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 フランク永井の残した曲についての「すべて」を編纂した筆者のデータブック「フランク永井・魅惑の低音のすべて」(2010年刊)について、書籍で紹介してくださった方がおられる。
 その書籍「古稀=四重奏」(柳澤通博著、2019年5月、木鶏書房刊)である。写真にあるように、データブックについて紹介してくださった。すぐに著者の柳澤さんにお会いしてお礼を申し上げ、あわせてフランク永井についての談義をさせていただいた。ここでもあらためて感謝を申し上げます。
 著書内でも書かれているのが、氏はフランク永井の昔からの大ファンで、私と同様の動機から、自ら「フランク永井大全集」に値するデータ一覧と、所有のレコード音源からテープを作った方。ところが、さすがに若干盤がなくて欠損がでる。それでも、誰もが成しえない当時の大全集には違いない。
 機会があって、当時ご健在のフランク永井に直接話したら、気安く「そこは私が埋めてあげるよ」と。ところが、そこで思わぬ報道が入る。1985年のあの事故報道だ。氏は衝撃を受けて、そのプランは棚上げ。
 その後、今回の書籍「古稀=四重奏」の執筆の過程での調査時にデータブックの存在を知り、写真のような記載にいったったとのこと。
 この書籍は氏の人生と想いが込められたもの。どの箇所を読んでもいったん当てた焦点をぐいぐいと絞り込んでいく。お会いしていろいろとお話を伺ってもその姿勢は一貫していた。フランク永井だけではない。日活の看板スターであった裕次郎や旭や赤木圭一郎の話。レコードもそろえている。映画の話などは、強引に切り上げないと何時間でも終えないと思われた。私もひと時は年間500本観たのを思い出す。
 フランク永井については、活躍当時リアルタイムで生活に入り組んでいたことがわかる。互いに盛り上がったのは、フランク永井の不世出の歌唱について。それを証明したものとして挙げたのが1966年の第2回リサイタル「慕情」と、1969年の「旅情」という2枚のLP。
 フランク永井がただの歌手でないことを、世にガツンと衝撃を与えた歌だ。前者は恩師吉田正の曲で詞は岩谷時子。2回目のリサイタルのために特別企画した長編歌謡で、およそ20分の歌唱だ。私は当然リサイタルにはいっていないが、それを聴いた観衆が静まり返り、かつてないほどの感動を受けただろうことは想像できる。終了後の観衆の拍手はいつもとはまるで違っていたであろう。
 たんたんと情景を歌う。それが観衆の胸に直に伝わる。それを再現するように、後者は昭和44年度の芸術祭参加作品として、筒美京平と橋本淳のユニットと組んで実現したもの。人気の実力派筒美のセンスがフランク永井のもつパワーを全開させる。このLPに収められた全曲が一つの情景を形作っている。
 「慕情」は異例の長い曲だけに、このリサイタル後に歌われた記録はない。後年吉田正全集に入っただけだったが、MEG-CDからリサイタル盤は復刻した。これはやはりフランク永井の大ファンでいくつかカバーも出しているささきいさおが「雪の慕情」にした。だが、これは通常の歌謡曲の3分版にしたも。
 「旅情」は筒美京平作品であることからかどうかはよく分からないが、盤の入手は今も困難だ。
 二人の対談で共通したことの一つは、フランク永井の残した遺産をきっちりと記録に残そうということだった。楽曲は完全なデジタル化がまだ少し残っている。これを完成させたい。さらに、フランク永井に関するエピソードも知りえる限り、何らかの形で残そうということ。
 フランク永井の完全な、いやせめて正式にビクターからリリースされた作品だけのものであっても、大全集はありそうでまだない。60周年を記念してA面の全集が組まれたのが最後。これも貴重な初出の音源が多かったのだが、なぜその機会にA面だけにしたのかの疑念は残る。
 氏が書籍で指摘しているように、裕次郎のカラオケ音源が350曲あり、舟木一夫は90曲ある。それに対し偉大なるフランク永井の音源が50曲程度というのは、いかなることかと。レコード会社は後年演奏とボーカルは別取りしているから、あるはずなのにないのは怠慢なのか、何かプライオリティを低くする理由があるのかと私も思う。
 フランク永井歌コンクールにおいても、演奏曲の少なさは毎回のように話題にのぼる。ぜひともいい方向に向かって欲しいものである。
 ということで、氏の貴重な書籍(「古稀=四重奏」の案内)を読んであらためて感じた次第である。


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 米山正夫は、フランク永井との直接の接点はない作曲家である。コロンビアやクラウンという、どちらかというとビクターの競合のかかわりが強い作曲家。圧倒的に有名なのは美空ひばりに、優れた印象深い曲を残していることで有名。だが、フランク永井と無縁でないのは、恩師吉田正との関係である。
 吉田正が先の大戦で徴兵され大陸に送られた。シベリア抑留を経験することになるのだが、中国地方にいたときに病気する。このときに同じような運命でそこにいてた米山と会う。シベリアであのドラマチックなエピソードの「異国の丘」の元曲(「大興安嶺突破演習の歌」、詩の原題は「明日も今日も」で増田幸治による)を作曲した。抑留帰国船で日本へ帰ったら、その歌がNHKから流れて(素人のど自慢では中村耕造「俘虜の歌える」の題で歌った。やはりフランク永井の恩師作詞家の佐伯孝夫が、それを聴きビクターから竹山逸郎と中村耕造の歌でレコードが発売。佐伯が詞を整え「異国の丘」とした)いて、作曲者を探していると聞く。
 これが吉田自身が作ったものであるのはすぐに気づいたのだが、それを証明するものが乏しい。しかし吉田は先に帰国しすでに活動を開始していた米山に相談し、連れ立ってNHKに行って作曲者だと告げる。その後同僚がシベリアから歌を記録した手帳を靴底に隠して持ち帰ったものがあり、それが決定的な証拠になって吉田の作曲家は証明された。
 吉田正と米山正夫。そしてこれで吉田はビクターから専属作曲家として迎えられた。フランク永井が登場する素地を作るのに深く関与したともいえる。
 米山正夫に筆者が深い関心を持ったのは、そうしたエピソードを知る以前に聞いた美空ひばりの「車屋さん」だ。
 美空ひばりは知らない人がいない。例に漏れず子供のころから聞いた。「港町十三番地」などは山村で育った少年たちには、あこがれでもあった。1961(S36)年「車屋さん」を歌う。当時はガキだったからいろいろ映画やら美空ひばりの人気は大変なものだな、と思う程度だった。だが、美空はその後どんどん調子を上げていく。絶頂期には、歌のところどころで、妙に響く低音で声を響かせ、何か「どうだ、こんな声は他の歌手では出せまい」と言っているような節を聞かせだす。
 これは筆者に反発を生んだ。鼻にかけているのか?ということで、以後美空は嫌いになるのだが、何度もこの記事で取り上げているけど、彼女の歌唱のすごさや、残した栄光の記録は高く評価している。
 振り返ってみて、美空ひばりの歌で好きなのは「車屋さん」と「お祭りマンボ」かな。その「車屋さん」を作ったのが米山正夫だ。いずれも並の歌謡曲ではない。テーマといい、歌の構成といい、歌唱といい、つまり美空ひばりという歌手に完全特化した歌といっていい。
 聞いていて心地よい。実に楽しい。芸子と思しき娘が恋をする。人力車が登場する。車屋さんにラブ・レターを頼むという、映像効果、感情変化が手に取るようにわかる。途中から都々逸に変調するが、美空の歌唱が光る。といったいわば夢想もので誰をも楽しませる趣向だ。
 「お祭りマンボ」も似ている。こちらは原六朗で非演歌調の明るい曲を多く作った作曲家。「お祭りマンボ」は詞もつくり、編曲もしている。やはり、米山同様、美空ひばりに特化して、すべてのイメージをご本人ですべて完成させている。
 吉田正もそうだったが、歌手のもつ個性、大衆歌手が聴く人に何をどう見せれば最大の効果を生むのかというのを、深く掌握して作っていた。歌手にたいする半端な理解では傑作は生まれない。
 米山をさらに知ったのは、「ラジオ歌謡」の知人の誘いで歌謡祭を何度か見たのだが「山小屋の灯」をはじめ「森の水車」などこの種の多くの歌を作っていることを知ったときだった。当日放送でゲストに出ていた水前寺清子「三百六十五歩のマーチ」とか、プロの歌作りの視点を常に外さない。
 吉田正も米山正夫もシベリア抑留経験者。二人とも明るい歌を作った。戦争が生むのは人間最大の理不尽と悲惨だが、その苦しみの深さに反比例するような明るさだ。
 米山正夫にフランク永井への曲も1曲でいいから作って欲しかった。などといつもの幻想をいだきながら。

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 フランク永井との接点がある方々を紹介するのが本筋なのだが、小林亜星については特別な接点はないようだ。ただ、フランク永井が活躍した同時代に、歌の世界で異様な光を放った作曲家の一人が小林亜星であることから、番外編として取り上げてみた。
 小林亜星はしばらくテレビなどにでることはなかった。どうしているものか、と思っているところに「武田鉄矢の昭和は輝いていた」という人気の番組で、小林亜星が取り上げられてそこで久しぶりに彼の健在を確認できた。
 昭和の流行歌作曲家には、フランク永井の恩師である吉田正や古賀政男、遠藤実、船村徹等々多くおられる。以前にも上げたことがあるだが、著者が大変気になる方がいる。それが別項で取り上げた「夜霧よ今夜も有難う」の浜口庫之助、「男はつらいよ」の山本直純と、今回の小林亜星。
 小林亜星で真っ先に挙げられるのは都はるみの「北の宿から」かな。詞は阿久悠。編曲はフランク永井の曲も多く手掛けた竹村次郎。日本レコード大賞を得ている。...かな、というのは亜星の名をファンが知るのは、そのコマーシャルソングの多さではなかろうか。
 1960年代から1970年代は亜星のコマーシャルソングが圧倒的に多く、しかもどれもが印象深かったからだ。それらのいくつかは現在でもどうどう?と流されている。CMは企業の宣伝で、実は実態とは無関係に強引なこうありたいという願望を詞やメロディーで、テレビの映像にかぶせて流すもの。
 CMは企業にとってみれば、顧客にこう見られているという縛りでもあり、そうあらねばあるいはそのイメージを壊してはならぬという強い努力目標になる。顧客はCMのイメージからその企業を想像して、購入する製品にかぶせて期待をするのだから、大したものだ。
 それゆえに、CMを作り、それが「ヒット」するというのは、作曲者や制作者にとっては非常に重いものだ。これを多数手がけて成功させるというのだから、亜星の能力は並外れたものでない。
 番組の司会武田は、本人に妙な質問をする。「ヒットのコツは何だ」と超絶偉人にとっては超企業秘密?を。だが亜星はパッと隠すことなく答える。それは次の三つだと。「バンで始まらない」「一番高い音は一か所だけに」「フレーズ最後の音をファやドに」。
 曲は好きだが曲作りには完ぺきにうとい筆者にしてみれば、???なのだが、聞いた武田は「よし、仲間に自慢で話してみよう」と。
 亜星の顔はコンパスで書いたような丸顔だが、コマーシャルに自身が出演したりしていたことから誰もが知っていた。これをダメ押ししたようなのが「寺内貫太郎一家」。1974年向田邦子脚本のテレビドラマに主演出演して人気者になった。
 彼の映像から見る印象では、偉くなってもお高く留まるようなことを知らない素直な人。だから、ご本人は気が向くまま行動し、発言する。人それぞれで好き好きだろうが、このあたりが、気さくでいいのではなかろうか。それを象徴するようなことがある。
 ひとつは日本著作権協会(JASRAC)の内部で公金不正運用が発覚したことがあった。このときに亜星は永六輔、野坂昭如らとともに厳しく指摘をしたのだ。またときにある作曲家の曲が自分の作った曲を剽窃しているのではとして話題になったこともある。歌は多くの大衆のこころの応援歌だ。これに泥を塗るようなことは黙って見過ごせないという感覚が伝わる。声をあらわにすることもある。どっちの味方か分からないマスコミは内容ではなく、声のあらわという無意味な形態をとりあげて騒ぐ。。。
 もうひとつは、彼がエッセイとして綴った「あざみ白書」(後に「軒行灯の女たちに改題」)。「資料は正確に、オチは荒唐無稽に」書いたというのだが。これなぞ、並みの努力で書けるような代物ではない。実に亜星らしい。
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 フランク永井映画月、4本上映されたわけだが最後の紹介は1958年今村昌平監督の初期作品「西銀座駅前」。いうまでもなく、フランク永井の大ヒット曲「西銀座駅前」にあやかって作られた映画。
 営団地下鉄丸ノ内線「西銀座駅」が開業したのが直前の1957(S32)年。これが相次ぐ地下鉄網の発展で、7年後の営団地下鉄日比谷線が銀座に駅をつくる。この際に駅が「銀座駅」に統合される。歌「西銀座駅前」は、そんなその後の展開を知る由もなくできた。
 「〽ABC XYZ これがおいらの口癖さ...」という歌。佐伯孝夫の虚をつく歌詞に恩師吉田正が曲をつけた。都会のど真ん中である銀座。溢れるエネルギーが、夜の焦燥にからむ。
 フランク永井はどう歌いこなせるか、というガチの勝負曲。ところがフランク永井は、この挑戦を真正面から、何のてらいもなく、ストレートで歌いあげてしまう。「そんなことを口癖にしているヤツなんて、どこにもいないだろう」などと、ぶつぶつ言いながらも、この曲を強烈な印象で受け入れていった。
 当時の社会的な流れで、歌がヒットすると映画が作られる。この曲については、後の大監督である今村昌平に振られた。降られても当然イヤといえない。何とか脚本を書いて2週間程度で撮影を済ましてしまったようだ。
 日劇での舞台も公演されたと聞くが詳細は分からない。ただ、フランク永井本人も登場し歌を歌っている。他に盤のB面で「第三倉庫」の朝倉ユリ、渥美清、由利徹らが出演した舞台だったようだ。時期も映画上映とかぶさっていて、銀座周辺はこれでもちきりだったんだろう。
 さて、映画だが今村による脚本では、やはり戦争をひきづっている。二人の子を持つ重太郎(柳沢真一)。妻は西銀座駅前の薬局経営。重太郎は南方戦線に従軍中に、漂流したチャリ島でサリーと恋仲になる。これが何年たっても忘れられない。夢か妄想か現実かの区別がときどききかなくなるという病もち。
 彼の友に獣医(役西村晃)、小沼正一といった面々がいて、治療には浮気が一番と、まぁ猛烈にけしかけるところが、おもしろい。というか、フランク永井映画によく登場する西村晃は、全身でバカバカしさに取り組んでいる点がすごいのだ。
 幻想と現実をそのまま映像にしたようなコミック映画だ。若い山岡久乃が妻役とサリー役で出演しているのも貴重だ。
 友に扇動されて薬局の隣の文具店のユリと二人だけになる、状況チャンスができる。だが、夢と現実の間をさまよる重太郎は...。とりとめもない夢と幻想なので、観終わっていったい何が、この映画の言わんとしたことだったのだろうと、思ったりするが、これはこの映画に通用しない、といったところだろうか。
 巨匠今村昌平の作品はDVD化された。この映画は1時間足らずで、当時も何本立てかの一作品で扱われたと思うが、DVDでも「盗まれた欲情」とあわせて発売されている。
 フランク永井は歌も歌っているが、映画のシーンのところどころに登場して、さりげなく状況を紹介しているという、不思議な役どころ。映画の説明ではこれを「ジョッキー」と言っている。今での言うナビゲータなのだろうが、ジョッキーにそうした意味はあるのだろうか。ディスク・ジョッキー(DJ)は音楽をかけながら、さまざまな話を語って聞かせる。それと同じ使い方なんだろうな、などとつまらないことを思い浮かべながら、楽しんだところでした。
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 今月はフランク永井映画月とかってに呼ぶことにする。今回の紹介は1959年の日活映画「らぶれたあ」。
 フランク永井の歌に連携して作られた映画の一本。監督は鈴木清順。時間はおよそ40分というもので、テレビでのほぼ1時間ラブ・ドラマといったところ。だが、観てみた感想としてはどうだろう。多くの観劇者おられたが、どういう感想をもったのだろうか。
 鈴木監督というと赤木圭一郎、宍戸錠といったところを連想する。ポイントどこではキザだが、決めポーズがあり、どのシーンがそれなのかを期待してみた記憶がある。監督の初期の作品でまだご本人の特性が反映されていない映画だったかもしれない。
 さまざまな評価もあろうが、筆者の見た所でのミソは、主人公の青年(待田京介)が、実は正男役と隆次役をやっていて、二人は双子の兄弟というところだろうか。主人公の美女(筑波久子)が療養中の正男に恋してしまい、心が揺れ動く。正男からの手紙が少しずつ変化もする。
 筑波が役する梢は、その変化に疑問を感じつつも、確かめて腹を決めようと信濃の山荘に出かける。青年と再会する。確かに姿はあのときの正男なのだが、明らかな違和感も感じる。それが実は...というのが物語なのだが、短時間でのドラマの展開としては、よくできているのかもしれない。
 この映画には、フランク永井が実際に出演している。梢がピアノを弾く「クラブ・モンプティ」の支配人という設定で、実は梢に懸想している。梢が正男に惚れているのを知ってのうえだ。山荘に疑念をはらいに行こうとする梢に言う。「行って、正男に失望だったなら、ボクのところに帰ってきておくれ」と。うなずいて梢は向かう。
 フランク永井の映画出演は他にもあり、どの程度の役をこなしたのかは、全部を観ていなので比較できないが、この映画ではけっこうそれなりの役を負っているのではなだろうか。つまり、終盤で確かに、梢は帰ってくる。フランク永井(福井)には、梢のしぐさから、もしやと思わせる。だが、思わぬことに隆次が梢を愛してしまい、遠方から梢に逢いにくる。この姿を見て、梢自身もいつしか強い反発をもちながらも、こころは隆次に傾いていたことを自分で知ってしまう。
 フランク永井演ずる福井は...。だが「青い国道」でもそうだったが、なかなかいい姿勢で対応しているのがいい。
 この映画で欠かせない、観てておおいに得した気持ちにさせるのは、フランク永井がちゃんと「ラブ・レター」を歌うシーンが見れることだ。クラブの支配人兼、そこのクラブ歌手でもあるのだ。燕尾服をまとい、歌手として歌う姿はさすがの安定感だ。
 「有楽町で逢いましょう」もそうであったが、映画での歌唱はレコードと比較して「ゆったり」している。それに、編曲が異なるので、ちょっと戸惑う。「ラブ・レター」は、1958(S33)に佐伯孝夫作詞、吉田正作曲、寺岡真三編曲のいい歌だ。代表曲とまでは言わないまでも、ほとんどそれに近い。その後ステレオ化され、いつくものLPに収められた。「ほのかに暗い 紫シェード...」の歌い出しは、一度聴くと忘れられない印象を残す。佐伯の詩が恩師吉田正によって活かされ、フランク永井の見事な歌唱でこころに訴える。
 ということで、鈴木清順監督の初期作品を楽しんだ。
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 開催中の映画祭で上映中のフランク永井映画2本目を紹介したい。「夜霧に消えたチャコ」だ。いうまでもなく、宮川哲夫作詞、渡久地政信作曲の秀逸な曲だ。
 歌は1959(S34)年4月に発売されてすぐにヒット曲になった。「有楽町で逢いましょう」でフランク永井の人気が爆発して以来、発売されれ曲は注目されて、フランク永井はそれに応えた。
 恩師吉田正の盟友渡久地政信の曲は先に「俺は淋しいんだ」で大成功を収めている。「夜霧に消えたチャコ」はそれに続いた大ヒット。さっそくこの年に同名の映画化が日活からされた。それが今回の映画祭での作品。レコードとほぼ同時の5月には上映された。49分という短いモノクロ映画。
 題名から連想されるように、夜霧に消え去る女チャコ、失恋ものだ。数多くのヒット作品の作詞をてがけ、映画やドラマのシナリオを多く手掛けた川内康範の腕がさえた映画だ。
 時間つぶしかも知れないが、上映中ずっと観客の目をスクリーンに引き付けておく力量はさすがだといえる。テレビでも映画でも不自然と無理がつきもので、これが魅力になっているところがある。
 「夜霧に消えたチャコ」の主人公は「らぶれたあ」と同じく筑波久子が「久子=チャコ」役を演じ、恋人の「節夫」役は「青い国道」でも主人公を演じた青山恭二。節夫はタクシーの運転手だが、久子は不明だ。
 物語の展開は切れがいい。川内康範が描いたポイントは恋愛ものではあるのだが、時代をも鋭く切り込んでいる。「夜霧に消え」る女のワケを観衆に納得させる。敗戦と原爆だ。久子は広島で被爆し、家族を失った。
 映画では「原子病」と呼び、ウツルとか、罹患の危惧が久子を苦しめる。また、みなしごを縁戚の叔父が襲う。あっちゃいけないが、実際には似た話がよくあった時代だ。久子は映画の冒頭で、苦しみを遺書にしたため、濃い霧にまみれて自動車に轢かれる自殺をはかる。
 そのときの運転手が節夫。彼は久子にいつしか恋心を抱く。それを久子は感じるが「わたしは汚れた女。原子病の影を持ったままでは幸せになれない」と思って、消えるのである。
 野垂れるようにしている久子を銀座の酒場「ボザール」マダムが拾う。店で働くようになる。そこに不幸にも、久子が東京に逃げてくる原因のひとつでもある男が偶然店に顔を出す。その前後、探し求めていた久子を節夫はみつける。久子の過去を無残に暴く男とケンカになる。
 節夫と久子は再開後結ばれるのかと思いきや、久子は店にもことわらずに、再び失意のまま濃い夜霧に消えこむように、いなくなってしまうという流れだ。
 この映画には、フランク永井が出演している。作曲を目指す青年といったところか。いい詩を書く節夫と友人だ。ここでは「夜霧に消えたチャコ」の作詞家宮川哲夫と渡久地政信の役割。そして、その場でギターを弾きながら「夜霧に消えたチャコ」を歌うシーンがはいる。
 このように存在はよく知っていた映画なのだが、見ごたえのある映画であった。
 ところで「夜霧に消えたチャコ」は名曲であるがゆえに、多くの歌手がカバーしている。だが昔テレビであれっと思ってみたのは、森昌子のもの。珍しいことに楽譜を手にしてまじめにこの曲を歌っていた。
 さらに菅原文太を有名にした東映映画「現代やくざ与太者の掟」(1969=S44年降旗康男監督)だが、ここで「夜霧に消えたチャコ」は挿入歌として採用され、若山富三郎がちゃんと歌っている。
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 現在「ラピュタ阿佐ヶ谷(東京阿佐ヶ谷)」で開催中の「SPパラダイス2019」において、フランク永井が出演あるいは主題歌を歌った映画が上映されている。場所がとても映画館とは思われないステキ?なところ(写真右)。「たそがれの東京タワー」「西銀座駅前」「夜霧に消えたチャコ」「らぶれたあ」である。
 ここでは好きな神楽坂浮子が主演する「初恋カナリヤ娘」というのも観たいのだが、そこはぐっとこらえ、まず「たそがれの東京タワー」を見たので紹介したい。二谷英明、中村万寿子主演の日活「東京ロマンス・ウェイ」という、同じく東京タワーを柱にした映画と2本立て。先に紹介で失礼だが、ここでは若き(みんな若いか!)平尾昌章(当時の名前)がいくつか歌を歌う。二谷の男前もそうだが、後の水戸黄門を演じた西村晃の超オーバーな三枚目ぶりが楽しめる(「西銀座駅前」でも)。ちなみに出演している子供がいい。
 「たそがれの東京タワー」(1959年阿部毅監督)も東京タワーの完成にちなんだ何本かの映画会社の競作のような大映の一本。歌も多数のレコード会社が競作した。美空ひばりも歌っている。ビクターはフランク永井に「たそがれのテレビ塔」を歌わせ、映画「たそがれの東京タワー」の主題歌にした。
 シングル盤は曽根史郎と表裏を飾ったものだが、東京タワー完成に関係して催されたさまざまなイベントのグッズ用にも写真のごとく何枚かのソノシート版も作られた。黄色盤はフジテレビ開局記念のもの。三浦洸一との表裏は和田弘とマヒナスターズと組んで「たそがれのテレビ塔」を歌ったもの。吉川静夫作詞豊田一雄作曲で、いちど聴けば印象に残る曲だ。
 映画にフランク永井は出演していない。歌にあわせて展開されるモノクロドラマ、およそ一時間。
 物語は東京タワーを舞台に展開される出会い。自動車会社の御曹司と田舎から出てきた娘が結ばれるというものなのだが、詳細を紹介するのはやや憚れるものがある。まず孤児院出身(戦争孤児が当時全国に多数)で銀座のブティックのお針子(死語?)京子。住み込み。はしゃぐ都会出身(と思える)同僚の娘たちからは敬遠状態で孤立しさみしい生活。いつも穴の開いたカーディガンをみつめ、めいる。
 休日、自分の中の分身が悪魔のようにささやく。それにそそのかされて、店が受けた注文品の洋服やコートをまとい街に出る。足はいつのまにか東京タワーの展望台に。そこで、なぜか子供連れで遊びに来た男性と出会う。男性から茶の同席に誘われる。疎外された子供はわざと京子にジュースをかける。
 はじめてのアバンチュールで、休日のたびに会いたくなっていく。その都度、店の洋服を無断で着用し、自分を外国航路の船長をしている富豪の娘だと嘘を重ねていく。このけなげだが危ない心理は当然店で阻喪になり、ばれていく。こうした展開はいつの間に、観衆をひきつけ、はらはらさせる。
 あった男は演じるのは小林勝彦。京子は仁木多鶴子。写真のように若尾文子似の美人なのだが、主演女優がほぼ全編眉間に深いしわを刻んだ顔で演じる。
 この映画でも子役が活躍する。阻喪がばれた京子は相手に偽ったことを正直に告げて離れようとするが会えない。彼はいいなずけのような女性との結婚はしないと父に告げる。しかし彼は彼女の居場所を知らない。ここでふと彼女を発見するのが、その少年なのだ。
 東京タワーが完成した1958年当時の帝都の様子が画面からうかがえるのもいい。
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 例年この時期に公演される「東京ラジオ歌謡音楽祭」。5月26日第23回が催された。およそ4時間超、のべおよそ50名が熱唱、満員の観客をうならせた。
 戦後日本の復興を歌でささえたひとつの人気番組「ラジオ歌謡」は、現在も熱心なファンが健在で歌を継いでいる。ラジオ歌謡は清廉が特徴で、他の歌番組とは色合いがやや違っている。八洲秀章や小関小裕而らが作曲では有名だ。
 この催しに毎回のようにゲストで出演していた鳴海日出夫はご高齢にもかかわらず、清らかな歌唱で人気をはくしてきたこられただ、一昨年に亡くなられた。今回はそれをしのぶコーナーが特設され「りんどうの花咲けば」「ポプラに歌う」「高原の旅情」「月日は遠く」が、東京ラジオ歌謡を歌う会の代表的メンバーで歌われた。心からのご冥福をお祈りいたします。
 伴奏はエレクトーン演奏家の長谷川幹夫。一台のエレクローンで迫力あるシンセサイザー演奏が楽しめた。
 中休みを挟むのだが、一年間の練習の成果を大披露。出演者の多くはご高齢者だが、その喉の鍛え方にはいつも感心する。歌を思いっきり歌うということが健康維持に大きな効果があることを証明しているかのようだ。もちろん、写真のように小学生にも満たない児童も歌っているのが、実にほほえましく、未来をたのもしくさせる。
 さて、今回のゲストは真理ヨシコ。真理は初代のNHKの歌のお姉さん(おかあさんといっしょ)。4曲歌ったのだが、さすがプロの歌手と誰もがうなずくパワーを示してくれた。
 筆者が真理ヨシコを知ったのは、フランク永井の曲でだ。デビューして10年にも満たないときに、詩人谷川俊太郎や作曲家服部公一らとの連携で、子供向けの歌をいくつか歌った。
 そのひとつ「赤ちゃんは王様だ」(赤山勇作詞、三木鶏郎保作、三木鶏郎作曲)は大当たりで、日本レコード大賞歌唱賞を得た。大賞を逸したのは、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」の人気に及ばなかったため。だが「月火水木金土日の歌」が前年の日本レコード大賞作詞賞を受賞している。
 この「月火水木金土日の歌」でフランク永井がいっしょに歌ったのが、松島みのりと真理ヨシコ。フランク永井の初めてのリサイタル(1963年)でも3人で歌った。この時の写真(中央。その右が今回の催しで熱唱する真理ヨシコ)が残されている。
 フランク永井の子供向けレコードはいくつかあるのだが、実は大変入手しにくいのだ。すでに半世紀以上もまえのことというので、当たり前といえばそのとおりなのだが、やはり歌手のもつ個性や色合いが、世に売り出したいとするものとことなるものだったことが察せられることだ。
 今なら、その歌手の幅広い方面での実力の一つとして、むしろ利用する素材にするところなのだろうが、そこが時代の相違ということかもしれない。ちなみに、子供向けのLP「フランクおじさんといっしょ」(1962年)が出ている。写真は同名のソノシート(ビクター・ミュージック・ブック)。
 「月火水木金土日の歌」で共演した松島みのりは主にアニメ等の声優で大活躍している。お二人にはこれからもお元気で励んでほしいと思うところである。
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 5月18日BS-TBS番組「北島三郎 芸道58年 歌魂の贈りもの~昭和・平成・令和 歌い継がれる日本の心~」を観た。
 北島三郎の集大成とまでは言わないまでも、題目通り彼の現在の心境を番組にしたように感じた。過去を振り返るコーナーで彼は真っ先に好きな歌として、フランク永井の「夜霧の第二国道」をあげ、北山たけしとともに歌った。
 フランク永井も昭和の歌謡界の歴史に大きな足音を残したが、北島三郎もまさに長期にその存在を示し続けてきた。この二人の接点は過去になかなか直接語られることはなかったのだが、この番組で初めて触れられた。
 美空ひばりや石原裕次郎の話題のときにも触れたが、大衆文化に自らの存在を刻み付けたスター同士は、よほどのことがない限り互いへの尊敬を守っている。互いに強烈な色というか個性を誇るだけに、その個性に魅力を感じるファンがいる。
 そのファンの色合いは互いに強力なライバルであり、相手を意識することでより磨かれ、いっそうその色合いをあでやかにする。
 フランク永井はビクターの帝王たる吉田正を恩師に一つの世界を作ってきた。歌謡曲の色合いとしては「都会派ムード歌謡」とか言われる。北島三郎は船村徹を恩師に持つ。いわゆる典型的な演歌の世界だ。
 北島が圧倒的にすごいのはその演歌の演歌たるところを見事に歌うところだ。こぶしコロコロというのではないが、演歌のツボであるところを歌う表現力は天性のものだ。例えばメロディーとしてフラットな「与作」などは北島の手(のど?)にかかれば、メリハリといい、感情表現といい、驚くべき状況を表現する。
 彼のこの歌い方を天性に引き継ぐのは大江裕かも知れない。大江は三波春夫の「雪の渡り鳥」を歌った。サビのまわしどこ、というか演歌の勘所を本能的に表現するものを持っている。このような歌い方は吉田正・フランク永井にはないもので、船村徹が描いた世界とぴったり合うものだ。
 何年も前に「さんまのからくりテレビ」という番組があった。ここで大江は北島にあこがれ弟子になるのだといい、さまざまな(こっけいな)試行錯誤を繰り返した。
 弟子は北山を最後にあとは取らないと断られつつも、現在に見るようにちゃんと弟子の地位を得ている。大江の北島コピーはやや大げさに見えるものもあるが、しょせん大衆芸能の世界なので楽しく受け入れるのがいいのだろう。
 フランク永井の方だが、北島三郎の歌をひっそりとカバーしている。「兄弟仁義」「函館の女」で、後者は2014年発売の「ザ・カバーズ」でCD化された。
 ちなみに、今回の番組についての放送局側の紹介は次のようなものだった。
 【過去3回放送してきた北島三郎の芸道シリーズスペシャルの第4弾。昭和・平成と歌い続けてきた北島三郎の歌は、昭和では「演歌」、平成では「艶歌」と、変化していった。今回の特番では、令和となる今「縁歌」をテーマにお世話になったファンとの縁を大切にしたいとの思いを込め「歌魂の贈りもの」として名曲の数々を歌い上げる。スペシャルゲストに昭和期を北島三郎と同じく歌と共に生きた二葉百合子さんが登場!2010年に引退を発表した二葉さんが一夜限りの名曲「岸壁の母」を熱唱する。また、数々の流行歌・歌謡曲・演歌を手掛けた作曲家・弦哲也さんをお迎えして昭和~平成と変容してきた音楽を振り返る。さらに、北島ファミリーの北山たけし、大江裕も登場。昭和・平成・令和と歌い継がれる日本の心をテーマにおおくりする豪華な 2 時間スペシャル】
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 京マチ子が5月12日に亡くなり、親交のあった方々で葬儀されたことが報じられた。95歳であったとのこと。こころからご冥福をお祈り申し上げます。
 大映の代表的な大スターであった。私的にはフランク永井が世に躍り出たきっかけになった、百貨店そごうの東京進出大キャンペーン「有楽町で逢いましょう」、テレビ、小説、歌謡曲、映画と大々的な取り組みが展開され、歌はビクターから新人フランク永井が担当。その映画は大映が「大映カラー・総天然色」として制作、その主演が京マチ子だった。
 京マチ子について、中日スポーツ紙は【黒澤明監督の映画「羅生門」(1950年)では、ヒロインの真砂役を熱望し、眉毛をそってオーディションへ。黒澤監督がその心意気を買い、見事に役を射止めた。その後、溝口健二監督の「雨月物語」(1953年)などに出演、スクリーンで圧倒的な存在感を見せた。51年のベネチア国際映画祭で「羅生門」、1954年のカンヌ国際映画祭で「地獄門」と、出演作が海外の映画祭で相次いで最高賞を受賞し「グランプリ女優」と呼ばれた】と紹介していた。
 筆者が最初に京マチ子で驚いたのも、まさに「羅生門」だった。好きな三船敏郎で観たのだが、彼女の熱演も強烈な印象を残した。これは外国に受けそうなキャラクター、演技だなと感じたものだった。(写真は「羅生門」の珍しいバージョン)
 それが京マチ子を大映の代表的な女優に押し上げたものだが「有楽町で逢いましょう」(1958年)までは特に気にしていなかったのだが、この映画では主役を演じきっている。この映画で主役は若い川口浩か、可愛い野添ひとみかなのかもしれないが、当時売り出しの菅原謙二とコンビの彼女の演技というか、迫力と存在感はピカ一だ。
 京マチ子がスクリーンを通しての演技がそのまま生の彼女ではないだろうが、他を圧倒するものがある。やはり、主役だと感じた。
 ストーリィは特別なものではない。急いでドラマ化したものだから、映画自体の全体としての評価はほどほどなのだが、フランク永井ファンにとってはどうしても押さえておきたくなる。
 フランク永井の出演は開始と同時に歌う主題歌。これはフランク永井の映画デビューでもあるが、当時は観たファンは喜んだと思う。現在と違い映像はほとんどない。あってもまだ普及が弱い白黒テレビの時代の「総天然色」(この名づけが!)だったのだから。主題歌は映画の後半でも流れる。それはこの映画でしか聞くことができない歌詞のもの。このときはフランク永井の映像はない、声だけ。
 百貨店そごうは現在のビッグカメラ有楽町店に変わったが、読売会館。ここに大映の後継KADOKAWAが映画館となっている。有楽町には「有楽町で逢いましょう」の歌碑あり、itoshiaがある。そごうができたことは、まだまだ戦争の爪あとが残り、闇市で有名な場所でもあった。わずか、ガード下の居酒屋にその名残というか雰囲気をとどめている。

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