2015年2月アーカイブ

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 【特別功労賞 フランク永井殿 あなたは永きに渡りビクター専属歌手として我々の心に残るヒット曲を多数歌唱され、当社の業績に多大なる貢献をされました。そして今もなお、あなたの歌は音楽ファンから多くの支持を受け、歌謡史に燦然と輝いております。よってその栄誉をたたえ、7回忌を迎えるにあたり改めて感謝の証としてここに表彰します。平成26年10月27日 株式会社JVCケンウッド・ビクターエンターテインメント 代表取締役社長 斉藤正明】

 このような内容の特別功労賞が、昨年7回忌を迎えた日にビクターからフランク永井に贈られていることを最近知らされた。舞台からおりて早や30年も経つのに、残した業績をたたえて、デビュー60周年、7回忌の記念すべきときに、このような賞をさずけるビクターに対してもたたえざるを得ない。フランク永井もビクターも立派にこのようなことをされた。

 また、同時にフランク永井ファンにとってはこれまたうれしいニュースがある。ちょっと大きな規模だが、新たにCD-BOX「フランク永井の世界」が発売される。発売元はユーキャン(TEL:03-3378-0770)である。
 著名なエンターテナーの「...世界」シリーズの一環の豪華ボックスである。CD7枚組で、歌詞集の他にフルカラーの観賞アルバムとして、徳光和夫、野沢あぐむ、村松友視、北村英治、大村崑の寄稿やメッセージがあるほか、恩師吉田正がかつてフランク永井について綴った手記や、年譜、フランク永井歌コンクール、松山の展示室、NHK紅白歌合戦記録などが懐かしい写真、レコードジャケットなどとともに掲載されている。
 CD7枚の収録曲だが、フランク永井のヒット曲はすでに皆紹介されて真新しいのがないのではと従来いわれていたうわさと異なる、今回新発売の数曲と初めてデジタル化された曲も含んだ編成になっている。
 ファンも驚く初めての曲というのは、
  「東京ラブナイト」「上海帰りのリル」「紅屋の娘」「矢車草の唄」「そして...めぐり逢い」
  「恋さぐり夢さぐり」「意気地なし」「恋の旅路の果てなのか」「お嫁においで」
の9つ。さらに、洋楽カバーで
  「哀しみの愛の日々」
で、計10曲である。これだけで、このCD-BOXの値打ちがあろうというもので、いかに企画と制作のスタッフの意気込みが伝わる作品となっている。

 巻1はフランク永井のヒット曲のトップ18なのだが、基本的に初出のモノラル盤のあとで再吹込みされたステレオ版が収録(「西銀座駅前」だけがモノラル)。
 巻2は「君恋し」を中心に日本の名曲のカバー集。ここにはフランク永井が尊敬する先輩として敬っていた春日八郎の「別れの一本杉」が収められた。曲自身は20周年記念のLP10巻全集で収録した作品だが、このたびデジタル化で初CD化されたものである。
 巻3~5は「東京ナイト・クラブ」や「船場ごころ」「大阪ジェニー」などのドラマ主題歌を含めているが、主に歌謡曲のカバーで構成されている。カバーは昨年暮れに「ザ・カバーズ」で好評をはくしているが、三分の二は異なる曲が選ばれていて新鮮である。
 巻6と7は洋楽のカバー集。ここでは漣健児超訳の「おろかな心」「悲恋のワルツ」が聴けるほかに、フランク永井が歌ったハワイアン曲「タイニー・バブルス」「真珠貝の歌」が新たにCD化された。前者はシングル盤で後者はコンパクトWでリリースされていた珍しい盤である。
 フランク永井はオリジナル曲で魅了してきたのは当然だが、その特別な歌唱力は当然カバー曲でも独特でユニークな味わいをもっている。ド演歌でもハワイアンでも、古くからの日本歌でもなんでもこなしてしまう。聴いていてソツガながいために、押しつけがましいところがない。
 また、ジャズ風なアドリブというか自由にノリを使い分けて歌っている。今回のBOXに入れられた「上海帰りのリル」などの一連の新曲はジャズのノリだ。この名曲は多くの人がカバーしているが、共通して渡久地政信の意図して成功した津村謙の歌って出した雰囲気を踏襲している。しかしフランク永井の「上海帰りのリル」は一味違う。

(敬称略で失礼します。吉田正の「吉」の正式表記は「土」に「口」、徳光和夫の「徳」の正式表記は「心」の上に「一」、村松友視の「視」の正式表記は「示」に「見」です)

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 当「フランク永井あれこれ」にたいへん貴重で珍しい情報をたびたび提供してくださるJさんから、この度また新たな資料を寄せていただいた。ありがとうございました。それは真ん中の写真だ。1957:V-41686-哀愁ギターのSP盤面写真なのだが、ここにフランク永井の自筆サインがしてあるものなのだ。
 フランク永井のサインはファンの間では、主に色紙やブロマイドなどで貴重品として保存されているのだが、盤面にというのは大変珍しいと思うので、ここに紹介したい。
 サインだから当然さまざまなところにされて残されているのだが、盤のジャケットに書かれたケースも見受ける。「おまえに」の1977年の3回目の吹込みによる盤、1985年の「30周年記念ライブ」とかは有名。金色のマジックで書かれている。
 当時、盤にサインというのは珍しいと思う。コロンビアA-822-「あわきあこがれ(藤山一郎)」(B面は笠木シズ子の「買物ブギー」)の盤面に、藤山一郎のサインがあったのを覚えている。色が付いていなく、ハリの様なもので刻印してあって、最初は何かのキズかと思っていたのだが、後日別の盤をみたら、同様に彫ったサインがあった。
 まさか売り出したレコード全部にしたものとは思えないので、キャンペーンか何かで特定の数量でサインしたものと思える。
 そこで、フランク永井の盤面のサインだが、私の所有する「哀愁ギター」はSP盤2枚あるが、写真のごとくいずれにもサインは書かれていない。きっと個別に書いたものと思う。
 サインをよく見てみると、後年に使用したサインのフォームとやや異なっているのに気付く。手元にこのレコードと同じ年に発売された「東京午前三時」のキャンペーンで書いたと思えるサイン色紙があるので、比較してみるとやはり、デビュー当時のサインで同じフォームであった。
 後年の見慣れたサインというのは、1982年山下達郎とのタッグで作った「WOMAN」のときのサインである。書出しの「ふ...」の箇所が大きく異なり、後年のほうが洗練された筆の流れのように感じる。

 フランク永井の「サイン入りレコード」ジャケットについては、2010年10月27日、フランク永井三回忌のときに記していますが、ここに再録しておく。

 復活をきたいされつつも、フランク永井が亡くなったってから来る10月27日で3年になる。あちらで満足の時をおくっておられることと思う。 
 さて、フランク永井のサインなどフランク永井の筆跡について触れてみたい。レコードの写真などをながめてみていると、いくつかサイン入りのものがある。親しい人へ、あるいは公演のあいまにファンにサインをしたりしたものもあるのかもしれない(A種)。しかし、最初からサインをジャケットのデザインに取り込んでしまっている(B種)のもありそうだ。 
 写真では「魅惑の低音第1集」の裏面、第4集はB種のようだ。サイン入りのジャケットでよろこんでいたこれらはどうも印刷のようだ。他のジャケットは自筆でジャケットに書かれたものだ。 
 他にも多くあるのかと思うが、ここに取り上げたのは8種類。 
 1958:LV-6「魅惑の低音」(第1集) 
 1959:LV-87 「魅惑の低音第4集」 
 1964:SJV-64 「at RO-ON」(第1集) 
 1966:JV-222~223 「魅惑の低音~ベスト・ヒット」 
 1961:VS-513 「東京無情」 
 1971:SV-2152 「おもかげ」 
 1977:SV-6190 「おまえに」(3回目の吹込み盤) 
 1985:SV-7470 「六本木ワルツ」 

 気に入っているのは自分が持っているのとはやや異なるのだが写真の色紙サインだ。色紙は当然だが自筆である。サインの字をよくみると、ふらんく永井と書いている。フランクとかFrankでもないのがよく、わかりやすい。 
 もうひとつは、1990(S55)年9月の日付入りのメッセージだ。これはこのときに発売された「恋はお洒落に」(B面:「恋遍歴」)のレコードに添付されたものと思える。私が入手したのはまったくことなるレコードについていたので、はっきりしたことは解らない。書きなれた筆運びで、読みやすい文字をきっちりと書いている。 
 この年はこのシングルレコード1枚だけのリリースであった。

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 「有楽町で逢いましょう」といえばフランク永井がデビュー2年後の1957(S32)年に大ヒットを得た不朽の名作だが、これは関西から東京へ進出してきたそごうデパート開店の宣伝をするための歌であった、というのはファンなら皆知っている。
 ビクター専属の作詞家佐伯孝夫が当時上映していた映画「ラスベガスで逢いましょう」というのにヒントをえて、キャッチフレーズを思いつき、それに吉田正の作曲をあてて作った歌。テレビ放送が開始された時期で、そのタイミングで連携を提案、同名の番組が作られた。雑誌「平凡」には同名の小説(宮崎博史作)の連載が開始された。そして大映と組んで同名の映画ができた。
 実際にそごう開店時には雨天にもかかわらずたいへんな来客の行列であったようだ。
 このように書くと、よくもそこまで連携ができたものであると、いま感じるのだが、その大成功のきっかけとなったのは、やはりフランク永井の歌がヒットしたことにあった。
 だが、上記はいわば結果的な伝説で実はそうとう強引な「まるめ」で書き紹介したもの。まあ、現時点でならすでにそごうもないし、メモ的に補足を記しておくことにする。
 そごうデパートは有楽町読売会館の一角で、現在も読売ホールがある。当時TV放送曲は東京ではNHKと現TBSと現日本テレビだけで、この日本テレビは伝説的な正力松太郎の指揮下であった。戦後の日本に巨人軍を先頭にした野球、力道山のプロレスなどさまざまな娯楽を導入、テレビの普及でも番組作りに大きな影響をあたえた。
 そごうが入ることが決まり読売会館に人を集めるためにもまず打ったのは「有楽町で逢いましょう」の昼枠30分ウイークエンドミュージカル番組で、3月開始。読売会館の開館式は5月、そごうの開店は5月末。たいへんな盛況だったのは事実だが、この時点ではまだ「有楽町で逢いましょう」は、まだまだ娯楽がラジオと映画が中心で、普及度が低いTVの一番組名に過ぎなかった。
 そこでTV宣伝、読売遡及、デパート繁盛のためのさらなるキャンペーンを意図したのが正力オーナー。それに応じたのがビクターからの歌、芸能雑誌「平凡」、映画の大映だった。9月ごろから店内はもとより会館や周囲に「有楽町で逢いましょう」のキャッチが使われ、貼りだされた。
 11月、フランク永井は同番組に登場、レコードも発売された。平凡の連載開始も11月。映画は年明けの1月に封切られた。歌も映画も大ヒットし、結果的にそごうも読売会館もたいへんな盛況を迎えることになる。みごとに彼らのもくろみは大成功した。
 フランク永井はこれ以来ひっぱいだこ。1958年3月、大阪梅田の娯楽の殿堂、当時の「北野劇場」でさっそくに舞台「有楽町で逢いましょう」が催されたようだ。
 見せてもらった台本によれば、第141回北野ステージ・ショウ公演「有楽町で逢いましょう」という演題で、3月11日から22日まで。台本は当時の売れっ子の花登筺(はなとこばこ)によるもので、小説や映画とはまったく別物だ。
 フランク永井の歌を中心に藤本二三代、神楽坂浮子ら何人かのビクター歌手が出演して、有楽町界隈でのかわいく、悲しく、後にハッピーという小劇がいくつか展開する内容だ。
 ちなみに映画は京マチ子とその弟役川口浩、菅原謙二とその妹役野添ひとみ、大映のオールスター・キャストで、当然フランク永井は主題歌を歌い、後半ではこの映画でしか聴けない4番歌詞が楽しめる。
 さて舞台のシナリオを描いた花登筺だが、フランク永井とはこうした縁でつながりができて、その後も舞台やテレビドラマとの関係で歌ったり出演したりした。最初は1961年「番頭はんと丁稚どん」のシリーズでフランク永田役、歌も「初恋ぼんぼん」。LP「魅惑の低音第10集」に「空ほど君をあいしてる」。その後1967年関西テレビ「船場」で主題歌「船場ごころ」、1968年関西テレビ「堂島」で同名の主題歌を歌った。
 ちなみにひととき花登筺と裏で仲良く表で不仲を演じた藤本義一が作詞した「幸せひとつ」(1965)、「大阪無宿」(1975)も歌っている。
 それにしても当時おおきな影響力をもった方々、正力も花登も個性的があふれていた。それだけにテキも多くいたようだが、時代に印象的な跡をのこしている。

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