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 この曲については過去に一度だけ触れたことがあります。それは2015年に実姉美根子さん(昨年逝去)が主催した7回忌のことにかんして報告した際です。
 フランク永井と親交が深かった放送作家安藤鶴夫の功績の一環で、政府の明治百年記念行事を明治村でのエベントを担当され、そこでフランク永井に「明治頌歌」を提供され、晴れ舞台での歌唱がなされたというものです。
 その後、この歌やいきさつなどについての情報を調べてきたました。しかし結局何も得られませんでした。知り合いのある方が開催当日のレジュメをお持ちで、それをチラっとだけ観る機会があった程度です。
 最近、フランク永井に関して残された映像を整理していた関係で、せっかくなので試験的にこの曲についても映像化をしてみました。
 とにかく、周囲の情報がまったくないために困惑するばかりでした。聴きながら歌詞を文字にしてみたのですが、耳が定かでないばかりか、言葉の表現についての知識が及ばないために、正確にまとめられません。
 将来的に知識豊かな方からの情報で、分からないことが埋まっていくのを楽しみにしながら、とりあえずスタート点ということで、歌詞を紹介してみます。
 作曲はどなたの作品なのでしょうか。それについても、現在わかりません。写真に出ている「安藤鶴夫―生誕100年記念総特集」雑誌があり、そこに書いてあると記憶していたのですが、その本も見つからずです。

〽年々に月は変わらず
 年々に雪また降りぬ
 年々に花は咲けども花を愛で
 月をしょうし
 雪見る人は同じからず
 明治とは父母の生まれ育ち
 恋をし泣き笑い
 また生き給いたる
 世がりせば
 人の心の暖かく
 人の思いの美しく
 人の情けの懐かしや
 花咲けば明治は遠く
 月見れば明治は遠く
 雪降れば明治は遠く
 明治は遠くなりにけり
 明治は遠くなりにけり

 明治に元号が変わったのは1968年です。10月(旧暦で9月)。それから100年後の1968(S43)年10月に開催された「記念芸術祭」で歌われたのではないかと、推察しています。
 150年という節目での記念行事もありました。2018(H30)年です。ここでは、明治百年事業として日本の伝統芸能「糸あやつり」で制作された映像作品「明治はるあき」が上映されました。
 ちなみに100年記念は時の首相が佐藤栄作で、150年記念は安倍晋三でした。
 「明治頌歌」は当時記念行事を放送したテレビで流され、それをご覧になったという方もおられました。
 2016年にビクターから発売された「懐かしのフランク永井 シングル全集」には、DVDが1枚付いていて、その中に「1968/10/23 歌まつり明治百年」の映像として「ゴンドラの唄」「恋はやさし野辺の花よ」が納められています。
 明治百年を記念した歌謡番組が放送されたのだと思われます。このときに「明治頌歌」は歌われたのでしょうか。それとも、明治百年を記念した、フランク永井の「明治頌歌」を収めたアルバムがあったのでしょうか。
 写真にあるように「百年音頭」というのが歌われたようです。三波春夫も歌っています。
 明治を称えるというのは、明治に称えるだけの誇るべき何かがあったということになるのですが、どうなのでしょう。どうしても外国との戦争の色がかぶさり、政治色が出ることから、政府が望んだような盛り上がりにはならなかったのかも知れません。
 間もなく来る2月11日は建国記念の日です。コロナ禍に明け暮れるなかで、多くの人は「休日」であることは分かっていても「建国」にどれほど関心を寄せるのでしょうか。
 こうしたことが、政府のプッシュがあった催しとはいえ、情報が少ない理由の一つにあるのかなと思いつきました。とりとめもない話題でした。
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 最初に:多くの方から、記事へのコメントや、メール、賀状での新年のご挨拶をいただきました。大変ありがとうございます。ことしもよろしくお願いします。この間私事で身と手が離せなくて、返事もできませんでした。大変失礼いたしました。お詫びいたします。

 「恋人よわれに帰れ」は、言わずと知れたフランク永井のデビューを記念したレコードです。当然ですが、米国の大ヒットを遂げたポピュラーのカバーです。
 このレコードはSP盤で、ジャケットに見るようにA面は、当時ビクターが売り込もうとしていた羽生奈々子の「時計のまわりを踊ろう」で、これも大ヒットのカバーです。
 無名の新人同士の曲で売れませんでした。羽生奈々子については、その後も名を聞いたことがないので、この一曲だけだったのでしょうか。
 この曲は有名ゆえに日本でも多くの方が歌っていて、私が「フランク永井の...」と強調しても、なかなかうなずいていただけないのが、少しばかり悔しいところです。
 フランク永井をジャズ歌手から流行歌への転向を後押ししたのが、先輩のディックミネです。戦前から戦後を渡り歩いた大歌手です。彼が昭和10年に戦中なので本名の三根徳一で、自ら訳詞をつけ編曲してレコードにしています。
 〽今は淋しく 君は去りて/忘れられない あの面影...

 最近のカバーでは私の耳に心地よいのは、秋元順子のものです。彼女の歌唱は好みもあるでしょうが抜群です。以前に「君恋し」で紹介しました。
 3年前のアルバム「Flowers~AJセレクション~」に収められた一曲です。
 これだけ一世紀にも及ぶかという人気曲(1928初リリース)というのは、多数の映画にもなっています。
 最近に観たのは日本製のものです。大林宣彦監督、1983年の作品です。フジテレビ、テレパック制作のカラー、およそ1時間半のものです。
 注目したのはスタッフでした。
 早坂暁脚本で、音楽は前田憲男。出演が沢田研二、トロイ・ドナヒュー、小川真由美、大竹しのぶ、泉谷しげる、風吹ジュン、垂水悟郎、待田京介とあるではないですか。これは観なきゃ、と思った次第です。
 そうそうたる名の中に、なんと当時米国俳優で最大の美男子などとも言われた(私が知るだけかもしれないが、確かに聴いた)トロイ・ドナヒューまで出ていると知って、まさかと思ったほどです。

 内容は一言で言えば大林、早坂両氏が追及していいた戦争悲劇に尽きます。政治的で、かつ朝鮮戦争、在日朝鮮人、在日進駐軍、広島への核爆弾の投下、家族、恋人の引き裂かれ...という実に深く、思いテーマを描いています。
 作品的には映像のリアルさはなく、資金の問題とも言えない誰が見ても分かる粗雑なセットと、短い時間なためか相当強引で不自然なシーンの移行が、かえって主張のポイントを分かりやすくしているという、微妙な作品でした。
 大胆な切り口ですね。映画が作られてから、わずか40年程度しか経過していないのですが、社会は何か日本的「ポリティカル・コレクトネス」のせいか、恐らく再上映ははばかられているのと思いました。
 このブログで何度かフランク永井関係映画を紹介してきました。そこで触れたように、タバコをブカブカ、ピストルをバンバン、さまざまなセルフ回しが、どのように画面に警告表示をしても、現在の社会的には取り扱うには抵抗がある(放送コード)ので、気楽に楽しめないのが残念です。
 社会的風潮の変遷は自然で当然だと思うのですが、それを推薦はしないまでも、自分も含めた社会が現実に当時に作ったものを、記録として、自由に、妙な規制をせずに観られるのが望ましいと思いました。
 そして、観て、それをどう受け取るのかは、純粋に各自の自由なわけですから。

 つい、重く、暗い話になってしまいましたが、いつものことでお許しください。
 この映画のなかで、くどいほど主演でもある沢田研二が「恋人よわれに帰れ」を歌っています。その一回でもいいから、フランク永井登場であってもよかったなか、などともつらつら思いながらの鑑賞でした。
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 謹賀新年、今年もよろしくお願いします。

 年の暮れをどう過ごすかと、少し悩みました。結局、年越しそばをいただき、夕方からテレビ東京「第53回年忘れにっぽんの歌」という番組をつけっ放しで、お酒をちびりちびりという結果になりました。
 コロナ禍ということで、紅白もそうですが年忘れも、無観客の放送です。適当に、つまり厳格にはどうだったのかは知りませんが、中野サンプラザを一応の「会場」として、無観客でも数十人の演歌系歌手を登場させる番組でした。
 しかし、全体の出演者数のほぼ半数が過去の放送のビデオで参加し、それが織り交ぜで番組が進む趣向でした。
 過去の映像といっても歌手御当人の歌唱が絶賛ものばかりを使用していて、実演の歌手の映像と比べ、何ら遜色ない一体感がありました。
 司会は現在の演歌系番組の代表的な徳光アナ、女優竹下景子、中山秀征です。
 マツケン(松平健)×カツケン(香取慎吾)が令和初競演とか、和田アキ子×DAIGOとかのコラボが目玉だったようです。
 番組の時間が4時から9時というあまり好ましくない長番組で、ところどころマダラ寝を伴いながらの鑑賞でした。それなりに楽しんだ次第です。

 その後、紅白にチャンネルを切り替えたのですが、少しだけ観てご就寝でした。
 NHK紅白については何度もこのブログで書いてきましたが、今年は世界的なコロナ禍、特に暮れは東京のPCR検査での陽性者数が千人の大台に達するという状況で、無観客での開催となりました。
 無観客での開催という異様なものですが、紅白自身ここ数年、番組の質が大きく変化してきました。時代とともに変わりゆくのは当然ではあるのですが、いや、一つの番組が70年以上も続けられていること自身が奇跡のようなものです。
 紅白は歌番組というより、日本人の大晦日の過ごし方だった、と言ったのは阿久悠です。そしてそれは、時代が家族が共に過ごすから、共に過ごすのがウザいとバラバラになった。若い出場歌手は自分だけの歌にしか関心を持たなくなった、とも言っています。
 だから、紅白会場で白組が、あるいは紅組が団結して応援するなどの演出を、プロデューサーが強いても白々しくなってきて、各々の歌手のバンドで歌い、自分だけのファンへのアピールだけに関心を抱くように見受けられます。
 今年などは無観客なのだから、その傾向は極限まで大きくなり、NHKスタジオというメイン会場ではない場所からの出演も増えてきました。
 すると、ますます歌合戦の様相は薄くなっていきます。
 プロの歌手の歌唱の競演であるようなニュアンスは、派手な大仰な設営や衣装やダンスや振る舞いに埋没していく、つまり視聴者をそうした演出でだましていくようなところを感じたわけです。
 これはさすがにかつての紅白に親しんだものからみたら、何時までも耐えられるものではなく、それがかつては圧倒的な視聴率を誇ったのを、そのときの半数まで落とした背景になっていると思います。
 現代において、確かに的を絞れば、つまり演歌系の番組とか、Jポップ系の番組とかにすれば、かつてのような大きな視聴率は得られないまでも、確実なファン層から支持を得られると感じます。

 フランク永井ファンは今でも、フランク永井の紅白での姿を忘れられません。アホですね。
 当時ベテランといえば、春日八郎、フランク永井、三波春夫、村田英雄という男性陣が大活躍のときでした。女性陣は美空ひばりを筆頭に、島倉千代子、青江三奈、水前寺清子、ザ・ピーナッツあたりです。ほとんどの方はお亡くなりになっていますね。
 演出といっても、皆知れたもので、どキモを抜くようなことはないために、心安らかに、安心して観ていられました。そして、除夜の鐘を聞いて、落ち着いた気持ちで年を越すというものでした。「感動した」のを得たい症候群のような病気はなかったのです。

 そんな紅白で、水森かおりが「鳴子峠」を唄いました。彼女のトレードマークのようなご当地ソングの鳴子峠版です。
 鳴子峠は私の故郷山形県とお隣の宮城県の境にあり、親しみがあります。この峠は秋の紅葉と温泉、そしてこけしの故郷です。現在はフランク永井の生誕地である大崎市にあります。
 水森のこの歌も現地が熱心に取り組む、地域おこしの活動で支援されています。これでフランク永井の生誕地大崎市への全国からの関心も深まるのではないかと、喜んでおります。
 それから、もう一つ、NHK紅白歌合戦とフランク永井については何度もこのブログで紹介してきましたが、前回の記事を少しだけ補足しておきます。
 昨年9月の「フランク永井、NHK紅白歌合戦出演の記録の現状」で、1964年第15回の「大阪ぐらし」を取り上げました。歌の1番、2番、4番を歌ったのですが、4番のところで演奏が終了モードに移り、それでも歌に合わせて復活という件です。
 これはフランク永井が強引に4番を歌ったのかという疑問でした。この件で、熱心なフランク永井ファンのIさんから情報をいただきました。感謝をこめて、ご紹介させていただきます。
 後日紅白歌合戦についてフランク永井ご自身が、記者との対談で明かしているという記事を見せていただきました。それによると「バンドが打合せに反して」ということだったそうです。
 単なるバンドの手違いということも考えられますが、会場現場で忙しく走り回る担当ディレクターが、時間調整とか様々な理由で、バンド側に「2番で終了に変更」をほのめかしながら、フランク永井ご自身に伝えなかったのかも知れません。
 そんなことも、ツラツラ思い浮かべながらの、文四郎の年越しでした。
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 歌謡曲の世界で昭和歌謡を背負った二人の偉人が世を去られました。なかにし礼と中村泰士のお二方です。心からのご冥福をお祈りいたします。

 お二人が組んで大ヒットを遂げた作品は、細川たかしが歌った「北酒場」があります。

 なかにし礼はフランク永井に多数の歌を書いています。最大のヒット曲は1983(S58)年の「旅秋」(裏面「さよならは左手で」も)でしょう。作曲は恩師吉田正で編曲は高田弘がした名曲です。
 いちど聴いたら忘れられない愛のムード、旅の情緒が広がります。フランク永井の抑えた、しっとりした歌唱は素晴らしいものです。
 なかにし礼の書いた曲は大変多く、いずれも秀逸です。シャンソンの翻訳などから流行歌を書くという仕事に、重点を変化していって、菅原洋一に書いた曲があります。
 「知りたくないの」です。これは時間をかけてじわっと人気を得て、ついには菅原洋一の代表曲に連なっています。フランク永井は、菅原洋一と区別が分からないよ、というような声をときどき聞きますが、1984(S59)年に発売したアルバム「ANSWER ME MY LOVE ワルツをあなたに」でカバーしています。
 フランク永井のもいいんですね。
 なかにし礼については、とうブログでも何度か取り上げました。それは歌に表現された表現の背景にある、彼の戦争体験に関係しています。同感したのは、戦争で自ら受けた理不尽を超え、過酷過ぎる体験を、愛と別れに変えて表現したという点です。
 「エロスがなければ平和はない。戦争がないからこそ、柔軟で不良な時間を楽しめる」と公言してはばからなかった、人生への姿勢です。彼自身の言葉によれば「戦争への甘美な復讐」だというのだから、すごい。
 彼は、その姿勢で平和の大事さを訴え続けたのです。

 中村泰士さんがフランク永井に提供した歌は2曲です。1979(S54)年「グラスの氷」(裏面「ひかげうた」も)です。
 当時は思ったような売れ行きではなかったようですが、40年後に改めてじっくり聴いてみると、しみじみとした、静かないい曲です。フランク永井の歌った歌は、晴天、歓び満面の歌は多くなく、失恋、放心、ひとり思いといった暗い、哀愁に満ちたものが多く、この二曲も、そうした心情を描いたものです。
 中村泰士の初期の代表曲であげられる園まりの「夢は夜ひらく」があります。確かに今でも歌い継がれる」曲です。
 「夢は夜ひらく」は以前に藤田功(曽根幸明)を話題にしたときに触れましたが、一筋縄ではいかない、曲をめぐるエピソードがあります。
 元は作者不明の曲で曽根が採譜し「藤原伸」の名で歌ったものです。そのメロディーをベースに次つぎと別の歌詞がつけられ、園まりをはじめ、緑川アコ、バーブ佐竹盤などが出ました。大きなヒットを手にしたのは藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」です。歌い手によって作詞家がことなり、編曲も別ですので、曲名の同じ別唄になっています。
 これにあやかってか、実はフランク永井も「フランクの夢は夜ひらく」を歌っちゃっています。
 「デラックス20 フランク永井~夜のムード」(1974:20CP-8031-PONY)です。大変珍しい、所属のビクターではないポニーのオリジナル企画のテープ版である。よくぞ、こんなもの出してくれました、ポニーさん。
 実はこのテープは熱心なフランク永井のファンである友人の方からの情報です。ほんとに感謝しております。

 なかにし礼、中村泰士というお二方の訃報に接し、関係曲をあたらめて聴きながら、つらつらとそのようなことを思い浮かべました。
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 中国圏でのフランク永井人気は聞くところによれば、いまだ健在のようです。中国圏と表現したのは、大陸本土であり、台湾でもあります。さらに言えば、中国語が多用される周辺国家も含め、人気があるようです。
 上記写真では「フランク永井傑作集~霧子のタンゴ」と「フランク永井ヒット曲集」です。
 ちなみにその右のものについては、後述します。
 youtubeなどで検索すれば分かりますが、恐らく台湾でしょうが、フランク永井の曲は男性歌手ばかりでなく、若い女性の歌手も見受けられます。
 独自のアレンジで若いバンドが演奏し、決して古くない「羽田発7時五十分」とかが楽しめます。
 中国と日本は1972頃に国交回復をし、同時に台湾との国交は断絶しました。フランク永井人気は親日的な台湾ばかりでなく、本土でもお隣の南北朝鮮でも広く人気があったのです。
 理由はよくわかりません。だが、バタ臭いというか、堪能な英語の発音、日本人離れの低音、秀逸な歌唱力が好まれたのはまちがいないでしょうね。
 1965年には、台湾にフランクス・ナインとともに演奏旅行にも出かけています。楽団メンバーがその時の映像や、訪問時のエピソードをライブで語り演奏したLP(「魅惑のオンステージ」)も閲覧できます。
 当時の写真の一シーンにフランク永井が現地で楽団とともに利用したとおぼしき自動車(バン)の前のフランク永井があります。その自動車に「大光勝利公司」といういう文字と「Victor Nivico」と書かれています。Nivicoは日本の所属レコード会社ビクターが当時使用していた海外版レコードのレーベル名です。
 これを見るとビクターは台湾に支店のようなものを設置していて、正式に普及活動をしていたのかも知れません。
 これまで幾度も紹介していますが、レコード盤の生産は日本で行い、Nivicoのシールを貼って輸出して現地で発売していたものと思われます。
 しかし、この正式な盤は限られていたために、現地のファンのニーズには十分に応えられず、当時は著作権への認知はあったものの、厳格さが現在のようでなく、数多くの「海賊版」が作られたようです。
 これは上記写真のように、何故か一見してそれだ(違法な海賊版)と分かるように作られています。多くは日本から持ち込まれたレコード盤のデッドコピーですが、さまざまなソースから集めて独自に編成したものもあります。
 音量がばらばらなので、すぐわかります。音質は、これも何故か、必ず悪いです。ただ、現在改めて聴いてみると、妙なフレッシュさを感じ取れます。
 「美空ひばりの花のステージ」(1956年製)は半分以上の曲が初めて聴くものでした。彼女は数多く吹き込んでいますので、理由は私自身にあるのでしょうが、妙に感心しながら楽しみました。
 小林旭が表紙のものは全部中国語なのでよくわかりませんが、1960年代の日本のヒット曲集のようです(1967年製)。
 西川峰子の「津軽海峡冬景色」、青江三奈の「長崎の女」などのカバーも聴けます。「あなただけを」はあおい輝彦の曲とばかり思っていたのですが、和田弘歌唱とあります。聴いていてどうもマヒナの和田弘とは思えません。といってもバンドマスターの和田弘の歌は聴いていないので比べられないのですが。。。
 またこの盤には「涙的小花」(電影主題歌)という歌手名無記載の曲があります。聴けばこれは朝鮮語です。きちんとした男性歌手の歌唱です。
 この手の「海賊盤」を作る技術は、もしかして当時、台湾が中心だったのかも知れません。これが密かに大陸へ、朝鮮へとはこばれてえいったとものと考えられます。
 中国本土で手にしたという人も、韓国で手にした、日本で手にしたというのも、ほとんどが台湾製です。台湾製というのは、中に発行元と自称する会社の住所や名前が記されているものも結構あるということです。
 日本にいる私にはそれがほんとに実在する住所や会社名なのかの判別はつきかねるのですが、まさか堂々と実在する会社が作るとは思えないからです。
 当然ライセンス生産という正規盤があってもおかしくないのですが、それにしては音質がひどいとか、音量がそろえられていないという杜撰さは、やはり不正な海賊盤だと言えるかと思います。
 これら不正な海賊版は、著作権に関する国際的な取り決めや、違法行為についての罰則が強化されて、表の世界からは消えていきます。
 1980年代になると、エンターテインメントのソースはデジタル化され、海賊版は安易に出回ることはなくなりました。
 中国圏、台湾と言っているのは、盤にきされている住所が台湾らしいこともあるのですが、使われている漢字が繁体字だからです。大陸は簡体字という省略字形を使っているのですが、台湾では、難しい字画の多い昔からの正統な漢字を今でも使っているので判別できます。

 さて、話は急に変わりますが、先の大戦中のことです。ご存知の方も多いかと思いますが、上記写真の真ん中あたりの「レントゲン盤」です。
 これを初めて知ったのは、レコード収拾の知人から聞かされたときです。数年前に新聞の小さなコラムでも紹介されていました。
 戦中は生活物資が枯渇してしまい、レコード生産をする際の資材にも影響して、盤が思うように生産できなかったそうです。知人の話は、ロシアの例でした。
 最初はだれが考えたのか分かりませんが、病院のレントゲン写真を撮影したときの不要になったフィルムに目を付けて、これを利用した盤が作られたとのことでした。
 なるほど、これなら、戦後一時期流行ったソノシート盤のようなものだと、理解できました。その知人から、もうあげるよと、その数少ないと思える貴重盤をいただいたのですが、実はどこに大事に仕舞ったのか、無くしてしまったのです。
 不始末はその方がもうおられないのでお詫びもできませんが、海賊盤からそのようなことも思い出した次第です。

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 今回はフランク永井は登場しません。フランク永井の現役時は、当然この歌手協会に所属し、1985年の第7回歌謡祭で「おまえに」を熱唱していた映像が残されています。

 年頭からの新型コロナウイルスの流行で、今年は例年の2日間の長時間開催は中止されました。テレビ東京のスタジオから、2夜おのおの4時間、計8時間に及ぶ歌謡番組として放送されました。
 現役の第一線で活躍する著名な歌手ばかりでなく、幾人かはなかなかテレビ番組ではお目にかかれない歌手も登場しました。司会はメインが例年通りの合田道人で、サブは何人かの歌手が勤めました。2夜で105曲歌われました。

 ブログで何度か触れていることですが、歌好きの人でも、全般的にすべて歌は好きだという人は多いわけではなく、ほとんどは好きな歌の傾向、好きな歌手の傾向があります。つまり、嗜好が一人ひとり異なるわけです。
 著名な歌手というのは、比較的多くの歌好きから好まれるヒット曲を持つ歌手なわけです。スポーツでも芸人でも人気の人と、そうでない人では収入に雲泥の差があり、自らの生活を支えるためにさまざまな本職外の仕事についており、どちらが本職か分からない状態で頑張っておられる方もいます。

 十年以上前になりますが、勤めていた事務所に顔を出していた女性の歌手がおられました。この方はこの季節になるとこの歌謡祭にでる、でないの境におられました。「今年は出る」といって、入場券をすすめられ、当日間近になって、実は健康を害され出場辞退のハプニングがおこりました。
 ご本人の歌唱はちゃんと聞いていなかったので、それなりに楽しみに期待していたのですが、このようなこともあることを知った次第です。
 著名な歌手は、歌手に専念でき、プロの意識は徹底していて、喉の調子を崩さないようにと風邪などひかないように、ちょっと異常にみえるほどの注意を払っています。実際にスケジュールを乱す辞退などは、事情によっては以後の仕事に影響しますから、当然ですね。

 さて、余談で話が膨れましたが、歌は嗜好品という関係から、歌手協会歌謡祭は長時間となり、通して観るのは辛いことが多いです。お酒をちびりながら、ちゃちを入れつつ観るのですが、さすがに8時間の長丁場は年寄りには過酷です。
 そのために、録画して鑑賞することにしたのですが、観る方針を決めました。これはと感じたものはじっくり見る、この程度でいいやというものは一番を聞いたら30~40秒程度早送りする、これは特に聞かなくてもいいと思ったものは最初の10秒程度だけにする、というふうにしました。
 それでも、相当な時間を要し、3回に分けたような次第です。

 今年はオリンピック開催の予定だったので、前の東京オリンピックの開会マーチを作った古関裕而のコーナーがありました。そこで代表作の一つ「イヨマンテの夜」を細川たかしが歌いました。声量満開でしたね。
 北から南まで日本列島の地域を追ったコーナーでは「そして神戸」ですが、この曲は内山田洋とクールファイブで前川清の歌唱と思い込んでいたのですが、実は野村将希のアルバムの一曲だったのだと紹介がありました。
 今年惜しまれた亡くなった筒美京平偲ぶコーナーでは、まず岩崎宏美の「ロマンス」。歌唱が安定してましたね。
 続いてジュディ・オングの「魅せられて」。ここでの蝶のような衣装には衝撃を受けましたね。当時から、よくぞ、こんな仕組みを考えたと深く感心したものです。彼女は当時のテレビドラマで好きな時代劇に出演していて、近年再放送されているのを観て楽しんでいます。
 ふだんあまり観ることのできない歌手の姿を観るのも、この番組の楽しみです。この度の番組では、サザエさんの主題歌を歌った宇野ゆう子さん。流行った当時は可愛い子供であった「黒ネコのタンゴ」の佐川おさむさん。

 フランク永井の姿を観れないのは残念ですが、歌で世を励ました歌手たちの功績は偉大です。歌手協会の歌謡祭がこれからも続いてくれれることを願います。しかも年寄りになっても歌い続けているのだぞという姿を見せてください。
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 私の住まいではテレビ電波障害の関係で、JCOMのサービスを受けているせいか(どこでもなかのか不明)、JCOMの放送が観れます。
 日曜日の夕刻に「有楽町で逢いまSHOW」が放送されます。これについて少しばかりご紹介をしたいと思います。
 中山秀征が司会をするこの番組は、日本音楽事業者協会の企画制作で2012年4月からニッポン放送で始まったものとのことです。有償番組として記憶している「歌謡ポップス」チャンネルでの放送であったようです。
 しかし5年後の2017年3月に終了し、2019年2月からJCOMで放送を再開したとのことです。30分のコンパクトな番組です。
 日本音楽事業者協会では【歌謡曲の顧客層が年々高齢化してる事を鑑みて新たな打開策として、1957年のフランク永井の大ヒット曲である「有楽町で逢いましょう」を捩り、「ここから第2の「有楽町で~」となるような、全国区になるヒット曲を生み出したい」との意図を持って企画製作を行い、番組を制作した】とのことです。
 歌謡曲ファンにはうなづける主旨ですが、果たしてそのように展開されているのか、ぜひ、観れる環境にある方はぜひご覧になって判断をしていたら、いかがだろうか。

 「有楽町で逢いましょう」というのはフランク永井の代表曲だが、同目の番組がかつてあったんです。
 それはまさに「有楽町で逢いましょう」がフランク永井によって発売された、その年のことになります。このブログでは、この歌の発売時のエピソードは何度も書いていますし、ファンの方が他であれば皆さんご承知のことかと存じます。
 大阪から東京の中心地に進出をきめた百貨店そごうが、1957に有楽町の現在の「ビッグカメラ」の場所で開店しました。ここは報知新聞のあった場所で、GHQの方針で同系列となった読売新聞がそこに「読売会館」を建てる計画があり、そのビルの6階までをそごうに貸すことになったようです。
 7階から9回は読売ホールです。ちなみにカドカワ映画館(角川シネマ有楽町)は8階にあります。
 都心とはいえ、有楽町は当時少しも世に知られておらず、戦後の象徴でもあるような闇市があったところです。汚く暗いイメージを読売会館とそごうのオープンで明るい街に一新しようという強い思いがありました。
 美空ひばりが塩酸をかけられ負傷という暗いニュースがありましたが、東京タワーの着工、NHKテレビ受信契約数が50万に到達、スキーヤーのトニーザイラーが初来日、南極「昭和基地」建設などの明るい希望が持てるニュースもありました。
 読売会館とそごうと地元は、このオープンを大きなきっかけにしたいということで、テレビ番組、映画、小説(雑誌「平凡」)、レコード会社、新聞広告という巨大なジョイント企画を立ち上げます。
 会館内の日本テレビのスタジオから、昼にウイークエンドミュージカル番組「有楽町で逢いましょう」が3月から放送されました。提供はもちろんそごう一社。つまで続いたのかはわかりません。
 5月に読売会館とそごうがオープン。そごうの開店には、雨天にかかわらず30万人が詰めかけて列をつくったと言われています。
 7月にはビクターからフランク永井による歌が出ることが発表されました。発売は11月です。10月発売の「週刊平凡」で小説(映画とは内容が異なる)が連載開始されました。映画は新年の封切りでした。
 まあ、GHQから日本の芸能・スポーツを一手にまかされたという正力松太郎の読売がかんで実行された「有楽町高級化キャンペーン」です。こうした巨大ジョイントは後にも先にもありません。これで成功しないわけがない、実際に大成功だったわけです。
 もちろん、初めてのエアーカーテン、吹き抜けのフロアといったあか抜けたそごう。ティールームとかロードショーとかといったハイカラな歌詞。都会のムードを表現するフランク永井の歌唱は、日本中に夢と希望を膨らませるのに十分でした。企画の内容と表現が的を得た勝利でした。

 時は経過し、2000年そごうは経営がなりたたず閉店を迎えます。翌年現在のビッグカメラが入りました。
 佐伯の作った歌詞の一節「雨もいとしや...」は、有楽町の華となっている-YURAKUCHO ITOCiA-(2007)にひき継がれました。マリオンの横には「有楽町で逢いましょう」の歌碑(2008)が置かれています。
 読売会館から少し歩いたところにニッポン放送のスタジオがあり、中山秀征の「有楽町で逢いまSHOW」はここで撮影されています。長く続き、意図したような素晴らしい流行歌が生まれることを祈願しています。
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 「カラオケバトル」はテレビ東京の人気番組です。11月22日に放送された「THEカラオケ★バトル~芸能界!歌の異種格闘技戦」を鑑賞しました。
 「NHK紅白歌合戦」の総合司会を6年間務めてきた、元NHKアナウンサーで、独立後さまざまな歌謡番組で活躍しておられる宮本隆治アナがエントリーしました。
 勝負曲はフランク永井の「おまえに」です。

 番組の紹介で知ったのですが、彼は、小学生のとき合唱団でボーイソプラノを務めていたとのことでした。
 今年はコロナ禍で中止された「フランク永井歌コンクール」ですが、昨年開催10周年の記念大会が開催されたときに、彼が特別出演されて会場を楽しませました。
 このときにも自ら紹介されていたのですが、彼の歌声にぞっこんになった川中美幸から、いっしょに歌を歌わないかと誘われ、2007年にデュエットでCDデビューをしています。「雨の金沢」です。
 つまり、唄については自身がおありで、確か「おまえに」もレコードになったかは不明ですが、歌っています。
 フランク永井のからみで過去に彼には私もいちどお会いしております。たいへん気さくな方で、編纂した「フランク永井魅惑の低音のすべて」(データブック)をお渡ししました。
 昨年の歌コンで、初めてずいぶん長い彼の独演を楽しませていただきましたが、さすが語りのプロといった印象を受けました。
 さまざまな催しの司会を積み重ねてきただけに、表も裏も事情をよく知っておられます。昭和の歴史、その年毎に社会を賑わした事件や事柄を周知しておられます。
 これは歌の紹介などをするときに、その歌の出た事情だけにかぎらず、背景となったさまざまなエピソードを付けて語られます。
 特に歌の司会は、これから歌唱する歌手をリラックスさせ、すべての気持ちを歌に心地よく集中できるように気遣います。同時に聴き手には、背景やエピソードを紹介して、より歌を知り、興味と関心が沸き上がるように仕向けます。
 そのあたりを、自然にさりげなく、嫌味なく、的確に語ることが、司会の腕のレベルになるわけです。
 宮本アナで印象的だったのは、アナウンサーとしての喉、声、発生のプロとしての技術の高さです。何人もの著名人のこわいろ(声色)を聴いたときです。
 歌手に限らず、田中角栄とかの政治家までカバーしていました。喉、鼻、腹、眉毛(?)まで、どこをどう焦点あわせ、加減するかとか、聴いていて、少しも実際は分からないことなのですが、うっかり、つい、分かってしまったような錯覚を感じるのに十分でした。
 プロの技術そのものなのか、芸なのか、どっちもなのか、いまだに判然としないです。

 そんなことをつらつらと思い浮かべたカラオケ挑戦の宮本アナでした。例によって、気楽にお酒をたしなみながら。。。挑戦の結果ですか。それは予選で。。。いや、ヤボなことだから、それはそれでした。

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 SPレコードというのは、若い方には当然死語でしょうね。フランク永井の最後のSPレコードは1960年1月に発売された「鈴懸の頃」です。盤IDがV-42000です。だが実際の発売の終了は少し違っていて、翌2月に発売された「好き好き好き」です。盤IDはV-31989です。恐らくIDの取得は企画が決定した時点ということで、発売日には多少のズレが起こることがあるということです。
 つまり、ちょうど50年前にSP発売は終了したのですね。ビクターだけでなくコロンビアとか他のレコード会社も、この時期に一斉にSP時代を終えてEP時代に移っていったものと思えます。
 SPレコードの収集については、2013年に当ブログで岡田則夫著『SPレコード蒐集奇談』(ミュージック・マガジン発行)という名作を紹介しました。
 私自身もフランク永井でなかなか手に入らないSPレコードを入手しようと、広くレコード店を歩いて探したことがあるので、大変興味をもって読みました。知者の岡田さんとは一度お会いして、ディープなお話をいろいろと伺ったのが思い起こされます。
 上記に移した写真にある書籍は「蓄音機の時代」です。これは加藤玄生さんの著作物です。ご本人は蓄音機の発明された初期のSPコンテンツであるクラシックレコードに詳しい方です。同時に蓄音機の登場時期から一時代を築き終焉を迎えるまでの変遷も、深く研究されて書いたのがこの書籍です。
 日本とのかかわりとかコンテンツをつくるレコード会社の登場などをさまざまなエピソードを添えて紹介しています。また、蓄音機のメカニックについても、ただの好事家でないレベルの、ここでしか聴き得ない貴重なうんちくを知ることができます。
 蓄音機とSPレコードについて、ぎゅっとコンパクトにエッセンスを詰め込んだ書籍で、大変貴重なものだと思います。

 以前にも書きましたが、蓄音機は電気的・電子的なものを一切使用していないものなのに、いかにして音を忠実に、しかも吹き込み時の実際の音量をはるかにしのぐ大音量で再生できるのか、という疑問と興味がありました。
 写真のものは私の愛用の実機です。1920年代にドイツあたりで、当時有名なビクター系の蓄音機のライセンス製造をしたものではないかと思われます。
 購入して間もなく、故障しました。蓄音機愛好の仲間でその筋の第一人者が、これはガバナーの故障だと断じ、重要な部品を新たに作成して直してくださいました。その部品を組み立てて正常に稼働できるように調整するのに、異常なほどの手間を要したのを覚えています。
 いざその箇所が再度故障したらという想定で、私自身もくみ立て直しに幾度もトライしたことを覚えています。
 蓄音機の動力はゼンマイなわけですが、最低でも年に一度以上は、巻いて解放してあげる必要がありまう。そうしないとゼンマイがグリスで固まり、正常な動作がその後保証できないことになる、とのことでした。
 そのようなことで、ときどきは蓄音機を使ってみるわけです。近年は特に調整もなく、立派に稼働しています。

 フランク永井のSPレコードはレアな数枚を除いて、ほぼ手元にあります。収拾の過程でおやと思った他の歌手の歌をも購入しました。ただ、昨年にダブった盤やフランク永井以外の盤の大半はまとめて50~60枚ほど放棄しました。
 さて、この度は「ビギン・ザ・ビギン」(ビング・クロスビー)とか「ケセラセラ」(ドリス・デイ)というフランク永井以外の盤を数曲と、フランク永井の数枚をかけて聴きました。
 やはり好きな「東京午前三時」「夜霧の第二国道」「有楽町で逢いましょう」は欠かせません。「東京ダーク・ムーン」もかけました。
 いいですね。声が素晴らしいです。うっとりします。
 蓄音機は前面の扉を使って音量を調整するのですが、全開ではご近所迷惑を気にしてできません。ゆったりと惹いたコーヒーを口にしながら、一面およそ3分聴き入ります。
 盤ごとに針を替えます。2枚程度でクランクを手巻きしてゼンマイを閉めます。
 SPは面白いことに、プレスされた盤は全部同一だとしても、再生をしたときの「音」は、どれ一つとして同じではないのですね。指紋のようなものです。
 再生する蓄音機、ピックアップにあたるサウンド・ボックスと先端の針が違います。針の性質も無数にあります。竹とかサボテンも使われます。そして、なにより針の猛烈な速度での劣化があります。盤そのものも毎回劣化が進みます。針と盤の溝の接点は絶妙です。熱を発してレコードの素材のシェラックを融かし、冷えて若干の再生が成されます。
 こうした多くのパラメータの相違から二つとない「音」が放たれるのですね。それが、聴く人の耳には心地よさを感じさせているので花でしょうか。CD慣れした耳にはノイズにはびっくりするかも知れませんが、不思議なことに、聴いていると脳内のフィルタが働いて気にならなくなるから不思議です。

 さて、1960年にSPの時代が終わります。SPが果たした人類(?)への貢献に敬意を払い、フランク永井は、ズバリ「78回転のSPレコード」という曲を歌っています。1960年8月:VS-369です。これはSPではなく、EPです。
 前出した岡田さんもこの曲をみつけて、おっ!と目を向き「こんなのを唄ったんだ」と感心されていました。

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 四年前に青江三奈がカバーした「夜霧の第二国道」を紹介しました。「ビクター流行歌名盤・貴重盤コレクション」デジタル復刻シリーズの「グッド・ナイト」の一曲です。フランク永井の恩師吉田正作品でもあることから、まずとりあげさせていただいたものでした。
 そのときも触れたのですが、青江三奈の「お富さん」も復刻されています。この覆刻CDは手元にないのですが、LPで楽しんでいます。この作品は作曲家渡久地政信作品でできています。
 フランク永井に「夜霧に消えたチャコ」「俺は淋しいんだ」や多数の曲を提供していただいています。青江三奈は「お富さん」で、この2曲を歌っています。
 「お富さん」はご存知のようにキングレコードに渡久地が在籍中に春日八郎に提供した曲です。私などもその爆発的な人気を知っています。ラジオで毎日流れ、誰もが「〽いきな黒塀、見越しの松に...」口ずさみました。子供はよく親から怒られたものです。
 渡久地は古巣のビクターに戻って更なる活躍をみますが、そこで大ヒットをはなったひとつが、「池袋ブルース」で名をはせていた青江三奈の「長崎ブルース」です。
 当時は、青江とほぼ同期でデビューしていていた森進一とあわせて、今や死語でしょうが「ためいき路線」などと呼ばれていました。
 青江といえば、私などの印象では、とにかく繁華街で気ばいキャバレーの女といったものでした。独特な雰囲気を発散していて、歓楽街で酒とたばこによって枯らされたと思える、じゃ枯れ声と見つめる目が、何とも「ガキなど寄るな」という感じでした(失礼をお許しください)。もちろん、これはレコード会社の用意した作り上げたキャラで、ご本人の個性とは言えないものです。
 青江は、同僚の松尾和子や日吉ミミなどと似て、実際にはさっぱりした、気前のいい性格で親しまれていたようです。だけど悲しいことにこの方がた若くして世を去ったのが、心残りです。
 このような青江三奈をなめちゃいけないのは、確かな歌唱力なんですね。プロなんだから当たり前だろうということではなく、ハスキーな声に惑わされずに良く聴けばわかるのですが、低音から高い音まで音程が抜群なうえに、歌詞をよく気持ちに乗せて歌っています。
 けっして、どんな時でも、どんなステージでもあいまいに歌ってごまかすようなことはしていません。
 ちょっと横にそれたようですが、この盤で歌っている曲を聴くとよくわかります。
 カバーを歌うの聴いてあきないような歌手は、唄がうまいです。歌は詞がありメロディーがあり、歌手が表現します。曲がその時代とマッチし、条件がそろうときにファンがつき、爆発的なヒットにつながります。一つでも条件がかけると、大歌手でも視聴者はうけいれません。だから、他の歌手のヒット曲を、別の歌手が歌うということは、歌い手という点で、過去のヒット条件をくずすために、聴かせるのは難しいのです。
 歌手がカバーに挑戦するには、それだけの覚悟と、その歌手と曲を貶めてしまうことがないか、という怖れを胸に抱えて挑戦します。
 私はフランク永井の追跡者なので、どうしても彼の曲をどう歌うのかというところに関心がいきます。2曲は編曲名人の寺岡真三作品です。なかなか聴かせるではないですか。
 この盤では渡久地作曲の「池袋の夜」「長崎ブルース」が入っていますが、他はすべて他の歌手のヒット作品です。

  お富さん(春日八郎)
  夜霧に消えたチャコ
  上海帰りのリル(津村謙)
  踊子(三浦洸一)
  俺は淋しいんだ
  池袋の夜
  島のブルース(三沢あけみ)
  東京アンナ(大津美子)
  お百度こいさん(和田弘とマヒナ・スターズ)
  東京の椿姫(津村謙)
  背広姿の渡り鳥(佐川ミツオ)
  長崎ブルース

 すべてが渡久地作品というだけあって、炎のように熱い作曲家渡久地の作り出す味が十分に味わえる作品集となっています。
 三浦洸一の「踊子」とか佐川ミツオの「背広姿の渡り鳥」などは、青江なりの解釈というか入れ込みがよく伝わる曲です。
 青江とフランク永井はどのように舞台で共演したのかはあまり知りませんが、一度だけNHKビッグショーで1974年4月28日「フランク永井・青江三奈 おとなの子守唄」を放送しています。これは残念ながら映像が残されていないようです。
 「東京ナイト・クラブ」をデュエットしているのが残されています。青江はこの曲を単独で歌ってもいます。フランク永井は青江のヒット曲「伊勢佐木町ブルース」をカバーしています。

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