2013年4月アーカイブ

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 下記は1959年から1961年までのリストで、前回に1行漏れたのでそれを含める。最後のものが映画のタイトルでその前が使われた歌の題名。リストには先に紹介した洋画が3本ある。

1958 東宝 東京ダーク・ムーン他 ロマンス祭り
1959 日活 俺は淋しいんだ 俺は淋しいんだ
1959 東宝 初恋の山 初恋の山
1959 松竹 口笛のブルース 激闘
1959 20世紀フォックス アイル・リメンバー・トゥナイト 恋愛候補生
1959 ワーナー・ブラザー 縛り首の木 縛り首の木 The Hunging Tree
1959 松竹 東京ナイト・クラブ他 東京ナイトクラブ
1959 東和商事 望郷(ペペ・ル・モコ) 望郷(ペペ・ル・モコ)
1959 日活 ラブ・レター らぶれたあ
1959 大映 (不明) 秘めたる一夜
1960 東宝 好き好き好き セクシー・サイン~好き好き好き
1960 日本教育テレビ 涙なんか あの波の果てまで
1960 日活 俺は流れ星 俺は流れ星
1960 日劇 夜霧の男 東京の屋根の下で
1960 読売テレビ 大阪野郎 大阪野郎
1960 日活 東京の子守唄 東京の子守唄
1961 松竹 初恋ぼんぼん 続々番頭はんと丁稚どん
1961 松竹 フランス航路 続々々番頭はんと丁稚どん~チャンポン旅行
1961 松竹 (不明) 大当り三代記
1961 松竹歌舞伎 東京デイト 東京踊り

 1958年はフランク永井にとって忙しかったと先に記したが、1959年からのこのリストの3年間も相当な多忙の渦のなかだったようだ。
 映画やドラマ関係はリストのとおりだが、この他に全国各地での公演、ナイトクラブ等への出演、ラジオ番組、新聞雑誌でのインタビューと撮影とある。本職の歌のほうは、1958年を上回っている。1959年=37曲、1960年=38曲、1961年=21曲の新しい曲を吹きこんでいる。この3年間のLPは16枚に及ぶ。
 売れている歌から映画がつくられるという前年の傾向から、映画に人気歌手の主題歌を入れるという傾向に変わっているのが分かる。「初恋の山」『口笛のブルース」「涙なんか」「俺は流れ星」「夜霧の男」等々。

 リストにあいまいなままに載せてしまったのは「日劇」「松竹歌舞伎」だが、舞台だと思える。何年か前にデータブックの資料を整理しているときに「「東京デイト」という曲が忘れられないのだが、レコードもCDもいくら探してもないので、もしやお持ちではないのかとようやくたどり着いた。あれば聴かせてほしい」と、知人を介して訪ねてこられた方がいた。レコードを聴いていただきて大変喜ばれたのを思い出す。
 「東京デイト」はその後2007年に「東京の夜は楽し~1960's Tokyo Love Story」としてリリースされた2枚組CDに入れられたので、今はだれでも楽しめるのだが、明るくていい曲である。
 「大阪ぐらし」など大阪ものでも人気をはくしたフランク永井は花登筐の脚本でショーをやりその人気からテレビ番組になったのが「番頭はんと丁稚どん」。大村崑、芦屋雁之助、浪花千栄子らがくりひろげるドラマが親しみを感じさせた。1959年から61年まで次々に続編がつくられた。ここではさまざまな歌が歌われたようだが、レコードとしては「初恋ぼんぼん」「フランス航路」が出されている。吉田正記念オーケストラがシンフォニーバージョンで演奏しCD化されている。「初恋ぼんぼん」にいたっては、指揮者の大沢さんが歌まで歌っている。「ボーン、ボーン...」というところが印象的な歌である。
 「秘めたる一夜」というのは、これもポスターがフランク永井常設展示室で観ることができるのだが、ここでの曲は観ていないので確認できない。タイトルはべつにカラッとした作品であるようだ。
 「東京ナイトクラブ」も詳細が不明なのだが、ポスターのキャプションから感じるのはどうも、当時ビクター所属の人気歌手が歌謡ショーをしているもののようだ。まだテレビがあってもまだまだ普及がすくなく、ラジオの時代なので、現在テレビで楽しんでいる歌番組のようなものを映画館でというような趣向であったのだろうか。
 「セクシー・サイン~好き好き好き」はいかにも明るく楽しそう。「有楽町で逢いましょう」と同じ川口浩、野添ひとみコンビの映画で、フランク永井も「フランク熊谷」で顔を出す。この映画は来月の5月25日から一週間「日本映画専門チャンネル」で放映される予定になっている。このチャンネルをご覧になれる方は限られるかもしれないが、この機会にぜひとも観て感想をお寄せいただければうれしい。
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 フランク永井の関与した映画の話をもう少し続けよう。まず、下記のリストだが、洋画「悲しみよこんにちは」の洋画にあてた歌を含めて何本かは歌だけの吹き込みではあるが、多くに出演もしている。(曲名、映画タイトルの順)

1958 日活 場末のペット吹き 場末のペット吹き
1958 日活 東京午前三時 東京午前三時
1958 日活 夜霧の大に国道 夜霧の第二国道
1958 日活 羽田発7時50分 羽田発7時50分
1958 大映東京 有楽町で逢いましょう 有楽町で逢いましょう(カラー)
1958 コロムビア 悲しみよこんにちは 悲しみよこんにちは
1958 日活 西銀座駅前 西銀座駅前
1958 松竹 夜の波紋 夜の波紋
1958 東映 夜霧の南京街 夜霧の南京街
1958 松竹 有楽町0番地 有楽町0番地
1958 日活 青い国道 青い国道
1958 大映 たそがれのテレビ塔 たそがれの東京タワー
1958 日活 夜霧に消えたチャコ 夜霧に消えたチャコ
1958 東京映画 こいさんのラブ・コール 女であること

 前年の1957年の11月に発売された「有楽町で逢いましょう」が大ヒットを迎えたことから、フラン ク永井の人気は一気に盛り上がったのである。急上昇のこのタイミングにフランク永井を使えるだけ使って しまおうという動きである。ラジオ、グラビア誌はいうまでもなく、映画界でもどんどん彼の関与を申し入 れたのだ。
 歌はこの時ぞばかりに、新曲を大量に吹き込みレコード売り出しをしたのである。フランク永井があまり 売れなかったデビュー初期の洋楽から流行歌に転向したのが、この前々年の「場末のペット吹き」であるが 、1956・1957年にさかのぼってレコードが大売れしたのである。これも「いい歌だぞ」と評価され た「場末のペット吹き」「東京午前三時」「羽田発7時50分」「夜霧の第二国道」が急きょ映画化されて いる。いま振り返ると、この熱気は激烈で、いかに過酷であったかをしのばせる。フランク永井はまだ20 代前半で若く、あれよあれよといううちに巻き込まれてしまった環境を、例のニコニコしながらこなしてい ったのである。ただただエライ!と褒めてあげたい。が、同時にいくら人気者とはいえ、こんなにぞうきん のようにコキつかちゃってエエのか?ともいいたい。
 まあ、しかし、当時は戦後の復興に向けていかに日本中が夢中であったことか。背後に多くの苦しみがあ ったこともいうまでもないのだが、夢と希望に燃えていたのも事実だ。大変な勢いであったことがこの数字 から感じられよう。
 当時映画といってもまだ多くはモノクロで、「有楽町で逢いましょう」だけが力のはいったカラー。また 、現在のテレビドラマのごとく、30分程度から1時間ものも多く、現在の2時間シリーズはまだ定着して いなかった。
 「有楽町で逢いましょう」は大阪から進出して有楽町に新たに開店するそごうデパート。そのキャンペー ンを張るのに当時日本で上映されたのかどうかは知らないが米ミュージカル映画「ラスベガスで逢いましょ う」のタイトルからヒントを得て「有楽町で逢いましょう」をキャッチに使うことにした(豊原英典宣伝部 長)のだそうだ。
 この企画をいち早く耳にしてカンを働かせたのがビクターの重鎮であった作詞家佐伯孝夫。彼が盟友吉田 正に話し、互いにこれは「都会調の日本の歌」をめぐらしてきたことに沿う絶好のテーマと取り上げ、そご うと話があった。月刊誌「平凡」での小説連載、大映での映画化と戦線をひろげて実現したのがフランク永 井の「有楽町で逢いましょう」だ。
 4年前に創立した日本テレビにそごうがスポンサーになって開店の年の1957年4月に番組目「有楽町 で逢いましょう」の歌番組をスタートさせた。雑誌「平凡」で小説の連載が始まる。5月にはそごうは開店 し、当日は1万8,000人、うわさではのべ30万人が押し寄せたともいわれるがハテ。フランク永井の歌 は11月に発売。映画は1958年1月にロードショー、という順でかつてない大キャンペーンが展開された。
 突出したのはフランク永井の歌。「君の名は」以来のにわかに脚光をあびることになった闇市街の有楽町 は、東京=都会を代表するイメージの町として日本全国からあこがれの的となった。テレビがほとんどない 時代に歌で都会のイメージを強烈に焼き付けられたのであった。
 1958年の上のリストで付言しておきたいのは「女であること」である。この映画ではフランク永井の 「こいさんのラブ・コール」が使われているのだが、製作が「東京映画」というのは独立映画製作会社とい うことか情報が少なくて、この映画の存在自身がつまびらかでない。しかし川端康成のれっきとした文学映 画で、香川京子、原節子らの名優が演じているもの。
 さて、DVDになっているのはあるのだろうか。先に「西銀座駅前」を知人がインターネットで観れるよ うにしてくれたのがあるが他は知らない。映画は昨年に大映の70周年記念で有楽町で「有楽町で逢いまし ょう」「たそがれの東京タワー」が上映されていて、これはご覧になった方もおられると思う。映画チャン ネルというのもあるが私はあいにくあまり知らない。
 2009年のNHK-BSの「歌伝説~フランク永井の世界」では「場末のペット吹き」で歌うシーンが ほんのわずかおさめられていた。しかし、過去の映画のシーンを映画会社が映画館で上映するということ以 外での映像のシーン(静止画像も含めて)テレビ局も含めたメディアが使用することは、複雑な著作権、映 像権等さまざまな版権の問題でそうとう厳しい壁がある。そのために料金のこともからみそう簡単にはいか ないのが実情とのことである。
 フランク永井の関与したこうした映画がまとめて特集でテレビでやってくれるのを希望したい。
 当時の雰囲気を表現しているのは映画ポスターなのだが、「有楽町で逢いましょう」のポスターが大崎市 松山の「フランク永井常設展示室」にこのたび新たに置かれた。当時のポスターは大変珍しく、貴重な逸品 である。
足を運んだ際にぜひともご覧になって欲しい。

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 洋画の主題歌、挿入歌とのかかわりについていえば、フランク永井はその後洋画には6件関係している。コロンビア映画「悲しみよこんにちは」(1958)、20世紀映画「恋愛候補生」(1959)、ワーナー・ブラザー映画「ザ・ハンギング・ツリー」(1959)、フランス映画「望郷(ペペ・ル・モコ)」(1959)、NET「戦場の恋」(1963)、東京映画・シナトラ・エンタープライズ「優者のみ」(1965)である。
 「悲しみよこんにちは」(1958:A-5229)はサガンの文芸もの映画の主題歌。佐伯孝夫の訳詞で全日本語の吹き込みになっている(データブックの表記井田誠一訳詞は誤記)。
 「恋愛候補生」の主題歌として歌っているのはI'll Remember TonightとB面の「縛り首の木」(1959:AS-6020)である。後者はフランク永井の事故との連想からか長い間ディスコグラフィからも消されこの盤そのものが無きものとされているような封印状態が続いていたのだが、現在ではレコードのCD化はまだだが、データブックをもとにデータとしては復刻している。映画The Hunging Treeはゲーリー・クーパー主演でときたまTVでも再放送されるので観ている方も多いと思う。
 ジャン・ギャバン主演の「望郷(ペペ・ル・モコ)」は「ギャビーっ」と叫ぶシーンも含めてフランク永井が歌っている(1959:VS-236)。これは昨年CD復刻されたので曲が聴ける。
 「戦場の恋」(1963:PV-34)は連続テレビドラマの主題歌として流されたので当時観ていた方は覚えておられることでしょう。My Heart Belongs To Youとしても知られていて、これもフランク永井のライブでよく歌われている。
 「勇者のみ」Not But The Brave(1965:JET-1509)は日本語版と英語版が両面を構成していて、当時ビクターと関係をもつリプリーズ・レコードからのリリース。フランク・シナトラが主演監督する日米合作の映画で、三橋達也等も出演する同名タイトルで上映された。この映画の日本語主題歌を歌う歌手をシナトラが探しているときに、日本人で紹介されたのがフランク永井。歌を聴いたシナトラはそのうまさに感銘して英語版までフランク永井に歌わせたというものである。当然シナトラが英語版を歌うという流れであったと思える。シナトラも歌っているとは聞かない。
 ちなみに作曲は「スター・ウォーズ」「スーパーマン」をはじめ米映画の名作を手掛けている巨匠ジョン・ウイリアムスである。

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 フランク永井と映画のことについて触れてみたい。このテーマは今までも何度か取り上げているのだが、およそ50作品超の映画・テレビに関与している。全体像を網羅した正確な記録がないために、現時点で手元にある細切れの情報を整理してみた。
 ひとつは、データブックを作成するときにメモしたものである。この記載のもとはビクターが過去にレコードあるいはCDに添付のディスコグラフィである。もうひとつはインターネットでの映画関係情報。いずれもすべてがでているものではないが、ある程度のものはカバーしていると思える。
 一覧にしてみるとフランク永井デビューの1955(S30)年から1968(S43)年まであり56件になる。
 デビューして最初の4曲は洋物をリリースした。「恋人よわれに帰れ」「グッド・ナイト・スイート・ハート」「ばらの刺青」「16トン」であるが、これらはそもそも当時流行っていたポピュラーソングであるか日本で封切られる洋画で人気の曲かである。日本でも同じであったが歌先、つまり歌がヒットすると映画もつくられ、ヒット曲は映画にもなっているのが多い。そのレベルのものが戦後数年経つそのころの流れであったのだ。
 レコード会社各社は人気歌手にも歌わせ、新人にもトライさせた。
 フランク永井がデビュー曲で歌ったのが「恋人よわれに帰れ」で、これは超有名な曲。Lover Come Back To Meで、最初は1930年のちょっと前あたりからブロードウェイのミュージカルのなかの一曲とのこと。これはその後1930年、1940年にThe New Moonとして映画化されている。Lover Come Back To Meは人気の挿入歌で、無数の歌手にカバーされている。日本でも多くの歌手がこの歌に挑戦していて、美空ひばりが歌ったのが残されている。
 フランク永井は日本で初めてレコード化したのだが、当時のレコード会社の方針で英語と日本語の混在歌詞版である。ビクターの売れっ子の井田誠一が詞をつけている。このフランク永井のデビュー曲は実はB面である。A面は羽生奈々子「時計のまわりで暴力教室」という曲。羽生奈々子という歌手は存じ上げないが、MGM映画「暴力教室」(Blackboard Jungle)の中の有名な挿入歌Rock Around the Clockのことである。この曲は、フランク永井のこのレコードが当時あまり売れなかったばかりに超レアで現在手に入ることがないために、聴くこともできないのが残念である。
 それにしても、デビュー曲からして映画とのかかわりがあったことになる。
 これに続く「グッド・ナイト・スイート・ハート」(1955:A-5205)「ばらの刺青」(1956:A-5211)「16トン」(1956:A-5212)も基本的に同様なポップス。「グッド・ナイト・スイート・ハート」「ばらの刺青」は当時すでに人気のジャズ歌手であった雪村いづみの曲のB面で出された。「16トン」で初めてA面になる。このときのB面は雪村の「オンリー・ユー」。
 「16トン」は聴いていて気持ちのいい曲で、オリジナルのテネシー・アー二―フォードもいいがフランク永井もそれに負けていない。フランク永井のライブの定番でもあり「アット・ローオン第2集」での全英詞版が残されているがすばらしい。

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 フランク永井の故郷は宮城県大崎市松山。ここから「フランク永井の故郷から」というサイトが運営されている。このサイトは「フランク永井歌コンクール」などのデファクトの公式サイトとなっていて、世界に発信されている。唯一のフランク永井サイトとなっている。
 この「フランク永井の故郷から」サイトに当「文四郎日記~フランク永井あれこれ」がこの4月5日に直接リンクされた。自分で「祝」というのはおかしいのだが、ファンにいつまでもフランク永井とその歌声を記憶していただけるものがこのサイトにつながることは大変大切なことが実現されたと思い、嬉しい気持ちを表したもの。
 フランク永井を知った方はまず「フランク永井の故郷から」(http://frank-m.org/)に寄って欲しい。そして、「フランク永井あれこれ」を覗いてほしい。ここにはフランク永井にまつわる話題がこれからも記していくつもりである。
 さて、リンクを記念しての話題をひとつ記しておきたい。
 それは、先日に行われた「フランク永井歌コンクール」の会場であった「大崎市松山体育館」(旧:松山松山町体育館)」において、フランク永井がリサイタルを開いたという記事についてである。実はこの記事は最近スクラップを整理していて見つかったものだが、何の週刊誌からの切り取りだったのかについてのメモが残っていないもので、出展を明示できないのをお許し願いたい。当然どなたかご存知の方がおられると思うので、コメントなどでお知らせいただけるとありがたい。
 おそらく、記事の内容から判断すると、「歌手生活20周年が昨年」と触れていることから1976年の冬の週刊誌記事と思える。「スターのふるさと」連載シリーズNo51とある。
 その前年なので1975年の11月7日に、この体育館で「フランク永井リサイタル」を開き1,200名満員の大成功をおさめたということが記されている。「デビューしたとき、町民のみなさんがバスをつらねて、仙台まで声援しにきてくださった。その恩返しを」ということを、母と約束をしていたことを実現したのだ。すべての費用をフランク永井自身が負担したという異例のリサイタルである。
 1961年フランク永井は「君恋し」で日本レコード大賞をもらったのだが、当時育ててくれた母君が病気をしていた。それが奇跡的に全快をし、喜寿を迎えたこともあり、芸能生活20周年を迎えるときがきたなら母になんでも欲しいことを贈るからといったときに、母君は松山の方々にお礼をといい、その約束を実行したものという。母君の話も、それを受けて実行するフランク永井も、この話は人柄がよく表れているものといえる。すばらしいことである。
 写真は当時の体育館の姿と舞台で歌うフランク永井である。ここで地元のコーラスグループのバックコーラスが写っている。ここには実姉がやっていたもの。「琵琶湖周航の歌」「俺は淋しいんだ」で共演となった。
 現在地元では中学生のバンドグループが積極的にフランク永井の歌を練習している。「歌コン」で披露された。若い方にフランク永井の歌が引き継がれていっている事実を目の当たりにして喜んでいるのは、あちらの世のフランク永井も同じではなかろうか。

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