるコーラスを背景に、ろうろう、せつせつと歌ったのである。情感豊かに、あざやかに情景を歌い上げたフランク永井に喝采は惜しみなく終えることがなかった。フランク永井がただの流行歌手ではないことを誰もが思い知ったのだった。絶賛されて話題となり第20回芸術祭「大衆芸能奨励賞」を得ている。
 岩谷時子の歌詞を追うと、好きだった恋人がいただ結びつくことなく別れ何年か経つ。寒い雪が降る夜に、忘れ得ぬそのときの恋人がデパートで買い物をしている。おもちゃ売り場で人形をかっているのを見てしまう。声もかけられない。しんしんと雪だけが降り積もる...という男のせつない情景だ。
 この大作は第2回リサイタルのLPで発売された。その曲はシングル化されることが困難ということもあるが、10巻LP大全集に収められ、CDでは作曲家生活50周年記念の吉田正大全集に入った。2013年にMEG-CDでリサイタルLP2枚組が復刻発売(2013:MSCL-60224)されので楽しむことができる。
 そう、ささきいさおに託した「雪の慕情」はまさにこのフランク永井の「慕情」で、これを通常のシングル曲である3分版に組み直して、若干の歌詞の変更を加えて、オリジナルの新曲としたものなのだ。もちろん、そのような過去をもつ曲であったとしても、ささきのオリジナル曲としての輝きにかわりはない。むしろこのような形で装いを変えて歌われ続けることにこそ、大いなる意義と価値を感じるものである。

 1997 岩谷時子作詞、吉田正作曲 「雪の慕情」
  雪がふる 雪がふる 音もなく  しんしんしんと ふリつもる  君の白い 衿あしのように
  追いつめられた 旅路の闇に  恋の涙の 凍った雪が  しんとふる 雪がふる 僕のこころに
  しんしんしんと ふリつもる

  雪がふる 雪がふる 音もなく  しんしんしんと ふリつもる  君のせつない ほほえみ映して
  山の出湯の ガラスの窓は  北の吹雪が描(か)く色様様  しんとふる 雪がふる 吐息ように
  しんしんしんと ふリつもる

  君の淋しい 後れ毛に誓う  つめたい道も灯(ともしび)だいて  想い遂げよう 恋に生きよう
  しんとふる 雪がふる 二人の夢に  しんしんしんと ふリつもる

 1966 岩谷時子作詞、吉田正作曲 「慕情」
  今日もふる 雪がふる音もなく  しんしんしんと ふりつもる  意の白い衿あしのように
  君のつめたい額のように  恋の涙の凍った雪が  今日もふる 雪がふる
  僕のこころに しんしんしんとふりつもる

  君も覚えているだろう  初めて逢った日のことを  芝居のはねた あの夜も
  しんしんしんとふっていた  通る車も傘もなく  暗い曹ぞら見あげてた  心細けな君だった

  黙って傘をさしかけた  僕を見あげるその頬が  うすくれないに染まるのを
  まぶしく見つめた僕だった  夜更けLでかな地下鉄へ  ほっそり消えた その肩が
  雪のしずくで濡れていた

  有難うと一と言  気をつけてと一と言  初めてかわした見それだけで  惹かれてしまった心と心
  恋と呼ぶには はかなくて  愛と呼ぶのは おそろしい  だけど心の奥深く眠る泉を
  かさたてるほっそり優しい女人(ひと)だった

  あの夜一僕は夢を見た  君をこの手に抱きしめて  その黒髪に 衿あしに
  白くふるえる 瞼の上に  あついくちづけした夢を  あついくちづけした事を

  とおい花火も きいたっけ  夏にひらいた この恋に  ほほえむ君の かわいさを
  知るのは僕と 星だけさ

  落葉の秋はさびしいと  くちつけかわした星の夜  空に近いホテルのスカイラウンジで
  旅をしようと云ったとき  あのチエプルの暗い灯かけに  こぼした涙のそのわけを
  どうして僕が知るだろう

  僕は忘れない 僕は忘れない  狂ったようなギターの音が  街にながれる 日曜日
  僕は見てしまった  あのデパートの 玩具売場で  人形を買っている君の姿を
  僕が愛したその指に  まつわりついてた可愛いい子  みつめる母のほほえみを

  なぜ なぜ  君は僕を愛した  僕は君を愛した  僕のなかから僕だけの
  君のおんなが生れたと  信じた僕が馬鹿なのか  この唇がふれるとき
  この手の中で こわれてしまう  ちいさな頬を 思えば今も  涙が涙が あふれてくる
  いまは帰らぬ恋なのに  こんなに君を愛しいと  どうして僕は思うのか............

  さようならの一と言も  さようならの一と言も
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 今年の3月13日(金)の夕刻に、CS-歌謡ポップスチャンネルで「煌く日本の歌手~わが心の演歌~#10フランク永井篇」が放送された。この番組はその環境がないと視聴できないので、残念ながらそのときには観ることができなかったのだが、熱心なフランク永井ファンの方でいつも有益なホット情報を寄せてくださるRさんが貴重な録画を見せてくださった。
 フランク永井の舞台での映像を期待していたのに情景イメージ映像を背景に曲がながれるだけ、と悔しがる声もあったのだが、どうもこの番組は往年の大スター美空ひばり、北島三郎、藤山一郎、藤圭子、村田英雄、石原裕次郎、島倉千代子、三橋美智也、ちあきなおみ、フランク永井、西田佐知子、春日八郎の12名について、同様の形式で紹介しているようである。
 今月もまだ続いているようなので、環境のととのっている方はご覧になっていると思う。
 フランク永井については、ちょうど春で桜の花いっぱいの大阪を中心に、みどころの観光地映像が歌にのって、つぎつぎと紹介された。

 こいさんのラブ・コール/有楽町で逢いましょう/夜霧に消えたチャコ
 君恋し/大阪ぐらし/大阪ろまん/おまえに

 この7曲、初期のレコードを聴くことができた。例えば有名な代表曲である「有楽町で逢いましょう」は、1957年のモノラル版リリースだが、ステレオ化の時代となり1962年に吉田正自らの編曲でステレオ版がでている。この版を用いることが多いのだが、流れたのは初期の佐野鋤編曲版である。
 ちなにみ「おまえに」の場合は、初期の録音は1966年「大阪ろまん」のB面である。その後、1972年にA面で再録音してリリースしており、さらに1977年と3回出している。1回目とその後では歌い方を変えた部分がある。この「おまえに」は、テレビ・ラジオで流れるのは基本的に最後の1977年のものだ。3回目のメロディーというか歌がフランク永井の「おまえに」として定着している。
 これは別項で紹介した春発売のCD「もっとフランク!」は、初期リリース盤にこだわって編成された収録曲だが、ここでも「おまえに」だけは1977年版が用いられている。
 番組の話に戻るが、ナレーションなどの音声はなく、フランク永井については略歴を3枚の静止画文字画像で紹介している。
 全編ヒット曲を順に流している。フランク永井の歌については、歌に集中して聴くというのではなく、BGMのように何かをしながら、聴くでもなく勝手に裏で流れているという「聴き方」が似合っていて、ひとつの有効なあり方と思っている。その意味ではそれなりにこの構成はありかなと。
 このシリーズで取り上げられているという歌手では、北島三郎、ちあきなおみ、西田佐知子を除いて皆亡くなっているが、フランク永井についてもすでに舞台を降りてから30年経過してもなおかつこうした番組がつくられるのは、それだけに同時代を過ごしてきた人々に深い印象を残したものだと感じる。先日由紀さおりが言ったことだと、武田鉄也が紹介していたが「昭和の歌謡曲をなめるんじゃない! 当時は作詞家、作曲家、そして編曲家、歌手が命をこめてつくっていたのだ...」が、思い起こさせる。
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 デビュー直後の時期にフランク永井にすぐれた作詞を多く提供した宮川哲夫(1922-1974)。昭和の時代と深く重なる彼の魅力的な詩の背景の全貌を「オールヒット!宮川哲夫~昭和の街角を歌で綴る展」が、4月18日から6月28日までの期間で開かれている。この連休にもまだ間に合うので、ご興味がある方はぜひ訪ねてみてほしい。
 フランク永井は「有楽町で逢いましょう」で名前が全国的に知れ渡り、それをきっかけにしてデビュー以来のレコードが再注目される形で売れていったのだが、多くの作詞を提供した佐伯孝夫とともに優れた詞をつくっているのが宮川哲夫だ。ジャズから流行歌への転向第1曲目の「場末のペット吹き」をはじめとして、およそ60曲を書いている。以下のようなフランク永井の代表曲の詞を提供している。

  場末のペット吹き/花売り娘とギター弾き/羽田発7時50分/夜霧の第二国道/
  公園の手品師/初恋の山/夜霧に消えたチャコ/俺は流れ星/国道18 号線

 宮川はフランク永井以外に鶴田浩二に「街のサンドイッチマン」赤と黒のブルース」、宮城まり子「ガード下の靴磨き」、渡辺マリ「東京ドドンパ娘」、三田明「美しい十代」、橋幸夫「霧氷」と誰もが知っている歌を提供している。
 展示のパンフレットには次のような紹介がある。
 【昭和28年、繁華街でおどけてみせるサンドイッチマンの哀しみを歌った「街のサンドイッチマン」で、初のヒットを得た作詞家・宮川哲夫。彼の人生は「詩」とともにありました。1C代で詩と出会い、12歳で母親が死去。悲しみに暮れる中、宮川は次第に文学の世界に没頭していきました。
 師範学校を卒業し、地元・大島で教師生活をはじめますが、戦前から戦後へと大きく価値観が変容するこの時代、揺れ動く宮川の心を支えていたのは詩作への情熱でした。
 そして昭和25年、詩作で生きていくことを目指し上京。彼が選んだのはレコード作詞家としての道でした。都市の片隅で生きる人々の悲哀や貧しさをうたった彼の詞は、鶴田浩二や宮城まり子の歌声にのり大ヒット。宮川は専属作詞家となり、夢を叶えましたが、その後の華々しい活躍の影には、ヒットメーカーとしての重圧と苦悩がありました。
 〝歌は世につれ世は歌につれ〟-本展は、時代を色濃く映し出す昭和歌謡の中で、宮川が遺した数々の作品を取り上げる初の展覧会です。「詩」とともに生き、最後まで愚直に作詞を続けた宮川が詞に込めた想いを、ぜひご覧下さい】
 今回の展示は「初の展覧会」とあるように、ビクターをはじめ現役の歌手、フランク永井や宮川の遺族、そして宮城県松山のフランク永井展示室、吉田正音楽記念館など多くの関係者、団体が全面的な協力のもとに開催されている。
 写真や、当時の手書きの原稿や、レコード、ジャケット、ポスターがふんだんに展示されているので宮川の奥深さを堪能できる。
 また、関連イベントがいくつも開かれるので見逃せない。宮川三女浅見洋子さんによる「父・宮川哲夫を語る」は申し込んでみたのだが、残念ながらすでに満席で聴けないのが心残りだ。この催しについてはぜひとも何らかの形で残し、公表されてくださることを期待するところである。

 宮川はフランク永井のリサイタルのときに、下記のようなコメントを書いているので紹介したい。
 【「場末のペット吹き」に始まって、「夜霧の第二国道」「羽田発7時50分」[夜霧に消えたチャコ」と、どちらかといえば、暗く重たい私の詞の欠点を、いつもカバーして唄ってくれたのが、フランクさんの甘くソフトな低音でした。
 人気絶頂にいるときも、大歌手として大成された現在も、いつも変わらずニコニコと、その顔から明るい笑いを消さないフランクさんを見るたびに、私は「偉いナ」と思い「立派だナ」と思います。
 ここまで書いてきて、ふと気が付きました。デビュー以来何年になるでしょう? 「誰からも愛される」フランクさんが「誰からも尊敬される」フランクさんにかわっていたのです。「君恋し」「霧子のタンゴ」、その他最近の数々のヒットソングの中から、私の名前は消えてしまいました。明日でもいい、明後日でもいい、せめてひとつでもいい、フランクさんに心から喜んで唄っていただけるものを作詞したい。そうして多年のご交誼に酬いたい。今日、そんな気持ちがしきりです】