2010年6月アーカイブ
第1回優勝者 宮城県塩釜市 鈴 木 由 壽
第1回「フランク永井歌コンクール」の募集を新聞で知り、内心では「素晴らしい企画だな~」と思いながらも自分では申し込む勇気も無く、妻の「いいんじゃない、出てみたら、申し込んでおくね!」の一言で背中を押される形で出場することになり、145組の出場者、会場に入りきれない程のお客様に大緊張して、上手く歌えなくて予選通過は無理かなと思い帰宅して、飲食中に予選通過の連絡を受け、急ぎカラオケスタジオに飛んで行き猛練習をしたことが思い出されます。
優勝者歌唱では、頭が真っ白になり、震えながら歌った「有楽町で逢いましょう」は、今ではとても大切で懐かしい曲になりました。第1回開催での優勝は、とても光栄に思いますと共に私の一生の思い出です。
その後、何度か訪れた松山は、お会いする皆様がとても温かく優しい方々で妻と二人、車中で「松山はとても良い所で素晴らしい人達ばかり」と感心・感激の会話をしながら帰ったことも思い出されます。都会派ムード歌謡の第一人者のフランク永井さんの名曲を、私は声の出る限り今後も歌い続けて行きたいと思っております。
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第2回優勝者 島根県古賀町 青 山 譲 二
私は、フランク永井さんが好きで「NHKのど自慢」に2回出場しました。曲は「おまえに」と「大阪ろまん」でした。20歳そこそこで、友人の結婚披露宴でもフランク永井さんの歌ばかりを歌いました。歌を歌い始めたきっかけは、ラジオから流れるフランク永井さんのかっこいい低音と、きれいな高音の幅と深さのある歌声に魅了されたことでした。そんな憧れのフランク永井さんの故郷で、フランク永井さんの遺影の前で歌わせて頂く時、フランク永井さんカも後ろでじっと聴いて下さっているようで、これまでに体験したことがない恐怖感に近い緊張をしました。
そんな中で優勝までさせて頂き、夢を見ているようでした。第2回「フランク永井歌コンクール」優勝者の名に恥じぬよう、謙虚さを持って、これからもフランク永井さんの歌を大切に歌い継いで行きます。
第3回「フランク永井歌コンクール」優勝者歌唱コーナーでは「初恋の詩」を心を込めて歌わせて頂きたいと思いますので宜しくお願い致します。私達の心の中で生き続けてくれる素晴らしい歌手「フランク永井は永遠」です。
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第3回優勝者 東京都狛江市 長 野 康 二
何とか今回は優勝を勝ち取って生涯の記念の日にしたいと強く思いました。
大会では2回とも特別賞です。私の歌には、基本的な何かが欠けているのだろうと考えて、半年位前からビクターの先生のご指導を受けました。
大会当日には少し力み気味で控室に入りましたが、殆どが見た顔ばかり。
仲間意識がすぐに湧いてきてどっぷりと楽しい気分に浸っていました。
予選通過が決まり、決勝の歌唱を待つ問、私の歌唱に臨む気特ちはそれまでとは変わっていました。
集まってくれた大勢のフランクさんファンの方達が「今日は来て良かった。良い歌を聴けたな」と思ってくれるように思い切て歌えば良いと、心を静かにすることに努めていました。
結果発表で自分の番号と名前を呼ばれた時は、自分でも驚くほど熱いものが噴き上げて、優勝者歌唱の為に涙を抑えるのに懸命になっていました。
今まで私にとって当大会ほど多くのことを学んだものは他に有りません。
他の参加者の方々も同じなのではないでしょうか。
いつまでもこの大会が大きく盛り上がっていかれることを切に祈ります。
昭和30年前後の流行歌といえば、春日八郎、三橋美智也、藤島桓夫、青木光一などに代表される高音で歌う、地方をテーマにした望郷歌謡が全盛でした。
しかし、モダンな生活への憧れが、昭和32年の大ヒット曲「有楽町で逢いましょう」で、都会派ムード歌謡への流れを変え、石原裕次郎、三船浩らとともに低音ブームを招いたフランク永井は、都会派歌謡ムードの一時代を築いた中心的スターでした。それまでの通年から言えば、決して美声ではなく、低音であり、特別の美男でもなく、すべて型破りでした。
その彼が、次から次へとヒットをとばしたのは、数多くの美声派歌手ばかりに慣れ親しんできた大衆が、今までにない声に感動したことと、気取らず素朴な態度と、人懐っこい人間くささと低音の余裕ある歌い方と身近な"にんげんのうだ'が、庶民の心を捉えて離さなかったのではないでしょうか。
歌の雰囲気から、いかにも夜の盛り場が似合いそうですが、若い頃は酒が飲めませんでした。ただ、クラブ歌手出身だけあってナイトクラブに行くのは大好きでした。そうして力道山が経営していた赤坂のナイトクラブで働いていた松尾和子をスカウト。のちに「女フランク」と呼ばれるようになり、フランク永井とともにビクターの都会派歌謡路線の一角を担いました。
また、NHK紅白歌合戦での共演が緑で、イタリアの名トランペッター、ニニ・ロツソとの「君恋し」のジョイント・レコーディングをした話題もあり、名実ともに日本歌謡界を代表する歌手であります。
昭和7年(1932)3月18日松山町(現大崎市松山)に生まれ、18歳の頃から進駐軍のボーイやブルトーザーの助手などをしていました。
昭和27年交通事故にあい退職。療養中に丹下キヨ子司会の「素人ジャズのど自慢」を聴き、「おれももしかしたら」と意を決して出場。「マイベイビーズ・カミング・ホーム」で見事鐘を三つ鳴らしました。その後多くの、のど自慢に出場し、優秀な成績をおさめました。この頃同好の士としてよく顔をあわせたのが、水原弘や沢たまきでした。自信を得た彼はテストを受け、米軍キャンプのクラブ歌手となります。
◆昭和30年 日本テレビの「素人のど自慢」で、年一度のベスト1に選ばれ、日本ビクター社にスカウトされました。
◆同年9月「恋人よわれに帰れ」でデビュー。
◆昭和31年「場末のペット吹き」で歌謡曲に転向。その後、作曲家「吉田正」氏との出会いから、歌謡曲に対する考えや歌手のあり方など、多くを学び「東京午前三時」のヒットとともに、歌謡曲歌手として自負を持つようになりました。
◆昭和32年「夜霧の第二国道」、「有楽町で逢いましょう」とジャズのフィーリングを生かした独特の歌唱法で爆発的ヒットをとばし、"低音ブーム''を巻き起こし、都会的でモダンなフィーリングで大衆を魅了しました。
◆昭和34年「夜霧に消えたチヤコ」・38年「赤ちゃんは王様だ」でレコード大賞歌唱賞受賞。
◆昭和36年「君恋し」でレコード大賞受賞。
◆昭和46年に芸術選奨文部大臣賞を受賞。
◆NHK紅白歌合戦には昭和32年から昭和57年まで連続26回出場。
◆その他数々のヒット曲を生み、ビクターヒット賞や多くの奨励賞などを受賞しています。
◆平成20年10月27日 永眠(76歳)
◆平成20年12月 日本レコード大賞特別功労賞受賞。
◆平成21年3月 大崎市特別功績者第1号に認定される。
第3回フランク永井歌コンクール審査結果を掲載いたしました。 大盛況のうちに終了いたしました。