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 宮城まり子が亡くなられた。心からご冥福をお祈り申し上げます。
 宮城まり子といえば、1968(S43)年に日本で初めての肢体不自由児養護施設「ねむの木学園」を設立したこと、その運営に生涯をかけたことだ。だが、その宮城が圧倒的なワパーで名を全国に馳せたのは1955(S30)年に出したレコード「ガード下の靴みがき」。この歌の強力な印象は永遠に消えない。
 歌詞はフランク永井にも「夜霧の第二国道」など多数の作品を提供した宮川哲夫だ。作曲は利根一郎。この歌は当時耳にした世代のものの心を揺さぶった。戦争という悪魔のような出来事が残した爪あとを描写しているからだ。戦後、荒廃した都市の復興に必死だったとき、宮城の歌声は聴く人のこころに深くしみた。
 いつ聴いても涙をそそう。同じビクターの暁テル子が「東京シューシャイン・ボーイ」を歌っている。詞は井田誠一。曲は「有楽町で逢いましょう」の編曲者の佐野雅美(鋤)で、戦時中は東南アジアに軍務で行きさまざまな悲惨を経験した人。だが現地で親しまれて歌われている曲を採譜したり、戦争の中の明るさを求めている。この曲も東京の靴みがきの明るさに焦点をあてている。
 宮城の方はビクターでそれを出す前に「毒消しゃいらんかね」というインパクトのある歌を出している。楠トシエが歌った印象もあるがレコードは宮城のために用意された宮城のもの。宮城は「ガード下の靴みがき」を歌い、この経験が人生をねむの木学園に向けさせたという。歌手として、映画俳優としてしばらく活躍するが、芸能活動から離れる。事業に全力投球するためだ。
 宮城は施設を学びの場と位置づけ、情感豊かな人間性を育成をめざした。けっしてただの私設ではない。音楽、絵画、踊り、茶道...などの取り組みをとりいれ、多種多様な才能を見出し、引き出し、個性豊かな人への成長をめざした。
 ここで育った人たちはのびのびと育ち、多数の成果を示した。
 当時、菊田一夫のNHKラジオドラマ「鐘が鳴る丘」が人気になる。これは町にあふれる戦争孤児の話だが、まさに直接的な戦争の犠牲者で同じテーマ。菊田は宮城を実際に見出した人でもある。ちなみに来週からはじまるNHK朝ドラ「エール」の主人公のモデルである古関裕而は菊田と組んで戦後多数の歌を作った。
 宮城がねむの木学園の成長に生涯をかけた。だがさまざまな話題があった。この偉大な活動は社会的にさまざまなハンデキャップがある人たちへの、信頼と奉仕でなりたっている。しかし社会の悪の繁栄として、スキがあれば詐欺師が目ざとく侵入してきて荒らす。金銭的な被害がでた。このようなたかりは人間として許されない。
 さて、フランク永井も同じ時代に同じようにデビューし、その世界で活躍した。1957(S32)年「哀愁ギター」のB面を宮城まり子が「夢見るワルツ」を歌っている。宮城が歌手時代の貴重なカップリング盤だ。ときどき聴いては当時を思い出している。
 現在、新たな「戦争」のような事態が進行中だ。新型コロナウイルスの感染者が全世界を覆っている。武力による戦争の時代から目に見えないウイルス(放射能もそうだが)との戦争だ。それだけに恐怖は大きい。ここで紹介した歌は、本来持つ人びとの協力と連携、信頼での勇気ある対応を歌っている。けっして詐欺の横行や足の引っ張り合いではない。買い占めとかが自分のまわりで起こっているのをみると、それは逆だろう!と叫びたくなる。人としての大事なことを、思い起こして、対応していきたいと思う。
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 フランク永井は「魅惑の低音」をほしいままにした昭和歌謡の大歌手だが、恩師吉田正とともにその分野を切り開いた都会派ムード歌謡。このジャンルでの歌は数多く誰もがみとめるところなのだが、それを裏付けているのは歌唱力。
 その歌唱力は他の歌手のヒット曲を歌うカバーのうまさにあらわれるのだが、やはり曲の分野の広さをも誇ることになる。フランク永井の本道はおいておいても、横道の魅力についても紹介してみたい。今回は叙情歌。
 最初は写真のようなオムニバス盤のかたちで、1960年代初めから小出しに歌ってきた。民謡だったり、子供向けの歌だったり、時代的に流行したロシア民謡だったり。本格的にまとめたのは1966(S41)年の「あなたに贈る幼き日の歌」。
 曲目は下記の12曲で、全曲一ノ瀬義孝による。
  01_月の砂漠  02_叱られて  03_七つの子  04_あの町この町  05_浜千鳥
   06_赤い靴  07_赤とんぼ  08_砂山  09_カナリヤ  10_雨  11_故郷  12_花嫁人形
 叙情歌は日本語の歌詞にそのイントネーションと意味合いに合致して作られたメロディーが特徴。そして歌詞が人の素直な気持ちや花月風鳥とか自然の移り変わりの美しさを表現した、いわゆる普遍的なものが多い。
 結果として戦後の軍国主義とか思想とか失恋とか暴力とか、つまりフランク永井の得意とする失恋や別れとかのテーマには触れない。子供や女性にもやさしい。多くは小学校でもよく教えられた曲だ。だから一定の年齢の方々なら、たいてい知っている曲だ。
 さすがフランク永井の歌唱で、意外にも彼の歌声はこの分野でも十分に歓迎されるように思う。
 トラック10の「雨」は、このLPでしか聴けない貴重な曲。

 フランク永井のこの分野への大きな挑戦はもう一度ある。それは1973(S49)年に発売した「いのち短しこいせよ少女(おとめ)」である。恩師吉田正がもっとも敬愛する先輩としてあげた中山晋平の歌12曲を収めたものだ。全曲三保啓太郎が編曲している。
   01_ゴンドラの唄 02_さすらいの唄  03_山の唄 04_カチューシャの唄 
    05_燃える御神火  06_旅人の唄 07_船頭小唄 08_鉾をおさめて 09_東京行進曲 
    10_波浮の港  11_曽根崎夜曲  12_砂山
 こちらも、聴けば情緒が伝わってくる。「燃える御神火」「旅人の唄」「鉾をおさめて」「東京行進曲」「曽根崎夜曲」はこの盤だけで楽しめるものだ。

 フランク永井がこの叙情歌の分野で他にも歌っているが、それを収めたのは1975S(50)年に歌手生活20周年として作られた10巻大全集の第8巻。
  01_ゴンドラの唄  02_カチューシャの唄  03_船頭小唄  04_波浮の港 
  05_城ヶ島の雨  06_さすらいの唄  07_月の砂漠  08_叱られて  09_七つの子 
  10_あの町この町  11_赤とんぼ 12_花嫁人形  13_砂山
 確かにダブりは多いが「城ヶ島の雨」はこの大全集で聴くことができる。
 ビクター・ファミリー・クラブという通信販売の事業体があり、そこから企画商品として「KVF-2301~5-忘れ得ぬ歌・心の歌」(盤IDはメディアや発売元によってVFC-7101~~、VFX-~と異なる)が、1973年に出ている。内容はオムニバス形式でビクターが誇る歌手陣が歌っている。テープ版は100曲だがLP版は同じ10巻でも数十曲多い。ここでフランク永井「あの町子の町」「ゴンドラの唄」などすでに上記で紹介されているものの他に「琵琶湖周航の歌」を歌っている。
 「琵琶湖周航の歌」は1971(S46)年に同名のアルバムを出していて、そこに含まれてはいるが、この盤はカバー集。
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 「歌のアイドル90分~不滅の歌謡演歌ベスト20」という、40年度ほど前のテレビ番組の映像をyoutubeでみた。
 司会は徳光和夫で若い。守屋浩「僕はないちっち」、三浦洸一「落葉しぐれ」。続いて佐賀観光ホテルでディナーショーをやっている最中のフランク永井に中継を移す。ここで現場司会の宮尾すすむに。「おまえに」をフランクスナインの演奏で。そこで現地のお客さんからのリクエストということで、並木路子「リンゴの唄」。歌手が歌手にリクエストというややくさい演出で、フランク永井がスタジオの松尾和子に「再会」を。「今週のドキュメント」コーナーで、コロンビア・ローズ「東京のバス・ガール」。平尾昌晃「星がなんでも知っている」の歌唱が楽しめた。
 その映像は恐らく2時間とかの特番だったのであろうが、上記のように7曲で終わっている。影像の背景には、青木光一、二葉百合子、三波春夫、三橋美智也、島倉千代子、菅原都々子、藤島桓夫、小松みどり、松山恵子、畠山みどりらそうそうたる多くの歌手が控えているのがわかる。
 1982といえば、舞台を降りる3年前で、山下達郎と組んで「Woman」を出した年だ。番組映像をみると、忙しそうに全国をかけめぐっているのがわかる。スタジオと佐賀をつないだ会話によれば、盟友松尾和子とは幾日かわずか前にも一緒に一緒に歌を歌っているようだ。同年前後は新譜レコードはわずか数曲しかだしていない。アルバムもそうだ。「有楽町で逢いましょう」が世に出た後のすざましい勢い、年間のシングル38曲にアルバムが5~7枚というときと比べたら余裕がありそうな時期だった。
 だがそれでも映像では元気で各所での公演をこなしていたのだろうことがわかる。
 それからおよそ40年、テレビの世界も多変わりしたといってよい。まずチャンネル数が大幅に増えた。地上局でもそうだが、有線テレビ、衛星テレビ、それがBSだCSだとあり、それも
4Kだ8Kだというのだから、もはや数えきれない。有料という制度もそうだ。そればかりか、スポーツ、映画、時代劇、歌謡曲...と専門チャンネルというのが競っている。
 歌謡曲番組、音楽番組も数えられないほどある。一時はどんなものかとなるべく観るようにしていたのだが、最近はあまり観ていない。フランク永井がでないとつまらない、と言ってしまえば、なんという奴だ怒られそうだが、聴いていてのらない、悪く言えばつまらないのだ。演出が過剰気味でついていけないとか、若い人たちの多くの歌がりかいできないとか。
 さらに言えば、歌手は歌を聴いていてうまい!いい!とうなずけないほど、ヘソが曲がり切ってしまったのかもしれない。これは!と感動を受けて、よしこれCD買うかダウンロードを申し込もうという気がほとんど起こらないのだ。アンタの感性が退化したんだよ!と言われるかもしれないけど。
 そこで、表記の番組映像だが、面白い。歌も知っているものばかりで、歌手ご本人の大ヒット曲ばかり。彼らのCDはほぼ持っているが、映像で今どきはなかなか見れないものばかりだ。特に当時も珍しかったのは最初に登場の守屋浩ではなかろうか。浜口庫之助と組んだヒット作品が多数あった。「僕はないちっち」をはじめ当時の私ら中高生の時代には多くのファンがいた。しばらくテレビから姿を消していたのだ。どうしたんだろうと思ったものだ。オーストラリアに行っていたとか、本間千代子という当時のアイドル歌手(?)と結婚したとか、何々という歌は宜しくないとのことで、放送コードにひっかかったとか。それが元気に出場して、懐かしい歌を歌ってくれた。
 何か、ロートルの回顧主義という完全にひとりよがりな別世界に迷い込んだようなので、ここまでとしたい。懐かしい映像を見せてくださった方に感謝をこめて。
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 フランク永井の実姉の永井美根子さんが2月27日に亡くなられた。心からご冥福をお祈り申し上げます。
 3月5日に告別式が厳粛に行われた。フランク永井の「有楽町で逢いましょう」や「おまえに」が式場に特別設置されたコーナーで静かにオルガン演奏されて見送られた。フランク永井と同じ場所で安らかなこれからの世に旅立った。
 1985年にフランク永井のあの不幸な事故があったのちの長い闘病、リハビリを美根子さんは一人で負ってこられた。フランク永井が永眠したのは2008年。この間、特に当初はパパラッチのような芸能記者が、ありもしないことを書きたてて、家族やレコード会社やファンに多大な迷惑をかけた。そうした理不尽な迫害にちかい火の粉を一手に受けて立ったのが美根子さんだった。黙々としてフランク永井の病床で耐えしのんだのだった。
 文四郎的にはフランク永井のファンのひとりとして、その姿を察した時に、ひとことでも労えたらという思いだった。
 フランク永井へのマスコミの異常で奇妙な長い偏見の封印が解かれたのは、2007年にNHKBSが「昭和歌謡黄金時代~フランク永井/松尾和子」を放送したときだ。フランク永井についての過去の眼鏡を一切捨てて、あたりまえの扱いをした。まさに昭和歌謡の黄金時代の一角を飾った実績を正当に評価したことで、ファンから絶大な拍手が贈られた。
 とどめは2009年に同じくNHKBSで放送された「歌伝説~フランク永井の世界」。フランク永井の残した実績を余すところなく、的確にとりまとめた映像作品となった。
 文四郎が編纂した「フランク永井・魅惑の低音のすべて」は2010年の発行だが、実は上記のNHKBSの映像作品と深く関与している。多くのファンが支援した。その過程でフランク永井の資料集としてのデータブックの発刊をすすめられたのだ。内容はすでの完成していたのだが、データブックはすべてがフランク永井が所属するレコード会社のもので、著作権者の許可が必要。仮に許可を得られても、膨大な量を扱っているだけにその費用もけたはずれになることから、最初から出版は断念していたものだ。
 そのときに相談だけでもしてみたらと背を押されて話をさせて得いただいた次第。レコード会社も当時の親族である美根子さんも内容を絶賛してくださり、出版のめどをたてていただいたという、実に忘れがたいことだった。このときに美根子さんにお会いして、直接思いを伝えることができた。こちらのうかつなことや安易なことには、容赦ないお叱りをしてくださり、出版に至ったものだった。
 そしてこの出版は思いもかけず、同年の「雑学大賞」の栄誉を受けた。また朝日新聞の「顔」欄で取り上げてくださった。そんなことから文四郎の実に恥ずかしい顔が写真で全国に知れてしまった。また、NHKおはようニッポンでフランク永井ファンとして幾度か出されてしまった。
 まあ、そんなことはどうでも、3月はフランク永井の誕生月。美根子さんも誕生月で、まもなく94歳になるところでした。美根子さんとは幾度かお会いする機会があり、フランク永井のさまざまなエピソードをきかせていただいた。そして体調が復帰されればまたお会いしようと話していただけに、今回の訃報はたいへん残念な思い。天国で再びフランク永井と一緒になり、やすらかな会話をしておられると思うだけである。合掌!
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 フランク永井の歌を多くの歌手がカバーで歌っていることは、たびたび紹介してきた。五木ひろしがいくつかの曲をカバーしてきたことも記した。
 1984(S59)年「いま、生きている...新たなる感動~霧子のタンゴ」が最初。これは尊敬する吉田正との初めてのジョイント企画。五木は徳間ジャパン所属なので、ビクター専属の吉田正との共同プロジェクトで、普段はありえない組み合わせが実現した。
 このときは、星野哲郎作詞で「法師の宿」。吉岡治作詞で「銀座シティ・エアー・ターミナル」が歌われた。「銀座シティ・エアー・ターミナル」では吉田正が仮想・空想の世界で登場させた「霧子」が登場した。「霧子のタンゴ」は後に「霧子のタンゴⅡ」に成長したが、その後継を思わせる歌であった。
 五木はその後1997年にやはり吉田正に敬意を表して「吉田正作曲生活50周年記念吉田正作品集「有楽町で逢いましょう」をリリースした。このときはすでにCD時代で、いくつかを吹き込みなおしたりして、吉田正が残した印象的な作品をそろえている。さらに、2004年に五木自身の芸能40周年を記念して「哀愁の吉田メロディを歌う」をリリースしている。
 五木はデビュー当初からフランク永井のものまねを番組でやり、その技量の巧妙さに定評をもっていた。もちろんフランク永井ばかりでなく他の多くの歌手のものまねがうまく人気だった。ものまねでひいでていると、自分の個性が隠れかねないが、彼は執拗に「五木節」を通している。個性、持ち味として、ひとりの歌手の生命線でもある。
 ものまねがうまいということは、対象の歌手の個性を見抜くために絶え間ない研究と鋭い視点が求められる。ただのいい加減なまねごとの域では抜きんでた評価はえられない。五木のこの研究姿勢はその後の彼自身の大きな財産となる。その後歌番組での司会などで、いかんなく、その時の交友と他にまねのできないエピソードを披露する。今では演歌界の大御所に君臨していると言っていい。
 さて、話は戻って、最初の吉田正とのジョイントを組んで作ったLPとやや内容が異なるカセットテープ版を入手した。LP版とおなじく12曲が収録されていた。ややトラック順が異なるだけだった。手に入れたのは、もしかしてLP版にはない曲の収録が入っているのではと期待したこともあって。
  01 夜霧の第二国道/02 好きだった/03 落葉しぐれ/04 中山七里/05 法師の宿/
  06 江梨子/07 公演の手品師/08 哀愁の街に霧が降る/09 伊太郎旅唄/
  10 有楽町で逢いましょう/11 霧子のタンゴ/12 銀座シティ・エアー・ターミナル
 五木の上記で紹介した3つのアルバムでは、いくつかこの初版にはない曲を加えている。
  おまえに/いつでも夢を/東京ナイトクラブ/異国の丘/潮来笠
 この5曲だ。通算して、フランク永井の曲に限れば、6曲ということになる。五木はテレビの歌番組でもフランク永井の曲のカバー歌唱を行っている、「おまえに」「有楽町で逢いましょう」「霧子のタンゴ」。そして「君恋し」などは、youtubeでも楽しめる。「公園の手品師」はLPとテープ版で楽しめるのだが、なかなかいいではないでしょうか。
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 三船浩はフランク永井がデビューした翌年の1956(S31)にキングレコードからデビューした。その圧倒的な音量の低音と凄まじいほどの音圧を持つ歌唱で、フランク永井と並んで低音歌手として人気を博した。2005年に惜しまれ75歳で死去した。
 三船浩はNHKのど自慢出身でもある。「男のブルース」でデビューしたが、代表的な曲はやはりこの曲と私的な好みだが「夜霧の滑走路」「男の酒場」「東京だより」といったところだろうか。
 三船の声質は実にユニークで、鋼鉄の歌声と言われた春日八郎と並ぶのではないか。フランク永井の場合はいわゆるクルーナー歌唱などと言われる、ささやきかける、語りかけるソフトなものだが、三船のはその逆。強烈な音量のある低音だ。
 当時、低音歌手といえば、魅惑の低音というキャッチをほしいままにしたフランク永井だが、御三家とか名付けたがるマスコミは、低音〇人男という呼び名をつけて、石原裕次郎や神戸一郎や水原弘を組み合わせていた。そこに三船浩も入る。低音歌手としては、フランク永井と水原弘と三船浩というくくりが多かったように思う。
 面白いもので、当たり前のことだけど、それぞれが特色を持っていて、魅力の色合いが異なる。一歩リードしたフランク永井は「夜霧の...」というのを、何か低音歌手、男の歌手、ムード歌手の流れをつくった。その後雨後の筍ではないが、つぎつぎと競争するように「夜霧の...」が作られていく。
 ビクターのフランク永井に独占されてたまるか、飛び越して見せると各社競争したのだが、ついには超えられなかった。
 それはそれとして、この三船がフランク永井のカバーに挑戦している。キングは「懐かしのヒット曲を歌う」ということで、三船に歌わせた。それが1971年発売した「人生の並木路~三船浩懐かしのヒット曲を歌う」というLP。タイトルになった「人生の並木路」を含む14曲が収録されている。
 このLPで「有楽町で逢いましょう」と「君恋し」が入っている。「夜霧のブルース」「無情の夢」「星影の小径」「泪の乾杯」はフランク永井もカバーしている。この時期までに絶えずに人気を保ってきた名曲ばかりである。
 三船の声質と歌唱は共通なので、どう歌われたかはほぼ予想がつくかもしれないが、三船なりの曲の消化をしてできたアルバムだ。
 これは、1980年ごろのCDか時代を迎えて、さまざまな形でデジタル化復刻盤に収められている。キングのムード歌謡版に入っている。不確かだが、今年の夏ごろにもまた出されるとのうわさも。
 フランク永井の歌った名曲が、他の人気歌手にどう歌われているのかについて、私的に興味をもって覚えて得いる限り紹介してきた。三船のものはその一つ。
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 先日フランク永井の大ファンであるW氏から貴重な情報を寄せていただいた。存在しないと言われていたフランク永井の音声。どうも近年、1962(S37)年末にNHKから放送された紅白歌合戦の録画が発見されたようだ。紅白映像はこの翌年の1963年第14回のものがそれまではもっとも古いと言われていた。この回では「逢いたくて」が歌われ、映像が確かに残されている。
 発見されたとされるさらに1年さかのぼった それをBSで放送したようだ。ようだというのはそれを見ていないのだが、オープニングの1分程度のものを観ただけだからだ。W氏からの情報は映像ではなくフランク永井の歌唱音声箇所。
 さっそく聴いてみたが、当時のテレビからの音とは思えないほどすっきりしたもので驚いた。フランク永井の低音の魅力ある歌唱が伝わってくる。実況特有のいきいきしたもので、観衆に答えての笑顔でをこらえながら歌う個所もある。
 放送されたのが1962年といえば「君恋し」で日本レコード大賞を得た翌年、東京五輪の2年前という古さ。今から60年も前ということになる。貴重なものをよくぞこれまで保存されていてくださったと感銘する。教えていただいたWさんにも感謝が絶えない。
 1962年といえば、フランク永井はデビューしてまだ6~7年の頃だ。だが、すでに歌う歌がつぎつぎとヒットして、歌謡界の人気者になっていた。NHK紅白歌合戦では、1982(S57)年の第33回まで連続して出場し、その時点では「連続出場の最長保持者」を誇っていたものだ。
 フランク永井について、この紅白の歌唱の記録は今回発見された音声も含めて、26回中20回分の記録がある。はじめて出場した1957(S32)の第8回、翌第9回、11回、12回、15回、22回のものがない。内音声は、第10回、代13回ということになる。他は、18回分の映像が残されている。
 16回ではフランク永井は「生命ある限り」を歌った。この記録は、2016年にビクターから発売された「懐かしのフランク永井シングル全集」についている「NHK秘蔵映像」DVDに収録されては発売された。
 現在では信じられないような話だが、終戦で疲弊した日本の公共放送であっても、テレビの映像を記録する装置はもとより、テープは高価で量も少なく、バックアップとかいう概念も、アーカイブとして残すという意志も、あっても実行できない時代だった。そのために、テープは上書きしてヨレヨレになるまで再使用されていた。
 紅白については、近年になってNHKが保存していないものを視聴者にお伺いして、録画してあれば寄せてほしいと訴えた。そのせいで、視聴者から多数寄せられて、充実していったが、それでも1962、1963をさかのぼれなかったものだ。
 紅白の司会を長くしていた宮田輝は自宅で8ミリ映写機で撮影して保管していたのも、アーカイブに寄せられた。
 フランク永井の映像は全体として少ないのだが、それでもNHK紅白は残っている方かもしれない。
 有無のリストを観ると、残念でならないのは、1971(S46)年第22回だろう。「羽田発7時50分」を歌っている。表の途中であり、きっとこの年の録画は残っていると思える。何人かの出場歌手の映像がyoutubeで見た気がする。
 ファンの方々でもし見つけることがあったらぜひともお知らせ願いたいと思う。文四郎的には紅白だけの特性DVDがいつの日か世に出て、誰でも見れるようにしてほしいと思っている。
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 梓みちよに心からご冥福を! 突然の訃報でした。
 梓みちよといえば、何と言っても「こんにちは赤ちゃん」。永六輔作詞、中村八大作曲で「夢で逢いましょう」の今月の歌で流された。1963である。これが100万枚の超ヒットで、第5回日本レコード大賞を受賞。
 このときに競ったのがフランク永井の「赤ちゃんは王様だ」だ。赤山勇作詞、三木鶏郎による作品だ。コミカルでフランク永井の歌唱の広さを感じさせるも子供向けの歌で、それなりのヒットを放ったもの。森永乳業のコマーシャルとしての応募作品のようだ。有名な画家によるイラストのジャケットで発売された。同時に多数多種のソノシートが森永ルートで作られ広く頒布された。
 日本レコード大賞で歌唱賞を受けた。大賞にならなかったのはファンとして残念であったのだが、何せ、相手が悪かった。というのは梓に失礼だが、彼女のかわいさといい、授かる子供へのあふれる愛情表現といい、彼女の大賞受賞は誰もが満足いくものだった。
 梓は歌がうまい。これは生涯変わらなかった。ときどき歌謡番組にでて歌を披露したが、聴くたびに感心した。
 梓自身が語っているが、この歌をヒットはさせたものの、この歌には本人は納得できなかったとのことで、自ら長期に封印してしまって、その後しばらくは聞けなかった。それが米国に公演にいったときに、聴いた観衆が涙を出して喜んでいたのを目にして、独り歩きしている歌への気持ちを変えたと。
 若くて子供を知らない私が子供の歌を満足いくように歌えたとは思わないという気持ち。それは自分だけのもので、いったん世に受け入れられて広まった歌は、自分だけのものではない。そもそもこの歌は自分を歌手として世に知らしめるきっかけになった功労の歌ではないか、と40年の封印をといた。その後多いリクエストにこたえて歌っていく中で、この歌への愛おしさと敬意が深まり、自分の魂にまで膨らんでいった。
 梓はその後も多くの歌を歌い続け、ヒット曲をだしていく。「二人でお酒を」「メランコリー」等々。
 時代も歌の色合いもフランク永井の活躍の時代と重なっている。フランク永井も梓も多くのカバー曲を歌っているが、当然重なるものも多い。歌謡曲だけではなく、タンゴ、シャンソンとみごとな歌声を聞かせてくれたものである。
 名曲「二人でお酒を」は、フランク永井の盟友松尾和子とのゴールデンデュエットの初LPで出された。このLPシリーズは2枚あり、大人のムードで二人が歌う絶品だ。お酒を飲みながらおよそ2時間近く、ぶっ通しで聴いてもあきない。大半はその後CD化されているので、いつでも楽しめる。「二人でお酒を」デュエット版はいい。
 「こんにちは赤ちゃん」は出た当時からラジオ・テレビで連日、おそらく、一日で十回以上は同じ放送局から流れたのではないだろうか。それに対してわがフランク永井の「赤ちゃんは王様だ」はといえば、テレビではほとんど見なかったように思う。だが、ラジオでは結構聴いた記憶がある。
 まぁ、この回数の差はやむを得ない。ともかく梓の声のみずみずしさは格別だったし、あの満面の笑顔の価値は他に比較できなかったからだ。フランク永井の方はやはり、「歌唱賞」で歌の実力は見せつけたものの、走る路線の相違のむずかしさを感じてか、本線に力を注いでいくようになる。
 見事な決戦は圧倒的なパワーで梓に軍配。決戦といえば「OK牧場の決闘」でファンをスクリーンにくぎ付けしたカーク・ダグラスも亡くなった。西部劇が好きだった。何度も観た。若かったとき、気持ちを高揚させてくれたものがひとつ、ひとると消えていくのは淋しいことでもあるが、連れずれなる世の流れで誰もとどめることができない。ちょっと、センチにさせてくれた。
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 フランク永井と直接的な関係はない。だがフランク永井ファンのお仲間である方がけっこう多い「一般社団法人東京ラジオ歌謡を歌う会」が主催し、公益財団法人北区文化振興財団が後援する催しがあり、観る機会あったのでご報告。
 歌う会では、ラジオ歌謡を後世に受け継ぐ活動をメインにしているが、その時代から現在までの大衆文化である歌謡曲・流行歌にも関心が深く、さまざまなところで歌っている。春から初夏のラジオ歌謡の発表会とは別に、主に流行歌を対象にした発表会もこのように開催している。
 およそ50曲が披露された。当然ここに集まる方々も観客も年齢のいった方が多い。だが、その年季の入りようは半端ではないだけに、プロの歌手も交じってはいるが、ほとんどプロ以上ではないかと感じる歌い手が何人もいる。
 流行歌のカラオケ大会というものだが、ちゃんとした会場で入場料もあり、立派な舞台だ。音響もいい。演奏と歌唱のバランスも手慣れたもので、そつがない。
 歌はテレビでの番組とことなり、1番や2番だけのブチ切りではなく、フルの演技になる。うまい歌唱にはうっとりする。この公演を観てよかったなという満足感を呼ぶ。
 司会は運営の功労者でもある鎌田恵二(敬称を略させていただく)。ソロコーナーでは以下のような曲が歌われた。
 「素敵なランデブー」「月がとっても青いから」。戦時歌謡の「あゝ草枕幾度ぞ」。「瀬戸の花嫁」「野球小僧」「マリモの唄」「東京のバスガール」。三浦洸一の「東京の人」「落葉しぐれ」。曽根史郎「僕の東京地図」。林伊佐緒「ダンスパーティーの夜」は尾崎のり子がみごとな歌唱を披露した。
 「柿の木坂の家」。「港に灯のともる頃」は柴田つる子の名曲。「哀愁のからまつ林」は島倉千代子の曲。「高原列車は行く」「喜びも悲しみも幾年月」。星野哲郎の作詞で津軽ひろ子がB面で最初に歌ったが注目されず、ちあきなおみがカバーして多くの人の耳に触れ、最近は神野美伽が歌って注目をあびている「帰れないんだよ」。
 続いて「智恵子抄」「サロマ湖の歌」「関東春雨笠」「夢淡き東京」「ふるさと列車」「憧れの住む町」「浅草姉妹」「青春の城下町」「長崎の蝶々さん」と。美空ひばりの曲が3曲。やはり藤山一郎、岡本敦郎、二葉あき子の曲も複数ある。
 さらに「早春賦」「からたちの花」「高原の宿」。平野愛子の「白い船の入る港」。「古城」「大利根無情」「愛の賛歌」「赤いランプの終列車」と続いた。
 デュエットのコーナーでは、定番の「青い山脈」「お島千太郎旅唄」「いつでも夢を」「高原の月」といった曲。
 特別コーナーは「鐘」。戦争孤児を描いた菊田一夫原作NHKラジオドラマ「鐘の鳴る丘(とんがり帽子)」の主題歌で古関裕而作曲作品。他に「チャペルの鐘」「ニコライの鐘」。「フランチェスカの鐘」はやはり同会の功労者後閑昌子のすばらしい歌唱。「長崎の鐘~新しき朝の~」。
 歌は世につれ、世は歌につれ...ということが言われるが、どの歌の歌詞も曲調も、その時の時代を表現している。少し時が映れば、その歌詞は絶対に出てこない。メロディーもだ。だから、聴くと自分のその時代を鮮明に蘇らす。
 自分のまったく個人的な経験とか、そのとき考えて得いたこととか、嬉しかったり悲しかったこととか。それと歌を聴いたときが重なりって頭に記憶されている。妙なものである。ここに、大衆歌謡の存在価値がある。
 人は誰でも喜怒哀楽がある。落ち着かせる必要があるとき、高揚させるべきとき、沈んだ気持ちから抜け出すときといったときにも、好きな歌を聴くと実際の効果がある。
 だから、歌はまったく個人的な嗜好品。そのあたりは、ひとりひとり別物。聴くだけでも、自分が歌っても、気持ちをプラスにしてくれる。豊かにしてくれる。
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 人気番組「武田鉄矢の昭和は輝いていた」の番組で、好きな歌手3名が取り上げられていたのを観た。「女性歌手列伝~岸洋子、藤圭子、青江三奈」。
 藤圭子のコーナーで、珍しく「有楽町で逢いましょう」が紹介されていた。これは1970年、歌いつがれて25年藤圭子演歌を歌うというアルバムのなかに収められたカバー曲のひとつで、残念ながら映像はない。舞台での記念公演だったと思うので、映像もどこかにあるのではないか。
 このレコードは何年か前に発見してデジタル化して昨年暮れの大処分(アナログレコード類で段ボール25箱ほど)で手放したひとつ。「有楽町で逢いましょう」を機会見て紹介しようとしていたもの。
 藤圭子は歌がうまい。だから、カバー曲もなかなかいい。
 01_圭子の夢は夜ひらく/02_リンゴの唄(並木路子)/03_啼くな小鳩よ(岡晴夫)/04_港が見える丘(平野愛子)/05_星の流れに(菊池章子)/06_銀座カンカン娘(高峰秀子)/07_カスバの女(エト邦枝)/08_好きだった(鶴田浩二)/09_有楽町で逢いましょう(フランク永井)/10_南国土佐を後にして(ペギー葉山)/11_黒い花びら(水原弘)/12_潮来笠(橋幸夫)/13_アカシアの雨がやむとき(西田佐知子)/14_出世街道(畠山みどり)/15_お座敷小唄(和田弘とマヒナスターズ)/16_網走番外地(高倉健)/17_女のためいき(森進一)/18_池袋の夜(青江三奈)/19_長崎は今日も雨だった(内山田洋とクール・ファイブ)/20_命預けます
 だた、番組でも紹介されていたが、技巧をこらせる歌手ではなく、自分の歌唱でストレートに歌うのだった。それが魅力であった。
 声がかすれていて、歌によってはその迫力が増し、ドーンと聴く人の胸に響くのであった。それは必然的に、そのような藤の歌唱の特徴がマッチした曲では全開する魅力がある。逆に明るい軽やかな曲にはあっているとはいいがたいともいえる。
 歌はうまく歌っていても、単調に響く。
 フランク永井もまさにそうだったのだが、自分の歌での自分の喉、自分の歌唱の生命線をよく自覚していた。
 藤も喉のポリープで歌えなくなり、手術して声は復活するのだが、彼女の特徴であるところの声のかすれが出なくなった。このことを藤自身が語っている。
 「あたしの歌っているのは、喉に声が一度引っかかって、それからようやく出ていくところに、ひとつのよさがあったと思うんだ。ところが、どこにもひっからないで、スッと出ていっちゃう。うまいへたというよりも、つまらないの。聴いていてもつまらないし、歌っていてもつまらないんだ。どう歌ったらいいのか。いろいろやってみたけど、駄目だった。あたしが満足いくようには歌えなかった」と。(沢木耕太郎「流星ひとつ」)
 これほど歌手にとって切ないことはない。
 彼女は引退した。フランク永井の晩年の気持ちと重なる。
 藤が歌った「有楽町で逢いましょう」は、明るく、恋で胸が弾む方向の歌。だから藤圭子がすばらしくうたっても「圭子の夢は夜開く」「命預けます」のような味をえられないのだが、鶴田浩二の歌った同じ吉田正作品「好きだった」とともに、つい何度も聴いてしまう。
 歌の背景が暗い、しかも地獄に引きずり込むような極限の深さをもつ「星の流れに」「カスバの女」「網走番外地」などは雰囲気があう。また「女のためいき」「池袋の夜」などの、夜の女の心情をテーマにしたあっている。「黒い花びら」「アカシアの雨が止むとき」もいい。
 番組に登場する、他の岸洋子、青江三奈については別の機会に触れてみたい。

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