2013年8月アーカイブ

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 フランク永井が1961(S36)年に「君恋し」を歌い日本レコード大賞を得たのだが、この「君恋し」はもともとが古い歌で初期の二村貞一をはじめ、多くの歌手が歌っていることで有名だ。
 当日記でも何人かの歌唱を紹介してきたが、今回は同じビクター歌手でフランク永井と活躍した時期が重なる青江三奈の「君恋し」を紹介しよう。
 青江三奈が「君恋し」をうたっているのは、1919(S44)年の「盛り場流し唄~青江三奈」(SJX-14)である。
 この盤では下記の12曲が収まっている。

 船頭小唄 / 無情の夢 / 湯島の白梅 / 島の娘 / 長崎物語 / 君恋し 
 盛り場ブルース / 戦友 / 夢は夜ひらく / 南国土佐を後にして / 明日はお立ちか / 潮来笠

 戦前からの古い日本の名曲とフランク永井、森進一、橋幸夫といったビクターの同僚やペギー葉山の曲のカバーをしている。古い名曲については、青江三奈は別途に「さすらいの唄/青江三奈~中山晋平メロディーを唄う」(SJX-30)がある。当時はこのシリーズを人気歌手はかならず歌わされてレコードを出すというのが流行りだった。
 自分のオリジナルの歌はさまざまな手法でうまく歌えても、他人の歌をちゃんと聴衆に聴かせてうなずかせるというのは、そう安易なことではない。やはり、名歌手はここが違う。
 青江三奈も同様だ。先に藤圭子をとりあげた。藤は子供のころから家族で全国をまわってて、いわば流しとして膨大な曲を何度も歌いこんでいる。これが歌唱を支えていた。
 青江三奈は若い時からのクラブ歌手としての年季である。流しもクラブも客の真ん前で歌うことから、半端な歌い方では相手にされない。歌いこみ、客の微妙な聞き取る際の顔の動きから、何が歌に必要なことなのかを肌で知る必要があるかを知らされる。
 青江はそのなかで、高い音から低い音までの正確な歌唱に加え、あの独特の声質を売りにできたのである。
 当時、ビクターからハスキーな男女の歌手として森進一とともに売り出したのが、青江である。またこの歌声ははまり歌として「伊勢佐木町ブルース」(1968、作詞:川内康範、作曲:鈴木庸一)、デビュー曲の「恍惚のブルース」(1966、作詞:川内康範、作曲:浜口庫之助)などブルース調のものがある。特に前者は溜息・吐息を曲に乗せたことが物議をかました。
 奇才川内康範の圧倒的な刺激性のある詞である。それをうまくこなしたのが青江である。NHK紅白ではここに別の音をかぶせるという愚挙まで話題になった。
 お色気という色がついたがこれらは決して本人の意図ではない。本人を売り出したことには感謝すれども、不本意なカラができ、長く悩ますものでしかない。
 「君恋し」もそうだが、青江の歌はみごとである。このLPは、ビクターの復刻シリーズで2008年にCD化(VICL-63052)している。これを聴くと青江の歌のうまさが光る。どの歌を聴いても安定した、しっかりした歌が説得力を持って聴こえる。
 青江は最後にすい臓がんで若くして亡くなった。フランク永井が第一線からひいた1985年にテレビで「東京ナイト・クラブ」を青江とデュエットしているのがのこされている。今でも多くのファンいる。レコードのジャケットをみると、心なしかあの青江の顔に淋しさが残る気がする。

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 先日藤圭子が寂しく亡くなった。ご冥福をお祈りします。
 歌手に対する好き嫌いは別にして、昭和の歌謡史に忘れられない足跡を残した歌手である。
 清廉な美形のととのった顔立ちだが、ドスの効いた歌唱は聴く人に深い印象を残した。1969年に18歳で「新宿の女」(第一回日本歌謡大賞を受賞)、その後「圭子の夢は夜ひらく」「女のブルース」「京都から博多まで」などのヒットを連発し70年代にかけ一世を風靡(ふうび)した。
 今年3月に逝去された作詞家の石坂まさをが藤圭子をみいだしたといわれる。
 藤圭子は岩手県一関市で生まれ、浪曲師の父と三味線の母と北海道旭川市で育つ。成長して自らも旅回りに同行して歌う生活から、エンターテナーとしての素養は早くからそなわったといえる。
 少女が表情を変えずに枯れた衝撃的な歌唱はかつて誰も聴いたことがないものであった。
 さて、1980年ごろにRCAレコードレーベルでビクターから「圭子の人生劇場」というLPを出した。
 藤圭子がデビュー前に全国旅回りをして小さな舞台で歌っていた日本の名曲集だ。あらためて、一枚のレコードの収めたものだ。

人生劇場、長崎物語、君恋し、熱海ブルース、船頭小唄、鈴懸の径、裏町人生、ゴンドラの唄、祇園小唄、湯島の白梅、籠の鳥、網走番外地

 最後の曲は、藤圭子の独特の歌唱に合わせて採用したものであるが、これらのタイトルのようにまさに日本の大衆から愛された歌をまとめてある。
 これらの歌は、フランク永井も幾たびか歌い、歌い継いできた。なかでも「君恋し」は独特の編曲とあいまって大ヒットを得たものだ。カバー曲は日本レコード大賞の対象にならない、という規則が当初からあったかどうかはまだ調べていないが、こうした規則をも吹き飛ばすオリジナリティがフランク永井の歌唱にあったためだ。
 藤圭子が「君恋し」を歌っているということで、このレコードも購入してしまったのだが、この度あらためて針を落としてみた。
 フランク永井のはジャズ。藤圭子のは恨み節、怨歌としてリッパに完結している。ねばりのあるフランク永井とは少し異なる女重低音(決して低音ではないのだが)がとどろく。そういえば、フランク永井の声も決して「低音」でない(ところもある)のだが重低音を感じるのは妙な一致。
 ということで、藤圭子の歌に思いを向けてみた。

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 しばらく「歌伝説~フランク永井の世界」について書いてきたので「公園の手品師」についても記しておきたい。
 「公園の手品師」についてはこの番組では全体をよくまとめられていた。インタビューも含めた取材力もうなずける。
 この曲の作詞は宮川哲夫で、彼のこのについての記録はきわめて少ない。東京三田、東京町田に資料があり、「波浮の港」で有名なその地に生まれた。そのあたりをくまなく取材している。彼の記録については「吉田正」(金子勇著 2010:ミネルヴァ書房)が一番よくまとまっている。
 宮川哲夫はフランク永井に対して、佐伯孝夫に次ぐ多くの詩を提供している。「夜霧の第二国道」「羽田発7時50分」「場末のペット吹き」「夜霧に消えたチャコ」などの大ヒット曲を先頭に60余曲を書いている。その貢献度からしてフランク永井を語るときに忘れてはならない作詞家である。
 「公園の手品師」は番組での紹介があったように、フランク永井がデビューした年(1955年)の日活映画「男性NO.1」で鶴田浩二が歌ったものだ。しかしこのときには何の話題にもならなかったようだ。吉田正はフランク永井に流行歌を歌うようにすすめ、ここでこの名曲をレッスンで徹底的に使ったと思える。翌年11月に大阪のラジオ局(大阪朝日放送)のホームソングで取り上げられた。
 このときの視聴者の反応がすごく、本来は15日の放送が要望が多く1か月の延長で放送した。しかしこれがすぐにレコードになったわけではない。そもそも鶴田の歌った曲でもあったし、ラジオでの先行ということもあり、躊躇していた模様だったが、視聴者からのリクエストを受けてついに、1958年(S33)に「たそがれ酒場」のB面でリリースされた。だが、この時点はタイミングが悪かったからかたいして注目されないままに終わった。
 それにしても「公園の手品師」の曲のシャンソンにつながるような、時代を感じさせない、大きな盛り上がりはないが人の心をひきつけてやまない、いつ聴いてもなごむ曲は、静かに、長くファンを魅了していく。いつまでたっても、忘れられない。リクエストは多くはなくても絶えない。
 そのようなことから、フランク永井は機会があれば歌っている。そして、1978(S53)年に、再吹込みでレコード化する。ちなみに、B面の「夏の終りに」は1966(S41)年に催された歌手生活10周年記念第2回リサイタルでの特集「女の四季」の一曲である。この曲も一度聴いたら視聴者に静かで深い印象を与える名曲であった。
 フランク永井が吹き込み直しというのはそう多いわけではないが、この「公園の手品師」はこうしたさまざまな思い出を長く保持した一つなのである。
 いつ聴いてもフレッシュさを感じるこの「公園の手品師」は、根深いファンが多く、カラオケでも人気のようだ。吉田正が宮川の詩に対しフラットな曲をつけているだけに、歌い手がそれを見事に表現したときに、そのフラットさががぜん活きる。それだけにうまく歌いきるのは歌手の深い詞への理解と歌唱力が問われる。
 近年にフランク永井を「先輩」といって慕っていた三田明がカバーしている。鶴田、三田の歌唱と比較して聴き比べてみるのもおもしろい。二人の個性的な歌もいいが、ファンにはフランク永井の卓越した歌唱が光る。
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 NHK-BSプレミアムから先に繰り返し再放送された「歌伝説~フランク永井の世界」を何度か繰り返して観た。フランク永井のエッセンスがまとめられているとつくづく感心する。
 今年ももう8月に入った。8月になるといまだに1945(S20)年の終戦を思い起こすさまざまなことが取り上げられる。第二次世界大戦において日本は大きな痛手を受け、勝った連合軍の支配下となり、マッカーサーによる進駐軍20余万人が全国に駐留した。
 フランク永井の故郷宮城県は仙台に進駐軍が来て、そこで働いたこともこの番組で紹介していた(写真左上)。私の故郷である山形もしかりで、いま山形空港のある神町に来た(写真左下)。私の村には米軍射撃場があり、夜空はその訓練で砲弾のとびかう様子はまるで花火のように輝いていたのを思い起こす。
 進駐軍の動きはすばやい。この年の9月に、進駐軍放送(当時のWVTR後のFEN)をNHKのスタジオから放送を開始している。米兵が喜ぶというのが目標で、アメリカン・ポピュラーも、ジャズもタンゴもシャンソンも、すべてひっくるめて軽音楽と呼んで流された。
 日本はRAAを発足し米兵に慰安所を含む(今はタブーのようだが)だけでなく、ダンスホール、キャバレー、クラブなどを提供し、村から多くの人びとが働いた。
 日本の戦後の音楽、歌謡曲、ポピュラーソングは実はここから大きく成長したといってよい。ここに働き口があり、バンドマンをふくめて音楽をめざすものは皆ここではたらいた。江利チエミ、雪村いずみ、ペギー葉山、ウィリー沖山をはじめ、フランク永井とゴールデンデュエットを組んだ松尾和子(18歳米クラブでの写真右下方)もそうだった。
 この進駐軍は1950年の朝鮮戦争でも膨れ上がり、特需にもなり盛況をきたしたのだが、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効となり進駐軍はさっと引き揚げ、現在の沖縄を中心とする在日米軍と変わっていった。
 田舎からかき集められ地球の裏につれてこられた米兵を喜ばすための組織は、そのほとんどが解散となり、行き場を失うのだが、高度成長で見違えるように変わった都会では日本人のダンスホール、キャバレーができて、ここに流れていく。
 このあたりの動きを記しているのは写真右下の「進駐軍クラブから歌謡曲へ」である。フランク永井についていえば、この書籍での記録の直後からの活躍が主になる。写真右上の1958(S33)年4月号の「婦人生活」に紹介しているのが参考になる。
 「低音の魅力~フランク永井ものがたり」として、佐伯明夫が書いている。フランク永井が宮城県からでてきてから、米軍の施設やキャンプで働き、ジャズ歌手をめざしたが恩師吉田正とともに歌謡曲の道を歩みだし成功をおさめているあたりまでのものがたりである。
 フランク永井がそうであるように、戦後の日本の音楽界を築いた方々は、この進駐軍のクラブでの経験者たちであると言ってよい。
 番組「歌伝説~フランク永井の世界」は、戦後日本のとおってきた忘れられないひとこまを、この8月という暑い季節が来るたびに思い起こさせるのである。

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