2014年1月アーカイブ

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 成人式を迎える青年たちは受難の時代である。しかしそれを乗り越えて大人になっていくのは、すべての人間に課せられたもの。皆、立派に自分の人生を切り開いていくものである。
 35年前の1979(S54)年に岩手県一宮市が「20歳の提言」という書籍をつくり、当年に成人式をむかえる青年に贈ったと思える。その書籍には政治、経済、科学、芸能、作家等々の広い分野で当時話題の方々60余名に書いてもらったお祝いのことばというか、青年たちへの提言ということでまとめたものである。
 歌手からのひとりとしてフランク永井が書いている。他に漫画家手塚治虫、科学者糸川英夫、巨人軍王貞治、タレントとして佐々木いさおなどが顔を出しているという大変珍しいものだ。
 フランク永井が自分で書いたもので文字となって残されているものは少ないのだが、ここでは自分が歌手になるきっかけを「自動車事故にあったことと野心」として紹介している。
 埋もれてしまっている記録の発掘ということで、ここに採録しておきたい。この年に成人された方々は現在55歳の働き盛りである。この年はフランク永井はNHK紅白で「東京午前三時」を翌年は「恋はお洒落に」を歌ったている。
 先に受難と書いたが1979年は米スリーマイル島で原発が事故(右上)を起こした。そして日本では東日本大震災とそれに連動した福島原発事故(右中)でいまだこの迷惑の主は野放しだ。さらには年末に発生した米アーカンソー州の原発爆発事故(右下)だ。これは報道管制でニュースにすらなっていない。このような暗澹たる時代を切り開いていくのが若人だ。

=自動車事故が決めた人生=
 誰にでも青春時代にはいい意味の健康的な野心というものがあるものだと思う。こういう題名で自分の野心を書くのは照れくさいのだけれども、私の歌手になるキッカケも、ほんの小さな喜びと、野心からだと言える。
 昭和二十年代後半、ラジオの民放局が開局されて、どのラジオ局も「素人のど自慢」の番組を流していた。丹下キヨ子さんが司会者の番組などが有名で、今年成人を迎えられる諸君の御両親なら記憶にあるだろう。
 私はこれらの「素人のど自慢番組」の常連であった。
 といっても、まだ歌手になる気はなく、なんと、私が二番悦に入って「のど自慢番組」に応募をくり返していたのは、ラジオから流れてくる自分の声が素晴しく聞こえるという理由だけなのだった。
 「なんたる美声!」と、当時の私は自分の声を受けとめていたのである。滑稽というか、恥知らずというか、うぬぼれというか、青春の一時代、誰でも自分を素晴しい奴と考えたいものだけれど、当時の私はその上にもうひとつ"超"のつくうぬぼれ屋だったのかも知れない。当時の私の下宿にはラジオがなく、私は自分の声が録音され、やがて放送される時間になると、いそいそと近所の床屋へ出かけ、実になんともにんまりと、自分の声を聞いたものだった。そしてその後、他の番組の録音の日を調べては、またいそいそと予備選考の会場に出かけていくのであった。
 そのうちに放送局の人間も、私の名前と顔をしってしまう。
 「君はこの間も歌っていますね。そう何度も出るのはまずいですよ」と、断わられる。
 私はそういう場合、一計を案じ、「ええ、これを最後に田舎へ帰って家業を継ぎたいと思うんです。私の東京の最後の想い出ですから、どうかお願いします」などという。これを深刻ふうな表情でいうと、割りあいにOKが出た。むろん、毎回これが通用するわけはなく、私のささやかな楽しみの場はどうも少なくなっていくようでもあった。
 しかし、こうした青春の「うぬぼれ」と「野心」がなければ、プロ歌手への道はもっと遠かったかもしれない。
 この時期と前後して、私は朝霞の米軍キャンプのクラブに専属として出演する機会を得ていた。歌の世界へ、仕事の間から接近することができたのはこの米軍キャンプの下士官クラブからである。
 前後したけれども、私が歌の世界に入ることになったのは、私自身にとってはもうひとつの事件のほうが重要な喫機になっていると思えてならない。
 それは自動車事故だった。
 私は米軍のトレーラーの運転手だった。TV映画などで見られる超大型の食糧輸送トレーラーを転がして、東京横浜間を往復していた。
 ある雨あがりの夜のことであった。路面が雨で光り、スリップの恐れが予想できる状態であるにもかかわらず、私は魔がさしたように急ブレーキをかけたのだった。大型トレーラーは二つに折れた形になり、第一京浜の路上に道路をふさいで立往生してしまった。
 私たち、米軍に勤める日本人従業員には風説が流れていて、大きな責任事故の場合にはMPに逮捕され、軍法会議にかけられるとされていた。
 これはおっかない。弁償ぐらいならなんとかなるが、刑務所に入れられないとも限らないと思い、その事故報告をした日に、そのまま米軍を辞めてしまったのである。
 したがって私は失業保険のお金で生活し、「素人のど自慢番組」に何度も応募することができたのであった。
 私はその後、ビング・クロスビー、フランク・シナトラなどのジャズボーカリストに熱をあげ、次第に歌手としての野心を持つようになった。歌誰曲に転向してから、ヒット曲が出るまで、毎日、青山墓地で、一人、レッスンを重ねていった。そのときにはもう、自分の声を何たる美声だと思ってばかりはいられない気持ちになっていた。
 だが、「のど自慢番組」に出ていたころ、ほんの少しだった歌手への夢はもう確固としたものに育ち、私はこのときこそ最も野心的な青年であったろうと思う。その心を今でも忘れていない。そしていまでも、あのトレーラーの事故がなければ歌手にはならなかったろうと思う反面、何がキッカケでも、未来に向けて歩もうとする信念が生ずるのは、その後の努力の過程においてであると信じることができる。(1979:「20歳への提言」KKオーシャン・プラニング発行(岩手県一関市自主出版品))
【歌手フランク・永井:一九三二年(昭和七年)宮城県生れ。NHKの「素人のど自慢」の常連からプロに転向し、「有楽町で逢いましょう」など敷かずのヒット曲をとばす。"低音の魅力"が売りものの、歌謡界の大ベテラン】


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 謹賀新年
 フランク永井ファンのみなさん、あけましておめでとうございます。
 昨年は「フランク永井の故郷から」という事実上のフランク永井の公式HPにリンクして当「文四郎日記」を公開していただきました。mixiの方は昨年閉鎖の予定でしたが、いろいろとご要望もありしばらくこのまま続けさせていただきたいと存じます。

 さて、今年の正月はかつてなかったのだが、まったく予定を入れずに静かに自由になすがままにというたいへんありがたいことになった。有り余る時間を使って、といっても掃除や整理に数日要し、正月は電車で初詣。そして、しばらくできなかったSPレコードの蓄音機のメンテに。蓄音機は電気を使わないゼンマイが動力源なので、定期的にネジを巻き解放してあげる必要がある。つまりは、レコードを聴く時間をとれたのである。
 蓄音機は一時使えない状態にあり、蓄音機の名人のZさんにご苦労を願って半年かけて、一部部品の手作りを経て今は落ち着いた動作を再現している。蓄音機は生き物のようで、動作させるたびに動きが微妙に違い、同じ状態での演奏はほぼ不可能というもの。針の摩耗状態(1曲ごとに交換する)、ゼンマイの巻き状態、ガバナ(振り子管理装置)の調子で常に状態が異なる。
 そもそも猛烈な負荷がかかる盤面は摩耗していく。盤の素材がシェラック(虫のフン)であることから、摩耗熱によって状態回復作用が働くため微妙に溝が変化していく。
 何年か前に知人と野外の蓄音機コンサートをしたときに寄ってくださった難聴の方が「蓄音機の音はよく聞こえるのだ」といっていて驚いたのだが、蓄音機から再生される音質はもっとも人体に優しく影響力を持つものだと聴かされた。
 そんなことから、手持ちのSPレコードを思いのままかけてみた。あやうい盤をあつかうのでおのずと慎重になってしまうが、けっきょくその動作が、曲に対するていねいな接し方につながるようだ。CDをがチャッとセットしてボタンを押すだけ、あるいは今利用しているiPadNanoのように画面の操作するだけというのとは相当違う面倒な操作だ。しかしその、まどろっかしい操作の間に、曲への思いをふくらませる。
 曲の創作背景、動機、時代に思いをめぐらす。
 蓄音機の音は盤面と針との激しい摩擦音が伴う。だが、これはSPを聴く者にとっては楽しむ必須の要素でもある。こうした蓄音機で再生する限りは避けえないし、このノイズが曲を生き立たせている。聴けばわかることだが、蓄音機から発する音声は思いのほか高い。この音量は最初に蓄音機を聴いたときに、驚くとともに不思議に思ったものである。蓄音機から3~5メートルほど離れた、ベストポジションで聴くとノイズをほとんど気にしないで楽しむことができる。
 フランク永井のデビュー(1955年)から数年間はSP蓄音機の技術が頂点を迎えていた時だ。このときにフランク永井がSPでリリースした曲は58枚である。フランク永井の若いのびのびした、美しい高音から響くビロードのような低音が楽しめる。多くの人気歌手の歌マネをするほど、自在に声を操っていたときの録音だからどの曲も聴きごたえがある。
 フランク永井のSPレコードで主なものはおおからそろっているが、盤質が大変よく保存されているものから相当聴きすれたものまである。
 今回は思いのママなのであまり気にしないまま選んだのが「夜霧の第二国道」「大阪の花」だ。前者は代表曲のひとつである。宮川哲夫の詩が光る。寺岡真三の編曲したイントロが一気にムードをかもし、その世界にいざなう。正月なので楽しく「大阪の花」をかけてみた。これは同時期に発売された名曲「ラブ・レター」の前奏とかぶさる不思議な曲。
 SPレコード時代に日本を沸かした他の歌手の作品に手を伸ばす。三波春夫、春日八郎、江利チエミ、美空ひばりらだ。美空ひばりのは「車屋さん」とならんで好きな「お祭りマンボ」をかけてみた。正月にふさわしくはなやぐ。
 日本の流行歌は当時ジャズとひとくくりで読んでいた洋楽からはじまった。洋楽も何枚かこの機会に聴いてみようと。「テネシー・ワルツ」はフランク永井も江利チエミもカバーしているが、オリジナルはいかがだろうか。いやはや、洋楽はやはり発想というか視点が私ら貧しく硬い頭とことなるので、大変にフレッシュな思いに駆られていい。
 ということで、ゆったりとした、至玉の、豊かな時間を楽しむことができた。ひとりSPレコード演奏会はなんと贅沢なのだろうと。
 写真の左上からレコードは下記の通り。中は夜霧の第二国道のエンベロープで当時の雰囲気がわかる。右は蓄音機ではないが当時のポータブル・プレイヤーで自分のレコードを演奏してご機嫌なフランク永井。
  夜霧の第二国道(フランク永井)
  大阪の花(フランク永井)
  オ、マイパパ/ブルー・カナリィ(雪村いづみ)
  家へおいでよ!(江利チエミ)
  気まぐれマドロス(春日八郎)
  ひばりの花売娘(美空ひばり)
  お祭りマンボ(美空ひばり)
  チャンチキおけさ(三波春夫)
  ケセラセラ(ドリス・デイ)
  テネシー・ワルツ(ジョー・スタフォード)
  これがジャズだ(ビング・クロスビー/ルイ・アームストロング)
  ビギン・ザ・ビギン(ビング・クロスビー)

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