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 SPレコードというのは、若い方には当然死語でしょうね。フランク永井の最後のSPレコードは1960年1月に発売された「鈴懸の頃」です。盤IDがV-42000です。だが実際の発売の終了は少し違っていて、翌2月に発売された「好き好き好き」です。盤IDはV-31989です。恐らくIDの取得は企画が決定した時点ということで、発売日には多少のズレが起こることがあるということです。
 つまり、ちょうど50年前にSP発売は終了したのですね。ビクターだけでなくコロンビアとか他のレコード会社も、この時期に一斉にSP時代を終えてEP時代に移っていったものと思えます。
 SPレコードの収集については、2013年に当ブログで岡田則夫著『SPレコード蒐集奇談』(ミュージック・マガジン発行)という名作を紹介しました。
 私自身もフランク永井でなかなか手に入らないSPレコードを入手しようと、広くレコード店を歩いて探したことがあるので、大変興味をもって読みました。知者の岡田さんとは一度お会いして、ディープなお話をいろいろと伺ったのが思い起こされます。
 上記に移した写真にある書籍は「蓄音機の時代」です。これは加藤玄生さんの著作物です。ご本人は蓄音機の発明された初期のSPコンテンツであるクラシックレコードに詳しい方です。同時に蓄音機の登場時期から一時代を築き終焉を迎えるまでの変遷も、深く研究されて書いたのがこの書籍です。
 日本とのかかわりとかコンテンツをつくるレコード会社の登場などをさまざまなエピソードを添えて紹介しています。また、蓄音機のメカニックについても、ただの好事家でないレベルの、ここでしか聴き得ない貴重なうんちくを知ることができます。
 蓄音機とSPレコードについて、ぎゅっとコンパクトにエッセンスを詰め込んだ書籍で、大変貴重なものだと思います。

 以前にも書きましたが、蓄音機は電気的・電子的なものを一切使用していないものなのに、いかにして音を忠実に、しかも吹き込み時の実際の音量をはるかにしのぐ大音量で再生できるのか、という疑問と興味がありました。
 写真のものは私の愛用の実機です。1920年代にドイツあたりで、当時有名なビクター系の蓄音機のライセンス製造をしたものではないかと思われます。
 購入して間もなく、故障しました。蓄音機愛好の仲間でその筋の第一人者が、これはガバナーの故障だと断じ、重要な部品を新たに作成して直してくださいました。その部品を組み立てて正常に稼働できるように調整するのに、異常なほどの手間を要したのを覚えています。
 いざその箇所が再度故障したらという想定で、私自身もくみ立て直しに幾度もトライしたことを覚えています。
 蓄音機の動力はゼンマイなわけですが、最低でも年に一度以上は、巻いて解放してあげる必要がありまう。そうしないとゼンマイがグリスで固まり、正常な動作がその後保証できないことになる、とのことでした。
 そのようなことで、ときどきは蓄音機を使ってみるわけです。近年は特に調整もなく、立派に稼働しています。

 フランク永井のSPレコードはレアな数枚を除いて、ほぼ手元にあります。収拾の過程でおやと思った他の歌手の歌をも購入しました。ただ、昨年にダブった盤やフランク永井以外の盤の大半はまとめて50~60枚ほど放棄しました。
 さて、この度は「ビギン・ザ・ビギン」(ビング・クロスビー)とか「ケセラセラ」(ドリス・デイ)というフランク永井以外の盤を数曲と、フランク永井の数枚をかけて聴きました。
 やはり好きな「東京午前三時」「夜霧の第二国道」「有楽町で逢いましょう」は欠かせません。「東京ダーク・ムーン」もかけました。
 いいですね。声が素晴らしいです。うっとりします。
 蓄音機は前面の扉を使って音量を調整するのですが、全開ではご近所迷惑を気にしてできません。ゆったりと惹いたコーヒーを口にしながら、一面およそ3分聴き入ります。
 盤ごとに針を替えます。2枚程度でクランクを手巻きしてゼンマイを閉めます。
 SPは面白いことに、プレスされた盤は全部同一だとしても、再生をしたときの「音」は、どれ一つとして同じではないのですね。指紋のようなものです。
 再生する蓄音機、ピックアップにあたるサウンド・ボックスと先端の針が違います。針の性質も無数にあります。竹とかサボテンも使われます。そして、なにより針の猛烈な速度での劣化があります。盤そのものも毎回劣化が進みます。針と盤の溝の接点は絶妙です。熱を発してレコードの素材のシェラックを融かし、冷えて若干の再生が成されます。
 こうした多くのパラメータの相違から二つとない「音」が放たれるのですね。それが、聴く人の耳には心地よさを感じさせているので花でしょうか。CD慣れした耳にはノイズにはびっくりするかも知れませんが、不思議なことに、聴いていると脳内のフィルタが働いて気にならなくなるから不思議です。

 さて、1960年にSPの時代が終わります。SPが果たした人類(?)への貢献に敬意を払い、フランク永井は、ズバリ「78回転のSPレコード」という曲を歌っています。1960年8月:VS-369です。これはSPではなく、EPです。
 前出した岡田さんもこの曲をみつけて、おっ!と目を向き「こんなのを唄ったんだ」と感心されていました。

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 四年前に青江三奈がカバーした「夜霧の第二国道」を紹介しました。「ビクター流行歌名盤・貴重盤コレクション」デジタル復刻シリーズの「グッド・ナイト」の一曲です。フランク永井の恩師吉田正作品でもあることから、まずとりあげさせていただいたものでした。
 そのときも触れたのですが、青江三奈の「お富さん」も復刻されています。この覆刻CDは手元にないのですが、LPで楽しんでいます。この作品は作曲家渡久地政信作品でできています。
 フランク永井に「夜霧に消えたチャコ」「俺は淋しいんだ」や多数の曲を提供していただいています。青江三奈は「お富さん」で、この2曲を歌っています。
 「お富さん」はご存知のようにキングレコードに渡久地が在籍中に春日八郎に提供した曲です。私などもその爆発的な人気を知っています。ラジオで毎日流れ、誰もが「〽いきな黒塀、見越しの松に...」口ずさみました。子供はよく親から怒られたものです。
 渡久地は古巣のビクターに戻って更なる活躍をみますが、そこで大ヒットをはなったひとつが、「池袋ブルース」で名をはせていた青江三奈の「長崎ブルース」です。
 当時は、青江とほぼ同期でデビューしていていた森進一とあわせて、今や死語でしょうが「ためいき路線」などと呼ばれていました。
 青江といえば、私などの印象では、とにかく繁華街で気ばいキャバレーの女といったものでした。独特な雰囲気を発散していて、歓楽街で酒とたばこによって枯らされたと思える、じゃ枯れ声と見つめる目が、何とも「ガキなど寄るな」という感じでした(失礼をお許しください)。もちろん、これはレコード会社の用意した作り上げたキャラで、ご本人の個性とは言えないものです。
 青江は、同僚の松尾和子や日吉ミミなどと似て、実際にはさっぱりした、気前のいい性格で親しまれていたようです。だけど悲しいことにこの方がた若くして世を去ったのが、心残りです。
 このような青江三奈をなめちゃいけないのは、確かな歌唱力なんですね。プロなんだから当たり前だろうということではなく、ハスキーな声に惑わされずに良く聴けばわかるのですが、低音から高い音まで音程が抜群なうえに、歌詞をよく気持ちに乗せて歌っています。
 けっして、どんな時でも、どんなステージでもあいまいに歌ってごまかすようなことはしていません。
 ちょっと横にそれたようですが、この盤で歌っている曲を聴くとよくわかります。
 カバーを歌うの聴いてあきないような歌手は、唄がうまいです。歌は詞がありメロディーがあり、歌手が表現します。曲がその時代とマッチし、条件がそろうときにファンがつき、爆発的なヒットにつながります。一つでも条件がかけると、大歌手でも視聴者はうけいれません。だから、他の歌手のヒット曲を、別の歌手が歌うということは、歌い手という点で、過去のヒット条件をくずすために、聴かせるのは難しいのです。
 歌手がカバーに挑戦するには、それだけの覚悟と、その歌手と曲を貶めてしまうことがないか、という怖れを胸に抱えて挑戦します。
 私はフランク永井の追跡者なので、どうしても彼の曲をどう歌うのかというところに関心がいきます。2曲は編曲名人の寺岡真三作品です。なかなか聴かせるではないですか。
 この盤では渡久地作曲の「池袋の夜」「長崎ブルース」が入っていますが、他はすべて他の歌手のヒット作品です。

  お富さん(春日八郎)
  夜霧に消えたチャコ
  上海帰りのリル(津村謙)
  踊子(三浦洸一)
  俺は淋しいんだ
  池袋の夜
  島のブルース(三沢あけみ)
  東京アンナ(大津美子)
  お百度こいさん(和田弘とマヒナ・スターズ)
  東京の椿姫(津村謙)
  背広姿の渡り鳥(佐川ミツオ)
  長崎ブルース

 すべてが渡久地作品というだけあって、炎のように熱い作曲家渡久地の作り出す味が十分に味わえる作品集となっています。
 三浦洸一の「踊子」とか佐川ミツオの「背広姿の渡り鳥」などは、青江なりの解釈というか入れ込みがよく伝わる曲です。
 青江とフランク永井はどのように舞台で共演したのかはあまり知りませんが、一度だけNHKビッグショーで1974年4月28日「フランク永井・青江三奈 おとなの子守唄」を放送しています。これは残念ながら映像が残されていないようです。
 「東京ナイト・クラブ」をデュエットしているのが残されています。青江はこの曲を単独で歌ってもいます。フランク永井は青江のヒット曲「伊勢佐木町ブルース」をカバーしています。
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 フランク永井の似顔絵について触れてみたいと思います。
 ここに18点ほどあげましたが、いろいろあるものですね。いずれも、著作者の権利がありますが、主にネットででまわっているものからピックアップしてみたものです。表示して欲しくないという方がございましたら、削除します。
 いずれも、実にフランク永井の特徴をとらえているもので、味わいがあります。
 似顔絵と言えば、以前にも紹介させていただいた、前橋市にある「フランク永井鉛筆画前橋展示室」です。ここでは、主催者のSさんが東日本大震災の前から、フランク永井の鉛筆画を書き続けてきていて、200点を超える作品を展示しているものです。
 10月にNHK朝のドラマ「エール」では、古関裕而モのデル主人公が、戦後街にあふれた戦争孤児を支援する崇高な活動を励ました「とんがり帽子(鐘の鳴る丘)」のくだりでした。このとんがり帽子の孤児院を開設した方の偉業を引き継いで、現在も事業を継続されているのがSさんです。
 Sさんは毎年、フランク永井の出生地の宮城県大崎市松山で開かれている「フランク永井歌コンクール」の優勝者へ描かれて鉛筆画を贈呈しています。左上の2番目の絵は、松山のフランク永井を支援する酒蔵「一ノ蔵」から、フランク永井ラベル特別版のお酒のものです。
 歌コンクールにはSさんに集うフランク永井の歌好き仲間が、毎年多くのエントリーをされています。入賞者もおられますが、注目のJさんは歌は抜群でありながら、同時に鉛筆画も書き上げます。それが、左上1番目の絵です。Sさんのところで発行されるフランク永井特別版のカレンダーからのものです。
 上の段の左から4番目は良く出回ったフランク永井の写真です。ファンから贈られてという似顔絵のセーター?を着ています。このセーターは、宮城県大崎市松山にあるフランク永井常設展示室で見ることができます。
 最下段左から2つ目は、山藤章二の作品です。彼の似顔絵は誰しもがうなずく傑作ばかりです。「週刊朝日」の「ブラック・アングル」コーナーに、ファンであったフランク永井が亡くなった2008年に発表した作品です。傑作ですね。

 人間の手による絵は写真とは異なる独特の味わいがあります。作者の感性から、対象の特徴をどこに目を付けるかが微妙にことなり、それが表現されているのを見ると、ひとりでに頬がほころびます。ほっとします。
 コロナ禍、米大統領選挙の裏での激闘など、何かと世知辛い、閉塞感が付きまとう日々ですが、こうした人間の意志、手が作り上げた絵を見てなごむというのはいかがでしょうか。
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 10月はフランク永井の月命日です。
 「師である作曲家の吉田正とともに、都会的でジャズテイスト溢れるムード歌謡のジャンルを切り開き、数多くのヒット曲を世に送った」(Wekipedia)フランク永井は、2008年のこの10月27日に亡くなりました。
 「フランク永井歌コンクール」が、今年は新型コロナウイルスの影響で中止されています。しかし、今回のNHKラジオ深夜便の番組は、それを在宅で埋めるものといっていいのではないでしょうか。
 NHKではラジオ深夜便で毎年、フランク永井のために2回、2時間にわたって、たっぷりと長時間をさいた特集を流してくれています。ファンにとってはとてもうれしい限りです。感謝を申し上げます。
 今年も午前三時台の「にっぽんの歌こころの歌、郷愁の歌:歌声喫茶愛唱歌集」として、14日、28日にPart1、2として放送されました。今年は、須磨佳津江アナウンサーが担当でした。
 「深夜便のアンカーになった頃は一番年下だったのですが、あっという間に時が経ち、なんと気づくと最年長になってしまいました。今では、深夜便のスタジオの椅子に座ると落ち着き、リスナーの皆さんとゆったり共に過ごす夜が、かけがいのないものになっています。リスナーの皆様は深夜便のお仲間。これからも、聴いてよかったと思っていただけるよう、インタビューや、音楽の紹介、お花の情報など、頑張ります!よろしくお願いいたします」と、アナウンサーの紹介欄で書いているように、聴いていて実にすばらしい声の持ち主で、心落ちつつく番組でした。
 合わせて19曲、フランク永井の代表的な曲を、それぞれもコメント付きで紹介されました。これらのフランク永井の曲は、もう何度聞いたことか知れません。おそらく、いずれも50回から100回以上は聴いた曲です。それでも聴きたいのは、聴いていてこころが落ち着き、ふんわりと、豊かになるからです。少しも飽きません。
 そして、こうした番組を聴く楽しみは、アナウンサーのフランク永井や、それぞれの曲についての紹介を聴きたいからです。毎回、さまざまなエピソードを耳にできます。私自身はフランク永井が残した全曲の紹介データブックにトライした関係から、手に入れられるだけのさまざまなエピソードに触れました。
 それらを十分に承知していても、深夜のナビゲータのゆったりとした、静かでていねいな紹介はフレッシュで説得力が違います。
 Part1は昭和30~34年作品、2は昭和35~60年作品として19曲放送されました。最後の「東京ナイト・クラブ」を7除いて年代順です。

  恋人よ我に帰れ(S30)
  場末のペット吹き(S31)
  東京午前三時(S32)
  夜霧の第二国道(S32)
  有楽町で逢いましょう(S32)
  羽田発7時50分(S32)
  西銀座駅前(S33)
  公園の手品師(S33)
  こいさんのラブ・コール(S33)
  夜霧に消えたチャコ(S34)

  東京カチート(S35)
  君恋し(S36)
  霧子のタンゴ(S37)
  月火水木金土日の歌(S38)
  赤ちゃんは王様だ(S38)
  おまえに(S341,47,52)
  ウーマン(S57)
  あなたのすべてを(S60)
  東京ナイト・クラブ(S34,46,53)

 フランク永井の特番としては、年代、作曲家、ジャンルを可能な限りカバーした素晴らしい番組だったと思います。
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 10月8日放送の番組です。今どきのプロデュサーというか制作側のスタッフが作る番組は、こうなるのだな、とつくづく思った映像でした。
 フランク永井の恩師吉田正。そしてその吉田正が、自分の持つ歌と音楽の志のすべてを打ち込み、伝えたといったフランク永井。このフランク永井が、こうした番組に一度も登場しないという一時間番組でした。
 番組は、基本的にそのときに出演するゲスト、今回の場合は吉田正の門下生であった橋幸夫、三田明、そしてご指名だと思えるン¥川中美幸の御三名。このゲストが歌い、他は過去にカバーで歌った歌手の映像を使って構成するような作りのようです。
 このスタンスはそれでいいのでしょうが、それは視聴者にどこまで伝わっているのでしょう。この方向を採用したとしても、一つや二つをゲストでなくても、本人映像を出せば、おそらく、私のような年寄りの層でも番組への評価は高まったのではないでしょうか。
 つまり、すべてをゲストとカバー歌手で占めてしまうことによって、番組を観たいと思う視聴者に、不必要に気持ちを離れさすことになってしまっているのではないか、などといらぬ心配が胸をよぎった番組でした。

 「吉田正 至高の名曲 ベストテン」は真ん中の写真の通りです。まあ、私の感じでは、取り上げられた曲は基本的に妥当なところですが、ゲストの橋幸夫に忖度したような感じは受けます。ベストテンの順位は、やや違和感はありますが、これはあまり論ずる意味をあまり感じません。
 「寒い朝」「いつでも夢を」は、吉田正が注ぎ込んだ夢の結晶だから欠かせないと思います。
 これらは、次のような歌手によって歌われました。

「いつでも夢を」     橋幸夫/川中美幸
「誰よりも君を愛す」   松平直樹/丘みどり
「有楽町で逢いましょう」 三田明
「傷だらけの人生」    冠二郎
「東京ナイトクラブ」   山本譲二/川中美幸
「子連れ狼」       橋幸夫
「美しい十代」      三田明
「おまえに」       ささきいさお
「寒い朝」        川中美幸
「恋のメキシカン・ロック」橋幸夫

 川中美幸がやや高音に無理を感じた点はありますが、ずいぶんと素直な歌唱を披露していたのは、好感がありました。

 この回の番組について、局サイドの紹介は次の通りでした。
【都会的で哀愁漂うメロディーでムード歌謡から青春歌謡、リズム歌謡まで手掛けた吉田正の名曲をランキング化! 戦後歌謡の大作曲家・吉田正が昭和に遺したヒット曲の中から、決定版ベストテンを発表!
 フランク永井や松尾和子が歌ったムード歌謡、吉永小百合・三田明を輝かせた青春歌謡、橋幸夫が踊ったリズム歌謡など、戦後の日本に希望の光を与え、高度成長期に花開いた吉田正の至高の名曲の数々。
 吉田正とゆかりの深い名優・鶴田浩二の男気演歌、一斉を風靡した時代劇の主題歌など、奥深い吉田正の世界を堪能!】

 この番組は、ベストテン形式で紹介する「昭和歌謡ベストテン」がDX版になって復活した番組とのことで、吉田正特集は26回目にあたります。「懐かしい昭和が甦る!」が番組のメイン・キャッチです。
 ということで、翌27回は「決定盤!デュエットソング特集」と、やはり気を引きます。
 デュエットソングといえば、その分野を切り開いたともいうべき、フランク永井/松尾和子の「東京ナイト・クラブ」があります。これは先の番組でも山本譲二/川中美幸で歌われていたわけです。
 ここでは、美川憲一/丘みどりで披露されました。
 あれっと思ったのは、「東京ナイト・クラブ」と正面から競い、今でも決して引退はしていないはずの「銀座の恋の物語」がありません。どうしたものでしょう。ん~ん。制作陣の若い方がたには、やはり、忘れ去られたのかなぁ、と淋しい思いです。
 それとも、権利問題とか、好き嫌いとか、何かあるのですかね。
 「川の流れのように」は、いつデュエットソングになったのですかね。

 男と女のラブゲーム/日野美歌・中条きよし・宮路オサム
 昭和枯すゞき/岡千秋・岡ゆう子
 浪花恋しぐれ/一節太郎・椎名佐千子
 居酒屋/五木ひろし・川中美幸
 川の流れのように/角川博・島津亜矢・森山愛子
 もしかしてPART2/小林幸子・三山ひろし
 白いブランコ/ビリー・バンバン
 三年目の浮気/黒沢博・岩本公水
 ふりむかないで/井上由美子・永井裕子
 東京ナイト・クラブ/美川憲一・丘みどり
 星空に両手を/羽山みずき・青山新
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 筒美京平がお亡くなりになりました。こころからのご冥福をお祈りいたします。
 筒美京平は昭和歌謡の世界で格別な存在だったといえます。
 「また逢う日まで」「さらば恋人」「木綿のハンカチーフ」「魅せられて」「ブルー・ライト・ヨコハマ」...と、それらの曲は恐らく誰もが口ずさめるのではないでしょうか。筒美はビッグ過ぎて他を寄せ付けないほどのヒット作品を残しました。だが、あまりマスコミに登場することはなかったような印象があります。

 フランク永井ファンとして、筒美の名を聴いたときに、連想で思いつくのは、歌謡組曲「旅情」のアルバムです。同時にこのアルバムもそうですが、作詞家橋本淳とのコンビです。
 いまどき、ネットで検索しても、筒美京平とフランク永井の関連は、ランクが低く関連して取り上げられることはほとんどありません。
 1969(S44)年の芸術祭参加作品として企画して作られたのが「旅情」です。フランク永井は長編歌謡組曲で1966(S41)年にも「慕情」でエントリーしています。
 いずれも、ファンは聴いてびっくりしたものです。それはフランク永井の歌手としての幅の広さ、特にオペラか何かの歌手のように、堂々とした正統な歌唱を披露していることです。
 男女の愛と別れを唄う歌謡曲歌手としてではない、唄の表現をしたものでした。フランク永井は洋楽だけではなく、民謡とか子供向けとか、とにかく歌の別世界に足跡を残していますが、この「旅情」ではまた別のフレッシュな印象を出しました。
 このアルバムは全曲を橋下淳が作詞しています。有明春樹が筒美とともに編曲を担当しました。

 旅情/白夜の街/ローマの祭/夕陽は燃えて/霧
 オランダ物語/運河の女/ひとり静かに/美しき伝説/愛の灯り

 当時ナレーションの第一人者である小山田宗徳が富田恵子とともにストーリイを導き、ドラマが展開されます。主人公新聞記者が西洋の著名な都市を回ります。好きな人がいます。国には妻が旅の帰りを待ちます。「ひとり静かに」は「城千景」が歌います。
 語るように歌うということが、フランク永井の巧みな歌唱で、みごとに表現された作品です。

 このアルバムの制作をきっかけに、その後筒美京平・橋本淳のコンビで、いくつか作品をフランク永井は唄っています。
 翌年「ルイという女」。1972年には「ほんとは好きなのに」。1972年末のNHK紅白歌合戦で、当時人気のニニ・ロッソのトランペット演奏を伴った「君恋し」で話題をさらいましたが、この後ローマに飛んでアルバム「ニニ・ロッソと唄う~君恋し」(SJX-133)を吹き込みました。
 このアルバムで「ミッドナイト赤坂」「別離のバラード」の筒美京平作品を収録しています。このアルバムはビクターヒット賞受賞作品になりました。

 一方、作詞家橋本淳が上記先品以外にフランク永井に提供した作品を紹介します。「旅情」を作った年に、大阪ABCホームソングで「紅いバラ」を唄いました。
 この作品は埋もれてしまっていて、2009年の「歌声よ永遠に」CD-BOX(VICL-333)で発掘紹介されました。
 シングル作品では「おもかげ」(1971)「ミッドナイトTOKYO」(1971)。「振り向いてはいけない」(1979)「追憶」(1981)です。
 1973年、先の「君恋し」と同じ年に発売されたアルバム「横浜・神戸・長崎~港を唄う」で、橋幸夫の「京都・神戸・銀座」と西田佐知子の「神戸で死ねたら」のカバーを歌っています。

 橋下淳も筒美とともに残した作品の偉大さは歴史的なものです。独特の色、雰囲気を持っています。フランク永井の関係ではどうだったのだろうかと、ときとき思います。フランク永井は詞とメロディーの解釈にそうとう悩んだのではないだろうか。
 あらためて曲を聴いてみると、しっとりとした表現で、恩師吉田正とはことなるものを感じます。だが、そこは、多くの彼のファンが求める世界のニュアンスがあって、その作り出される空気を受け止めることに、ギャップがあったのかも知れない、と。
(筒美京平の写真は「ちんぴら★ ジャーナル」から)
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 鶴田浩二のNHKビッグショーについて前回にとりあげました。
 鶴田は恩師吉田正の別格の生徒で、ただの門下生扱いはされていません。それはやはり映画俳優として特別な人気の地位にあったこともありますが、吉田正とまるで戦友のような関係であったことが理由かと思われます。
 石原裕次郎もそうでしたが、鶴田はあくまで本職は俳優であって、歌手ではないと言っていました。だから周囲から押されて、人気があるのだからと歌の舞台を演じたと。だが、いったん舞台に上がったからには、下手でも精いっぱいに演じると。歌に対するこの姿勢がファンから親しまれたとも言えます。
 酒を飲めない吉田正が「それじゃ大衆のほんとの気持ちは分からないよ」と鶴田が勧めたというエピソードは有名です。同様に酒を口にできなかったフランク永井も、恩師に伴って酒に親しむようになり、後には二人ともそうとうたしなんだと言われます。

 鶴田は他のビクターの歌手に漏れず、1975年に「ベスト・コレクション75」をタイトルにしたLPを出します。2枚組のものです。自分のヒットした持ち歌とともに当時流行したの他の歌手のカバーとセットの作品です。
 鶴田はこの中でいくつか、昭和歌謡にチャレンジしています。
 その全曲リストは、次のようなものです。

 真っ暗闇でございます/意地/日陰者/惚れた/白いかもめは何を見た
 傷だらけの人生/赤と黒のブルース/街のサンドウィッチマン
 ハワイの夜/弥太郎笠/同期の桜/好きだった/場末のペット吹き
 夜霧の第二国道/俺は淋しいんだ/夜霧の空の執着港(エアーターミナル)
 上海の街角で/夜霧のブルース/君恋し/無情の夢/湯島の白梅/戦友
 ダンチョネ節/ラバウル小唄

 その中に特筆すべきは、フランク永井の歌ったヒット曲を4曲カバーしていることです。
 「場末のペット吹き/夜霧の第二国道/俺は淋しいんだ/君恋し」がフランク永井の曲です。

 「場末のペット吹き」については、フランク永井の最初のCD-BOX全集の解説の中で、この曲は吉田正が鶴田浩二が唄うのを念頭に書いたものだと、当時のいきさつを語っています。後で鶴田がそれを聴いて、そうとう残念がったそうです。
 それほど、鶴田向けの印象の強い曲ですが、だが、フランク永井がジャズから流行歌への転向を成功させた曲として、今では定着しています。並べて聴けばわかりますが、フランク永井は彼独特のセリフ回しのように、曲に思いを乗せて歌っています。
 「君恋し」ですが、これはフランク永井にジャズ風編曲で提供した編曲家寺岡真三が、別バージョンの編曲をしているのが楽しめます。シロフォンかマリンバかよくわかりませんが、その音が弾む明るさを特徴づけています。
 このアルバムのフランク永井のカバー曲4曲はどれも寺岡の編曲です。いずれも編曲の名人らしい、オリジナルに手を加えたバージョンです。「俺は淋しいんだ」は、渡久地政信が作編曲をしていますが、寺岡は渡久地のオリジナルに敬意を払ってか、崩さずにまとめています。
 「夜霧の第二国道」は原曲の時のテーマの暗さを、大胆に払しょくして明るくしています。低音で暗く地獄の入り口にいざなうようなフランク永井の声にたいして、鶴田の声質は比較的高く、丁度よくそれに合わせた感じです。

 このLPで鶴田浩二の歌手としての魅力が全開しています。2枚のLPで24曲を収録しているのですが、まあ、いずれも彼の印象に一生つきまとった「戦争・任侠」というのが、ここでも溢れているのですが、異色の曲が一曲あります。
 1973年にシングルを発売している「白いかもめは何を見た」です。千家和也作詞/吉田正作曲/寺岡真三編曲の作品。

 当時はカバーがブームだったこともありますが、フランク永井のほうの「ベスト・セレクション75」でも、1枚は全部カバーです。乗りに乗った時期でもあり、珠玉といってもいい作品です。ここでは、下記のような歌唱が楽しめます。「ひとり酒場で」は特に大好きな一曲です。

 二人の世界/東京ブルース/夜霧よ今夜も有難う/昭和ブルース
 恋あざみ/女の意地/別れの朝/くちなしの花/別れても
 暗い港のブルース/ひとり酒場で/今日でお別れ

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 親しい友人の紹介とお誘いで、鶴田浩二が1976年にNHKビッグショーに出演した映像記録を鑑賞しました。
 このショーの模様は翌年にLPになって発売されました(SJX-10188)。これは私も所有していて大事にしまい過ぎて、当時一度聴いたきりで詳細はすっかり忘れていました。
 映像は残っていないものと思っていたので、このたびじっくりと観てみて、さまざまな点で新発見といったところです。
 はっと思いだしたのはこの番組の後半は「名もない男の詩」という歌謡組曲だったことです。鶴田浩二は映画俳優で、この歌を歌った当時は若手人気のトップにおりました。その後、石原裕次郎が登場してすっかりその地位をもっていくわけですが、鶴田の人気はすごいものでした。
 鶴田は当時の例に漏れず、周囲からおだてられ、そそのかされて、歌を歌わされます。さすがに歴史に残る名優で、歌い手としてもなかなかの人気を博します。特にビクターの帝王である吉田正と知り合ってからは、次つぎと名曲を残していきました。白いハンカチでマイクを握り、片耳を手で覆って歌う姿は、後にも先にも鶴田だけです。

 吉田正はご存知のように、先の大戦ではシベリア抑留を経験し、過酷な環境の中で「異国の丘」を作っています。後の「寒い朝」も厳寒を織り込んだものと言われています。
 鶴田も海軍に召集され同期の友を失う経験をしています。そこからか吉田正とは意気投合して特別な信頼関係を気づいています。
 当時俳優の先頭に立つまでのいきさつや、鶴田の心情の変遷をテーマにして、吉田正作曲作品としてこの長編歌謡組曲「名もない男の詩」ができました。
 1969年に「名もない男の詩/鶴田浩二」(SJX-13)を発売しました。鶴田は1971年にリサイタルを開いています。ここで大観客を前に披露しました。これもLPで発売しています(SJV-554~5)。
 鶴田は俳優としては、戦争と任侠の印象が強い人でした。好き嫌いがはっきりしていて、仕事への異様なこだわりを持っていました。だが、残された音声だけではなく、こうして映像で見ると、そこにはひとりに人間としての姿があります。観ることで一人一人が、そこから判断できる人間が浮かび上がります。惜しくも、昭和の終りに彼も世を去りました。

 長編歌謡組曲といえば、フランク永井ファンは忘れもしません。フランク永井の第2回リサイタルを1966年に開いたときに、恩師吉田正が渾身込めて用意した「慕情」です。
 これは岩谷時子の詞で、若きフランク永井がろうろうと20分歌います。このときの歌唱は、会場厚生年金会館を埋め尽くした観衆を驚かせました。ただの歌い手ではない。半端な歌手ではない、という確信をもたせたものでした。
 このときの「慕情」の一節は、後にささきいさおが「雪の慕情」としてシングル発売をしています。

 映像でなければ発見できなかったものがありました。それは、編曲家寺岡真三の映像です。ご存知のように、寺岡を一躍有名にしたのはフランク永井が歌った「君恋し」の編曲です。
 私が「魅惑の低音フランク永井のすべて」というデータブックを編纂しているときに、どうしても寺岡の写真を使いたかったのです。当時はモノクロでぼんやりした写真しか表に出ていず、最終的には吉田事務所を通じて寺岡の遺族の方から貴重な写真を借り受けて、使用させていただきました。
 その寺岡が、鶴田浩二のこの番組で鶴田が思い入れの曲「男の夜曲」をピアノ演奏しています。感銘ものです。
 寺岡は編曲の名人です。この時期、ビクターの歌手の残した名曲の相当数を手掛けてきました。聞く人の耳に鮮やかな印象を残す編曲家。戦前から歌われていた「君恋し」をフランク永井に蘇らせた腕は寺岡ならではのものです。カバーを対象外にしている日本レコード大賞において、フランク永井がカバーした「君恋し」が、受賞したのは、それほどオリジナリティに飛んでいたからです。

 恩師吉田正は、この組曲をわざわざ指揮で登場しています。彼の独特な指揮の姿を久しぶりで観ました。全身を使ったタクトのサバキ、顔の表情は、完全にその曲に魂が入り込んでいるのが分かります。

 写真の真ん中の下は、NHKビッグショー「吉田正~異国の丘から30年」でマヒナスターズを後ろに、三人がそろったときのものです。
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 守屋浩の訃報で驚きました。心からのご冥福をお祈りいたします。フランク永井と同じ時代に活躍した歌手がまた去りました。淋しい限りですが、あちらで皆さんがあつまり、一緒に昭和のあの時代の楽しい思い出に、花を咲かせていることではないでしょうか。

 文四郎は山形の田舎から集団就職のあの時代、まず川崎に出てきました。その時に職場の同僚とフランク永井の「有楽町で逢いましょう」を話したり、歌ったりしました。
 夕刻は野球部でした。そこでは何故か、橋幸夫の「雨の中の二人」を思い出します。耳の中、いや頭の中で繰り返される、それが何故なのかなどと不思議に思ったことも同時に思い出します。
 夜は寮でしたが屋上に出ると、守屋浩の「僕は泣いちっち」です。浜口庫之助の作詞作曲ですね。このメロディーもそうですが、歌詞が何とも言えないのです。屋上に夜になると集まるのは、青森とか、四国とかからでてきた同僚で、望郷の思いからときどき泣いているやつもおりました。
 歌では、田舎から遠い東京へ出ていった恋人を思うのだが、当時の私たちは、そう簡単には帰れない、遠い故郷を、この歌を歌いながら思っていたのです。
 「遠い遠い東京へ飛んでけちぎれ雲」という無茶な叫び、「夜汽車の笛はいやだよ」と当たり散らす。このフレーズがどれほど深く、私たちの心を打ち、動かしたことか。わずかだが、かすれがはいる彼の歌唱は、表現する歌手としてぴったりなんだったと思う。
 中学校の文化祭か何かのときに、同期の女子が舞台でこの歌を歌ったのだが、それが大変上手で、生徒はもちろん来ていた父兄も大喝采したということも思い出します。

 守屋浩はコロンビアでフランク永井と同じ舞台は多かったのですが、直接的な交流や重なりは記憶にないです。コロンビアでフランク永井と同じ年にデビューした島倉千代子とは、いくつかあります。「あなたが居れば」「あなたと共に」をデュエットしています。
 前者はNHK「きょうのうた」の音源が保存されていないようです。後者はテレビ映像が残されています。
 守屋浩はこの島倉千代子と「星空に両手を」をデュエットして当時話題になりました。何かのCMでも歌われたように覚えていますが、当時はコロンビアの人気者同士のデュエットだったので、ファンは大喜びだったわけです。
 フランク永井と島倉千代子は同時期デビューであることから、NHK紅白歌合戦では共に連続出場し、5回ペアがあてられています。
 フランク永井の女性の盟友はビクターの松尾和子ですが、島倉千代子はレコード会社を別にしたもう一人の盟友かも知れません。印象的だったのは、1976(S51)年第27回の紅白で、フランク永井は最初の出演の第8回に続いて2回目の「東京午前三時」を歌います。背後にずっと島倉千代子が立ちずさんでいます。その姿が何とも可愛らしく、松尾和子とは違う魅力を放っていました。

 守屋浩は81歳でした。大きな業績を残されました。感謝いたします。
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 珍しいというのは曲のことではなくて、EP盤の作成形式のことです。作成形式というのも分かりにくいですね。レコード会社であるビクターからメインの正規シリーズとしてのシングル盤とかLP盤とかとはちょっと違っている盤というものです。
 正式のシングル盤というのは、デビュー時はSP盤です。次にEP盤ですが、最初はVSシリーズのモノラルで、後にSVシリーズのステレオ盤です。
 EP盤は1980年代に全面的にCD盤に変わるわけですが、価格を考慮した4曲入りの「コンパクト・ダブル・シリーズ」という盤もだされました。これだけに収録されている曲というのもあるのですが、基本的には例外でした。
 ステレオ化された時期には「ステレオ・シリーズ」「ライビング・ステレオ・シリーズ」と名をうって、初版の時とは異なるカップリングでヒット曲のステレオ版吹き込みなおしで出されましたが、これはわずかでした。
 また、沖縄が日本に返還されたのは1972年ですが、これ以前は外国扱いでした。この時期に私が勝手に「沖縄シリーズ」と呼んでいる盤が出されました。これは人気の鶴田浩二とのカプリングが数枚出されています。
 EP盤の終盤にビクターから「アンコール・シリーズ」「永遠のEP盤シリーズ」「ゴールデン・ミリオン・シリーズ」「ゴールデン・ベスト・シリーズ」が出されました。これは曲の組み合わせを変えただけという感じで、初版時のモノラル曲も平然と使われています。SVとうたっておりながら、SV-3001-Mのような妙な盤のIDで出ています。

 私は特に収集家である意識はなかったのですが、結果的にフランク永井のレコード盤の収集家のような感じになりました。それは「フランク永井データブック」の編纂をしていた過程で、全容をつかむために、レコードの現物を集めたからです。もちろん、現在に至るもすべてが集まったわけではないのですが、知りえた多くのファンの方々が所有しおられて盤で確認できたことで、およその全貌を知ることができました。

 ただ、現在でも分からないものがまだまだあります。それは別項でも紹介しましたが、オムニバス盤です。それと、レコード会社から非売品、宣伝用としてレコード店や放送局に出されたレコード盤、PR/PRAシリーズです。さらに、いかなる相違があるのか、まぎらわしくも、PRUなどというのも出されています。宣伝盤ですね。宣伝というと、全国の観光協会、自治体、あるいは組織体からの要請で作られる盤もあります。
 フランク永井は、あの声ですので、まさか校歌は歌っていないと思いますが、そのような価格がついた商品盤でないものがあるのです。
 有線放送がそれなりに人気があるメディアだった時期があります。PRUシリーズのUは有線放送局用に作ったPR盤だったのだろうか。というのは、手元にPRU盤が2枚ある(PRU-6-熱海ブルース/ラブ・レター、PRU-25-逢いたくて/こいさんのラブ・コール)のですが、それを入手した際に同時に存在したのが、ゆうせんが独自に作ったとおぼしきPR盤だったのです。
 それは、YKS-039というIDで、A面が石原裕次郎の「夜霧のブルース」でそのB面にフランク永井の「公園の手品師」があるEP盤です。

 PRシリーズは必ずしも無償の盤ではなかったようです。またレコード店や放送局用は必ずしもPRシリーズと限ったわけではなかったようです。オムニバス的にそのときに売り出したい歌手や曲を集めてLPにした盤もありました。また、EP盤では表面と裏面が異なる盤IDを使っているというのもあり、一貫したコンセプトがなかったのではという疑念も生じます。
 手元にあるのは、VS-1103-逢いたくてとVS-1129-利根の月太郎(歌手:三門ひかる)という盤です。

 「あなたが唄う伴奏用レコード」というシリーズがビクターにはあったようです。手元にあるのは、SV-6147-おまえに/君恋しとSV-6155-こいさんのラブ・コール/大阪ぐらしです。
 当時の宣伝では、他に、SV-6150-お百度こいさん/羽田発7時50分、SV-6154-霧子のタンゴ/泣かないで、SV-6156-東京ナイト・クラブ/グッド・ナイト、SV-6157-俺は淋しいんだ/夜霧の空の終着駅、SV-6159-鈴懸の径/新雪などのフランク永井の曲が見受けられます。

 レコードを整理していて気が付いた話題でした。

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