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 最近テレビの歌番組にあまり強い欲求をもてなく、録画したままのが多い気がします。それらを観ていて、安心して見る気になったのは昨年3月の再放送でしたが、テレビ東京BSの「昭和歌謡ライバル物語古賀政男小関裕而江口夜詩」です。
 日本の戦中から戦後の昭和歌謡時代の流れを築いた偉人です。この三人には強い共通性がありますが、ビクター側のフランク永井の恩師吉田正を、本来は加えるべきでしょう。
 この番組で取り上げた江口夜詩については、テレビ番組として本格的に紹介したのは初めてではないでしょうか。優れた番組でした。
 それから、これは過去に何回も紹介したものと類似になりますが、三波春夫の後継を紹介したような、BS-TBS「徳光和夫の名曲にっぽん<名曲選スペシャル>」です。
 5月23日にも予定されています。
 三波春夫という一世を風靡した名歌手の残した歌と映像、特に彼自身が分野を切り開いた「長編歌謡浪曲」について、司会の徳光は必ず取り上げています。
 徳光はフランク永井の大ファンで、機会があると彼自身が歌いもします。彼はここ数年の流れを見ると、三波春夫への深い関心を寄せています。特に、第七世代(よくわからない)といわれる若手歌手が、三波のこの「長編歌謡浪曲」に挑戦して頑張っているのを紹介しています。
 三山ひろし、山内惠介、市川由紀乃、辰巳ゆうと、椎名佐千子、坂本冬美、彩青、中村美津子といった歌手がいます。浪曲は今では芸能の世界では人気を失った状態ですが、その大御所に二葉百合子がいます。彼女の弟子に浪曲の発生を指導していて、その弟子らが機会があると、歌謡浪曲を披露します。
 双葉は現役は引退しましたが、発声練習は毎日日課にしていて、引退後も「岸壁の母」は幾度か披露しています。
 彩青は細川たかしの弟子で、民謡、三味線を得意とします。歌唱法は細川にそっくりですが、民謡の発生を基礎として学んだ人ののどは、浪曲を学んだ人と同様の強靭さと節回し(こぶし)があります。
 若手が歌う歌謡浪曲は、やや大人の安定感には不安が伴いますが、なかなかしっかりと、若者らしくのびのびと歌っているのが、気持ちよく聞こえます。
 歌謡曲的な歌、登場人物の声色でのセリフまわし、そして浪曲とをつないで、およそ15~20分をこなします。相当な練習があってのものです。精神を統一して、全編をしっかりイメージトレーニングして、掌握してかからないとできる仕業ではありません。
 15分から20分と言えば、どうしても念頭に浮かぶのは、フランク永井の長編歌謡組曲「慕情」です。
 これも幾度か紹介していますが、1965(S40)歌手生活十周年を記念して開いた第2回リサイタルのメイン・ディッシュです。恩師吉田が、精魂傾けて作曲した異例の曲です。第20回芸術祭芸能奨励賞に輝きました。
 「慕情~歌とともに10年第2回リサイタル」というLPに収録されました。
 三波春夫が長編歌謡浪曲を作って、世を驚かしましたが、恩師吉田正はこれを歌謡曲の世界で成し遂げられないかと挑戦したものです。
 一方は、世間が誰でも知る文学作品から構成されているがゆえに、展開がオーディアンスに聴いていてわかる。それに対して、フランク永井が歌うテーマは、妻子ある男の浮気、子持ちの人妻への片思いということから、歌唱より設定にやや無理がありました。
 恩師吉田は盟友である鶴田浩二にも、長編を提供しています。だが、これで一時的に話題にはなっても、長編歌謡組曲として定着することはありませんでした。
 ただ、フランク永井が、ただならぬ歌唱の持ち主であることは認識されました。これは「慕情」をいちどでも聴けば、だれでもうなずけます。レコードには残されましたが、フランク永井の舞台で、リサイタル以外で「慕情」が歌われることはなかったのは残念です。
 吉田正の後年になって、吉田はささきいさおに「雪の慕情」という普通の歌に「慕情」から切り取って歌わせました。
 この「長編」を話題にすると、連想されるのが2つあります。
 ひとつは、1969S(44)に発売された「旅情」です。当時人気絶頂の橋本淳の歌詞に筒美京平が曲をつけた「組曲」です。これも芸術祭参加作品になっています。
 妻をもつ記者が欧州に取材の旅をしながら、浮気しているのか遠い日本にいる女性に思いをはせるものです。
 これの盤もフランク永井の流行歌とは異なる歌唱が全編を覆っています。ぜひとも機会があれば聴いてほしい盤です。
 もうひとつは、1976(S51)年催された歌手生活21年のリサイタルです。ここで33曲メドレーを歌っています。
 当時、北島三郎とか五木ひろしといった、流しの経験者は、数千曲を覚えていて、リクエストに必ず応えます。その優れた能力を生かして、自分の舞台で30~50曲程度を、連続で披露して、客を喜ばせました。
 フランク永井のリサイタルでの挑戦はそれにならったものと思われます。この長編は楽団泣かせでもありますが、これをやってのける歌手の実力は評価すべきです。
 ということで、話題が転々としましたが、昨今の「長編歌謡浪曲」は、歌謡界に何か新たなアイデアが生まれるきっかけになって欲しいと期待します。

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 フランク永井の珍しいジャケットを観ました。これは記録に残していないものだと思って、久しぶりで購入しました。
 ビクターファミリークラブから発売されたもので、「永遠のゴールデン歌謡」というLP10枚組の第4巻です。「今日でお別れ」とあり、カバー集です。フランク永井はここで「夜霧よ今夜も有難う」(元唄:石原裕次郎)「暗い港のブルース」(ザ⊡キング・トーンズ)「今日でお別れ」(菅原洋一)の3曲を歌っています。
 盤にはあと6曲収められているのですが、演奏です。ビクターの誇る楽団多彩な楽団の作品です。カラオケとして歌われるのを想定していたものと思われます。この盤は1970年ごろのものと感じますが、発売年の記載がどこにも出ていません。
 ちなみに、第2巻「人生劇場」では「上海ブルース」(元唄:ディック・ミネ)、第6巻「また逢う日まで」では「ラスト・ダンスは私に」(元唄:越路吹雪)、第10巻「わたしの城下町」では「琵琶湖周航の歌」を歌っています。
 いずれも、フランク永井の歌唱力がカバーで発揮された作品です。「今日でお別れ」「上海ブルース」などは、フランク永井の歌唱が、聴いていてい素敵だとよく聞きます。
 カバーされる歌は、歌詞とメロディーが素晴らしいのですね。改めて元唄を聴けば、その歌手でほんとによかったのか、と思う時もあります。歌い方の癖が強かったり、感情の載せ方や、オーディアンスに対する訴求力が弱かったりと、色々感じます。その点、フランク永井は丁寧でありながら、聞かせる曲として完成した歌い方をしています。
 歌詞やメロディーに対する解釈する深さが、自然と持っていたのかもしれません。
 第4巻のトラック2は「爪」です。これを松尾和子が歌っています。歌唱については定評がある松尾和子なのですが、「爪」(元唄:ペギー葉山)はいけません。とにかく、ミスキャストです。
 「爪」といえば、平岡誠二の作品で、「あいつ」(元唄:旗照夫)とペアとも言ってよい作品で、フランク永井の歌唱は群を抜いています。ぜひ機会があれば聴いてほしいです。
 平岡がペギー葉山に思いを寄せながらも、ペギーに受け入れてもらえず、その際のこころの動きを作品にしてペギーや旗照夫に歌わせています。
 素晴らしい作品だけに多数の歌手がカバーしています。最近聴いたのでは、うならせたのは秋元順子です。秋元は歌のポイント、コツを本能的に得ています。秋元はどのような歌を歌っても感心させられます。最近は、フランク永井の曲と合わせて、秋元のカバー集をよく聞きます。
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 この間「フランク永井大全集」、歌手生活20周年記念として1975年に発売された10巻全集を紹介してきました。最近に「確か、その前に全集が出てましたよね」と知人から言われましたので、それに触れてみたいと思います。
 ご指摘のものは、1962年に発売された「フランク永井全集」です。一般に「3巻全集」とも言われるものです。歌手生活7周年目の商品です。
 この年は「霧子のタンゴ」とか「新東京小唄」「赤ちゃんは王様だ」「月火水木金土日の歌」などのヒット曲がでた年ですが、これらはに至る前の作品集になっています。
 商品の体裁は写真のように、葉の落ちた秋の街路樹を背景にトレンチコート姿でたたずむ、若いフランク永井の写真が全面です。片面7曲を納めたLP3枚組で、計42曲が入っています。
 フランク永井の初期のヒット作品集のような感じです。最後の3枚目のB面を紹介します。特別な理由はないのですが、こんな曲がこの全集がでたときの曲なんだと感じると言っただけのことです。
 ⑴君恋し ⑵涙の乾杯 ⑶月影の東京 ⑷俺の名前は北海太郎 ⑸流れの雲に ⑹悲しみは消えない ⑺旅笠道中

 私は現在では、結果的にですがフランク永井のレコードはほとんど所有しています。超レアなものは持っていないものの、ファン仲間が所有していて聴かせてもらいました。色々調べていて、現物確認というか入手に苦労した時代の曲のひとつが「俺の名前は北海太郎」と「月影の東京」です。
 前者はどうも、ドラマ(テレビかラジオかは不明)の主題歌のようです。後者は、フランク永井と当時多くのペアリングで歌った朝倉ユリ「小さな花の慕情」がB面のレコードです。
 現在、入手が困難というのは、普通に考えて「売れなかった」盤なのでしょうね。
 「流れの雲に」は鬼才川内康範の詞に渡久地正信が曲を付けたものです。このブログで紹介しましたが、昨年高倉健が改めてカバー集を出しました。いい歌なので、他の歌手も歌っているのではないかと思うのですが、確認していません。
 後は「君恋し」と同様に、リバイバル曲でフランク永井の先輩竹山逸郎の「涙泪の乾杯」と、東海林太郎の「旅笠道中」です。「泪の乾杯」はフランク永井によるカバーでは、2011年「フランク永井ベスト・コレクション⑤想い出の歌」に収録されたのが、気持ち編曲もよく、繰り返し聴きます。

 フランク永井の全集はLP時代のものはここで紹介した2点ですが、フランク永井が1985年で舞台を降り、CD時代が到来すると、いくつかの全集ものがCD-BOXで発売されます。
 1991年「フランク永井大全集」6枚CD-BOX。
 1999年「ステレオによるフランク永井のすべて」5枚CD-BOX。
 2011年「フランク永井ベスト・コレクション」6枚CD-BOX。
 2015年「フランク永井の世界」7枚CD-BOX・
 2016年「懐かしのフランク永井シングル全集」10枚+DVD1枚CD-BOX。
 最後のものは「A面全集」とも呼ばれています。これからの企画への余韻を残すように、B面曲が残されています。
 これでフランク永井の残した曲はほぼデジタル化されて世に出ました。フランク永井は生涯で多くの曲を歌いましたが、残されているのはおよそ800曲です。
 すばらしい歌唱です。日本において、彼に次ぐような歌手は出てきていません。

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 今回は全集からの紹介の最終回です。フランク永井の残したいわゆる「大阪物」について、記者の目で確かか紹介がなされています。
 大阪労音での公演で「あるときは江戸小咄まで」と書かれています。前回の記事でも「NHKで小咄」がフランク永井から流されたとあります。
 ここで指摘されているものかどうかは判別できませんが、現在残されているのは「夕立や」です。これは、この十巻全集に収められています。

■フランク永井と大阪(日本経済新聞記者 河塚順一郎)

◆ラジオ朝日放送「ホームソング」から始まったフランク永井の大阪物
 大阪の朝日放送フジオ番組に〝ホームソング″の時間があった。長い間続いたので、あるいはご存じの方もあると思うが、フランク永井と大阪のつながりはこの番組を中心にして発展していったといっていいだろう。
 フランクが好んで歌う〝公園の手品師″とか大阪物のはしり〝こいさんのラブコール″はこのコーナーで何回か紹介されるうちに広く知られるようになった作品である。いまのように無理やりに近い状態で新曲をヒットにつながるように働きかける時代と違って、まだ〝よき時代″のおおらかさが随所に残っていたころである。
 レコードの発売年譜からみると、この二曲が電波にのったのは昭和三十三年、いまから十七年も前のことで、フランクがレコード・デビューして四年目だった。
 すでに〟〝夜霧の第二国道″〝有楽町で逢いましょう″の大ヒットが出て、ジャズ,シンガーから歌謡曲に転向して立派に成功し、本格的にスターへの道を歩いていた。
 フランクのヒットはほとんどが吉田正の作品だったが、大阪に住んでユニークな活動をしていた作曲家の大野正雄と知り合う確かなチャンスを得たのもこの年だった。
 〝こいさんのラブコール″がヒットして、フランクの低音の魅力が大阪弁の持つ、何ともいえないソフトをニュアンスにぴったりということが知られるようになった。
 洋画ロードショー劇場に変わってしまった大阪キタの、北野劇場で歌ったのもこの時期である。次いで〝大阪野郎″というテレビ番組のテーマ曲にも登場した。〝君恋し″で昭和三十六年のレコード大賞をとったときも、神戸の松竹座で公演中に知った。

◆フランク永井が打ち立てたショースタイルは労音での「ワンマン・リサイタル」から
 何かにつけ、関西との縁が積み重なっていったフランクが本腰を入れて、大阪物に取り組むようになったのは、やはり大阪労音(現新音楽協会)が初めて鑑賞団体向けの歌謡曲路線、ワンマン・リサイタルを開いたときだったろう。
 大阪労音ではそれまでにもアイ・ジョージのリサイタルなどを満員で成功させたことはあるが、これはどちらかというとラテン音楽中心のポピュラー例会としてであった。
 ところが、昭和三十八年暮れに企画された大阪労音の歌謡曲例会〝フランク永井リサイタル″は画期的な内容だった。戦後の懐かしいポピュラーソング、新曲コーナー、ヒットメロディー、とつづいていくのだが、一人で二時間半、ときおりエピソードを話しながら、あるときは江戸小噺まで織り込んでオチをつけるサービスは、フランクならではの豊富なレパートリーから引き出した、楽しいステージだった。
 このフランクが確立したリサイタル方式はその後も多くの歌手に一つのパターンとして受け継がれていった。
 フランク自身とその後、このパターンで何回か大阪のステージに立ち、全国各地でも成功させた。その第一回のとき、作詞の石浜恒夫、作曲の大野正雄の〝こいさんのラブコール″コンビで堺、大阪、神戸などを歌い込んだ新作が発表された。その中から一曲レコードにしようというのである。
 何人か意見が分かれたが、フランクはどうしてもこの曲と主張したのが〝大阪ぐらし″だった。はっきり言って、そんなに当たるとは思えなかったのだが、曲を整理し、コンパクトにすると見違えるほどに〝商品″としての値打ちが出てきた。
 夕陽丘、がたろ横丁、夕凪千鳥、坂田三吉など、大阪の表現に必要な単語が次々並び、甘いソフトなメロディーはまさしく大阪物だった。大阪に生まれ育った者にはわからない大阪への理解力が彼の方にあったようだ。
 その後、吉田正が〝大阪ろまん″を書き、花登筐の根性ドラマ〝船場″のテーマとして〝船場ごころ″が大野正雄の手で生まれた。
 そしてフランクの大阪物は〝堂島″〝大阪流し″と続き、芸能生活二十年にひっかけては直木賞受賞の藤本義一が詞を書き、吉田正が作曲した〝大阪無宿″で花を添えた。こうして大阪物ならフランク永井という定評は確立され、信用はいまも絶対である。

◆思わぬ発展で登場した青江三奈「伊勢佐木町ブルース」
 こんな話があった。フランクといえば都会調の夜のムードがある、大阪物に強い、というところから、阪神高速道路公団が一般の歌謡曲ながら何となく阪神高速のイメージを思い出させるような新曲を頼んでもらえないだろうか、と相談を持ちかけてきた。
 向こうには〝夜霧の第二国道″のイメージをそのまま阪神間に置き換えてみたかったらしい。始めから相手側はフランクを頭に描いている。とにかく聞いてみましょうということで、当時健在だった磯部ディレクターに聞いてみた。
 〝フランクもいいけど、もうイメージが定着している。それよりも橋幸夫でどうだろう″。まあそれも新鮮でいいかもしれないと思った。ところが再び磯部氏から連絡があり〝斉藤ディレクター(現ボン・ミュージック社長)が、ぜひ青江三奈を再プッシュしたいので彼女に歌わせたい″と。
 二転三転して当初のフランクから青江三森に決まった。タイトルは〝夜霧のハイウェー″。
 お固いはずの公団も、このときばかりは懸命に骨折った。公団の機関誌に理事長と青江三奈の対談をのせたり、ハイウェーを突っ走るバス・キャンペーンもビクターと共同でやった。
 川内康範の詞にまたまた大野正雄が作曲で引っ張り出された。フランクの大阪物のイメージがここにも反映されていた。
 発売当初の昭和四十三年一月ごろは大阪地区でベスト5にも、二、三回はリストアップされた。ところがいつの間にか消えてしまった。
 ある日、ベストテンをよくみると同じレコード番号でB面のはずの〝伊勢佐木町ブルース″がぐっと伸びてきているではないか。青江三奈と公団担当記者との会見で〝霧が濃くてハイウェー走れまっか。危のお、おまっせ″と逆襲されたのが、そのまま当ったと公団関係者は、あとで苦笑して話してくれた。
 一年過ぎて大野正雄から〝伊勢佐木町が売れたんで印税がようけ入ってきたわ。B面感謝パーティでも作曲の鈴木庸一さん呼んでやらな、いかんを。ワッバッハ″だった。
 パーティはいまだに開かれていないが、フランクの大阪物、都会調に対する強烈なイメージがつくり出したエピソードの一つである。その年フランクは〝加茂川ブルース″をヒットさせ、二年後青江三奈は〝国際線待合室″で大阪物にメドをつけた。ともに結構なことである。
 フランク永井の大阪リサイタルはしばらく聞いていない。最近電話が入って〝二十年目はやめました。準備不全で二十一年目への新しい出発にしたい″という。昭和五十一年が楽しみである。

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 ふとテレビに目をやったら、若い人の言葉についての認知度というのをやっていました。「mixi」については何と、10余%程度。驚きました。すでに、多くはFacebookとかTwitterやYoutubeに発信者が移ってしまったのですね。私にもそちらに移ったらという声が頻繁に入ります。だけど、あっちの騒がしさにはどうもついていけそうになく、こちらで頑張ります。
 テレビの歌謡番組を私なりにウォッチしていますが、当然のごとく、フランク永井関係の番組はないのですが、頭のリフレッシュにはそれなりに効果があるのではないかと思っています。先日目についたのは、BSテレ東の「とにかく歌詞がすごい名曲スペシャル」です。
 前川清、島崎和歌子がMCを務め、貴重な映像を流すのですが、何人かのゲストも時々登場します。気に入ったのは全体が落ち着いていて、しかも映像については、歌のブチ切りでなく、ちゃんと最後まで流してくれる点です。
 パート2では、80年代がテーマでした。いい歌が多かったですね。

 さて、歌手になって20年、1975年に発売された「魅惑の低音・フランク永井大全集」での、著名人・評論家による、フランク永井についての称賛の4回目を紹介します。

■わが友フランク永井その人柄(佐藤泉)

 フランク永井はニコニコしていた。
 三波春夫がニコニコしていた。
 ホープ歌手同士、新聞での対談だった。
 取材に当たったわたしが、そのとき、どんな顔つきをしていたかは知らない。
 だが、出来上った記事はニコニコしていた。
 「正月原稿らしくていいさ」
 デスクはこともなげにシャレのめしたものだった。
 二十年経った。フランクはニコニコしている。ナガイ付き合いの筈なのに、十年一昔どころか、二十年一刻の感である。
 十九年経っていた。「お久しぶり」。三波春夫は周囲を払ってカンロクであった。
 ニコニコまではいかず、半分の〝ニコ〟だった。こちらが.神サマではないせいだったのだろうか。
 両人とも日本を代表する立派な大衆の歌手である。

 フランク永井は酒をのんでいた。
 ホテルのバーである。わたしを含めて四人だった。
 そこへ一人の知人がやって来た。ある芸能誌の幹部氏である。かなり酔っていた。そして、突然の放言だった。これには、
 オヨヨ......。
 われわれは、こんな感じだった。
 これがお気に召さなかったのか、ついに酔漢氏は声高に猛り始めた。座はシラけた。
 「悪酔いしているな、テキは......」
 さわらぬカミにたたりなし。このカミはアルコールに呑まれた神サマなのである。
 われわれは平均的日本人の中年男性集団であった。
 「まあまあ......」
 これがいけない。テキは悪乗りし、ついにツノの生えた悪神に成り上が(?)った。
 ニコニコがニコになり、それも消えたフランクは口を切った。
 「一緒にお飲みになりませんか」
 「おかしくって飲めるかッ!」
 話にならないのである。
 そのうちに仲間の一人の個人攻撃(のつもりだったのだろう)をロぎたなくやらかす始末。
 「ちょっと、あちらへ行きませんか、みなさんの迷惑だから......」
 静かな低音である。
 虚を突かれた酔漢氏、もはや明らかにツノは無用の長物と化してしまった。
 こちら酒席をつとめて三十年。対してその半分に近い十数年のキャリアのフランクであった。
 「なんとも不愉快なことで......」
 神サマ退散のあと、ポッリと言って心もち頭を下げられたとき、こちら、そろって顔が赤かったのもアルコールのせいではなかった。

 フランクが酒をおぼえたのは三十歳ごろである。
 飲めなくて飲まなかったのではない。間(ま)をもたせるためにはじめたのでもない。
 酒を飲んでも分別をつけられる年になったから、おぼえたのである。

 酒量はブランデーでボトル一本。
 酒席でのフランクが好まないタイプがある。いくら飲んでもシャンとして平然を装うの類(たぐい)だ。
 「酔わない酒はケシカランですよ。ただ強いというだけでしょ。イヤですね、そんなの下の下ですよ」
 アルコール哲学なのである。
 飲むほどに酔うほどに多々ますます弁ず......話題も豊かで「ト音記号」から「ヘ音記号」までと、その内容も〝高低″の振幅が広い。
 「なんというか、和チン(松尾和子)なんぞいい酒ですね」
 後輩に対しても正直に尊敬してしまう、これまたケッコウな酒好き・フランク。

 かつて和服のモデルもやっていた。
 「オヨヨ......」
 またぞろ、オヨヨで気がひけるが、このコト、あまり知られていない。外出時にはほとんど着用しないが、家庭にあってはチョクチョク......。
 何年か前にNHKテレビで落語を一席、このときの和服姿なんざァ、噺(はなし)とともに、どうしてなかなか堂に入っていた。
 故人の三笑亭可楽とはファン同士で仲がよかったが、これを知った桂文楽(故人)が
 「あァた、いいお友達のひとり占めはいけませんナ」と、可楽に〝抗議〟したなんざァ、こんち、懐しくも嬉しいオハナシ。
 フランク宅へ電話をかけると、いきなり高座の出囃子が聞こえて「えー、こんち、ちょいと外に出ております。御用の向きは録音テープが承りますので......」
 と、フランク亭永井の、丁重且つソフトボイスの〝応待〟である。
 芸名はパタくさいが、その実像、平均以上の日本人らしい日本人、とでも申そうか......。

 歌手の条件。歌は別にして、①頭がいい ②カンがいい ③客の心をすぐつかむ ④ち密な計算 ⑤周囲にすぐとけこめる。わたしなりに、こう思っている。
 二十年間のフランク永井は、こんな条件を具備してきた。
 そして人知れず書を読み、多くの人間に接し、生きるために努力してきた。自己を向上させようとつとめつづけてきた。

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 歌手になって20年、1975年に発売された「魅惑の低音・フランク永井大全集」での、著名人・評論家による、フランク永井についての称賛の3回目を紹介します。
 現在は世界的にコロナ禍とウクライナ紛争のもとにあります。その戦争という人間究極の理不尽のなかで、人々は軍歌を歌います。そのあたりとも関係深いことが語られています。
 フランク永井は「幼子よ」「おきなわ」など、戦争の犠牲を歌っています。軍歌はこの大全集と、オムニバス・アルバム「日本軍歌大全集」で歌っています。
 貴重な文書で、フランク永井の記録を残すためにも大事なことと思い、取り上げさせてもらいます。(適宜編者の判断で小見出しを付けたり、文字表記を変えています)

■風雪を超えた「にんげんのうた」(軍歌の研究:八巻明彦)

◆フランク永井と軍歌のかかわり
 フランク永井の二十年にわたる歌手生活というものは、ただ単に二十年間歌い続けて来たという、時間的な経過を指すのではありません。二十年間に歌い上げ、表現し続けて来たものは、すでに四十代に仲間入りしたフランク永井の、その四十余年にわたる人生の、時々刻々の表出というべきものでありましょう。
 その意味において、昭和一ケタ生まれの彼、フランク永井が、軍歌(戦争歌謡をも含めて)とかかわり合いを持つことに、何らの不思議はないし、抵抗もないと私は思うのです。〝十五年戦争始まり〟とまで呼ばれた、あの満洲事変の頃に生を亨け、少年時代の前半を戦争の中で送った男にとって、戦時中の感覚を最も具体的に記憶し、刻み込んで来たもの、それこそ軍歌であったからです。
 もちろん、軍歌と呼ばれる歌の数々が持っている感覚とか、味わいとかいったものは、フランク永井が二十年にわたって構築し、展開して来た歌の世界のそれとは、まるで違った種類のものです。ですから、彼が手がけた軍歌を、無理に〝ムード軍歌〟などと短絡的に呼ぶつもりは毛頭ありません。それは、全く違ったものであるからです。

◆〝情〟の世界こそ、新の世界を支える大きな柱
 といって、全く次元を異にするものかと申せば、それもまた、違ったいい方といわざるを得ません。フランク永井が切り開き、作り上げて来たものも、すでに最も新しいものでさえ三十年の昔に作られた軍歌も、等し並みに〝歌〟である、という点で結びついているのです。
 〝歌〟が描くものはなにか? いうまでもなくそれは〝情〟の世界です。人間の心の営みとして指摘される「知・情・意」の三つの中で、その中程に位する〝情〟の世界こそ、新しい世界を支える大きな柱です。
 もとより、軍歌の中には、かなり〝意〟の分野を前面に押し出した作品も多数あります。軍歌というものが、戦争という、国と国、民族と民族との間に起こる大規模な闘争であってみれば、その間に生み出された〝応援歌〟としての軍歌が、まず第一に〝戦意昂揚〟ということを目的として、何よりもまず〝意〟をその原動力としたものである以上、これは当然のことでありましょう。
 かの有名な「リリー・マルレーン」にしても、原作者が弾いてきかせたそれは、テンポの速い、快活なメロディーであったと申します。そういうものだと思います。それが、まず軍歌なのです。そして、やがて、その中の〝情〟が生きるようになるのです。
 フランク永井の歌が深く根ざした〝情〟の世界と、彼が少年時代を過ごした軍歌の時代の〝情〟の世界とは、歴史的な表向きの表情のその奥底に、実は一貫して流れるものがあったのです。それが、敗戦後三十年という時間が経過し、戦争を罪悪視する一般の風潮が圧倒的な現在でもなお、若い人々の間にさえ、軍歌を口ずさませる一つの原因となっているのです。

◆軍歌が愛されるのは〝いい曲〟だから
 フランク永井の恩師である作曲家の吉田正氏は、このLPのレコーディングに立ち会った折、こう洩らしておられました。
 「何故今でも軍歌が愛されるのか? とよく聞かれるが、答えは実に簡単ですよ。軍歌にはいい曲が多いからです」。
 実に簡潔な一語ですが、それが、本当の話だと思います。
 〝いい曲〟だからこそ、当時を追憶しながら年輩の人たちは歌い、いい曲だからこそ、若い世代も耳を傾けるのです。
 そして、その〝いい曲〟であるもののほとんどは〝情″の世界に深く根ざし、そこに人間の営みの深い哀しみを感じとった作品ばかりである、ということが出来ます。
 例えば、戦場における最大の哀しみは何か?
 いうまでもなく、戦友との生死の別れに留めをさします。それは、極限の状況における〝人間別離の哀しみ″と申すべきでありましょう。
 今回、フランク永井がとりあげた「戦友」「あ、我が戦友」そして「戦友の遺骨を抱いて」の〝戦友三部作″こそ、この哀しみをぐっと噛みしめて指し示す、ギリギリの〝情″の世界なのです。
 三部作という言葉を使いましたが、これは決して意図的に成立したシリーズの三曲ではありません。すでにご承知のように「戦友」は、日露戦争の時代に作られたものです。「あ、我が戦友」は、これを受けて支那事変直前のいささか平和を保っていた時期のもの。そして「戦友の遺骨を抱いて」は、大東亜戦争初期、マレー戦線において実戦場の硝煙の中で作られました。
 いずれも、戦死した戦友を偲ぶ悲痛を感情を表出させた点に共通性があり、それだけに長く愛唱され続けて来ているのです。それぞれ異った時代背景の中で生まれた歌でありながら、根ざしている基盤は共通するヒューマニティであり、だからこそ、人々の心に絡み込んで忘れることの出来ぬメロディーとなったのです。

◆風雪を超えた〝にんげんのうた〟を歌い上げる
 それは、今回特に取り上げた吉田正シベリア時代の作品「異国の丘」「とけろ港よ」などにも共通するものです。戦争終了後、何年ものあいだ、シベリアという極限の地において抑留され、望郷の念一筋に生き抜いた男の歌が、この一連の作品なのです。〝戦死シリーズ〟が消え果てた彼方に生まれた、この数々の「歌」。
 これこそは、〝怨〟であり〝恨〟あり〝悲〟であり〝哀″であって、最も純粋な形での〝情〟の世界を描き上げた歴史的な作品群です。
 その間を理め尽くす肉親の情、従軍看護婦の人類愛。いずれも、人々の心に鳴り響き続けて来た調べばかりです。〝にんげんのうた〟と呼んでいい歌ばかりです。
 〝人間復興〟を旗印に歩んで来た吉田正氏が、手塩にかけて育て上げたフランク永井。その彼が、風雪を超えた〝にんげんのうた〟を歌い上げることの意味を、私は改めて噛みしめてみるのです。
 
 フランク永井の出演しそうな番組は、朝新聞をみてチェックしています。最初の放送がされたときに、たいがいは当ブログで紹介しています。もしかして初回の放送かと期待を込めてみるのですが、今月は2つの番組、いずれも再放送でした。
 ひとつは、NHKBSプレミアム「新・BS日本のうた」。昨年終戦の日に放送された「作曲家吉田正生誕百年記念コンサート」。もう一つは、BS11の歌謡番組「八代亜紀いい歌いい話」の「フランク永井名曲集」です。
 いずれについても、ブログで紹介しているので、個々については触れません。
 ただ、前者は、フランク永井の恩師、国民栄誉賞を受賞している吉田正という昭和歌謡の偉大な作曲家の生誕百周年という、記念すべき催しで、それにふさわしい番組だと、つくづく感じ入りました。
 番組に重きを添えたのは、やはり女優吉永小百合の出演でしょう。今では押しも押されぬ大女優です。だが、自分は俳優だとして、そして歌はうまく歌えないとして、音楽番組にはほとんど出演してきませんでした。
 若かった彼女は映画に出るや超人気のアイドルで、サユリストなるファンが登場するほどでした。彼女の若さとピュアな気持ちを演技にぶつけた姿は、若者を強く引き付けるものがありました。番組でも語っていますが、ビクターのプロデューサ武田さんが、歌の世界にも引き込んだのです。ご本人は、自分の主張を通すのではなく、彼女を信頼するということから、歌の世界にも飛び込んだのです。
 吉田正は彼女の持つ芯のある姿勢を見抜いて、吉永のために多くの曲を作りました。この歌の世界でも、映画の合間をみて歌い続けたのですが、ある時点で歌を歌わなくなります。同時に売れるからと言って、間断なくさまざまなテーマの映画を求めてくる映画出演にも疑問を感じていきます。一人の人間としての自分は何なのかと真剣に考えます。
 その吉永が恩師の百周年に出演したのです。それは、果敢な青年時代に抱いた気持ちを、吉田正が受け止め、見抜き、見守ったことへの感謝であり、ここで恩を行動で示さなければならないと感じたのだろうと思われます。
 
 今世界ではまさに、戦争が展開されています。戦争に兵として徴収され、大陸に出向き、やがては敗戦国の捕虜として、厳寒の地に抑留まで強いられた吉田正は、自分のことはあまり話さず、歌作りに思いを込めました。
 決して戦争を繰り返してはならない。人間としての究極の理不尽が強制される戦争は、人間の力でこの世から終わらせなければならない、そのような強い意思が吉田作品には込められています。
 このような気持ちを、まさに、今、再認識をさせる番組でした。
 
 さて、全然異なる話です。購読している朝日新聞には、毎月だと思えるのですが「定年時代」という数ページのタブロイド新聞が配られます。これまでも、幾度か紹介してきました。その「3月下旬号」で「童謡、世代を超え絆を紡ぐ、初代うたのおねえさん、眞理ヨシコさん」という記事をトップで紹介していました。
 数年前に「ラジオ歌謡」を紹介したブログで、舞台に出演して歌う彼女を紹介しましたが、1962年第4回日本レコード大賞作詞賞をフランク永井が「月火水木金土の歌」で得たさいに、一緒に歌ったのが眞理ヨシコと松島みのりです。この歌は今でもNHKも子供番組で、さまざまなうたのおねえさんの歌唱で歌われ続けている名曲です。谷川俊太郎作詞、服部公一作曲です。
 眞理は現在すでに、83歳ですが、歌唱は素晴らしいものです。童謡は世界遺産だ、童謡を歌い継ぐとして「水芭蕉コンサート」が5月開催予定です。歌を歌い継ぐということのテーマに、今でも精力的に力を注いでいるという姿には感銘を受けます。フランク永井も同じ気持ちで、声援を送っているのではないかと思う次第です。
 永井も同じ気持ちで、声援を送っているのではないかと思う次第です。

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 3月14日俳優宝田明がお亡くなりになりました。心からのご冥福をお祈りいたします。字がうまいですねぇ。

 今月18日はフランク永井の誕生月です。前回ご案内しましたが、フランク永井歌コンクールは3年続いての延期になりました。歌コンクールは当初誕生月に開催されていました。
 3月は年度末であることから、全国的に多忙であることから、月命日である10月に開催されるようになりました。しかし、世界を覆うコロナ禍の影響は甚大です。参加者も観衆にとっても、安全で安心できる状態で、歌コンを心から楽しむのが目的であることから、やむなく延期を決定したものです。
 さて、写真ですが、フランク永井の幼稚園児のものです。公表されている写真で一番古いものです。今回は、大正時代の例にならって着色して当時の雰囲気を出してみました。
 両親の前で5人の兄弟姉妹が勢ぞろいしています。フランク永井は左から2人目です。これを見ると、下から二番目になるのですかね。

 3月14日、日テレBSの歌謡番組「歌謡プレミアム」で、演歌歌謡曲第7世代が紹介されるということで、鑑賞させていただきました。
 遅ればせながら「第七世代」とは知りませんでした。どうも、2010年代後半頃から台頭を始めた若手お笑い芸人の総称として「お笑い第七世代」という言葉があるようで、これを真似て演歌歌謡界にあてはめた用語のようです。
 多くの歌手がいそうですが、当日の番組では主に、新浜レオン、彩青、二見颯一、辰巳ゆうと、青山新が紹介されていました。
 以前に青山新が吉田正作曲の「霧雨の夜は更ける」を歌っていたのを見て、素直な歌い方で、若いのにうまいなぁと紹介したことがありました。
 今回この面々が歌うのを聴いて、どの歌手のなかなかやるな、と好感をもてました。
 彩青は細川たかしの弟子だとのことですが、歌い方は師匠にそっくりです。三味線も尺八もとたいへん器用な歌手で、こらかも期待できます。
 辰巳ゆうとについては、今まで何度も三波春夫の長編歌謡浪曲を演じているのを見ていました。この分野は、三山ひろし、山内惠介、市川由紀乃などが挑戦していますが、若手の注目はこの辰巳ゆうとです。
 このように、難しいテーマに挑戦すること自身、大変感心します。歌い続けられる三波春夫は幸せだなと思います。フランク永井の歌コンもそうですが、若い方が「受け継ぐ」というところに大きな意義があります。
 フランク永井の歌のも若手にどんどん歌ってほしいものです。

 宝田明は満州生まれで子供の時期に戦争を経験けがもしました。フランク永井の恩師吉田正は戦地でソ連に連行され長くつらい抑留生活を体験しました。お二方は戦争反対の立場から、それを訴え続けながら俳優、作曲をされ、大きな功績を残しました。、
 現在、ウクライナ戦争で世界的に戦争反対を訴える声があがっています。戦争は人間にとって、究極の理不尽が強いられます。安寧な生活を望む民には、誰も戦争には反対です。これは、人間社会が生まれて以来の民の願望です。
 だが、どれほど多くの民が戦争に反対をしても、残念なことに戦争は根絶できません。戦争の永久根絶=平和の永久実現を求めてやまない私には、ただ反対をとなえ、悲惨を訴えるだけでは、民の望みが実現されない現実をみつめています。さらに乗り越えた何かをと、つらつら考えている昨今です。
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 コロナ禍のために、フランク永井ファンが開催を期待してきた「歌コン」は、今年も延期となりました。
 大変残念なことですが、終焉の見通しが見えない中なので、やむを得ない判断であったと思います。実行委員会の苦渋の思いが察せられます。
 歌コンは2001年の311をまたいで過去11回開催されています。フランク永井の生誕地である、大崎市松山で町おこしの大切な催しとして開催されてきました。
 町の住民の多数が直接ボランティアで参加する形でのイベントで、大崎市が支援する大きな年間行事です。一年かけて大がかりな準備をして、フランク永井が亡くなった月である十月に開催されています。
 このイベントは日本全国からファンが申し込みされています。百数十の申し込み枠が埋まった時点で締め切られるのですが、フランク永井の歌を歌い継ぎたいという方の多さに圧倒されます。過去には外国からも何名か参加されました。ファン層は世界中に今もおられることがわかります。
 歌コンに参加するからには、当然でしょうが、翌日の決勝戦に参加することを狙い、優勝を目指します。だから、普段から練習をする必要があるのですが、まさに現在のコロナ禍で厳しい環境にあります。
 カラオケ店での練習ができないことです。前橋市のチームなどは、年に必ず一度は集まって普段の練習の成果を互いに確認していたのですが、ここ集まることが控えられていて、実現されていません。
 参加するためには後悔しないように練習を積むのですが、それができません。同様に、実行委員会でも集合が制限され、早く日常が取り戻され、みんなが満足行く状態で、安心して楽しめるようになることを待つしかありません。

 先日、いつも行っている整髪店にいきました。そこでは私がフランク永井のファンであることを存じているので、話しかけてきました。
 それは、知り合いからCDをいただいたのだと。中身は「賢多山ちゃん~魅惑のムード全集V」というもので、曲は19曲入っていて、最初の4曲はフランク永井のものでした。
 その場で早速聴かせていただきました。「有楽町で逢いましょう」「西銀座駅前」「東京午前三時」「公園の手品師」。
 東日本大震災復興チャリティ・ライブでの録音だとのことです。写真のようなCDにまとめて、自費作成をしたもののようです。
 こうした方々が、おそらく多数おわれるのだろうと思います。感謝、感謝です。
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 「魅惑の低音・フランク永井大全集」は、フランク永井についての情報の宝庫です。デビューして20年、1975年時点の交流関係がよくわかります。フランク永井をファンとする方々は多方面にいました。同じ音楽界に限らず、落語界、スポーツ界、政治・経済界と幅広い交流がありました。
 一様にフランク永井の飾らない人間性をほめたたえています。それに歌唱に「品を感じる」という声が多いのが特徴です。
 この十巻全集に添付されているインナーノートには、何人かの方が紹介文を添えています。前回に引き続き、紹介させていただきます。貴重な文書で、フランク永井の記録を残すためにも大事なことと思い、取り上げさせてもらいます。(右の写真は母君と)

低音の魅力と役割(森田潤:ジャーナリスト)

◆高音美声が大衆歌謡の伝統だった
 フランクが、初めて歌謡曲のレコードを出したのが、昭和三十一年、「場末のペット吹き」だった。
 その前後は、曽根史郎の「若いお巡りさん」、三橋美智也の「リンゴ村から」、鶴田浩二の「好きだった」、それに 三浦洸一の「東京の人」、春日八郎の「流転旅がらす」などがヒットしていた。
 その一方で、東海林太郎をはじめとするベテラン陣、藤山一郎、灰田勝彦、岡晴夫、青木光一、ディック・ミネ、林伊佐緒、小畑実、近江俊郎、曽根史郎、竹山逸郎、伊藤久男といった、いまでは〝なつめろ〟の部類に入る歌手が、第一線で活躍していたし、白根一男、三船浩といった新人も登場したころである。
 ところで、当時の歌の傾向としては、どの歌手もメロディーを朗々と歌い上げ、澄んだ美声で訴えかける唱法がいいとされていた。
 ちょっと変わったところでは、クラシックぼりに声量豊かに歌い上げる伊藤久男、か細いが情緒纏綿(じょうちょてんめん)とした田端義夫、やけにカン高いがこぶしで聞かせる三橋美智也らがいたが、それもメロディーを高らかに歌う美声主義には変わりなく、画一化した唱法が歌手の身上とされていた。
 つまり、高音の美声で勝負していたわけである。
 これは、戦前、戦中を通じての、日本の大衆歌謡の伝統でもあり、戦後もNHKのラジオ歌謡や素人のど自慢で、この傾向はきびしく踏襲されていた。
 アメリカのルイ・アームストロングやナット・キング・コールのような、ガラガラ声の歌手の存在は、まったく無視され、当時の状況からは、森進一のような歌手の誕生は、許されなかったのである。

◆大衆の「歌を語ろうとする情感指向」に注目した吉田正
 それほど、高音美声主義の中で、フランク永井が誕生した。
 それまでの通念からいえば、決して美声じゃない。しかも、低音である。そのうえ、美男でもない。すべて型破りだった。
 そのフランクが、次から次へとヒットを飛ばしていったのは、大衆がその声を望んでいたからなのである。
 その低音も、ジャズのビブラートの余韻があり、フィーリングがいかにもバタくさい。だから、それまで数多くの美声派歌手ばかりに慣れ親しんできたファンの耳には、なんと奇異にうつったことだろう。
 だが、そういうフランクを、大衆のものに密着させることができたのは、吉田正さん以下スタッフの大衆の欲求を見抜く洞察眼がさえていたからにほかならない。
 「有楽町で逢いましょう」が大ヒットしてからしばらく後、現在はなくなってしまったが、新宿松竹劇場が、新宿駅甲州街道ぎわにあり、そこでワンマン・ショーをやっていたフランクを、楽屋に訪ねたことがある。
 フランクは、実に気軽に応対してくれて、気取らず素朴な態度に、こちらはすっかりイカレてしまったのだが、その時に語った言葉が、今だに忘れられない。
 「ポクは悪声なんです。この悪声がどうして受けるんでかねえ」
 フランクの歌には、そういった気取りのない、人間くささがあったのだと、語り合った後で、気が付いたのだ。


◆アメリカナイズの波が低音ブームを押し上げた
 ピーンと張りつめた高音には、二枚目の気取りがどうしてもあるが、フランクの低音はオツにすまそうとする、余計なものがないのである。そこには、歌を歌おうとするより、歌を語ろうとする情感指向が働く。
 そして、都合のいいことに、ちょっぴりキザっぽさが、あの低音に含まれている点だ。そのキザっぽいとは、ジャズ的なフィーリングのことだ。
 歌手の道へ入るまでは、米軍キャンプで長らく働いていたが、そのころの若者がだれでもシビレたように、フランクもアメリカの音楽の魅力にダウンした。
 終戦後、ようやくアメリカ文化が浸透し、日本の中にアメリカナイズが急速に深まりつつあったころだ。コカコーラもチューインガムも、アメリカの物質文明にかなう物が、日本には一つもなかった程に叩きのめされ、早くアメリカのような豊かさを手にしたいと、大衆がわき返えっていたものだった。
 そうした、大きなウズの中で、フランクがジャズに心酔し、バタくさいアメリカ文化を吸収しようとしたことはふしぎではない。
 そして、身に付いたのが、あのジャズのキザっぼさだが、これが、アメリカ文明への大衆のあこがれとみごとに合致した。
 あれから二十年。日本の音楽状況も激変を続け、若いロック・グループが海外へ進出をはかるまでになったが、その歴史の発展には、フランクのような存在が大きな触発の役割りを果たしていることを忘れてはならないだろう。

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