


NHKのこの番組の紹介:
低音の魅力と共に、都会派ムード歌謡を代表する歌手として、昭和の歌謡史に一時代を築きあげたフランク永井さん。ぬくもりと包容力にみち、語りかけるような歌声は、世代を越えて多くの人々を魅了しました。
番組では、2008年に亡くなったフランク永井さんの歌手としての魅力を、ゆかりの方たちのお話で紐解きながら、「君恋し」や「有楽町で逢いましょう」、松尾和子さんとのデュエット曲「東京ナイト・クラブ」などのヒット曲の数々をご紹介します。(初回放送:BS2 2009年3月1日)
【コメントゲスト】村松友視(作家)、ペギー葉山(歌手)、入船亭扇橋(落語家) ほか【語り】石澤典夫アナウンサー【プレミアムアーカイブス・キャスター】森山春香アナウンサー」
この番組の製作はこの種の「全集」もので定評があるアズ・クリエーションである。ディレクタの藤原さんの姿勢とセンスがすばらしい。「フランク永井をまとめるのに、生誕地を見ずにはできない」といって自ら現地に足を運び多くの人の証言を得ている。
宮城県大崎市松山でのトランペットのエピソードなどフランク永井の子供時代のイメージが甦った。当時米軍の占領時代で全国に進駐軍がいた。その一つである仙台の進駐軍にて働いたエピソード。車の免許証を得て東京芝浦の米軍の駐車場施設ですでに働いていた兄を頼って上京してトレーラーの運転手になるエピソードと続く。
事故で退職し、坐骨神経痛の治療をしながらラジオのジャズのど自慢を聴き「マイ・ベイビーズ・カミング・ホーム」をひっさげて挑戦、常連の勝者になる。そうしたことがきっかけでビクターに入社する。この当時、生活のために米軍朝霞キャンプの下士官クラブの専属歌手に雇われもする。
このあたりのことについては、フランク永井はライブ「アット・労音」や「歌手生活15周年リサイタル~ある歌手の喜びと悲しみの記録」で語っている。また朝霞の基地での公演時代のエピソードは1975年1月27日の「夜のヒットスタジオ」(だったか?)でもわかる。また、日本の進駐軍時代のクラブでの日本人歌手の公演の模様については、「進駐軍クラブから歌謡曲へ」(2005:東谷護著、みみず書房)が参考になる。だがこの書籍での進駐軍時代は1952年までで、残念ながらフランク永井がかかわる直前までのレポートである。同僚の雪村いづみや、歌番組で登場したペギー葉山がでてくる。
さて、夜のヒットスタジオだが、この映像は残っていない。2010年9月4日の「文四郎日記」に記した一部を再編成して要点を紹介することにする。
番組ではコウチャンとも呼ばれていた方で、佐藤コウノスケさん。朝霞で歌っていたときのバンドのベースをやっておられた方。フランク永井は有給なのはじめてのプロ歌手なのだが、これで生活をしていけるわけではない。この時期に当然舞台衣装もちゃんとしたものを持っていない。
そのときに、コウチャンが登場する。番組にでていたと思える彼のお父さんが洋服屋をされていて、コウチャンのはからいで長期月賦でショー衣装のタキシードをあつらえる。私らが初期のフランク永井といえばイメージに浮かぶタキシード姿は、このころからの着慣れた姿だったのだ。
ビクターに入るとキャンプで歌うことがなくなったこともあり、おのずと会う機会を失っていた。番組が探したときには、1972(S37)年3月30日というから番組の3年前に、39歳の若さでコウチャンはすでに亡くなっていた。東京が住まいで、亡くなるまでフランク永井の出演するテレビ番組は欠かさず観ていたという。そして、自分の目の前で「有楽町で逢いましょう」を歌ってもらえたら、といつも言っていたという。
番組には本人に代わってご両親がコウチャンの遺影とともに出演し、その前で「有楽町で逢いましょう」が歌われた。
フランク永井がこうしたかつての恩人についての思わぬ知らせを受けた直後であるだけに、感情を抑えて必死に歌をうたう姿は見ているものの胸を打つ。「有楽町で逢いましょう」もそうだが、この番組で歌われた「たった一度の愛の言葉」も特別に聴こえてくる。