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 フランク永井リサイタル「輝ける21年の足跡」
 アルバムは、1977(S51)年1月に発売(SJX-8046~7)されました。

昭和51年10月28日(木)大阪厚生年金会館大ホール(大阪芸術祭参加)
昭和51年11月3日(祭)東京中野サンプラザ

監修=吉田 正
構成=桧原敏春
演出=小野康憲
照明/美術=今井直次
編曲=寺岡真三/近藤 進/服部克久
演奏=北野タダオとアロー・ジャズオーケストラ+ストリングス(大阪)
   原信夫とシャープス&フラッツ+ストリングス(東京)
合唱=エバ・シンガーズ(大阪)/コール・セレステ(東京)
主催=ビクター音楽産業株式会社
後援=ビクター音楽出版株式会社
制作=ビクター芸能株式会社

《第一部》
 1. 君恋し
 2. 夜霧の第二国道
 3. 夜霧に消えたチャコ
 4. 有楽町で逢いましょう
 5. 〔メドレー33曲〕(ラバー・カムバック・トウ・ミー)
 6. 霧子のタンゴ
 7. 俺は淋しいんだ
 8. 東京午前三時
 9. 浮気川
 10. 妻を恋うる唄
《第二部》
 1. 大阪ぐらし
 2. 〔メドレー〕(大阪野郎/船場ごころ/大阪ながし/大阪ろまん/加茂川ブルース)
 3. こいさんのラブコール
 4. ふるさとの風
 5. 恋夜
 6. きっときっときっと
 7. 船頭小唄
 8. ゴンドラの唄
 9. さすらいの唄
 10. ウェア・ザ・ブルー・オブ・ザ・ナイト
 11. アズ・タイム・ゴーズ・バイ
 12. 枯葉
 13. オール・オブ・ミー
 14. 行ってしまったお前(新曲)
 15. そっとしといてあげるから(新曲)
 16. 霧子のタンゴ・パートⅡ(新曲)
 17. おまえに

あいさつ
フランク永井
 皆様、本日はようこそおいでくださいました。
 思えば、昭和29年頃、東京の都心から一時間あまり、国電を2度乗り換え、最後は進駐軍の幌のついたトラックに揺られて、埼玉県朝霞町の米軍キャンプの下士官クラブで歌っていた時期。
 楽譜のアレンジ代に追われて、日本テレビの、のど自慢番組に賞金稼ぎのため出場しました。
 その時にめぐり逢ったのが、ビクターレコードの小野中三氏(現ビクター芸能監査役)でした。氏の手引きでビクターに入社して、遂に吉田正先生にお目にかかることになります。
 昭和30年秋入社、ご存じ「有楽町で逢いましょう」のヒットが昭和32年ですから、三年間の低迷がありました。今のご時勢でしたら、せいぜい半年ぐらいで放り出されていたかも知れません。三年間も我慢して下さった会社の皆さんに、今もって感謝しております。世の中で、私ほど人間関係に恵まれた男はいないと思っております。
 とりわけ、吉田先生は、私の歌の先生という以外に、私のすべての師匠で、ご紹介下さったその友人の方々は素晴しい方ばかり、その方々も、即、私の師でありました。
 その後も、いろいろな分野の方にお目にかかる機会を得、教えていただくことばかりで、世の中に、自分ほど幸せな歌い手はあるまいと、つくづく考える所以でございます。
 そして私、フランク永井が今ありますのも、デビュー以来21年間、変らぬご贔屓を下さったファンの皆様のおかげでございます。心からお礼を申し上ます。
 感謝の念をこめて、このリサイタルをお送りいたします。お楽しみ頂ければこの上の喜びはございません。
 本日は、まことにありがとう存じます。

プラス1年の重み
ビクター音楽産業株式会社 代表取締役社長 渡辺三郎
 きょうフランク永井さんは、歌手生活二十一年目のリサイタルを開かれることになり、大変おめでとうございます。
 この二十一年間の重みは、私たちレコードにたずさわる者にとって、なにものにも替えがたいものだ、と考えないわけにはまいりません。
 もうすでに多くの方々が、ご存知のようにこのフランクさんの歩みは、そのまま、戦後のレコード産業の歩みといっても過言ではないと思います。
 この二十年間、レコード界は、高度成長の下に大きく躍進してまいりました。それは、レコード生産の飛躍的増加といった数の面だけでなく、音楽の形の上での質的な向上といった面も合わせて、レコード史上かつてないほどの成長でありました。
 この間に、フランク永井さんの果たされた役割は、極めて大きなものがありました。という以上に、フランク永井さんの力が、レコードの高度成長のきっかけになった、といっても言い過ぎではないと思います。
 そして、二十年の高度成長を遂げたレコード界は、今年に入って、再び大きな変動を見せ始めております。
 この様な動きを考えますと、きょうのフランク永井さんの二十一年目のリサイタルは、極めて暗示的で意義あるものと存じます。
 フランク永井さんは、こんどのリサイタルを前に「新しい一年目の出発しということを盛んに語っておられます。
 この言葉は、とりもなおさす、レコード界にもそのままあてはまるものではないか、といま、痛切に感じております。
 高度の成長を果たしたビクターと共にあったフランク永井さんのリサイタルを前に、私は二十年プラス一年の重みを、しみじみ感じないわけにはまいりません。
 常に前進してやまないフランク永井さんは、本日のリサイタルを新たなスタートとして従来以上の情熱をもって、歌に専念されるものと信じます。
 ご来会の皆様とともに、フランク永井さんのご健康と益々のご活躍をお祈りして、ご挨拶といたします。

名実共に大歌手へ
ビクター音楽産業株式会 社取締役制作本部長 滝井利信
 フランク永井さん、リサイタルおめでとうございます。心からお喜び申し上げます。
 思えば、二十年前、ビクターは、復興のきざしは見えたものの、大変苦しい頃でした。そんな時、デビューされたあなたは、ユニークな低音の魅力で、一躍ムード歌謡ブームを呼びび起こし、昭和三十年代のビクターの黄金時代を築き上げてくれたのです。
 そして、吉田先生のあの不朽の名曲「有楽町で逢いましょう」をはじめとして、レコードの面で数々の大ヒットを世に送り出し「日本レコード大賞」「歌唱賞」など数多く栄えある賞を受賞されております。
 また、フランク永井さんは、ステージの面でも「芸術祭大衆芸能部門優秀賞」の再度の受賞など、優れたエンターティナーとしでの評価も受け、さらに、昭和四十六年には、歌手としてはじめての「芸術選奨文部大臣賞」を受賞されるなど、名実共に大歌手の道を歩んでこられました。
 私も、フランク永井さんとは、デビュー以来、フランクさんは歌手として、私はレコード制作の現場として、公私にわたり親しくお付き合いいただいておりますが、大のフランク永井フアンであると同時に、かように素晴らしい歌手といっしょに仕事が出来たことは、制作者としてこれ以上の喜びはございません。
 二十年をひとつの節として、新たな一年目のこのリサイタルを契機に、日本の、いや世界の歌手として、エンターテイナーとして、さらに大きく飛躍されることをお祈りして、ご挨拶にかえさせていただきます。


リサイタルに寄せて
ビクター芸能株式会社 ビクター音楽出版株式会社 代表取締役 島崎文雄
 フランク永井さん、今日のリサイタル、おめでとうございます。
 フランクさんをビクターにお迎えしたのは、昭和三十年でございました。今年で二十一年になるわけでございます。
 この間、東京において三回のリサイタルが成功裡に行われ、二回目のリサイタルで芸術祭に参加し、大衆芸能部門の奨励賞を受賞されたことを記憶いたしております。
 今回のリサイタルが、東京のみならず、フランクさんの歌に大変ゆかりの深い大阪においでも開催出来ましたことは、ご本人は勿論のこと、主催者のビクター音楽産業株式会社にとっても、大変意義深いことと存じます。
 変動の激しい戦後の歌謡界にありまして、数多くの賞に輝き、二十年を越える長い歌手生命を保ったばかりでなく、世の人気を博すということは、並大抵のことでなく、常日ごろのご努力の結果によるものと、深く敬意を表したいと存じます。
 本日のリサイタルが、吉田先生はじめスタッフの諸先生方のご協力により、素晴らしく盛大にひらかれるに当り、心からお祝いを申しあげますと共に、ファンのみなさまのあたたかいご支援により、フランクさんの芸術活動が今後、一層みのり多きことをお祈りいたします。

おめでとう! フランク永井
佐伯孝夫
 「...先日、フランク永井さんのレコードを耳にしました。今聴いても新しい心憎いばかりの語り口の詞に、頭がさがります...」。
 これは久しく音信の絶えていた、神戸の、いささか知的な二十歳過ぎのお嬢さんからの手紙の中の一節で、私はフランクさんの一途な新鮮さを、再確認して本当にうれしい気になり、何度も読み返しました。
 フランクさんがデビューしてから、もう二十一年にもなるとのことですが、常に「フランク永井」でありつづけた、精進と芯の強さに頭のさがる想いです。
 この珍しい、自分を崩さない歌手さんは本当に、賞讃さるべき存在と信じきっております。
 個性にあふれ、東北人らしい民謡育ちの深い根を失うことなく、しっかりした態度と素直さを身につけ、ハタから何か言われても、自分の気持ちをつら抜き通し、強くその人間味あふれる暖かさを表現しつづけて、変わらない魅力を私たち庶民に与えつづけて、共感されているということは、容易なことではないと思います。
 この人間的魅力、郷土の土から生まれた才能に花を咲かせたのは、同じ東北系の恩師吉田正先生のご努力だったと思います。夜二時ごろ突然先生宅を訪れ、そのときどきの悩みや心情を、空が白むまできいで貰い、また新しい出発への鼓舞を得たということも度々だったとのことです。
 五年毎に催すフランクさんの、今度のリサイタルは、真実重厚、楽しいと言うより、そこからまた「明日への出発」の芽がみどり豊かに感得され、私たちに喜びを与えてくれると信じて疑いません。
 フランク永井さん、おめでとう!

エンターテナーフラング永井
吉田 正
 もう十四、五年になるが、一夕、親しいジャーナリストの人たちと、フランク永井を囲んで歓談したことがあった。
 フランク永井も若かったし、私も若かった。そんな中で、たまたま、彼のワンマン・ショーをどんな形で作ったらいいだろう、という話が出た。
 当時、日本では、ワンマン・ショーという形は、そう多くはなかった。その多くは、いわゆる歌謡大会という形式の興行だった。それだけに、彼を素材にしたワンマン・ショーという話に華が咲いた。
 いまでも、私が鮮明に覚えているのは、誰いうとなく〝ハットオフ(脱帽)フランク〟というタイトルをつけたらどうだろう、という意見が出たことだった。
 時が経ち、季節が流れた。
 いま、フランク永井は、二十一年目のリサイタルを迎えようとしている。
 この間、日本は大きく変わった。歌謡界の地図も塗り変えられたし、歌謡の型も、外形的には多様となった。いうなれば、この間は、激動の二十年だった。
 こんな中で、終始変わらずに第一線で歌い続けるということは難事である。私の周囲でも、数多くの歌手が登場し消えていった。それぞれにそれなりの理由はあった。
 しかし、よんかく、数多い歌手が出ては、消えていったという事実はまぎれようもない事実である。
 歌手として第一線で生き続けるということは、このような事実を前にして考えると、想像以上に難事なのである。
 フランク永井は、今日も、舞台では、さりげない表情で自分の歌を、気軽に歌うに違いない。
 二十年間第一線で生き続けてきた難しさ、辛さは、恐らくそんな彼のステージからは感じとれないかも知れない。しかし、そのさりげなさが、彼の財産なのである。
 観客を楽しませるエンターテイナーとしての彼の資質を、私も今宵ゆっくり楽しみたい。

フフンク水井と銀座
小倉友昭
 『銀座も変ったもんですね。銀座に来て、酒を飲みながら「妻を恋うる歌」を聴くなんて考えもしなかった。だって、考えてもみで下さい。酒場は、男の遊ぶ所でしょ。いうなれば、お内儀さんから逃げて、何となくリラックスしようという男たちの逃避場でしょ。そこで"妻を恋うる"じゃ、せっかくのお楽しみも、かたなしになっちゃう、と考えるのが、ふつうでしょう。銀座も変ったもんですね』。
 フランク永井の手には、例によって、レミー・マルタンのグラスがあった。
 銀座でも一流といわれるクラブS。小柄なフィリッピン生れの歌手が、のぴのある声で「妻を恋うる歌」を歌っている。
 フランク永井は、そんな歌手の歌を聴きながら、しみじみつぶやいたものだ。
 銀座で飲み、祇園で痛飲し、先斗町で梯子酒を仕込まれて、したたかな飲み手となったフランク永井の、これが、最近の銀座遊びでの述懐だった。
 「変ったもんですね」を繰り返す彼の言葉には、様々な想念が絡みついているようにも思えた。
 考えてみれば、都会派歌手として登場してきた彼にとって、公私ともに東京・銀座は、忘れ難い場所だろう。初期の歌、いわば彼の方向を決定づけた「東京午前三時」も、歌の舞台は銀座のはずである。約二十年前の銀座は、いまのように、バーやクラブなどのハネ時になると、タクシーが群らがる銀座ではなかった。だから「似た娘乗せゆくキャデラック、テイル・ランプがただ赤い」といったやるせないような大らかな哀愁があった。
 「銀座は変ったもんですね」彼ならずともそうつぶやきたくなる変りようだ。
 「西銀座駅前」が出来たころ、このあたり、まだ銀座のはずれだった。もっとも正確にいえば、西銀座駅というのは無い。しかし、それが、いまでもあるように思えるのは、歌の力だろう。
〝若い二人は、ジャズ喫茶〟というフレーズも、いまでは、ジャズ喫茶そのものが、銀座には無くなってしまっているのだから、これも、やはり「銀座は変ったもんですね」ということになる。
 そんな銀座は、しかし、やはり、歌の流行でも、ある先端を行っていることは変らない。僕が、彼の「おまえに」を「とってもいい歌だから、ぜひ聴いて...」と銀座のお嬢さんたちにせがまれて、リクエストしたのは一昨年の秋だった。
 それから約二年後のいま「おまえに」は、完全なスタンダード・ナンバーとして、銀座のどこかで必ず歌われる歌になった。変った銀座で、変らないものがある、というわけである。
 「やっぱり遊ばなけりゃいけません。お酒も飲まなけりゃいけません。心が豊かに新鮮でなければ、歌も枯れてしまいます」。
 ともかく、外形は、変った銀座で、フランク永井は、頑固にコニャックを飲み続け、変らない台詞をいい続ける。

日本語とフフンク、「和魂洋才」の歌手
佐藤 泉
 政治家が選挙で言うことは、たいてい嘘である。だいたい嘘は申しませんとか、正直いって...とかいうことを日常会話の中によく使う人があるが、このこと自体が嘘なのであって、ほんとうのことを言っていれば、何もことさらに、こんな不自然な言葉を使う必要はないだろう。
 「嘘は申しません」ということは、よく嘘を言う証拠なのである。言葉とは難しいものだと思う。
 「人柄」があるように「言葉柄」というのもある。人間の顔は内面を描きだすように、言葉は内面を表すものだ。フランク永井は、ふだんでも言葉を選びながら慎重にしゃべる。思うに、性格も慎重そのものなのか。
 彼は宮城県出身である。もう二十年余の付き合いだというのに、一向に東北訛りを耳にしたおぼえすらない。それも道理で、フランク自身の話では「宮城県に住んでいた当時から、意識すれば、比較的標準語めいた言葉もしゃべることが出来た」そうである。これに加えて昭和27年に上京、駐留軍のキャンプで働くようになってからは、いきおい英語(米語)に接する機会も多くなる。つまり東北訛りからワンクッションをおいた形で、標準語めいた日本語へ自然と移入していた。もはや東北訛りの出る幕はなかった――と思うのである。
 フランクは人も知る落語好きだ。噺家との交遊も多い。もとから落語が好きだったところへもってきて、彼には東京訛り、つまりは江戸江戸訛りへの憧れがあったらしい。寄席へ通い、先代柳好や志ん生の噺を耳でおぼえ込むようになる。
 なんたってアータ(あんた)耳のほうは商売が商売だけに〝頗るつき"に上等ときてる。たちまちマスターしちまった。
 このごろでは江戸っ子(四代目)を自負する、私の言葉に訂正を申し入れる始末なのである。
 言葉にうるさいくらいだから、本職の歌では歌詞を明瞭に正確に歌いあげる。これだけでも聞いていて大変に気持ちがよい。詞を大切にする歌い手さんたちが、少なくなってきた。
 ビング・クロスビーとフランク・シナトラの唄にしびれたのが、歌手へのきっかけだった。思うに、フランク永井は「和魂洋才」の歌手なのである。日本語を愛し理解し、かつ西洋のフィーリングで自分なりの歌をつくり上げていく。
 このごろでは、この「和魂」が日本の歌から行方不明になってしまった。

フランクとゴルフと私
河塚順一郎
 フテンク永井がデビュー二十一年目に新曲〝浮気川〟を引っ下げて京都入りしたとき、私に逢うなり見せたのが、最近のゴルフ・スコア・カードである。こういうときは決まって好調な証拠と私は受けとっている。
 それもニヤリと笑みを浮かべながら「最近の調子はどう」とくる。そういうときはたいてい、こっちの調子はメタメタのことが多い。優劣たちどころに変わるというか、またまた越えられないカベを意識した劣等感に災いなまれるのである。
 まことにゆゆしき因縁であるが、一面これが会話となるようになって、一段と彼との話が簡単に出来るのだから不思議だ。
 フランクと知り合って十数年、昔は何かというと飲むことしか知らなかった。〝大阪ぐらし″のよさは、酒にありというところだった。
 とても"こいさんのラブ・コール〟という、しゃれたものではなかった。それがどういうわけか、お互いに示し合わせたわけでもないのに、ゴルフを知ったのである。こと細かく聞いたわけではないが、だいたい始めた時期もそう差はない。
 それまでは〝ゴルフなど、どこが面白いねん、朝早く起きてフーフーいって回って、小さい球を追っかけて"というしだいだった。その点の意見も共通していた。
 ところが変われば変わるもの、やり始めてみると、これぐらい面白いものはないとなった。
 そうしたころに再びフランクに出合った。初めは仕事一途の話ばかりしていたが、よくよくみると顔が日焼けしている、手首に白黒のコントラストがある――「お主、やってるな――」「いや、そういえばあんたも――」でどっと笑った。
 じっくり歌っていて火のついた〝おまえに″のころである。
 だからゴルフ歴については、お互い四、五年というところだろう。だが、自然に差がついてしまった。何をやるにも人一倍熱心と自負する二人だが、彼はプロにもつき、マイコースを得て、レッスン、試合とも経験を重ねていった。一方、私の方は休日だけのゴルフなので、棟習皆無、すぐ本番だからペースの違いは歴然である。これでみるみる10ストローク以上にも、実力が開いてしまった。
 それにフランクはいち早く。ホールインワン〟を決めた。それも大阪のPLゴルフの東の8番で、である。「やったな」というと、彼は申しわけなさそうに「いや、スプー(ウッド3番)で打って、みえなかったのが入ってた。ウッドだからね」と説明する。
 ウッドであろうが、アイアンであろうが入ったことには、間違いないというと、納得したような顔になった。
 ゴルフ・ブームといわれて久しい。ゴルフ場も多く出来たし、ゴルフ人口も何百万という。
とうとう二人とも上手下手は別にして"狂″に近いところまでいってしまった。あとは、いつ自分の力を達観するかである。
 "浮気川″であるうちはまだやる気十分、こっちもウサギとカメを決めこんで"そのうちに″とフランクを追っかけている。ゴルフをやることで英気がつき、あすの仕事へのプラスとなれば、また楽しである。
 私とフランクのゴルフ談義、まだしばらく続くことだろう。もっともそんな話、ゴルフを知らない人の前でゴルフの話をするのは、エチケットに反する――、相すみません。

ステージの魅力
池田弥三郎
 テレビやラジオやレコードで承知しているフランク永井さんと、ステージの彼と、同じ人であり、同じ芸でありながら、ずいぶんその魅力に異質なものがある。
 どっちがいいと、いちがいには言えないけれども、行儀のいい、きちんとした芸である前者に対して、ステージで、聴衆とともにあるフランク永井さんの、自由でのびのびとした芸の魅力は、また、なんとも言えぬ魅力がある。
 そこには彼の歌の一つ一つが、一つ一つ別にあるのではなくて、大きな流れの中の一つ一つとしてある。そこには、しゃべり手としての彼の才気の縦横な喚発がある。これはフランク永井さんの推賞すべき魅力である。
 そういう会場での録音をもとにしたLPには、もちろんその魅力がうかがわれはするけれども、何といってもそれは一つのわくの中に入れられてしまっていて、自由自在な発散が少ない。ステージの彼の芸に、思う存分に触れたいものだと思う。

それだけの話
江園 滋
 フランク永井が熱烈な落語愛好家であることは、いまではよく知られている。その愛好の度合いも、通りいっペんの落語好きとか、落語愛を超えた、それはもう落語への恋とでもいうような、純度の高いものであって、しかも灼熱の恋が一向にさめる気配もないところがみごとである。
 むかし、某テレビ局がフランク永井ワンマンショーを企画して、その中で小咄を一席披露してほしいという、注文をだしたことがあった。プロデューサーにしてみれば、落語好きの歌手の、どうせ余技なのだから、羽織を着て出てくるだけでご愛嬌であり、咄の巧拙などはどうでもいいというように、ごく気楽に考えていたのだろうと思う。
 それはそれで一つの考え方ではあるけれども、余技だからといっていい加減なごまかしでお茶をにごすことは、エンターティナーとしてなすべきではないという考え方のほうが、考え方としてはやっぱり正統だろう。フランクの考え方は、断然後者であって、したがって、引き受けたからには、だれに聞かせてもはずかしくないだけの小咄を演じたい。
 ついては専門家に乞うて、本格的に稽古をつけてもらおうと思う。然るべき落語家を紹介してもらえないか、という電話が、フランクからかかってきた。
 「若手で、しっかりした芸風の噺家さんがいいんだけれど、だれかいませんか」
 「います」
 「紹介してくれる?」
 「おやすいご用だけど、しかし、フランクさん本気なの?」
 「もちろん」
 「わかった。それで――」
 それでは「この人なら」と絶対の自信をもって、その当時の若手に属する有望落語家を紹介した。
 稽古は何度か行われたようだったが、そのたびにフランクは、弟子としての最大最高の敬意を払って、その若手落語家を師と仰ぎ、申し分のない接し方をしたらしい。
 真摯な態度に感動した言葉が、まだ耳元に残っている。
 「どんな世界でも、一流になる人はちがいますね」
 あれから六、七年たって、その落語家は押しも押されもしない中堅真打として目ざましい活躍を続けているが、その間にも、フランクは常に師と仰ぎっばなしで、はたの見る目にもうるわしい師弟関係を一貫して維持してきた。
 それだけの話である。それだけの話なんだけれども、たかだか二分か三分の放送のために、いろはの「い」から、きちんと手順を踏まなければ気がすまないという、フランクの正統派的感覚が、私にはすこぶる好ましい。
 歌の世界だけでなく、ありとあらゆる分野に正統派ならざる〝手抜き派〟がまかり通るご時勢であるからこそ、フランクの姿勢はいっそう貴重である。
 歌手生活21年目を迎えたフランク永井の、これから先きの歳月が、私にはたのしみでならない。

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 先月はフランク永井の誕生月にあたり、メディアではいろいろ特集が組まれます。最大のファンへのプレゼントは、先に紹介した「週刊現代」の「昭和の怪物」だったのではないでしょうか。
 ときどきさまざまな情報を寄せられるFさんが、3月に歌謡ポップスチャンネルで2つの番組でフランク永井が登場するようだよと、知らせてくださいました。
 あいまいな表現だったのは、CSの有料チャンネルであることから、仮に確認しても契約していないと鑑賞できないからです。ひとつは「煌く日本の歌手~わが心の演歌~#10フランク永井篇」で、もう一つは「うた紀行~懐かしい歌・彩る情景~#4<東京編>」です。
 ところが最近に、ファンのある方から放送された番組をビデオに撮ってあると、わざわざ送っていただきました。早速に観させていただきました。ありがとうございました。
 まず一つ目です。歌謡ポップスサイトによれば「演歌・歌謡界を支えた伝説の歌手や、不動の人気を誇る歌手にスポットをあて、ゆかりの地を巡りながら、歌い手自身の生い立ちやプロフィールを紹介します」とあります。30分番組です。
 そこでの説明通りなのですが、フランク永井本人の歌唱映像が観れるわけではなく、CD音源に「ゆかりの地」の映像をかぶせた番組です。だから、ご本人の映像を期待している方にはおすすめできません。
 番組で歌われた曲は、次の7曲です。
  ♪こいさんのラブ・コール
  ♪有楽町で逢いましょう
  ♪夜霧に消えたチャコ
  ♪君恋し
  ♪大阪ぐらし
  ♪大阪ろまん
  ♪おまえに
 おおさかものが多いですね。
 番組は昭和歌謡を背負った人気歌手ごとにつくられています。現時点で紹介されているのは、24名の番組が存在します。
 1.美空ひばり篇、2.北島三郎篇、3.藤山一郎篇
 4.藤圭子篇、5.村田英雄篇、6.石原裕次郎篇
 7.島倉千代子篇、8.三橋美智也篇
 9.ちあきなおみ篇、10.フランク永井篇
 11.西田佐知子篇、12.春日八郎篇
 13.田端義夫篇、14.青江三奈篇、15.小林旭篇
 16.菅原洋一篇、17.森進一篇、18.都はるみ篇
 19.内山田洋とクール・ファイブ篇
 20.岡晴夫篇、21.渚ゆう子篇、22.三波春夫篇
 23.越路吹雪篇、24.江利チエミ篇

 次の番組は「うた紀行~懐かしい歌・彩る情景~#4<東京編>」です。
 これも、本人歌唱映像ではありません。番組紹介では「数々の名曲、ご当地ソングが生まれた昭和の時代から、今なお歌い継がれている名曲を厳選。ハイビジョン収録の美しい映像とあわせてお楽しみいただける番組です」と記されています。
 東京編とあるように、他に大阪編もあり、フランク永井はその番組でも歌っています。大阪編は観ていませんが、双方の番組で流された曲は次の通りです。
 ≪東京編≫
 ♪銀座の恋の物語/石原裕次郎・牧村旬子
 ♪別れても好きな人/ロス・インディオス&シルビア
 ♪有楽町で逢いましょう/フランク永井
 ♪東京だよおっ母さん/島倉千代子
 ♪あゝ上野駅/井沢八郎
 ♪東京砂漠/内山田洋とクールファイブ
 ♪ラブユー東京/黒沢明とロスプリモス
 ≪大阪編≫
 ♪王将/村田英雄
 ♪月の法善寺横町/藤島恒夫
 ♪大阪ラプソディー/海原千里・万里
 ♪宗右衛門町ブルース/平和勝次とダークホース
 ♪大阪の女/ザ・ピーナッツ
 ♪大阪ろまん/フランク永井
 ♪大阪しぐれ/都はるみ

 なお、歌謡ポップスチャンネルでフランク永井の歌が登場する番組は、もうひとつあります。これは「時代を映す名曲アルバム#2.1956年-1965年」という、やはりシリーズものです。
 「戦後の各時代をいろどってきた演歌・歌謡曲から、歌謡ポップスチャンネルいちおしの1年1曲をセレクション。全7話にわたり、70年70曲をお届けします」と紹介されています。
 その第7話に「東京<都会の恋>わが心の演歌」として、西田佐知子の「アカシアの雨が止む時」、坂本九の「上を向いて歩こう」とともに、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」があります。

 往年の歌手については、当然ですが映像著作のこともあるのだろうと推察しますが、イメージ映像を背景に歌が流れるようになっているようです。その映像はカラオケなどとも似ていますが、それなりに落ち着き、親しませものになっています。
 思い起こせば、現代のきらびやかなビジュアル動画に慣れてしまっている傾向がありますが、ラジオの時代には映像はありませんでした。曲はレコードをそのつど掛けていたようです。ナビゲートするアナウンサーの紹介がその都度あって、それが大変楽しみだったのを想起します。
 歌はよほどのことがない限り、三番まで歌われ、作詞作曲者の名前もしっかりあげられていました。
 本人が映像で登場するようになってから、映像はぶつ切り傾向で、前奏や間奏が間抜けにみられ、三番まで歌われることがほとんどなくなりました。
 ファンがじっくりと楽しむのは、今のテレビに求めるものではないのですね。だから、この歌謡ポップスチャンネルのようなルートが求められているのかも知れないですね。

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 「流れの雲に」というフランク永井の曲は、川内康範作詞、渡久地政信作曲で、1962(S377)年に発売されました。鬼才同士の渾身の作品で、ファンの多い名作です。
 この曲は1998年に高倉健が吹き込んでいたのですが、ご本人の意思でレコードとして発売されずにいたものです。この度、名優高倉健の生誕90周年の区切りで発売に至りました。
 アルバム『風に訊け-映画俳優・高倉健歌の世界-』です。高倉健が歌って人気をえた著名曲が全15曲入っています。
 このアルバムでは、実はもう一曲初リリース曲があります。「対馬酒唄(つしまさかうた)」という曲(1997年録音)で、荒木とよひさ作詞、徳久広司作曲です。ビクターで録音した音源で、高倉健が歌っていながら未発売の2曲です。
 高倉健は映画俳優であって、基本的には歌手ではないのですが、彼独特の渋い歌唱は、一口聴いただけでファンにはさまざまな思い出が蘇るのではないでしょうか。
 高倉健のアルバムのタイトルは「風に聴け」です。「雲がこたえた 雲にきけ」に連動したものと推察します。
 この「風の流れに」は、フランク永井が歌ってから5年後に、テレビ朝日系ドラマ「野望」主題歌として採用されています。歌ったのは顔の渋さは誰にも負けない天地茂です。天地茂もポリドールから「流れの雲に」を主題歌として発売しています。1962年です。
 ファンにしてみればたまりませんね。この機会に、フランク永井と高倉健と天地茂という豪華な聴き比べをしてみました。いずれの曲も今なら、youtubeで楽しめます。
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 「週刊現代」では「昭和の怪物」研究という特集コラムを設けていて、現在発売されている4月3日号で、その108としてフランク永井を紹介しています。
 巻頭グラビアでいきなりモノクロ8ページをさいています。「有楽町で逢いましょう」「おまえに」で戦後を明るくした天才歌手とタイトルをつけています。
 中見出しは「独特の低音と甘い歌声にみんな魅了された」「歌も趣味も、自分の美学を貫き通した」「絶頂期の中で、突然-自殺未遂の果てに」とあります。日本の週刊誌の視点の例に漏れず「フランク永井、微笑みの陰で」ということで、後年の事件にそうとうなスペースを当てています。
 全体としては、フランク永井の昭和の歌謡界に残した栄光の遺産を、きちんと紹介しているのがうれしいところです。
 写真のように、当時のフランク永井の様子がわかるように、写真がふんだんに使用されています。
 恩師吉田正との出会いと「有楽町で逢いましょう」の誕生。NHK紅白歌合戦に連続26回出場した歌の実力の評価。下戸のフランク永井を鶴田浩二が恩師を酒になじませ、橋幸夫がフランク永井にウイスキーのコーク割を教えたことなど、エピソードも的確に紹介されています。
 記事では吉田事務所の谷田さんと橋幸夫に取材をした様子です。そこで特筆すべき出来事も紹介されていて驚きました。
 それは、事件後一心不乱に夫の看病をした夫人が自宅でガス自殺未遂を遂げてしまう。その後実姉が面倒を見るようになるのですが、夫人との離婚が成立。別れる際にフランク永井は「シズ子、ここにいる」と声を振り絞って叫んだというのです。
 どのような思いだったのかは、察するしかないのですが、何とも胸をしめつけます。
 また、リハビリを兼ねて「有楽町で逢いましょう」のレコーディングをしたということです。そのとき、フランク永井は以前のように(はいかないはずですが)歌い切ったという。こと、歌となると、フランク永井はそれが命であったので、これだけは最後まで、魂にしみこんでいたのでしょう。
 3月はフランク永井の誕生月です。今年は生きておられれば89歳です。週刊現代が「昭和の怪物」として認定され、紹介し、フランク永井と同時代を生きた人たちだけでなく、現在日本の主人公たる働き盛りの方々の間にも、彼の存在を知らせてくれたことに、感謝します。

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 今回もリサイタルの文字資料を掲載します。1965年11月3日に開催された、第2回リサイタルの2回目分です。
 今月は、フランク永井の89歳目の誕生月です。


●彼の歌はいつも語っている
東京中日新聞社文化部 森田潤

 「彼は語っている」フランクの歌を聞いた人がしみじみとこういった。彼の歌はいつも語っていると思う。フランクとは仕事をはなれて、個人的に付き合う機会が時たまあるが、この"語り"をたいへん大切にしていることに気がついた。たとえば話すコトバを大切にするのである。彼の話は決してドモらない。
 「ドモるのは無意識、無計画に話し出すからだ」と彼はよくいう。そして彼の語りはちゃんと文章になっている。放送局のアナウンサーのように規格品化されていないが、それだけに彼の話は味がある。
 バーやレストランに行くと、ホステスのおしゃべりを聞いて、出身地をぴたり当てる芸当も、日頃からコトバ使いを心掛けているからだろう。
 彼の歌自体がそうである。一語一語を本当に大切にしていると思う。「あヽ」というコトバひとつにしても、それをいとおしむように歌っている。それが歌心というのだろうか。若い歌手たちもその美点を大いに学びとってもらいたいものだ。


●ぜひ、来年も
毎日グラフ編集長 伊奈一男

 第一回のリサイタルのとき、本当に楽しかった。今度も、そういう楽しさを期待して百パーセントまちがいはない。でも、私は「フランクのリサイタルはきっと楽しいよ」といってすましてはいられない。彼のような、格調をもった、しかもうまい歌手は一年ごとに、いや、一日ごとに私たちの前から姿を消してゆくような気がするからである。
 つまり、フランク永井のような歌い手は、とても大切であり、貴重な存在ですらあるのだ。
 だから、その人のリサイタルとなると、楽しいのはむろんだが、貴重な陶器を割れないようにソッと手にとって、心ゆくばかり味わいたいという気になってしまう。
 ここに、こんないいものがあるんだよ、と一人でも多くの人に知らせてやりたい―そんな一種のもどかしさ...。ひとり、こっそりと楽しんでばかりはいられないというのは、そんな意味なのである。今年のをまだ聴いてはいない。でも、もう来年もまた、とお願いしておこう。

●懸命な追求
伊奈一男

 1965年11月3日の夜、東京新宿の厚生年金会館で2回目のフランク永井リサイタルが行われていた。
 第一部のポピュラーが終って、ロビーが急に華やかな色どりにつつまれる。ジャーナリストたちが集まって何かしゃべっている。「いつもより、大分調子がいいよ」「実に楽しい」「ステージを作るのがうまくなった」...。
 大した評判だ。ところで、ヒット曲をならべた第二部が終ったときは、もう誰もあらためてそんなことを、言葉に出していうものはなかった。一人一人が、その感を一そう深めて、第三部の新作「慕情」への期待を、心のなかに熱っぽく抱いていたからであろう。
 実際、みごとだった。第1回リサイタルのときは、初めてということが、彼自身の上に、かなり息苦しい力がのしかかっていた。今度だって「芸術祭参加公演」という、考えようによっては前回以上の重圧を背負わされていたにもかかわらず、聴き手に、そんなタイトルのことなんか、これっばかりも思い出させはしなかった。
 気負いとか、固さとかが全く感じられなかった楽しい一夜だったのである。
 リラックスという言葉は、こんなときに使うべきものなのだと思う。第一部、第二部とも、彼はおしゃべりを交えながら曲をすすめていった。わざとらしさとか、イヤ味とかは一つもない語りであった。それは、完全に歌の一部になっていた。それを聴きながら、私自身はフランク・シナトラのことを思い出していた。
 シナトラは、ステージのなかばに至ると、タバコをふかし、紅茶茶碗片手に、しばらく小休止といったムードでおしゃべりを始める。その"くつろぎ"はたまらない魅力をもっている。これは、いわば「大人」のお遊び、「大人」を楽しませてくれる"芸"なのである。
 フランク永井をききながら、シナトラを思いうかべたのは、日本のフランクが、あちらのフランクのもっている「芸」を身につけるようになってきたからに他ならない。
 語りがうまくなってきたのは、労音をはじめ、ワンマン・リサイタル風のステージが、近来非常に多くなってきたことも一つの理由ではあろう。しかし、決してそれだけではない。これは歌そのものと、あるいは歌い手としての彼の本質と大いに関係があることなのである。"芸"とはそういうことを意味している。
 もともと彼は、美しい、他に類のない低音をきかせる「声の歌手」として出発したことは、ご承知のとおりである。むろん、いまでもその声は少しも衰えをみせてはいない。だが、もう一歩突っこんで考えてみると、彼は一種のストーリー・テラー的な歌い手としての道を歩まされてもいたのである。
 それは吉田正氏が彼に与えた道でもあった。その場合、彼の声のもっている音色が、そのストーリーの背景である情景、雰囲気といったものを、ムード的に表現することによって大成功を収めてきたといえる。
 だが、最近はそうしたムードの部分は切り捨てて、人間の情感だけを追求する歌を与えられるようになった。そうなると、彼はもう、声とか、声のもつムードに頼っていることはできない。懸命に歌の内部に入り込んで、それを自分自身のものとしなければならなくなってきた。
 それを追求していって、ある日突無に(実際はどうか知らないけれども)ポッカリと道が開けたにちがいないのである。それは何か。聴き手と一緒になることである。聴かせるのではない。聴き手を自分のペースに引っぼりこむことである。そして、声こそ出さないけれど一緒に歌わせることやある。
 彼の今度のリサイタルが、第一回とくらべてリラックスした気分に満ちていたのは、こうした考え方、行き方が基調になってきたからにちがいない。これは歌い手としては大変な成長であり、進歩なのだ。そして、これこそが本当の"大歌手"への道につながっているのである。


●持味を大事に
内外タイムズ社文化部 小坂和男

 一昨年に続く二度目のリサイタル、おめでとうございます。
今年は歌手生活十年。「有楽町で逢いましょう」ではじまった"低音ブーム"が昨日のように思われます。
 先日、インタビューしたおり「十年、短いように思うが、会社のスケジュール表はいつの間にか、古手の仲間入りして、でも、老けこまないように歌いますよ」と、十年前とはちっとも変らない童顔をほころばせていましたね。その通りです。
 あなたの歌の魅力は老けこまないことが、第一条件です。これからも十年前と変らず、ソフトなムード歌謡を身上としてください。
 しかし、ちっとも変化がない―では、また批判のマトになりましょう。この辺のヤリクリは、おまかせしますが、極端にいうと、あまり歌はうまくなってもらいたくないのです。土台がうまいのですから、精々、昧つけ程度にして、いわゆるフランク・ムードなる持味をこれからも大事にして歌って下さい。


●充実した十年
日本ビクター株式会社取締役社長 百瀬結

 弊社専属歌手フランク永井さんの歌手生活十年を記念して、リサイタルが開催されました。
 皆様とともに心からお慶び申しあげます。
 一口に十年と申しますが、フランクさんの半生にとってこの年月は極めて充実した価値あるもの、と申しあげてよいのではないでしょうか。職業歌手として弊社からデビュー、ジャズから流行歌への転向、「有楽町で逢いましょう」をピークとする数多くのヒットによる、分厚い「低音ブーム」の醸成。
 第一回、第五回、再度にわたる日本レコード大賞の歌唱賞受賞。第三回日本レコード大賞受賞等。波瀾の多い社会情勢下の歌謡界レコード界に、輝かしい業績を残され、幸福な家庭をも築かれました。
 これは申しあげるまでもなく、皆様のご厚情に支えられましたお蔭でありますとともに、フランクさんご当人の並々ならぬ努力と、優れた資質によるものと、深く敬意を表したいと存じます。
 今夕のリサイタルが、文部省のご承認をいただきまして、第二十回芸術祭に参加いたしましたのも、この様な蓄積の上に立ったものでありまして、この催しが、一層意義深いものになりましたことを、わが国歌謡界のため、ご同慶の至りに存ずる次第でございます。
 フランクさんは一言にして誠実の人であります。十年前の新人時代から、ベテラン歌手の今日に至るまで、少しも変るところなく、大小何事にかかわらず誠心誠意、事に当っておられます。それがそのまま歌に現われて、聴く人すべての共感を呼び、心をあたたかく包むのではないでしょうか。
 フランクさんは十年間の業績をペースに、今後もたゆみなく努力を続けるでありましょう。わが国に数少い「大人の歌手」として大成するために、更に懸命の勉強をなさることと信じます。
 皆様、今夕はお心ゆくまでフランクさんの歌をご堪能あって、歌手生活十一年目の新しいスタートのため、惜しみないご声援を賜わりますよう、お願い申しあげます。


●情愛深い歌の十年選手
日本ビクター株式会社常務取締役 北野善朗

 フランク永井さん、おめでとうございます。
 一昨年に次いで、第二回目のリサイタルで、歌手生活十周年を記念し、しかも第二十回芸術祭参加の催しでもあり、誠に意義深くご同慶の至りに存じます。
 歌と共に十年、と会の名称にうたわれておりますが、フランクさんは正しく歌謡界の十年選手、しかも、その内容は輝かしく立派でありまして、どっしりとした量感がみなぎっております。
 フランクさんは人一倍情愛の深い方であります。あらゆる人に差別なく、温い心で接しておられまして、新人時代も今も、少しも変ることがございません。
 魅惑の低音と呼ばれた「有楽町で逢いましょう」を中心とする数々のヒット曲から、最近の「妻を恋うる歌」「東京しぐれ」に至るまで、フランクさんの歌には例外なく心があたためられます。
 お人がらが、そのまま歌に現れているといってよいのではないでしょうか。研究熱心なフランクさんは、いらずらに過去に生きることなく、将来への飛躍のための試みとして、今夕は恩師吉田正先生の作曲になるバラード「慕情」をご披露申しあげることになっております。
 何卒、フランク永井さんのため、絶大の拍手を送って下さいますとともに、いつまでも変らなくご指導、ご支援のほどお願い申しあげます。


●国際歌手を目指して
日本ビクター様式会社常務取締役/レコード本部長 八木沢俊雄

 第二十回芸術祭に参加して、歌手生活十周年を記念するフランク永井さんのリサイタルが開催されました。
 かつてない深い意義と内容をもつ催しとして、フランクさんご自身はもちろんのこと、レコード界のために大変慶ばしいことと存じます。
 昭和三十年弊社入社以来、十年間のフランクさんの歩みは、実に立派なものでありました。たゆみなくヒットを世に送り続けてこられましたが、とりわけ「低音ブーム」の先駆となって、わが国歌謡界に大きなエポックを作り、三十四年、三十八年、再度にわたる日本レコード大賞の歌唱賞、更に三十六年には日本レコード大賞受賞されましたことなどは、フランクさんにして、初めてなし得た業績と申しあげてよいのではないでしょうか。
 フランクさんは、人間の心をうたう数少い「大人の歌手」として、高く評価されております。喜びにつけ悲しみにつけ、その歌声は聴く人の心にふれて「歌のしあわせ」というものを感じさせます。誰からも愛される、あたたかい人がらが、そうさせるのでしょう。その意味でフランクさんは、国境を越え人種の別なく、世界の人々に歌の心をわからせられる歌手といってよいのではないかと考えます。
 この度のリサイタルで芸術祭に参加することを、おすすめしたのも、このような心技ともに優れた歌手フランクさんなればこそでございまして、文部省ご当局にもご快諾をいただいたのでございます。
 十年間のキャリヤを生かしたフランクさんの歌声が、一日も早く海の外の街々や空に流れますよう、皆様とともに心から祈りたいと存じます。


●お祝いの言葉
ビクター芸術家クラブ理書長 飯田信夫

 フランク君、君がビクターの専属になったのは十年前だったね。確か君は、ジャズ歌手として入社した筈だった。その君が今や、歌謡界の第一人者に大成した。
 聞く所によると、ピッチング・フォームを変えた投手は仲々大成しないものだそうだが、君は美事にそれを成し遂げた。
 吉田正君や、佐伯孝夫君、磯辺ディレクターなどの名コーチのアドバイスが与って力のあったことも否めないが、それにもまして、君の歌手としての優れた素質がこの偉業を成し遂げたのだろう。心から敬服の念に堪えない。
 第一部にポピュラー・ナンバーを並べているが、これはジャズ歌手へのノスタルジヤだろうね。それとも、ささやかなレジスタンスかな。とにかく、ジャズも大いに歌い、給え、一球外角も遊んだ後の内角低目のストレートは、大変偉力のあるものだ。


●日本のミュージカルは「慕情」から
佐藤泉

 ヨソの国の借り物ではないのである。生活も血も同じくする我々日本人の、日本のミュージカル-「慕情」とは、そういう歌だ。
 思えば10年前。作曲家吉田正氏を得てフランク永井は、ジャズから歌謡曲に転じた。多くの人に愛される歌をうたおう、とハラをきめたからである。師弟の結合。男同士のド根性対ド根性の結び付き、と言いかえてもいい。10年後のいま、それがこういう形で花開いた。"吉田正・フランク永井"、こころの結晶が「慕情」なのである。
 恋は美くしい。たとえ、それが恋と呼ぶには、はかないものであったとしでも、ひとたび慕った女性の"白い俤(おもかげ)"は、いつまでも消え去りはしない...人妻への慕情をうたった岩谷時子の詩。
 吉田正の曲をフランク永井が切々と"語る"のである。東京混声会場団(男16人、女8人)をパックに、19分のバラード。
 あの女性に初めて出違った日、それは雪の日。そして一年-今日もまた雪が降っている。あの日と同じように、音もなく、しんしん......と。
 恋する男の感情の起伏、四季感をとらえた音楽処理がみごとである。あるときはクラシック的な手法で、一転してジャズ的な処理で。タンゴ、ワルツ、スイング、スロー・ロック、ビギン...と、転調する。その過程のなめらかさ。雪の結晶のように、こまかい神経のゆき届いた音楽処理である。
 全体を通して"ブルーな"感じで統一された詩に、豊かな音の色彩を配したあたりの心にくさに、脱帽しよう。一貫した流れのなかでの盛り上り...つまりヤマのつくり方の鮮かさ、なのである。
 一口に19分という。詩を暗唱するだけでも大変なワザだ。しかし、これだけでは歌にならない。情景全体を理解し、咀嚼し、そして自らの歌唱で表現する......コトバを日ごろから大切にして歌っていなければ、とうてい出来るワザではないのである。"おとなの歌"のチャンピオン・フランク永井なればこその大成功。
 いいかえれば、フランクのために吉田氏は作曲したのだろうし、フランクなくして「慕情」は生まれなかったかもしれない。なんとも、うらやましい"ツー、カー"以上のコンビぶり―いや"師弟一体"と言いなおそう。
 冒頭に「慕情」は日本のミュージカル、と書いた。日本のコトバに日本のオリジナル・メロディー。ぴったりハダに合うのである。外国のメロディーに日本のコトバをつける―どだい無理だし、不自然というものだろう。不自然な歌を、大衆は口ずさみはしない。いろんな事情で"貸し衣装"を利用しても、内心では常に"オーダー・メード"を欲するのが人情というものなのだ。
 ただし、今までにオーダー・メードで、これといったものが実際には出来ていなかった。その意味で「慕情」の果たす役割りは大きい。これを母体として、日本のミュージカルのなかでの、一つの型が達成されることを希望したい。 カラー・テレビ時代もそう遠くはない。ブラウン管から日本のミュージカルを育てあげることも一つの方法であろう。まず、魂よりはじめよ...である。
 「慕情」は、覚えやすく、歌いやすい歌だ。たとえば、その一章を歌誰曲レコードとしてシングル盤で発売してみても、いっこうに抵抗感を与えまい―日本のミュージカルは「慕情」から...ということなのである。
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 今回もリサイタルの文字資料を掲載します。1965年11月3日に開催された、第2回リサイタルです。

昭和40年日月3日(祭)午後6時38分開演
東京新宿厚生年金会館大ホール

■主催=日本ビクター株式会社
■制作=ビクター芸能株式会社
フランク永井音楽事務所
監修=吉田正
美術照明=今井直次

☆第1部《ポピュラー曲集≫
■演奏=浜田清とフランクス・ナイン
■合唱=東京混声合唱団
■編曲指揮=寺岡真三

1.恋人よ我に帰れ
2.I'M WALKING BEHIND YOU
3.ANY TIME
4.TOO YOUNG
5.TAKE MY HEART
6.ワルツ・メドレー
(IT'T A SIN TO TELL A LIE/RAMONA/MY HEART CRIES FOR YOU)
7.RED SAILS IN THE SUNSET
8.I DON'T KNOW WHY
9. BECUSE OF YOU
10. MAGIC IN THE MOON-LIGHT
11.枯葉
12.久し振りだね~慕情
13.ばらの刺青
14.16トン
15.愛の讃歌

☆第2部《ヒット曲集≫
■演奏=宮間利之とニューハード+ストリングス
■編曲指揮=小沢直与志
1.有楽町で逢いましょう
2.場末のペット吹き
3.東京午前三時
4.こいさんのラブコール
5.東京カチート
6.追憶
7.東京ナイトクラブ
8.ラブ・レター
9.夜霧に消えたチャコ
10. 好き好き好き
11. 羽田発7時50分
12. 霧子のタンゴ
13. 西銀座駅前
14. 大阪ぐらし
15. 熱海ブルース
16.君恋し
17.東京しぐれ
18.イエス・オア・ノー
19.妻を恋うる歌

☆第3部 新作「慕情」
作詩/岩谷時子
作曲/吉田 正
■演奏=ビクター・シンフォニック・オーケストラ
■合唱=東京混声合唱団
■指揮=吉田 正


●感謝のごあいさつ
フランク永井

 こんなに年月が経つのは早いものか、と思ったことは、今までにありません。無我夢中で過したためでしょうか。
 今年の初め、ある人に「歌手になって何年になりますか?」ときかれて「えーと、ビクターに入ったのが30年だから...」と考えているうちに、そうか10年か、と気づいたのです。
 10年―昔でいえば、ひと昔です。一瞬厳粛な気持でした。
 それと同時に、ずいぶん早いもんだなァと思いました。
 野球好きの私には、プロ野球選手に友人が多く、10年選手もおります。野球なみにいえば、私も歌の10年選手になったわけです。10年選手の面目にかけても、よいプレイをしなければ、と改めて身をひきしめた次第です。
 この10年を非常に短く感じたのは、私自身が、たいへん恵まれた場においてもらって、脇目もふらず、懸命に仕事をすることができたからではないか、と考えるのです。おかげさまで、たくさんの歌を多くの皆さんに歌っていただきました。歌手として、これ以上の喜びはありません。
 このことは、一にも二にも、大勢の方々のお力によるものです。作詩、作曲、編曲の先生方、企画したり、いろいろお世話して下さる会社の方々はもちろんのこと、マスコミや芸能界、更には全国の無数のファンの方々等、直接間接に、心あたたかく、時にはさびしく、深い愛情をもって私を支えて下さったからに他なりません。
 ただ今の私の心境は、感謝あるのみです。ほんとうにありがとうございました、今日は、その気持ちを一つ一つの歌にこめて、懸命にうたいます。
 私の恩師てある吉田正先生が、岩谷時子先生の詩を、精魂こめたメロディにのせて下さいました。「慕情」という、一人の男の悲しい告白です。毎日稽古に励みながら、僕は、いく度か涙しました。どうかお聴き願って、私の将来のために、何ぶんのご批判をいただければ幸いに存じます。
 歌と共に11年目の新しいスタートについて、これからも頑張ります。私の性格ですから、背のびしたり無理な爪たちはせず、一曲一曲を大事にして歌い続けたいと思います。いつまでもよろしくお導き下さい。
 今日はお忙しいところお越し下さいまして、ありがとうございました。心からお礼申しあげます。


●一歩一歩前進
フランク永井後援会会長 愛知揆一

 フランク永井君とは同郷(宮城県)という誼みから、その後援会を長くひきうける契機になったのであるが、爾来、結婚の媒的をつとめたり、家族間の交際とか、私的な面でも親しさを深める機会が多く、今では後援会会長という肩書きを超越したつながりを持っているように感じている。
 芸能界の第一線を行く人気歌手という華やかな存在であるにも拘らず、フランク君がそれに溺れず、仕事についても、また私生活に対しても堅実な孝えを持ち、一歩一歩確かな歩みでのびてゆくところに、共感を持つ所以がある。
 一昨年の第一回リサイタルは優秀な内容で成功し、その後のフランク君の仕事に対しても、良い影響を与えたものと解するが、今回のリサイタルの企画は、より前進し、より秀抜であるように感ずる。
 幸い大方諸賢のご支援により、今回のリサイタルが前回同様、あるいはそれ以上の成功をおさめることが出来るなら、歌手としてのフランク君の将来は、益々光輝あるものになることと信じ、自分としても大いに期待するところである。


●頼りになる歌手
吉田正

 フランク永井君が、プロの歌手としてビクターからスタートしてから十年になる、ときいて妙な気がした。実のところピンとこなかった。もうそんな年月になったのか、早いものだな、という気持ちの後、すぐに、まだそんなものだったのか、と反対の感慨が追いかけて湧いてきて、それが長く続いた。
 フランク君が十年なら、私とのつながりもそういうことになる。だが、どういうわけか十年などというものでなく、もっともっと前からの交友のように思えてならないのである。
 フランク君はそんな感じを与える人だ。十五年も、二十年もビクターで歌ってきたようにさえ思える(老成しているという意味では決してない)。つまりは、フランク君の人がらが初めからビクターという会社や、私の肌にピッタリ合っているのではないか。いく十年もいたような錯覚を起させるのはそのためではないか。
 事実フランク君は、新人のころからチャカチャカしたところがなかった。若いに似ず、腰が坐っていた。誠実である上に不思議な大人っぽさがあった。
 一口にいえば、しっかりした青年だった。例えば、ジャズから流行歌に転向をするときでも、実のところ本心では気が進まず相当に悩んだらしいが、多くの人に愛される歌を歌うなら、よその国の借り物でなく、生活も血も同じくする日本人の作品こそ、と腹が決ってからの彼の姿勢は立派だった。
 じっくりと私の書いた流行歌「場末のペット吹き」(宮川哲夫作詩)に取り組んでくれた。身につけたジャズの、若く新しいフィーリングを日本風の作品に生かして歌いあげた。
 これが今日のフランク君を築きあげた要素で、ちゃんとした性格からくる怜悧さがそうさせたのだろうと思う。
 十年の間の歌と人間の成長の陰に、一貫して誠実で通して私に対してくれたことが、生れたときからいっしょに暮してきたような、長い間の兄弟愛に似たものを感じさせるのである。
 その意味でフランク君は、私がいっしょに仕事をした数多い歌手の中で、最も頼りになる、かけがえのない人である。
 だからといって、私は作品の上ではフランク君と妥協はしない。むしろ対決に近いものを頭においてぶっつかる。今日発表する約二十分間のバラード「慕情」についても同じだ。
 「心の歌」をうたう歌手フランク君の中の可能性に、あれこれ想いをめぐらせて、彼に体当りするつもりで、及ばずながら私なりに最大の努力をしたつもりだ。フランク君も真っ向うから四つに組んで歌いあげてくると信ずる。
 作曲するものにとって、優れた歌手と仕事をすることほど、幸福なことはない。十年の立派なキャリアを生かして更に大きな歌手になってほしい。私も、きびしい男の友情を一層固くして、フランク君の声を通して、皆さんに喜んでいただけるものを、いつまでも書き続けたいと思う。
 フランク君、おめでとう。


●十 年
佐伯孝夫

 フランクさん、十年目の記念リサイタル、おめでとう。...もう十年にもなったのかと、感慨深く、あらためてあなたのことを考えています。過ぎた日のあなたについても、また明日のあなたについても...
 それはそれとして、本当に十年という歳月は、肩に重くかかってくるものです。その間の一年一年を、立派に歌と共に生きてきたあなたも、いろいろの重さを、今は華やかな蔭で、しみじみと感じていることでしょう。
 そして、今日こそは、その重さを肩に担って、次の十年への勇ましい出発の姿を、私たちは舞台に見ることができ、その歌声をきくことができるのです。
 仲間―と呼ばしてもらうには、この私、大分年をとりすぎているにしても―の一人として、こんなに嬉しいことはありません。どうか皆さんも、フランク永井の今までの業績をほめてくださると共に、明日を祝して、惜しみなき拍手を送って上げてください。


●サウスポー・ボーラー・フランク
渡久地政信

 今から二年程前の話で、アメリカの友人、タク進藤氏と、フランクと三人で、よもやまな話から、ボーリングへ出かけることになった。
 当時ポーリングのことなど、何も知らなかった私は、親切に二方にコーチしてもらった訳だが、初歩の悲しさ、投げるポールのほとんどがガーターになってしまう始末で、カッカと燃えたことを覚えている。
 今では、名手フランクのコーチを待て、アベレージ170~180、日に一・二回は、200をアップすることさえできるようになった。
 昨年の夏、報知新聞主催の芸能人ボーリング大会で、ビクターチームが優勝の栄冠を獲得したときの話であるが、フランクは二四四点の最高得点で、個人でもハイゲーム賞を獲得、四囲の目を見張らしたのであった。
 今年は残念ながらフランクが仕事の都合で出場できなかったため、チーム力が弱体化してしまって、他チームにあっさり優勝トロフィーを持ってゆかれてしまった。
 このように、ボーリングでも、チームの要であるフランクは、勝利へ向うためには、常に冷静な心を保持する上に、何日も自己周囲の判断を忘れず、自分自身のみでなく、全てに喜びを与える役割を果してくれている。
 カッカと燃え盛る情熱を、静かな判断で押さえ、一瞬のエネルギーに魂を込めて、ストライクの火花を散らす。サウスポー・ボーラー、フランクは実に味のある男だ。
 低音の声から受ける人間的魅力、魂の爆発力にはボーリングのピンも弾き飛ばされる快感さえ覚える。
 フランクは私に良いことを教えてくれた。ボーリングのボールは丸い。その丸さを操る人間の精神と技は、実に至難なことであることを。人生もこのようなものであろうか。
 リサイタルを開くことは、現在の自分を見つめ、反省して新しく前進する上に、是非とも必要なことである。フランク君、ボーリングで優勝者のユニフォームを着けた貴君が、今歌手世界でのチャンピオンであることも、私は信じて疑わない。
 いつ迄もその謙虚な人柄と弛まざる努力を保持して戴き度いと思う。お互に後味の悪いガーターは絶体に赦されませんからね。


●忘れられないバスの魅力
日本音楽著作権協会会長 堀内敬三

 「低音ブーム」のキャプテン格「有楽町で逢いましょう」は、昭和三十二年の暮から翌年いっぱいにかけて、日本中いたる所で流行した歌であった。フランク永井という新しい大スターの名も、この歌といっしょに私に、強く印象づけられたのである。
 その次に激しい印象が与えられたのは、三十六年の暮に出たレコード大賞のリバイバルヒット「君恋し」である。
 このうたは「カルメン・シルヴァ」の変形で、私はこの節を大正終期から知っていたが、フランク永井のバスの声で開くと、魅力がひとしおよみがえって響いた。
 レコード芸術のひびきの中で、フランク永井の独特なバスの歌声は非常な魅力である。
 日本の流行歌―何万あるか、何十万あるかの中で、このおびただしい魅力は決して忘れられないものである。


●リサイタルに寄せて
日本作曲家協会会長 古賀政男

 リサイタルおめでとう、心からお祝い申上げます。
 この会を重ねるに従って、ますます君の歌唱の円熱さが目立つ程、完壁に近い心境を思わせます。何事にせよ、人は死ぬ迄、勉強、努力だと思います。
 亡くなった世界のプリマドンナ三浦環さんが、常に言っておられました。自分はこれまで、何百回となく蝶々夫人(マダム・バタフライ)を歌ってきたが、一度も満足したことはなかった......と、私に述懐されたことを思う時、芸道のきびしさを感ずるのであります。
 現代の歌手が多勢おられる中で、君は私の最も好きな憧れの歌手です。どうぞいつまでもその心懸けを永遠に持ち続けて、歌の花を咲かせて下さい。
 今日は本当におめでとうございました。


●いつも"心の歌"を
日本音楽事業者協会会長/衆議院議員 中曽根康弘

 フランク永井さんの歌は、日本人の"心の歌"である。ちょうど、シャンソンがフランス人の心の歌であるように。
 フランク永井さんは、いつも、人の心の最も奥深いところにある衷しみと歓びを歌う。うわべの派手やかさだけを追う歌手の多いこの世界で、聴く人の胸にしみじみと語りかける、数少ない人の一人である。
 フランク永井さんは、年と共にますます人間一的な磨きを加え、その"低音の魅力"は、あたかも、いぶし銀のような渋く深い光をもってきた。彼の歌は、聴く人の心を、熱狂というよりは、むしろもっと暖かい、やわらかい、切ない感情で包みこんでしまう、不思議な力をもっている。
 芸術祭参加のこの第二回リサイタルが、大成功をおさめるよう、これからもますますよい曲に恵まれて、いつまでも"心の歌"を歌い続けられるよう祈ってやまない。


●大衆のための歌
日本音楽著作権協会常務理事 吉田信

 フランク永井君が歌った「有楽町で逢いましょう」を初めて耳にした時、日本の歌謡界にも、素晴らしい低音歌手が現われたものだと感嘆した。私が一番感心したのは、詩と曲の心を的確につかんで、自分の歌として唄いあげている点だった。
 その後のフランク君の成長ぶりには目覚しいものがあり「君恋し」で日本レコード大賞を獲得し、一昨年は歌手として最高の栄誉である歌唱賞も受賞した。
 フランク君の今日あるのは、同君の精進の賜物であることはいうまでもないが、佐伯孝夫、吉田正両君による、数多くの優れた作品に恵まれたことを忘れてはならない。
 今回のリサイタルを飛躍の第一歩として、更に新しい情熱をもって、大衆のために歌い抜くフランク永井君の今後に、私は大きな期待をよせている。


●フランク永井君の魅力
慶応義塾大学教授 池田弥三郎

 だいぶ前から、ずっとひき続いて、フランク永井君の歌のフアンなのに、これがまた不思議なことに、一度もステージの声をじかに聞いたことがない。二三年前、レコード大賞の後の会で、きょうは開かれると思ったら、のどの手術とかで彼が出演せず、だめになったことがあり、それ以来、リサイタルなどがあっても、いつも行かれない。
 こんどの会も、学校の公務でこちらが不在でまた聞きに行かれない。これで、五六度、聞きこそなっている。残念でならない。しかし、そのために、フランク永井君の魅力が期待によって倍増されていることもいなめない。変な言い方だが事実だから仕方がない。
 天分がゆたかで、そのうえ努力家だし、どんどん新しい経験を積んで吸収しているから、魅力が先へ先へと展開していく。楽しい。


●洗練された魅力
日本経済新聞社企画部長 平井賢

 フランク永井。この名を聞いて大分久しいものになっている。歌い続けて十年という。デビュー当時から、ずば抜けたフィーリングのうまさが耳に残っているので、もう二十年も歌い続けているような気がしている。
 昭和31年から32年にかけて「場末のペット吹き」「東京午前三時」「羽田発七時五十分」「夜霧の第二国道」と続き「有楽町で逢いましょう」と吉田正君の都会詞歌謡を、吉田氏のイメージ通りに、都会的ムードで歌い上げ、低音の魅力を遺憾なく発揮してヒットにつぐヒットを飛ばし、大歌手の一人にのし上った。
 これは詩に佐伯孝夫氏、曲に吉田氏をいただいた幸運は勿論だが、フランクの努力も見逃せない。
 彼の洗練された歌唱の魅力は、声の良さ、歌い回しのうまさばかりで出るものではない。彼は歌を"大切"にして心から歌い上げている。もちろんレコード大賞や、歌唱賞を獲たこと自体偶然ではない。
 昭和39年の「冬子という女」「大阪ぐらし」以来、このところヒットを開かない。この会を機に大ヒットを期待しているのは、私ひとりではない。"好漢"フランク...ガンバレー。


●寿命の長い歌手
東京新聞社文化部 伊藤寿二

 もうすぐ本年度のレコード大賞の審査がはじまるが、毎年きまって歌唱賞の有力候補に推されるのが、フランク永井と美空ひばりである。今は、うまい歌手より面白い歌手が歓迎される時代だが、フランクはうまくて面白い。だけど、ちっともうまぶらない。人気に溺れない。
 そして、自分のペースを守り、自分の声の質を生かして、コツコツと根気よく勉強を続けている。
だから、歌手としての寿命が長い。とかく、実力がないのに人気が先走り、有項天になってはかなく消えてゆく若い歌手が多いが、そういう線香花火みたいな歌手たちは、フランクの根性や努力を学ぶとよい。
 フランクも、いいお手本になるように、ますます堅実に歌い続けてほしい。こんどのリサイタルは、じっくりと歌を聴かせて、聴衆を酔わせてくれるにちがいない。
 私が作曲家だったら、いちばん作りたいのが彼の歌で、いつまでも残るような歌をかきたいのだが―。
 フランクさん、いい仕事を続けて下さい。


●恋心を歌ったら日本一
スポーツニッポン新聞社文化部 宇佐美周祐

 この八月で吉田正さんからフランクが、二度目のリサイタルを開くことを聞いた。その時に吉田さんは「新曲を頼まれたのはいいが、フランクには、ほとんど手を使い尽しているので弱りました」と語っておられた。
 なるほど十年間に、百曲以上もフランクの歌を手がけられた吉田さんが、苦労される気持ちはよくわかる。だが吉田さんの顔には困ったとか、迷惑などの感じがまるでなく、むしろ弱っているのを楽しんでおられるようだった。
 フランクはなんて幸わせな男―しかし、これも彼の人間的なあたたかさ、それにともなう、血の通った歌唱力のたまものなのだろう。フランクは女性をモチーフに、あるいは恋心をテーマにした曲を歌ったら、その表現力において日本一といっても過言ではあるまい。吉田さんがこんどのリサイタル用に作られた新作「慕情」は、そんなフランクの魅力をフルに発揮させようという歌だ。
 恐らくフランクは吉田さん、いや僕らを含むフアンの期待にこたえ、今日はすばらしい歌を聞かせてくれるだろう。


●師匠ゆずりの記録男
東京タイムズ社文化部 佐藤泉

 フランク永井と三波春夫に対談してもらったことがあった。八、九年前にもなるだろうか。テーマは「ことしのホープ」であった。「有楽町で逢いましょう」や「東京午前三時」を吹き込む以前のことである。
 両人とも、今みたいにふとってはいなかった。双方ともに話に実(み)があった。数多いインタビューの経験から「これは大モノになりそうだ、だいぶ先の新人とはちがう」という直感が働いたことを、まざまざと、いま思いおこしている―十年。
 フランクはその間、レコード大賞一回、歌唱賞二回を受賞した。過去六回のレコード大賞審査におけるこの実績。吉田正氏ともども師匠ゆずりの"記録男"ぶりである。
 歌もうまい、人間もいい。歌手生活十年、一区切りである。ここらで、もう一度"歌謡曲の底辺"について、フランクと話し合ってみたい気がするのである。


●おとなの歌のチャンピオン
読売新聞社娯楽部 安倍亮一

 二か月のアメリカ生活をおえて日本に帰ってきた夜、なんの気なしにテレビをひねったら、でてくるわ、でてくるわ、歌もろくすっぽ歌えない、通称かわい子ちゃんの、白痴的ティーンエージャー歌手たち。ああ、もうだめだ。私は帰国第一夜で、絶望のどん底につきはなされてしまった。
 アメリカではこんなことはなかった。夜、ホテルの一室で、ウイスキーをのみながら、テレビのスイッチをひねったとき、すてきな歌を聞かせてくれたのは、フランク・シナトラ、サミー・デービス・ジュニア、ディーン・マーチンという人たちだった。
 帰国して一週間、ぼくはフランク永井にあった。「しっかりしてくれよ。おとなの歌のチャンピオン」と肩をどやすと、「大丈夫。まかしておいて」という返事。本当にがんばってほしいんだ。
 内容のまったくない、低俗な歌の氾濫の中にあって、おとなの感覚で、内容の充実した歌を歌えるのはフランクだけなのだから。そして、ジャズを絶対忘れないで、いつまでも歌い続けてほしい。


●これぞリサイタル
報知新聞社文化部 伊藤強

 師である吉田正氏と同じで、フランク永井がお酒を飲むようになったのは三十歳を過ぎてからだと聞きました。そういえば「有楽町で逢いましょう」と、恋人と待ち合わせたときフランクがいたのはティー・ルーム。バーやクラブではなかったのです。
 でも最近のフランクはかなりの酒豪。早いピッチでブランデーのビンを空けるのです。そして、お酒を飲むようになってから、歌の内容がまた一段と深くなったような気がするのは、同じ酒飲みである僕のひいき目でしょうか。
 昨日デビューした人が今日はもうスター。それが明日になると「そういえば、そんな人がいたっけ...」多少オーバーですが、いまの歌謡曲の世界には、そんなことが多すぎます。そのなかでフランクだけは別格。いつまでも心にしみる歌をうたって欲しいのです。これが二度目のリサイタル。「リサイタルなんて照れ臭くて」などといわず、若い歌手たちに「これがリサイタルだ」という見本を示してやって下さい。


●常に前進...
デイリースポーツ社芸能部 定方崇

 「君恋し」でレコード大賞をとった翌年だったと思うが、慶応病院へフランクを見舞ったことがある。
 「公表できない手術なんでね...」とフランクはにが笑いしていたが、実は痔の手術だったからだ。
 このとき、フランクはしみじみとこういった「流行歌って難しいですね。とくに詩の解釈がなかなかつかめないですよ」。
 僕らからいえば、あれだけ感情をこめて歌っている歌手はないと思っていたのに、この言葉は実に意外という感じが強かった。
 今から考えると、それだけ真剣に歌に取り組んでいたんだなと思うし、常に前進する姿勢も忘れなかったんだなということが分る。そんな態度が、他に追髄を許さぬ、今日のフランクを作り上げたのだろう。
 昨年のリサイタル以来、労音でみせたレパートリーの開拓、しゃべりの練習といつも勉強を忘れないフランクは、きっとこのリサイタルでも、その成果を聞かせてくれるに違いない。
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 1963年の文化の日に開催された、フランク永井第1回のリサイタルについての資料の第3回分です。

■日本ビクター株式会社 取締役社長 百瀬 結
愛情の歌手
 今夕の「フランク永井リサイタル」にご参会の皆様は「濡れて来ぬかと気にかかる」という歌詩をよくご存じでございましょう。申しあげるまでもなくフランク永井さんの大ヒット「有楽町で逢いましょう」の一節でございます。私はこの言葉に常々感激いたしているのでございます。また、たいへん好きで、折にふれて合う人ごとに話しております。誠に何んでもないような短い一句ですが、おそらく、どんなに寒い冬の夜でも、また、どんなに怒りにふるえているときでも、ほのぼのと心が温くなるであろうと思われる、愛情いっぱいの言葉でございます。
 人々相互の幸福の根源が、この僅か十幾つかの文字に剰(あま)すところなく刻みこまれている、といっては過言でございましょうか。亡き主人の声に耳を傾ける愛情の犬のマークの下で、日々仕事をしております私どもとしては別して、その感が深いのでございます。
 この言葉を耳にするたびに私は、作詩された佐伯孝夫先生に心からの敬意を捧げ、誰にも愛される名曲をお書きになった吉田正先生に、感謝申しあげるのでございます。そして、その名作を直接の歌声として心豊かに表規し、名詩名曲を更に生命あるものとして息吹かせつつ、皆様にお届けしたフランク永井さんに対し、限りない親愛の情を禁じ得ないのでございます。
 「濡れて来ぬかと......」のことが大分長くなりましたが、フランクさんなればこその歌唱であって、愛情の人でなければなし得なかった貴い業績であろう、と固く信じて敢えてそれを申しあげたかったのでございます。
 歌はその人を現わす、といわれますが、事実フランクさんは愛情の歌手であります。そして誠実の人であります。
 師を敬い後輩をいつくしみ、日常の生活行動も充実しております。昭和三十年当社に入社の、新人歌手時代と少しも変るところなく、謙虚に堅実に歩んでおられます。だからこそ「有楽町で逢いましょう」を一大ピークとして「東京午前三時」「夜霧の第二国道」「羽田発七時五〇分」「街角のギター」「俺は淋しいんだ」「東京ナイト・クラブJ「東京カチート」「霧子のタンゴ」その他数えきれないほどのヒットを続出し「魅惑の低音」の愛称のもとに低音ブームという歌謡界に、大エポックを画し得たのでございましょう。
 また「君恋し」で大衆歌謡レコード最高の日本レコード大賞、更には「夜霧に消えたチャコ」で同賞の歌唱賞受賞という栄誉も担っております。実にフランク永井さんは、こよなく大衆に愛される歌手であるとともに、品格を兼ね備えた歌手として、稀に見る、立派な存在であろうと存じます。それを要すれば、深々とした愛情と折り目正しい誠実な性格がその骨格になっている、と申しあげてよろしいのではないでしょうか。
 今宵、弊社主催のもとにフランクさんのリサイタルが開催されたのでございますが、フランクさんは、持てる力をフルに駆使して、愛情の歌の声々を皆様にご披歴申しあげることと存じます。将来への新らしい躍進を期して、新作品も用意しておられると聞いております。フランクさんのためにこれほど喜ばしいことはございません。
 ご来会の皆様にはフランクさんのために惜しみなく柏手を送っていただきますとともに、この上とも立派な歌手に大成いたしますよう、いつまでもご指導ご支援下さいますことを、この紙上をお借りしてお願い申しあげる次第でございます。

■日本ビクター株式会社 専務取締役 北野善朗
 フランク永井さんは、この十年の間、日本ビクターが世に送った歌手の間でも、屈指のスターであるばかりでなく、今後世界的にものびてゆく可能性を持った数少いア-チストの一人であると信じております。
 ジャズを歌っていたフランクさんが、「場末のペット吹き」で歌謡曲の分野にも歩を進めた時、私はこれは、すばらしい歌手が生れるような予感がしましたが、果せるかな「有楽町で逢いましょう」で大ヒットをし、以後「逢いたくて」までの数々の佳唱については改めて御紹介することもなく、皆様がよくご承知の通りです。
 近来ますます技法的にも円熟し、大阪での吉田正先生のリサイタルに於ける、フランクさんの歌をテレビで聴いた時、正にこれは日本の第一位の歌手であるという感を深くしたのであります。
 今回吉田先生を始め諸先生のご協力により、第一回のリサイタルを開かれるということは、これからのフランクさんにとっても、誠に意義深い貴重な里標となると考え、ご成功を心から祈り、あわせてリサイタルにお寄せ下さった各方面のご厚意を深謝するものであります。

■日本ビクター株式会社 常務取締役 八木沢俊雄
世界の歌手を目指して
 フランク永井さん、おめでとうございます。待望のフランクさんのリサイタルが開かれましたことを、心から嬉しくお喜び申しあげます。
 フランクさんのリサイタルは、各方面永い間待望のものでした。いくどもいろいろな方からおすすめがあったのですが承知されませんでした。「僕は臆病な性質なので......」とフランクさんはいっておられますが、極めて堅実で誠実な性格がそうさせたことと思います。自分の歌と社会に対する強い責任感、とでもいってよいでしょう。
 フランクさんは常に自分にムチを打って生きている人です。レコード歌謡界に改めて申しあげるまでもない大きな業績を残しながら、テングになるような素振りなど少しも見せません。実に謙虚です。それだけに今日のリサイタルはたいへん感減の深いものがあろうかとお察しします。
 私は常にフランクさんは世界の歌手になる人だと考えています。ここ一、二年、特にそれを強く感じます。歌の深さ、大きさ、そして豊かな説得力......レコードはもちろんステージ、放送テレビでも他の歌手にない厚味を感ずるのです。ときにフランク・シナトラ、ハリー・ベラフォンテをほうふつさせることもあります。日本的なものと西欧的なもの、古いものと新しいもの、それらが実によいバランスを保って同居する歌の素質と、誠実で自分に厳しい人間性から、必ずや日本で数少い世界的な歌手になる人だといいたいのです。
 何卒一日も早くそのような歌手に大成するよう皆様のご支援とご激励を、私からも心からお願いする次第でございます。

■フランクをほめる
ビクター芸術家クラブ理事長 飯田信夫
 フランクはいい奴だ。奴と言っても怒るなよ。軽蔑の言葉ではない。親しみをこめた言葉だ。実際フランクはいい奴だ。憎めない人柄だ。
 眼尻が下っていて笑うと眼がなくなってしまう。マスクも心も憎めない、名の通りフランクないい奴だ。然も歌えば低音の魅力と来ている。
 若い娘達が「フランクってイカスわね」と来るのも無理からぬことだ。
 フランクはほんとにいい奴だ。ビクター入社当時も人気歌手になった今も一寸も変らない。変った所と言えば、身なりが少しダンディになったことと、自動車を持つようになった位のものだ。会えば必ず挨拶もするし、冗談も言う。ほんとに心のおけない、少しも威張った所のない、いい奴だ。
 なんだそんなことと思う人もあるだろうが、これがなかなか出来ないことなんである。一寸人気が出て来ると、挨拶どころか会釈すらしない人がある、僕は僕なりの考えから、挨拶されなくとも、会釈されなくとも、別に気にはしないんだが、他の人はそうはいかぬらしい。
 あの野郎生意気だと言うことになる。ところがフランクは一寸も変らないのである。ニコニコ笑いながら最敬礼に近いような格好でおじぎをする。他の人がしたら嫌味たらしいんだが、フランクがすると少しも不自然でない。好感の持てる物腰格好なのである。徳な人だ。
 彼はスポーツを好む。殊に野球が好きだ。自分のチームを持っている位だから、まあマニアと言ってもいい位だ。元来スポーツマンと言うものは、さっぱりした性格の人が多い。フランクの明るい人好きのする性格は、スポーツによって培れたものに違いない。好感の持てるマスクを持って、然もスポーツマン、加うるに低音の魅力と三拍子そろった「よか男」フランク、男の将来はまだまだ永い。思う存分歌いまくり給え。

■ビクター芸能株式会社代表 永野恒男
お祝いの言葉
 フランクさん、おめでとうございます。私は貴方の一ファンとして、本当に今日の日を待っていました。
 思うにこの数年来リサイタルと称する会が大変多くて、こういってはなんですが、それこそ猫も杓子もリサイタルです。とりたててリサイタルの実義を云々する必要もないてしょうが、でも、よそ目には如何にも「リサイタル」という名にそぐわないキャリアの人も多いようで、でも、そんなことはどうでもよいことで、せめて本人の気持の在り方だけは、精一杯のものがあって慾しいと思う訳です。
 こういった中で、貴方が今回リサイタルを開くということは、とても大きな意義があるように思うのです。もちろん貴方はそんなことは全く考えてもいないでしょうが......
 フランクさんには、もう三年も前から会社はリサイタルをやったらどうか、とすすめていました。それはフランクさんのレパートリーの豊富さもさること乍ら、歌手としての完成度ともにらみ合わせて、吾々は自信をもって意見を述べてきたものであります。
 吉田先生の創った新しい歌の典型を、低音ブームという一時代を画した素晴らしい表現力をもって、世に紹介した歌手としてのフランクさんの功績は、吉田先生の名とともに長く日本の歌謡史に残るものであります。
 それが三年も延び延びになったということは、やはり貴方の中にいつもある「歌に対する自分の姿勢」の為であったと思います。自分の歌をそれだけ貴方は大切にし、また、リサイタルというものの、本質を最も正しい姿において表わし度いという、歌に対する貴方の良心でもあり、また意慾でもあったと信じます。
 私は今は貴方の一ファンとして、本当に今日の日を楽しみにしています。もちろん成功するでしょう。私は今日まで、ベラフォンテ、モンタン、シナトラ等多くの世界のスター・シンガーのリサイタルを日本に於て催して来ました。これらの人達の場合、採算の問題を別として、失敗するかもしれないという不安はかつて、一度もしたことがありません。
 これらの人の歌、あるいは舞台のもち方について、私なりに勉強もしました。彼等は全く自分が感じていると同じ感動を、聴衆に与える術を研究しつくしていることを知っていたからであります。
 それはもちろん歌そのものの高さでもあり、また演出上の技術でもありましょうが、それ以上に人の心に直接食い込んでくるその歌手自身の、より人間的な味わいでもあります。私は全く同じ意味で今日のリサイタルに何の不安もなく、唯フランク永井のもつ、ふくよかな暖かさに満ちた人間性に感動出来る自分を、楽しみにしているだけであります。
 フランクさん、おめでとう。これからは一年に一回がもしシンドイというなら、せめて、二年に一回ぐらいはじっくりと貴方の歌が聞けるリサイタルを、やってほしいものであります。

■日本ビクター株式会社レコード本部邦楽部長 滝井利信
 フランク永井さん、リサイタルお目出度う、心からお祝い申し上げます。
 「魅惑の低音」、これは、皆様ご承知の通り、フランクさんのLPレコードのシリーズの題名ですが、この題名は、フランクさんの歌をずばりいい尽していると思います。
 低音の素晴らしさ、これがフランクさんの身上です。低音と云う言葉が流行歌の世界だけでなく、広く一般に流行語となったのは、「有楽町で違いましょう」はじめ、フランクさんの歌が数多くヒットしてからです。フランクさんの歌を聞いていると、その声からしみじみした雰囲気、身近さ、親しさ、暖かさを感じます。フランクさんの人気の秘密はここにあるといってよいのではないでしょうか。
 また、その歌のうまさは私が申し上げるまでもなく好評があります。そして、流行歌のみならず、シャンソン、ジャズ、ホームソングなど、そのレパートリーは多彩で、幅広く器用さで歌っているのではなく、その持ち味で独特に歌いあげています。
 フランクさんのような、魅力ある声、歌のうまさ、幅広さと三拍子そろった歌手は数少ないと思います。このような優れた、立派な歌手を持つことが出来たことは、当社の誇りであると信じています。
 今夜、お集りの皆様には、どうかごゆっくり、フランクさんの歌を味わって下さいますようお願い致します。

■ビクター芸能制作課長 佐藤邦夫
フランクさんの家
 下目黒のフランクさんの家の二階には、立派なリハーサル・ルームがあり、防音設備がちゃんとしているので、どんな大きな音をたてても、御近所に迷惑をかけることもなく、テープ録音も出来るようになっています。
 歌手にとって、充分なリハーサルが、家で行われるということは、理想的であり、それだけ、フランクさんが、仕事を大切にしているといえます。
 家の設計よ、ヤマハホールや、高崎の群馬音楽センターをつくったA・レイモンド氏だそうですが、一切の虚飾がなく、すべてが合理的に出来ています。といっても、ドライでなく、家のふんいきは、あたたかく、簡素な美しさに充ちているのですが、これは、まったく、フランクさんと奥さんのおふたりの人がらが、そのまま反映しているといえます。
 フランクさんとは、新人時代から何本かのフランク永井ショウを演出したり、ハワイへ一緒こ行ったりまた、今度のリサイタルでウラのお手伝をするようになったりして、ながいおつきあいですが、この間、不愉快なことは一度もありませんでした。恐らく、フランクさんは、誰にも、そういう思いをさせたことはないでしょう。
 それにまた、奥さんが、よく出来た方で、幸せな家庭の典型がここにある、というのが偽らない感想です。
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【告知】今年開催予定の12回フランク永井歌コンクール」は再延期となりました。
 皆さんご承知のように、現在もコロナ禍は予断を許さない状態です。来年こそ、晴れ晴れとしたすっきりした気持ちで行われるのを、楽しみにしたいと思います。

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≪フランク永井第一回リサイタル 資料2 リサイタルに寄せて≫
前回の続き第2回です。

■(東京放送プロデューサー)三浦清史
《魅惑の低音》フランク永井・歌とその人

●情熱を注いだリサイタル
 昭和三十八年十一月三日、文化の日
 この日、フランク永井が、東京新宿の厚生年金会館大ホールで、過去八年間の歌手生活の集大成ともいうべき、リサイタルを催した。
 冷たい北風が吹きまくる屋外に比して、大ホールの中は、いささかの暑さを感ずるほどに湧いていた。
 ライトを浴びてステージに立ったフランク永井は、体ごと観衆に挑みかかるかとも思えるばかりに、熱のこもった歌いぶりで、ひとつひとつ心をこめて歌いつづけた。
 「このリサイタルは、僕自身の努力でやり遂げようと思っていますので、ことさらにゲストの方がたにご出演をお願いすることもせず、裸のままの僕を、皆きまり見ていただくつもりです」
 リサイタルの数日前に、築地のビクター・スタジオで会ったとき、こうフランク永井は語っていた。
 たんたんとした口調ではあったが、リサイタルにフランク永井が全精力を傾けていたことを、私はその翌日はっきりと知らされた。というのは、東京放送で私が担当している番組のゲストに出演してもらおうと、下目黒のフランク永井宅に電話したとき、「わずか五分くらい、マイクに向って話してくれたらいいのだけど......」と、私が話しかけたとたん、
 「悪いけど、今日からリサイタルの日までは、一切ほかの仕事をやらないことにしてるのですよ。それに、ご存知のとおり僕は無器用なものですから、今はリサイタルのことで頭が一杯になっていて、到底インタビューにも満足に答えられないかも知れませんよ」
 フランク永井は、こうことわりの言葉をのべた。
(何をいっているのだ、わずか五分のことなのに......携帯録音機を持って、押しかけてやろうかな)
 フランク永井とは、デビュー当時からの交際でもあるし、遠慮のない間柄なので、勝手に局の仕事のことばかり考えていた私は、強引に談じこんだ。
 「とにかく、お宅へお伺いするよ」
 「リサイタルが終ったら、いくらでもお仕事に協力するけど、今回だけはお受けできません」
 受話器を通じて響いてくるフランク永井の声には、一徹なまでの真刺さがこめられていた。
 あきらめて受話器を置いたあと、(リサイタルは、きっと成功するに違いないだろう)と、なぜか私は、爽快な気分になっていた。
 十一月三日夜、延々三時間にわたって、自分で司会しながら歌いまくったフランク永井リサイタルは、ファンの大喝采を浴び、充実した内容のものとなった。
 「八年間の歌手生活の中の、最も大きな収獲になったような気がします」頬を紅潮させながら、リサイタルのあと、フランク永井はこういった。
 この八年の間に、フランク永井は二〇〇を越える曲を歌っている。そして、年毎に新しい歌の境地を開拓してきた。
 低音ブームを捲き起した歌「有楽町で逢いましよう」の爆発的なヒットで、歌謡界トップスターの座を確保したフランク永井は、昭和三十四年度日本レコード大賞歌唱賞を、「夜霧に消えたチャコ」の完成された歌い方で受賞し、さらに、個性的な低音の魅力をフルに駆使して歌いあげた「君恋し」で、昭和三十六年度レコード大賞グランプリを獲得した。そして、今も血のにじむような精進を重ね、常に新しい魅力を創造し、絶えることなくフランク永井は、ヒット曲を生み出しているのだ。

●歌へつながる生い立ち
 昭和二十七年、品川の芝浦海岸沿いに、まだ駐留軍のモーター・プールがあったころのことである。
 ジープ、トレーラー・バス、大型トラック、乗用車などが、所せまいくらいに置かれてあるモーター・プールの中を、小柄な日本青年が足早に歩き回っていた。
 軽く口笛を吹きながら、きびきびした身のこなしで掃車し、故障の点検をし、給油をする。それが彼の日課なのだ。
 永井清人(フランク永井の本名)という名前のこの青年は、どんなに忙しいときでも口笛を吹くのを止めなかった。
 「僕は、ビング・クロスビー(Bing Crosby)が大好きでねえ......」と、清人はモーター・プールで働く仲間たちに、ジャズを歌って聞かせたりする気さくな性分なので、皆から好かれていた。
 このモーター・プールの、日本人従業員チーフは清人の兄であった。
 宮城県古河で映画館を経営していた父は、清人が六歳のときに亡くなり、母が父の後をついで、映画館を経営して、子供たちを何不足なく育ててくれた。
 六人兄弟の四番目であった清人は、温和な顔立ちのわりに、意志の強い子で、中学を卒業するとまもなく独立して、仙台の駐留軍キャンプでボーイとして勤めながら、苦学をつづけた。
 (どこまで、自分ひとりでやれるか、試練の意味でもできるところまでやりぬいてみよう)
 不安げな表情の母を説得して仙台へ出た清人は、英語を学び、自動車の運転免許を取得した。
 二十七年、十九歳のときに上京した清人は、兄と共同生活をしながら、品川の芝浦海岸にあった駐留軍のモーター・プールに勤めたのであった。
 勤めのかたわら、清人は、三田英語学校の夜学にかよい、猛烈に勉強に打ちこんだ。
 「あのころは、貧しかったけど、今にみていろっていう野心に燃えていましてね。それが何になろうというはっきりした目的があったわけでもなかったんですがとにかく、がむしゃらに勉強しましたよ。ときには、駐留軍キャンプで、アルバイトに歌ったりもしましたし、放送局ののど自慢にも出場しました」
 このころを語るとき、フランク永井の顔は悔いのない青春を思い浮かべて、明るく輝やく。
 清人青年のひたむきな情熱は、天分に恵まれていた歌の方に向けられ、ジャズ歌手としてビクターに迎えられた。
 芸名は、駐留軍のモーター・プールに勤めていたころ仲間たちから、「おい、フランク」と呼ばれ親しまれていたのをそのまま、姓の上につけてフランク永井と決めた
 三十年十二月「恋人よわれに帰れ」でデビューし、ついで、「ばらの刺青」「16トン」と、バス・バリトンの歌声で認められていったが、三十一年十月「場末のペット吹き」で歌謡歌手に転向した。
 三十二年には「東京午前3時」「夜霧の第二国道」などのヒットをとばし、詩情をよくとらえて、リズム感のよさとフィーリングのうまさを、低音に生かした歌い回しで、低音ブームを捲き起していった。この年の暮の「有楽町で逢いましょう」が、翌年にかけて日本の歌謡界に、決定的な低音時代を招来したのである。
 サックドレスにフラフープが流行した三十三年は、経済景気の上昇からも、娯楽的な面への風潮が強く、有楽町で逢う、デートするという事象が、社会にアッピールし易い状態でもあった。加えてフランク永井の魅惑の低音が、社会情勢と相まって、日本全国に歓迎されたのであった。この「有楽町で逢いましょう」のヒットにちなんで、私は「有楽町特集」を制作したがこれは、フランク永井を中心にして、ファンである落語家三升家小勝、宮田重雄、山口シズエ、浪曲家玉川勝太郎、長島茂雄の五氏に、第一生命ホール満員の客の前で、それぞれ「有楽町で逢いましょう」を歌っていただいたわけである。落語調、演説調、浪曲調と、さまざまな「有楽町で逢いましょう」を、フランク永井は、手拍子をとり、ときには一諸に歌うなどして、ゲスト諸氏に応援していたが、彼の人徳とでもいおうか、品のよい笑いに包まれた、歌謡番組の録音をとることができた。
 「西銀座駅前」「ラブ・レター」「俺は淋しいんだ」なども、三十三年の曲である。三十四年には「夜霧に消えたチャコ」「冷たいキッス」「東京ナイト・クラブ」と、大きく進境を示した。三十五年の「好き好き好き」「大阪野郎」「星になりたい」「東京カチート」など、一段と低音につやが増してきた。
 そして三十六年、「君恋し」で、日本レコード大賞グランプリを受けた。古い時代の歌を、フランク永井独自の個性で、完全に現代の歌として、再生させている点、この「君恋し」の歌い方は見事なものといえる。
 グランプリ受賞歌手はだめになる......というジンクスを破って、三十七年、「月火水木金土日の歌」(三十七年度レコード大賞作詞賞)「ひとりぼっちの唄」「新東京小唄」など、歌の心をしっかりつかんで表現する努力とともに、ホームソング風のものへも、意欲的に取組んでいった。何か新しい線を見出そうとするフランク永井の追求心が感じられる。「月火水木金土日の歌」は、従来のフランク永井にはなかった、面白い味が出ている。
 三十八年になると、「霧子のタンゴ」「わかれ」「はてしなき恋」「逢いたくて」など、八年間の実積を誇るにたる歌を出している。
 フランクおじさんシリーズのような仕事もファンにとっては、新しい魅力のひとつと思えるのであろう。
 最近、放送局へのリクエストなどにも、「お尻をぶつよ」などのリクエストなどが含まれているようだ。

●歌は心でうたうもの
 十一月三日、文化の日。この日にリサイタルを開いたのは、〝歌謡曲だって、文化の日にふさわしいものなのだ......″という。フランク永井の自負のあらわれからなのであろう。「歌は心でうたうものです。いくらよい声で美しく、また、確かな音程で歌ったとしても、感動のこもっていない歌い方では、人びとをとらえることはできないと思います。常に精一杯に歌えるよう、体の調子を整えるとともに、心で歌を表現することを第一義として、勉強したいと心がけていきます」。
 リサイタルの後、フランク永井はこう語っていた。
 日本人の胸の奥には、スローで美しい曲に対するあこがれのようなものが、潜在しているのは、万人の認めるところである。
 このように日本人の好みを満足させてくれるのが、フランク永井の歌なのだといっても過言ではないだろう。
 フランク永井のフアンの幅は、実に広い。老若男女あらゆる階層にわたって、強力に支持されている。誰からも愛されている。東北人的なシンの強さと、都会人的なやわらかさ。日本的な持ち味と、バタくささ。
 古風な感じと、新鮮な感じが、適当に入りまじって、フランク永井の魅力になっている。それらが、柔和な顔立ち、誠実な人柄、そして、素晴しい歌声に包まれているのだ。
 日本の歌謡界のために、いつまでもいつまでも、歌いつづけてほしいものだ。

●低音の魅力十分発揮
 きのう三日は〝文化の日〟――晴天に恵まれ都内各所ではいろいろの記念行事がくりひろげられたが、音楽会もいっぱい。昼間は文京公会堂で創立三十周年を祝う音羽ゆりかご会が公演、日比谷公会堂でコロムビアのアントニオ古賀がリサイタル。そして夜、ビクターのベテラン歌手フランク永井が新宿・厚生年金ホールで初のリサイタルを開き、この道八年の成果を世に問うた。
 フランク永井のリサイタルは定刻の七時、幕をあけた。初のしかもたった一回のリサイタルとあって会場はいっぱい。一階席などは通路までファンが立つ盛況だった。渡辺弘とスターダスターズに弦を加えたオーケストラをバックに、まず最初のヒット曲、「有楽町で逢いましょう」から歌い出す。
 いわゆる〝おとなの歌〟の歌えることで定評のあるフランクだけに、聴衆もハイティーンはすくなく、年配の人がほとんど。しかも聞き上手が多く〝お祭さわぎ〟の多い流行歌手のリサイタルとは、全く異質の雰囲気。
 「気が落ち着く安定剤があったら百錠でも二百錠でも飲みたし」。フランクはこうあいさつしたが、二曲目のヒット・メドレーあたりから、すっかりベテランの貫禄を取り戻したかたち。
 一部で数々のヒット曲、二部で童謡やポピュラー・ナンバー、そして第三部で吉田正作曲、指揮による新作「女の四季」の発表。のぴのあるパンチのきいた低音ボイスの魅力をフルに発揮して四十曲以上も歌いまくった。この日のフランクはまさにパーフェクトに近いでき。この成功に観客席から拍手のアラシがやまなかった。【スポーツニッポン:十月四日】

●幸運の歌手
レコ−ド大賞、制定委員会運営委員長 古賀政男
 フランク水井さん、今日のリサイタル御目出度う、心から御祝いします。
 現在の歌手の中で私の最も好きな声の持主である君に、かねがね私は一度でよいから、私の貧しい歌を唄って貰いたいと思っていります。言葉に多少のアクセントがあるとしても、それが決してきざに聞えないばかりか、かえって君の個性を生かして現代の息吹きさえ思わせる。
 君が最初に唄った時から、今日もその魅力ある声は、少しも衰えてないばかりか、益々美しく冴えている。
 この上、共に精進を積まれて、来るべきレコード・グランプリもまた獲得して下さい。
 菊花に映ゆる今日のリサイタル、重ねてお目出度う申し上げます。

■花登 筐
フランクさん あなたとは永い交際です。
あなたが「有楽町で逢いましよう」の大阪での始めてのショーのとき、私の生れて始めてショーの演出でもあったとき。
その時からずっと――今日まで。
フランクさん あなたは紳士です。
あなたはいつも、おおらかで、あの時の微笑みをずっと――今日まで。
フランクさん あなたは誠実です。
忘れもしません。あなたが結婚した直後「妻のために弱いポーカーを止めた」と僕らの前でカードを破り捨て、その手のうちを見せたことを。
フランクさん あなたはフランクです。
ただ少し変ったのは、一滴も呑まなかった酒が、三杯のブランデー党になったことが。
フランクさん あなたは素晴しい歌手です。

■実川延若
素晴らしいムード
 フランクさんおめでとう。〝公園の手品師〟や〝場末のペット吹き〟の曲が流れ始めた頃、あなたの歌に魅せられてから数年後、偶然にも北海道の旭川国際劇場のこけら落しにご一諸に出演し、宿では愉快な日をすごして以来、お付合いをさせていただくようになり、もうずいぶん長くなりますが、実のところリサイタルを催されるのが遅いくらいですよ。
 私がフランクさんのファンなのは、歌は勿論のことですが、スターであって、スターを意識しない謙虚な態度、立派なステージ・マナーは歌にまで、その人間的な魅力がにじみ出ています。一日の仕事を終えて後、一人静かに低音のムードにひたる時が、私の一番楽しい時間ですが、あなたの歌は何か美しい夢を連想させ、素晴らしいムードに酔ってしまいます。
 そして一曲一曲懐しい想出を作ってくれます。この度のリサイタルもまた、ファンは陶酔させられることでしょう。どうか日頃の努力を充分発揮して、素晴らしい歌を聞かせて下さい。大いに期待致しております。

■三笑亭可楽
 大正は遠くなりにけり......ですが、まだ私が若い大正の始め頃、浸草の観音様のお堂から、六区の方へむかって来ると、花屋敷の手前のところに、広い原っぱがあって、そこにある雨ざらしのベンチに、夕日が射していた時分、お寺と五重の塔の屋根に鳩がとんでいて、何とも言えない情緒がありましたが、フランク永井さんの"場末のペット吹き〟を聞いていると、必ずその時代のことが連想されてくるのです。
 フランクさんの歌は、私の考えでは欲がないから情景が出るのだと思います。
 "雨のメリケン波止場〟でも、そぼ雨の中を鴎が飛んでいる......という風な歌詞もいいけれど、薄暗いどんよりとした情景が、にじみ出てくるのが何とも言えないのです。
 落語でも、背景の出るようになるまでは、なかなか苦労がいるものですが、フランク永井さんの魅力もここにあるのだと、いつも私は楽しく聞かせていただいています。

■小倉友昭
 フランクさん、初めてのリサイタルおめでとう。考えてみれば、これが最初のリサイタルということは、不思議な気がするほどです。というのも、あなたは、もうとうに、リサイタルを持ったってもいい人だと思えるからです。それにしても、これが初めて、というのは、あなたのリサイタルに対しての真剣な姿勢がうかがえて、非常にうれしく思います。
 リサイタルというのは、歌手にとって、もっと晴れがましく、もっとも嬉しい舞台です。それを、今までやらなかった、というのは、あなたがいかに歌を大事にしてきたかを知らせるものです。
 この頃のあなたの歌は、そんなあなたの心がうかがえます。歌を大事に、歌を愛して、どんな言葉をも粗末にしないで歌うということは、もっとも難しいことです。
 あなたはこのもっとも難しいことをやっている。素晴らしいことです。このリサイタルで、その歌を聴くのを楽しみにしています。

■(大洋ホエールズ投手)鈴木 隆
 フランクさん、リサイタル、おめでとう。あなたとのおつき合いは、いつから始まったということもなく、今日に至っています。あなたの野球好きはもう天下周知のこと。なくなったと思ったチームも、いつの間にか再建して、なかなかのご活躍ぶりとか...。しかし、私があなたとのおつき合いを深めているのは、何も野球がとり結んでいるわけではありません。
 私が好きなのは、その名前のように〝フランク"なところなのです。そして明朗な人柄にひかれるからなのです。歌にもそれがはっきりあらわれているのは、いうまでもありません。美しい低音が魅力的なのはもちろんですが...。
 彼に会えないときでも、歌をきけば、私にはそれがはげましの声にきこえるのです。明るい感じて、ソフトに"おい、元気を出せよ"といっているかのように――。リサイタルにあたって、私も同じことばを彼への贈りものとしてさしあげておきましょう。

■北葉山
心からおめでとう
 いそがしいスケジュールのなかをさいて、本場所には最低一回はやってきてくれる。私も、彼の公演というと、楽屋までおしかけてゆく。しゃべり出すと、不思議にウマが合ってしまう。
 そういえば、私が優勝した場所、二回も長距離電話をかけて激励してくれたのを覚えている。これは本当にはげみになった。今度は私の番だ。
 公演が本場所だとすれば、歌手生活で初めてのリサイタルというものは、それこそ、優勝のかかった本場所みたいなものだろう。心からおめでとうをいうとともに、しっかりやって下さいと、はげましをおくっておこうといっても、力んだり、かたくなったりしないで欲しい。
 これは私たちと同じこと。そんな余計なことを言わなくたって、快活な彼のことだいつもの笑顔で、すばらしい歌をきかせてくれるとは思うけれど...。もう一度、心からおめでとう、しっかりやって下さい。

■九州から北葉山も激励に
 ビクター・フランク永井は初リサイタルを、三日午後七時から新宿厚生年金会館大ホールで、満員のファンを集めて行った。
 昭和三十年「恋人よわれに帰れ」でデビューしてから八年、この間五十曲以上のヒットを飛ばしながら、リサイタルははじめて。渡辺弘とスター・ダスターズ、ビクター・ストリングスの「有楽町で逢いましょう」など、ヒット曲のメドレー演奏によって「第一部フランクは歌う」(〝有楽町〟から〝逢いたくて〟)の幕があがった。
 上手から登場したフランク永井は「有楽町で逢いましょう」を歌ったあと、「家にいるのと同じ気持できいてください」と静かにアァンに語りかけた。一曲一曲感情をこめて、満員のファンの一人一人にしみじみと歌いかけた。
 第一部から二部「フランクと共に」まで三十四曲を、途中「東京ナイトクラブ」「月火水木金土日の歌」で松尾和子、古賀さと子、松島みのりの三人が共演しただけ。三部の新作「女の四季」(吉田正作曲)の序章から終章までの六部作、計四十曲をただ一人で歌いきかせた。
 リサイタルと名付けたものは数あるが、芝居はもちろん、ゲスト・スターもいないリサイタルだけに、熱っぽいふんい気がホールに充満。大相撲九州場所を控えた大関北葉山も、九州から飛行機でかけつけ花束を贈った。
 フランク永井が立つと厚生年金大ホールのステージは少しも広く感じない。通路までうめつくしたファンは歌にすべてをかける〝歌手フランク永井〟の歌のうまさと真剣さ、彼のすべてを歌うリサイタルに魅了されていた。【日刊スポーツ=十月四日】

■フランク永井後援会会長 愛知揆一
 フランク永井君が初めてのリサイタルを行なうことになった。その大成功を信じ、心から祝意を表したい。
 不肖、私はフランク永井君の後援会会長という役目にある。会う機会も少なく、何もしてあげることのできない会長ではあるが、その役目にあることは、私にとって誠に喜ばしいことであり、人に誇り得ることであると信じている。
 同県人(宮城県)の誼みなどという小さなことではない。もとより、わが郷土からフランク永井君のような、すぐれた歌手が誕生したことについて、県人として大いによろこび、その一層の成長を授ける気持ちは、十分以上に抱いているつもりではある。
 だが、しかし、同君はいまや日本のフランク永井である。その歌声は、日本の隅々にいたるまで浸透し、人々の心を結び合わせる力をもっている。そういう大きな眼で、わが後援会も同君をバックアップしてゆきたいし、私自身もまた、それを為すべく努力もしたいと思う。
 すぐやれた歌手であるということと同時に、私が同君にひかれるのはその人柄である。フランクとは、いみじくもつけたものだと思う。素直であり、明朗であり、まことに快活である。私は同君夫妻の結婚にあたり、不束ながら月下氷人を相つとめた。その婚約の許可を求めて、軽井沢に百瀬社長を訪ねた同君が、許しを得るや、深夜の道を想像を絶する超スピードで東京に立帰った、というエピソードを耳にしたとき、私はその仲人役に、これまでにない張りと、よろこばしさとを覚えたものである。
 このように、どの点からみても、フランク永井君は日本の代表的歌手なのである。それ故に、敢えて言いたい。この第一回リサイタルを契機として、毎年でもよい、そして東京だけでなくともよい、かならず続けてもらいたいと。それが、やはり真の意味での〝大歌手〟の仕事ではないかと思うからである。及ばずながら支援は引き受けた、と申し述べて激励の言葉としたい。

(最初のアップ時に、この記述の後に数人のお祝いを記したが、投稿量のサイズの制限の関係で、次回の記事に移します。)

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 フランク永井に関する当時の資料を整理する日々です。1963年の文化の日に開催された第1回のリサイタルについては、ビクターから当時LPは発売されずに、ソノシート(ミュージック・ブック)でのみリリースされました。主に第一部からのヒット曲と第二部の洋楽カバーなどが納められています。
 後日にこのリサイタルのパンフレットを見ることができて、ソノシートとパンフを並べてみると、本人の挨拶を含めて、多くのお祝いの記事があることが分かりました。私の資料の整理は、記録を残そうということが目的です。それを書き残しておくことで、後日の研究者の資料になればというのが望みです。
 内容は当然フランク永井というひとりの歌手をほめたたえるものですが、これを一覧すれば、当時の時代の匂いがわかります。開催されてからすでに半世紀経過します。当然記事は発言者と出版社であるビクター著作です。著作権が無くなっていると思われますが、不都合のご指摘を当事者からございましたら記事は取り消しますが、貴重な内容の資料として数回に分けて掲載させていきたいと思います。
 なお、文字起こしに際して、判読できない箇所もありました。表記については、一部現在の記述ルールに変更させてもらいました。

フランク永井第一回リサイタル
■期日:1963年11月3日(日)PM7時
■場所:厚生年金会館大ホール
■主催:日本ビクター株式会社
■制作:ヒタダー芸能株式会社
●制作スタツフ
吉田正/川内康範/三林亮太郎/今井直次/佐藤邦夫
●ゲスト
松尾和子/古賀さと子/松島みのり
渡辺弘とスターダスターズ/浜田清とフランクス・ナイン
ビクター・シンフォニック・オーケストラ
東京混声合唱団/ハニー・ナイツ

第一部 フランクは歌う
 "有楽町〟から"逢いたくて〟まで
 ■演奏/渡辺弘とスター・ダスターズ
 ■編曲/寺岡真三・小沢直与志・野々村直造
「有楽町で逢いましょう」「場末のペット吹き」「羽田発7時50分」
「星になりたい」「大阪野郎」「東京午前三時」「冷いキッス」「東京カチート」
「夜霧の第二国道」「西銀座駅前」「俺は淋しいんだ」「ラブ・レター」
「好き好き好き」「東京ナイト・クラブ」「夜霧に消えたチャコ」「君恋し」
「たそがれ酒場」「新東京小唄」「わかれ」「霧子のタンゴ」
「ひとりぼっちの唄」「逢いたくて」
(渡辺弘とスター・ダスターズ、寺岡真三・小沢直与志・野々村直造編曲)

第二部 フランクと共に
「公園の手品師」「ねむの木」「月火水木金土の歌」
「I Really Don't Want To Know(知りたくないの)」
「It's A Sin To Tell A Lie(嘘は罪)」
「My Heart Cries To For You(わが心はむせび泣く)」
「The Rose Tattoo(ばらの刺青)」
「Lover Come Back To Me(恋人よわれに帰れ)」
「Love Is A Meny SPlendored Thing(慕情)」
「Endress Love(果てしなき恋)」「The Falling Leaves(枯葉)」
「Somebody Loves Me(みんなが誰かを愛している)」
「If You Love me(愛の讃歌)」「Red Sail In The Sunset(夕陽に赤い帆)」
「想い出の湖」「It's Been A Long Time(ひさしぶりね)」
「Sixteen Tons(16トン)」「My Heart Belongs To You(戦場の恋)」
「こいさんのラブ・コール」
(浜田清とフランクス・ナイン)

第三部 女の四季
序章 川内康範
 春には春の悲しみが
 夏には夏のやるせなさ
 おさなごころにちりばめた
 夢に落葉が放りかかる
 燃ゆる心に雪が降る
 季節の外で雪が降る
  ああ 春もなく 秋もなく
  女は 心に四季を 持っている
「微笑み」「夏の終りに」「秋」「冬子という女」
終章 川内康範
 秋には秋の花が咲く
 冬には冬の花が咲く
 けれどわたしはあの人の
 影を抱きしめ生きている
 咲かぬ花ゆえいとしくて
 季節の外で泣いている
  ああ、この想い誰か知る
  女は心に四季を抱いている
(ビクター・シンホニック・オーケストラ、東京混声合唱団)

■フランク永井からリサイタルのご拶挨
 歌い始めてもう8年たってしまいました。
 30年に、日本ビクターへ入社したときのことが昨日のようでもあり、また遠い日のできごとだったようにも思われるのです。
 その間、多くの方々のあたたかい励ましと、ご援助とによって200曲を超える歌をうたわせていただきました。そして、日本レコード大賞、同歌唱賞、いくつかのヒット賞をいただく光栄にも浴しております。もとより、それりは、私自身の力ではなく、作詞、作曲、編曲の先生方、会社のディレククー諸氏のお力によるものであることはいうまでもありません。でも、そのようなすぐれた作品を与えられてきた私は、歌手としてもっとも恵まれた一人であると信じております。何回か迷いの雲のなかに落ち込みながらも、そこから脱出できたのは、その〝恵まれた立場〟を信じたからかも知れません。
 こんなにも多くのすぐれた歌を与えられた私――それを思えは、もっと早くリサイタルを行って、私の歩んできた道というよりは、それらの歌をたくさん聴いていただくべきだったと思います。事実、何回かリサイタルをやってみようと考えたことはあります。しかし、やれませんでした。
 特別の、大それた理由があったわけではありません。何となくこわかったのです。あるときは吉田先生のリサイクルの準備を傍らで拝見して、これは大変なことだ、うかつな気特でリサイタルをやろうとしたらえらいことになる――そんなことを感じたこともあります。それに、リサイタルということの意味を何となく重苦しく感じていたことも確かなのです。
 8年目にやっと実現できることになったのも、これまた特別の意味はありません。ただ、今年になってから"リサイタルをやりなさい〟というおすすめを多くの方からうけ、自分でもその気になったのです。いわゆる"機が熟した〟ということなのでしょうか。
 やる以上は、一生懸命やるつもりです。いままでの自分のすべてを注ぎこむつもりなのはむろんのことです。それとともに、吉田正先生が新しく書いて下さる「女の四季」と取り組むことによって、これからの方向をたしかめることもできるのではないかと、内心ひそかに期待を大いている次第でもあります。
 こんな風に、私自身としては大しいにハッスルしているのですが、そうかといって決して、仰々しい会にしようとか、自分の限界を超えた背のびの会にしようとかいうつもりではありません。あらたまったご挨拶をしようというのでもありません。
 というか、いつものフランク永井として聴いていたたきたいと思います。もしも、みなさまが"フランクと一緒に楽しく遊ぶことができた〟と、リラックスした気分で、今宵のひとときを過してしていただけたら、私としてこれに過ぎるよろこびはありません。
 この機会をかりて、8年間、私をあたたかく見守って下さったファンのみなさま、諸先生、関係各位に厚く御礼を申し述べさせていただきます。

恩師吉田正からの挨拶
心の歌を歌う人
 フランク永井君がリサイタルを開くことになった。実に感慨無量だ。なんとなく自分のリサイタルのような気持ちにさえなる。
 異常な緊張感を覚える。何故かひとごととは思えない。六月の末に、私自身二度目のリサイタルを終えて、やっと最近こなって、心身の疲労とシコリがとれたばかりだというのに......。
 早いものでフランク君とおつき合いをしてから八年になる。ポピュラー・ソングの歌手としてビクターから出て数カ月たったころだったろう。彼は会社のすすめで流行歌手に転向することになって、私のところへ来たわけだ。誠実な、実に気持ちのよい青年、という印象だった。
 年が若いに似ず、何か知ら大人っぽい感じをうけた。謙虚で少しも浮わついたところがなく、ソフトな感触の奥にコチッとした強いシンがあった。この感覚は大歌手になった今日でも少しも変らない。
 フランク君の歌は全くその性格の通りだ。何んのケレンもなく正面から作品に取っ組んでくる。大仰な振りはしないが、歌そのものは深く大きい。
 細かいところにまで精神が行きとどいて、極めてていねいな歌である。そして決まるところでちゃんと決めて安心感がある。派手さはないが、渋く暖かい愛情がじんわりとにじんでくる。よくいわれる「濡れて来ぬかと気にかかる」(有楽町で逢いましょう)の情愛ムードも、フランク君なればこその表出、と私は考える。実に得難い歌手である。私もずいぶん多くの歌手と仕事をしてきたが、恐らく彼ほどの歌手が今後現われるかどうか判らない。
 彼とても今日ここまで来るまでには、人知れず苦労と悩みもあったこ違いない。歌手になる前のそれは別としても、スター歌手の座こついてからも少くも数回はあったのではないか。それが何んであるか、憶測して書くことは控えるが、私には判るような気がする。ある意味で創作する者にも通ずる宿命のカベのいろいろではないだろうか。彼はその都度、自らの努力で乗り越えてきた。そして益々歌に深さを加えた。
 フランク永井は日本で数少い大人の歌手だ、といわれる。私も同感である。若い人たちの独占のように思われてきた日本の流行歌の幅をグンとひろげて、成長した歌手の年齢とキャリアに応じた歌を歌える人、フランク君はそのような歌手だと思う。日本の流行歌が欧米のそれのように大人の歌として、哀歓のヒダの深い人生の歌を謳いあげる人、心の歌を歌う人、それがフランク君だと私は見る。
 だから私は、何から何まで知り合っている間がらだが、判っているからといって作品の上で安易に妥協はしたくない。彼の豊かな資質にオンブすることは厳に戒めたいと心に願っている。裏を返していえば或る種の闘争であるかも知れない。フランク君の可能性のレールのずっと先で、彼のために仕事をしたい。いつまでもいつまでも......。たいへん思いあがって口幅ったいことをいってしまったようで、冷汗ものだが、実をいうと、こんどの新曲「女の四季」もそのような考え方で、じっくり取っ組んだつもりである。
 どうか厳しいご批判をいただきたい。
 ごく最近になって彼はいった。「先生のリサイタルの前の晩、大阪のホテルで寝つかれなくて困りましたよ」――どうやらこんどは私の番らしい。
 落ちつかない。おそらくフィナーレの幕がおりるまでがタがタしていることだろう。

佐伯孝夫
十二人の中の一人
 ついこの間のような気がしますが、考えてみればもう八、九年前のことになります。
 ビクターの歌手陣に新人十二人の準専属者がグループとして加ったことがありました。会社ではこの人々に、明日への大きな期待をかけたことでしたが、その中の一人がフランク永井さんでした。
 「フランク」とは彼がそれまで働いていた進駐軍用モーター・プールでつけられたニックネームだとのことでした。そうして、得意とするポプラー・ソングでデビューした彼が間もなく歌謡曲歌手に転向したとき、一層のことその歌手名も、新しいものに変更したらという動議も出されましたが、すでに私の邦語歌詞で「バラの刺青」など歌って貰っていたからというのでなく、何か特別に親近感以上のものを「フランク永井」という名に感じていました。
 「フランク永井」にはトラックの整備の油と埃りにしみたポロ布れを握り苦労に負けないで、前を向いている若者フランクの、小柄ながらダイナミックで新しい頼もしいイメージを感じさせるものがあり、しかもそうした彼の声は、彼らしい生活の涙を素直に含んでいました。名前を変更しない方がいいと、私も主張した一人であったように覚えております。
 さて、その新人十二人がスタートしたとき、フランクは決して最切からトップをつっ走っていたのではありませんでした。前にも申したようにポピュラー歌手という、言わば別格的な存在でした。転向後も、そうした事情から、「有楽町で逢いましょう」を、彼に歌って貰うことに決るまでは、たとえそれまでに「裏街のトランペット(場末のペット吹き)」や「東京午前三時」などがあったにしろ、ここ大一番の企画に参加して貰うことには、かなりの難色が表示されたのでした。当時としてほ、いわゆる常識を破ることであり、それに随伴する危険性を顧慮されたのでした。
 ここはどうしてもフランクでいきたいと主張し強く望まれたのは、彼を手がけていた吉田正先生であり、私などそれにもっともらしく附和雷同したようでした。そうして、彼が「有楽町で逢いましょう」を実力の真価を発揮して大ヒットしてくれたことは、同時に私が試みたがっていた、一つのことへの確信をもたらしてくれたばかりでなく、次作品への自信とさえなってくれました。いまでも本当に有難く思っております。
 いつでしたか、フランクがこの「有楽町で逢いましょう」の吹込みのとき、私にはじめてほめられて嬉しかったと、気のいい笑顔で話してくれたことがありました。たしかに、その吹込みのとき心ひそかに、これでフランクは「第一線歌手」として定着出来るし、してもくれると思ったのです。私のような舞台裏の人間にはこうした瞬間が、涙がこぼれる程うれしいのです。
 「フランクの歌には心がある」というのは吉田先生の口癖せですが、先生は多々あるお弟子さんの中でフランクを最も身近かに感じている、というより、むしろ一歩進めて、自分が歌手だったらこんな心の籠った歌い方をしたいという、純粋な気持ちを深く投影さしているのではないかとさえ思われます。
 ある時、フランクの口から意外にも、麻布十番の寄席(現在は映画館)の話が出ました。フランクはモーター・プールで働き、キャンプで歌い、三田英語学校の夜学に通い、そうした中での少しの余暇を、いじらしくもこの寄席の木戸をくぐることによって、楽しんでいたのだそうでした。私もそんなころ、何か吹切れずモクモクとして、モグラのようにくすんでいましたが、またしても、その同じ寄席へ通っていました。あまり入りのはかばかしくない客席でした。きっとまだ知らぬ同志ながら、私とフランクは二度や三度は顔を合せていたでしょう。うれしい奇縁です。
 年来オッチョコチョイの私も、フランクに会っていると心が落着いてきます。彼は渋くて重厚でひかえ目です。だが、これ以上渋くならないで下さい。いろいろな意味合で...。
 フランクさん! リサイタルおめでとう、心からお祝い申します。

川内康範
努力と奇蹟のリサイタル
 昨今の芸能人の浮沈の激しさは驚くはかりである。映画、テレビ、レコード、この三つの世界ても、とくにレコード界はその交替が激しいようである。昨年まではスターだった者が、今年はもう流れ星の如く消えているか、あるいは、あるか無しの存在となってしまう。
 人はたまたま、レコード界を卑俗な流行歌手の世界として軽視しがちであるか、それは十年も昔の世俗的観念を今日にあてはめての感想にちがいない。
 ナメテほいけない。今や、レコード界は、作詩家も作曲家も歌手も、旧来の如き観念をもって安穏たり得る可能性は、きわめて少くなっているのである。このことは幾多の音楽評論家達の、つとに指摘してやまないところであるが、ことほと左様に、レコード界の生存競争は非常な厳しさを伴いながら進行してしいるのである。したがって、生半可な人気に頼っている者はどしどし落伍し、やがて流れ星の運命を辿るのであるが、その反面、己れの仕事を栄誉あらしめんとする者は、血の出る様な努力を重ねている。
 僕は、その典型的タイプを、フランク永井の人間像に発見する。彼はこれまでに幾度も失意の現実にぶつかって来た。もはや、二度とフランク永井の時代は来ないであろうと極言する批評家もあったのである。だが、フランクは、見事に努力の集積によって奇蹟の人となった。歌手としての厳しい道を歩むことは、人間として先づ、己れ自身の悲運に克つことてある――ということを立派に実証して見せたのである
 彼の師である吉田正氏は評する。「フランクは、人間として大きく成長した」。
 僕は、これに勝るフランク永井評はないと思う。彼は、この師匠にこたえて自分の城を築き上げた。
僕はいま、創作歌謡「女の四季」の構成を吉田氏と打ち合せしなから、フランク永井のしあわせを、誰よりもつよく祝福している人間は、この世に吉田正氏の他にないのだと感じている。

時雨音羽
低音の魅力
 フランク永井君は、わが国の歌謡界に、低音の魅力というかつてなかったのを、広めてくれた人だ。それはちょうど、ヒタヒタとひたむきに押しよせて来る、渚の満ち潮のようで、何ものをも満さずにはおかない、烈しさと悩ましさがみなぎる。その魅力が「有楽町で逢いましょう」で、低音ブームを捲き起し、「君恋し」でレコード大賞をとり、「霧子のタンゴ」で低音時代を築いた。きびしい歌手修業の試練を見事乗り切ったその努力が実を結んだもので、なみなみならぬものがあったと思われる。
 またよく歌の心を汲みわけて、どんな歌でも、なおざりにしない歌い方も立派である。いかに巧みに歌っても、真実のこもらぬ歌に、感動の起る筈はない。今や君は大衆になくてはならぬ一人となった。この初リサイタルを期に、いよいよ愛される低音の魅力を更に確立して欲い。

利根一郎
人間フランク(永井清人)
 フランク永井、これは本当は(スマイル永井)といった方がいい位に、彼はスターの何たるかを知っている男である。
 スターは、一生涯わすれてはならぬことがある。それはスマイル(笑顔)である。自分ひとりでなったのではない。周囲の人達の援助があってなれたのだということを彼は真から知っている。(それは大なり小なり)だから、現在の業界(レコード界)で彼を悪く云う者は一人もいない。それも彼がどんな小さなことでも感謝を忘れないからである。
 その例に、これは名を秘すが、ある歌い手さんだが、フランクがスターになってから相手の歌手がまだラチがあかずにいるとき「ぼくと一緒に仕事をしないか」といって、相手の窮状を少しでも助けられたらと思ったのだろう。そういってくれたといって、その歌手が私に話してくれたことがある。それ以来、私は彼をスターとしてのフランクでなく、人間としての永井清人が好きなのである。ともあれリサイタルおめでとう、益々栄光あらんことを心から祈る。

渡久地政信
「お世辞なき歌声」
 コトコト...コトコト...君が乗った人生の歌の旅への汽車が今日も二本のレールの上を走り続けて行く。ある時は実に快適に、そして又或る時はスローテンポを味い乍ら、窓外に眺める物言わぬ景色の彼方に、昨夜別れ際、心に留めた親切な宿屋のおかみさんの声をふと憩い浮べる。
 おばさん、ほんとにありがとう。フランク君はお世辞のいえない人なんだ。そしてこの様にそっと想い出して、礼をしている人なんだ。君の「歌の中にはお世辞がない」真実...これ程、人の心を暖めるものはない。いうことは簡単でも至難なことである。そこに君の人間性を発見し、そこから発散する君の心の歌に、我々は心から拍手を送りたい。
 風花雪月、人は皆不変な目然の偉大さ美しきに驚歎しながらも、自らは心の真実を置き忘れているのではなかろうか。人生はあまりにも厳しい。走り続ける汽車も停留所は必要だ。「リサイタル」これはある意味での停留所だと想う。ここで一息ついて燃料を補給し、新たな歌の時代へと、君は養進していくことと想う。静かに、暖かい君のお世辞なき歌声を聞き乍ら、何日までも君の後姿を見送っていたいと想う。

宮川哲夫
 「場末のペット吹き」に始まって、「第二国道」「羽田発」「夜霧に消えたチャコ」と、どちらかといえは、暗く、重たい、私の詞の欠点を、いつも、カバーして、唄ってくれたのが、フランクさんの、甘く、ソフトな低音でした。
 人気絶頂にいる時も、大歌手として、大成された現在も、いつも変らず、エコエコと、その顔から、明るい笑いを消さない、フランクさんを見る度に、私は、「偉いナ」と思い、「立派だナ」と思います。
 ここまで書いて来て、ふと、気がつきました。デビュー以来、何年になるでしょう?「誰からも愛される」フランクさんが、「誰からも尊敬される」フランクさんに変っていたのです。「君恋し」「霧子のタンゴ」、その他、最近の、数々のヒットソングの中から、私の名前は消えてしまいました。
 明日でもいい、明後日でもいい、せめて一つだけでもいい、フランクさんに、心から喜んで唄っていただけるものを、作詞したい。そうして多年のご交誼に酬いたい、今日、そんな気持がしきりです。

松尾和子
今後ともご指導を
 昨今数多くの歌手がリサイタルをやっておりますが、何かお祭り的な感じのものが多い中に、フランクさんのリサイタルは、ほんとうの意味のリサイタルだな、とつくづく感じさせられました。
 私は前からフランクさんの歌に羨望の気持を抱いておりましたが、いままたその偉大さに頭の下がる思いです。
 今後とも、リサイタルを一つの契機として、一段と飛躍されることを心よりお祈りし、私達後進歌手の良き指導者と成って下さることをお願い致します。
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 フランク永井の第ファンで親しくしているJさんから、連絡がありました。フランク永井「データブック」に記載されていない曲がありますとのことでした。
 「データブック」にない曲と聞くと、私は敏感になり、詳細をお訪ねしました。すると、橋幸夫が唄うSPのB面にある「赤い夕陽」という曲だというのです。
 それを聞いてピンときました。実は「データブック」の最終確認のミスで、手元の赤字校正用の「データブック」で気づいていたものです。
 Jさんは『橋幸夫のSPのA面は「わが生涯は火の如く」という曲で、同名映画の主題歌なんです。そしてその曲は後日、EPでも発売されているのですが、その盤のB面はフランク永井の「赤い夕陽」ではなく、別の曲「故郷の花はいつでも紅い」になっているのです』という調査結果まで教えてくださいました。
 そして、もしかして「渡久地政信作曲の曲(作詞伊吹とおる)ですね」というと「フランク永井の新曲の発見だと思ってました」と残念がっておられたのです。しかしこれはJさんの大発見でもあるのです。
 橋幸夫のSPのカップリングで発売されていたことも、後のEPでは外されたことも知りませんでした。
 写真はJさんに送っていただいたSPからのものです。ありがとうございます。
 私は「赤い夕陽」について、気づいたときに当ブログに報告を上げたと思っていたのですが、後で探しても見つからず、勘違いだったと反省しました。
 「赤い夕陽」がフランク永井版では1960年に発売された「魅惑の低音第8集」に掲載されているのですが「データブック」では「赤い夕陽に」と誤記していました。
 「赤い夕陽に」は1963年に発売された「ロマンの街」(VS-1058)のB面の同じ渡久地政信作曲(作詞佐伯孝夫)の曲です。
 誤記の原因はやはり私の思い込みからでした。大変失礼しました。

 写真でお分かりのように、橋幸夫のSPというのは当時ビクターが海外版用で並行して使用していたレーベルの RCA Victor です。正確な発売年月は不明ですが、おそらく映画「わが生涯は火の如く」(ニュー東映、1961年6月公開)の制作が始まったときと思われます。
 「魅惑の低音第8集」は1960年の11月です。橋幸夫のEPが出たのは、1962年5月(VS-521)なので、これは映画公開のほぼ1年後です。
 B面の「故郷の花はいつでも紅い」は、佐伯孝夫作詞、吉田正作品製品です。当時流行だったラジオ番組、三菱重工提供「田園ソング」で流れたものです。
 なお、映画「が生涯は火の如く」は、消防士の活躍を扱ったもののようです。日中戦争から米占領軍といった時代背景をもった、人々の悲喜こもごもを描いていて、当時消防士の間では橋の歌がよく歌われていたとの記録もあります。

 さて、お詫びとして、データブックの目次箇所の訂正文を下記に記しますので、お持ちの方は訂正をしておいていただければと存じます。基本的に誤字を除けば「赤い夕陽」と「雨」について、似た名前あるいは同名を一つとしていたことです。

p76:1段中
 ■フランク永井・愛の詩集の行削除
P78:2段3行目に追加
 赤い夕陽 16
P78:2段3行目
 赤い夕陽は 24,59
P78:2段下から5行目
 雨 25,60
P78:2段下から5行目に追加
 雨 34
p79:2段6行目
 酒場の花 45,46,47
p82:2段下から2行目
 坊や...... 32
p83:2段
 婿さがし八百八丁 9
p83:3段中
 夢二恋歌 45
p84:1段下記行削除
 ■フランク永井・リサイタル
p86:1段
 ■第1回リサイタル 27,57,67
p85:2段曲名挿入
 伊吹とおる 赤い夕陽(16)
p86:1段、文字訂正
 坂口淳 婿さがし八百八丁
p89:1段、追加
 渡久地政信 赤い夕陽(16)
p91:1段、最終行文字訂正
 婿さがし八百八丁
p92:1段、曲名追加
 渡久地政信 赤い夕陽(16)

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