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 京マチ子が5月12日に亡くなり、親交のあった方々で葬儀されたことが報じられた。95歳であったとのこと。こころからご冥福をお祈り申し上げます。
 大映の代表的な大スターであった。私的にはフランク永井が世に躍り出たきっかけになった、百貨店そごうの東京進出大キャンペーン「有楽町で逢いましょう」、テレビ、小説、歌謡曲、映画と大々的な取り組みが展開され、歌はビクターから新人フランク永井が担当。その映画は大映が「大映カラー・総天然色」として制作、その主演が京マチ子だった。
 京マチ子について、中日スポーツ紙は【黒澤明監督の映画「羅生門」(1950年)では、ヒロインの真砂役を熱望し、眉毛をそってオーディションへ。黒澤監督がその心意気を買い、見事に役を射止めた。その後、溝口健二監督の「雨月物語」(1953年)などに出演、スクリーンで圧倒的な存在感を見せた。51年のベネチア国際映画祭で「羅生門」、1954年のカンヌ国際映画祭で「地獄門」と、出演作が海外の映画祭で相次いで最高賞を受賞し「グランプリ女優」と呼ばれた】と紹介していた。
 筆者が最初に京マチ子で驚いたのも、まさに「羅生門」だった。好きな三船敏郎で観たのだが、彼女の熱演も強烈な印象を残した。これは外国に受けそうなキャラクター、演技だなと感じたものだった。(写真は「羅生門」の珍しいバージョン)
 それが京マチ子を大映の代表的な女優に押し上げたものだが「有楽町で逢いましょう」(1958年)までは特に気にしていなかったのだが、この映画では主役を演じきっている。この映画で主役は若い川口浩か、可愛い野添ひとみかなのかもしれないが、当時売り出しの菅原謙二とコンビの彼女の演技というか、迫力と存在感はピカ一だ。
 京マチ子がスクリーンを通しての演技がそのまま生の彼女ではないだろうが、他を圧倒するものがある。やはり、主役だと感じた。
 ストーリィは特別なものではない。急いでドラマ化したものだから、映画自体の全体としての評価はほどほどなのだが、フランク永井ファンにとってはどうしても押さえておきたくなる。
 フランク永井の出演は開始と同時に歌う主題歌。これはフランク永井の映画デビューでもあるが、当時は観たファンは喜んだと思う。現在と違い映像はほとんどない。あってもまだ普及が弱い白黒テレビの時代の「総天然色」(この名づけが!)だったのだから。主題歌は映画の後半でも流れる。それはこの映画でしか聞くことができない歌詞のもの。このときはフランク永井の映像はない、声だけ。
 百貨店そごうは現在のビッグカメラ有楽町店に変わったが、読売会館。ここに大映の後継KADOKAWAが映画館となっている。有楽町には「有楽町で逢いましょう」の歌碑あり、itoshiaがある。そごうができたことは、まだまだ戦争の爪あとが残り、闇市で有名な場所でもあった。わずか、ガード下の居酒屋にその名残というか雰囲気をとどめている。
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 5月11日の朝日新聞の「サザエさんをさがして」欄を読んだ。それは、1月に発売された「日本の流行歌スターたち[2]松尾和子」の「お座敷小唄」(1964ビクター、作詞不詳、作曲陸奥明、採譜和田弘、編曲寺岡真三)について書いてあった。
 上記CDについての若干の私的説明を付けたものとして触れておく次第。それは当初の発売、その後についてのことが記されているからだ。翌年にも新編曲で「続お座敷小唄」が出たのだがいずれも、作詞・作曲:不詳、採譜:和田弘として発売されたが、そのレコードは200万枚を超える大ヒットとなる。
 先に記したように現在は、作曲陸奥明が明記されている。菅原都々子の父君。発売当時からしばらくして陸奥明の「籠の鳥エレジー」(1954年)のメロディーだったということで、改めて「確認」されたもの。言うまでもないことだが、当時はいいメロディーであるがゆえに勝手に詞が変えられたり変更されたりして、誰の歌かも知れずに広まることが、よくある時代だった。
 メロディーを発見したときのことは、松平直樹も近年までエピソードとして語っているので有名だ。
 現象として面白いというか、ここで取り上げたのは、当時「作者不詳」と記されていて、それが「お座敷小唄」のように大人気を得て売り上げがあがると、そこに「俺こそが作者だ」と名乗り出てくるものがあったということ。
 フランク永井の恩師吉田正がシベリア時代に作曲した「異国の丘」(作曲時は「昨日も今日も」。NHK素人のど自慢で中村耕造が歌ったときは「俘虜の歌える」。竹山逸郎、中村耕造でレコード発売したときに「異国の丘」となった)のエピソードのときも同じだ。NHKが全国に作者を探したのに、何人もが申し出た。
 「お座敷小唄」では、「1943年に広東で作った『広東小唄』の一部が使われている」と訴訟された。「1944年に作った『茶碗酒』の歌詞が使われた」との訴えもあった。この二つは1967年正式に裁判で退けられた。だが、ややこしいのは歌詞。和田弘が強い興味を持った時点でも、十番を超す歌詞があり、そこからこれはという6つを選択した。いわば替え歌としていくつあるかわからなかった。レコードがでると、またそれにいくつもも替え歌の歌詞が発明されて追加されていく。
 この歌は人気が半端じゃない。当然だが何人もの歌手でカバーが出る。だが、ここでは歌詞が同じでないのがいくつも出る。その歌詞がれっきとした別の歌のものというもの出てくる(1981年、藤山一郎歌唱のものは小俣八郎作詞「吉田芸者小唄」が元歌だと認められたケースもある)。
 と、いろいろな問題が浮き彫りになるのだが、和田弘とマヒナスターズと松尾和子のバージョンを他のものが超えることはなかった。
 さて話はまるきし別のに変わる。「お座敷小唄」はフランク永井と直接関係ないので。少し前に日本歌手協会の歌謡祭を取り上げた。この続きということで、すこし追加してみたい。
 昨年暮れと今年年頭にテレビで放送されたのは歌謡祭2018なのだが、ここではフランク永井当人は当然でない。だが、日本歌手協会の歴代の会長の紹介、つまり日本の戦後の流行歌の歴史のようなものの紹介コーナーがあって、ここでフランク永井の歌も取り上げられたのだ。
 レコード大賞に輝いた「君恋し」は現在の会長田辺靖雄が歌った。ちなみに、歌手協会は1963(S38)年に発足。初代会長は東海林太郎。以下藤山一郎、ディック・ミネ、林伊佐緒、田端義夫、青木光一、ペギー葉山を経て現在は田辺靖雄が八代会長。「有楽町で逢いましょう」も宇山保夫によって歌われた。不勉強で歌手宇山保夫は存じ上げないが、知る人ぞ知る歌のうまい方だという。
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 つねづね、昭和歌謡における異彩というか、たいへんユニークな作曲家として私的に(つまり勝手に)注目をしているのが、浜口庫之助、山本直純、小林亜星。
 もちろんフランク永井の恩師である吉田正やスタンダードな遠藤実、古賀政男といった歴史に名を残す作曲家はいうまでもないのだが、上記ご三方は何か妙な親しみを感じる。それはおそらく彼らの生きざまなのかもしれない。
 テレビ番組で特集が組まれるたびにじっくり観させてもらう。この度は4月20日にBSフジで組まれた浜口庫之助~素顔と真実時を越えた名曲の全て」について触れたい。
 浜口庫之助の生涯の活動を、実にみごとにまとめあげた2時間番組といえるのではなかろうか。しかもいままで私的にだが見ていない珍しい映像も交えてあった。そして、彼の作った歌を歌った歌手が勢ぞろいで紹介されていた。
 ゆえに、見ても小さくて判別できないのを承知で番組のシーンを撮影したのをわんさか並べてみた。
 浜口の作った歌は裕次郎が歌った「夜霧よ今夜も有難う」はストレートというか、流行歌の線をまっすぐに押さえたような歌だが、これはむしろ少ないのではないだろうか。こうした線よりも、ちょっと違い、いちど耳にしたら、あれっと感じ、耳にここちよく張り付くようなのが多い。これが彼が追い求めた曲調なのかと思う。
 番組で紹介された曲をみると、それがよくわかる。
 黄色いさくらんぼ(浜口庫之助ほか)/僕は泣いちっち(守屋浩)/バラが咲いた(マイク眞木ほか)/人生いろいろ(島倉千代子)/愛のさざなみ(島倉千代子)/星のフラメンコ(西郷輝彦)/夜霧よ今夜も有難う(石原裕次郎)/涙くんさよなら(浜口庫之助)/恍惚のブルース(青江三奈)/もう恋なのか(錦野旦)/空に太陽がある限り(錦野旦)/愛して愛して愛して愛しちゃったのよ(浜口夫妻)/涙と幸せ(江利チエミ)/へんな女(水原弘)/有難や節(浜口庫之助)...
 「黄色いサクランボ」「バラが咲いた」「愛して愛してあいしちゃったのよ」などはその最たるものと感じる。いちど聴くと頭の中で勝手に何度もリピートされる。水原弘の「へんな女」などは、実にばかばかしい曲なのだが、彼の歌唱のうまさもあるが、聴けば妙に楽しくさせる。
 浜口は若い時からバンドを組み彼自身がボーカルで歌っていた。だが、自分が歌ってきた歌のほとんどが洋楽で、これは本当に自分が歌いたい曲なのだろうかと疑問を感じるようになる。なら、自分で満足いくものを作る側になろうと、作曲に仕事のウエイトを移していく。
 最後まで寄り添った夫人が証言する。いつでもギターを手にしていた。生活のことごとく、何気ない会話のひとことひとこと、飲みに行ってもそこで話されるあれこれ、それらを常に曲との関係でつながることを頭に持っていたと。
 多くの作曲家もそうであるようだが、浜口はそれを実際に曲にして適切な歌手に歌わせて、視聴者の気持ちにつなげている。
 作曲家はしかし自分の思うものだけを作り続けるのは難しい。関係者からの依頼を受けてそれに対応して作る必要もある。映画のテーマ曲とか歌手やレコード会社の求めとかある。当然その場合でも見事な対応をするのが、さすがの作曲家だ。
 青江三奈が歌った「恍惚のブルース」は有名だ。
 さてフランク永井にも提供している。1967(S42)年の一枚のEPの表裏。「風と二人で」「明かりを消そうよ」。いずれも聴けばユニークな雰囲気を歌詞でもメロディーでも実現されている。それなりに完成した曲だ。だがヒットを得ることはできなかった。
 それはなぜだろう、と考えながら幾度か聴いてみる。やはりビクターがフランク永井に付けてきた色と合わなかったのではなかろうか。レコード会社が歌手を売り出すときに、イメージ展開を欠かすことはない。それが成功してヒットを出し、歌手の名も広がるのだが、これが新しい展開の障壁になることもある。
 フランク永井の場合は実際は実の幅広い分野に挑戦していて、それぞれの分野の実勢を残してもいるが、ファンの方はどうしても作られた色に寄ることが多い。その歌手の全体像を客観的に見て評価し支援するということは主ではない。私的な趣向がすべてに優先される傾向がある。それは大衆文化の強みでもあるので、ここをとやかく言ってもしかたない。
 フランク永井については、都会派ムード歌謡、低音の魅力、カバーにめっぽう強いなどだろうか。そうそう、カバーでは錦野旦の「もう恋なのか」を歌っている。フランク永井が舞台を降りて30年を超える。今となって残された遺産を整理してみると、ファンの気持ちはほとぼりが冷めて、ようやく、当時ヒットはしなかった曲であっても、冷静に目を向けられる。
 そんな思いを巡らせてくれる、浜口庫之助番組であった。
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 先日ヤフオクで「部長刑事」というLPを得た。写真の真ん中のもので、下のジャケットはその中にあった2枚のLP。部長刑事は1958年から2002年まで関西の大阪テレビ、朝日放送大阪テレビ、朝日放送で放送されていた関西ローカルの刑事ドラマシリーズとのこと。フランク永井がこのドラマの主題歌、あるいは挿入歌でも歌っているのではないかという想像から購入に至ったもの。
 開いてみたら予想とは異なり、ドラマの放送が20年連続でなされたことが、業界(世界を含む)での偉業ということで、それを記念した作品。朝日放送、大阪府警察本部、大阪ガスが協賛して、ビクターが制作した。
 ドラマが最初に放送された年から2千回を迎えるまでの20年間を、そのときどきに流行した歌を2枚のアルバムにしたもの。ビクター歌手がそれぞれの年に大ヒットで話題を呼んだ曲を連ねたものだ。
 最初にフランク永井の「こいさんのラブ・コール」があり、4曲目に「君恋し」が採用されているというもの。最後はピンク・レディーの「ウォンテッド」。なるほど、という構成だ。
 だが、タイトルが「部長刑事」というのに、収録されている曲がドラマとはほとんど無関係というのだから、驚きもするのだが、聴いてみれば名司会者浜村淳が全曲を紹介する使用になっている。トークに曲がかぶさる、つまりこのスタイルで当時よくあったラジオの番組を聴くような感じだ。
 またケース内には20余ページにおよぶ部長刑事の解説がついていて、これは丁寧だ。時代を反映したものであることがわかる。その年にまつわる歴史のエピソードが概観できる。
 ちなみに、このドラマはローカル局の放送で、関西以外では知らないのが多いと思う。近年BSの番組で以前のドラマの再放送をしているが、この時代のものは映像も残っていないようで、今は当時観た人の頭の中にのみ残っている。刑事もののはしりなのだろう。後に石原軍団も含めて「後継?」のドラマを続々手にした。
 
 さて、この企業の記念盤で思い出したのは、写真右の「モービル70」というLP。
 モービル石油は、正確には何も知らないのだが、その後に企業の合併が幾度かあって、現在ENEOSになっているのではないか。モービル石油は明治26(1893)年にスタートし、このLPができたのはその70周年記念とのこと。つまり昭和38(1963)年だ。この70年間の間にビクター歌手で流行した曲をつづり、20曲1枚のLPにしている。
 面白いことに、厳密ではないが、先の部長刑事盤はこのモービル盤に続いたようなものになる。
 この盤では明治26年に発売されたとされる「凱旋」(佐々木信綱作詞納所弁次郎作曲かちどき合唱団唄)というものが1曲目。不勉強ながら初めて聴いた。
19曲目にフランク永井の「有楽町で逢いましょう」、最後の曲は「いつでも夢を」。
 モービル石油の70年というのに、ここでも特にその企業と直結した曲が入れられているわけではない。山上敬三が見開きに時代の外観を解説している。読むと時代の流れ、変化がわかる。特に70年というスパンはほとんど人生の長さにかぶさる。
 和暦の平成があと数日後に令和に変わる。だから何だということは何もないのだが、この機会にとこの2つのLPを取り上げて聴いてみた次第。
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 一般社団法人日本歌手協会は日本の歌手が参加している組織だ。さまざまな催しを行っているが、秋から初冬に行われる「歌謡祭」は名が知れている。昨年は11月13日14日の2日間、昼夜あわせて8部公演され、およそ200曲がうたわれた。この模様は暮れにテレビ東京で二夜8時間分が放送された。さらに年開けて12時間分(4部)の連続放映が成された。第45回目になる。
 日本歌手協会はプロ歌手の著作権等の権利や資産、栄誉を守る目的で1963年に作られた。著作権の扱いへの関与が変化することもあったが、日本の歌手総勢が寄ってチャリティーなどへの貢献をしていることの意義は定着している。
 東海林太郎が最初の会長をつとめ、その後藤山一郎、ディック・ミネ、林伊佐緒、田端義夫、青木光一、ペギー葉山とリレーされ、2010年からは田辺靖雄がその任についている。
 歌謡祭はテレビでは放映されるものの、時間の関係でどうしても名が馳せている歌手から順となるために、放送されない歌手も多く出る。総出のイベントであるだけに、声援する歌手が登壇する部(日にちと昼夜で別れる)を特定して券を得るか、余裕があれば通しで会場に足を運ぶしかない。
 筆者は、実は一度も行ってはいないのだが、十年ほど前に寸前までその気になっていたことがあった。それは知り合い?の歌手がいて歌う予定だったのだが、急にプロらしくなく体調不全でキャンセルになったため、他にどうしてもやらなばならないほうに都合をあててしまって行けなかったもの。
 さて、フランク永井だが、歌謡祭にはどうだったのだろうか。などと、年明けに放送された長時間番組のビデオを、何回かに分けて観終わって思っていたところに、熱心な知り合いの方から情報をいただいた。それによれば、一回だけ出場していて、そのときの映像を録画して秘蔵しているとのこと。
 この時期に会長に任にあったのがディック・ミネ。彼こそフランク永井がジャズ歌手から歌謡曲に転向するかで悩んでいたときに背中を押してくれた先輩。彼がフランク永井の登壇を強く望んで実現したのではないかと。
 ならばということで、お願いして、このたび鑑賞する機会を得た次第で、大変感謝もうしあげます。
 それは、1985(S60)年2月26日、新橋演舞場で行われた第7回歌謡祭。この昼の部の45人目あたりで登場し「おまえに」を歌ったものだ。放送では順番がまったく無視された編集になっていて5番目。2時間番組(CM含む)。
 この年の暮れにフランク永井は舞台を降りたので映像としては貴重なもの。音撮りもやや不満はあるものの何かのどの疲れを感じる歌唱のようだった。
 筆者は当時テレビをほとんど見なかったので、どういった歌手がどんな歌を歌っていたのかということがわからない。影像を観ていると、相当数の歌手のことを知らないばかりか、知っている歌手でも歌っている歌に覚えがないというのが多く、ずいぶんとフレッシュな感じで鑑賞した。
 大川栄策「冬花火」とか、山本リンダ「酒場で」。春日八郎「その後のお富さん」二葉百合子「みちのく旅鴉」等々。
 同じことは、今年放映の12時間放送もそうだ。そうとう多くの歌手について名前も曲も知らない。テレビに出るということで歌手は名を、全国区にする。生まれた故郷や知人、友人、親戚の世界から、初めて名も曲もその人の映像イメージも他人の記憶にのこり、注目もされる機会になる。
 現在のyoutubeでの作戦と同じ。だが、注目されるのは大変なこと。影像の時代。まずは、容姿、声、曲、振り...。こうしたことで、視聴者に「あれっ」と感じさせ、もっと見てみたい、聴いてみたいという気持ちにさせていかなけれえばならないという世界。つくづく厳しい世界だ。
 長年テレビで歌謡番組を観ているが、前に活躍していたのに今はいない。それぞれ事情はあるのだろうが、何も知らされることなく姿を消した(消された)人も多い。つまり、僅かの曲が注目されて売れた、というだけではダメなのだ。永続的に視聴者にフレッシュな風を当てる力と、決定的なのはその歌手の人柄だろう。人として嫌われたらお終いだ。
 社会的な犯罪などもってのほか。筆者の記憶にはヤク、殺人に関与した人までいた。個性を勘違いして他人に対する口の利き方、行動で迷惑を顧みないという人もいた。そうした人を崇めるような勘違いしたファンもいるから面倒だ。
 大衆文化の先を行くものが、己の与える影響について自覚を持つことは大事なのではないだろうか。本人は言わずもがなだが、取り巻きにも同じことが言える。商業主義やグローバリズムの波の勢いを背後に感じて、常識の破壊を当然視するような風潮との対峙も必要ではなかろうか。
 フランク永井の恩師吉田正は、子弟をまずそうした点から諭した。上手な歌手を目指しても、子弟として許すのはまず人柄を観て人としての価値、後々まで視聴者を人として裏切らない素養を磨かした。もちろん、そうしたことは個人の自由に関係する。自ずと限界がある。だが、そうした姿勢を大切にする気持ちは伝えた。
 加齢と酒の勢いで、30年以上前の映像を観ながらやや混乱したかも知れないがご容赦を。
 また、古いテレビ録画には必ず?CMが入る。これも妙にフレッシュだ。驚くようなときがある。時代の最先端のイメージを訴えるのがCM。今のCMもそうだが、つっこみ満載だ。だからまぁ、お愛嬌で楽しむしかない。
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 日活の大スター、テイチクの稼ぎ頭である石原裕次郎。日本で一番愛された男というキャッチも使われた。文句は誰もつけなかった。まあ、昭和日本で男のスターといえば、認めざるを得ないだろう。
 フランク永井、石原裕次郎は当時「低音の魅力」の代表として、誰もが知っていた。最初は三船浩が三人目としてあがっていたが、その後幾人かに変わったようだ。低音ブームがフランク永井の「有楽町で逢いましょう」のヒット以来盛り上がった。
 そのフランク永井のいくつかのヒット曲は、数多くの歌手がカバーしたのだが、低音の歌い手の双璧石原裕次郎がカバーするのは格別といえる。
 フランク永井のビクターに資本的にやや関係が近かった時期もあるテイチクの裕次郎と、特別な交換契約のような関係で、フランク永井が裕次郎の歌を歌い、裕次郎がフランク永井の歌を歌うというのが実現した。もちろん、背景にはカバーブームが盛り上がったということもある。
 しかし、低音を代表する二人が同じように歌うのは芸がない。そのあたりの工夫は当時のプロデューサーが大変苦労したことだろう。
 石原裕次郎が歌ったフランク永井曲は多くない。「東京午前三時」「俺は淋しいんだ」「東京ナイトクラブ」がある。「君恋し」はフランク・バージョンのカバーとはちょっと異なる。裕次郎は懐メロとかカバーに多数挑戦していて、もしかしてフランク永井のカバー(邦楽、洋楽あわせておよそ400曲)よりも多いかもしれない。
 そのレコードはフランク永井活躍時期とかさなるが、同じようにシングル、LP、カセット、ソノシートと多数ある。裕次郎の場合は、没後もすざまじい人気が続き、CDや映像もコンスタントに売れてきた。ご本人は「俺は歌手ではない。俳優」だ、と言い放ち要請されても、NHK紅白歌合戦には出なかった。また、歌は歌い終わったら歌詞などすっかり記憶から消し、出演で歌の要請があれば再度思い起こして、ADが指し示すボードで歌うということも多かったという。
 彼は後年自分の思う映画への思い入れで巨費を投じたのだが、その費用を全国歌の公演で補填したともいう。歌手であるかどうかというよりも、ご本人はそれをさらっと実行できるほどの歌の実力を持っていたのも事実だ。
 このたび、石原裕次郎の全集には手が届かなかったが「石原裕次郎愛唱歌ベスト40」(2009年)をじっくり聴いてみた。このタイトルでLPは確かなかったと思うが、当時数多く吹き込んだムード歌謡のジャンルに入る40曲。フランク永井のカバーがそろって収められている。
 1.東京ナイトクラブ(デュエット:八代亜紀) 2.赤いグラス(デュエット:八代亜紀) 3.ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー 4.赤坂の夜は更けて 5.知りすぎたのね 6.グッド・ナイト 7.東京午前三時 8.赤と黒のブルース 9.ラブユー東京 10.今日でお別れ 11.柳ヶ瀬ブルース 12.よこはま・たそがれ 13.再会 14.俺は淋しいんだ 15.君こそわが命 16.霧にむせぶ夜 17.銀座ブルース 18.知りたくないの 19.小樽のひとよ 20.港町ブルース
 21.知床旅情 22.誰もいない海 23.シクラメンのかほり 24.白いブランコ 25.ひとり寝の子守唄 26.遠くへ行きたい 27.時には母のない子のように 28.四季の歌 29.希望 30.女ひとり 31.爪 32.くちなしの花 33.ウナ・セラ・ディ東京 34.ベッドで煙草を吸わないで 35.喝采 36.あいつ 37.夜明けのうた 38.倖せはここに 39.この胸の高なりを 40.そっとおやすみ
 さすがに「ムード歌謡」代表曲といったところ。ということで帝王のフランク永井もほとんどをカバーしている。裕次郎の歌は緻密さというのはない。ご本人は感情の限りをつくして緻密に挑戦しているのだろうが、そこが聴く人の印象との違いだ。図太い大砲の射撃のようにズドンと一本調子に歌う。
 フランク永井の恩師吉田正はフランク永井にはレコードを聴く人に日本語的な違和感を感じさせてはならない、と厳しい発声の訓練をした。語尾、滑舌で手を抜くような歌い方を容赦なく諭した。裕次郎にも聴かせてあげたいような感想を抱くのだが、実はこれは裕次郎にはおそらく逆効果にしかならないだろう。ここがプロと自称「歌手でない」人との相違。
 裕次郎のラフさ加減。多少譜面に忠実でないところ。それでいて目に見えない本人の工夫。彼の持つ独特の粗さとソフトな声。裕次郎ファンにはこのびっきらぼうがたまらないのだ。彼の売り出しイメージがタフガイ。やんちゃなわがままボーイ。実際はそうであるはずはないのだが、彼は生涯そう演じきった。だから、彼が残した歌もばっちりとその装飾に加担している。
 裕次郎のビジョンを作り、世に出した多数の人たちの圧倒的な勝利だ。ファンはしょせん浮草のような、ちょっとねじれを持っている。論理的でもなく、絵にかいたような高尚さを全く求めていない。そこを突いた創作者たちに、裕次郎は生涯全身で答えたといえる。
 あらぬ方向に話が及んでしまい済まない。さて、このアルバムに注目したのは「俺は淋しいんだ」。これがいままで、なかなか聴けなかったからだ。この曲も「東京午前三時」も、フランク・バージョンとはまったく異なる編曲が、裕次郎らしさを押し出している。オリジナルのフランク永井への敬意。そしてそうした名曲に裕次郎らしいオリジナル性を加えるというトライだ。
 「東京ナイトクラブ」は八代亜紀とのデュエット。裕次郎はデュエット曲の再吹込み時に八代と多くを歌っている。八代亜紀は実はフランク永井とも「東京ナイトクラブ」をデュエットしている。フランク永井と深い信頼関係をもっていた藤田まこと。彼はフランク永井の歌をいくつも歌っているが、この「東京ナイトクラブ」を同様に八代と歌っている。だから、八代は本家フランク永井だけでなく、裕次郎や藤田ともご一緒するという栄誉を得た。
 さて、フランク永井は「ブランデーグラス」「夜霧よ今夜も有難う」「銀座委の恋の物語」「夜明けの街」といったところを歌っている。
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●たそがれの東京タワー(主題歌は「たそがれのテレビ塔」)
 5/29-6/1 15:00~
 6/2~6/4 13:00~
●西銀座駅前
 5/29~6/1 18:30~
 6/2~6/4 15:50~
●らぶれたあ/夜霧に消えたちゃこ
 6/9~6/11 18:30~
 6/12~6/15 15:50~
ラピュタ阿佐ヶ谷
http://www.laputa-jp.com/laputa/program/sp_paradise2019/
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 この拙い「フランク永井あれこれ」の記事をご覧いただき、以前からさまざまな面白い情報を寄せてくださるDさんからいただいたお話です。
 感謝をこめて紹介させていただきます。
 旅先でふと見つけたお土産「苺恋し」。嬉しくなって思わず写真を撮ったとのお知らせ。その後、思い起こせば似たようなものがもっとあった、ということで、調べてみたらこれだったと教えていただいたのが「きみ恋し」「黄身恋し」「麦恋し」。どうみても、フランク永井が歌った「君恋し」に刺激されて付けた名前だろうと。
 面白い! 先に知っていたのがお酒の「君恋し」。これは名もそのままだ。
 Dさんはフランク永井の歌に思いをよせておられて、昨年のフランク永井歌コンクールに参戦はなかったのだが、大崎市松山の会場に駆け付けているファン。
 【「君恋し」の存在が大きいということだと思います。なかなか曲名が60年過ぎても商品名で使われるのはすごいと思います。大変うれしくて職場仲間の間でも話題にしました。
 すっかり毎日の生活にフランク永井さんが存在しているようになりました。改めて、本当にフランク永井さんの存在やら、音楽の存在というのは素晴らしいと思います】と。
 ちなみに、この後に「大阪ぐらし」が関西の有名な菓子店から長らく発売されているということが分かった。しかし詳細は不明なのだが、それは現在発売が終わっているとのこと。残念である。
 ここで紹介した商品以外にも、きっともっとあるに違いない。ご存知のかたがおられたら、ぜひお知らせください。
 写真をみただけでも、こころのこもった作品で、いちど食してみたいと思えるもの。ご関心ある方はインターネットでも発売しているものなので、トライしてみたらいかがでしょう。
 フランク永井が歌った「君恋し」。最初にこの歌が歌われた昭和初期(1929=S4)からすでに90年経ったことになる。フランク永井が歌ったのが1961(S36)なので、それからでもおよそ60年も経つ。映画もあり、多くの歌手によるカバーもあって、それぞれにドラマをもっている。そして、今も歌われているばかりか、こうしたお土産やお菓子などで親しまれているというのは、嬉しいことであり、感服するばかり。
 佐々紅華のメロディーが優れていたのだろう。最初は彼が詞をつけていたのが歌われ、その後時雨音羽が三番までの詩を付け、レコード化された。戦後フランク永井が歌ったときは、よりジャズ風なリズムとテンポになり、詞もフランク永井のアイデアで2番まで+サビの繰り返しに変わっていった。
 カバーなのにフランク永井のオリジナルといっても、誰も認めてしまう現在の形になったのだが、それだけに完成度の高い「君恋し」ができたと言える。よく言われるように、当時恩師吉田正と組んで見事な編曲を作ってきた第一人者だった寺岡真三の職人技の結構でもあった。
 昭和初期の大ヒット作を、鮮やかに蘇らせた。この功績は他のカバーやリバイバル作品とは異なる魅力を付加したものだった。佐々紅華は、実はフランク永井の発売の直前(1961年1月)に亡くなった。日本レコード大賞の受賞に輝くのは直接みていないが、あちらでこの上なく喜んだことであろう。
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BSテレ東「武田鉄矢の昭和は輝いていた~絶唱!伝説の歌手・藤圭子2Hスペシャル」を鑑賞
 武田鉄矢がナビをつとめるこの番組、これはと思うテーマが放送されるときは観てみる。なかなか聞いていて安心な番組だ。
 3月21日は表題の通り藤圭子が話題であった。
 当然、フランク永井との関係で見ていたのだが、歌がうまい歌手はカバーを多く残しているということで、フランク永井の「君恋し」を歌っていると紹介が移っていた。
 まあ、一般的にはそうなのだが、このブログで記したことがあるように、フランク永井は藤圭子のヒット作「命預けます」をカバーしている。そればかりか「圭子の夢は夜ひらく」にあて「フランクの夢は夜ひらく」を歌っていることを書いた。
 実はフランク永井が歌ったそれらはいずれも、カセットテープ版でPONYから発売された作品に入っている。前者は「フランク永井~最新ヒット20を唄う」、後者は「デラックス20 フランク永井~夜のムード」に収められている。
 そんなフランク永井と藤圭子の縁を思い出しながら観た次第。番組にゲストで出演して、藤圭子のエピソードを語ったのは、写真左から彼女の元マネージャー成田忠幸、同期の歌手辺見マリ、RCAのディレクター榎本襄。そして、彼女の歌に寄与したお三方。左は「圭子の夜は夢ひらく」作曲の曽根公明、中は彼女を見出し育て、多数の詩も書いた石坂まさを、右は「京都から博多まで」「女のブルース」作曲の猪俣公章。
 番組の局サイドの宣伝は次のように紹介している。
 【凄みのある歌声、独特の節回し、そして強いまなざし。歌謡曲ファンにとって忘れることのできない存在の歌手、藤圭子にスポットを当てる。平成25年にこの世を去り、今年は七回忌に当たる。/「演歌の星を背負った宿命の少女」というキャッチコピーでデビューした彼女の歌手人生とは、一体どういうものだったのか?/演歌の世界でヒットを連発した、作詞家・石坂まさをとディレクター・榎本襄氏によって行われたデビュー大作戦。「新宿の女」「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」この3曲がヒットするまでの驚きの戦略と秘話が明かされる。また、藤圭子の一番近い存在の兄弟子でありマネージャーであった成田忠幸氏が語る彼女の素顔と数々のエピソード。さらに、デビューが同期の辺見マリが相談されたその内容とは!?/若き藤圭子が語る貴重なインタビュー映像や、その圧倒的な歌唱映像で藤圭子の魅力に迫る2時間スペシャル!!】
 「夢は夜ひらく」は薗まり他が競作で多数歌っている。藤圭子の場合は「圭子の...」とわざわざ題名に歌手名がついている。彼女に歌わすのであれば、歌詞が藤の印象と会わない。これでは売れないと、石坂がその場で彼女用の歌詞を書き換えたという。確かにこれがあたった。彼女ならではの雰囲気になっている。
 同様なことはフランク永井に歌わせるときもあったのではなかろうか。だが、PONYのこちらはちょっと落ちる(失礼!)。
 さて、番組では藤のオリジナル曲ばかりでなく、カバーも多く紹介している。「カスバの女」「波止場だよ、お父つぁん」「アカシアの雨がやむとき」「リンゴ村から」「女の意地」「雪國」「おんなの宿」「番場の忠太郎」「雪の渡り鳥」と、驚くようなバラエティ豊かな選曲。
 「雪國」「おんなの宿」などは彼女のオリジナルとして出しても十分にいけると思える印象を受けた。また「番場の忠太郎」だが、これは歌謡浪曲で筆者の好きなフィールド。せりふ回しがいい。1979年の企画作品アルバム「歌謡劇場」に収められている。
 歌謡浪曲と言えば二葉百合子も有名だが元祖創作者は三波春夫。彼の忠臣蔵シリーズはスカッとする。あの活舌の良さは誰もまねできない、と感心ばかりなのだが、番組では彼が藤に関心を持ち、歌を聴いて称賛していたという。最初は彼女の両親が三波と同じ浪曲師であったことからだという。その子として子供時代から親について全国を公演し、いつの間にか舞台で歌うようになっている。そしてその藤の子が宇多田ヒカル。DNAのなせる業か、いややはり根性と努力だったのだろう。
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 BS朝日の「ザ・ドキュメンタリー~山本直純~音楽の底辺を広げた男」を観た(3月16日)。かねてから日本の音楽家で、それとなく感心し注目しているのは、山本直純、浜口庫之助、小林亜星だからだ。
 彼らは一様にフランク永井との関係はそう深くないのだが、生きざまが愛すべき何かを多く持っているとみるからだ。
 山本直純は、音楽界でこのタイトル通り、まさに「音楽の底辺を広げた」ことだ。音楽一家に生まれ、まれにみるほど優れた感性を持っており、昔から高尚と言われたクラッシックをきわめ、それにとどまることなく大衆音楽の発展に貢献した。
 印象的なのは映画「寅さん」の主題歌でもあるが、テレビ番組「オーケストラがやってきた」での活躍であろう。同様な志向で当時は黛敏郎の「題名のない音楽会」というのをやっていた。双方は競って高尚な音楽の世界を庶民の分化に結合した。
 その二人の手法は実にそつがなく、分かりやすく、恐らくこれほど優れた音楽教室は空前のことであったろうという印象がある。音楽に無知な筆者などでも、どれほど楽しく親しみやすかったことか。感心しきり。そのひとりが山本直純だったのだ。
 東京芸大で小澤征爾、岩城宏之とともに斎藤秀雄に従事した。「おまえは世界の頂点をめざせ。おれは底辺を広げる」と小澤に言い生涯それを実行した。この精神というか音楽への姿勢は、その後も多くの作曲家に影響をおよぼして今日に至っている。
 山本の生きざまは必至。学生時代から家族の財政を支える。生涯の妻を得る。大きいことはいいことだ、のキャッチをひっさげ、おおげさな身振りハデな手振りでテレビの画面いっぱいに躍動する。いっけん飛んだおじいさんというところだが、そうした行動のする思考は深い。
 「男はつらいよ」の主題歌を作るにも、歌う渥美清のイメージを最大限にふくらますために、とことん追求する。多忙の中で常に締め切りの追われて仕事をするのだが、そのきつい制限が他の追随を許さないひらめきを生むのだという。星野哲郎の作詞。その曲は淳美の魅力を全開させた。
 無免許運転、制止した警官を振り払って逃走する騒ぎを起こした。翌日に出頭して、自分で謹慎を発表する。ファンを驚かす。自民党の党歌を作る、等々のエピソードも残す。山本の一家は現在でも音楽ファミリーとして健在だ。
 さて、山本直純とフランク永井だが、フランク永井は2曲歌っている。一つは第18回芸術祭参加作品「旅人」(相馬詩彦作詞、飯田信夫作曲)のB面で「さあ太陽を呼んでこい」という歌だ。これは元都知事の石原慎太郎の作詞で、NHKみんなのうた作品だ。NHKでフランク永井の歌唱が流れたかは不明だ。立川澄人やほかの歌手が歌っているのが紹介されている。
 これは子供たちが合唱ではきはきと元気良く歌い、気持ちを元気にさせるという歌だ。フランク永井が流行歌手を忘れて、いい歌唱をしている。
 そして、もう一つはまったくのオリジナルで、1964年のフランク永井のアルバム「ステレオ・ハイライト第3集」(1964=S39、東京オリンピックの年)に収められた一曲で「愛する」(山上道夫作詞)。
 「あなたを愛す、あなたを愛する...」の繰り返しのような、女性が相手を深く愛するさまを語るというような詩を歌っている。フランク永井の歌唱の魅力を引き出そうということのようだったが、はて、ファンにはどう聴こえたのだろうか。

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