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 珍しいというのは曲のことではなくて、EP盤の作成形式のことです。作成形式というのも分かりにくいですね。レコード会社であるビクターからメインの正規シリーズとしてのシングル盤とかLP盤とかとはちょっと違っている盤というものです。
 正式のシングル盤というのは、デビュー時はSP盤です。次にEP盤ですが、最初はVSシリーズのモノラルで、後にSVシリーズのステレオ盤です。
 EP盤は1980年代に全面的にCD盤に変わるわけですが、価格を考慮した4曲入りの「コンパクト・ダブル・シリーズ」という盤もだされました。これだけに収録されている曲というのもあるのですが、基本的には例外でした。
 ステレオ化された時期には「ステレオ・シリーズ」「ライビング・ステレオ・シリーズ」と名をうって、初版の時とは異なるカップリングでヒット曲のステレオ版吹き込みなおしで出されましたが、これはわずかでした。
 また、沖縄が日本に返還されたのは1972年ですが、これ以前は外国扱いでした。この時期に私が勝手に「沖縄シリーズ」と呼んでいる盤が出されました。これは人気の鶴田浩二とのカプリングが数枚出されています。
 EP盤の終盤にビクターから「アンコール・シリーズ」「永遠のEP盤シリーズ」「ゴールデン・ミリオン・シリーズ」「ゴールデン・ベスト・シリーズ」が出されました。これは曲の組み合わせを変えただけという感じで、初版時のモノラル曲も平然と使われています。SVとうたっておりながら、SV-3001-Mのような妙な盤のIDで出ています。

 私は特に収集家である意識はなかったのですが、結果的にフランク永井のレコード盤の収集家のような感じになりました。それは「フランク永井データブック」の編纂をしていた過程で、全容をつかむために、レコードの現物を集めたからです。もちろん、現在に至るもすべてが集まったわけではないのですが、知りえた多くのファンの方々が所有しおられて盤で確認できたことで、およその全貌を知ることができました。

 ただ、現在でも分からないものがまだまだあります。それは別項でも紹介しましたが、オムニバス盤です。それと、レコード会社から非売品、宣伝用としてレコード店や放送局に出されたレコード盤、PR/PRAシリーズです。さらに、いかなる相違があるのか、まぎらわしくも、PRUなどというのも出されています。宣伝盤ですね。宣伝というと、全国の観光協会、自治体、あるいは組織体からの要請で作られる盤もあります。
 フランク永井は、あの声ですので、まさか校歌は歌っていないと思いますが、そのような価格がついた商品盤でないものがあるのです。
 有線放送がそれなりに人気があるメディアだった時期があります。PRUシリーズのUは有線放送局用に作ったPR盤だったのだろうか。というのは、手元にPRU盤が2枚ある(PRU-6-熱海ブルース/ラブ・レター、PRU-25-逢いたくて/こいさんのラブ・コール)のですが、それを入手した際に同時に存在したのが、ゆうせんが独自に作ったとおぼしきPR盤だったのです。
 それは、YKS-039というIDで、A面が石原裕次郎の「夜霧のブルース」でそのB面にフランク永井の「公園の手品師」があるEP盤です。

 PRシリーズは必ずしも無償の盤ではなかったようです。またレコード店や放送局用は必ずしもPRシリーズと限ったわけではなかったようです。オムニバス的にそのときに売り出したい歌手や曲を集めてLPにした盤もありました。また、EP盤では表面と裏面が異なる盤IDを使っているというのもあり、一貫したコンセプトがなかったのではという疑念も生じます。
 手元にあるのは、VS-1103-逢いたくてとVS-1129-利根の月太郎(歌手:三門ひかる)という盤です。

 「あなたが唄う伴奏用レコード」というシリーズがビクターにはあったようです。手元にあるのは、SV-6147-おまえに/君恋しとSV-6155-こいさんのラブ・コール/大阪ぐらしです。
 当時の宣伝では、他に、SV-6150-お百度こいさん/羽田発7時50分、SV-6154-霧子のタンゴ/泣かないで、SV-6156-東京ナイト・クラブ/グッド・ナイト、SV-6157-俺は淋しいんだ/夜霧の空の終着駅、SV-6159-鈴懸の径/新雪などのフランク永井の曲が見受けられます。

 レコードを整理していて気が付いた話題でした。

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 フランク永井が、NHK紅白歌合戦に連続26回出演した記録の、現在の時点での様子が分かってきました。
 1957(S32)年第8回が最初の出演です。1982(S57)年第33回までの連続26回の出場記録です。
 NHKが正式に自前で記録を開始したのは、1972年第23回からで、それ以前の音声と映像記録はありませんでした。当時録音・録画するテープが高価だったといわれていますが、何よりアーカイブとして後世に残すことの意義を軽視していたのです。
 それに気づいてあわてて視聴者に呼びかけました。長く司会をした宮田輝アナウンサーが、自宅で私的に8ミリに録画していたのは有名です。その後徐々に、視聴者が保存していたものが、NHKに寄せられました。結果現在では、音声記録は初回から、映像記録は、1965年第16回からNHKに保管されています。
 フランク永井の出演映像は、2016年に「フランク永井シングル全集」が発売されました。その商品の「懐かしのフランク永井映像選集」に、NHKからの映像提供を受けて、8回分が発売されました。
 これ以外は、NHKのフランク永井を主に扱った特別番組で、いくつか紹介されています。BSが開局された際に、過去の番組の様子を再放送したことがあり、それを録画していた視聴者が、youtubeなどで紹介しています。
 ただ、youtubeでは著作権の関係から削除されているために、現在ではほとんど鑑賞することができません。

 この度、大変うれしいことに、熱心なフランク永井のファンの方から、残されていた貴重な音声の記録を聴かせていただかうことができました。下記の10本です。こころから感謝申し上げます。

 1959年 S34 第10回 俺は淋しいんだ
 1960年 S35 第11回 東京カチート
 1961年 S36 第12回 君恋し
 1962年 S37 第13回 霧子のタンゴ
 1963年 S38 第14回 逢いたくて*
 1964年 S39 第15回 大阪ぐらし
 1965年 S40 第16回 東京しぐれ
 1966年 S41 第17回 大阪ろまん
 1967年 S42 第18回 生命ある限り*
 1971年 S46 第22回 羽田発7時50分

 フランク永井が最初に出演したのは1957年第8回で「東京午前三時」を歌いました。この年は11月、つまり紅白の1月前に「有楽町で逢いましょう」をリリースして、名を全国に知られたときです。
 だた残念なことに、翌年の第9回で「西銀座駅前」を歌ったものと2回分は、ラジオからの放送でしたが、音声の記録が存在していません。

 1963年大14回からテレビ放送になります。フランク永井の歌唱映像は、1963年第14回「逢いたくて」が最初です。影像が残されていないのは、1963年第15回「大阪ぐらし」、1971年第22回「羽田発7時50分」です。この2本を除いて、最後の出演となった1982年第33回「有楽町で逢いましょう」までの、18本が保存されています。

 映像を通してみると、フランク永井の活躍した時代が一目瞭然でわかります。フランク永井の昭和30年代の映像は、映画に出演した場面などを除いて、ほとんど存在していないために、モノクロですが極めて貴重なものと言えます。若々しく、彼の隠れた魅力とも言える美しい高音が楽しめます。
 1968年第19回で「加茂川ブルース」を、歌っています。和服で登場し、当時人気の三浦布美子との共演などは、見ていて楽しいシーンです。また、1972年第23回では3回目の「君恋し」を歌っています。この回ではニニ・ロッソのトランペット演奏をともなって共演するということで話題になりました。

 今回初めて聴かせていただいた音声で、特に印象的なのでは、1964年第15回の「大阪ぐらし」です。
 まず歌いだし間もなくで歌詞を取り違えます。紅白歌合戦に出場することの緊張からなのでしょう。そして2番が歌われ、歌い終わるところでいきなり4番に突入してしまいます。
 バンドは恐らく慌てたことでしょう。しかしさすがそこはプロ集団で、歌に合わせて演奏を最後まで続けます。何があったのかは不明です。秒単位で進行が決められている実況の現場なので、ここで発生したおよそ1分近い時間の延長は、どこかにしわ寄せが発生します。
 その犠牲が、同じレコード会社に所属する後輩の、橋幸夫にいったようだと、歌唱時間を細かく追った方の声がありましたが、果たして実際にはどうであったのでしょう。

 余談ですが、1981年第32回ではアトラクションコーナーが設けられ、ここでデュエット・ソング「東京ナイトクラブ」が、若い男女出演者で歌われています。フランク永井と松尾和子の歌唱で、現在でも親しまれている大ヒットソングです。

 全体を通して、司会者からフランク永井の紹介をする際に、敬意の言葉が語られていることです。

「懐かしのフランク永井映像選集」で発売された紅白映像は下記のとおりです。

 1963年 S38 第14回 逢いたくて
 1967年 S42 第18回 生命ある限り*
 1968年 S43 第19回 加茂川ブルース
 1970年 S45 第21回 大阪流し
 1974年 S49 第25回 おまえに
 1976年 S51 第27回 東京午前三時
 1978年 S53 第29回 公園の手品師
 1980年 S55 第31回 恋はお洒落に

 NHK紅白歌合戦は後に番組枠を大幅に拡げて、懐かしのメロディー風なものから、現代の若者を中心とした後世に変わりました。簡単に再放送できなくなりました。フランク永井が活躍した時代のものはまだシンプルな校正です。何らかの機会に、ぜひとも当時の映像を再放送してほしいと願っています。
 1964(S39)年第15回「大阪ぐらし」と1971(S46)年第22回「羽田発7時50分」の映像が、まだ見ることができていませんが、ぜひとも見てみたいものです。
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 フランク永井が活躍したのは1950年代の後半から約30年です。「有楽町で逢いましょう」が1957(S32)年に大ヒットを始めたことから、デビュー当時の盤まで注目されました。
 SP盤の時代です。1960(S35)年の1月に「鈴懸の頃」(三浦洸一「流転」とのカップリング。ちなみに「流転」は1937年の上原敏の歌った曲とは同名異曲)がSP盤の最終で、これ以降はEP盤に代わります。
 レコード会社は抱える歌手陣の売り込みに常に必死です。映画や舞台に、全国の催しへの参加と、やはり一般のいちばんの娯楽であったラジオでの採用です。
 歌ができると、各放送局へ「白ラベル盤(見本盤)」を配って、放送で使ってもらうように依頼します。また「平凡」「明星」などの芸能娯楽誌に情報を流して掲載をしてもらいます。
 これと並行して一般のファン向けに出されたのが、宣伝を兼ねたオムニバス盤です。売り込みたい歌手と曲を入れ込んでLP盤にします。これはレコード会社のなかのいくつかの部隊が、独自の企画でさまざまな盤がだされました。商品盤です。
 シリーズ化したのは「ビクター流行歌ヒット集」「魅惑のオール・スターズ」「花のステージ」「オール・スターズ歌の星座」「歌の花束」「ゴールデン・ヒット・ソング」「流行歌BEST15」「ポピュラーBEST15」等々多彩です。
 私の何十年もこれらの全容を知るべくいろいろと機会をみて、調べてきましたが、いまだその全容はわかりません。およそ半数は埋まったかなといったところです。
 今回紹介したいのは、その中の「ゴールデン・ヒット・ソング」シリーズです。
 1963年に第1集がでています。確認できている最終は1968年の第25集です。

 1963 LV-325    第1集 霧子のタンゴ
                第2集 (不明)
      SJV-55    第3集 大阪ぐらし
 1964 SJV-62    第4集 大阪ぐらし
 1965 SJV-85    第5集 恋うた
 1965 SJV-88    第5集 霧笛の道
 1965 SJV-104   第7集 男なら
 1965 SJV-114   第8集 アコちゃん
 1965 SJV-130   第9集 妻を恋うる唄
 1965 SJV-149   第10集 東京しぐれ
 1965 SJV-161   第11集 熱海ブルース
 1966 SJV-169-7 第12集 水のように
 1966 SJV-188-9 第13集 君待てども
 1966 SJV-207-8 第14集 女には涙がある
      SJV-220-1 第15集 遊侠一匹
 1967 SJV-253-4 第16集 大阪ろまん
 1967 SJV-260-1 第17集 みれん酒
 1967 SJV-281-2 第18集 マンション・ブルース
 1967 SJV-296-7 第19集 夕陽のジャマイカ
 1967 SJV-308-9 第20集 生命ある限り
      SJV-319-0 第21集 (なし)
 1968 SJV-337-8 第22集 風と二人で
 1968 SJV-349-0 第23集 (不明)
 1968           第24集 (不明)
 1968 SJV-375-6 第25集 堂島

 1970近くになると、フォークやニュー・ミュージックなどの若いアーチストによる多彩な歌が流行するようになります。そうした流れで別のシリーズに代わりますが、やがて、ジャンルを超えたオムニバス盤は消えていったようです。
 だが、フランク永井が活躍した時代はまさに「レコード盤」の時代で、これでもかとユニークな取り組みがありました。残念なことにその全容が解明されていないようです。私の場合は、フランク永井をベースにしたアプローチであることから、とても視野が狭くなっていて及ばないのです。
 そのあたりをどなたか突っ込んでいただいて、解明していただければ、そこから新たな大衆文化の光が見出せるかもしれません。そんなことを模索しながらときどき、手持ちのオムニバス盤を聴いています。
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 2019年新年にシリーズの発売が開始されて、すでに1年半が過ぎました。その第1巻を飾ったのがフランク永井でした。
 この7月に第6弾が店頭に並びました。これまでに発売されたCDはついに35巻に達しました。
 大変な偉業といえます。発売ごとに紹介してきたのですが、続きとして下記にリストをあげます。

(27) 築地容子 ジャニー・ギター~セレソ・ローサ
(28) 柴田睦陸 朝~ラ・クンパルシータ
(29) 大谷洌子 チリビリビン~ジャワのマンゴ売り
(30) 楠木繁夫 馬と兵隊~ルンバ1940
(31) 三浦洸一 落葉しぐれ~タローとジローは生きていた
(32) 曽根史郎 若いお巡りさん~花のロマンス航路
(33) 野村雪子 おばこマドロス~二十才の恋
(34) 藤本二三代 Vol.2 好きな人(セリフ入り)~雪之丞変化
(35) 竹山逸郎 町から村から工場から~異国の丘

 今回のリリースで驚くべきは、三浦洸一や曽根史郎という超有名歌手が登場していることでしょう。すでに登場した歌手も日本の流行歌の歴史に残る名歌手ぞろいでしたが、ビクターが抱えた歌手はまだまだ続きそうです。
 分かっている第7弾はつぎのような歌手です。

(36) 宮城まり子/(37) 斎田愛子/(38) 安西愛子/(39) 三島一声/(40) 新田八郎

 多くは流行歌と現在くくられる大衆音楽が始まった、昭和の時代の始まりから歌っている歌手です。戦前、戦中を経て、戦後も活躍されてのですが、年代的に多くの方々はすでにお亡くなりになっています。
 熱烈なファンだった方々も当然に亡くなられたか、ご高齢です。そしてラジオの時代でほとんどの方は、テレビに登場していないということもあり、名前は知っていても顔が分からないという大きな問題もあります。
 かてて、そうした著名な歌手であっても、残されている写真が少なく、現在に紹介するのも大きな壁を持ちます。このシリーズを制作しているレコード会社の企画担当をなさっている部隊の苦労もわかります。
 音源については、マスターテープの劣化が問われる時期になって、ここ十年から二十年の間に最新の技術を駆使して、ほとんどがデジタル化されたはずです。その時代の最高のソースはテープで、当然半世紀以上も経過すれば劣化します。下手すれば、永遠に復刻できない事故も考えられます。
 SP盤のマスターというのもあるようですが、詳しくは分かりません。最終的には実際に発売された盤があり、そうした歴史的な音源のデジタル化による一元的な保全は、各レコード会社でほとんど整理のめどがついたものと察せられます。
 ビクターファミリークラブというのがありました。ビクターと最大のライバルであり、戦中にはレコード制作にあたり、盤の材料や工場まで融通しあった盟友である日本コロンビアも、同様にファミリークラブがあります。両社は連携しあって、レコード会社横断で共通宣伝しあっています。
 この「日本の流行歌スターたち」に対してコロンビアは「懐かしの名歌手全曲集」を企画制作して発売しています。だから、ビクターとコロンビアの双方の著名な歌手の作品がそろってきているわけです。
 「日本の流行歌・歌謡史上に煌々と輝き続けるスター歌手たちの新しい視点のベストアルバム」というのが、キャッチコピーです。

 さて、今回のシリーズで目をひいたのは、なんと私のすきな歌手でもある藤本二三代のVOL2というのが登場していることです。まだ登場していない歌手がいるのに、藤本二三代のベストアルバムの2枚目かと驚きました。
 藤本については、フランク永井と最も多くカップリングした歌手で、ともかく歌がうまいのです。容姿を取り上げるのはタブーかも知れませんが、もうお亡くなりになっている方だから、この際ご勘弁ください。美しく、可愛い歌手です。
 以前も一度特記したのは、彼女の二十面相です。映画、テレビ、舞台と登壇するたびに、また、レコードを吹き込むたびに、別の顔を出すのです。
 私の年代で知るビクターの美人歌手は、松尾和子と藤本二三代と神楽坂浮子ですが、松尾も神楽坂も別の表情の顔などありません。それが藤本となると、ほんとに同一人物かと思うほどの変化を感じました。
 竹山逸郎はフランク永井の恩師吉田正の「異国の丘」を、吉田が知る前にビクターから盤を発売した方です。フランク永井はこの曲を当然カバーしています。さらに竹山の「泪の乾杯」をもカバー曲で幾度か歌っています。竹山は「町から村から工場から」という曲も出しています。これは戦後の労音などの運動の中でよく歌われた曲です。

 さてさて「日本の流行歌スターたち」ですが、ビクターはyoutubeで「第6弾発売」を宣伝しています。なかなか内容がわかるいい作品になっています。
https://www.youtube.com/watch?v=yLdQxMLmeBY
 この勢いで、第1弾で発売されたフランク永井を含むシリーズの出してほしいものです。

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 「真昼の罠」は1962(S37)年8月発売のレコード。B面は松尾和子の「黒い愛」で、やはり「真昼の罠」の主題歌となっています。
 田宮二郎主演で同名の大映映画の主題歌ということに違いないようです。なにより、映画の原作は黒岩重吾で、主題歌の歌詞を書いたのも黒岩だからです。
 待てよ、主題歌というのは複数あるものなのかな。まぁ、それは良くわかりません。どちらにせよ、映画の公開は8月19日とあるので、同時期に公開と発売です。
 しかし、この映画をみても、フランク永井の歌も松尾和子の歌も出てこないんですね。これはどうしたことでしょう。そのあたりの事情に通じた方がおられれば、ぜひお聞きしたいです。
 歌の作曲はいずれも山下毅雄です。山下毅雄といえば「ルパン三世」の歌を指摘する人も多いのですが、私には「七人の刑事」「大岡越前」「鬼平犯科帳」です。最近はテレビを観る機会も多くなり、何十年も前の時代劇ドラマはほぼ観ています。
 「真昼の罠」の主役は当時大活躍だった田宮二郎です。イケメンだが、金権と出世のためなら何でもするという、利己主義の権化のようなヤツ。田宮の俳優としての力量が全開しています。
 黒岩重吾の原作に田宮二郎の主演、当時はそうとうヒットしたのではないでしょうか。私が観たのはDVDで最近観たものです。
 余談ですが、田宮はテレビで「クイズ・タイムショック」の司会をしています。この番組のテーマソングは山下が作っています。
 さて、主題歌として吹き込んだ曲が映画に反映されていない、というのは他にもありそうですが、まだ全容は分かりません。ただ、1964(S39)年2月に発売した「太陽は撃てない」(A面は橋幸夫の「あゝ特別攻撃隊」)があります。これは松竹映画「あゝ特別攻撃隊」の挿入歌と主題歌です。このは映画そのものが製作されなかったとのことです。
 戦争映画はたいへん時世に敏感です。たしか大映から同名の映画は作られていたと思いますが、特に特別攻撃隊というのは、先の大戦時に海軍が爆弾を積んだ航空機を敵戦艦に体当たりする部隊を編成して実行したものです。
 米国は死をも恐れぬ狂気の「カミカゼ」として恐れたという話も残されています。ついこれを美談風に扱う話もありますが、すべてはお上がそそのかされて相手を鬼畜米英とか露助とかみくだして、戦争の主体者にさせられたことから始まります。
 イスラムの聖戦(ジハード)も同じですね。お上の場合は、そそのかされてアジアの盟主を気取り、大陸に出ていった時点でアウトです。同様に米国には宣戦を布告した時点でアウトです。ここから生まれるすべては戦争という理不尽の極みの福産物といっていいでしょう。
 それゆえに、何が実際にはあったかわかりませんが、松竹映画は企画段階で終わってしまったのでしょうね。
 さてさて、話は最初の「真昼の罠」ですが、実は同名の映画が、1960年に作られてテレビでも放映されています。
 こちらは、八木美津雄の脚本・監督で松竹映画として作られています。主演は若き岩下志麻と佐々木功です。岩下志麻の強烈な印象は「極道の妻」です。高島礼子とか幾人かが演じていますが、岩下のセリフ回しには格別な迫力を感じました。
 佐々木功は若いですね。彼はフランク永井の大々ファンです。アニソンの帝王となり芸名もささきいさおで、現在も活躍中ですね。

追悼! 渡哲也 こころからご冥福をお祈りします。

 映画俳優も歌手と同じで、大衆相手に芸を売る商売ゆえに、売れたスターにはその周囲に大規模な演出集団がおります。映画でみる渡哲也像と日常の中の人間像は相当に異なるのが常です。渡もその例に漏れませんね。
 彼を知ったのは映画「無頼シリーズ」です。まあやくざ映画です。現時点での視聴者の感覚からすると、よくぞ、こんな映画が流行ったものだと思います。西部警察もそうだけど、非日常、それも機関銃、戦車がどうして登場するのか、それと戦うのがなぜに西部警察なのか、なんでこんなド派手な暴力が必要なんだ、とすべてが突っ込みどころですね。
 「無頼シリーズ」を観たのは、単純に、そこで「君恋し」が映画の演出で歌われているからでした。渡は「くちなしの花」を歌っています。フランク永井は1974(S49)年に出したアルバム「ベスト・コレクション75」でカバーしています。このアルバムは半数がカバーで、フランク永井のカバーは聴きごたえがあるという評判の時代の逸品です。
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 このブログで「1982年広島平和音楽祭でのフランク永井が歌った平和の歌の曲名は?」と、youtubeの一コマからの話題をあげました。この件で「ヒロシマと音楽」委員会の方が調査をされてくださり、松宮恭子作詞、高田弘作編曲「幼な子よ」であることが分かった。たいへん感謝するとともに、ここにご報告します。
 広島平和音楽祭資料や記録が広島市立中央図書館をはじめとするさまざまな機関に保存されているようなのですが、残念ながら詳細を得るまでには至りませんでした。これからの課題とします。
 1974年の初回の広島平和音楽祭で美空ひばりによって歌われた「一本の鉛筆」は、メッセいーじがダイレクトで多くの人に知られています。「一本の鉛筆があれば戦争はいやだと私は書く」という反戦と平和を訴えたものでした。これは映画脚本家の松山善三の作詞で、黒澤明監督の映画音楽で世界が知る佐藤優の作曲です。
 フランク永井が歌った「幼な子よ」はいくつか世に知られている音楽家の松宮恭子の詞に、くしくもフランク永井の最後のシングルの元歌「あなたのすべてを」の高田弘が作編曲をしています。
 当時の芸術家の平和と反戦への思いは高く積極的でした。それは先の戦争の爪あとが見渡せばどこにも残っていたような時代と関係があると思います。
 少なくとも親は直接戦争を経験しています。戦争は究極の理不尽を民衆に強制的に体験させます。自然と「ノーモア・ヒロシマ/ナガサキ」を口にしました。二度とこのような悲惨を繰り返してはならないと訴えたのです。

 「原爆犠牲者にささげる音楽の夕べ」「反核・日本の音楽家たち」「広島国際平和コンサート」等々続々と活発な活動があったのを思い出します。フランク永井が大阪・関西ものを歌って人気をえるきっかけは、大阪労音の活動に呼ばれたことです。
 「広島平和音楽祭」について、その当時に参加した歌手を次のように紹介しています。
 【出演者も豪華な著名人ばかりで、小柳ルミ子、堀ちえみ、サーカス、大川栄策、八代亜紀、岡村喬生、庄野真代、石川さゆり、森進一、フランク永井、中森明菜、斉藤昌子、五木ひろし、二葉あき子、森山良子、シブがき隊、新沼謙治、本田美奈子、岩崎宏美、小林幸子、布施明、堀内孝雄、中山美穂、細川たかし、近藤真彦、美空ひばり、友竹正則、島田祐子、栗林義信、伊藤京子、平野忠彦、立川清登、五十嵐喜芳、中沢桂、上條恒彦、堺正章、島倉千代子、デュークエイセス、早見優、五輪真弓、加藤登紀子、リチャード・クレイダーマン、和田アキ子、テレサ・テン、伍代夏子、大橋純子などである。さらに、司会には高島忠夫、松島トモ子、明石家さんま、春風亭小朝、さとう宗幸、小室等、などが参加している。会場は県立体育館ではじまり、第13回からは広島サンプラザで開催された。そして、ノーモア・ヒロシマコンサート同様、広島平和音楽祭は第20回で幕を閉じている(千葉佳子)】。

 さて、広島と長崎に悪意に満ちた核爆弾が投下されから75年経過しました。長崎市長の平和宣言にありましたが、終末時計がかつてない「残り100秒」だというのは、なんとも愚かな歴史の逆行をしているように悲しいことです。
 75年も訴え続けてきたと誇らしく言いたいのですが、長いことは決して誇れません。そればかりか、悲しむべきは、先に記した豪華な著名人たちは、現在潮を引くように「反戦・平和」など唱えていないように見受けられます。アーチストは政治色を出すべきでない、などという暗示は誰がかけたのだろうか。
 音楽や文学、芸術を見る人はさまざま、つまり、核兵器の廃絶に賛同する者ばかりではないので、政治を語るなということのようだが、どうやらこれはお上とマスコミ支配者の意志らしいです。反戦や反核をいったら、干すよということで、それを避けるために、皆が自主規制、自己規制で一律そうなっていったようなのです。
 これでは、反核・反戦は当然遠のきますね。催しも閉じますね。圧倒的な大衆の多数は反核・反戦であったとしても、その声がないのだから、核兵器を開発して使うのを否定していないのだよというように考えているいるのかと、勘違いしますね。
 暑さであたまがヘンになったわけではありません。そんなことを考えさせられる8・6、8・9記念日でした。

 さてさて、訃報がありました。弘田三枝子が亡くなったとのことです。こころからご冥福を申し上げます。決して特別なファンではなかったのですが、デビュー時のあの独特なパンチのきいた歌唱は、同時代人として忘れられません。(しばらく、です・ます調に挑戦します)
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 同書は東京ラジオ歌謡を歌う会の石井久夫さんが自主出版した貴重な書籍である。
 ラジオ歌謡に関する画期的なデータブック。「ラジオ歌謡」は戦後にNHKの大阪と東京の両方の曲から放送された番組名である。だが、このデータブックでは、ラジオ歌謡に限らず「ABCホームソング」「三越ホームソング」「八大朝の歌」「夢であいましょう」「ヤンタン今月の歌」で流された曲をカバーしている。「ABCホームソング」「ヤンタン」が終了した1972(S47)年までの全曲が扱われている。
 さらにNHKがラジオ歌謡の終了につづいて放送し、現在も続いている「みんなのうた」については、平成の終りまでをリスト化している。
 研究者にとっては、垂涎の書といえる。
 総計1898曲について、作詞、作曲、歌手のすべてが一覧できる。再放送された記録もまとめられている。そればかりか、音源は残されているか、どんな賞を得たか、発表された解説は存在するか、カラオケが可能か等々の詳細な情報もはいっている。
 テレビが始まるまでの娯楽の主流の一つであったのはラジオだ。ラジオから流される歌は日本中から歓迎された。だが、現在までその全容が調査されたことがない。個別にはいろいろと局所は話題になったことはあるが、その全容を知ることはできなかったのが、この書籍で埋められたといってよい。
 この書籍の一つの特徴として、本表では、東京発と大阪発の区別が明示されていることだ。NHKもその時期の当初は東京(JOAK)と大阪(JOBK)が競っていた。朝日放送は「ABCホームソング」は有名だ。
 編者は地域的な流れの特徴、時代変化に伴う曲の特徴などをも詳細に考察している。
 どの番組についても、放送局自身が資料を押さえておらないケースがほとんどで、ファンの方々が細々と記録したり、覚えておられたりしているのを、編者はそうとうな長い期間をかけて丹念に収集して実現したものである。
 時間的な制限と壁は厳しく、当時の歌を整理するのにはおそらく現時点が最後になるかもしれない。そうした意味で、日本の大衆文化である叙情歌、童謡、唱歌等の一覧は、長く後世に残る記録といってよい。編者の気高い姿勢と意気込みについて敬意を表する。

 さて、この書籍でフランク永井はどのように登場するのであろうか。
 歌手別の索引でフランク永井の項をみると一瞥できる。

  フランク永井
   S31.11〈A〉公園の手品師/S32.7〈A〉すぐに盆だよ/
   S33.4〈A〉こいさんのラブコール/S33.8〈ラ〉アイスクリームの夜/
   S34.7〈ラ〉いつの日あえる/S34.9〈A〉鈴懸の頃/S39.3〈A〉あふれる朝の/
   S40.7〈A〉麦わら帽子の子守唄/S41.6〈八〉雨傘/S42.1〈A〉赤いバラ/
   S46.10〈A〉こいさん恋唄

 このように、11曲が登場している。有名どこは「こいさんのラブ・コール」「公園の手品師」だろう。<A>とはABCホームソングから放送されたという意味。
 この他で、レコード盤として出ているのは「鈴懸の頃」「こいさん恋唄」で、曲が発見されてCDで初リリースされたのは「すぐに盆だよ」「麦わら帽子の子守歌」「紅いバラ」だ。2009年「歌声よ永遠に~フランク永井のすべて」。
 「アイスクリームの夜」「いつの日あえる」については残念ながらラジオ歌謡関係者に楽譜が保存されているが、音源は残されていない。
 なお、索引には登場しないが、1963(S38)年にNHKみんなのうたで放送された「さあ太陽を呼んでこい」という曲がある。石原慎太郎作詞、山本直純作曲。初出はNHK放送児童合唱団が歌っている。これは2年後の再放送時は西六郷少年少女合唱団と立川澄人が歌っている。
 この歌をフランク永井は1963年にレコード発売しているが、何故か話題にのらなかったようだ。倍賞千恵子、ポニージャックス、友竹正則といった歌手のレコード発売の記録がある。つまり競作なのだが、こうした子供向けの澄んだ歌唱はいくらうまく歌っても、本道扱はされなかったものと思える。
 「八大朝の歌」で1966(S41)年6月に歌われて「雨傘」については、レコード会社に音源は残されているようだ。フランク永井作品が次に発売される際に登載されることを願うのみである。

 「戦後四半世紀電波から流されたホームソング」について興味があるかたはご一報くださればと思う。

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 コロナ禍でイヤでも自宅滞在時間が多くなる。youtubeでフランク永井関係の情報をいろいろ見ていたら、驚くべき貴重な映像を観てしまった。それは、そこに記されている情報から判断するに、1982年開催の広島平和音楽祭(第9回)でフランク永井が歌う映像のようである。
 記録では当時地元広島テレビが放映し、全国放送は後に日本テレビ系でなされた放送の録画の一部のようである。聞いたことのない曲だ。歌詞がテロップで出ているがわからない。当時音楽祭ではオリジナルがそうとう歌われているので、きっとこの日のための曲だと思える。

 youtubeのURLは、https://youtu.be/aSHyWMJAi6Q なので、興味のある方はぜひとも訪れてみてほしい。
 歌詞は、画面の表示と重なっていて、もしかして異なる箇所があるかも知れないが、つぎのように書き起こした。何番まで歌詞があったのかは分からないが、歌唱の最後のものだ。

...
晴れた空には 悲しみがある
傷つきすぎた 僕らの時代(ひび)
飛びたつ鳥に 願いをこめて
鐘の音よ 今 海を越えていけ
駆けてゆけよ 駆けてゆけ どこまでも
やがて来る 朝のために
今は僕が 今は僕が
守ってやろう 幼な子よ
迷いつづけ 迷いつづけた日々よ
ふる返れば 悲しみが
けれど明日は けれど明日は
君達のもの 幼な子よ

 せつせつと歌うフランク永井の映像。当時番組を観た方々はどう思われたのだろうか。曲名をご存知の方がおられたら、ぜひ教えていただきたい。
 広島平和音楽祭については、美空ひばりの「一本の鉛筆」が良く知られている。このことと、1985年開催の第12回で二葉あき子が歌った「祈り舟」について当ブログで、5年前に紹介したことがある。(http://frank-m.org/bunsirou/2015/08/post-71.html)

 戦後の平和獲得に熱心で1975年(第2回)の音楽祭の実行委員長をしているフランク永井の恩師吉田正が、当時実現が難しかったレコード会社専属制の壁を越えて、コロンビアの石本美由紀と組んで作り提供したのが「祈り舟」だった。
 地球を50回も消滅する量の核兵器が世界の大国に貯蔵されている。こうした巨大規模の火器で、戦争がひとたび再発したら、人類は滅亡する。戦争をしかけた方も、しかけられた方も、大半の無関係な人も、すべてが一気に消滅する。それをそうとうバカな中央政治のリーダーでも、知らないはずがない。
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 公益財団法人常陽藝文センターが発行する月刊誌「常陽藝文」2020年6月号で「北関東歌謡の系譜」が特集された。
 「常陽藝文」の特集は実に充実した内容であり、見るたびに感心する。最新号では茨城、栃木、群馬の関東北部地域から出た昭和歌謡の偉人に焦点を当てている。
 当誌では過去に野口雨情、門井八郎、西條八十、吉田正、矢野亮と特集で紹介している。6月号ではそうした内容の総集編的なものとなっている。当ブログではフランク永井に関連する情報の紹介で吉田正のときの特集をとりあげている。
 北関東とは表記されているが、その直上には福島がある。福島は歌手春日八郎、作曲家古関裕而がおり、密接な関係をもっている。また、今回の特集では、水戸出身の日吉ミミ、幼年期を笠間で過ごし第二の故郷と呼び結婚式を挙げるまでした坂本九まで紹介している。
 こうした偉人たちのひととなり、出生、業績を単に取り上げるにとどまらず、時代の流れとの関係について、深く掘り下げて論じているのがいい。「歌は世につれ、世は歌につれ」とよく言われるが、ここでも指摘されているが、世が歌につれることなどない。しかし、歌が世を構成する大衆に巨大な影響を与えた当時の時代を考えれば、その大衆が世を多少なりともあり得る、そう思わせる関係を深めている。

 読んでいていくつか感じるところがあった。
 一つは戦争を体験した当時の歌の作り手に与えた大きさだ。戦後の復興をなした多くの人びとに、明るさと希望を与えた歌謡曲。それは当時の老若男女がラジオから流れる歌に、一緒に耳を傾け、一丸となって働き、生活していたことにつながる。総じてその結束を歌が支え、世にもまれな休息の復興を成し遂げたのではなかろうか。
 「生きることはすばらしい。それを伝えることが自分の作曲活動のすべてだ」とよく口にしていたのは吉田正。この言葉は戦争による非日常と理不尽と非情を体験していたからのものだろう。
 「異国の丘」はシベリア抑留時代に作られたものと今まで思い込んでいたが、この度の記事で確認したのはやや違う。満州のノンジャン(地名)で急性盲腸を患い陸軍病院に収容され、そこから部隊に復帰するまでのあいだにベッドの上で作ったということであった。
 前述したが川崎出身の坂本九の「上を向いて歩こう」の歌詞がどうして笠間市に立っているのか、についての説明がわかった。2歳の時だが疎開である。母の出身地が笠間だった。大家族だったので一軒家を建ててそこに4年間住んでいたのだ。小学校4年のときに川崎に戻った。
 笠間に結成された後援会が中心になって1965(S40)年に碑を建立している。また笠間の近くのJRの駅では4種のメロディーが奏でられている。
 「男と女のお話」は当時大ヒットした。歌ったのは日吉ミミ。彼女が水戸出身とは不勉強で知らなかった。この歌の歌唱の独特な印象は耳から離れない。この強力な一曲の印象は彼女を生涯縛った。
 同じ路線というかその傾向の歌から脱出できなかったように思う。若くして病死した。後年新宿で気さくな店をやっていたようだ。そこに頻繁に出入りしていたという友人は雰囲気が気に入っていて、亡くなったときにはひどく残念がっていた。
 フランク永井は彼女の「男と女のお話」をカバーしていて、ときどき聴いては思い出す。

 戦争を引きづるという点でもう一つある。朝ドラ「エール」の主人公古関裕而についても記してある。NHK連続放送劇「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」の話。古関の盟友である菊田一夫とのコンビの作品。
 ここでは下記のように記されているが、その箇所を引用させていただく。
 【このラジオドラマはさらに感動的な実話を生む。放送期間中に品川博というラバウルから復員した群馬県出身の人物がNHKに菊田を訪ねた。品川は「鐘の鳴る丘」を聴き、上野駅で戦災児たちの悲しい現実を直接目にし、ドラマの主人公の情熱にいたく感がじ入ったと話す。彼は主人公が実在していると信じたようなので、菊田が創作であることを明かすと、それなら自分たちのカで子どもたちの家を実現してみせる、と決意を述べた。
そして実際に、初め前橋市にドラマと同じとんがり帽子に時計台のある少年の家を建て、次いで群馬県内の別な場所の緑の丘の上、雑木林を開墾して少年の家を建設だという】
 ここで登場する品川さんは、このブログでも何度か紹介した方で、フランク永井とも深い関係がある。前橋のこの施設は現存し品川さんが運営されている。その関係施設の一角に「フランク永井鉛筆画前橋展示室」を常設されており、品川ヤイさん自らが描かれたフランク永井の鉛筆画を展示している。
 品川さんは毎年宮城県大崎で開催されている「フランク永井歌コンクール」(今年はコロナ禍で来年に延期)の入賞者に、描かれた絵を贈与されている。フランク永井の残された歌の遺産を後世に引き継ぐために活動されている方である。
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 ウイリー沖山が亡くなったという訃報。心からご冥福をお祈りいたします。またひとりフランク永井と同時代で活躍した方とのお別れとなった。淋しい限りである。
 フランク永井とは表題のごとく「夜霧に消えたチャコ」でカップリング「そうなんだ」を一枚だけしている。1959(S34)年4月リリース。最初にSP版で発売され、その後EP盤になった。黄色の味気ない文字ジャケットからまもなく、墨+紫の二色写真版になり、若きウイリー沖山の顔がわかる。
 フランク永井と舞台を共にしたかはさだかでない。だが、おそらく、普通の芸能界のありようだった米軍キャンプ時代には、何度かともにしているのではないだろうか。
 ウイリー沖山といえば、ヨーデルだ。このジャンルの歌を日本で歌う、日本で人気を得るというずいぶんとユニークな歌手として知られている。初めて聴いたときは驚いたものだ。
 もちろん、彼はその分野で比類の歌唱を披露したが、当然に当時の洋楽全般を歌っている。カントリーはもとより、ジャズ、シャンソン、ポップスと幅広く歌いあげている。
 一度このコラムで紹介したと思うが、朝日新聞に月間で着いてくる「定年時代」というタブロイド紙で、久しぶりに彼の近況が紹介されているの見て、懐かしさを覚えたものだ。記事「膠原病を克服...「歌こそ命」によると、ご高齢にもかかわらず、現役で歌われていたのだが、膠原病を患っていたとある。
 膠原病といえば、やはり筆者の好きな歌手だった岸洋子を思い出す。おなじ膠原病という難病に長く患わされていた。

 さて、ウイリー沖山の日本の芸能界でのデビューは1933年(S8年)生まれで、フランク永井の生誕の1年後。デビューは1957(S32)年「スイスの娘」である。
 ウイリー沖山がどのような方なのか、彼がどうして「ヨーデル」を得意とするようになったのか。これについては、先の「定年時代」で簡潔に紹介されているので引用させていただく。

 【沖山さんは1933年、アメリカ人の船員と日本人女性との間に出生。だが、戦争が始まると父は日本に入国できず、そのまま生き別れに。「当時は父が『敵国人』ということで嫌な思いをたくさんしましたね。その後、母がインド人男性と再婚。その人にはとても良くしてもらいました」
 戦後、沖山さんはミッション系のインターナショナルスクールに進学。生徒の多くが各国大使館の子弟という格式の高い大学だった。そんな環境だったからか、その当時世界で歌われた最先端の音楽に触れる機会も多く、歌の道に入ったのも在学中のこと。「友達に誘われ進駐軍が運営するクラブのオーディションを受けたのですが、なぜか自分だけ合格しました(笑)」
"この命ある限り"現役で----
 その後は、学校の先輩でカントリー歌手の黒田美治(びじ)が率いていた「チャック・ワゴンボーイズ」のほか、さまざまなバンドに属した後、自らのバンド「ブルーレンジャーズ」を結成。日本全国の進駐軍キャンプやステージを回ったという。「当時カントリー歌手はシャツにジーンズが定番でしたが、スーツでビシッと決めて歌ったのは僕たちが最初じゃないかな」
 進駐軍キャンプには、雪村いづみや平尾昌晃ら、日本芸能界の草創期を彩る面々のほかアメリカ人タレントも多数招かれていた。その中にはヨーデルの名手がおり、それを気に入った沖山さんは自己流でマスター。代表曲の一つで、カントリーヨーデルの名曲「スイスの娘」もキャンプ時代から歌っていたという】

 なるほどですね。手元にはウイリー沖山の曲は少ししかないが、今日はひさびさで聴いてみたいと思う。

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