


成人式を迎える青年たちは受難の時代である。しかしそれを乗り越えて大人になっていくのは、すべての人間に課せられたもの。皆、立派に自分の人生を切り開いていくものである。
35年前の1979(S54)年に岩手県一宮市が「20歳の提言」という書籍をつくり、当年に成人式をむかえる青年に贈ったと思える。その書籍には政治、経済、科学、芸能、作家等々の広い分野で当時話題の方々60余名に書いてもらったお祝いのことばというか、青年たちへの提言ということでまとめたものである。
歌手からのひとりとしてフランク永井が書いている。他に漫画家手塚治虫、科学者糸川英夫、巨人軍王貞治、タレントとして佐々木いさおなどが顔を出しているという大変珍しいものだ。
フランク永井が自分で書いたもので文字となって残されているものは少ないのだが、ここでは自分が歌手になるきっかけを「自動車事故にあったことと野心」として紹介している。
埋もれてしまっている記録の発掘ということで、ここに採録しておきたい。この年に成人された方々は現在55歳の働き盛りである。この年はフランク永井はNHK紅白で「東京午前三時」を翌年は「恋はお洒落に」を歌ったている。
先に受難と書いたが1979年は米スリーマイル島で原発が事故(右上)を起こした。そして日本では東日本大震災とそれに連動した福島原発事故(右中)でいまだこの迷惑の主は野放しだ。さらには年末に発生した米アーカンソー州の原発爆発事故(右下)だ。これは報道管制でニュースにすらなっていない。このような暗澹たる時代を切り開いていくのが若人だ。
=自動車事故が決めた人生=
誰にでも青春時代にはいい意味の健康的な野心というものがあるものだと思う。こういう題名で自分の野心を書くのは照れくさいのだけれども、私の歌手になるキッカケも、ほんの小さな喜びと、野心からだと言える。
昭和二十年代後半、ラジオの民放局が開局されて、どのラジオ局も「素人のど自慢」の番組を流していた。丹下キヨ子さんが司会者の番組などが有名で、今年成人を迎えられる諸君の御両親なら記憶にあるだろう。
私はこれらの「素人のど自慢番組」の常連であった。
といっても、まだ歌手になる気はなく、なんと、私が二番悦に入って「のど自慢番組」に応募をくり返していたのは、ラジオから流れてくる自分の声が素晴しく聞こえるという理由だけなのだった。
「なんたる美声!」と、当時の私は自分の声を受けとめていたのである。滑稽というか、恥知らずというか、うぬぼれというか、青春の一時代、誰でも自分を素晴しい奴と考えたいものだけれど、当時の私はその上にもうひとつ"超"のつくうぬぼれ屋だったのかも知れない。当時の私の下宿にはラジオがなく、私は自分の声が録音され、やがて放送される時間になると、いそいそと近所の床屋へ出かけ、実になんともにんまりと、自分の声を聞いたものだった。そしてその後、他の番組の録音の日を調べては、またいそいそと予備選考の会場に出かけていくのであった。
そのうちに放送局の人間も、私の名前と顔をしってしまう。
「君はこの間も歌っていますね。そう何度も出るのはまずいですよ」と、断わられる。
私はそういう場合、一計を案じ、「ええ、これを最後に田舎へ帰って家業を継ぎたいと思うんです。私の東京の最後の想い出ですから、どうかお願いします」などという。これを深刻ふうな表情でいうと、割りあいにOKが出た。むろん、毎回これが通用するわけはなく、私のささやかな楽しみの場はどうも少なくなっていくようでもあった。
しかし、こうした青春の「うぬぼれ」と「野心」がなければ、プロ歌手への道はもっと遠かったかもしれない。
この時期と前後して、私は朝霞の米軍キャンプのクラブに専属として出演する機会を得ていた。歌の世界へ、仕事の間から接近することができたのはこの米軍キャンプの下士官クラブからである。
前後したけれども、私が歌の世界に入ることになったのは、私自身にとってはもうひとつの事件のほうが重要な喫機になっていると思えてならない。
それは自動車事故だった。
私は米軍のトレーラーの運転手だった。TV映画などで見られる超大型の食糧輸送トレーラーを転がして、東京横浜間を往復していた。
ある雨あがりの夜のことであった。路面が雨で光り、スリップの恐れが予想できる状態であるにもかかわらず、私は魔がさしたように急ブレーキをかけたのだった。大型トレーラーは二つに折れた形になり、第一京浜の路上に道路をふさいで立往生してしまった。
私たち、米軍に勤める日本人従業員には風説が流れていて、大きな責任事故の場合にはMPに逮捕され、軍法会議にかけられるとされていた。
これはおっかない。弁償ぐらいならなんとかなるが、刑務所に入れられないとも限らないと思い、その事故報告をした日に、そのまま米軍を辞めてしまったのである。
したがって私は失業保険のお金で生活し、「素人のど自慢番組」に何度も応募することができたのであった。
私はその後、ビング・クロスビー、フランク・シナトラなどのジャズボーカリストに熱をあげ、次第に歌手としての野心を持つようになった。歌誰曲に転向してから、ヒット曲が出るまで、毎日、青山墓地で、一人、レッスンを重ねていった。そのときにはもう、自分の声を何たる美声だと思ってばかりはいられない気持ちになっていた。
だが、「のど自慢番組」に出ていたころ、ほんの少しだった歌手への夢はもう確固としたものに育ち、私はこのときこそ最も野心的な青年であったろうと思う。その心を今でも忘れていない。そしていまでも、あのトレーラーの事故がなければ歌手にはならなかったろうと思う反面、何がキッカケでも、未来に向けて歩もうとする信念が生ずるのは、その後の努力の過程においてであると信じることができる。(1979:「20歳への提言」KKオーシャン・プラニング発行(岩手県一関市自主出版品))
【歌手フランク・永井:一九三二年(昭和七年)宮城県生れ。NHKの「素人のど自慢」の常連からプロに転向し、「有楽町で逢いましょう」など敷かずのヒット曲をとばす。"低音の魅力"が売りものの、歌謡界の大ベテラン】