2013年11月アーカイブ

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 あでやかな芸者姿で日本調の歌で名をはせた神楽坂浮子が11月20日にお亡くなりになった。心からご冥福をお祈りします。
 神楽坂浮子はフランク永井の1年前にビクターからデビューしていて、同じく美人で歌のうまい藤本二三代と人気を競った。二人はフランク永井と「東京踊り」など主にお囃子もので一緒にレコードを出すということもたびたびであった。藤本二三代とともに映画でも活躍している。
 若き神楽坂は整った顔立ちの方で当時若者に人気をはくしたものである。1954(S29)年に「私、なんだか変てこりん」でデビュー。その後代表曲となったのは「十九の春」(1956)。芸能界から引いていた時期もあったが、コロンビアに移り「こんなベッピン見たことない」を飛ばす。歌の題名がおもしろかったこともあってかなかなか印象的な歌いやすい歌だった。
 神楽坂はNHK紅白に2回出場しているが「十九の春」は歌っていない。1958年(9回)で「三味線フラ」、1961年(12回)で「東京の下町娘」を歌った。
 NHK紅白(64回目)の今年の出場者が先日発表されたが、近年の紅白は惰性で見ることはあるのだが、かつてのようなわくわくした気持ちで観ることはなくなった。まあ、それはそれで仕方のない時代の流れとあきらめている。
 フランク永井が紅白に最初に出場したのは、はるか以前のことだが、1957(S32)年第8回で「東京午前三時」を歌った。これ以来フランク永井はNHK紅白歌合戦の常連出場者としても知られ、1982(S57)年の第33回まで連続26回出場したことで当時の記録保持者であった。この時点で島倉千代子と並んで最多出場の記録を持っていたのが懐かしい。
 ちなみに島倉はその後も連続出場の記録をのばし、37回(1986)までで30回連続に輝いている(その後どなたかがこの記録を超えたかどうかは存じ上げない)。
 連続というのは、それだけ常時人気を保ってきたということで、当時日本人の生活に浸透していたと言える。出場回数ということでは、今年の発表を見ると、いま大御所である北島三郎が50回、森進一が46回、五木ひろしが43回、石川さゆりが36回出場しているのが目立つ。すごいことである。
 何年か前にNHK-BSで過去の紅白の映像が連続で放送されたことがあったが、都合で観ることはできなかった。TV放送が1953(S28)年に始まったこともあり、紅白についてはこの年の年末に第4回がが始めての紅白映像放送となる。しかし、残念ながら放映された映像は残されていない。残すことの大事さは当時認識されていなかったということがある。もちろん、音声もそうであった。音声については翌1954(S29)年の第5回放送から一部が残されたと聞く。
 最近に第10回(1959)の音声を聴く機会があった。
 TV放送された映像はというと、13回(1962)について、当時ニュースとして流した一部がモノクロで残されている。これが現存する最初のもののようである。翌14回のものは初めて全編モノクロで残されている。TVを映写機で映したものだ。15回(1964)はなし。16回(1965)でようやくカラー版も残っている。公式にNHKか保存を意識してはじめたのは、23回(1972)でこれ以降はきちんと残されている。それまでは、残っていてのモノクロ版のみであったり、一部がなかったり、ノイズが激しかったりで完璧なものではない。
 当時司会をした宮田輝の夫人が自宅で高価なビデオ撮りをしたのが、今や大変貴重なものとしてNHKが保存している。
 フランク永井の紅白出演の映像も上記のような制限から初期のものはみることができないのはかえすがえすも残念である。
 紅白では当然その年にヒットした曲かその歌手の代表曲が歌われる。フランク永井についても、ビクター・ヒット賞を得たような代表曲が多い。しかし、歌ったリストをみると「これからヒットしてほしい」という当人の思い入れを込めた曲もある。
 もちろんこれらの曲はそこそこ当時は歌われたものだが、1967(18)生命ある限り、1970(21)大阪流し、1980(31)恋はお洒落に、あたりがそうかもしれない。
 紅白の写真は右上(1959-10回)、左上(1965-16回)、下(1978-29回)である。
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 フランク永井のことについていつも私の知らないことを教えてくださるBさんからまた貴重な話を寄せていただいた。
 それはフランク永井データブックにも記されていない曲で、レイ・チャールズの「愛さずにはいられない」についてであった。貴重なものなので、感謝とともにここで記しておきたい。
 1967年にリーダーズ・ダイジェスト社から通信販売用に企画してリリースされた「想い出の小径」日本のヒットソング100年の流れという、10枚LPセットである。伊奈一男の監修で冊子「観賞の手引き」が付いている。
 日本でレコーディングされたときから流行したヒットソングを120曲選定し、主にビクターの人気歌手に何曲かカバーのかたちで歌わせている。120曲については、日本の流行歌にかぎらず、ポピュラー・ソングも含めた、レコード会社のかべにとらわれないものとなっている。多くは中村八大クインテッドや原信夫とシャープ&フラッツ等々当時のたいへんメジャーな楽団による演奏となっている。
 「有楽町で逢いましょう」であってもフランク永井の歌ではなく、ポス宮崎とコニ―・アイランダース楽団による演奏である。気楽にBGMとしても楽しめる。
 フランク永井は、この企画で「愛せずにはいれない」(#8)「センチメンタル・ジャニー」(#6)の歌唱ではいっている。
 「愛さずにはいられない I Can't Stop Loving You」は世界中に親しまれたポピュラーソング。ソウルの神様レイ・チャールズ。「わが心のジョージア」と並ぶ彼の表曲のひとつだ。彼は、サザンオールスターズの「ELLIE MY LOVE~いとしのエリー~」をカバーしたことでも話題を呼んだ世界的な人気歌手。Bさんが教えてくれるまではまったく知らなかったフランク永井の歌唱曲である。
 フランク永井はビクターがリリースしたレコードには残さなかったものの、公演ではよく歌ったとフランク永井自身が記している。しかし、データブックを編集する時点では記録にはあがらなかった。当時他のレコード会社の人気歌手との交換のような形でのカバーが出だした頃であったので、他のレコード会社からの企画ものには他にも埋もれた曲があると思える。
 この企画で歌っているもう一曲の「センチメンタル・ジャーニー」。当時人気の映画の主題歌。ドリス・デイが歌って日本でもたいへんはやった。今も多くの歌手にカバーされている。フランク永井は1971年の15周年記念のリサイタルで歌っている。その後、1973年に「懐かしのゴールデン・ジャズ・アルバム」(SJX-119)に収められている。しかし、リーダーズ・ダイジェストのこの企画に入っているのはそれよりもさかのぼるもので、聴くと編曲も演奏も異なったものである。
 フランク永井は「観賞の手引き」に歌手のトップで下記のような記事をよせている。

"なつかしく"、そして"いつまでも"「想い出の小径」の製作に参加した人々のことば~なつかしさをこめて~
フランク永井(ボーカル:独特なソフト・ボイスで幅広いフアンをもつベテラン・シンガー。"のど自慢荒らし"の異名をとってレコード界に入り十五年、「有楽町で逢いましょう」の大ヒット、「君恋し」のレコード大賞等々、実力者にふさわしい活躍を続けでいる)

 ジャズやヒット・ソング、流行歌と、ずいぶんいろいろな曲を歌ってきました。ふとした折に、そのようなかつて歌ったメロディーを耳にすると、自分の昔の一こまをふりかえったような気がして、なつかしい想いがこみあげてきます。「センチメンタル・ジャーニー」も「愛さずにはいられない」も、私の大好きな曲で、いろいろなところで、何回となく歌いました。
 今回は、特に「愛さずにはいられない」を、原曲のウエスタン・スタイルで歌えたのが、とても嬉しく思いました。といいますのは、十五年前、私がビクターに入社するときの課題曲が、ウエスタンの「知りたくないの」だったので、その時のことが、なつかしくよみがえってきたのです。
 あの頃とくらべて、ヒット・ソングの性格もずいぶん変りましたが、日本人の"歌ごころ"は、いつの時代も変らないのではないかと思います。ポピュラーを歌うときも、流行歌を歌うときも、私はその"歌ごころ"を何よりも大切にしようと思っているのです。  
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 フランク永井と同じ1955年に歌謡界にデビューした盟友の島倉千代子が亡くなった。ごめい福をお祈りします。
 島倉千代子はコロンビアの超有名な歌手といってよい。時代ごとにさまざまな話題を提供してきた。最近は体調をおおきく崩していたと聞く。東北人のフランク永井と似たところもあった。おひとよしで生涯島倉らしさをたもった。
 島倉がソプラノの高音でフランク永井は低音。互いにうれっこであったときには、TV番組などで共演することも多かった。データブックでも紹介したが、1975年のTV番組で矢野亮作詞、吉田矢健治作曲で津村謙、吉岡妙子が歌ったヒット曲「あなたと共に」を歌っている。これは映像が残っておりネットでも観れていた。
 また、1963年NHK「きょうのうた」で、島倉千代子とデュエットしている。「あなたが居れば」(西条八十作詞、吉田正作曲)が放送されたという記録が残っているのだが、曲の確認はNHKにも問い合わせたが不明であったのは残念である。
 私の手元には島倉のレコードがLPも含めて何枚かある。ときどき聴くこともある。島倉はデビュー前年にあこがれた美空ひばりの「リンゴ追分」を歌い優勝(コロンビア・コンクール)してデビューしたのだが、けっして歌そのものの歌唱がうまいというわけではないと言われている。当時実姉さんのほうがうまかったそうだし、恩師の万城目正も「へたなコだね」と言っていたという。しかし、島倉はそんなことでめげないほど歌が好きだった。逆に、詞を誰よりも何度もじっくりとかみしめるように読み込むことに勉め、独特の島倉節といわれるほどの味を出すようになった。
 コロンビアでも大事にして育てた。万城目は「いわゆる歌の上手だという人はずいぶんいるけど、島倉くんのような心で歌う人はそうざらにはいない」と評している。この言葉は、ちょうどフランク永井を恩師吉田正が評したのと重なる。
 フランク永井とは競合するコロンビアに島倉が属してたので、なかなか表だった交流の記録はない。これはコロンビアが生んだ女王美空ひばりとの関係でもそうだ。しかし、彼女らとは大変いい意味でのライバルとして互いに意識しこころと技を競い合った盟友であったことは違いない。天国ではレコード会社の枠などないので、それこそさまざまなことを、こころから語り合っていることであろう。

 ♫あなたと共に 行きましょう
  恋の甘さと 切なさと
  はじめて教えてくれた人
  それが私のさだめなら
  あなたと共に 行きましょう
  (矢野亮作詞)
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 この秋のムードがフランク永井なのか、今の時代が昭和歌謡を想起させるのか。「オール読物」11月号では特集と勝手にいっているのだがトップのコーナーが「わが青春の昭和歌謡」のグラビアである。そこでフランク永井のブロマイドが掲載されている。記事はNHKアナの山川静夫でる。
 本文では「あの素晴らしい昭和歌謡をもう一度」として、昭和歌謡小説(短編)を7人の人気作家が競演で書いている。さらに「あの素晴らしい歌詞をもう一度」と20余人がそれぞれの思いで歌詞を紹介している。また役に立つかどうかは別にして「昭和歌謡用語辞典」のページまで持っている。
 この月刊誌は好きな平岩弓枝「御宿かわせみ」が新シリーズとなって好評連載中である。また、平岩が主宰する「大衆文芸」誌に集う松本清張賞を得た恵似子も「学生街の喫茶店」で小説を書いている。
 この手の話題を好む方にはジャストな一冊である。今発売中。
 グラビアトップで山川静夫はフランク永井「有楽町で逢いましょう」を紹介している。山川は、この紹介記事でつぎのように記している。
 『...七年ほど前、NHKの歌謡番組で、玉置宏、浜村淳、山川静夫の、司会者三人が競演したとき、まったく偶然に揃って「もう一度逢って司会したい歌手」にフランク永井をあげたのが忘れられない。のこ歌(有楽町で逢いましょうは)は、昭和三十年代の「ムード歌謡」のさきがけである』。
 ここで紹介している番組は観ていたのでよく覚えている。フランク永井が長く歌謡番組にたずさわってきた方々にとって、いかに強く印象を残したがわかる。山川は「紅白で自分が9回司会した最後の年にこの歌を歌った」と。浜村は「聴きに来てくださってありがとう」という感謝の姿勢から学んだと紹介し「こいさんのラブ・コール」をあげた。玉置は「フランクさんは子供にめぐまれなかったが夫婦のきずなを大事にした」といって「おまえに」を一番にあげた。
 この箇所の映像は確かインターネットでも観ることがきる。秋の夜長を昭和歌謡をひもといてみてはいかがだろうか。

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