2013年10月アーカイブ

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 10月27日のフランク永井の亡くなった日に、宮城県大崎市松山で「おまえに」の歌碑が建立されてということを報じたばかりであった。「おまえに」の作詞をされた岩谷時子さんが亡くなられたという報道が28日にされた。こころからお悔やみ申し上げます。
 歌碑のオープンは当然ご存じとはいえ、ほんとに残念。

 除幕式の様子は当日のTVでのニュース*やWebニュース、翌日の新聞で報道されました。開催されたフランク永井歌コンクール実行委員会(実行委員長/畑中敏亮さん)からの様子を紹介します。
 フランク永井常設展示室があるふるさと歴史館、公民館の前の広場に、1×1.8mの碑が建てられた。前面に岩谷時子作詞の「おまえに」の歌詞、背面にはフランク永井の功績リストが刻まれている。
 フランク永井の実姉美根子さんやビクター、吉田正音楽記念館、大崎市長等の関係者が出席された。式には百数十人の方々が参加されて、称えるいくつかの行事がもようされた。5回を数えた歌コンクール歴代の優勝者の歌唱、地元松中吹奏楽部の演奏、フランク永井が唄う東北音頭のおどりの披露等々が続いた。
 東日本大震災をはさんで5回を大成功に導いたこのとし、地元が生んだフランク永井の功績を永く記念して引き継ごうという熱意が、募金を成功させてこのような碑の建立までこぎつけたのである。これは全国のファンはもとより、なによりもフランク永井自身がいちばん喜ばれているのではないだろうか。
 こうした暑い行動力が、実際にさまざまなことに地域が一丸となるおおきな求心力になっているということで、地域活動のみならうべき見本を示してくれている。

 さて、岩谷時子さん(以後敬称を略させていただきます)について。この日本歌謡界を築き上げた功労者である。ほんとにありがとう!
 岩谷時子については越路吹雪とともに歩みながらすばらしい世界を切り開いた。ザ・ピーナッツ、加山雄三をはじめ多くの歌手におよそ3,000を超す詞を書いている。フランク永井にも「おまえに」という大ヒット曲を提供したが、実は多くの詞を提供しているのである。
 最初は、ビクター吉田正と組んで、1965年のフランク永井第2回リサイタルの組曲「慕情」を書いたのを最初に、10余曲に関係している。「慕情」は第20回芸術祭大衆芸能奨励賞に輝いたもので、およそ20分ドラマのように展開する長編組曲だ。この構想自身が歌謡界初であったばかりか、フランク永井の朗々とした歌唱が観客をとりこにした大作だった。
 翌1966年に最初の「おまえに」を書く。翌年にカバーLP「恋心~フランク永井とともに」(1967:SJV-256)をリリースするのだが、ここでシャンソンや岩谷が岸洋子に書いた「夜明けの歌」を含む当時の他の歌手のヒット曲を歌った。ビクターヒット賞を得たが、当時トップ歌手がカバーを出すのが珍しかった時代に、フランク永井のなみなみならぬ歌唱力をみせつけたものであった。
 その後1978年までに「お前がいいと言うのなら」「そっとしといてあげるから」「たった一度の愛の言葉」「ほんとは好きなのに」「愛は永遠に」「季節はずれの風鈴」「兄弟だから」「黒い椅子」「妻を恋うる唄」「紫陽花の歌」「知っていたのかい」を書いてくれた。フランク永井はこうしたオリジナル曲以外に、岩谷の大ヒット曲「いいじゃないの幸せならば」「ウナ・セラ・ディ東京」「サン・トワ・マミー」なをカバーしたのが残されている。

※写真左岩谷時子、右リストは朝日新聞より
※http://www.youtube.com/watch?v=--9l77t7EFU(歌手・フランク永井さんをしのぶ歌碑完成 除幕式開かれる(宮城13/10/27) 
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 この10月27日は、2008(H20)年にフランク永井が永眠した日。快晴の今日、フランク永井の生誕の地宮城県大崎市松山で、「おまえに」の歌碑の除幕式が開催される。
 「おまえに」と歌碑について記してみた。
 この日、この地に「おまえに」に歌碑が建つことは、歴史の重みを胸にヅンと受け止めるということでもある。
 フランク永井が戦後日本の多くのひとびとに表現しがたい貢献・功績をのこしたということは絶対に忘れてならないこと。これが碑として永遠の証をつくる。ピラミッドのごとく大切に守り抜くことでまさに、永遠にその大事さを残すということ。なま半端な気持ちでできることではない。
 生誕地は誰であっても心のそこに染み付いているもので、そこのひとびとが感謝の思いを永遠に忘れないのだということこそ、フランク永井自身にとって最高のうれしさだ
と思う。
 生きているうちには誰しもさまざまな当面することがある。いまフランク永井は最高のしあわせを感じているのではないだろうか。しかも、フランク永井がこだわりにこだわりぬいた代表曲「おまえに」が歌碑であること。
 「おまえに」は、1966年にこれも代表曲である「大阪ろまん」のB面で発売され、結果的にA面に埋もれてしまった。しかし恩師吉田正への恩返しをすることの証のひとつという思いがつのつことあっても、忘れられずに自らの意思で、1972年に2回目のリリースをする。だが、この時点でも「おまえに」という歌にこめられたフランク永井の意図と世間の受け取りに差があっていまひとつ盛り上がらなかった。
 多くの日本人の男は正面から妻に感謝の意を表現するのが苦手。このときに、ちゃらちゃらした浮ついたものではなく、そのような男と気持ちをさらりと「そばにいれくれるだけでいい」というような表現を書いた天才岩谷時子の感覚がさえる。フランク永井のような熟した男の気持ちが広く受け入れられるようになったのは、カラオケ文化の到来とも重なってくる。
 1977年に、フランク永井の決意の頂点とも言えるあえて3回目の吹き込み直しによる「おまえに」の発売。B面は「妻を恋うる唄」でこれも代表曲のひとつになった。この時期になってようやく花が開いていく。声もいっそうフランク永井らしくなり、よく効き比べると一部歌い方もかえている。12年がかりで、3回吹き込みなおしによるリリースはこの「おまえに」だけだ。
 フランク永井の秘めた執念が実現した、この「おまえに」はいまでもカラオケでは歌われているランキングが高いと聞く。
 恩師への感謝の姿勢がこのような形で実ったというエピソードは、いまでは広く知られていることではあるが、フランク永井のこの恩師への尊敬と畏敬、信頼を貫くとい
うことの大切さをこそ、人は知り実行すべきということをいま静かに訴えているように感じる。
 このような「おまえに」が今年生誕の地に、まさにふさわしい形で完成し、それをお祝いし、こころから喜びたいと思う。

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 「おまえに」の歌碑が建った。この歌について、フランク永井の恩師でもあり、作曲を自らされた吉田正が、1978(S53)年に書いている。
 岩谷時子が吉田正ご夫妻をイメージして書かれたのではないかともいわれるこの詞について、そして曲作り、それをみごとに歌い上げ、完成にたどりついたフランク永井の歌唱について触れている貴重な記述があるのでその箇所を紹介したい。

 歌のヒットの経路ぱ非常に面白いものがある。いまのようなマス・セールで、テレビを中心とした媒体にとにかく露出させて、ほとんど押しつけるような形でヒットに仕立てていくやり方というのは、何とも味わいがないように思えてならない・本来のヒット・ソングというものは無理のない形で、ということは、自然に大衆が好んでいく歌のことをいうのではないか、といまでも思っている。作られたヒットではない大衆との。「情」の通い合うヒットこそいま求められているものなのでぱないか、と考えることもある。
 フランク永井に作った「おまえに」という歌がある。詞は岩谷時子さんで、四十一年十一月に出した歌だ。しかもA面の「大阪ろまん」のB面で出したものだった。
 〽そばにいてくれるだけでいい......淡々とした語り口で、男の心を素直に出した詞だった。
 曲もこの詞に合わせるように、言葉を活かして語りかけるような形に作った。
 どちらかといえば、地味な歌でいわゆる派手に大ヒットするといった華やかさはない歌だった。それが、いつの間にか歌われ始めてリクエストも多かった。ことに、フランク永井君がナイト・クラブなどで歌うと、必ずといっていいほどアンコールされる。しみじみ歌いかける彼の唱法の良さが充分に発揮されたわけだが、あまりのリクエストの多さに、四十七年九月にはこんどはA面にして再発売した。こういったケースは全く珍らしい。というのも、この歌の味わいを、フランク永井君がじっくり歌い上げたからだったのだろう。良い歌ダつ必ず大衆よ支持してくれる、という一つのサンプルといってもいい。
 それにしても、このような語りかける歌というものは表現が非常に難かしい。感情表出を誇張すると嫌や味になるし、感情を伝えることが出来ないと味も素っ気もないものになってしまう。
 例えば「おまえ」という言葉一つをとってみても、聴く人の心をその言葉だけで、惹きつけなければならない。感情を押しつけてもいけないし、また、感情を殺しても聴く側に心が伝わらない。抑制の利いた感情移入が必要となるのである。おそらくいまの歌手で、こういった語りかけを巧みに行えるのは、フランク永井君と石原裕次郎君ぐらいではないだろうか。
 共に、男っぽさを持っているし、優しい言葉の響きを伝えられる歌手である。その根底にあるのは俗にいう「テレ」といえる質の感覚である。これをさらにつきつめていくと、男のハニカミといったような感情を持ち合わせる、と思ったりもする。こういった質の感情、感覚は、いまの時代にだんだん少なくなってきている。多くは感情の誇張こそ表現だと考えているようなタイプになってしまっている。
 「おまえに」が、たとえ一部からでも強い支持を受けているのは、男の本来の意味での優しさが表現されたからだったと思っている。やはり歌は心の表現なのである。(吉田正)

出典:演歌大全集~演歌-その魅力のすべてより。㈱ほるぷレコードの企画で全盛の歌謡曲時代、レコード会社のトップビクターとコロンビアから20枚LPを出すことに成功したとき、豪華な解説書を添付した。その中の一文(一部)である。

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 10月の半ばに「かつてない大きさの台風」が到来して伊豆大島をはじめ全国に被害続出。これが上陸していたらどんなだったのだろうと想像もしたくない。TVでの大島の様子は311の被害を想起させる。
 近く来るという大地震も不安を募らせる。近年の異常気象の原因は太陽の活動の変化だとか、CO2をはじめとする毒素の大量放出だとかいわれる。だが、千回を超す地球への核の攻撃(核実験)とか放射能物質を含む原発での廃棄物の海への放出によって、ガイア(地球)がブルッと震えて抵抗しているように思えてならない。
 この時期なのにまるでまだ夏というような暑い日もあったが、さすがにその後は秋らしい気候になってきた。これから急に冬もようになっていくに違いない。
 さて、今月はフランク永井の命日でもある。生まれ故郷の宮城県大崎市松山では、「おまえに」の歌碑が建立されその除幕式が催される。
 この時節は別項でも触れたTV番組編成の切り替え時期を埋める歌の特番で、さまざまな形でフランク永井の出番があり楽しめた。同時にこのフランク永井の亡くなった月の前後にはラジオ番組でも楽しめるのがうれしい。
 すでに、9月7日にはNHKラジオ第1「関西発ラジオ深夜便」が放送された。にっぽんの歌こころの歌「"真夜中の夢の競演"フランク永井&北原謙二」(ナビゲータ:中村宏)。
 また、10月16日NHK-FMでは「歌謡スクランブル-日本列島歌の旅-(2)」で「有楽町で逢いましょう」。
 さらに、来たる10月23日NHK-FMラジオ深夜便で「にっぽんの歌こころの歌~思い出の歌謡スター:フランク永井集」(ナビゲータ:石澤典夫)が予定されている。深夜3時から、つまり「東京午前三時」である。
 ここでは、「有楽町で逢いましょう」「霧子のタンゴ」「おまえに」などのCDが流されることになっている。ぜひとも、可能な方は耳を傾けていただきたい。
 銀杏咲き誇る公園。秋のこのイメージは「公園の手品師」。1963年、デビュー8年後に初のリサイタルを開き大盛況。ファンが待ち望んでいた会場で趣向をこらしてうたわれたのが新曲「夏の終りに」「秋」(と「冬子という女」「微笑み」)。これらは今も好きな曲である。秋をイメージさせる。
 「霧子のタンゴ」(1962:VS-861)は、フランク永井の代表曲のひとつで押しも押さぬ名曲。恩師吉田正の作詞作曲である。この曲は吉田正が歌手を育てるときに、その歌手の持つ底力をみきわめる練習曲としても利用されたと思える。フランク永井がみごとに歌い上げている。他の歌手の追随を許していない。
 しかし、この曲ができたのは平尾昌章(当時の表記)が歌手としてキングからビクターに入り吉田正に学んだときに、平尾のために作られたと後に記している。確かに平尾がデビュー後いくつかの大ヒットにめぐまれたものの、健康とかのために一時低迷していた時期から復活をめざしていたときだ。
 平尾が布施明に作った「霧の摩周湖」とかのような含みが感じられるもので、平尾の歌唱にもあっているように思える。ところが時のフランク永井を担当するディレクターがこれはフランク永井のがいいといって、平尾からいわせれば横取りしてしまった。確かに、残念な話である。
 そんなこともあってか、この盤のB面には「哀愁のバイパス道路」という曲が入った。平尾のヒット曲としての人気は別として、結果「霧子のタンゴ」が出た数だけこの曲も出たことになる。
 フランク永井の歌謡曲の第1曲目の「場末のペット吹き」が吉田正の盟友鶴田浩二のために書いたのにフランク永井に謡われて悔しがったり、「有楽町で逢いましょう」を三浦洸一にと強く主張したそごうがあったり、というようなこと、つまりちょっとしたきっかけでの流れのがこうしたことを生む。しかしこれこそその業界の持つ性質でもある。
 そんなことを思い起こさせてくれるフランク永井の歌とこの秋。
 (平尾昌晃著「気まま人生歌の旅」。この話題はいつも情報を提供してくださるⅡさんからもいただきました。ありがとうございます)
 平尾昌章といえばロカビリーであるが、初期に「星は何でも知っている」「ミヨチャン」では日本全国にショックを与えた。平尾昌晃は現在の歌謡曲界にあって歌でも作曲でも大変な功績を残した重鎮となっている。フランク永井はオリジナル、カバーを含めて9曲の平尾作曲の曲をレコードに残している。
 「霧子のタンゴ」は、映画(1963:日活)にもなった。ビデオが出されているのでこれはいつでも楽しめる。またこの曲はフランク永井が台湾公演にいったときに急きょ作ったという英語(と日本語の混在)バージョンも残されている。

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 季節変わりにかぶさるようにTV番組の再編がされる。TV番組で話題になったのはNHKの朝のドラマの「あまちゃん」とTBSの「半沢直樹」。ふたつとも観ていたが、確かに観てて楽しかった。ドラマの展開の切れがいいというのか、人気があるのが分かる。
 さて、番組編成の変わり目というか、すきまに定着しているのが歌謡曲番組を含めた特番である。特番は妙に時間が長いので、観てる時間もとれずにほとんど観ない。しかし歌謡曲とか懐メロとかとなると、ビデオにとって観るようにする。フランク永井の映像や歌唱を観るのも楽しみにしている。
 テレビ東京は以前から歌謡曲番組には力が入っていて、他局が歌謡曲離れをした時期でもコンスタントにコーナーを保持してきた。また近年にしっかり定着したと思える「ベスト・ヒット歌謡」もつい観てしまう。これは歌は確かに流れるのだが、番組が20年をカバーするためか、ブチ切りだ。1番の歌詞の実際に歌う箇所だけで、前奏・間奏の余韻などはゼロである。1番であっても長いと途中からフェードアウトとなる。そうであっても、この番組は歌謡曲が戦後全盛だった時期にはやったのを年ごとに1位から3位までを発表してくれる。当時のオリコンランキングや別途街のアンケートが情報ということになっているでの、放送されるたびに同じというわけではない。
 フランク永井が世間に最初に注目されたのは、「有楽町で逢いましょう」で1957(S37)年。11月にリリースなのでその年の暮といっていい。また同名の映画は翌1958年の1月。SP時代なので、多少宣伝は先行していても、この年から全国的に広がって行ったと言ってよい。しかし、半世紀も前の話なので、現在から見たときのイメージとしてはリリース年である1957年の「大ヒット曲」として扱われていく。現在から観るとその時期にリアルタイムで「有楽町で逢いましょう」に感銘を受けたひとであっても、大きな自分の周辺の出来事との印象が強烈に残っている人を除いては、その時期の数年間の区別は厳密にできないので、リリース年での扱いは妥当なことといえる。
 現在の有楽町の巨大ショップモール「イトシヤ」は、歌の歌詞「...雨もいとしや歌ってる...」から採用されて、見上げればかならず目に入る。
 今年の秋のこの番組では、フランク永井の歌では他に、1959(S34)年の「東京ナイトクラブ」、1961(S31)年の「君恋し」が取り上げられた。やはり、フランク永井が歌ったこれらの曲への印象は絶大であることが確認できる。「東京ナイトクラブ」は大人のムード歌謡、それも男女のデュエット曲という点では最初で画期的なものであった。吉田正と佐伯孝夫の先見性を示している。
 この曲はその後つぎつぎと後継というか、競合というか、同様のデュエット曲を生んでいく。何よりもその代表曲は、石原裕次郎と牧村旬子による「銀座の恋の物語」(大高ひさを作詞・鏑木創作曲、1962テイチク)である。日活映画「銀座の恋の物語」の主題歌である。この主題歌を作るときに「東京ナイトクラブのような...」という指令で作ったものだ。デュエットしたのは映画にジャズ歌手ででている牧村であるが、当時映画製作が信じられないほど時間的に余裕をもたないで作られていたため、主題歌も超短時間でつくられたという。わずか数時間の練習で吹き込まれた。
 テイチクはヒットに気をよくし、その後浅丘ルリ子、八代亜紀を相方にして何度もレコードをリリースしている。この曲はフランク永井も松尾和子とのデュエットで歌っているので、裕次郎とは一味違う違う歌唱が楽しめる。歌がうまいふたりだけに、こちらはこちらで雰囲気は他をしのぐものがある。
 足の長い裕次郎、若くやんちゃで、老若問わず母性をくすぐるこのスターがきままに歌うこの曲は映画と共に受け入れられた。まあ、デビュー期からオジさんの雰囲気の先輩フランク永井も彼の人気には水をあけられた。そんなことから、デュエット曲戦では「東京ナイトクラブ」は2番手になってしまう。それでも、盟友である松尾和子とのこのデュエット曲はいまでもカラオケでは多く歌われ、引き継がれているのは大変なことである。
 「君恋し」は1961(S36)年の日本レコード大賞受賞曲。フランク永井の代表曲でありレコードがSPからEP時代に変わりプレーヤーが日本国中に拡大していく中での記録的なヒット曲。しかし、この歌も同年の大ヒットとなった「銀座の恋の物語」の超ヒットに食われた。それほど、この時期の流行歌の連打はすごかった。
 ちなみに、坂本九「上を向いて歩こう」、村田英雄「王将」、植木等「スーダラ節」、アイ・ジョージ「硝子のジョニー」等々流行歌の歴史をきらびやかに飾る名曲はこの年に生れている。
 そんなことを想い出しながら、この番組を楽しんだ。もちろん焼酎で頭をしびれさせながら...。

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