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 「霧子のタンゴ」は言わずと知れたフランク永井の代表曲のひとつ。吉田正が数少ない自ら作詞したもので、好きなタンゴのメロディーに乗せた名作だ。
 タンゴでありながらも比較的フラットなしらべに、ほとんど意味不明というか抽象そのものの歌詞でできている。つまり歌い手の技量にその表現をゆだねている。
 吉田学校の生徒に歌わせてはその歌唱力と傾向を確かめたようだ。いわば師から生徒へのきつい挑戦状だ。最終的には愛弟子のフランク永井が期待通りにクリアして、1962(S37)年にリリースされた。
 このB面は平尾昌晃の「哀愁のバイパス道路」。平尾は自著で「「霧子のタンゴ」は私に向けてつくられたもの。ディレクタがフランクのほうがあってるといって...」と残念がった。
 まあ、平尾歌唱のイメージも「霧の摩周湖」の連想でわからないでもないが、やはりフランク永井の「歌い」にダントツで旗が上がる。それはこの曲をフランク永井が歌うことで、相当な新鮮さをアッピールできたからだ。
 どうも、ある程度の色というか個性がある歌手が歌っても、その色の強さが目立って、フレッシュさにならないところがある。そこをフランク永井は不思議な抑揚表現で、師匠の想定以上を表して見せたものだ。
 霧子のタンゴは翌年早速に純愛ドラマに脚色されて今も健在の松原智恵子主演で、日活から映画化された。この映画はDVD化されているので、いつでも鑑賞できる。
 「霧子のタンゴ」はどこでも人気で、フランク永井がライブでは台湾公演時に自ら英訳作詞したという英語版をたびたび歌っている。そして1977(S52)年の歌手生活21周年記念リサイタルでは「霧子のタンゴパートⅡ」(吉田正作)を披露した。
 以前も紹介したが「霧子のタンゴパートⅡ」は、さすがといえるフランク永井の自信にあふれる歌唱が観客を魅了した。
 フランク永井の恩師吉田正は、霧子という仮想の女性名には入れ込みが深かったものと思える。キリコという名の女性は確かに珍しいが存在しないわけではない。だが霧子という漢字名ではないのが多い。
 夜霧の第二国道に代表されるように、霧は吉田正が「都会派」と言われるメロディーの確立と切れない関係にある。一時期「夜霧の...」というのがフランク永井を連想するような時代もあったのだ。
 もちろん、他のレコード会社は「独占させてなるものか」と霧を使った歌を人気歌手に歌わせて競った(傑作は裕次郎が歌った「夜霧よ今夜も有難う」)ので、決してフランク永井の独占ということではないのだが、そういう雰囲気があった。
 特定の女性名を付けた歌は多数存在するが、霧子はやはりフランク永井だろう。
 ところが、1984(S59)年、徳間ジャパンと五木ひろしが吉田正の偉大さを称賛してジョイントを提案、五木ひろしが吉田メロディーを歌うというアルバムが実現する。
 「いま、生きている...新たなる感動~霧子のタンゴ」というLP。ここにはフランク永井をはじめ吉田の生徒に送った10曲が収められているのだが、さらに2曲のオリジナルが入っている。
 星野哲郎作詞吉田正作曲「法師の宿」と、吉岡治作詞五木ひろし作曲吉田正編曲の「銀座シティ・エアー・ターミナル」である。
 「銀座シティ・エアー・ターミナル」に、吉岡治の描いた霧子が登場するのだ。
 「...霧子、赤い真珠の霧子、忘れはしない...」。
 タンゴではない。五木の作曲なだけに、五木節がうまく表現された曲になっている。吉田正の編曲もいい。
 ちなみに、このLPは1997年にCD化され「吉田正作曲生活50周年記念吉田正作品集「有楽町で逢いましょう」として復刻されている。新たに吉田作品2点が追加されものだ。
 五木ひろしは現役歌手としては70歳をむかえ活躍中だ。現在の歌謡界では生き字引のような、知識・体験豊富な方だ。
 フランク永井のささやくような、包み込むような、ソフトな表現でありながらも、聴く人に安らぎをあたえる歌い方と、五木のは対照的だ。
 五木節として今では定着しているが、ファンは分かれる。一言でいえば、技巧先行が鼻についたりする点だといわれる。彼ならではの鍛えられた喉はまるで手品のように抑揚、硬軟を表現する。これが視聴者の胸をダイレクトに揺さぶるために、一様にとんがり、癒しにならない。歌に癒しをたくすような世界ではないし、そもそも歌は嗜好品だから。歌に癒しを別に求めないという人からは称賛されるので、その存在は大事なのかもしれない。
 この時以来五木は吉田を尊敬し、他にも自らの芸能生活40年を記念して「哀愁の吉田メロディーを歌う」を2004年に発売している。ここでは、先に紹介した曲含み(銀座シティ・エアー・ターミナル以外すべて)、18曲が収まっている。吉永小百合がナビゲートした異色のカバー集になっている。
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 YouTubeの世界はともかくすごい。有象無象がひきめきあっている。あらゆるジャンルのことが、雑然とひろがっていて、深みに入ると蟻地獄のような様相になる。目的を忘れてしまいそうになるので、筆者は特定の面でしか付き合わないようにしている。
 「フランク永井」と検索してみたら、そこにはとてつもない数がアップされているのがわかる。目的は、聴いたことのないフランク永井の歌の発見であり、フランク永井の映像遺産の発見だ。
 フランク永井の残した歌についてはすでにほぼ明らかになっていて、その歌もレコード、カセット、CDでほとんどを楽しむことができるので、新発見は期待できない。だが、ついチェックしてみたくなる。
 映像はテレビ番組に出演した際の切り出しだが、相当数がアップされている。しかしテレビで歌うのは基本的にフランク永井のヒット曲に特化されているので、珍しい曲を歌うというのがないために、舞台の違いでしかなくなるが、まぁ仕方ない。
 しかも、映像では歌を丁寧に三番歌詞まで紹介することなどはまずない。それは映像単価が高く有効に流すということが優先されて、長くて二番まで、酷い場合はイントロ無しや途中だけのいわゆるブチギレで、そっけない。
 フランク永井がメインで登場した番組はいくつか過去にあったが、それらはほとんど再放送されたようだ。これはテレビ局の大事な資産だからYouTubeで観ることはほどんどできない。観れるのはあくまで歌うシーンだけの切り出しだ。
 これも本来はテレビ局の著作権がともなう遺産なのだが、完全にシャットアウトするのは難しいようだ。申請して止めても雨後のタケノコのようにアップされるのに追いつかないのだろう。また、番組や局や曲の宣伝になっている側面もあり、痛しかゆしといった背景もある。
 さらに、ファンが聴きたい、観たいといったときに、それが容易な形でレコード会社や版権の所有者がファンに提示できていないという面もあって、YouTubeがそれを埋めているというところもある。
 また歌の世界では歌手が自らの歌を広く知らしめたいがために、積極的にYouTubeを利用することもある。いったん社会のインフラのひとつとしての存在が定着してしまうと、ルールは実態の後追い状態になる。
 さらにフランク永井の世界についていえば、カラオケだ。
 フランク永井の歌のカラオケについては、一番のネックとして挙げられるのはカラオケ演奏の数が少ないことだ。カラオケ提供の会社からのものも限られている。リクエストを出しても容易に実現する状況にはない。
 それでも、ファンの熱意というのはあなどれなく、オリジナルの演奏を作ってそれを提供したり、それをバックに自分の歌唱のノドを聴かせたりという映像もある。フランク永井モノではビクター本体からの新カラオケは途絶えたようだが、カラオケ提供会社からぽつりぽつりと新たにリリースされている。それに、一般からファンが用意されて登場する。
 それらの全数は十分につかめていないが、演奏ということではすでに160曲を越しているはずだ(実際にカラオケ演奏として使えるということではない)。
 YouTubeでのカラオケでは大事なのは、背景の映像と歌詞の表示だ。カラオケ提供会社からのものはそのあたりしっかりしている。一般作成にはこれは大きな壁だ。
 YouTubeでのフランク永井モノの映像はカラオケもそうだが、曲についても実演で歌うもの以外に、レコードやCDからの歌唱に独自の背景映像をつけるのだが、その品質が高いものも相当数流れている。
 かつて「フランク永井専門チャンネル」というのを紹介したことがあるが、以前らか圧倒的な数と広さを誇っているのが「ロッキー劇場」関係だ。フランク永井の関係だけで百数十を常に提供している。全部オリジナルの制作だ。ファンとしての熱意の結晶で、たいへん敬意を感じている。
 「ロッキー劇場」のフランク永井モノはそのほんの一角に過ぎない。フランク永井のウォチャーの一人としてみてみても、音源の豊富さやカラオケでもそのレアさは断トツなのではないだろうか。
 興味のある方はぜひとも訪れてみてほしいと思ってふれてみた。
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 以前に筆者の好きな作家は藤沢周平だと話したことがあり、そのときに「フランク永井と藤沢周平ねぇ。かかわりがないのでは」と不思議がられた。自分では別に自然にそうなんだから変でもなく、そんな疑問を感じたこともなかったことを覚えている。
 ブログを掲載し始めたのは12年前に友人からすすめられたmixiだったが、宮城県大崎市でフランク永井歌コンクールが開始され、そのデファクトの公式サイトともいうべき「フランク永井の故郷から」にお願いして掲載する際に、思い切って「文四郎日記」として「フランク永井あれこれ」にした。2012年のこと。
 筆名の「文四郎」はいうまでもなく、藤沢周平の書いた名作「蝉しぐれ」の主人公の名前をお借りしたもの。
 フランク永井との連想はないといった方が正しく、関係はいまだにわからない。ただ、フランク永井の恩師である吉田正が曲を作っていく中で、机上ではなく人びとの生活の奥から醸し出される感情や感覚を知ることの大事さを語っている。
 こうした人びとの生活感を大事にする姿勢が作った曲に生きていて、多くのファンを魅せたものと思っている。フランク永井については都会派だとか、大人のムード歌謡だとかの視点から語られることが多く、多くの人びとの生活や労働の現場ということとの関連が薄いように印象付けられているために、無関係のように思われがちだ。
 しかし、東北の田舎から上京して、当然のごとく現場で労働することから社会を経験していることは重要だ。米軍の物資の搬送という仕事ではあった。けっしていきなりスターの道を歩いたわけではなく、きらびやかな道だけを歩んできたわけではない。
 歌った歌のジャンルでの成功も、多くの人びとの生活と労働という点での感情が重なっていたが故のものと思う。「恋さんのラブ・コール」が関西のラジオ局のABCホームソングで流れ、活発に展開していた労音の舞台で絶大な人気を得たのもそのあらわれだ。
 ややこじつけに近い関連付けは、ここまでにして、藤沢周平展が開催されていた。作家藤沢周平の生誕90周年を記念した展示で、作品を書き後年の生涯を過ごした東京練馬。石神井公園の一角にある会場を訪れた。
 藤沢周平展は生誕の地山形県鶴岡の記念館で主催するものもふくめて、多くの場所でひっきりなしに開かれている。幾度か目の訪問だった。
 かつて山形放送で流された藤沢周平を訪ねてさまざまなエピソードを語らせた映像が、会場では紹介されていた。これが印象的だった。
 藤沢周平ははっきりと言っていた。歴史ものでも英雄や名を残した偉人と呼ばれる人よりも、名もない人の生活の中にある視点や感情や体験に興味があると。そこには驚愕のドラマがあり、いきいきとした躍動の物語がある。これはけっして光はあてられることがないが、英雄や偉人とくらべても引けを取らない注視すべきものがある。これを書くのだと。
 藤沢作品はこうした視点から書かれている。もちろん作家は食っていく必要もあってそこからはみ出た作品も残しているが。映画化も多数されたし、TVドラマ化も多い。どれも静かでほのぼのとした気持ちを起こさせる。
 藤沢周平自身はどれが代表作と思われたかは分からないが、筆者にはやはり「蝉しぐれ」だ。なにが、どこか、といわれると、これもよく説明できないのだが、普段は決して気負わない生活があって、他人のことでも何かないがしろにできないものが荒らされる、否定されると、敢然と命をかけてでも立ち向かう、そんな凛としたものを感じる点だろうか。
 「蝉しぐれ」は黒土三男監督によって先にNHKのドラマ化、その後映画化が実現した。書籍を一気に感激して引き込まれて読み、まだ現存していた藤沢に映画化の許可を依頼した。藤沢は映像化に容易にうなずかなかったのだが、黒土の熱意に折れて実現した。
 丁寧な映像化はすばらしい。実際にヒットし、藤沢作品の魅力を広げた。書籍を読んでいる人にもけっして期待をそこなうことない作品だったのではないだろうか。
 ということで、番外編でした。
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 フランク永井が藤山一郎とデュエットした映像は、別項でも紹介したことがあるが、何年か前にどなたかから見せていただいたことがある。
 先日フランク永井ファンとして以前から交流をもつUさんが、その元映像であるものを見せてくださった。うれしい限りで感謝に耐えない。それが、1975年1月にNHKから放送されたビッグショー「藤山一郎」。最近に歌謡専門チャンネルで再放送されたとのこと。
 藤山一郎は複数回ビッグショー主演しているが、この回の番組ではフランク永井がメイン・ゲストであったものだ。藤山が指導合唱団があって、その合唱団の一員になってフランク永井も歌うというシーンから登場する。
 合唱団で何曲か歌った後に藤山と二人のトーク。珍しいアントニオ古賀のギターによる歌唱、日本風の情緒豊かな茶室での風景が飛び込んだりする。
 そうしたなかで、君恋しが歌われるという趣向だ。藤山は戦前学生時代からの人気歌手で、君恋しは何度も歌っている。「君恋し」(作詞:時雨音羽、作曲:佐々紅華)は1929(昭和4)年に浅草オペラの人気歌手の二村定一が歌って大ヒットした曲。
 なので、この番組では当然藤山が歌ったときの編曲でうたわれたし、フランク版ではずされた三番の歌詞入りである。「...燕脂の紅帯緩むも哀しや...」という、たいへん味わい深い時雨音羽の歌詞が楽しめる。
 現代版にするときに、やや難しい表現が大胆に外されたのは惜しい気もするが、この個所をフランク永井が歌ったのもここでなので、大変貴重な映像かもしれない。
 「酒は涙か溜息か」「僕の青春(はる)」「青い背広で」「なつかしの歌声」「青春日記」「東京ラプソディ」「ギターが私の胸で」「浜昼顔」「神田小唄」「影を慕いて」「男の純情」といった藤山一郎の代表曲が楽しめる。
 誰が最初に言ったのか「楷書の歌手」と藤山一郎を表した。言いえて妙というのかも知れないが、確かに藤山は戦前から戦中戦後の声楽界のエース的存在で人気を得た。
 映画主題歌「青い山脈」などは、そのはきはきした歌唱、滑舌のよい通る明るい声は、人々の気持ちを明るくする象徴だった。
 戦後の歌手フランク永井との活動の重なりは少ないのだが、やはり「君恋し」だ。藤山は学生時代から変名で歌いコロンビアと縁が深かった。だが卒業後はビクターに入る。コロンビアは君恋しの作家である佐々紅華と時雨音羽をビクターから引き抜く、などということもあった。
 その後コロンビア時代のコンビ古賀政男がテイチクに移っていたことからそこで活躍する。「東京ラプソディ」などのヒットを重ねるが、ふたたびコンビはコロンビアへ移る。
 藤山と同時代にライバル視されたのはポリドールの東海林太郎。東海林も燕尾服にマル眼鏡に直立不動という姿勢での、味わいのある歌唱を数多く残した。
 そんなことをつらつらと思い浮かべながらの「ビッグショー藤山一郎」の鑑賞を楽しんだ。
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 先日テレビ欄を見ていたら「フランク永井」の文字が出ていた。こりゃ何をさておいても見なきゃ、ということで楽しんだ...、という書き出しは前回のものだが、なんとその次の週でもテレビ欄にその文字を発見。
 年に幾度も出ることがないはず?だったのに、翌週もというか、まだ3月なのに連続2回。。。。今年はテレビ番組でのフランク永井の露出が期待できるのか、どうかはわからないが、妙にうれしい気持ちになってみてしまった次第。
 BSジャパンの「武田鉄矢の昭和は輝いていた」は人気番組だ。昨年2月に放映された「吉田正と遠藤実特集」が再放送された。基本的な番組の内容は昨年ここでその紹介したとおり。
 歌は世につれ、世は歌につれ、とはよく言ったものである。作曲家も作詞家も編曲家も歌い手も、残した歌で評価される。当然周囲の売り込みはし烈になされるのだが、結果として世に受け入れられた歌ですべてが決まる。
 流行歌全盛時代といえば、いろいろな見方もあるだろうが、1960~1970年代のこの時期の歌で主役といってもいい人気歌の作り手は、確かに吉田正・遠藤実と船村徹だった。番組ではビクター、キング、コロンビア、クラウン...というレコード会社の競争を並列してあげている。
 吉田正はビクターだが、遠藤実は複雑だ。17歳で上京流しの演歌師を経験する。日本マーキュリーで作曲、その後日本コロンビア、太平音響からミノルフォンへ。さらに名前は徳間音楽工業へ。日本音楽作家協会を設立した。作曲家では古賀政男、服部良一、吉田正に並び受賞した。
 橋幸夫が当初遠藤を師としていたがデビューテストでかなわず、ビクターの吉田正に託したのは有名だ。遠藤が橋に用意していた芸名が舟木一夫。この名にそうとうな思い入れを持っていて、後日御三家の一角をしめる舟木一夫を見出し、コロンビアから売り出す。
 吉田正はビクターで吉田学校と呼ばれるように多くの吉田門下の人気歌手を育てて売り出す。遠藤は舟木だけでなく、レコード会社の壁を越えて多数の歌手に歌を書いた。
 ミノルフォンでは橋とも組んで事業を展開した。橋に歌も書いた。だが、事業家としては思ったような展開ができたわけではない。しかし、遠藤の残した歌と歌手をみればその偉大さがわかる。
 筆者が勝手に選んだのは下記だ。どれもが大ヒットものだ。しかも遠藤の歌は日本人が日本語で歌うときに、その歌いやすさは群を抜いたものがある。しかも、メロディーとして日本的なテーストがしっかり組み込まれているだけに、多くの人の心に自然になじむ。
 お月さん今晩わ(藤島桓夫1957年4月)
 からたち日記(島倉千代子1958年11月)
 浅草姉妹(こまどり姉妹1959年11月)
 アキラのズンドコ節(小林旭1960年)
 おひまなら来てね(五月みどり1961年5月)
 若いふたり(北原謙二1962年8月)
 高校三年生(舟木一夫1963年7月)
 ギター仁義(北島三郎1963年8月)
 青春の城下町(梶光夫1964年)
 星影のワルツ(千昌夫1966年3月)
 こまっちゃうナ(山本リンダ1966年11月)
 新宿そだち(大木英夫・津山洋子1967年10月)
 長崎恋ものがたり(春日八郎1972年)
 せんせい(森昌子1972年7月)
 くちなしの花(渡哲也1973年8月)
 すきま風(杉良太郎1976年10月)
 北国の春(千昌夫1977年4月)
 夢追い酒(渥美二郎1978年)
 雪椿(小林幸子1987年6月)
 さて、フランク永井はビクター故であるとともに、その専属吉田正の愛弟子であるが故に、フランク永井には曲を作っていない。だが、フランク永井は遠藤の作った曲のカバーを歌っている。いずれもが味わい深く、すばらしい出来だ。下記の6曲。
 くちなしの花、すきま風、みちづれ、水割り、北国の春、夢追い酒
 ゲストに「南国土佐を後にして」を歌ったペギー葉山が元気に出ていたが、この番組が放映された(昨年2月)後まもなく永眠した(4月)。番組はこの歌のルーツやペギーが初めてうたったときのエピソードも、しっかり追っていて貴重な追悼にもなっていた。
 戦後歌謡界で忘れてならない大作曲家は船村徹だ。番組ではしっかりと船村の地位と栄誉を紹介している。彼も昨年の放送からわずか1週間後に冥界に入った。
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 先日テレビ欄を見ていたら「フランク永井」の文字が出ていた。こりゃ何をさておいても見なきゃ、ということで楽しんだ。それは、BS11「あの歌この歌~時代が生んだ名曲たち~1961年」(201803)。
 ある年に焦点をあてて、その年にはやった歌を取り上げながら、当時の世相を紹介するという番組だ。
 今BSを含めると歌番組は多い。筆者らの老いた年代のものにもその気にさせる番組はあるのだが、嗜好の激しい年代だけに出演者が気になる。出演者は新聞の番組表でしか判断できないし、その見出しとあわせて、かけ事をするように連想して判断するしか手がない。
 もしかして、テレビ番組表が記載された冊子とかインターネットで見るとかあるのだろうけど、年寄りはそんな面倒はしない。紙面の文字をみて連想するカンだけだ。
 新聞は毎朝読む。政治、経済、スポーツが入り、社会の順でみる。最後はテレビ番組表。まあ、ときどき見落としして残念がることはあるが、ここで判断する。
 ファンの「フランク永井」の文字をみることはほとんどない。マレなので、眼に入ったときは時に、声まで上げる、というような塩梅。
 いくらムード歌謡の冥王とはいえ、舞台を降りてからも30年余年経過するから、紙面にその字が躍るのは年に何度もないからだ。その分野ではビジュアルで突出する裕次郎とひばりの突出に隠れてしまうことが多い。
 さて、今回の番組をじっくりと楽しんだ。
 1961年という年は激動の時期で、フランク永井の「君恋し」は確かに日本レコード大賞を得たのだが、その他の歌や歌手や事件がきらびやかというか、華々しいのがそろっていて、フランク永井・君恋しがトップだよと先頭に取り上げられること自身がまれなのだ。
 番組での紹介されていたが、柏戸大鵬同時横綱昇進、巨人大鵬卵焼き人気、東洋の魔女鐘紡バレーボールチーム、米国のテレビドラマの吹き替え放送人気。
 前年の1960年は「安保反対闘争」が頂点を迎えた年でもある。歌の世界では、見出しの「和声ポップス元年歌謡からドドンパへ」のごとき、戦後の「日本調+ジャズ」一色から大きな様変わりの変換期だった。
 番組はこのあたりの雰囲気を実によく表現していた。
 戦前戦後の歌謡曲は同時に日本に駐留した米軍の兵士に慰安を提供するキャンプでの仕事が洋楽を運んできた。ひとくくりでジャズといわれたが、ロックからシャンソンからカントリーから映画音楽からまぜこぜだ。
 洋楽は米兵を楽しませながらも、GHQの日本人の文化再生計画と協力に結合して、米国への憧れを演出するツールになった。楽曲もドラマも当時は著作権なしで大量に流れ込んだ。後に当時の使用料まで求められるのだが。
 映画やドラマは吹き替えの文化により日本人でも十分に楽しめた。この吹き替えのパワーは世界段トツの力量になる。歌の世界では漣健児による超訳が受け入れらてて、日本人の歌にあざやかに変身した。
 この世界の変換期にもうひとつの分野が流入してきたのが「懐メロ」だ。この言葉自身は後につけられたものだが、日本人による日本的な名曲のかずかずを当時の人気歌手が、つぎつぎとカバーして歌ったのだ。
 フランク永井の「君恋し」はその一つだが、突出していて日本レコード大賞にまでなったのには訳がある。それは、フランク永井がジャズを志向してきた歌手としてそのセンスと高い歌唱力があったこと。さらに編曲の名手たるビクターの寺岡真三が、原曲のイメージを極限までひきあげたジャズ風のものに完成したことだ。
 この大胆なアレンジとジャズ風のフランク永井の歌唱が、まるで新曲のように受け入れられたことだった。本来カバーを賞の対象にすることは想定していなかったのだが、フランク永井の「君恋し」には皆が認めてしまうだけの印象を与えたのだっが。
 1961年のシングル・ランキングという表をみて明らかなように、そうそうたる曲だ。どれもがトップになってもおかしくないような曲だ。特に「上を向いて歩こう」とか「銀座の恋の物語」などは「君恋し」を横に置いて先に紹介されることが多い。
 活躍していた人たちというリストもすごい。皆当時を代表、あるいはこの時期から著名になったエンターテナーだ。観ながら、ちびりちびりと口にする酒による頭のしびれと、テレビ画面に映るここちよい「君恋し」が重なる。
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 1967(S42)年日本ビクター創立40周年を記念して、当時の人気若手歌手による「想い出のレコード」が発売された。歌ったのはジャケット写真にあるように、フランク永井、吉永小百合、松尾和子、三田明の4人。作詞作曲は佐伯孝夫と吉田正のコンビ。
 この曲がこのほど復刻された。フランク永井の恩師吉田正の同じ門下生であった吉永小百合が、このほど55周年を迎えた。同時に映画「北の桜守」が封切られた。「北の桜守」は先の「北の零年」「北のカナリアたち」とともに作られた三部作の完成編にあたる。
 サハリンから引き揚げて北海道に生活する。失われた記憶をたどる旅。時代にほんろうされながらも、凛とした人間の矜持をまもって生きる。吉永小百合主演の映画だ。
 シベリア抑留から帰国してビクター専属となった吉田正を想起する。彼の指導でリリースされた「寒い朝」をはじめとする、吉永の歌った歌とNHK紅白に残された映像(4本のみ)が記念してビクターから発売された。
 吉永小百合といえば、思い出されるのはまずラジオ赤胴鈴之助のことだ。テレビなどなかった時代、子供にとっては夕刻のここTBSドラマは大変な人気だった。少年画報に連載されていた漫画で、竹内つなよしの画だ。筆者は写真の当時の付録を所有しているのが自慢だ。
 このドラマの千葉道場の娘さゆりを演じたのが吉永小百合。後に有名になる大平透、宝田明や藤田弓子に共演している。語りも山東昭子という豪華もの。イントロに印象的な主題歌を聴くだけで興奮したものだ。「名を名を名乗れ!...赤胴鈴之助だ!」と皆真似た。
 ちなみにこの主題歌はビクターの曽根史朗も歌っているが、それは映画だったかもしれない。
 映画では「キューポラのある街」をはじめ当時の若者の姿を演じる映画では、吉永は光っていた。ひっぱりだこだった。その多忙の中で歌も歌わされたわけだが、決してうまくはないのだが、キリっとしたところを主張した個性的な声は印象的だった。
 その後映画に追われ、声も出なくなったりする時期を経過し、その後歌はきっぱりと歌わなくなった。今回の記念CDは当時の歌った歌のベスト17曲だ。「想い出のレコード」はその一曲。フランク永井や松尾和子とともに歌った唯一の曲だ。
 フランク永井は1960(S35)年に「78回転のSPレコード」(宮川哲夫作詞渡久地政信作曲)というのを出している。これは78回転のSPレコードによる発売をこの年に終え、全面的にEPとLPに替えていったのを記念して歌ったもの。
 当時のレコードや映画は娯楽メディアの中心だった。「北の桜守」は観にいこうかな、などと思いつつ、当時に思いをはせた次第。
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 フランク永井の盟友だった松尾和子。彼女のファンは多い。だが、波乱万丈の人生だった。まあ「ムード歌謡」を語るときには、今でも欠かせない人だ。
 歌はうまい。歌詞を表現するのにこの人ほど見事にできる人は少ない。恩師吉田正が「松尾の歌はため息なんだが...」と言わしめるほど、その女の色気、ムードを巧みに表現できた。
 だからそうした大人のムードを気に入る人には憧れのような雰囲気を醸しだした。これは同時に純情な若者には「男を声で誘惑する魔女」「男に女の手練で迫るイヤなやつ」とも見られた。
 同じ歌手の仲間でも人気は分かれる。松尾の性格は「まるで女親分だ」とその飾らない気安さをたたえるものと「もっと女性らしさ」を求めるものと。
 彼女は育児にも問題があったかもしれない。かてて息子への愛も半端ではなかった。周囲の悪魔の誘いに安易に乗って手を染める息子に社会の目が迫ると「家に戻って反省しろ」と。戻ってきた息子の言い訳を単純に信じると、こんどは「私が守る。じゃ逃げろ」と。
 これじゃ、ただのバカ母でだめかもしれないのだが、松尾の思考が単純で誰にも予想通りなために、同情と哀れさがつきまとう。
 芸能界の歌謡界。歌が売れるか売れないかで雲泥の差がでる水商売だ。売れれば湯水のごとくカネが動くが、いったん社会から飽きられればちやほやと豪華な生活は、たちまち消える。
 息子を逃がしたのは、当時住んでいたのは、現首相の父親の住んでいた政治屋さんの住居。取り巻く取材陣をマイて逃がせるような忍者屋敷の機能をうまく利用したのだ。だが、ここも売り払いアパートに越す。
 こうした仕事が薄れた当時には、ささやかなものでも仕事がくるのはありがたい。舞い込んだのは当時TBSの人気ドラマからだ。それが向田邦子脚本、久世光彦プロデュース、小林亜星主演の「寺内貫太郎一家」。松尾はこの線に大きな期待を寄せる。
 ちょい出であってもしっかりこなせば、準レギュラーぐらいの出演までいければすごいことになるかもしれない。。。と夢を膨らませる。
 ということで、さて、「寺内貫太郎一家」への松尾の関与とはどういったものだったのだろうか。
 ドラマは有名だ。当時の歌謡界でトップに君臨はしていないが、異彩を発揮していた三大作曲家(山本直純、浜口庫之助と)として勝手に命名している一人の小林亜星が主演している。悠木千帆=樹木希林の怪演、伴淳三郎、横尾忠則、谷啓をはじめそうそうたる出演者が毎週あばれまくる。
 松尾が関与したのは第29話。舞台、寺内石材店(石貫)で働くタメさんこと左とん平が松尾和子の大ファンでいつも?「誰よりも君を愛す」を口ずさんでいる。いつもファンレターを出している。
 それを知る貫太郎の母親きんこと悠木千帆が、松尾からのファンレターの返信を偽造する。度を越しているのは真っ赤な口紅で紙に移したマークを添えたことだ。それをホントの松尾からの返信と受け取ったとん平は喜び興奮のあげく、それに口づけをする。
 だが、直後にきんのいたずらと知って激怒し、大ドタバタになる...。
 とん平が手紙を開いて文面を見るときに、松尾がそれを自身の声で読むというのが「出演」だ。声の出演で映像ではないのが残念なのだが。。。
 1985年フランク永井歌手生活30周年のリサイタルで、フランク永井の舞台にあがり「東京ナイトクラブ」を一緒に歌っている。この年の暮れがフランク永井の最後の舞台となった。松尾はフランク永井とともに歌えなくなったことがさみしかったようだ。
 松尾は日本テレビ「池中玄太80キロ」には出ていたようだが、1992年に世を去る。1997年に恩師吉田正作曲家50周年感謝の夕べが関係者だけで催された。そこに出席してあいさつに立った吉永小百合は「鶴田さん、松井さん、フランクさんがおいでにならないのは本当に寂しい...」といっている。
 その恩師吉田正も「松尾には歌って欲しい曲がいっぱいあったし、書けと言われれば今も書ける。でも肝心の歌う人がいない。せめてフランク永井が健在なら...」と二人の弟子の早すぎる退場を惜しみながら、1998年に永眠した。
 さて「寺内貫太郎一家」はBS11で再放送中。
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 フランク永井が活躍したのは、1955(S30)から30年間。この時代に「フランク」といえば日本ではフランク永井だ。海外では、フランク・シナトラ。ジャズという名でくくられた洋楽が、戦後せきを切ったように日本に流れ込んできた。フランク永井はクロスビーの歌が好きだったようだ。
 フランク永井の売れると、テイチクから対抗馬としてジェームス三木をデビューさせた。ジェームスは長年にわたった下済み努力を重ねたが、歌手は断念した。だが、彼はその後テレビ界の脚本家として大きな業績を残した。さらに「マスコミ九条の会」呼びかけ人として、戦争ができる国へ憲法を変えてまでのめり込もうとする時世にも意見を表明をしている。
 フランク永井が舞台で活躍していた時代に、フランク赤木という歌手がいた。フランク赤木は芸名ではない。ハワイ生まれたいきさつからの本名だ。
 ウエスタン、ロカビリー、カントリーといった歌が流行り、日本人によるカバーが多数出た。米軍が日本を占領しいたるところにキャンプがあり、そこに出向いて歌うということが、戦後日本の歌謡曲歌手の大きな仕事だった。
 赤木もそうだ。先輩ディックミネからフランク永井と同じようにいっしょに地方を巡業する。彼の残した歌はいくつか残っている。MEG-CDからも復刻されている。「ジャングル大帝1998」なども歌っているようだ。
 手元にあるのは「星空を見つめよう」というEP盤しかないが、残された歌を聴いてみると、しっかりした歌唱をしている。高音もきれいだ。
 この高音は、彼の吹き込んだ「暗い港のブルース」に特徴が表れている。この曲はキング・トーンズの歌唱(なかにし礼作詞)が有名なのだが、フランク赤木のために作られたもの(薩摩忠作詞)のようだ。
 「魅惑のオン・ステージ」には、別途テープ盤があり、そこでフランク永井の「暗い港のブルース」のカバーが入っているということは、別項で紹介したが、これは中西盤。
 ちなみにキングトーンズカバーでは「グッド・ナイト・ベイビー」もフランク永井は歌っている。「高音」が売りだし、高音が魅力のこうした曲を、低音のフランク永井がどう歌うのか、結果どうなのか、それもファンの楽しみだ。
 さて、フランク赤木だが、彼は映画にも出演したり、その時代にそれなりの名をはせたのだが、フランク永井が舞台を降りたあたりから名を聴くことがない。フランク永井よりも何歳か下だ。今どうしているのだろうか、とふと思った次第である。
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 2月8日『BS朝日ザ・ドキュメンタリー』は阿久悠の特集だった。前回取り上げたばかりのテーマだったので追記したい。
 番組は阿久悠のひととなりをよく表現していたのではなかろうか。几帳面。一途。気迫。才能と努力。四国から上京して、歌謡界・テレビ・文学で花を開かせ、昭和の時代におおきな印象を刻んだ。
 広告代理店で生涯の友上村一夫と出会うのだが、このくだりは番組ではふれなかった。そこから歌謡界の裏面の詞作りを手掛ける。フランク永井がカバーした「街の灯り」のジャケットが記念館入り口に掲げられているのは紹介したが、元唄は堺正章(浜圭介作曲森岡賢一郎編曲)。
 彼に歌が提供されたのは1973年でNHK紅白でも歌われた。さりげなく印象に残る曲だ。阿久悠作詞家生活十周年を記念して、ビクターが「阿久悠~君の唇に色あせぬ言葉を1968-1978」を気張ってつくった。そのときにフランク永井は一連の阿久悠カバーを吹き込んだのだ。
 1977年に「おまえに/おもいやり」というLPを出した。ここにある「おもいやり」は元曲(三佳令二作曲)が克美しげる。発売直後克美はなんとしてはならない事件を起こしてしまう。曲は回収されまぼろしの曲に。これをフランク永井の歌唱による復刻を実現したといういきさつだ。
 克美は「さすらい」で歌のうまさがきわだち多くのファンがいた。「おもいやり」もいい歌だったのだが、現在と違って当時は歌は聴くことができずに、惜しまれる声が多かった。
 「街の灯り」を堺がどういういきさつで歌うようになったかは知らないが、番組は阿久悠が詞を書き始めるもっと初期にスパイダースに詞を提供したという。この時からの連携の中で書いたのかもしれない。フランク永井のカバーは、上記の阿久作品集の作成の一環で行われたものだ。この歌も何人かがカバーしている。やはり、阿久が書く詞の引力なのかもしれない。
 阿久の作品集は数多く出ているが、阿久作品を歌うアーチストをおおく抱えるビクターから2005年に「人間万葉歌」というCD-BOXが続とともに20枚で出ている。解説も充実していてファンには歓迎だ。
 かつて「スター誕生」から誕生し世を賑わした歌手たちもすでに、新たな代の人たちに席を譲っている。だが当時の関係者が阿久への敬意をこめてショーを開いた様子も紹介された。

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