2014年6月アーカイブ

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 「データブック」には全データが掲載されているとのことだが、VS-90xxとSV-85xxとかのシリーズは載っていないのだが、という問い合わせがあったのでこのあたりについて触れてみる。
 「フランク永井魅惑の低音のすべて」(データブック)は、2010年10月に発行された。データはそれより何年も前から収集準備していたものであるが、掲載に当たってレコード会社から「初リリースされたものすべて」の曲とレコードを、くまなくリスト化したいというものでした。
 ソノシート、CD、カセット・テープとDVDや、映像、カラオケ等については、基本的に対象外にした経緯がある。また、ときどき触れているが、海外盤、海賊盤などは載せていない。ご指摘の「VS-90xxとSV-85xx」については、再販ものという扱いで、やはり対象外にしたもの。
 だが、この除外したものだけでも相当数になり、それだけでデータブック別版になりそうである。「文四郎日記」では、そのあたりを題材にしながら、可能な限りデータブックの補完をしてきたつもりである。

 ソノシートについては、データブックにコラムでリストと写真をあげている。掲載した時点では発行年月が推測したものであったが、その後その情報を確かな根拠で調査したものが発表されていて、記したものと少々異なっていたものが分かった。だが、基本的にそれ以外あらたな情報はない。
 CDはレコードの生産中止と前後してCDにメディアが移ったのだが、フランク永井の場合はレコードの廃止と同じくして舞台から降りているので、CDに新たな音源があるということではない。データブックの後半に掲載したリストですべてがクリアしていて、発刊後にでたCDでも新たな曲があるわけではない。
 カセット・テープについては「文四郎日記」で取り上げているが、テープ版だけにあったという曲がカバー版であるがあったということ。
 DVDは最初にフランク永井のカラオケがでたときに購入している。しかしそのとき所有していたSONYのプレイヤーが間もなく壊れてしまい、数回使っただけである。この後にCDサイズのカラオケDVDがいくつか出ているが、ここにも特に新たしい情報はない。フランク永井の曲のカラオケ用演奏のリストについては、以前取り上げたようにわずか20余曲しかないのが残念である。毎年、大崎市で開かれるフランク永井歌コンクール(今年は、10月に開催予定)では、どうしても演奏の種類の少なさが、さまざまな制限になっているところがあるので、ファンとしては演奏数をぜひとも拡張してほしいものである。

 さて「再販盤」であるが、1976年ごろから「アンコール・シリーズ」として、ビクター歌手の人気の曲をシングル・レコード(EP=ドーナツ盤)として出している。SV-3001-Mというように、ステレオのシングルで使用したSVを盤IDのプリフィックスとして利用しながらも、-Mなどというマークを後ろにつけた妙な盤となっている。フランク永井の初期ヒット盤はモノラルであったために、苦肉の作品となっている。これは、手元のレコードを見てみると、フランク永井については9点ほどでたようだ。つまり、表裏で計18曲がアンコール発売されたわけである。
 資料は少ないが、1970年代の後半に「ゴールデン・ミリオン・シリーズ」として、SV-35xxが出された。フランク永井の「有楽町で逢いましょう」「君恋し」という2大ヒット曲がカップリング(表裏双方がA面)されている(SV-3506)。これは吉田正編曲のステレオ版。「君恋し」は寺岡真三のステレオ録音盤が使われている。
 1980年になると引きついたかたちで、「ゴールデン・ベスト」シリーズとして、SV-75xxが出ている。フランク永井のは、3点、計6曲。そして、1984年レコードの製造中止の最後の追い込み盤「永遠のEP盤」(SV-85xx)シリーズが出された。これはフランク永井については10点20曲がステレオ版でリリースされたのである。

 以上が再販盤のほとんどであるが、おまけがる。
 それは、1960年代にさかのぼる。1960:SVS-1-好き好き好き/グッド・ナイトというのがある。これは、VS-xxxxシリーズで始まったモノラルのシングル盤からステレオ盤に移行するときのレコード会社の迷いなのか、宣伝したかったのか「ステレオ・シングル・レコード・シリーズ」というのがあった。ステレオ、シングルなので、すーっと、SV-xxだったのだろうが、なぜか並行してSVSというのが立ち上ったのだ。
 このSVSは、芸術祭参加作品のレコード盤としても使われた(1963:SVS-29-ねむの木/上総)。だが、芸術祭参加のレコードはこれ以前にPRB-7011-兄弟星がある。プライベート、あるいは宣伝盤ともとれるが、こちらはオリジナル・ジャケットがなく、ナショナル製ステレオ装置に添付用として出されたもの。
 沖縄返還があったのは1972年だが、それまでは日本でありながら米国の治領下にあった沖縄県に向けた(と言われるが真実は?)盤があった。それは、1966:VS-9010、1967:VS-9011、1968:VS-9013が手元にある。当時の人気曲のカップリングだ。歴史を感じる。
 また、CM用のプライベート盤(例えば、1971:17VP-1089-男のやすらぎ~清酒福久娘の唄(東洋酒造とか)、MV-1005-S-瀬戸内海ブルース(瀬戸内海観光都市連盟推薦)というような団体や組織の要請で出された盤がある。このジャンルについてはメディアはソノシートも多く、フランク永井が関与したものの総体はいまだ不明である。おそらく、リストにあがっていない曲もまだいくつか埋もれているものと思われる。
 このあたりの情報についてご存じの方はぜひ教えていただければと思う。

1961 PRB-7011 兄弟星 15芸術祭
1960 SVS-1 好き好き好き/グッド・ナイト ステレオ・シングル・レコード・シリーズ
1963 SVS-29 ねむの木/上総 17芸術祭
1971 17VP-1089 男のやすらぎ清酒福久娘の唄/(演奏のみ) 東洋酒造CMプライベート盤
1985 PRV-11397 城ヶ島の雨/波浮の港 非商用盤
   MV-1005-S 瀬戸内海ブルース/夢の瀬戸内海 瀬戸内海観光都市連盟推薦
1966 VS-9010 逢いたくて/東京の人(三浦洸一) 沖縄向け
1967 VS-9011 逢いに来たのに/ハワイの夜(鶴田浩二) 沖縄向け
1968 VS-9013 ふるさとの道/公園の手品師 沖縄向け
1973 PRA-10069 想い出にしないで(鶴田浩二)/お別れしましょう 宣伝用見本盤
1976 SV-3001-M 夜霧の第二国道/羽田発7時50分 アンコール・シリーズ
1976 SV-3002-M 有楽町で逢いましょう/ラブ・レター アンコール・シリーズ
1976 SV-3011-M 俺は淋しいんだ/夜霧の第二国道 アンコール・シリーズ
1976 SV-3013-M こいさんのラブ・コール/逢いたくて アンコール・シリーズ
1976 SV-3021-M 東京午前三時/東京カチート アンコール・シリーズ
1976 SV-3022-M 西銀座駅前/好きすき好き アンコール・シリーズ
1976 SV-3050-M 初恋の詩/わかれ アンコール・シリーズ
   SV-3506 有楽町で逢いましょう/君恋し ゴールデン・ミリオン・シリーズ
1980 SV-7508 東京ナイト・クラブ/大阪ぐらし ゴールデン・ベスト
1980 SV-7511 俺は淋しいんだ/君恋し ゴールデン・ベスト
1980 SV-7513 大阪ろまん/加茂川ブルース ゴールデン・ベスト
1984 SV-8501 有楽町で逢いましょう/夜霧の第二国道 永遠のEP盤
1984 SV-8502 おまえに/妻を恋うる唄 永遠のEP盤
1984 SV-8503 君恋し/羽田発7時50分 永遠のEP盤
1984 SV-8504 公園の手品師/こいさんのラブ・コール 永遠のEP盤
1984 SV-8505 霧子のタンゴ/東京カチート 永遠のEP盤
1984 SV-8506 大阪ぐらし/船場ごころ 永遠のEP盤
1984 SV-8507 夜霧に消えたチャコ/俺は淋しいんだ 永遠のEP盤
1984 SV-8508 西銀座駅前/冷たいキッス 永遠のEP盤
1984 SV-8509 東京ナイト・クラブ/ラブ・レター 永遠のEP盤
1984 SV-8510 加茂川ブルース/大阪ろまん 永遠のEP盤

mx20140614a.jpgmx20140614b.jpgmx20140614c.jpg フランク永井のデータ・ブックを発行したのは311震災の前年の2010年の暮れ。この時には、フルンク永井のレコードという位置づけから、SP、EP、LP、ソノシートなどの盤を列挙していて、カセット・テープについてはほんの一部を扱っただけだった。珍品として「フランク永井最新ヒット20を唄う」(PONY-1970:20CPJ-017)を紹介した。
 このカセット・テープには、その年代にヒットした他の歌手の曲をカバーしたものが吹き込まれていて、多くがビクターからはリリースされていないという貴重なものだった。フランク永井が歌ったもので、残されている曲ならすべてを網羅するということでとりあげた。
 その当時の私の認識不足で、基本はレコードでカセット・テープ版はすべてレコードとして出されているという感じにとらわれていた。そのために、テープは紹介でダブルだけでかえってデータ上では混雑するのではないかとして、追及があまかったものである。
 しかしその後カセット・テープを振り返って整理してみると、さまざまなことが見えてくるのことに気付いた。
 実際にはテープでしかリリースされていないという曲がやはり他にもあったこと。以前にも紹介したことがある「夜明けの街」「よこはま物語」がある。これは1980年の初めごろにビクターに近いテイチク所属の石原裕次郎と(いうよりテイチクの歌手の歌とビクターの歌手の歌)「ヒット曲のカバー交換」のような企画を行ったときのもの。裕次郎は「東京午前三時」「羽田発7時50分」「東京ナイトクラブ」などを歌った。フランク永井は「銀座の恋の物語」を松尾和子と歌っている。
 「夜明けの街」「よこはま物語」は、1981年「THE BEST ムード歌謡最新ヒット」(VCH-20056)で紹介され、翌年「BEST ONE 夜のムード歌謡」(VCH-2747)にも収録されている。前者はビクター歌手によるカバー集、後者はフランク永井のカバー集で、これも逸品だ。
 カセット・テープはレコードとは違い、裏表おのおの30余分10曲程度収められていて、全体で1時間を若干超す程度になる。これはレコードより数曲多い。
 テープはアナログでレコード会社がもつマスターテープのアナログの若干の劣化(専用機器、テープ幅の相違)コピーだということである。それだけに音質の忠実度が高いと思える。レコードもテープも何度も繰り返し聞けばメディアが擦れてノイズが入り込む。だが、経験的にはテープの方がレコードの劣化より優れているように感じる。レコードは保管方法で針による摩耗、汚れやかびが大きく影響する。テープはテープの物理的な伸びとかあるが基本的に塗布された磁性体に意外と耐久性が強いのかも知れない。
 以前に海賊版に関係して「森進一のすべて」を紹介したことがあるが、近隣某国で作ったと思える傑作などもある。写真はフランク永井でタイトルは「森進一のすべて」(内容も)。会社は日本コロンビアとなっている。曲名の誤植「花と爆」「女のたぬいき」「命かれてら」等々はっちゃかめっちゃか、わざと過ぎる過激な誤植の愉快なパイレーツ版などにも遭遇できる。
 価格としても1980年前後のもので\3000~\3500とレコードよりやや高め。
 楽しむほうのプレイヤーや当時多く利用される場となった車内というような環境も大きく影響することは当然なので単純比較はできないが、総じてカセット・テープの利点はあると思う。
 この後、音楽メディアが一気にデジタルのCDに一極集中され、レコードは消え、テープも消えた。そしてさらに、今はデジタル・ファイルになりインターネットでのダウンロードの世界に変わった。
 だが、レコードもカセットも捨てられずに手元にある。好きな曲はダウンロードでは賄えないものが多いのでなおさら捨てられない。こうしてときどき、カセットプレーヤにかけ、針を落とし、SP
に至っては一曲ごと針を取り替えたりゼンマイを巻き直したりする。それがけっこういけているのである。年寄りの至福の時間である。

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 フランク永井LP「琵琶湖周航の歌」は1971年にリリースされたカバー曲のLP(1971:SJX-80)である。フランク永井が舞台に出た1950年代、60年代には、オリジナル曲とその歌手に敬意をこめて、カバーという概念はあまりなかった。もちろん、洋楽はカバーから始まっているのでカバーだけなのだが、日本の名曲についてはそのような雰囲気だった。また、童謡とか唱歌とかの多くの人が子供のころから親しみ、歌手というよりも歌が広く知れた歌については、歌手が人気になると歌うという傾向があったように思う。
 フランク永井が日本の歌謡曲についてカバーを出した初めのもので人気をはくしたのは「恋心」(1967:SJV-256)であろう。これは洋楽にニュアンスが近い曲をつづったもので、フランク永井の歌唱がひかった名作だ。恋心はコンパクト・ダブルとしてもいくつかがピックアップされて出されもした。
 この後カバーで選曲に無難と思えた、いわゆる懐メロ(当時からしてなので、戦前や戦中のを含む)の吹き込みが流行った。「夜霧のブルース」(1968:SJX-8)、「上海ブルース」(SJX-37)などである。そしてその時点の人気歌をにまで各レコード会社は手をそめるようになった。フランク永井も例外ではなく「琵琶湖周航の歌」はそうした流れで出た。
 「誰もいない海」「夜霧よ今夜も有難う」等々、歌がうまい歌手らしく、聴いていてうなずける。このLPはビクターヒット賞には至らなかったようであるが、人気が高く後日にCD化(VICL-62227)されて復刻されている。
 また外国に住む日本人に人気のフランク永井。特に台湾では輸入ではなく、LP自身を現地レコード会社から生産リリースしている。おそらく日本のビクターが現地生産を認可した正式のリリースと思えるジャケットの完成度である。
 フランク永井のヒット曲の数々は、さまざまな形でCD化されているのでいつでも聴ける。しかしカバー曲については、まだまだ掘り起しが期待できるかもしれない。ご興味のある方は、カバー曲のほうもぜひ聴いてほしい。そこにはフランク永井のすばらしい歌唱の世界が広がる。

 さて、この「琵琶湖周航の歌」だが、当日記でいちど取り上げたことがある(フランク永井のEP曲「真白き富士の嶺」とLP曲「琵琶湖周航の歌」の謎(2012/5/12))。それはやはりフランク永井も吹き込んでいる「真白き富士の嶺」(1962:VS-623)と「琵琶湖周航の歌」の曲の類似性と作曲家をめぐる「謎」(勝手に謎とした)についてであった。
 その中から一部を採録しておきたい。

【1962:VS-623「真白き富士の嶺」(B面「カチューシャの唄」)は当時全盛の歌声喫茶等で全国広く愛された歌で他の歌手による作品も多く、あやかって(?)フランク永井も出したでコードである。 
 気になっているのは作曲者の誤記である(作詞は三角錫子)。正しくはジェレマイア・インガルス(Jeremiah Ingalls)。この曲は1890年ごろに最初に日本に渡来しており、1948年に遠藤宏という方が著作で誤解を指摘していたものだが、当時はまだそのことの認知度が低かった。 
 上記のようにフランク永井がレコードを出した時期は1962年であるが、レコード会社も含めてトーマス.W.ガードンの作曲というように長く思われていたのは堀内敬三が、原曲「夢の外」(讃美歌)の副題Gardenを作曲者名と思い違いしたことからである。 
 この問題は1995年関係者が逗子開成学園や読売新聞とあたためて調査し、賛美歌研究者である手代木俊一から確認してようやく認知されるようになったものである。 
 ちなみに原曲は宗教曲であるがメロディーと歌詞がよく、当時の悲しい事件とのイメージから今も親しまれて歌われている。事件というのは1910(M43)年1月、神奈川県の逗子開成中学のボート部の生徒等が遭難して12人亡くなったものである。「七里ヶ浜の哀歌」として追悼歌唱されたのだが、出だしの「真白き富士の根...」が皆の印象に残り、松竹は元の1935(S10)「真白き富士の根」という映画を作った。これが1954(S29)年大映映画で「真白き富士の嶺」となった。(1963年の日活「真白き富士の嶺」はどうもストーリイは別物) 
 映画のタイトルにもなり、「...哀歌」よりも「ましろきふじのね」が周知され歌の名前もそうなったのだが、元の根が映画から嶺に代わってしまったのである。】
【「琵琶湖周航の歌」は加藤登紀子をはじめに実に多くの歌手に歌われている。京都大学の寮歌としてはじまったものとされる。 
 問題は名曲「琵琶湖...」が先の「真白き富士の嶺」と同じ曲なのではないかと古くから言われていることである。確かに何度もきいているとメロディーの相違がわからなくなってくる。しかし、「琵琶湖...」は作曲が歴史地理学者吉田東伍の次男吉田千秋が作曲者としてすでに認知されている。作詞は小口太郎。 
 1917年に京大の学生だった小口らが漕艇で琵琶湖一周をしていて詞を作り、それに吉田が自作曲の「ひつじ草」のメロディーを当てたということである。では吉田の「ひつじ草」はどうなんだろうか。 
 これは近年の吉田千秋の年譜で、1915(T4)年に吉田が洋詞「Water Lilies」を訳して「ひつじくさ(草)」とし作曲し雑誌「音楽界」に発表とされている。このときにすでに1910(M43)「七里ヶ浜哀歌」として歌われていたものを知り、影響を受けていたのではないだろうか、と察せられることである。 
 現在の日本などの著作権認識からすると、とやかくいいそうであるが、当時にそれを求める必要はない。またそうすることではるか以前に名曲を残してくれた方々をとやかくいうこともない。 
 多くの作詞家、作曲家がいっているように、やがていつか今ガンガンと流行っている曲でさえ決して永遠でもないのだ。権利や価値観も変化するのは必至であり、たとえば100年200年後に、人々から呼び人しらずで歌われ口ずさまれることことが、世のため人のために残された有用な遺産なのである。】

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