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 小林亜星がお亡くなりになりました。小林亜星については、当ブログの2019年7月に「【番外編】希代のヒットメーカー小林亜星「昭和は輝いていた」での放送」で紹介しています。文四郎的に勝手に昭和歌謡史に側面からの巨大な大衆文化遺産を付加した三大鬼才のおひとりと評価したものです。ちなみに、あとのお二人は浜口庫之助と山本直純です。このお二人についても、当ブログで書きましたので、ご興味おありの方は閲覧していただければ甚大です。
 小林亜星は、自分の好きなことを生涯ブレずにやり通した人として、尊敬しています。88歳の大往生であったと思います。
 フランク永井が活躍した時代と小林亜星の活躍した時代は重なります。フランク永井のことをいろいろ追っていると、必ずといっていいほど、小林亜星がコマーシャルやアニメや流行歌のトップで登場するため、自然に覚え、活躍分野の広さに感心し、興味をもってしまいました。
 結果的ですが、日本の歌謡史に関係した資料はおそらく、50冊程度はあさりました。小林自身が書き残したのも多数あるのでしょうが、彼の「あざみ白書」(改題「軒行灯の女たち」)を読み、そこで彼が記した「資料は正確に、オチは荒唐無稽に」というひとことを見て、妙に感心しました。
 これは人生論でもありますね。
 誰でも自分の生活の周囲にはさまざまな事象が現れ、過ぎ去っていきます。それを何気なく見過ごし、時の流れに身をまかせて、浮草のように漂うように人生を送る人もいないわけではありません。しかし、事象を注意深く見つめ、その事象と自分との関係を、目的意識的に分析して、背後にある普遍的な真実を見極めたいという人もおります。
 小林亜星はそのような後者であったと思うわけです。だが、そのことを自ら口にはせず、その素振りもせず、仕事の結果に反映させます。周囲は結果しか知りません。作品が、パッとみて「えっこんなの...」と思っても、実際にテレビで流れると、多くの人びとが受け入れ、反響を返します。その実際をみて、初めて小林亜星の力に驚くわけです。
 見た目はただのデブな、目立ちたがりの、ダメ親父ではないか、と見えても、生み出す作品は世の誰もが真似のできないもの、それが小林亜星だった。
 もう遠い前のことだが、勤務していた会社では社員旅行がありました。そこで亜星の作ったCMの「日立の木」をハワイの公園で見たのも思い出です。
 同時代を駆け抜けたもい一方、エレキの神様とも呼ばれた寺内タケシの訃報も流れました。軽く触れたギータの弦がアンプを通して、爆発的な音として大きなスピーカーから飛び出す。それが大観衆を沸かす。おそらく、演奏する側も聴く方もこれには驚いたでしょう。妙な感動を呼んだことは確かです。
 メロディーは電気的な高音とやかましさに埋もれ、文四郎的には静かさの方が好まれたものです。しかに寺内も生涯己の道を歩み切ったことには、敬意を表すだけです。
 心からご冥福をお祈り申し上げます。
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 フランク永井の歌唱は誰でもが認めるすごさを持っています。古い話です。先の大戦が終わってから10年後の1955(S30)年に「恋人よわれに帰れ」でデビューし、1985(S60)年に舞台を降りました。
 ちょうど30年の活躍ですが「有楽町で逢いましょう」「君恋し」「おまえに」など多数の大ヒットを残し、昭和歌謡に偉大な足跡を残しました。
 「魅惑の低音」というキャッチが冠されました。当時日活の俳優だった石原裕次郎とならんで、低音の歌声を社会に響かせ、皆の耳に忘れられない印象を残しました。
 不幸な事件で消えた後、多くの人たちが彼の声を惜しみました。盟友で「東京ナイト・クラブ」でゴールデン・デュエットを組んだ松尾和子は、すっかり歌への情熱を失い「フランク永井と一緒に舞台に立てないなんて...」と嘆きの言葉を残しています。
 恩師吉田正を先頭にする制作陣営も同様に、衝撃を受けました。そして、ビクタースタッフで、フランク永井のような歌唱をもち、その築いてきな「都会派ムード歌謡」を歌える歌手を探すプロジェクトを開始しました。
 このプロジェクトは静かな潜伏状態で行われたと思え、その詳細はわかりません。だが、それから数十年経過して、当時関係した人たちがいろいろな場所で、わずかですが、雰囲気をチョイ出ししています。それらを統合して見てみると、およその像が見えてきます。
 結果的には、フランク永井の後継は見いだせなかったということです。だが、いくつかの余波は財産となって残されています。
 現在文四郎的に言えるのは、五木ひろし、ささきいさお、山川豊の三名です。
 五木ひろしについては、ご本人が吉田正という偉大な作曲に直接指導を受けたということを述べております。そこで正式に「有楽町で逢いましょう」を残し、これを含めたアルバムを作っています。「吉田正作品集」(徳間ジャパンコミュニケーションズ-‎ B00005GGAV)、「魅惑の吉田正メロディーを歌う」(ファイブズエンタテインメント-FKTX-5017)です。
 ささきいさおは「おまえに」と「雪の慕情」を残しました。「雪の慕情」は、フランク永井が第2回リサイタルで披露した長編歌謡組曲を3分のシングルに再編成した作品です。吉田正の直接指導で作りました。
 山川豊はご存知、兄の鳥羽一郎と兄弟で活躍している歌手です。吉田正は彼の歌唱を聴き、これはフランク永井というより、山田真二のイメージがあうとのことで「哀愁の街に霧が降る」を、カバーというよりオリジナルとしてシングル発売を実現しました。
 どのような歌であっても、作詞+作曲+編曲+歌手の組み合わせ(裏方の企画+制作+販促はここでは控える)があり、その時代で生活する人々の胸にどう響くかによって、歴史的、社会的評価が決まります。この4つの関与者が、結果としてぴったりと意気照合したときに、社会は容赦ない評価をくだします。
 だから、時代を超えて、二世、後継者を探し、実現するということ自体が妄想となってしまう可能性が非常に高いわけです。しかし、フランク永井を惜しむファンや関係者にとって、それをトライするということは、わかっていても、揺り動かされるような、眼に見えない大きな力が働いたと思われます。

 文四郎的にも気持ちは同じです。ずっと歌謡界を追ってきました。今も活躍している三山ひろしは彼が初期に歌った若山一郎の「おーい中村君」を聴いたときに大いに感心しました。同じく松原健之が三橋美智也の「達者でナ」を歌った時も、その素直な歌唱に惹かれました。ちなみに「達者でナ」この二人が同時に歌っている映像も残されいます。
 これとは別に、何年か前から宮城県大崎市の方々と「フランク永井のイメージを保持した歌唱ができる人は」と話題にしたことがあります。
 ここで推されたのは、まず、同地で毎年開催される「フランク永井歌コンクール」の、第2回(2008:H20)で優勝した青山譲二さん。彼の「初恋の詩」の歌唱はすばらしく、後にCDをリリースしています。その後も数曲を発売しています。もう一方、徳間ジャパンコミュニケーションズの歌手、俳優である谷本耕治です。フランク永井のファンでもあり、大崎市松山を訪れています。
 さまざまな人を紹介してきましたが、文四郎的にもうひとり期待の新人を挙げます。テイチクの若い新人青山新です。伸びのある歌唱は、これからどう成長していくのか楽しみです。
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 白井伸幸先生がお亡くなりになったことは前の記事で紹介させていただきました。
 白井先生は、フランク永井ファンにとっては、毎年開催されるフランク永井歌コンクールでの、審査委員長としてのい顔がいちばんなじみ深かったのではないでしょうか。
 歌コンに行きますとパンフレットをいただきます。そこに記載された白井先生の記事を振り返ってみたいと思います。先生がいかにフランク永井の曲に造詣が深かったかを、しみじみ感じます。ここで改めて紹介して、記録にとどめたいと思います。

◆あの頃。「有楽町で逢いましょう」とその時代背景(2010年第3回フランク永井歌コンクール)

 「もはや戦後ではない」と第三次鳩山内閣がソ連との国交回復に向けて走りはじめた、昭和31年夏に言われました。言ったのは経済企画庁調査課長の後藤誉之助。
 自由民主党と社会党の二大政党による55年体制が確立され経済的にも力をつけて来た日本は、まさに「もはや戦後ではない」時代に来たのです。もともとは文学者の中野好夫が書いた評論の題名でした。戦後を持ち出せば背任を免れるとまではいかなくても、何事こも便利な言い訳になった。
 そろそろ日本人は「戦後」に甘える気分を捨てるべきだ。とそんな意味が込められていたのです。そして朝鮮戦争と米ソの冷戦状態に育まれた経済白書でした。(この頃から日本の官僚は大変に優秀で国家建設に大きく寄与し、なかには国会議員へと転出していきます。)
 その少し前は敗戦で卑屈になっていた日本人にわずかながら明るい希望を持たせたのが水泳の古橋広之進、橋爪四郎。ボストンマラソン優勝の田中茂樹、ボクシングの白井義男、プロレスの力道山。そしてここから高度成長が始まり、人々は東京へ東京へと集まり、集団就職等で東京の人口は膨む一方。
 更に大阪資本の進出で夜の銀座は社用族で一杯。そんな折の昭和30年7月、銀座三丁目文祥堂の裏に京都の「おそめ」が進出。木屋町仏光寺の店の頃から著名人に贔屓にされ、服部良一、大佛次郎、里見淳、吉井勇、川口松太郎、川端康成、白洲次郎等が通っていた店で夜の文壇、夜の政界、夜の財界とも呼ばれ各界の著名人が集まり盛況を極めました。
 昭和32年小説「夜の蝶」がJl口松太郎によって発表されます。銀座の一流店「エスポワール」と「おそめ」の葛藤を描いたもので映画にもなり、京マチ子、山本富士子の競演で話題になりました。
 銀座と言えば盛り場、繁華街と言えば銀座、地方都市の商店街も銀座にあやかって○○銀座の名が付いた程でその数は無数。夜の巷はウイスキーを飲むのがお酒落、サントリーがトリスパーのチェーン店をオープン。サラリーマン達はハイポールを口にし、耳にはアメリカ音楽が心地よい。
 そんな祈、吉田メロディーが登場する。今迄の日本歌謡とは違ったものだった。そして「おそめ」から遅れること二年、大阪の老舗デパート「そごう」が東京進出をする。場所はJR有楽町駅の前、丸の内の一角である。
 デパートのオープンならどうってことはない。キャッチフレーズが優れていた"有楽町で逢いましょう"これに目を止めたのが作詞家の佐伯孝夫先生。優れた作家は優れたプロデューサーでもある。「異国の丘」を日曜日のNIHK素人のど自慢大会を聴いて、あれは売れるからレコードにしようと、ビクターの文芸部へ持ち込み。
 その話を開いてNEKへすっ飛びレコード化させた磯部ディレクター。今度は岡田裕一ディレクターが「そごう」デパートへ行きレコード化の話をまとめる。作曲家の吉田正先生の苦闘が始まる。バーやクラブで酒を飲みながら会話の邪魔にならぬよう洒落たサウンド、メロディーでなければならない。
 メロディーは出来た。サウンド(編曲)はどうするか? 試行錯誤の未、ピアノ、ギター、ヴイプラホーンによる和音でサウンド構成。スマートだった。クールでいて何とも暖かみのあるもので、当時の銀座の雰囲気にぴったりだった。
 このヒットのお蔭で有楽町が西銀座と呼ばれるようになった。キャッチフレーズの良さ、フランク永井の魅惑の低音で「そごう」は開店と共に押すな押すなの大盛況。
 「おそめ」と共に関西勢の進出にマスコミはこぞって書き立てる。"ど根性"東京進出!と、その後新しいビジネスは関西発が多い。今ではごく当たり前のスーパーも関西(西宮)発、そしてこんな言葉も飛び出した"阪橋"華僑をもじってのことで商売は関西の意識が定着する。
 こんな話もある。飛騨の神岡鉱山で中年の主婦が年下の男性と恋に落ち駆け落ちしようとし、二人一緒だと他人の目があるので別々に汽車に乗ろうと話し合い、それで落ち合う場所は有楽町で逢いましょう。与太話ではない。昭和33年の新聞の社会面に掲載された記事です。それくらい「有楽町で逢いましょう」はインパクトがあった。
 そしてこの年「君の名は」で一躍全日本的に知名度の上がった数寄屋橋が取り壊されショッピングセンターとなる。
 江戸時代三代将軍、徳川家光の時、寛永六年(1629年)に幅四間、長さ三間の木橋が建設され、関東大震災で消失。
 石橋となった由緒ある橋も姿を消し、有楽町界隈は著しく変化して行きました。そして戦後の悲劇を書いたミステリーの名作「ゼロの焦点」松本清張作、が発表され、"デーオ"で脚光を浴びた浜村美智子の「バナナ・ポート」もこの年でした。
 舞台となった「そごう」は今、電器量販店に、有楽町のシンボルだった日劇はデパートに、数寄屋橋は菊田一夫の書で「数寄屋橋ここにありき」の石碑が阪急ビルの傍らに立ち、誰も気が付くことなくその前を足早に通り過ぎて行きます。
 そして「有楽町で逢いましょう」の歌碑は日劇跡のデパート前(有楽町マリオン)の植え込みの中に有り「ゼロの焦点」を合わせて読むと改めて、もはや戦後ではないの言葉が鮮烈に蘇ります。

◆「君恋し」(2013年第5回フランク永井歌コンクール)

〽宵闇せまれば、悩みは涯なし。「君恋し」を初めて聴いたとき、何て古くさい詩だろうと思った。宵闇は黄昏の方がいいのではないかと思ったくらい。
 昭和初期のヒット曲でナツメロのリバイバルと知って、あの頃はこんな言葉遣いだったのかと思った程度、二村定一のオリジナルを聴いたのは後年、編成課長時代、昭和流行歌史の復刻盤を手掛けた時だった。
 驚いた、4ビートでテンポが速く、古き良き時代のジャズなのだ、作曲の佐々紅華は当時のジャズミュージシャンでもあり、浅草オペラの指導者でもあった。それを三連リズムのロツカバラードにしたのは編曲の寺岡真三先生、戦後の日本ジャズ界を代表するジャズピアニストでもあっただけに、お手のもの、一方フランクさんはジャズシンガー、ジャズを通しての先輩後輩でもある。
 この曲のリズムは当時のダンスホールやキャバレーのピアニスト泣かせだった。何しろ最初から最後迄、三連符で弾きっぱなしなのだ。
 レコードでの演奏は当然寺岡真三先生、銃剣道五段の猛者だっただけに筋骨隆々。ジャズピアニストのオスカー・ピーターソンもそうであったが、超一流のピアニストは腕の筋肉が凄い!(女性もしかり)
 二村定一のオリジナル盤は3コーラス、フランク盤は2ハーフなので3番はカット、これはジャズの手法でお二人ならではの作り方。
 フランク盤にはないオリジナルの三番の4行目に「臙脂の紅帯、ゆるむも淋しや」と書かれている。作詞の時雨音羽が神田のカフェで飲みながら詩作を練っていたとき、結びつけない帯がずれたのを気にして体をくねらせている若い女給の姿にヒントを得たそうです。
 時雨・佐々のコンビで昭和4年に作られたこの作品はこのように時代を感じさせるものですが、それを払拭したのが寺岡先生の編曲、昭和36年のレコード大賞受賞はこの編曲にあったといっても過言ではないでしょう。フランクさんも見事にそれに応えた歌唱となったのです。

◆ご挨拶(2018年第10回フランク永井歌コンクール)

 第10回フランク永井歌コンクール、おめでとうございます。ひとつの催しを10回も続けることは容易なことではありません。
 それもフランクさんのレパートリーのみ、これはどんなカラオケ大会でも真似の出来ないことで、それだけフランクさんの歌が、多くの人に親しまれ愛されていたかを物語っています。
 更に言えば、その基を作った大作曲家吉田正先生の存在があればこそ、そして多くの出場者が異口同音に言われていることは、この会が町民の手作りであること、それがほのぼのとした暖かみを感じさせ、ともすれば賞狙いや、主催者の営利主義が目立つ他の大会とは違うことだそうです。
 人情紙風船のごとき今日の世情、この大会をいつまでも慈しみ育てたいものです。
 吉田メロディーの秘密は詩にあります。吉田先生は皆さんから「吉田都会メロディー」と言って頂くことはとても嬉しく光栄なことだが、本当は佐伯孝夫メロディーなんだよ、といって居られた。
 詩によってメロディーが変わって来るのだそうだ。佐伯先生の詩はとても自然でメロディーがすぐに湧いて来るのだそうだ。
 又、自分の作風に変化を持たせる為、積極的に他の作詞家との制作に挑戦された。井田誠一、山上路夫、志賀大介、そして宮川哲夫である。
 鶴田浩二の「街のサンドイッチマン」「好きだった」「赤と黒のブルース」等があり、フランクさんの「公園の手品師」はその最たるもので、晩秋、銀杏の葉が一片二片と散りはじめる姿を、銀杏を手品師に葉をカード(トランプ)に見たて、「カードをまくよ」の詩にしており、歌謡詩というより純粋詩に近い。
 発売後もなかなか売れずヒットチャートにこの曲が出ることはなかった、歌謡曲フアンには地味すぎたのだろう。しかし、三年、五年、十年と経つうちに口コミで広まり、今では吉田メロディーを代表する重要な曲のひとつになっている。

◆「冷たいキッス」(2017年第9回フランク永井歌コンクール)

 "つめた-いキッス"久し振りに会ったカラオケファンにいきなり唄い乍ら挨拶されたのには驚いた。
 フランクのフアンでもかなりコアな人でないと知らない曲、何でこの歌を知っているの? と訊いて更に驚いた。昨年のこの歌コンの客席で聴いたという。
 聴いた瞬間、背中がゾクゾクとしたそうだ。前奏8小節のなかに「つめた-いキッス」と二度のくり返しは意表を突いた形式。奇才渡久地政信先生の面目躍如たる作品。
 話によればカラオケ仲間で東北地方へ行こうとなり、ついでにフランクの歌コン参加しようとなったらしい。そういえば何人か顔見知りらしき人が居られたようだが、カラオケファンのマナーとして、審査員には声をかけないようになっているし、客席のうしろに居られるとまず判らない。
 このグループは仙台市内、松島、鳴子温泉へと4泊の旅。そういえば過去こうしたグループに何組かお会いした。
 この大会が宮城県の経済効果にささやかに貢献しているいるということか。感想を訊くと他に類を見ないレベルの高い大会、そして「冷たいキッス」を唄われた方は、とてもしっかりした歌唱で、洋服のセンスも良く若い頃はMMKだったと思いますの返事。
 玄人好みの粋な選曲だったと思う。思い出すのは第2回大会でG.Pとなった青山譲二さんが「初恋の詩」を唄われたが、ほとんどの人が知らなかった曲、それが今やこの大会の定番となりつつある。
 カラオケ大会でよくヒット曲のB面を聴くことがある。これは他の人とは違う面を表現したい為の強い個性の表われで歌唱力の高い人に多い。「冷たいキッス」も是非そうなってほしい。
 他にも唄ってほしい曲がある。「新東京小唄」や「加茂川ブルース」だ。「加茂川ブルース」はワンコーラスが短く、一番と二番を続けて唄ってワンコーラスとなっているので、もし応募があったらそのように扱ってほしい。
 フランクさんの優しく暖かい歌唱はそばに舞妓さんがいるようだ。

◆「フランクさんと落語」(2016年第8回フランク永井歌コンクール)

 フランクさんの落語好きは、つと有名。ジャズを唄っていた頃から寄席に通っていたという。ジャズ仲間でクラリネット奏者の北村英治さんも落語好きという点では人後に落ちない。趣味の合う者が集まると、ご贔屓についての話になり順位を決めたがる。
 落語では誰が何といっても古今亭志ん生、生き様そのものが落語、三遊亭囲生は学者肌、三遊亭金馬は歯切れが良く聴いて気持ちが良く、エッセイとしても有名、限定500部の「浮世断語」(小生‰326を所持)は読んでいておもわず笑ってしまう。
 桂文楽は楷書の噺家と言われたぐらいきちんとしていた。このひと達程ではないが"通"と言われる人達に愛される噺家がいる、八代目三笑亭可楽、フランクさんのご贔屓だ。そこへライバル登場、北村英治さんである。二人で延々と可楽論を述べたというから普通ではない。
 コロムビアから可楽のアルバムを発売されることを耳にしたフランクさんは一筆、書かせて欲しいと申し込んだ。コロムビアにしてみれば嬉しい話だが、ライバル社のスター歌手に依頼するわけにはいかず、北村英治さんにお鉢が回った「いやーフランクの機嫌が悪くてね、しばらくは口も利いてくれなかったよ」可楽はそれくらい味のある噺家だった。
 ジャズコンサートも歌手もステージでは司会者を必要とした時代、その代表的なものは戦後、最初の大歌手となった岡晴夫の司会者、西村小楽天。ところがフランクさんも北村英治さんも落語で培った話芸が身に付いていた為、司会者を必要としなかった。
 後年、著名な司会者玉置宏さんと元NHKアナウンサー山川静夫さんに司会をしてみたい歌手はの質問に二人共フランク永井!
 フランクさんにいつもお世話になっている私はお歳暮に広島のカキを目黒の自宅に贈って、しまったと思った。フランクさんは同じくカキの産地、宮城の人だ。
 そのことを言うと君ィ、カキは広島にかぎるよ、と落語「目黒のさんま」をもじっての言葉、こちらも思わず唄い手は目黒にかぎるようで!

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 5月27日にお亡くなりになりました。心からのご冥福をお祈り申し上げます。
 白井先生はフランク永井とのかかわりでも、特筆すべき貢献をされた方として、ファンの皆さんの心に刻まれていいます。
 直接的にはプロデューサー時代に、洋楽のカバー「恋心」(1967:SJV-256)を制作しました。現在でも取り上げられる名曲カバーの初チャレンジでした。
 フランク永井の功績を受け継ぐ、おそらく唯一の事業となっている、宮城県松山市で毎年開催されている「フランク永井歌コンクール」で、2009年の第2回から2018年の第10回まで審査委員長という大任を果たされてきました。
 出場者への的確で丁寧なアドバイス、総評での見事ともいうべきお話は、会場の皆が認めるすばらしいものでした。そこでフランク永井との関係で話されるさまざまなエピソードを、会場は聴き続けられなくなりました。これから、フランク永井が住む同じ世界で、楽しく過ごされることと存じます。

 白井先生はビクターの歌謡学校の特別講師をされていました。その傍ら日本の歌謡曲の歴史についての整理などもされていたようです。まことに博学というご様子でした。私的には2015年のフランク永井の命日に東京で開催された7回忌の催しで同席させていただきました。また、歌コンの会場ではいつも、近くに席をとって、熱心な審査を見守ってきました。
 歌コンに限らず、一般の方が参加するのど自慢のような催しでの、審査をされる方々のお仕事の過酷さは尋常ではありません。ほとんど苦痛のようなものです。想像したらわかりますが、皆が聴かせる見事な歌唱だけではありません。それを2日間も聴き、採点するのです。
 歌コンの審査委員長は2019年開催の第11回から井上博雄先生に変わりました。

 白井先生が書き残された貴重な記事を紹介させていただきます。2016年に「メロディ・メイト」という専門誌に掲載されたもので、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」に関わる内容です(文字使いについて手直ししています)。

タイトル【「有楽町で逢いましょう」(番外編)作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正】

 野球の豊田泰光さんがこの8月4日に亡くなられた。(享年81歳)日本シリーズ三連覇の偉業を成し遂げた西鉄ライオンズの遊撃手、1953年新人王、1956年には打率3割2分5厘で首位打者となった強打者。1番玉造、2番豊田、3番中西、4番大下、5番関口の打撃陣に名投手稲尾を擁したライオンズは、巨人がV9を達成する迄は無敵だった。
 この豊田さんがこのコーナーとどんな関係があるのか、と訝しく思われるだろう。実は吉田先生とは茨城県人の先輩と後輩の間柄で先生がもの判りが良く、出来の良い長男で、豊田さんは気は強いが甘えん坊の末っ子とみれば良いのかも知れない。福岡からの試合のため上京されたとき、暇が出来ると宮田宅へ訪れておられたようだ。
 先生が亡くなられた夜、離れの一部屋に安置され、喜代子夫人を抱きかかえるようになぐさめていたのが、吉永小百合さん、私は言葉もなく次の部屋にいた。そこへ豊田さんが顔を出された。多くの弔問客は先生との関係は知らないし、野球人との付き合いがないため、顔は知っているが声はかけられない。
 豊田さんも同様である。目ざとく私を見つけ「白井ちゃん、先生のお通夜だ、飲もう」といって水割りを持って来られ、それぞれの想い出を語った。水割りのお代わりを作るのが三田明さん、何とも贅沢なひと時だった。
 そして「有楽町で逢いましょうは俺がレッスンを受けていたんだよ」には吃驚。そして口ずさんだ。何と3拍子。「トヨさんそれ3拍子だよ」というと「何拍子かそんなこと、俺に判るわけないだろう!」「習った通りに唄ったんだ!」。
 レッスンの数日後、福岡へ電話がかかって「トヨ!あの曲フランクに唄わせるからいいな」「どうぞどうぞ、フラングさんはプロ歌手だし、私は一介の野球選手ですから構いません」と返事をしたんだ。
 この話で私にはビンと来るものがあった。作曲家は勿論、画家もそうで、もの作りに熱中すると周囲が見えなくなるようだ。ベートーヴェン然り、貧困を窮めた画家のモリジアニやゴッホもそうだ。先生の場合、曲が出来ると維かに唄わせ、そこから微調整される(このことは一例として平成25年12月号の「メロディ・メイト」に記載)。「有楽町で逢いましょう」を最初に吹込んだのは三浦洸一さんだと見て来たようなことを書いた人がいた。これも豊田さん同様、レッスンをされたのだろう。
 その結果、3拍子だったものが4拍子の都会的なものになり、大ヒット。フランクさんは大スターに、先生は押しも押されぬ大作曲家の地位につかれた。
 ヒット曲には地下を流れる伏流水のようなものが入り交り、目に見えない部分が非常に大きい。「あのヒット曲は俺がアイディアを出したんだ」とか、「知恵を貸したんだ」という類の話が多く、暇な人が数えたら30人近くいたというが、あながち嘘ではないと思えるのは、ヒット曲が出来るのは1+1=2のように単純ではないからだるう。
 作削こ対する先生の厳しさは図り知れないものがある。一例をあげると、詩を持って依頼に行く。ワープロで打った原稿は受け取られなかった。筆やペンの墨や、インクの濃淡、文字の線、留め、払い、跳ね等で、作詩家の気持ちのこめ方、感情を汲みとろうとしておられたのだ。だから佐伯孝夫、吉川静夫、宮川哲夫、藤田まさと、の詩では、吉田メロディーであってもメロディーの雰囲気が違うのだ。豊田さんがレッスンを受けた3拍子の「有楽町で...」は、思いが強かったのか、のちに吉永小百合さんが唄った「泥だらけの純情」にその面影を見い出せる。そして豊田さんに新曲をプレゼントされている「男のいる街」「さいはての旅愁」昭和33年1月発売(V-41762)のA、B面、いずれも佐伯孝夫作詩。
 野球選手や大相撲の関取には、唄の上手い人が多い。胸隔が広く肺活量があるため、軽く唄っても一般人よりも声が良く響く。豊田さん、当然のことながら声も良いが、仲々の歌唱力、ひょっとしたら歌手としても成功した人かもしれない。いまごろ、あちらでは「トヨ!新曲のレッスンをするぞ!」と言われているかも知れない。合掌。

 少し長めだが、以上が白井先生の記事です。
 恩師吉田正と豊田さんは特別な関係でした。そのくだりを、豊田さんが自ら語っています。2004年6月号の「常陽藝文」です。それをここで紹介させていただきます。この号は「吉田正とごの時代」という特集がされている貴重なものです。関心のある方はぜひ購読をお勧めします。

タイトル:【年は違うけど、いい遊び友達でした】

 初めてお会いしたのは、僕が西鉄ライオンズに入団して二、三年目ぐらいかな。親しく付き合うようになったのは、僕が首位打者になって、日本シリーズでも活躍した昭和31年のシーズンオフからです。そのころ『プロ野球歌の祭典というテレビ番組があって、僕が歌ったのを聞いた吉田先生が「お前.歌うまいな」と。「当然でしょう。プロ野球界一です」って(笑)。しばらくしたらレコーディングって話になって、嫌だと言えなくなりちゃってね。
 レコーディング曲に先生のところでレッスンするんだけど、すぐにマージャンとか一杯飲むとかになって、レッスンなんて何回もしなかったな。当時は僕と家内がまだ付き合ってたころだったんで、「トヨ、歌え」って先生に言われて、電話口でレッスン中の歌を歌わされたこともあった。「どうだ、うまいか?」なんて先生が家内に聞いてね。家内は今でも先生が大好きですよ。
 若いころの先生は、健康的で恰幅が良くてね。マージャンやっても「夜明けの正」なんて言われて夜明けになると強くてね。飲む時も必ずハシゴ。先生は銀座の並木通りが好きで、八丁目から行くか一丁目から行くか、とにかくずーっとハシゴしていく。
 だから僕はどっちかの端に行って「先生来た?」って開けばいいわけ。「来ました」って言ったら四、五軒先に行って待ってる。「まだです」って言われたら逆からスタートしたわけだから、だいたいの見当を付けて店で待ってると先生がポロッて入ってくる(笑)。シーズンオフには先生をあてにして毎日遊んでたな。
 先生はせっかちでね。店でも水割り一杯飲んだらすぐ出るという感じで、とにかく急ぐんだよね、何をするにも。青春を戦争でとられたってことが影響してたのかもしれないね。でも苦しい時の話は絶対しない人でしたよ。シベリア抑留の話とか聞いてみたくて、何回も前を向けたんだけど、すぐ「トヨ、あん時のホームランはどんな気分だった?」なんて野球の話にすり替えられちゃって。よっぽど辛かったんだろうね。
 先生の郷里であり、僕の郷里でもある日立に吉田正音楽記念館ができるということで、僕も多少のお手伝いをさせてもらいました。
先生には随分タダ酒飲ませでもらったり(笑)、いろいろ世話になりたから、何か恩返ししたいと思ってたんですよ。記念館ができ、先生の曲が、これからも歌い継がれるというのは素晴らしいことですよ。郷土のほこりです。【談】
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 前回の記事で触れたテーマの続きです。
 フランク永井が活躍していた古い時代の話です。1961年12月28日に神田共立講堂で第3回日本レコード大賞のセレモニーが催され、ここでフランク永井の「君恋し」が大賞を受賞しました。
 フランク永井はレコード大賞が創設された2年前の第1回の時には、水原弘の「黒い花びら」と「夜霧に消えたチャコ」で同点決勝を争い、大賞は水原にゆずり、作曲賞・歌唱賞を得ています。
 ちなみに、翌年には「月火水木金土の歌」で作詞賞、その次の年には「赤ちゃんは王様だ」で歌唱賞、1973年の15周年記念の回では記念賞、亡くなった2008年年には第50回特別功労賞を授与しています。
 フランク永井が「有楽町で逢いましょう」を歌ったのは1957年で、レコード大賞ができる前でした。この時期は一気に世で人気を得たことから、寝る間もないどほどの多忙をきわめました。
 本業の歌手として、テレビ・ラジオで引っ張りだことだったうえに、全国公演をこなし、映画や舞台でも大活躍をしていました。

 舞台や映画についてはときどきこのブログで紹介しております。前回記したのは「大当り三代記」と「真昼の罠」です。前者はまさにレコード大賞の年、1961年のものです。後者は1962年に封切りです。
 ちなみにこの大映制作「真昼の罠」は、人気に定評があった黒岩重吾の作品です。実は、ちょっとややこしいのですが、同名で1960年の映画があります。こちらは、松竹制作で、新人八木美津雄監督の推理アクションものです。ささきいさお主演です。
 フランク永井のレコード「真昼の罠」は1962年のリリースで、ジャケットに「大映映画「真昼の罠」主題歌」と明記されています。裏面の松尾和子の「黒い愛」も主題歌になっています。
 そのようなことで、映画を観てみました。ところが期待に反し、クレジットも主題歌をまったく確認できなかったというわけです。どのような事情かはわかりません。
 同じく全回記しましたように「大当り三代記」です。これもVHSにもポスターにも、出演者として「フランク永田」役「フランク永井」の記述は見当たりません。こちらはかろうじて居酒屋でのシーンで「こいさんのラブ・コール」の演奏が聴けるというのが慰めでした。
 当時はこのようなことがザラではないまでも、あっても当たり前のような時代雰囲気でした。

 余談を少しだけ。当時は関西勢によるドタバタな喜劇の絶頂期ではなかったのかともいます。出演者の顔ぶれがすごいです。「番頭はんと丁稚どん」「団地親分」といい、当時の常連は、伴淳三郎、芦屋雁之助、大村崑、曽我廻家五郎八、曽我廻家明蝶、花菱アチチャコ、ミヤコ蝶々、榎本健一、三木のり平、森繁久弥、浪花千栄子、ミヤコ蝶々、渋谷天外、藤田まこと、渥美清といったメンバーです。
 彼らがそれぞれ個性を芸で爆発させます。大げさな表情を見せますが、やや下品なところもあるのですが、本性丸出しと言ったところが芸なんですね。共通しているのは根っからの人情家で、悪者がいないという感じです。
 悪者はいないのだが、がめつさ、嫉妬深さ、欲たかり、カネへの執着といった、庶民にありがちな、政治による貧困の裏返しとしての側面をモロ出しします。
 そして、他人(ひと)以上に強がり、見栄っ張りを隠しません。つまり奥ゆかさとか思慮深さとかとは無縁ときてます。
 どの舞台でも共通して起こる事件は、私の勝手な分析によれば、早とちり、勘違い、思い過ごし、決めつけ、早飲み込みによります。そして、たいていは、途中で自分の愚かさに気づくのですが、絶対に素直に謝ることをしません。意地を通して、話をさらにややこしくします。
 こうしたことが、劇場にきている観衆の気持ちを砕けさせ、笑わせ、泣かせ、物語に入り込ませます。最後はちゃんと仲直りをして収まるのが定番だから、安心して鑑賞できます。
 関西喜劇の素晴らしさは、朝ドラでもあったと思うが、庶民がどうにも立ち向かえない政治の荒波のなかで発生する、心のうっぷんやもやもやを解消する一つの形を創造したことではないかと思います。
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 NHK朝の人気ドラマ「おちよやん」は先週に終了しました。
 浪花千栄子の辛苦を明るく描いたドラマでした。浪花千栄子は一昔前になりますが、大変有名な関西に根を張った人気俳優でした。
 「水のように」という自伝を記しております。テレビのドラマになり、親交の深かったフランク永井が主題歌を歌い、レコードを発売しています。セリフがはいっており、浪花千栄子子自身が語っています(1965:SV-232 瀬川芳郎作詞、大野正雄作曲)。
 関西テレビで放映されたこのドラマには「幸せひとつ」という曲も添えています(藤本義一作詞、大野正雄作曲)。
 浪花千栄子の生涯のポイントはドラマで描かれていますが、当時の庶民の姿そのものでもあったことが、揺るがない人気の土台だったのではないでしょうか。
 自分ではどうにもならない貧困と戦争という禍が、身に覆いかぶさってきます。渦の真ん中でそれを受け止めるのですが、彼女のすごさは決してめげないことです。そして信じる自分の意志で、何事にも素直に接していくところが多くの人から、愛され続けたのではないでしょうか。
 浪花千栄子が活躍している時期、大阪の大衆演芸は大盛況でした。映画に舞台に多くの公演が催されましたが、その中に大阪労音の活躍がありました。宝塚の演出家が「大衆に歌で憩いを」との思いで、労音に次つぎと歌謡曲の歌手を呼び出演させました。
 フランク永井やアイ・ジョージや水原弘らがつぎつぎと出演して喜ばれました。フランク永井の「公園の手品師」「こいさんのラブ・コール」とか、人気の爆発はここからです。関西での人気は高く、藤田まことや浪花千栄子、ミヤコ蝶々と付き合いをし、演出家の藤本義一や花登筺といった第一人者と一緒に仕事をしています。
 花登筺が脚色した映画でフランク永井が関与したのは、「番頭はんと丁稚どん」(主題歌は「初恋ぼんぼん」「フランス航路」(1961:VS-464))の続々、続々々2本と「喜劇団地親分」(主題歌は映画で流れますが、レコードは発売されていない)です。いずれも顔出しで出演しています。
 ただ残念なことにビデオでの鑑賞(「みずのように」の復刻も聞かない)ができません。内容に何か支障があるのか、営業的に問題があるのかはわかりませんが、ファンとしては残念です。大阪のテレビ局で独自に作成されたと思えるドラマもあるようなのです(「こいさんのラブ・コール」とか噂を聞くのだが)が、これも復刻はともかくとしても、記録資料もわかりません。

 私的なことですが、仕事勤めを卒業してから、蔵書本を25箱の段ボールで処分したり、フランク永井のレコードを集める中で得たレコードを整理して、まとめて、やはり20余箱の段ボールで処分しました。
 借りているストック・ルームにまだいくつか開いていない段ボールがあるのに気づき、数か月前から処分のために整理中です。多くはゴミです。当時は自分にとって相当大事と思っていたものでも、今見てみると、何ということはないものがほとんどなのですね。
 前置きが長くなりましたが、VHS「喜劇団地親分」のことについては前に書きましたが、新たにVHS「大当り三代記」という映画です。とにかく、箱に収めたのは数十年前であり、仕事に専念していた当時のことで、情報が思い出せません。すっかり忘れていたものです。
 そこで、今はネットの時代なので早速調べてみながら、記憶を思い起こそうとしてみました。結果ですが、この映画に「フランク永田(どこかで聞いたことがある)」という名で出演しているという情報です。そして実際にそのVHSを鑑賞してみたわけです。しかし、フランク永井は見当たりません。
 これが原因ですね。フランク永田としての出演というのが誤記なのか、何かの都合で出演シーンが後日消されたのか。ただメロディーとして「こいさんのラブ・コール」は流れるところがあります。田宮二郎主演の「真昼の罠」(1962:VS-798)というのも、主題歌は確かに存在するのですが、映画ではどこにも出てきません。この例はあるので、驚くようなことではないのかも知れません。
 ゆえに、VHSを得たときも出演していなのに落胆して、記憶から消えていたのではないかというのが結論です。
 改めて「大当り三代記」を見てみると、当時の人気喜劇人が総出演しています。浪花千栄子と渋谷天外、藤田まこともおります。
 ミヤコ蝶々は、1974年にNHKこの人フランク永井ショー「母あればこそ」に共演しております。NHKビッグショーについても映像が残されていないのですが、ミヤコ蝶々との番組映像は、フランク永井主演番組で、残されているもっとも古いものです。
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 フランク永井の代表曲の一曲「おまえに」は、数えるのができないほど多くの歌手にカバーされています。そのなかでも、同じビクターの佐良直美の歌唱が残されています。
 佐良の「おまえに」は、フランク永井の恩師吉田正の作曲家生活30周年を記念したアルバム「吉田正大全集~生命ある限り」11枚組です。その11枚目にビクターの歌手によるカバー作品がおさめられているのですが、その一曲がこれです。
 佐良直美は昭和歌謡の黄金時代の一角を飾った歌手でした。誰でも佐良と聴けば思い浮かぶのは「世界は二人のために」と「いいじゃないか幸せならば」ではないだろうか。発声がドーンというか「ストーン」としていて、通る声がたんたんとしていて、カラっとして印象的でした。歌唱に、まだまだ大きく強い声が出せるのだよというような余裕が伴っているから不思議です。
 佐良については、所属事務所が次のように紹介しています。

 【昭和42年難関であるNHK新人オーディションに10年に一人という優秀な成績でくぐりぬけ、同年4月異例の抜擢で「音楽の花ひらく」のレギュラーに起用され、新人とは思えぬ度胸のよさと歌の上手さでスタッフを驚かせたものです。
 同年5月オールスタッフプロに所属し、デビュー曲として発売された「世界は二人のために」が120万枚という大ヒットとなり、秋には新人ではやくもリサイタルをひらき同年のレコード大賞新人賞を受賞し、フレッシュで実力派の歌手としての第一歩をふみだしました。
 その後、テレビ・ラジオ等の歌番組はもちろんドラマにと幅広い活躍をみせ、大衆に親しまれる歌手へと成長していきました。
 昭和44年には日本レコード大賞を受賞し、日本レコード大賞新人賞・日本レコード大賞歌唱賞を合わせ、デビュー後わずか3年目にして歌手として最高の名誉に輝きました。
 昭和46年5月3日にオールスタッフプロより独立し(株)佐良直美音楽事務所を設立。作曲も手掛ける様になり、以前にも増し幅広い活躍をするようになりました】

 当時いかに高く評価されたかがわかります。佐良は歌手としての人気もさることながら、多くの人が忘れられないのは、紅白の見事な司会でしょう。
 第23回1972(S47)年をかわきりに5回司会をしています。ベテランの白組山川静夫アナやそうそうたる大歌手をまえにたじろいもなく、堂々と機転の聴いた落ち着いた司会っぷりが印象にあります。
 司会をしながらも歌手としても歌っています。24回での16回目の連続出場であったフランク永井の「君恋し」との対決をしていました。
 2014年佐良は「佐良直美ベスト・コレクション」というCD4枚組を発売しています。このなかに、表題の「おまえに」を入れています。大先生である吉田正の「大全集」に収録はされてはいても、佐良としてのアルバムでは発売していなかったこともあるのでしょうが、やはり、佐良なりに印象深い作品ではなかったのでしょうか。

 佐良直美については、多忙な歌手や司会の世界が続いていながら、避けられない職業病のようなポリープ治療で業界から身を引いていきました。
 紹介したCD発売もそうですが、数年前からテレビに名を出して当時のファンを驚かせました。
 家庭犬のしつけ教室「アニマルファンスィアーズクラブ(AFC)」を設立し、150匹の愛犬と精力的に生活をおられるとの話でした。
 『GOLDEN☆BEST~忘れ得ぬ名唱・佐良直美』(2007年)というアルバムもあります。これはビクターの専属歌手の第一人者であった佐伯孝夫の作品のカバーで『ビクター流行歌名盤・貴重盤コレクション第三期(14)鈴懸の径-佐伯孝夫~優しい詩集』作成時に歌い残した作品集です。
 佐良はここでは、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」を歌っています。こちらは、以前にこのブログで紹介していますが、2008年にビクターから「有楽町で逢いましょう」(VICL-62833)として、同曲を他のレコード会社の歌手たちを含む十四人のカバーが一枚のCDに収めたものです。
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 先日に、さまざまな情報をよく寄せてくだささるKさんから連絡をいただきました。「渡哲也が『おまえに』を唄っているよ。聴く?」と。
 フランク永井の歌であれば、ご本人のはもちろん、著名人のカバーであれば、興味を持っていて、ほとんどなりふり構わず「聴かないわけがないでしょう」と、思わず口にしてしまいました。Why not? などという、いつか覚えた、しょうもないフレーズを久しぶりで思い出すというおまけまで付いて、自分の卑しさにやや嫌気を感じた次第です。
 さっそく聴いてみました。
 渡哲也のアルバムは、前に映画シリーズでも幾度か書きましたが、想像通りの、実に気楽で、力が入っていなくて、いい感じです。
 今回のアルバムを、よくよく見てみると、実にいろいろと楽しいことがわかります。石原裕次郎や渡哲也のファンは、どうも皆ご承知の話題のようです。私はフランク永井の大ファンを自認してはいても、ご両人については特別なファンであるわけではありません。そのため、今回のアルバムについては、教えていただいて、初めて知った次第です。
 2021年、つまり今年の2月に初リリースされたばかりのものでした。「石原裕次郎・渡哲也 プライベート2」です。
 テイチクは「全音源初CD化!石原裕次郎と渡 哲也のプライベート歌唱が甦る! ジャケット未使用写真を含む裕次郎100ページフォトブック付き!」という力の入ったアルバムでした。
 北陸の福井県の芦原温泉は裕次郎が先代のご主人ご健在の昔から利用されていた旅館「べにや」に、渡ら親しい人々とともに後日訪ねて、そこで宴会を催し、カラオケをやったとのことです。この時のプライベート録音の音源がソースになっています。
 その音源自身にもいわくが残っていて、後日べにやは火事になり、貴重なテープ等も被害を受けて再生が困難となっていたようです。その後、さまざまな思考トライを繰り返してほぼ復刻を果たして、今回のリリースとなったとのことです。
 注意書きに明記されていますが、ノイズや歌唱中のヨソの声とか、中断無音とかあります。気持ちの盛り上がった場での、くだけた歌唱であることから、覚えている歌詞や順番もバラバラです。だが、そのために、裕次郎と渡の、自由で自然な歌唱が存分に楽しめるアルバムになっています。
 その一曲に渡が唄う「おまえに」があるのです。テイチクの裕次郎とビクターのフランク永井は、現在での「都会派ムード歌謡」というくくりで同じ世界を歌う、最大の巨頭でライバルの関係として尊敬しあう仲でした。それゆえに、公式の場でも、全国を回る公演の場でも互いの曲をカバーで歌うことは避けていたと思われます。
 ただ、世論のニーズに押され、一度両レコード会社は公式に「交換」を合意して、両者のカバーを出しています。ご存知のように、フランク永井は松尾和子と「銀座の恋の物語」を歌い、裕次郎は「東京ナイト・クラブ」を出しました。
 他に「西銀座駅前」「夜霧の第二国道」「羽田発7時50分」「東京午前三時」「場末のペット吹き」などが裕次郎が歌われたようです。というのは、私自身全部を聴いていません。「君恋し」は以前紹介しましたが、もともとフランク永井自身の歌唱がカバーです。裕次郎は、フランク永井が歌った寺岡真三編曲の演奏ではなく、もともとの演奏での歌唱がレコードに残っています。
 フランク永井のほうは「夜霧よ今夜も有難う」「夜霧の慕情」「よこはま物語」「夜明けの街」「ブランデーグラス」などを残しています。渡哲也のでは「日暮れ坂」を歌っています。

 今回のアルバム名には「2」とあります。ということは「1」相当のアルバムがあるのではと察せられ、調べたら2019年7月に出ていました。
 これは裕次郎の映画デビューでありかつまき子夫人と初めて共演で知り合った「狂った果実」の挿入歌「想い出」が売りでした。1960年の結婚披露宴で夫妻で歌ったという音源が発掘されたことから、裕次郎がライブで残した自分のヒット曲や、懐メロヒット曲を集めた一枚と、渡哲也の一枚で構成されています。
 渡の歌も渡のマネージャーが録って残していたテープで、渡が他のヒット曲のカバーを歌っていて練習していたものだということです。
 そのアルバムでも裕次郎と渡は存分に個性を発揮しています。2つのアルバムはソースは異なりますが、多くの曲がダブっています。「旅姿三人男」「小樽の人よ」「岸壁の母」「長崎は今日も雨だった」「爪」「星の流れに」などが楽しめます。

 裕次郎のファンではないなどと最初に書きましたが、棚を見てみると、裕次郎のアルバムは十枚を超します。ときとど聴きますが、フランク永井とは違った聴き方ができるのがいいです。裕次郎は他では「歌手」と呼びますが、ご本人は手っ取り早く映画の資金を用立てらるから歌を歌ったが、最後まで「映画俳優」であると言っていました。
 だから聴いていて、フランク永井はあくまで「歌手」一本の立場で、歌唱に完璧だが、裕次郎の歌唱は一般の人の歌を聴くときのような気安さ、親しさが感じられます。
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 フランク永井リサイタル「輝ける21年の足跡」

人間的な豊かさと気魄の勝利
日刊スポーツ・編集企画委員長 小倉友昭
 ひとりの男が、何の飾りもない広い舞台にたったひとりで立っている。
 男のすべてを露わにさせてしまうように、白いライトが、容赦なく光を浴びせかけている。広い空間に溢れる光は、男の、まったくの裸形を、舞台に注がれる多くの目にさらしている、といっても差支えない。見方によっては、極めて残酷なシーンといってもいい。
 もし、男に多くの目を納得させ得る何らかの内容がなかったら、これほど貧しく、哀しく写る風景はあるまい。だが、この日の男は、多くの目をはじき返す力感があった。広い空間を埋め得る量感があった。白々しく、素っ気ない光に士甚え得る充実感があった。
 1970年10月31日夜のことである。
 男はフランク永井。彼は、この日、東京・新宿・厚生年金金会館大ホールで、歌手生活15周年記念リサイタルを行った。芸術祭参加公演だった。男に限らず、女でも同じだが、歌手のリサイタルのオープニングは象徴的である。何時聞かの舞台時間を保ち得る力が、この一瞬に、凝縮されてしまうからだ。
 フランク永井は、身じろぎもしないで、この一瞬に立っていた。明るい照明の下で、長身とはいえない彼の身体が大きく見えた。
 多くの歌手は、この一瞬の董さに碓えかねて、オープニング・セレモニーを他の力に担わせようとする。実は、己の非力を、他力によって補わざるを得ないのである。己の力を悼み得ない貧しい柵神の所産でもある。
 いままで、余りに、貧しい精神から作られた舞台が多過ぎた。はっきり、リサイタルと銘打ちながら、実態は、リサイタルに値しないものが氾濫し過ぎた。
 それだけに、フランク永井が、オープニングで作り得た質感の高い舞台は、鮮烈な印象を与えたのである。
 実は、このリサイタルの成功を、このオープニングの一瞬が、予感させた、といっても過言ではあるまい。15年間歌い続けてきた歌手の歴史が、傭々10秒に充たない瞬間に集約されたわけだった。
 これは、構成の妙、演出の手腕といった外的条件の功というより、フランク永井という歌手の人間としての豊かさの勝利であった。
 歌だけを支えにして生きてきた人間の年輪の厚味が、はっきり示されたわけである。
 前後、約2時間20分にわたる舞台であった。この間、彼は、マイク一本だけを舞台上の共演者としただけであった。多くの歌手のリサイタルがが、ゲスト歌手あるいは、共演者との共同舞台になってしまう愚かを避けて、たったひとりで、長い時間を埋めきった。
 個々の歌について、いまさら言及しても始まるまい。ひとりの歌手が、15年間、歌い続けることができたのは、その歌の水準が、他を擢んでていたという結果である。
 歌の細部は、この結果を、もういちどはっきり見直すだけでいい。いいかえると、この結果は、何人をも納得させざるを得ない重さを持っているということだ。ある時間における声の常態、或いは歌の微細な表現などは、この結果を前にしてはとるにたらないことなのである。
 むしろ、そんな些細なことより以上に、長い歳月をかけて作り上げた己の歌の様式を、15年経った時点で、更に破ろうとさえ試みたひとりの歌手の執念、気魄が感じられたことの方が問題である。
 己が作り上げた型をこわそうということは難事である。しかも、それが、ほば完成に近し、常態にある場合は、尚更困難である。
 彼は、だが、敢えて、この難事を、15年記念リサイタルで行おうと試みている。この試みが、ある時は、己が作り上げた歌の型からはみ出してしまうような表現にすらなった。
 この心の沸りは、ほとんど2時間20分近い舞台に、脈々として波打っていた。
 そして、これが、聴衆の脚を、長い時間、会場から離れさせなかった原因になっている。
 常に、心を沸騰させていることは難かしい。しかし、舞台に立ち、歌う者は、少くともその舞台時間の中では、これを持続させなければならない。これが、舞台に立つ人の観客に対しての礼儀である。
 余りに多くの舞台が、安易に作られ、観客とのなれ合い、妥協の上に成り立っていた。本来の意味での芸は、これでは作り得ない.フランク永井は、15年記念リサイタルでこの悪弊を破った。
 オープニングの一瞬の緊張感は、実は、このフランク永井の気塊が支えたものだったのである。フランク永井はこの舞台で「完璧な歌唱力」に対して、芸術祭大衆芸能部門の優秀賞が贈られた。

フフンク水井と大阪もの
廣瀬 勝
 大阪ものをうたう歌手は多いが、大阪もののもつニュアンスから適時性、ファンの好みまで自分で選び、ピタリ「この曲」と決めた歌手はフランク永井ぐらいだろう。
 代表作「大阪ぐらし」がそれである。
 昭和三十九年。当時、十五万人の会員を容していた大阪労音(現新音)がはじめて歌謡曲に進出、フランク永井に白羽の矢をあてて例会をもった。私はプロデュースのような役目をもったが、その時、大阪の二人の才人、石浜恒夫、大野正雄に依頼して「晶子恋唄」「大阪ぐらし」などオリジナル三曲をステージに出した。
 なかでも「晶子恋唄」に私はすばらしい抒情を感じたが、長くつづく例会のなかば、ビクターの当時の担当ディレクター武田京子が、レコーディングの打ち合わせでやってきて、相談したとき、フランク永井が即座に「この曲がいい」と「大阪ぐらし」を決めた。おかげで「晶子恋唄」は悲恋におわったが、彼の勘はピタリと当たった。歌手が自分の好みで選んでヒットしたと見ても、例外的で面白い。
 「大阪ぐらし」のころ、フランク永井は実際に大阪ぐらしだった。なにしろ例会もフェスティバル・ホールで二十数回。それも労音だからほとんどが夜だけ。
 休みの日もあり、彼は二カ月近くを大阪のホテルでくらしながら、夜一回満員のホールでじっくりと歌い、あとは――。日本のタレント稼業では味わえない、ラスベガスに出演したスターなみの優稚な充実した生活だっただろう。その大阪ぐらしが勘に役立ったかもしれない。
 もっとも、フランク永井と大阪とのつき合いは、デビューのころからの古いものだし、そのころに大阪で現在の夫人と知り合っているから、根はもっともっと深い。
 フランク永井と大阪もので「大阪ぐらし」以上に評価しなければいけないのは「こいさんのラブ・コール」(昭和三十三年)だ。石浜・大野を組ませて歌謡界に進出させた、朝日放送制作のユニークなホーム・ソングである。
 これがヒットの皮切りで、そのあと、読売テレビ制作のドラマ主題歌で、鬼才といわれた故斉藤超の作品「大阪野郎」(昭和三十五年)とつづく。また「大阪ぐらし」のすぐあとには、石浜恒夫、吉田正の「大阪ろまん」(昭和四十一年)も大阪労音例会の続編として作られた。
 フランク永井の大阪ものは、はかにもだいぶあるが、ヒット曲に共通しているのは、制作基盤がレコード会社制作部でなく、大阪のどこかで出来ている点だ。これは単に異色とか見る以上に重要なことかもしれない。
 「有楽町で逢いましょう」や「夜霧の第二国道」でスター街道を走りはじめたフランク永井は、長い歌手の道程の中で、大阪の血を次々と輸血されて、その度に、新しい息吹きを見せてきたともいえるだろう。

熱烈なフアン
実川延若
 あれは、確か私が大阪の市内をいそがしく、南から北へ歩いていた時だったと思います。街角で聴いた、デビューしたばかりの頃のフランクさんの「公園の手品師」が、私の耳と心を強く引きつけました。
 そしてそれ以来ずっと、熱烈なファンとして自他共に認めて来ております。楽屋入りの時はもちろん、何処へ行くにもフランクさんの歌入りテープは離さず、時にはフランクさんがわざわざ楽屋をたずねて来ていただいた時など、歌舞伎の仲間から「延若さん、今日は良い日ですわ」と、はやされて...早いものでもう21年ですね。
 21年目のスタートを、なじみ深いナニワで、大阪文化祭参加のリサイタルとして幕切りされるわけで、今後も、ますますお元気でお活躍されますよう、お祈りしてリサイタルによせる言葉にいたします。

心の唄
みやこ蝶々
 唄は、心で唄うもの唄は、誰でも唄えるものだからむづかしいものです。心で唄い、胸で聞ける唄、そんな唄を聞かせてくれるのはフランクさんだと思います。

運・不運も才能のうち
伊藤 強
 かけ出しの新聞記者だったころ、仙台でフランクさんに会ったのが最初でした。地元宮城県の仙台、そこのレジャー・センターでのショーを取材するのが目的でした。
 右も左もわからない新米記者に、フランクさんはとても誠実に、ていねいに受けこたえをしてくれました。「写真を撮るなら、こっちのほうがいいでしょう」と、宿泊していたホテルの中庭を、あちこちと移動しでもくれました。
 あんなに、やりやすい取材ははじめてでしたし、あと味のいい思い出もはじめてです。"スター〟というものに持っていた、バク然とした不信感のようなものは、あのときから消えてなくなりました。
 その後何年か新聞記者をやり、いくつかのうれしい思い出も、あるいはしてやられた経験もあるのですが、まず基本的に、相手方を信用してかかったほうが、結果としては正しいものが得られる、という、貴重な認識を、フランクさんによって知らされたのでした。
 これは何にもかえがたい、私自身の財産になっています。歌手フランク永井としてというよりは、人間・永井清人からは、そういう貴重なものを学んだのでした。
 歌手として見た場合、その精密なまでに組み立てられだ歌の表現法、甘い声はもとより、西欧ふうの味わいを、歌謡曲のなかに持ち込み、それまでの歌謡曲にはなかったかたちの、モダニズムを確率したという点で、フランクさんはひとつのそびえたつ塔であろうかと思っています。
 しかもそれは、まこに細心な配慮によって、築きあげられたのです。もちろん才能のある人問によってのみ可能だったわけですけれど、天才の作業では決してない。
 言わば努力によって作り出されたものだといっていいでしょう。そこがすばらしいのです。この世界、運、不運が大きく作用する世界であります。しかし、運、不運も才能のうちという言いかたもあって、つまりはあらゆる要素が、うまく重なり合わないと、成功しないということなのです。
 現今、運にのみ恵まれて、一時のきらめきを獲得する"歌手"たちはいます。しかし、その運をいかに強固なものにしていくか、そういう努力がなされるケースがすくないように思うのです。
 紛れもなくフランクさんにはそれがあった。そしていまもある。"当り前のことですよ″と、彼は笑いながら言うかもしれません。しかし、あたり前のことが、あたり前におこなわれない時代でもあるのです。
 そんな時代に、これもまた人間の生きざまを、永井清人という人から学ばねばならないように思うのです。

フフンクとお酒
八巻明彦
 酒の話というのは、実のところ、大変に困ったテーマなんです。
 だって、そうでしょう。酒を飲みながら、明日の日本の将来を憂いでみたり、ミグ25によってもたらされる日ソ間の、今後の緊張状態について話し合ってみたとしたところで、どうなるものでもありません。
 一億一千万人もいる日本人の中には、それこそ、酔狂にも、そんな話でお酒が楽しい人も、ま、いないでしょう。
 しかし、私とフランクが一杯やって、そんな野暮な、それこそまったく、そんなショムナイ話をするわけはありません。
 お酒はやっぱり、楽しく飲まなくっちゃあ。時には、ハメもはずして...。
 なァンて書きますと、私、如何にも酒飲みのように聞こえますが、実は、それがサッパリなんで。そういやァ、フランクにしてからが、今でこそ、ブランデーをボトルで開けちまうの、酒は静かに飲みたいの...などといっているようですが、もとはといえば、だいたいが下戸の出。
 私が水割り二三杯でいい気持ちになって(オレも酒が飲めるんだなァ)なんぞと、無邪気に喜んでいた頃には、フランクだって、妙に赤いものをグラスに満たしたのを、チビチビやっているもんですから「フランク、何をなめてんだい?」と訊いたところが、これがスロー・ジン・フィズなどという気持ちのわるーいシロモノで...。
 実は、私、そのスロー何とかいうものは、未だ口にしたことがないので、何ともいえないのですが、ま、あんな赤いものなんざ、大したもんじゃないって、決めていたんですから、やっぱりフランクだって、ハナは大したもんじゃなかっただろうと、今でも思ってるんです。
 それが、お互い、何時の頃からか、生意気にも、イッパシの酒飲み面をしちまって、それぞれに、結構、恥なんぞを、あちこちで掻いて歩いたようで。
 でも、私とフランクの間のお酒なんてエものは、ただ何となくコンコロモチが寂しい時に、ちょっと飲もうか――などと、ま、実に他愛のない理由で杯を交わす程度で、古風にいやァ、君子の交り。
 水の如しという風なもんで、そりゃそうでしょう、向こうはブランデー、こっちはウイスキーの、どっちも水割りなんですから...。
 ただ、気に入らないことが一つ。ご承知のように、フランクは宮城県の生まれ。実は私も、何を隠そう同郷の出で、しかも、言語学的に言うてエと、私の方が「無アクセント地帯」という、要するに〝アクセント音痴〟の、ズーズー弁の本場の育ち。
 なのに、フランクと来たら、あろうことか、江戸弁やら関西弁を、自由自在にこなして、ほれ「こいさんのラブ・コール」なんぞという、私からいわせれば、不思議なヒット曲もある。
 しかし、まア、それはいいでしょう。フランクのヒット曲なんだから。気に入らないというのは〝自称後援会長″のこの私が、ムリして標準語を喋ると、ブラミズのきいてきた頃のフランクは、情容赦なく笑うんだ。
 これは、本来は、別稿の親友・佐藤泉君のテリトリーだけど、しかし何ですよ、同じズーズー弁の本場で生まれ、育った者でありながら、不肖私、いささか先輩を以て任じているのに、フランクの、平生と打って変わった、義理も人情もありはせぬ無残至極の仙台弁批評。
 鳴呼、何たることかと、内心嘆きながら、つい水割りのグラスをグッと噛みしめる身の因果。フランクにとっても、私にとっても、まことに、酒は気違い水なのであります。

惚れ込んだ人
桂 文楽
 あたくしはね、これでも歌が好きなんです。だから、いろんな歌い手の人に関心があるんですが、そのなかでも、だれが好きだって、フランクさんぐらい好きな歌手はいない。それはもう、ぺけんやてえぐらい好きなんです。
 まず、当り前のことだけれども、歌がうまい。このね、うまい、ってことが芸の根本です。芸はね、うまくなくちゃいけません。
 シロト(素人)のあたくしでさえ、フランクさんのうまさてえものはわかります。それに、フランクさんの歌には、品がありますね。どんなにうまくても、下品な芸は、それだけで先きが見えてます。一流にはなれるかもしれませんが、超一流にはなれない。フランク永井でえ人は、お世辞ではなくて、ただの一流では終らない歌手だと、あたくしはにらんでます。
 それからもう一つ、フランクさんの人柄があたくしは、たまらなく好きですな。惚れてるっていってもいいぐらいなもんで、もっとも、80に手のとどこうてえ、じじいに惚れられたって、先様じゃ、ありがた迷惑かもしれませんがね。でもね、よござんしょ? 贔屓てえものは、そういうもんじゃありませんか。
 大の晶屑の一人として、こんどのリサイタルの成功を、心から祈っております。
(桂文楽夫人のご好意により、45年リサイタルのプログラムから転載)

歌一筋のフフンク永井さんへ
市丸
 芸能生活二十一周年記念の、今日のリサイタルおめでとう存じます。幾多難の歳月を経て、今日の栄光をたたえ、心よりお喜び申し上げます。
 振り返ってみまするに、戦後の苦しい比論の中から、日本国中の人が立直らんがため、必死の最中に、どこからともなく美しい歌声がきこえた時、何人も心の底から、何となく、なごやかにほぐされる様に想えました。
 フランク永井さんの歌声のすばらしいこと、低音の魅力そのものでした。忘れようにも忘れられない想い出があります、今、こうしてご立派になられた永井さんの、今日あるは、歌一筋に命がけで勉強され努力され、またその反面に、何時、どこでお達しでも、その礼儀正しく、お身のまわりも、何時もサッパリと、そして明るく何時もニコニコと変らぬ、力づよいお人柄のたまものと思います。
 芸の道に、これで終りはないはず。今迄歩んで来た足跡をみつめ、益々ご健康にお気をつけ遊ばして、勉強されたく、後につづく人達のためにも、尚一層のご奪闘なされますこと、お願い致しまして、今日のごあいさつに代らせて戴きます。
 お目出度うございます。

大事な大事な大先輩へ
松尾和子
 先輩、リサイタルおめでとうございます。
 想いおこせば、私が、初めて先輩にお逢いしたのは、まだ、ジャズ・シンガーとして、あるお店で唄っていた頃でした。
 そんな私を、スカウトして下さり、レコード・シンガーとしての道を色々と教えて下さいました。
 そのうえ、「東京ナイト・クラブ」では、先輩とデュエットという幸運にも恵まれるなど、私にとって、大事な大事な大先輩です。
 今日も、先輩の教えを陶に「東京ナイト・クラブ」を、四国のナイト・クラブで、一生懸命唄っています。

大先輩へ
尾崎紀世彦
 大先輩フランク永井さん、二十一年目のリサイタルおめでとうございます。
 フランクさんの歌なら、僕を含めて、日本の歌謡界の多くの人々が、その幅広いレパートリーや、素晴らしいステージマナーから、沢山の教訓を受けて来ましたが、たまたま、昨年四月から、僕は同じビクター芸能専属として、フランクさんと身近かに接することができ、幸運にも、他の方々より更に多くのものを、吸収するチャンスに恵まれました。
 すでに日本の歌謡界に於で、大きな足跡を残されて来たフランクさんですが、今後もますます元気でご活躍されて、円熟した歌を、全国のファンに、そして我々後輩に見せていただきたいと思います。


「カニ」のおじさんへ
丘めぐみ
 リサイタルおめでとうございます。
 先輩がデビューなさって、今年で二十一年目だそうで、私が生れたときにデビューなさったのですね。十五歳のとき、姉と先輩の十五周年を見せていただき、あまりのスケールの大きさに、年輪を感じ言葉も出ませんでした。
 歌い手とは、こうならなくてはならないと、つくづく考えさせられました。
 普段お逢いすると気軽に「おう元気か」と声をかけられる「カニ」のおじさん。あのやさしい笑顔は、二十一年の歩みの中から生まれてくるものだと思います。
 これからもお元気で、いつまでもいつまでも若々しい歌声を、おきかせ下さい。

素敵な大先輩へ
伝書鳩リーダー 荒木とよひさ
 「有楽町で逢いましょう」という歌を聞いたのは、僕が鼻タレ小僧の頃である。低音で迫る歌声が子供心に、も妙に色っぽく聞こえたから不思議だ。
 その当時、まだ田舎では珍しい電蓄が我家にはあり、自分の小遣いで買ったレコードを、何度も何度も聞いたものだ。
 「有楽町ってどんなところだろう?」「東京へ行ったら一番に行こう......」なんて。
 今でも風呂なんぞに入ると、ふと「あなたを待てば雨が降る......」と口ずさんでしまう。
 僕の心の中に住みついた偉大な歌手、フランク永井さん。素敵な人だ。

良き大先輩へ
チュリツシェ
 フランク永井さん、リサイタルおめでとうございます。
 僕が晩酌中のおやじの横で、始めて聞いた〝有楽町で逢いましょう〟からもう二十年近くも過ぎているのですね。一口に二十年と言っても、第一線で活躍することの難かしさは、計り知れません。
 チェリッシユも今年で6年目に入り、その幕はまだ開いたばかりです。
 良き先輩の輝かしい実績に少しでもついて行ければと思います。
 三十一年、四十一年...とリサイタルの幕を開けて下さい。

やさしい微笑みの先生へ
和泉早苗
 二十一周年記念おめでとうございます。
 私はデビューして、まだ半年ですし、先日十九歳の誕生日を迎えたばかりです。
 ひと口に二十一年と言っても、デビューしたばかりの私には、想像もつきません。
 私が、初めて先生に紹介された時、先生は、私にやさしく微笑んで、〝がんばりなさい″と言って下さった、その時のやさしい微笑みがとても印象的でした。
 そして、いまも変わることのない素晴しい歌声、今後もご健康に充分気をつけて、いつまでも、素晴らしい歌声を聞かせて下さること、心より願っております。

(フランク永井のリサイタルについての、主にリサイタルの入場で入手するパンフレットをもとに紹介してまいりました。これで最後です。mixiではアップできる文字数制限が一万字のために、7回に分割しました。)

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 フランク永井リサイタル「輝ける21年の足跡」
 アルバムは、1977(S51)年1月に発売(SJX-8046~7)されました。

昭和51年10月28日(木)大阪厚生年金会館大ホール(大阪芸術祭参加)
昭和51年11月3日(祭)東京中野サンプラザ

監修=吉田 正
構成=桧原敏春
演出=小野康憲
照明/美術=今井直次
編曲=寺岡真三/近藤 進/服部克久
演奏=北野タダオとアロー・ジャズオーケストラ+ストリングス(大阪)
   原信夫とシャープス&フラッツ+ストリングス(東京)
合唱=エバ・シンガーズ(大阪)/コール・セレステ(東京)
主催=ビクター音楽産業株式会社
後援=ビクター音楽出版株式会社
制作=ビクター芸能株式会社

《第一部》
 1. 君恋し
 2. 夜霧の第二国道
 3. 夜霧に消えたチャコ
 4. 有楽町で逢いましょう
 5. 〔メドレー33曲〕(ラバー・カムバック・トウ・ミー)
 6. 霧子のタンゴ
 7. 俺は淋しいんだ
 8. 東京午前三時
 9. 浮気川
 10. 妻を恋うる唄
《第二部》
 1. 大阪ぐらし
 2. 〔メドレー〕(大阪野郎/船場ごころ/大阪ながし/大阪ろまん/加茂川ブルース)
 3. こいさんのラブコール
 4. ふるさとの風
 5. 恋夜
 6. きっときっときっと
 7. 船頭小唄
 8. ゴンドラの唄
 9. さすらいの唄
 10. ウェア・ザ・ブルー・オブ・ザ・ナイト
 11. アズ・タイム・ゴーズ・バイ
 12. 枯葉
 13. オール・オブ・ミー
 14. 行ってしまったお前(新曲)
 15. そっとしといてあげるから(新曲)
 16. 霧子のタンゴ・パートⅡ(新曲)
 17. おまえに

あいさつ
フランク永井
 皆様、本日はようこそおいでくださいました。
 思えば、昭和29年頃、東京の都心から一時間あまり、国電を2度乗り換え、最後は進駐軍の幌のついたトラックに揺られて、埼玉県朝霞町の米軍キャンプの下士官クラブで歌っていた時期。
 楽譜のアレンジ代に追われて、日本テレビの、のど自慢番組に賞金稼ぎのため出場しました。
 その時にめぐり逢ったのが、ビクターレコードの小野中三氏(現ビクター芸能監査役)でした。氏の手引きでビクターに入社して、遂に吉田正先生にお目にかかることになります。
 昭和30年秋入社、ご存じ「有楽町で逢いましょう」のヒットが昭和32年ですから、三年間の低迷がありました。今のご時勢でしたら、せいぜい半年ぐらいで放り出されていたかも知れません。三年間も我慢して下さった会社の皆さんに、今もって感謝しております。世の中で、私ほど人間関係に恵まれた男はいないと思っております。
 とりわけ、吉田先生は、私の歌の先生という以外に、私のすべての師匠で、ご紹介下さったその友人の方々は素晴しい方ばかり、その方々も、即、私の師でありました。
 その後も、いろいろな分野の方にお目にかかる機会を得、教えていただくことばかりで、世の中に、自分ほど幸せな歌い手はあるまいと、つくづく考える所以でございます。
 そして私、フランク永井が今ありますのも、デビュー以来21年間、変らぬご贔屓を下さったファンの皆様のおかげでございます。心からお礼を申し上ます。
 感謝の念をこめて、このリサイタルをお送りいたします。お楽しみ頂ければこの上の喜びはございません。
 本日は、まことにありがとう存じます。

プラス1年の重み
ビクター音楽産業株式会社 代表取締役社長 渡辺三郎
 きょうフランク永井さんは、歌手生活二十一年目のリサイタルを開かれることになり、大変おめでとうございます。
 この二十一年間の重みは、私たちレコードにたずさわる者にとって、なにものにも替えがたいものだ、と考えないわけにはまいりません。
 もうすでに多くの方々が、ご存知のようにこのフランクさんの歩みは、そのまま、戦後のレコード産業の歩みといっても過言ではないと思います。
 この二十年間、レコード界は、高度成長の下に大きく躍進してまいりました。それは、レコード生産の飛躍的増加といった数の面だけでなく、音楽の形の上での質的な向上といった面も合わせて、レコード史上かつてないほどの成長でありました。
 この間に、フランク永井さんの果たされた役割は、極めて大きなものがありました。という以上に、フランク永井さんの力が、レコードの高度成長のきっかけになった、といっても言い過ぎではないと思います。
 そして、二十年の高度成長を遂げたレコード界は、今年に入って、再び大きな変動を見せ始めております。
 この様な動きを考えますと、きょうのフランク永井さんの二十一年目のリサイタルは、極めて暗示的で意義あるものと存じます。
 フランク永井さんは、こんどのリサイタルを前に「新しい一年目の出発しということを盛んに語っておられます。
 この言葉は、とりもなおさす、レコード界にもそのままあてはまるものではないか、といま、痛切に感じております。
 高度の成長を果たしたビクターと共にあったフランク永井さんのリサイタルを前に、私は二十年プラス一年の重みを、しみじみ感じないわけにはまいりません。
 常に前進してやまないフランク永井さんは、本日のリサイタルを新たなスタートとして従来以上の情熱をもって、歌に専念されるものと信じます。
 ご来会の皆様とともに、フランク永井さんのご健康と益々のご活躍をお祈りして、ご挨拶といたします。

名実共に大歌手へ
ビクター音楽産業株式会 社取締役制作本部長 滝井利信
 フランク永井さん、リサイタルおめでとうございます。心からお喜び申し上げます。
 思えば、二十年前、ビクターは、復興のきざしは見えたものの、大変苦しい頃でした。そんな時、デビューされたあなたは、ユニークな低音の魅力で、一躍ムード歌謡ブームを呼びび起こし、昭和三十年代のビクターの黄金時代を築き上げてくれたのです。
 そして、吉田先生のあの不朽の名曲「有楽町で逢いましょう」をはじめとして、レコードの面で数々の大ヒットを世に送り出し「日本レコード大賞」「歌唱賞」など数多く栄えある賞を受賞されております。
 また、フランク永井さんは、ステージの面でも「芸術祭大衆芸能部門優秀賞」の再度の受賞など、優れたエンターティナーとしでの評価も受け、さらに、昭和四十六年には、歌手としてはじめての「芸術選奨文部大臣賞」を受賞されるなど、名実共に大歌手の道を歩んでこられました。
 私も、フランク永井さんとは、デビュー以来、フランクさんは歌手として、私はレコード制作の現場として、公私にわたり親しくお付き合いいただいておりますが、大のフランク永井フアンであると同時に、かように素晴らしい歌手といっしょに仕事が出来たことは、制作者としてこれ以上の喜びはございません。
 二十年をひとつの節として、新たな一年目のこのリサイタルを契機に、日本の、いや世界の歌手として、エンターテイナーとして、さらに大きく飛躍されることをお祈りして、ご挨拶にかえさせていただきます。


リサイタルに寄せて
ビクター芸能株式会社 ビクター音楽出版株式会社 代表取締役 島崎文雄
 フランク永井さん、今日のリサイタル、おめでとうございます。
 フランクさんをビクターにお迎えしたのは、昭和三十年でございました。今年で二十一年になるわけでございます。
 この間、東京において三回のリサイタルが成功裡に行われ、二回目のリサイタルで芸術祭に参加し、大衆芸能部門の奨励賞を受賞されたことを記憶いたしております。
 今回のリサイタルが、東京のみならず、フランクさんの歌に大変ゆかりの深い大阪においでも開催出来ましたことは、ご本人は勿論のこと、主催者のビクター音楽産業株式会社にとっても、大変意義深いことと存じます。
 変動の激しい戦後の歌謡界にありまして、数多くの賞に輝き、二十年を越える長い歌手生命を保ったばかりでなく、世の人気を博すということは、並大抵のことでなく、常日ごろのご努力の結果によるものと、深く敬意を表したいと存じます。
 本日のリサイタルが、吉田先生はじめスタッフの諸先生方のご協力により、素晴らしく盛大にひらかれるに当り、心からお祝いを申しあげますと共に、ファンのみなさまのあたたかいご支援により、フランクさんの芸術活動が今後、一層みのり多きことをお祈りいたします。

おめでとう! フランク永井
佐伯孝夫
 「...先日、フランク永井さんのレコードを耳にしました。今聴いても新しい心憎いばかりの語り口の詞に、頭がさがります...」。
 これは久しく音信の絶えていた、神戸の、いささか知的な二十歳過ぎのお嬢さんからの手紙の中の一節で、私はフランクさんの一途な新鮮さを、再確認して本当にうれしい気になり、何度も読み返しました。
 フランクさんがデビューしてから、もう二十一年にもなるとのことですが、常に「フランク永井」でありつづけた、精進と芯の強さに頭のさがる想いです。
 この珍しい、自分を崩さない歌手さんは本当に、賞讃さるべき存在と信じきっております。
 個性にあふれ、東北人らしい民謡育ちの深い根を失うことなく、しっかりした態度と素直さを身につけ、ハタから何か言われても、自分の気持ちをつら抜き通し、強くその人間味あふれる暖かさを表現しつづけて、変わらない魅力を私たち庶民に与えつづけて、共感されているということは、容易なことではないと思います。
 この人間的魅力、郷土の土から生まれた才能に花を咲かせたのは、同じ東北系の恩師吉田正先生のご努力だったと思います。夜二時ごろ突然先生宅を訪れ、そのときどきの悩みや心情を、空が白むまできいで貰い、また新しい出発への鼓舞を得たということも度々だったとのことです。
 五年毎に催すフランクさんの、今度のリサイタルは、真実重厚、楽しいと言うより、そこからまた「明日への出発」の芽がみどり豊かに感得され、私たちに喜びを与えてくれると信じて疑いません。
 フランク永井さん、おめでとう!

エンターテナーフラング永井
吉田 正
 もう十四、五年になるが、一夕、親しいジャーナリストの人たちと、フランク永井を囲んで歓談したことがあった。
 フランク永井も若かったし、私も若かった。そんな中で、たまたま、彼のワンマン・ショーをどんな形で作ったらいいだろう、という話が出た。
 当時、日本では、ワンマン・ショーという形は、そう多くはなかった。その多くは、いわゆる歌謡大会という形式の興行だった。それだけに、彼を素材にしたワンマン・ショーという話に華が咲いた。
 いまでも、私が鮮明に覚えているのは、誰いうとなく〝ハットオフ(脱帽)フランク〟というタイトルをつけたらどうだろう、という意見が出たことだった。
 時が経ち、季節が流れた。
 いま、フランク永井は、二十一年目のリサイタルを迎えようとしている。
 この間、日本は大きく変わった。歌謡界の地図も塗り変えられたし、歌謡の型も、外形的には多様となった。いうなれば、この間は、激動の二十年だった。
 こんな中で、終始変わらずに第一線で歌い続けるということは難事である。私の周囲でも、数多くの歌手が登場し消えていった。それぞれにそれなりの理由はあった。
 しかし、よんかく、数多い歌手が出ては、消えていったという事実はまぎれようもない事実である。
 歌手として第一線で生き続けるということは、このような事実を前にして考えると、想像以上に難事なのである。
 フランク永井は、今日も、舞台では、さりげない表情で自分の歌を、気軽に歌うに違いない。
 二十年間第一線で生き続けてきた難しさ、辛さは、恐らくそんな彼のステージからは感じとれないかも知れない。しかし、そのさりげなさが、彼の財産なのである。
 観客を楽しませるエンターテイナーとしての彼の資質を、私も今宵ゆっくり楽しみたい。

フフンク水井と銀座
小倉友昭
 『銀座も変ったもんですね。銀座に来て、酒を飲みながら「妻を恋うる歌」を聴くなんて考えもしなかった。だって、考えてもみで下さい。酒場は、男の遊ぶ所でしょ。いうなれば、お内儀さんから逃げて、何となくリラックスしようという男たちの逃避場でしょ。そこで"妻を恋うる"じゃ、せっかくのお楽しみも、かたなしになっちゃう、と考えるのが、ふつうでしょう。銀座も変ったもんですね』。
 フランク永井の手には、例によって、レミー・マルタンのグラスがあった。
 銀座でも一流といわれるクラブS。小柄なフィリッピン生れの歌手が、のぴのある声で「妻を恋うる歌」を歌っている。
 フランク永井は、そんな歌手の歌を聴きながら、しみじみつぶやいたものだ。
 銀座で飲み、祇園で痛飲し、先斗町で梯子酒を仕込まれて、したたかな飲み手となったフランク永井の、これが、最近の銀座遊びでの述懐だった。
 「変ったもんですね」を繰り返す彼の言葉には、様々な想念が絡みついているようにも思えた。
 考えてみれば、都会派歌手として登場してきた彼にとって、公私ともに東京・銀座は、忘れ難い場所だろう。初期の歌、いわば彼の方向を決定づけた「東京午前三時」も、歌の舞台は銀座のはずである。約二十年前の銀座は、いまのように、バーやクラブなどのハネ時になると、タクシーが群らがる銀座ではなかった。だから「似た娘乗せゆくキャデラック、テイル・ランプがただ赤い」といったやるせないような大らかな哀愁があった。
 「銀座は変ったもんですね」彼ならずともそうつぶやきたくなる変りようだ。
 「西銀座駅前」が出来たころ、このあたり、まだ銀座のはずれだった。もっとも正確にいえば、西銀座駅というのは無い。しかし、それが、いまでもあるように思えるのは、歌の力だろう。
〝若い二人は、ジャズ喫茶〟というフレーズも、いまでは、ジャズ喫茶そのものが、銀座には無くなってしまっているのだから、これも、やはり「銀座は変ったもんですね」ということになる。
 そんな銀座は、しかし、やはり、歌の流行でも、ある先端を行っていることは変らない。僕が、彼の「おまえに」を「とってもいい歌だから、ぜひ聴いて...」と銀座のお嬢さんたちにせがまれて、リクエストしたのは一昨年の秋だった。
 それから約二年後のいま「おまえに」は、完全なスタンダード・ナンバーとして、銀座のどこかで必ず歌われる歌になった。変った銀座で、変らないものがある、というわけである。
 「やっぱり遊ばなけりゃいけません。お酒も飲まなけりゃいけません。心が豊かに新鮮でなければ、歌も枯れてしまいます」。
 ともかく、外形は、変った銀座で、フランク永井は、頑固にコニャックを飲み続け、変らない台詞をいい続ける。

日本語とフフンク、「和魂洋才」の歌手
佐藤 泉
 政治家が選挙で言うことは、たいてい嘘である。だいたい嘘は申しませんとか、正直いって...とかいうことを日常会話の中によく使う人があるが、このこと自体が嘘なのであって、ほんとうのことを言っていれば、何もことさらに、こんな不自然な言葉を使う必要はないだろう。
 「嘘は申しません」ということは、よく嘘を言う証拠なのである。言葉とは難しいものだと思う。
 「人柄」があるように「言葉柄」というのもある。人間の顔は内面を描きだすように、言葉は内面を表すものだ。フランク永井は、ふだんでも言葉を選びながら慎重にしゃべる。思うに、性格も慎重そのものなのか。
 彼は宮城県出身である。もう二十年余の付き合いだというのに、一向に東北訛りを耳にしたおぼえすらない。それも道理で、フランク自身の話では「宮城県に住んでいた当時から、意識すれば、比較的標準語めいた言葉もしゃべることが出来た」そうである。これに加えて昭和27年に上京、駐留軍のキャンプで働くようになってからは、いきおい英語(米語)に接する機会も多くなる。つまり東北訛りからワンクッションをおいた形で、標準語めいた日本語へ自然と移入していた。もはや東北訛りの出る幕はなかった――と思うのである。
 フランクは人も知る落語好きだ。噺家との交遊も多い。もとから落語が好きだったところへもってきて、彼には東京訛り、つまりは江戸江戸訛りへの憧れがあったらしい。寄席へ通い、先代柳好や志ん生の噺を耳でおぼえ込むようになる。
 なんたってアータ(あんた)耳のほうは商売が商売だけに〝頗るつき"に上等ときてる。たちまちマスターしちまった。
 このごろでは江戸っ子(四代目)を自負する、私の言葉に訂正を申し入れる始末なのである。
 言葉にうるさいくらいだから、本職の歌では歌詞を明瞭に正確に歌いあげる。これだけでも聞いていて大変に気持ちがよい。詞を大切にする歌い手さんたちが、少なくなってきた。
 ビング・クロスビーとフランク・シナトラの唄にしびれたのが、歌手へのきっかけだった。思うに、フランク永井は「和魂洋才」の歌手なのである。日本語を愛し理解し、かつ西洋のフィーリングで自分なりの歌をつくり上げていく。
 このごろでは、この「和魂」が日本の歌から行方不明になってしまった。

フランクとゴルフと私
河塚順一郎
 フテンク永井がデビュー二十一年目に新曲〝浮気川〟を引っ下げて京都入りしたとき、私に逢うなり見せたのが、最近のゴルフ・スコア・カードである。こういうときは決まって好調な証拠と私は受けとっている。
 それもニヤリと笑みを浮かべながら「最近の調子はどう」とくる。そういうときはたいてい、こっちの調子はメタメタのことが多い。優劣たちどころに変わるというか、またまた越えられないカベを意識した劣等感に災いなまれるのである。
 まことにゆゆしき因縁であるが、一面これが会話となるようになって、一段と彼との話が簡単に出来るのだから不思議だ。
 フランクと知り合って十数年、昔は何かというと飲むことしか知らなかった。〝大阪ぐらし″のよさは、酒にありというところだった。
 とても"こいさんのラブ・コール〟という、しゃれたものではなかった。それがどういうわけか、お互いに示し合わせたわけでもないのに、ゴルフを知ったのである。こと細かく聞いたわけではないが、だいたい始めた時期もそう差はない。
 それまでは〝ゴルフなど、どこが面白いねん、朝早く起きてフーフーいって回って、小さい球を追っかけて"というしだいだった。その点の意見も共通していた。
 ところが変われば変わるもの、やり始めてみると、これぐらい面白いものはないとなった。
 そうしたころに再びフランクに出合った。初めは仕事一途の話ばかりしていたが、よくよくみると顔が日焼けしている、手首に白黒のコントラストがある――「お主、やってるな――」「いや、そういえばあんたも――」でどっと笑った。
 じっくり歌っていて火のついた〝おまえに″のころである。
 だからゴルフ歴については、お互い四、五年というところだろう。だが、自然に差がついてしまった。何をやるにも人一倍熱心と自負する二人だが、彼はプロにもつき、マイコースを得て、レッスン、試合とも経験を重ねていった。一方、私の方は休日だけのゴルフなので、棟習皆無、すぐ本番だからペースの違いは歴然である。これでみるみる10ストローク以上にも、実力が開いてしまった。
 それにフランクはいち早く。ホールインワン〟を決めた。それも大阪のPLゴルフの東の8番で、である。「やったな」というと、彼は申しわけなさそうに「いや、スプー(ウッド3番)で打って、みえなかったのが入ってた。ウッドだからね」と説明する。
 ウッドであろうが、アイアンであろうが入ったことには、間違いないというと、納得したような顔になった。
 ゴルフ・ブームといわれて久しい。ゴルフ場も多く出来たし、ゴルフ人口も何百万という。
とうとう二人とも上手下手は別にして"狂″に近いところまでいってしまった。あとは、いつ自分の力を達観するかである。
 "浮気川″であるうちはまだやる気十分、こっちもウサギとカメを決めこんで"そのうちに″とフランクを追っかけている。ゴルフをやることで英気がつき、あすの仕事へのプラスとなれば、また楽しである。
 私とフランクのゴルフ談義、まだしばらく続くことだろう。もっともそんな話、ゴルフを知らない人の前でゴルフの話をするのは、エチケットに反する――、相すみません。

ステージの魅力
池田弥三郎
 テレビやラジオやレコードで承知しているフランク永井さんと、ステージの彼と、同じ人であり、同じ芸でありながら、ずいぶんその魅力に異質なものがある。
 どっちがいいと、いちがいには言えないけれども、行儀のいい、きちんとした芸である前者に対して、ステージで、聴衆とともにあるフランク永井さんの、自由でのびのびとした芸の魅力は、また、なんとも言えぬ魅力がある。
 そこには彼の歌の一つ一つが、一つ一つ別にあるのではなくて、大きな流れの中の一つ一つとしてある。そこには、しゃべり手としての彼の才気の縦横な喚発がある。これはフランク永井さんの推賞すべき魅力である。
 そういう会場での録音をもとにしたLPには、もちろんその魅力がうかがわれはするけれども、何といってもそれは一つのわくの中に入れられてしまっていて、自由自在な発散が少ない。ステージの彼の芸に、思う存分に触れたいものだと思う。

それだけの話
江園 滋
 フランク永井が熱烈な落語愛好家であることは、いまではよく知られている。その愛好の度合いも、通りいっペんの落語好きとか、落語愛を超えた、それはもう落語への恋とでもいうような、純度の高いものであって、しかも灼熱の恋が一向にさめる気配もないところがみごとである。
 むかし、某テレビ局がフランク永井ワンマンショーを企画して、その中で小咄を一席披露してほしいという、注文をだしたことがあった。プロデューサーにしてみれば、落語好きの歌手の、どうせ余技なのだから、羽織を着て出てくるだけでご愛嬌であり、咄の巧拙などはどうでもいいというように、ごく気楽に考えていたのだろうと思う。
 それはそれで一つの考え方ではあるけれども、余技だからといっていい加減なごまかしでお茶をにごすことは、エンターティナーとしてなすべきではないという考え方のほうが、考え方としてはやっぱり正統だろう。フランクの考え方は、断然後者であって、したがって、引き受けたからには、だれに聞かせてもはずかしくないだけの小咄を演じたい。
 ついては専門家に乞うて、本格的に稽古をつけてもらおうと思う。然るべき落語家を紹介してもらえないか、という電話が、フランクからかかってきた。
 「若手で、しっかりした芸風の噺家さんがいいんだけれど、だれかいませんか」
 「います」
 「紹介してくれる?」
 「おやすいご用だけど、しかし、フランクさん本気なの?」
 「もちろん」
 「わかった。それで――」
 それでは「この人なら」と絶対の自信をもって、その当時の若手に属する有望落語家を紹介した。
 稽古は何度か行われたようだったが、そのたびにフランクは、弟子としての最大最高の敬意を払って、その若手落語家を師と仰ぎ、申し分のない接し方をしたらしい。
 真摯な態度に感動した言葉が、まだ耳元に残っている。
 「どんな世界でも、一流になる人はちがいますね」
 あれから六、七年たって、その落語家は押しも押されもしない中堅真打として目ざましい活躍を続けているが、その間にも、フランクは常に師と仰ぎっばなしで、はたの見る目にもうるわしい師弟関係を一貫して維持してきた。
 それだけの話である。それだけの話なんだけれども、たかだか二分か三分の放送のために、いろはの「い」から、きちんと手順を踏まなければ気がすまないという、フランクの正統派的感覚が、私にはすこぶる好ましい。
 歌の世界だけでなく、ありとあらゆる分野に正統派ならざる〝手抜き派〟がまかり通るご時勢であるからこそ、フランクの姿勢はいっそう貴重である。
 歌手生活21年目を迎えたフランク永井の、これから先きの歳月が、私にはたのしみでならない。

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