2015年3月アーカイブ

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 1964(S39)は東京オリンピックの開かれた年だ。音楽業界がモノラルの時代から急速にステレオに切り替わっていく。フランク永井の人気は高まり、LPレコードも1968年に第1集が発売されたモノラル盤の「魅惑の低音」シリーズも第14集をだしたのを最後に、その翌月に「ステレオ・ハイライト」第1集がでて、ステレオ・シリーズに切り替えていった。
 すでに1962年には「有楽町で逢いましょう」「夜霧の第二国道」などそれまでのモノラルのヒット曲はステレオで吹き込みなおして「ステレオ・魅惑の低音傑作集」(SLV-13)として発売している。「ステレオ・ハイライト」シリーズは、ビクターの人気歌手であったフランク永井を先頭に、橋幸夫、三田明、松尾和子、三沢あけみ、いしだあゆみ等々のタイトルで一斉に発売された。
 フランク永井の「ステレオ・ハイライト」シリーズは1962年から第6集の1966年まで続いた。この頃になるとLPはその歌手のヒット曲を中心にして新曲の訴求も進めるということか、その歌手の得意とするさまざまなジャンルにターゲットをあてた曲を寄せたものになっていく。
 各盤には12曲(なぜか14集だけ10曲)収録されている。第1集(最初のものはタイトルは単に「ステレオ・ハイライト」で、第1集と便宜的に筆者が呼んでいるもの)はヒット曲集でまとめられているが、第2集からはかならずその盤に3、4曲シングル盤で発売してない新曲を入れてある。聴いていてこれが楽しみでもあり、今ではレア曲でのあるため大変興味深い。
 全シリーズで17曲ある。モノラルの「魅惑の低音」シリーズでも同じ方式がとられていて、44曲もはいっている。少し違うかもしれないが後に「ボーナス・トラック」としてありがたいモッケ!みたいな「お買い得」感があった。
 当時はビクターはNIVICO JVCブランド(権利制限でビクター名を海外で使用できなかったことから)で日本人が多いハワイやブラジルなどや、海外扱いであった沖縄などに輸出する都合で、まことに安便なはなしだが、タイトルは英語名(文字)とか歌はローマ字での表記がされている(輸出時は単にNIVICO JVCのラベルをビクターロゴの上に貼るとかだけ)。
 Frank Nagai Stereo Highlights、FRANK NAGAI STEREO HIGH-LIGHT のように統一性はない。曲名のローマ字も、ペラジャケの表に日本語と表示がデザインに埋められていたり、裏面に併記されていたりだ。
 別にあげあしをとる気もないが、シリーズであっても不統一というのは曲の時間の表記ありとなしもある。多忙中(この時代LP7枚、シングル35曲程度を年間だしていた)というのが良くわかるのはジャケット写真だ。ひげも剃っていないのが良くわかる写真が使われている。地方の巡業に出ていてひとまず家に帰ろうと思いきや、駅に担当者が待っていてそのままスタジオへ連れていかれてレコーディングしたり、写真撮影ということがあったのだという。
 フランク永井自身はそうしたことが気持ちとして嫌だったようだ。よほど余裕が持てなくて妥協したものと思える。
 公演でときどき共にしたキングの先輩である春日八郎を尊敬していたという。春日はプロの歌手としての意識をたいへん重要視し、絶対にお客様にはだらしない姿を見せてはならないという信念を貫いていた。髪の手入れはもちろん、舞台での服装、靴を隙なく点検し、舞台での姿勢を研究していてそれを絶対にくずさなかった。それが最後まで魅力的な「鋼鉄の歌声」を聴かせる背後の芯だったに違いない。
 「ステレオ・ハイライト」シリーズについてのCD化はまだ実現していない。ビクターからは正式に実現したのはいしだあゆみで20曲程度セレクトされたもののようだ。橋幸夫のはMEG-CDから第1集にあたる盤が復刻されている。

 ステレオ・ハイライトシリーズで、それ以前のフルンク永井のモノラルでのヒット曲はステレオで復活された。だが、ステレオ・ハイライトにステレオ盤のヒット曲が全部収録されたのかというと違う。先に紹介した「ステレオ・魅惑の低音傑作集」(1962:SLV-13)だけに収められた「こいさんのラブ・コール」「羽田発7時50分」「俺は淋しいんだ」「東京午前三時」の4曲を含めると揃う。
 これですべてモノラル盤のヒット曲がステレオになったのだろうかというと、実は「西銀座駅前」(1958:V-41791)が入っていないのだ。西銀座駅前だけなぜかモノラル盤しか残っていない。ゆえに、数多くその後ベスト盤が発売されているが、西銀座駅前だけは音源がモノラルである。
 ステレオ化されるときに「夜霧の第二国道」「有楽町で逢いましょう」「東京カチート」などは編曲者が作曲者の吉田正に変わった。「東京カチート」はバック・コーラスが男性グループから女性グループに変わった。

 「ステレオ・ハイライトシリーズ」は先行した「魅惑の低音」シリーズついで、フランク永井の初期ヒット曲を聴くうえで大切なものだ。この後、LPの基本的な編成がリバイバルを加えたり、カバーを加えたり、ライブとか特集で焦点をしぼったものとか幅が広くなっていく。歌手の魅力を深めていくのである。
 昭和歌謡の遺産のデジタル復刻がすすんでいるが、ぜひともこのシリーズの復刻もテーマにあげてほしいと思っている。

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 MEG-CD(ミュージックグリッド社)から3月18日に、フランク永井の絶版シングル盤がCDで9点復刻され発売された。
 フランク永井のものは、2009年から数次にわたって復刻が取り組まれてきている。昨年の秋口につづいてこの3月の復刻となった。今年これからもまだ何枚か発売される予定である。
 今回の9点は、下記のとおりである。

●水のように(1965:SV-323)MSCL-11955
●勇者のみ(1965:JET-1509)MSCL-11953
●ひとりぼっち(1966:SV-352)MSCL-11956
●今宵だけのパートナー(1966:SV-459)MSCL-11966
●想い出の他国町(1966:SV-497)MSCL-11967
●疲れた別れ(1968:SV-733)MSCL-11978
●東京ワルツ(1968:SV-753)MSCL-11979
●涙への旅立ち(1973:SV-247)MSCL-12421
●振りむいてはいけない(1978:SV-6461)MSCL-12428

 「水のように」は関西テレビドラマ「水のように」の主題歌である。浪花千栄子のセリフが入っている。
 「勇者のみ(None But The Brave)」はリプリーズ・レコードのレーベル。フランクシナトラが作った日米共同映画の主題歌である。シナトラがこの映画の日本語の主題歌を歌うにふさわしい歌手を探していて、紹介で浮上したのがフランク永井。シナトラはフランク永井の歌に聞き入ってぞっこん。英語版までフランク永井が歌ったというエピソード付きの歌。
 「今宵だけのパートナー」は田代美代子とのデュエット。フランク永井は松尾和子とのデュエットで広く知られているように、デュエットには特別の雰囲気を出している。猪俣公章の曲にあわせて、印象に残る歌唱を残している。

 フランク永井はアナログ・レコードの時代の歌手である故に、シングル盤は基本的にCDはない。現在多く再生されているヒット曲は後にデジタル化されアルバムで発売されたもののよる。シングル盤の多くは現在MEG-CDから復刻リリースされていて、およそ170枚程度に及ぶ。
 フランク永井が残したシングル盤の枚数はおよそ250枚、曲にして360曲なので、その半数以上が復刻されたことになる。もちろん、フランク永井の歌った歌がすべてよかったとわけではないが、昭和の歌謡界を飾った大歌手の忘れてはならない記録として全ての盤の復刻を願っているものである。
 それには、ファンの熱意が必要であり、また美品で残されたレコードが資料として求められる。
 当時は結果的にそんなにヒットしなかったという曲でも、改めて耳にするとたいへんフレッシュであり、いい味がでていることに気付く。
 MEG-CDのシングル盤は1000円+税で、MEG-CDと契約しているレコード店の店頭で申し込み、その場で作られて購入できるのがウリ。ご興味のあるかたは、ぜひとも足を運んでみてほしいと思う。

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 本日は東日本大震災・福島原発事故からちょうど4年。いまだその災害からの復興は見えていない。だが明るいニュースもある。この日にそれをご紹介したい。

 フランク永井の名を冠したユニークな催し「フランク永井歌コンクール」を毎年開催してきた、その主体組織である「フランク永井歌コンクール実行委員会」(高橋澄夫委員長・畑中敏亮副委員長)が、年頭の大崎市新年祝賀会式典において第7回「宝の都・活性化貢献賞」を受賞した。
 「フランク永井歌コンクール」は今年も秋の10月18日(第3日曜日)に第7回が開催される。東日本大震災があった年は1年順延されたが、毎年きちんと開催され、回をかさねるごとに盛況をきたしていることを紹介してきた。地域の生んだ歌手フランク永井を誇りに思い、残した歌を歌うことで受け継いでいこうという意思が形になって成長してきた。
 デビューから数えて60年、永眠してから7回忌を迎えた時期に、その残した偉大な功績をたたえて、生涯所属していたビクターから名誉ある「特別功労賞」が贈られたことは前回紹介した。「フランク永井歌コンクール実行委員会」への「宝の都・活性化貢献賞」受賞はこれと一体の誇るべきできごとといえる。こころから声援と拍手を送りたい。

 フランク永井が全国的に昭和歌謡の横綱級の偉人として名が知れ、現在の多くのファンに歌が愛されている。それが今、生誕の地である宮城県大崎市松山で、当然のように「歌コンクール」として成功をおさめているが、ここに到るまでには語り尽くせない地道な取り組みがあった。そのような取り組みの努力が背景にあって、開催には数日にわたって地域から100余名のボランティアが参加、一致協力してすすめるということが実現している。
 こうした取り組みが地域の活性化に寄与していることは間違いない。これが大崎市からきちんと評価されこのたびの「宝の都・活性化貢献賞」につながったものである。
 大崎市の観光地にもなっている酒ミュージアムと大崎市松山ふるさと歴史館(松山公民館・石山館長)内に「フランク永井常設展示室」がある。ここに「宝の都・活性化貢献賞」のトロフィーと「特別功労賞」の楯が展示され、訪ねればいつでもみることができる。また、先に建立された「おまえに」歌碑がたたずんでいる。

 このたび「宝の都・活性化貢献賞」受賞にあたり、私が実行委員会事務局長をされていた小野寺さん(自在窯&ギャラリー)にインタビューする機会があって、今日に至るまでのいきさつを知ったので紹介してみたい。

 地元が生んだ偉大なフランク永井が、松山においてふさわしい形に乏しいと感じていた。特別に記念として見るものもなく、ここを訪ねてくる者がいても恐らくそれを知ることもできないのではないかと。銘酒「一ノ蔵」を知る者でも、ここがフランク永井の生まれたところとは訪ね来るひとは知らない。
 こうした中で、フランク永井が残した歌を歌い継ぎ、フランク永井の残した功績を目で見える形で残し、それを地域の活動に定着することで、ここに住む者のこころの結びつきを深めていこう、それこそがほんとうの生きた町おこしでなないだろうか。そのように思いたち、積極的な活動をはじめる動きにつながったのではないだろうか。
 市町村合併が全国的に話題にのぼっていた2006年、古川市、遠田郡田尻町、志田郡三本木町、松山町、鹿島台町、玉造郡岩出山町、鳴子町の1市6町が大崎市に成長した。伊達の領地になる前にこの地で権勢を誇った大崎家の名にちなんで大崎市が誕生した。この機に、松山の町おこしをしようと、フランク永井の名をふたたびよみがえらせる動きをはじめた。
 カラオケなどでフランク永井の歌を親しんでいた方々が中心になって、これを町おこしの一つのプロジェクトとして推し進めようと、具体的な計画書を作成して市に提案していった。「ヤル気のある地域へは交付金を出す」という市の第1回チャレンジ交付金にプレゼンテーションを行った。みごと審査を通過、50万円の交付金を得ることができた。こうして第1回の「フランク永井歌コンクール」が開催された。予想を超える成功と反響を得ることができた。交付金は「フランク永井歌コンクール」の貴重な原資となった。フランク永井自身も自分の故郷での第1回歌コンの成功をこころから祝福してくれた。

 松山でフランク永井の人となりを知り、かつて共に遊びまわったという方々もまだまだ健在であった。こうした方々から、当時のことを語ってもらおうと言うこともふくめ、この地で記念館を作りたいと役場や教育委員会などへ働きかけていった。
 松山公民館には松山の歴史を知ることができる記念物はあるが、フランク永井のものはない。そうしたなかで、東京に健在の実姉の永井美根子さん(フランク永井のリハビリを一手に行い最期を看取られた)がフランク永井のレコードや衣装や賞、トロフィーなどの貴重な品々を提供したフランク永井企画展が公民館で開催されることになった。全国から聴きつけたファンが松山を訪れた。
 このときに、フランク永井の訃報がとびこんできた。話題を盛り上げようとしていた矢先の悲報に、地域の有志は行動で応えようとした。2008年11月30日「フランク永井偲ぶ会」を開催、フランク永井に哀悼の意をささげた。伊藤市長は大崎市民を代表してお別れの言葉を述べた。フランク永井常設展示室はこのときの取り組みが背景で、松山ふるさと歴史館の一階の展示室に開かれることになった。
 歌コンは「市のお金を使うのだから1回や2回で止めては駄目だ」という声が他の地域の市会議員などからあがってもいた。「フランク永井を好きな人たちだけでやっている」んじゃないのとか、ちょっと距離をおくような意見も聞いた。それなら松山は誰もがうなずくような歌コンに育てようではないか、と決意をますます固めていった。合併時は一番小さな町でも、ここまでできるのだという意気込みを強めていった。

 いままで松山でフランク永井の残した功績にふさわしい形が実現していなかったのには、いくつか理由もあった。
 それはフランク永井が「有楽町で逢いましょう」を歌っていちやく全国的な人気歌手になり、宮城県にも来てショーを開いた。フランク永井と親しかった人達が出向き歓迎とお祝いの面会を求めた。先に約束もしていなかったこともあり、本人も知らぬ間に、興業をつかさどるひとたちとは、けんもほろろに対応し突きかえしてしまったということがあった。
 これには「おらがフランク永井」と意気込む若者からしてみると「とんでもないはなもちならないヤツになってしまって」と怒ってしまう結果になった。「オマエのことなんか今後いっさい応援なんかしないゾ」と。
 その後フランク永井は事態を知って驚いた。そんな意思はないしと思っても時遅しで、妙な誤解とわだかまりができてしまったようだ。事務所の意向もありフランク永井自身も出身地を「東北」「仙台」とか表現し、松山とは明言しないこともあり「何だ、松山はド田舎だから隠すのか」といわれることもあった。
 このような、当時の出世者の周囲ではよくあるようなエピソードがフランク永井にもあったのだ。だが、フランク永井の性格や心情については、その後誰もが知るように、わだかまりもない。そればかりか、実際にその後、歌コンの開かれている体育館で凱旋コンサートまで開いている。当時の誤解といきおいでのゆきすぎが、今のフランク永井を称えることの障害にはならない。
 歌コンの実行委員会はこの姿勢をつらぬき、実際の行動を積み重ねる中で、わだかまりのような気持ちの残りを取り払っていったのだ。そして現在どこにも誇れるような、町の一致した支援を得るまでになった。

 東日本大震災で松山も大きな被害を受け、歌コンの会場になっている体育館も補修が必要でこの年の開催を順延した。これも実行委員会には大きな団結のきっかけになった。このような災害が起こったときほど、地元地域の信頼と連携の大切さが試される。
 フランク永井常設展示室を開いたことや、歌コンを成功させてきたことの過程で得たむすびつきの強さが復興への力となり、ここを訪れた全国の人々とのこころのつながりが大きな支えにもなった。
 2013年のフランク永井の命日には地元が根気よく蓄えてきた基金で「おまえに」歌碑を建てた。フランク永井展示室の入り口に建っている。これは松山に住む者がフランク永井の残したものを、どこまでも末永く記憶にとどめておくという決意の結晶といえる。
 フランク永井歌コンクールは「唄う人、聴く人、支える人」と、多くの方々の温かいご支援やご協力で開催している大崎市松山の地域事業です。「宝の都・活性化貢献賞」受賞は、その活動の一角で動いてきたことをしっかりと認めてきたことの証だ。それだけに、感激ひとしおだ。そのように小野寺さんは感慨を話された。

 フランク永井常設展示室をおとずれ、あるいはフランク永井歌コンクールに参加するため、全国から訪ねてくる方々が、いちように感じるのは「松山の心づかい」と「松山の一丸となった情熱」だ。多くの方々がぜひ松山を訪れて、これを実感してほしい。受賞をこころからお祝いします。

 受賞したトロフィーは先に紹介したビクターからフランク永井に送られた「特別功労賞」とともに、フランク永井常設展示室に飾られている。訪れた際にはぜひとも、紹介したような松山の思いを受けとめながらご覧いただければと思う。

写真は、左から昨年の歌コンクールのポスター、受賞トロフィー、展示室オープン、「おまえに」歌碑。

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