2014年5月アーカイブ

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 フランク永井が活躍したのは1957(32)年「有楽町で逢いましょう」がヒットした年からといってよい。
 これに先立つこと1946(S21)年5月、といえば戦争が終わった翌年半年後に、NHK大阪中央局で「風はそよかぜ」(東辰三作詞、明本京静 作曲)が放送された。後に「NHKラジオ歌謡」として全国で聴かれるようになった最初の曲である。
 ラジオ歌謡は以来「山小舎の灯」「あざみの歌」「山の煙り」「白い花の咲く頃」等々のこころに残る名曲の数々を生み出し16年間も放送された。歌われた全曲数はなんと846曲を数えるという。
 NHK、国営放送の弱みから戦中は大本営発表に協力せざるを得なかったことへの反省もあったいうが、戦争で荒廃した日本の再建に心に支えをとこの番組がスタートしたという。この時期に民間のラジオ局もでき、大阪朝日放送では独自の路線で同様の歌謡番組をはじめた。呉羽紡績(東洋紡)がスポンサーの「ホーム・ソング」という番組である。朝日放送もNHKもこのための楽団までもつ力の入れようで、そうほう競って番組作りに力をそそいだ。
 近年に、日本ラジオ歌謡研究会が工藤会長や全国のファン・研究者で記録の収集が熱心に展開されて、ほぼ全容が明らかになっている。残念なことに当のNHKは関心が薄いようだ。ラジオ歌謡も、ホーム・ソングもすべての曲の情報・資料・音源が残されているわけではない。当時放送用のテープが高価なことから再利用されて、放送後消えてしまった音源も多い。国営のNHKですらアーカイブ思想が極めて薄かったことが背景にある。
 フランク永井は、この「ラジオ歌謡」では、アイスクリームの夜(1958)、高原のラブ・コール(1958)、いつの日逢える(1959)を歌っていると記録に残されているが、いずれも音源はない。前者2つは歌詞とメロディーの資料がのある。フランク菅原さんの復刻歌唱がある。一方「ホーム・ソング」では20曲近くをフランク永井は歌っている。別項でも触れたが「あふれる朝の」は未発見である。
 さてラジオ歌謡、ホーム・ソングのいずれにおいても、人気の曲を中心にレコードとしてリリースされたものも相当数に及ぶ。「リンゴの歌」の並木路子の「森の水車」、「白い花の咲く頃」「リラの花咲く頃」岡本敦郎、「山小舎の灯」の近江俊郎、霧島昇の「お山のからす」等々。今はファンの声にこたえる形で代表的なものをCDボックス売り出されているので、楽しむことができる。前者50曲、後者44曲が収録されている。
 さて今年の音楽祭のプログラムだが、新たに「麻峰良介とミュージック・シャングリア」のバンドが1部の演奏を担当した。懐かしい「今週の明星の歌」で開始。東京ラジオ歌謡を歌う会のそうそうたるメンバーによる歌唱が20余曲つづいた。
会場が一緒に歌うとか聴くほうにも休ませない。「ラジオ歌謡と間違えられる曲コーナー」というのも設けられている。NHKラジオ歌謡は雰囲気として「清らかな」というのがあって歌手や歌唱も正統なきっちりしたもので、実はラジオ歌謡で歌われたものでないがそのような感じの曲は多く、後年ラジオ歌謡のお仲間として扱われた曲もある。同時に、ラジオ歌謡でありながら「らしくない」という意外なものも含まれているのだが。
 この音楽祭に誘っていただいたHさんは毎回壇上でみごとな歌唱を紹介してくださるのだが、今年も奥山靉作詞服部良一作曲「夢去りぬ」を披露してくださった。
 2部は演奏がユニークなエレクトーン奏者で編曲も担当されている長谷川幹人。ここでも15曲歌われた。最後にゲストの歌だが、ラジオ歌謡に多くの歌唱を提供している三鷹淳と鳴海日出夫のプロによる歌唱を紹介。毎年聴いて感心するのだが、まったく年齢を感じさせない、プロの典型のような圧倒的な歌唱に会場が酔った。
 地元のケーブルテレビでは放送もされているとのことだが、ご興味のある方は一度足を運んでみたらいかがだろうか。
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 先に吉田正音楽記念館開設10周年の音楽祭のフィナーレが「いつでも夢を」であったことを記した。ふたたびその時代について触れてみたい。
 「いつでも夢を」はフランク永井の恩師吉田正と作詞家佐伯孝夫の産んだ昭和歌謡史に燦然と輝く名曲といえる。昭和(S37)年橋幸夫と吉永小百合というビクターの若手売れっ子人気歌手による異例のデュエットとして発売され、またたく間に日本中にひろがった。翌年には同名の映画が日活から作られ、これも全国的にもりあがった。
 主演の吉永小百合が下町日本娘のはじけるような当時の生活状況を演じている。エネルギッシュで、スパッとした性格は当時の多くの若者があこがれ、サユリストなどという言葉が流行った。
 映画はちょうどこれ(吉田正)に合わせて先週あたりにTVでも放送されたので、ご覧になった方も多いと思う。橋幸夫もべらんめい江戸弁で登場するし、今は重鎮の松原千恵子、そして当時吉永小百合と多くの共演をした浜田光夫らが演じた。浜田のドヤ顔、さゆりの覇気はいつも画面狭しと踊りまくった。
 橋は当時のこの手の映画の流れに沿ってだが、潮来傘とか当時のヒット曲をなぜか映画で歌う。酒を片手に寝転びながら観るにはちょうどいい、というか当時の己の生活と重ねて思いだしながら観た次第。
 この曲は橋と吉永の大ヒット曲なのだが、ツーショットの映像はレコード大賞受賞のときのものだけかもしれない。実際に二人で顔をそろえて歌ったのは他でも観たことがない。この頃以前にも書いたことがあるが、フランク永井の例で言うと年に新曲を38曲、LPを7枚(1962年実績)も出し、ラジオや映画に忙しいばかりか、全国公演までやっていたのだ。
 今考えると空恐ろしいほどの多忙で、売れっ子は寝る間もないという言葉通りの生活であった。「いつでも夢を」のレコーディングすら別々の日にそれぞれ吹き込み、二人の声をあわせた。ちなみにその際のエピソードとして有名なことなのだが、吉永の歌唱速度が橋のとというより正規のオーケストラの速度とややずれてしまっていて、ミキシングをする際に速度調整で対応したというのだ。
 そんなことはどうあれ、「星よりひそかに、雨よりやさしく...」「歩いて歩いて、悲しい夜更けも...」という佐伯孝夫の歌詞、それに吉田正のメロディーがいい。それを売れっ子の若い男女のデュエットで歌う。日本が勢いをつけて成長していく当時の社会、それを定時制高校に通いつつも必死に働き、生活している。それも当時の多くの若者がそうだったのだが、素朴で素直でストレートで、人間味が満ち溢れているふれあいがあった。
 時代に敏感な佐伯や吉田正はそうしたものを見事に完成させているのだ。いろいろな歌謡番組をみていると、フィナーレにときどきだが、いまでも「いつでも夢を」が歌われる。「青春爆発、いいとこどり」について、平成の若い世代にはどう映るのかはよく分からないが、この時代の歌に接することで、人生を回顧し同時にそこに生きる喜びと希望をみいだし、明日に向かって頑張る精気をえてるのだ。
 さて、当時海外に生活する日本人向けに、レコード会社は日本の人気歌手のレコード盤を輸出もしていた。フランク永井の場合は「日本ビクター」のロゴの上に「NIVICO(日本ビクターの課外向けのレーベル)」シールを貼って行っていた。また、地元のレコード会社に限定的な制作を認可して独自に作成販売するというケースもあったようだ。またたびたび紹介もしてきたが、海賊版も多数あったようだ。現地で勝手にコピー、あるいは組み合わせて盤を作って売ってしまうというもの。
 「いつでも夢を」のブラジル盤というのは、Victor-RCAレコードとなっていて、裏面にブラジル製であることが記している。ジャケットは橋と吉永の顔写真をつけているが、タイトル文字はいただけない。当時のあやしい海外盤の匂いがプンプンするのだが、正直に記していることや盤そのものの作りが比較的いいことから正式なものではないかと思える。
 この盤に入っている曲名は次のとおりである。フランク永井は1961年6月リリースの「東京無情」を歌っている。

①いつでも夢を(橋幸夫・吉永小百合)、②星は我が命(松島アキラ)、③愛する人に(多摩幸子)、④惜春(松島アキラ)、⑤明日の花嫁(吉永小百合)、⑥高原のパラダイス(村崎貞二)、
⑦大学の青春(橋幸夫)、⑧振り向いたあいつ(橋幸夫)、⑨愛するゆえに(今井京子)、⑩舞扇(雪村いづみ)、⑪東京無情(フランク永井)、⑫十九の約束(柴田珠江)

 ちなみに、フランク永井の属していたビクターはこの春社名を「株式会社JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント」に変更している。
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 フランク永井の恩師吉田正の偉大な功績をたたえ後世に残そうという、生誕の日立市のカミネ公園の頂上に立つ吉田正音楽記念館が、今年オープン10周年を迎えた。
 吉田正はビクターの専属作曲家として「異国の丘」「有楽町で逢あいましょう」「いつでも夢を」など2400曲以上を作曲してきた昭和の偉大な歌謡曲の作曲家である。鶴田浩二は親友で三浦洸一、フランク永井、橋幸夫、松尾和子ら、多くの門下生を育てたことでも名を残している。
 1998年に77歳で永眠されたが国民栄誉賞が贈られ、日立市名誉市民となっっている。記念館は吉田夫人の献身もあり2004年に開館した。その際には会館前の広場を野外会場にして盛大なオープニングが行われた。以来およそ82万余人以上が訪れている。
 会館では10周年を記念して、企画展「人と音楽が集う吉田正音楽記念館~・吉田メロディーと歩み続けた10年~」が開催中だ。4月29日には10周年を祝う記念音楽祭が日立市民会館で開かれた。13000人の応募があり十倍の抽選で当選した人々が当日音楽祭を楽しんだ。
 私もチャンスがあって当日の模様を直接楽しむことができたのは嬉しい出来事であった。
 元NHKで今モクハチ司会をしている宮本アナの司会で盛大に始まった。地元の男性コーラス、少年少女のコーラスではじまり、吉田正の門下生たちが2時間半歌った。三田明、古都きよの、ささきいさお、マヒナスターズ、久保浩、橋幸夫まで当時世を沸かせた曲がつぎつぎに披露された。
 三田明は若いときと変わらぬ歌い方が今も続けられていることに感心した。久保浩も頑張っているのはわかるのだが、歌いこみに衰えをみる。和田弘が去ったマヒナにはやや淋しさを感じさせた。ささきいさおは基本的に「雪の慕情」がオリジナルということだがすべてフランク永井のカバー。「雪の...」は1966年のフランク永井第2回リサイタル「慕情」の一節であるのを知る人はほとんどいなくなっている。
 当日はフランク永井の曲「妻を恋うる歌」(三田明)「霧子のタンゴ」(久保浩)「有楽町で逢いましょう」「公園の手品師」「おまえに」(ささきいさお)が歌われた。吉田正がフランク永井に作った名曲はたっぷりと披露された。「妻を...」は三田明のカバーはあっている。アニメソングの帝王としても知られるささきいさおのフランク永井カバーはCDでも知られているが、ハリのある低音とのびの保たれた高音の再現はなかなか聴かせるものをもつ。後年の吉田正から直接指導をえる機会があったという「おまえに」は、多くのカバー歌手の中でもいちばんといわれるのもうなずける。
 「いつでも夢を」で名残惜しくも終了した。この模様は今月中旬にNHKで特集されるとも聴くので楽しみにしている。
 吉田メロディーは、日立の駅に降りると「寒い朝」のチャイムで迎えられて耳に残る。生誕の地日立駅で採用した「寒い朝」は、吉田正を長く残す曲としてもっともふさわしいと思う。吉田正自身はシベリア抑留のことは多く語らなかったと言われるが、この曲に思いをすべて込めたに違いない。
 いま記念館では記念企画展が11月30日まで開かれている。10年間の歩みを80枚の写真や吉田門下生のサイン色紙5枚を含むさまざまな資料が展示されている。圧倒的な日立湾の景観は、そこに立つだけでも、こころが洗われるようなリフレッシュ効果を得られる。機会がある方はぜひともおすすめしたいスポットである。(写真は日立市報と記念館の公表資料から)

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