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 「石原裕次郎・フランク永井・斉条史朗」(PONY 36P1028)である。別項で紹介した「夜のムード~石原裕次郎・フランク永井」だが、この続編のようなもの。
 裕次郎とフランク永井に、さらに斉条史朗を加えたセットだ。フランク永井がPONYのオリジナル企画で登場するテープを、いろいろと取り上げてきたが、これが締めかと思える。
 「夜の酒場で20曲」(PONY-36P1036)というカセットもあり、ここではこの三者にさらに、黒沢明とロス・プリモス、敏いとうとハッピイ&ブルー、ロス・インデオス、森雄二とサザンクロスというムードコーラスが加わったセット。
 これらで紹介されている曲は下記の通りで、多くはダブっている。
 注目は、裕次郎の曲「夜霧よ今夜も有難う」をフランク永井が歌い、「ブランデーグラス」を斉条史朗がカバーしている点。それと「ウナセラディ東京」「ベッドで煙草を吸わないで」について、裕次郎とフランク永井の二人が歌っているところだ。
 裕次郎の代表曲ともいえる「夜霧よ今夜も有難う」はニーズがあったからか、ビクターでも複数テークがある。さらにこのPONYでもいくつかあるようだ。裕次郎が歌ってただよわせたこの歌の雰囲気は強烈であった。それを低音の巨頭フランク永井がどう歌いこなしているか。ぜひさまざまな音源から聴いてみてほしいが、さすがである。フランク永井が歌えば、そこにはそこには別の夜霧よ今夜も有難うの世界がちゃんと広がる。
 「二人の雨」を除いて裕次郎が歌っている曲はフランク永井が全部カバーで歌っているので、比べて聴いてみるのも面白いかもしれない。

【石原裕次郎】
ウナセラディ東京/あいつ/霧にむせぶ夜/二人の雨/誰もいない海
ベッドで煙草を吸わないで/銀座ブルース/よこはま・たそがれ
爪/そっとおやすみ/誰もいない海/あいつ/クチナシの花
なみだ恋/君は心の妻だから
【フランク永井】
今日でお別れ/知りすぎたのね/知りたくないの*/逢わずに愛して
ラストダンスは私と/別離/恋心/赤坂の夜は更けて/女の意地
ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー/ウナセラディ東京
ベッドで煙草を吸わないで/夜霧よ今夜も有難う
【斉条史朗】
ブランデーグラス/ロストラブヨコハマ/夜の銀狐/夜の虫
いつかどこかで/恋女房

 斉条史朗は「夜の銀狐」で圧倒的な人気を得た歌手。筆者は多くを知らないが、独特の歌い方が印象的だ。いい味を出していた。
 当時低音の歌手といえば神戸一郎という歌手がいた。それに三船浩という歌手もいた。彼らはそれぞれ大変個性的な声をもってファンも多かった。だが、いつの日かあまり聞くことがなくなった。
 三船については「三船浩ベスト16」(KING-BO-13)というテープが手元にある。「男のブルース」「夜霧の滑走路」などが代表曲。そう「夜霧の...」というビクターのフランク永井の「夜霧の...」に、まっこうから対抗してさまざまな「夜霧の...」がだされ、このセットにも「夜霧の女」が入っている。

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 西日本豪雨、大阪地震、台風21号、そして北海道地震と日本中がすさまじい災害のなかにある。背後で何があるのか。人間は自然を自在に改変するのだとのおごりに対する、天からの反撃なのであろうか。
 災害は日本だけではないようだ。無数の山火事、多くの強度地震、激しい集中熱射が各地を覆い、多数の犠牲者と回復の見通しがつかないような被害にあっている。こころから被災者にお悔やみを伝えたい。あわせて一国でも早い復旧を祈願する。
 お上は何兆円にも及ぶ武器を新たに調達するようだが、それをすべて災害手当てに回してほしいものである。
 このブログはフランク永井のあれこれをテーマにしたもので、それ以外のテーマに触れるのは本来ではないのだが、日本を覆うこの夏の巨大被害については、避けて通れないのでご容赦のほどを。
 さて、表題のメインテーマに戻るが、毎回に貴重で高度な情報を寄せていただいているKさんからカセットテープ「夜のムード~石原裕次郎/フランク永井」(PONY)を聴かせてもらう機会を得た。Kさんに感謝を表しつつ紹介させていただきたい。
 PONY(現ポニー・キャニオン)が1970年代に独自の企画で多くのカセット・テープ商品を発売したことは、たびたび触れた。フランク永井の歌っているのを発見するたびに、問い合わせたりするのだが、基本的に資料のトレースが困難であることや、当時の情報を知るものが担当にいないことなどから、当然なのだろうが、詳細なデータは得られなかった。
 現在までの筆者の手元に寄せられたものについては、その都度このブログで紹介しているが、PONYカセット商品には特筆するものがある。
 それは、当時PONYがかかえる大手歌手が少なかったことから他のレコード会社との提携で大物歌手を借りられたことだ。独自の企画にもとづいて、オリジナルを用意したり、カバーを歌わせたりした。しかも、多くをPONYが用意した演奏を用いた吹き込みをしたことだ。
 フランク永井については、75曲以上の吹き込みをしており、その半数35曲は所属レコード会社ではビクターからも発売されていないオリジナルという、すごさだ。
 これまでにフラン永井がらみで判明しているPONY製品は下記だ。
 20CPJ-017 最新ヒット20を唄う(TAPE)
 20PJ-0078 ナイト・クラブで20曲(8TRACK)
 20CP-6031 デラックス20夜のムード歌謡(TAPE)
 36P-1106  カラオケファンのためのムード歌謡20選(TAPE)
 8PJ-3144  長崎は今日も雨だった~最新ヒット歌謡をうたう(8TRACK)
 CS-6039-夜のムード~石原裕次郎/フランク永井(TAPE)
 例によって今回のカセット自身にも、正確なリリース年月は表記されていないのだが、1970年代には違いなかろう。
 しかも今回のテープは、ずばり石原裕次郎とフランク永井を並べて取り上げたということだ。当時といっても当時より前だが、日本の低音歌手といえば、フランク永井、石原裕次郎、三船弘であった。
 裕次郎は日活の看板スター。歌はテイチクから大量にだされた。オリジナルとカバーをあわせてフランク永井を超す数を歌ったかもしれない。レコード会社が異なる歌手をこのように並べて作品を出すことなど、当時は思いもよらないことで、PONYだからこそ実現できた夢のような作品だ。
 そんなわけで、ビクターの看板男と日活・テイチクの看板男がおなじテープで、交互にそれぞれ10曲歌う。PONYが用意した演奏の編曲は確かに独自色が強く、若干なじみがないのだが、それでも人気歌手二人の歌唱を満喫できるようになっている。
 だが、この企画は同時に二人の歌についての姿勢と歌唱力の相違をみせつける結果にもなっているのが皮肉だ。
 収められている曲はフランク永井がほとんどをカバーとして歌っているものだから、自信をこめたすばらしい歌唱をしている。裕次郎の曲はそれだけを聴くぶんには、それなりの歌として聴いて気持ちいものなのだが、並べるのはちょっと気の毒というのが著者の受けた感じだ。
 裕次郎は自身も言っているように、俳優であっても歌手ではないと。それは彼の自覚どおりで、生涯俳優として休む暇もないほどの多忙のなかで、周囲から歌わせられたものだ。ただ、彼の場合は天才的なラフな歌い方と天分としてカラッとした声質が、ファンには心地よくとられて、まるで歌が「うまい」ように見えたから、何とも得なことだ。
 本文である俳優業としては3分間の演技として、歌詞を語る。この自然さがよかった。「歌は語るように」という、歌手には至難の技を彼は地でこなした。
 彼の歌の数が増えたのは周囲があれも、これもと歌わしたのも事実だが、独立映画に打ち込んだ時に全財産をそれにぶちこんだことから、金欠になり、歌で稼ぐことに向かざるを得なかったこともある。
 平岡精二が作詞作曲した名曲「あいつ」1958(S33)の旗照夫がオリジナルだが、この語りかけるような典型的な歌を、ここでは裕次郎が歌っている。これは名曲だけに多くの歌手がカバーしている。これを誰もがうなずくように歌い上げているのはフランク永井だ。
 演技として語りかける。俳優の裕次郎はどう歌うのか。これは逆に裕次郎が何を意識したのか彼のいい点が、本来出すべきこの歌ででてない。比べちゃいけない曲を入れてしまったような感じだった。
 黒木憲の名を知らしめた「霧にむせぶ夜」を裕次郎が歌っている。これはフランク永井はカバーしていない。というか、歌ったに違いないが音源が残っていない。裕次郎の「二人の雨」もここで聴けるが、これもフランク永井のカバーはない。
 PONYに感謝し、まだまだフランク永井inPONYが出てくる楽しみを期待しつつ。

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 フランク永井は1985年の年末に世間を騒がした。それからすでに33年が経過した。ファンにとって残念なことに、これを境に舞台でフランク永井を見ることができなくなった。そればかりか、テレビの歌謡番組にも登場することがなくなり、さもフランク永井は昭和歌謡に存在しなかったかのような扱われ方だった。番組があいまいに自主規制したのだ。「フランク永井の長い封印」時代に突入したのだ。
 喫煙は古来からの人の営みに密着した存在そのものだったのが、ここ数十年になるが喫煙者はまるで反社会人のような扱いになっている。筆者はタバコは吸わないが周囲の大半は喫煙者だった。近年タバコの生産が国家独占になりその品質を一定にするために手を加えたためか、確かに喫煙者は肺がんになる確率が多いと聞く。だから現在は吸わないほうがいい。
 しかし、喫煙者をここまで反社会的に扱うのはいかがなものだろうか。少し横道に反れたが、フランク永井の長い封印時代には、フランク永井ご自身や関係者とファンがまるで今の喫煙者のような雰囲気にあった。
 フランク永井は戦争が集終わって10年、1955年にデビューした。1957年の「有楽町で逢いましょう」で爆発的な人気を得て、1961年には「君恋し」で日本レコード大賞を受賞した。昭和を代表する歌唱力の持ち主として、安定的な大衆からの支持を得ていた。
 これが職業病ともいえる喉のしつこい障害に悩まされ、往年のあの輝くビロードのような声が出にくくなっていた。フランク永井の声は「低音の魅力」と呼ばれていたのだが、実際は彼が持つ幅の広い音域のコントロールのなせる業の一面の魅力で、ファンは低音から高音まで質を変えずに一直線に伸びる高音の美しさを注目していたものだ。
 後年オクターブを意識的に下げて、低音を強調する歌唱が歳相応の彼のカバー技巧として評価されたのだが、一方では「ファンが以前と変わらないあの当時の声で歌って欲しい」という声も気にしていた。同様なファンの声を聴いて「また逢う日まで」の歌仲間尾崎紀世彦などは「そりゃ分かるけど、基本的に無理なんだ。私なんかはむしろ、毎回歌い方を変えているぐらいだ」といっていた。
 フランク永井は歌謡界におりながらも、趣味は初期は自動車や野球、後はゴルフとお酒ぐらいだったようで、基本的に人生のすべてを歌に傾注していた。喉と声は歌手のかけがえのない命。その喉と声が思うように出ない、出せないといのは嫌でも彼を悩ませたのはいうまでもない。
 当時のテレビ出演や1985年に開催した「歌手生活30周年ライブ」を聞き返せば、ひしひしと伝わってくる。現在では歌手という職業の人はさまざまな対処法、予防法を気にかけ、その実施を欠かさない。だが、当時は歌手は水商売、売れることが花として、タバコや酒をはじめとする遊びも仕事のひとつのような雰囲気があった。フランク永井も今のような喉と声を手当てする処方を実施していたならば...という思いを持つ。
 さて、その封印が解けたのは2007年。NHK-BSがシリーズ「昭和歌謡黄金時代」で「フランク永井・松尾和子」を放映したことだ。ファンはその番組をみて、涙を流して喜んだのは言うまでもない。フランク永井の昭和歌謡に残した大きな遺産を余すところなく、率直に評価したものだった。そして、フランク永井の盟友である松尾和子についても、同様にきたんない評価を与えた。
 これを観たファンは、ようやく長い冬の時代が明けると思った。その期待に全面的に応えたのは2009年に同じNHK-BSで放映された「歌伝説~フランク永井の世界」である。これはフランク永井の生涯、歌唱についてのすべてを丁寧にとりあげて、多くの人たちが忘れそうにあっていた昭和歌謡に、フランク永井とはこのような人であったと示してくれた。
 紹介した2つの番組の影響は絶大で、他の放送局での歌謡曲番組も「封印」などなかったかのように、普通にフランク永井を取り上げるようになった。しかし、20年という期間の影響は甚大で、ある意味「遅かった」ことが悔やまれる。
 フランク永井のデビューを知り、その歌唱のすばらしさをリアルタイムで知っているファン層の年代は高齢になっているからだ。若い人々にも多くのファンはいるが、全体としては知るのが遅すぎた感がある。
 さて、押し入れの奥に20~30年程度前のVHSテープが何本かあって、その中に当時の歌謡番組を録画したのもある。それを見てみようとトライしてみた。
 まだ数本しか見ていないが、基本的に上記に記した著者の印象を裏づけていたといってよい。「戦後50年スペシャル究極の昭和歌謡史」という長い番組では、フランク永井は登場しない。
 「歌う昭和歌謡180分」では「君恋し」を歌うシーンが入っていた。「昭和歌謡大全集」という番組があった。1993年の第6弾では「羽田発7時50分」「夜霧の第二国道」の2曲を歌っている。
 また、番外的に「平凡スター40年」というのがあった。平凡はやはり、美空ひばりであり裕次郎であり錦之助。フランク永井も大いに関係したのだからどこかにいるはずと、眼をこらして見ていると、平凡が主催して毎年行われていたスター総出演の野球の箇所で、平凡のネームプレートを付けた箇所に登場していて、ホッとした。恩師吉田正の1000曲記念リサイタルのシーンでの一コマも。
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 暑いさなかの8月、最近ほとんどみることがないのだが、NHK火曜日夕刻の五木ひろしが先生になる歌謡番組がつけたままのテレビでやっていて、ゲストの福田こうへいが「有楽町で逢いましょう」を歌っている。
 おやっと思って聴いた。しばらくしてゲストの島津亜矢が五木と「東京ナイトクラブ」になった。あまり見なかったわけが五木の歌唱がやや食傷ぎみだからだったからだが、島津はうまいのでどうこなすのかと。
 ごたくはあさておき、こうしてフランク永井が残した名曲をときたたでも、取り上げて流してくれるだけでもありがたいことなのだ。五木よごめん! 下記をみれば五木の登場が突出しているのがわかる。
 別項で著者の身近にある「東京ナイトクラブ」の過去に歌われたデュエットのリストを紹介したことがある。それは以下の20組だった。
  フランク永井/青江三奈  フランク永井/島倉千代子
  フランク永井/八代亜紀  キム・ヨンジャ/湯原昌幸
  冠二郎/伍代夏子     宮路オサム/瀬川英子
  五木ひろし/石川さゆり  五木ひろし/木の実ナナ
  高橋英樹/長山洋子    山川豊/八代亜紀
  水森かおり/三山ひろし  石原裕次郎/八代亜紀
  川中美幸/吉幾三     竹島宏/瀬川瑛子
  田川寿美/北山たけし   藤あや子/山川豊
  藤田まこと/八代亜紀   武田鉄也/谷村新司
  門倉有希/藤原浩     林あさ美/鳥羽一郎
 その後、散らばったのを整理していてみつかったのは8組。
  五木ひろし/島津亜矢   都はるみ/里見浩太郎
  田辺靖雄/九重佑三子   五輪真弓/五木ひろし
  河合奈保子/森進一    千昌夫/伍代夏子
  三善英史/??      山内惠介/川中美幸
 三善英史の相方は分からないのが残念。
 先日に「情熱、熱情、感激」をひとりじめにしたような西城秀樹が惜しまれながらも亡くなった。こころからご冥福を送りたい。その西城を追悼するとのことでyoutubeで貴重なシーンがよみがえった。
 フランク永井が舞台を降りた1985年の夏にTBSから放送された「吉田正2000曲記念~限りなき明日への歌声」の終盤の箇所だ。ここでは感動の場面が収められている(https://www.youtube.com/watch?v=bSaZOGXgbkQ)。
 フランク永井の恩師吉田正を扱った番組としては特筆すべきもので、門下生だった歌手が勢ぞろいした。そして当時売れっ子の若い歌手が花をそえていることだ。
 フランク永井、松尾和子、橋幸夫、吉永小百合、和田弘とマヒナスターズが当時に出演したのも最後。若い世代では五木ひろし、西城秀樹、河合奈保子、近藤真彦の顔が見える。
 最後は「寒い朝」の全員合唱で締めくくられたのだが、そのまえに「東京ナイトクラブ」が次のようなコンビでデュエットされる。
  松尾和子/西城秀樹    松尾和子/五木ひろし
  松尾和子/近藤真彦    フランク永井/河合奈保子
  松平直樹/河合奈保子   橋幸夫/河合奈保子
 この歌はゴールデン・デュエットという呼び方を独り占めした松尾和子が「...もうわたし、欲しくはないのね...」と歌うあたりが、あまりにもつやっぽ過ぎるとのことで、放送自粛という噂がとんだ。今どきは考えられないことだが、作詞家佐伯孝夫は意識して放送コードギギギりの歌詞を挿入した。
 しかも大人の男女がフレーズを交互にやり取りするというデュエットの形式を吉田が使う。男女二人で歌うという方式は以前もあったが、この掛け合い方式がナイトクラブのムードを盛り上げた。
 この「東京ナイトクラブ」がその後の大人のムード歌謡デュエットの先駆けになって、「銀座の恋の物語」など次つぎとでてくるようになったものだ。ゆえにいまではそうしたことへの敬意が表されるほどの位置にある。

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 暑さが異常と言われる今年。台風も連続して日本を襲うよう間の休日はあいまのようだが、比較的しのぎやすい気温で助かる。蝉がなぜかベランダにとまり泣きだした。あんな小さなからだから、どうしてこんな音量が出るのだろう。何が気に入ったのかしばらく泣いていた。
 都会だと蝉の声が遠くで聴こえていても、木々が少なくなったせいか、蝉の声を落ち着いて聞くことが少なくなった。懐かしいような、それでいて急いで過ぎていく夏の象徴のようで少しばかり寂しさを感じさせる蝉の声だった。
 蝉の声をを聴きながら、ふと大音量で蓄音機を回したくなった。蓄音機もずうたいが小さな癖に、どでかい音を発する。「有楽町で逢いましょう」に針を落とした。思ったような音が響いた。
 だが、ちょっと大きな音はご近所迷惑というご時世で、窓を大きく開いているので、自粛して一曲だけでやめ、その横においてあるラジカセで、カセットテープを使うことにした。
 テープをひろげる。改めて見てみると、最近は整理もしていなかったが、およそ40本以上ある。これぞと感じるままに、片っ端からかける。表がおわれば裏に入れ替えて、演奏ボタンを押す。カシっ(この音さもオレが押してスタートさせるのだという感じを抱かせる)という音を発し、しばらくすると次々に曲が流れる。
 普段はCDやデジタルなんたらで聴いているのだが、カセットで聴くのもなかなかいい。やはり、レコードと同じアナログであることが耳に優しいのかもしれない。デジタル音は確かに驚くほどのクリアさを持っている。フランク永井の歌は基本的にアナログ時代のものなので、いくらデジタル化されていても、もとがアナログなだけに、ノイズが無くなっているとか変換時にメリハリを技術的に調整しているとかの相違しかない。
 しかしデジタル時代の電子的に作成された最近の楽曲を聴くと、その相違が明確だ。あまりにも、クリアで、音の分離というか、メリハリの付け方は究極まで作りこまれている。これだけを聴いている若者は普通なのかもしれない。だが、筆者の年代、いや個人差かも知れないが、ややこたえる。
 疲れるというか、聴き続けるのはきついところがある。
 それが、カセットテープの音だと妙な落ち着きというか、安心感が得られる。好きなフランク永井の曲を聴いていると、いくら聴いても飽きないし、疲れが飛ぶような気になる。実際には、なにかしながら聞くので、BGMという扱いで、気を集中して聴くわけではない。それにはぴったりという感じだ。
 カセットを眺めていたら、Best Music In Cassette とタイトルに書かれているのが2つあった。緑と赤。緑はフランク永井の写真がついている。赤は青江三奈だ。いずれも、中身は全く同じで、裏表に3曲づつ計6曲が入ったもの。
 ①伊勢佐木町ブルース(青江三奈)、②加茂川ブルース(フランク永井)、③帰り道は遠かった(チコとビーグルス)、④花と蝶(秋山実とビクター・ギター・アンサンブル)、⑤恋の季節(ナショナル・ポップス)、⑥ブルーライトヨコハマ(松浦ヤスノブとムード・キングス)
 これは表紙に懐かしいナショナルのロゴが入っているように、現パナソニックである松下電器製のカセット再生機(ラジカセなど)にサンプルでついていたものだ。当時はレコード・プレーヤー(ステレオ装置といった)を買うとサンプルのレコード盤がついていた。
 カセット同じように特製の盤がついていたのだ。松下電器は当時ビクターに資本を提供していて、というより一時は親会社的な存在だった。だから、当時ビクターの看板でもあったフランク永井はこのサンプルによく使われた。
 松下が親会社だった時代には、当時テイチクも傘下で、いっそ「パナソニック・レコード」に統合しようといううわさまであったほどだ。この業界は水商売だから何年ごとにそんなことを繰り返しているのが常なわけなので、実現はされなかった。
 ソフトバンクがどうするなどというときも話題になったが、フランク永井の楽曲が「ビクター」のレーベル以外で出るというのは、ピンとこないし、ついていけない。基本的にレーベルは変えないでほしい、とファンは思うのではないだろうか。これだけは、外で言ってもどうにかなるわけではないが。
 などと、いつものように横道にそれてしまったが、カセットから流れるフランク永井を聴きながらつらつら思い起こした次第でした。
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 ビクターの専属作詞家であった宮川哲夫。作詞家で専属といえば絶対的な地位にいたのは佐伯孝夫だ。佐伯は新聞記者出身だが戦前からビクターの押しも押されぬ作詞で「無情の夢」からはじまり、ヒット曲はキリがない。フランク永井にも「有楽町で逢いましょう」を提供したのは皆が知るところだ。
 戦後も大活躍した。フランク永井が登場した時期はビクターから宮川哲夫がいた。フランク永井の恩師吉田正とも組んで多くのヒットを飛ばした作詞家だ。宮川を取り上げるときにいつも代表曲として挙げるのは「街のサンドイッチマン」(唄:鶴田浩二)と「ガード下の靴磨き」(唄」宮城まり子)だ。
 フランク永井との関係をもう少し深めてみよう。
 フランク永井がジャズ歌手で大成することへのこだわりが固く、恩師が流行歌への転向を進めていたのだが、なかなか乗らない。だが、あるときついにフランク永井が「先生の作った《街のサンドイッチマン》のような曲なら歌ってもいい」といったという。
 吉田正はフランク永井に作った「有楽町で逢いましょう」のヒットを得て「自分の肩書を作曲家と書けるようになった」といっているが「街のサンドイッチマン」の成功で「自分は作曲を続けていける自信がついた」と残している。
 だからフランク永井が「その曲のようなら」といったのを聞き、ひそかに喜んだ。フランク永井の唄的な発声や歌への姿勢などを訓練している時に、フランク永井の声こそ吉田が考える日本の都会的な歌が生まれるのだと、確証的な信念を心に固めていたからだ。
 そこで一時鶴田にも歌わして練習に使っていた「場末のペット吹き」を流行歌転向第一号にあてた。発売時に注目されはしなかったが、目指した華やかの都会の裏でうごめく人たちの息遣いをフランク永井はうまく表現した。この作詞が宮川哲夫のものだ。
 「バーでいえば佐伯孝夫は銀座だが、オレ宮川は新宿のバーだ」という表現のように、明るくおしゃれで前向きな未来を見つめる佐伯孝夫の表現する都会。それに対して宮川は都会のひねるが入る。都会の裏方を支える多くの人がおり、悲喜こもごもの生活感も底辺をみつめる。
 都会の悲しさ、逃げ出したい、グチ、めそめそといった暗さ、据えた匂いが宮川の独断場だ。「夜霧の第二国道」では「つらい恋ならネオンの海へ...」となる。つづく「羽田発7時50分」では「星も見えない空、淋しく眺め」と、都下的なテーマではあっても、佐伯の描き出す都会が表なら、常に裏に徹する。
 1959(S34)年「好き好き好き」は宮川の作品ではないがヒットする。このB面が宮川の作った「らくがき酒場」。別項でも紹介した「たそがれ酒場」の連作でもないのだが「らくがき酒場のらく書きにゃ、ほんとの言葉が泣いている...」という塩梅だ。
 フランク永井には多くの詞を提供しているが、やはり特筆は「公園の手品師」であろう。宮川が故郷である大島から出てきて最初に移り住んだ町田。ここで作詞と教員のふたまたからビクター専属になるのだが、この地で散歩した公園でのシーンを詞にしたという。歌謡曲の作詞は「詞」と書くが「公園の手品師」は「詩」ではなかろうか。
 吉田正の作曲も飛びぬけているが、この詩は宮川の書く都会の裏とはまた異なる、イメージの大きく膨らむ世界がある。時代という概念を超えた歌だ。いつ聴いても古さ、新しさを感じない、そのような特別な傑作である。
 宮川は多くのヒット曲を作っておきながらも、彼の性格から他人との打ち解けた交流は残されていない。作曲を共にした吉田や渡久地政信や当時のディレクターの方がたとも、酒を飲んだりしたことはなかったようだ。だから、フランク永井や鶴田浩二、橋幸夫や三田明ともない。
 細々とだが接点があったのは、ビクター専属になる前の同報誌仲間など。石坂まさを、石本美由紀や星野哲郎たち。「魂で詩を書いてるか」が宮川の口癖だったという。
 そんなことをつらつらと思い起こしながら、お酒をちびちびやるのもどうだろうか。

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 フランク永井は東京オリンピックの前年に「たそがれ酒場」を歌った。しかしこれはB面「公園の手品師」が圧倒的な人気で、やや裏に隠れてしまった。
 この時期というのは「有楽町で逢いましょう」が大ヒットした時期。フランク永井がいきなり表に出たもので、フランク永井ってどんな歌手なのかと興味が広がった時でもある。1958(S33)年のビクターの「売れた」リストは次のごとくだ。
 街角のギター(フランク永井)    公園の手品師(フランク永井)
 東京詩集(鶴田浩二)        大阪の人(三浦洸一)
 西銀座駅前(フランク永井)     ラブ・レター(フランク永井)
 釧路の駅でさようなら(三浦洸一)  こいさんのラブ・コール(フランク) 
 泣かないで(和田弘とマヒナスターズ)俺は淋しいんだ(フランク永井)

 テレビが累計で百万台売れた年。一万円札が出た年。東京タワーができた年。それが1958年。
 当時の流行歌の勢いというのが分かろうというもの。ビクターは男衆5~6人だけでやってんのかい、と聞こえてきそうだ。「公園の手品師」は1956年にABCホームソングで異常な人気で倍の期間の放送をしたもので、これを「有楽町...」人気で急きょ売り出したものだ。そのB面が「たそがれ酒場」(清水みのる作詞、刀根一郎作編曲)。
 「かえり船」「捨てられた街」を書いた清水みのると刀根一郎の曲だが、たそがれ酒場は「暗い」歌だ。フランク永井は別項でも書いたが、今では信じられないような暗い、沈んだ、絶望のような歌をいくつか歌っている。あの低音で全編真っ暗く歌う曲など、誰が聴きたいか、といいたくなるような曲だ。
 ふがいない男が朽ちた止まり木で強い酒をあおる。年齢は不詳だが、自分の気持ちがたそがれ時期になっているに、それが自分でなく行く酒場がそうであるように思いたい...、とまぁ、どうしようもない若い時の一時の落ち込んだ気持ちを描いたものだ。
 だが、幾度か聴けば切ない気持ちが分からないでもないような気になる曲になる。それがフランク永井が歌う「たそがれ酒場」。
 この「たそがれ...」というのは歌にしたかったようだ。デビュー間もなく「たそがれシャンソン」を歌い、東京タワーを歌った「たそがれのテレビ塔」、後に「たそがれのビギン」(これは水原弘やちあきなおみの歌ったのとは別)、「たそがれの渚」と歌っている。
 たそがれの...は、よほど工夫がないとそのまま明にたいして暗、前にたいして後のイメージが付きまとう。シリーズで売り出したいというには、やや弱かった。
 たそがれは黄昏、逢魔が時、トワイライト。鳥目の筆者には酷な時間帯だ。魔が差すような異様な時間帯というかゾーンは、人をふと迷わせる。こわい。それゆえに、人をどこか惹きつけるものがあるのも事実。
 この「たそがれ酒場」は島津悅子も同名異曲を歌っている。古い年代には同名映画を覚えておられる方もあろう。内田吐夢監督作品。大衆酒場を舞台に繰り広げられる人間模様が描かれた。
 ここでは、もう一つ、小説を紹介したい。半村良著「たそがれ酒場」。半村良といえば「戦国自衛隊」を想起するが、伝奇SFの先駆者であり、直木賞作家で一昔前の、しかも気骨ある作家。カバーするフィールドが広く多方面で活躍した。
 「たそがれ酒場」は作者のどの位置づけにあるのかは分からないが、気楽に読める小説だ。主人公の年齢が60歳ほどで、神田駅に近い場所のいわくあるホテル(旅館?)+中華料理店+バーのマネージャー。60歳がたそがれ年齢かどうかは異論もあろうが、小説ではそうだ。
 若いころから様々な体験をして、業界の甘い辛いを積み重ねてきたゆえに得た豊富な知識と心構え。親友、知人、お客とも軽妙なやりとりが作者ならではの味わいを出している。読んでいて楽しい。テレビドラマをなぞるようなテンポで、あれこれさまざまな人間模様が展開する。
 フランク永井の「たそがれ酒場」のような暗さはない。
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 1962(S37)年といえば、まだデビューして7年目。前年に「君恋し」が日本レコード大賞を獲得、この年は「霧子のタンゴ」が大ヒットした年だ。テレビの出荷台数が1千万台に到達したばかりだが、2年後の「東京オリンピック」開催に向けて、国中の意気が上がっていた。
 この年に、フランク永井は「モスクワの夜は更けて」(B面は「黒い瞳」)を出している。洋楽カバーであることから、盤IDはPV-19で当時のモノラル・シングル盤のIDであるVSと異なる。編曲はいずれも竹村次郎。A面はデキシーランドジャズ仕様。B面はタンゴ仕様だ。演奏はA面がビクター・デキシーランダーズ。B面が小野満とシンフォニック・タンゴ・オーケストラ。
 社会的にロシア民謡が広く流行っていた。「カチューシャ」「ポーレシュカ・ポーレ(愛しき草原)」などの曲は覚えておられる方も多いと思う。歌声喫茶では定番だった。
 こうした社会的なニーズを背景にして各レコード会社も競って、人気歌手にロシア民謡を歌わせる。フランク永井は当初から労音での人気があったことから公演でも歌ったと思われる。それが発売された。盤には「外国曲」と表記されているが、誰のが知るロシア民謡である。外国曲といえばデビュー曲「恋人よわれに帰れ」をはじめビクターの多くが井田誠一の訳詞だ。
 時代を想起させるこうした曲を、たまに聴いてみるのもおつなものではないだろうか。
 そのロシアでは昔から「ロシア民謡」は特別な思いをもって、おそらく国家的な文化遺産として手厚い保護を受けていて、さまざまな音源だ守られている。演奏と合唱では赤軍合唱団、アレクサンドロフ・アンサンブルが有名だ。かれらの力強い圧倒的な声量による歌い上げは、まさしく聴いてパワーを感じさせる。
 ソロの歌手も昔から多く出ていて、録音ができるようになった時代からの古い音源も残されている。一世紀半の歴史を誇る「ボルガの舟唄」もロシア民謡。世界に広く広めたのはシャリアピンの歌唱とそのレコードだ。イリヤ・レーピンの絵画「ヴォルガの舟曳き」とともに印象深い。
 さて、本題の「モスクワの夜は更けて」「黒い瞳」だが、この歌を歌ったひとりにディミトリィ・ホロストフスキーがいる。彼は惜しくも昨年暮れに音楽人生の半分ほど暮らしたロンドンで亡くなった。彼は知る人ぞ知るロシア出身の世界的トップのオペラ歌手。端正な顔立ち、髪はプラチナブロンドでやや長め。全身が楽器のような体格で、顔面の筋肉はすべてが歌うために無駄が無く、バリトンの声が美しい。
 彼の歌は聴く人の心をわしづかみする。以前から同じオペラ手のアンナ・ネトレプコとのデュエットで「MOSCOW NIGHTS」を歌っている。モスクワ赤の広場でたびたび夕暮れコンサートをしているが、そこでの披露が絶大な人気だ。会場のオーディアンスもすごい。一緒に歌い、涙をぬぐう。最高の感動に皆がこれ以上ないといった満足の表情だ。至福のひとときを映像は映し出す。
 「MOSCOW NIGHT」につていくつもの映像を残している。彼は「DARK EYES(黒い瞳)」も残している。日本人が耳に残っている「カチューシャ」もある。
 彼はオペラ歌手なのだが、カバーするフィールドは広く、その分野ごとに多くのファンを持っていた。訪日があったかどうかは知らないが、偉大な歌手が若くして病死したことはまことに残念である。ひとそれぞれ皆がそれぞれ多くの困難を抱えている。そうした時に、ディミトリィ・ホロストフスキーを聴いてみたらいかがだろうか。人間の尊厳と中なら浮き出るような勇気が得られると思う。
 ずいぶん前にディミトリィ・ホロストフスキーを知らせてくれた友に感謝!
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 石原軍団は石原裕次郎を中心にした活劇俳優グループ。ボスの石原に感服する人たちで占められ、西部警察などのテレビドラマで活躍した。中でも渡哲也はその信服ぶりはずばぬけていた。この軍団はさまざまな挑戦をするが、皆歌も歌った。
 渡哲也も歌ったというか歌わされたというか、ポリドールから多くの歌を出している。なかでも「くちなしの花」(水木かおる作詞、遠藤実作曲)は名作だ。「くちなしの花」はフランク永井もカバーしている。1975年デビューして20年、のりに乗ったこの時期にフランク永井は多くのアルバムを出した。多くのカバーを歌っているが、その中の一つだ。「ベスト・コレクション75」にはじめて収められ、その後多くのアルバムに乗せられている。
 「くちなしの花」は1973年に渡が歌った大ヒットだ。1976年に「やくざの墓場 くちなしの花」でも使われている。この歌は歌詞や歌だけを聴くと、病弱な愛する人と可憐な花クチナシをかぶせたもので、具体性は聴く人のイメージに投げられたものだ。おもわせぶりな歌詞と遠藤による素朴・シンプルで誰にでも歌えそうなメロディーが抜群にいい。それを素朴を地で行くような渡の歌唱というか、そのまま飾らない歌がピッタリだった。はまり歌である。
 だが、この「くちなしの花」の誕生には、実は深いドラマがある。宅島徳光海軍飛行予備中尉の遺稿集『くちなしの花』、遠藤実『私の履歴書』が詳しいのだが、それには触れない。当時まだ郵便局の職にあったという『アカシアの雨』(これもフランク永井がカバーしている)を書いた水木かおるが、遺稿集に触発されて、その実ドラマにはまったく触れずに書いたというのが「くちなしの花」なのだ。この点を賞賛したい。
 小説は具体性を掘り下げて実情を展開していくが、詩や詞の世界では別の手法がある。あくまでも視聴者・読者のひとりひとりの想像力に投げかけるもので、事実や具体性を限りなく押さえて表現する。いかに想像力を刺激するか、ひとりひとりの感性を触発させるか、誰しもがもつ秘められて経験を思い起こさせるかなのだ。
  大ヒットした「くちなしの花」は同じポリドールの先輩後輩の関係で牧村三枝子の求めに応えて、渡は軽く譲る。渡はもともと自分は裕次郎と同じく、歌手が主ではなく俳優だから、とこの点は割りきっている。裕次郎も渡も自らを歌がうまいと思っていたわけではない。それ自身がファンから見たら飾らない歌い方が独自の色に感じられた。牧村はこの歌を心底好きで求めただけに、それなりの味の出し方に成功して、長期のヒットを継続することになった。
 表題のテーマから離れてしまったが、その渡哲也がフランク永井の大ヒット曲「君恋し」を歌っているという紹介だった。
 フランク永井が歌った「君恋し」自身がカバーで、裕次郎や渡が歌った「君恋し」も数十年も前のはやりうたのカバー。フランク永井の「君恋し」のカバーというわけではない。二村定一が歌った「君恋し」はその曲の優秀性ゆえに多くの人に歌い継がれている。フランク永井の「君恋し」が異色の注目を浴びたのは、何といっても編曲者寺岡真三のジャズ風味付けの秀逸性にある。それを当時伸び盛りのフランク永井が、他を寄せ付けないスィングで歌い上げた。これが日本レコード大賞に実を結んだもの。
 つまり、フランク永井が歌った「君恋し」、寺岡真三編曲をベースにしたカバーも多くの歌手が挑戦しているが、一般的には原曲の「君恋し」をベースにしてカバーしている。ひばり、裕次郎、渡の「君恋し」もそうである。
 1977発売「渡哲也ゴールデン・ダブル・デラックス」に掲載された一曲である。
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 前回に「しまなみ海道」を歌ったフランク永井「でっかい夢」を紹介した。普段であれば情景豊かなこの一帯が、突然襲いかかった西日本豪雨で大きな被害を出している。九州から近畿を覆い多くの箇所に甚大な傷跡を残した。被害を受けた関係者にこころからお見舞いを申し上げるとともに、早い復興をお祈りします。
 さて、当「文四郎日記」をご覧いただいている方がたで、10月の「第10回フランク永井歌コンクール(&グランド・チャンピオン大会)」に歌の披露でエントリーをご予定の方がおられたら、ここ数日中に申し込みされるようお願いします。
 7月1日から申し込みを開始したのだが、記念すべき第10回ということもあり、記念して開催予定の過去9回のチャンピオンによって競われるグランドチャンピオン大会があるために、申し込みが多くきております。
 今年は先着110組で締め切りとなります。
 ここから今回の本題。前回の「でっかい夢」「道後の女」のように、地域密着でのイベント、あるいは観光推進でフランク永井はいくつも曲を出しています。これらは「でっかい夢」のようにビクターから正式にリリースしたものもあるのですが、PR版として限定的な販売がなされたものの多数あります。
 例えば同じ瀬戸内海を歌った「瀬戸内海ブルース」などです。
 PR版と正式版の両方も発売されたというのもあり、そのひとつが今回の「長崎鼻慕情」(PRA-10455)です。だが、正式版は題名を「慕情、南国の女(ひと)」(1972:SV-2234)。B面はいずれの盤でも「哀愁のカルデラ湖」。A面は青山喬作詞、B面は宮川哲夫作詞。作編曲は吉田正。
 フランク永井データブックを編纂したのが2010年なのですが、この時点では「長崎鼻慕情」の存在は知りませんでした。同じフランク永井ファンがその翌年に所有していることを知りましたが、ジャケットも含めて詳細は最近までわかりませんでした。
 しかし聴いたこともない盤となると、どうしても知りたいのは人情というかファンの性(さが)。ただ、B面が「哀愁のカルデラ湖」であることは分かっていたので、データブックにあたって検討を付けると「長崎鼻慕情」はもしかして、A面の「慕情、南国の人」なのではないかという疑いがありました。
 一方は正式盤だが、一方はPR盤。タイトルを変えてということはままあること。この謎は近年に盤を入手することで判明、やはり予想通り同一巨でした。
 だだ、新たな疑問も。それは「長崎鼻慕情」のジャケットのビクター・ロゴです。
 西郷と同じところの知人にも依頼していたのですが、てがかりがないまま。日本の西方、まして九州となるとまるで何も知らない筆者は途方にくれるばかり。
 だが、後にいろいろとうかがえば、歌に歌われているように素晴らしいところだと分かった。薩摩半島の南端で温泉で有名ないぶすき(指宿)。長崎鼻はその端の名所。菜の花畑が美しくウナギの養殖もしていると。
 そしてB面で歌われているカルデラ湖は池田湖。双方から開聞岳が夜景に美しくジャケットでその写真が使われている。池田湖はかつて、ネス湖のネッシーのようなものがいると話題にもなったところで、イッシーが有名。
 長崎鼻の鼻はどこから命名されたのか、岬の形状なのだろうか。鼻という文字のインパクトは大きい。そこらを知る人がフランク永井の歌を聴いて思い受けべるものと、まったく聴いてイメージだけを膨らますものとでは、きっと大きな違いがあるに相違ない。
 それにしても、いろいろと想像をめぐらす「長崎鼻慕情」でした。

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